マウロ・ジュリアーニ

マウロ・ジュリアーニ

生 : 1781年7月27日(ビシェーリエ)/没 : 1829年5月8日(ナポリ)

マウロ・ジュリアーニ (Mauro Giuliani) はイタリアのギタリスト、作曲家。

生涯 | Biography

ウィーンにおける活躍

1781年生まれのマウロ・ジュリアーニは当初チェロと対位法を学んだが、早い時期にギターを専門とするようになった。ジュリアーニは1803年にトリエステへ赴き、テアトロ・ヌオーヴォ1)今日のトリエステ・ヴェルディ劇場。でギターやチェロを演奏している。

19世紀初頭のイタリアはフェルディナンド・カルッリやフィリッポ・グラニャーニといったギターのヴィルトゥオーゾを数多く輩出したが、ギター曲は他の音楽ジャンルに比べて公衆に親しまれてはいなかった。そのためジュリアーニは他の多くのイタリア人ギタリストと同様、活動の場を他のヨーロッパ大陸諸国に求めた。

1806年より当時ハプスブルク帝国の首都であったウィーンに住み始めたジュリアーニは、この音楽の都においてすぐに頭角を現してゆく。1808年3月27日、ジュリアーニはベートーヴェンやサリエリといった音楽家とともに、ハイドンの76歳の誕生日を祝うコンサートに参加した。1808年4月にはオーケストラを伴って最初の自前のギター演奏会を行った。

以後ジュリアーニはウィーンにおけるクラシックギターの音楽シーンを牽引し、作曲のほか教育や演奏にも力を注いだ。弟子を伴ったベルリンやライプツィヒにおける演奏旅行も成功し、ジュリアーニの名声はヨーロッパ中に広まった。

1813年12月8日、ジュリアーニはヨハン・ネポムク・フンメルやルイ・シュポーアといった当時のウィーンを代表する音楽家とともにベートーヴェンの交響曲第7番の初演に参加し、作曲家自身による指揮の下、チェロを担当した。かくして当代随一の音楽家として名を馳せたジュリアーニは、1814年ごろにはハプスブルク家出身のフランス皇妃マリ=ルイーズの庇護を受けるに至った。

イタリアにおける後半生

1810年代末、ウィーンにおけるギターの流行は、ピアノに代替される形で下火となった。ジュリアーニは経済難から1819年夏にイタリアへ帰還し、1819年11月にヴェネツィアへ、12月には老いた両親の住むトリエステへ、続いて翌1820年3月4日にパドヴァへと住まいを転々とする。ジュリアーニは1820年から1823年頃までローマで、その後は生涯ナポリで過ごした。

ジュリアーニはローマにおいてニコロ・パガニーニジョアキーノ・ロッシーニといった音楽家と交流し、とりわけロッシーニの作品を翻案した6つのギター曲『ロッシニアーナ』を残している。またナポリでは両シチリア王国のブルボン家の宮廷で貴族たちの庇護を受けながら、ギター演奏などの活動を行った。

この時期ジュリアーニはリコルディやアルタリアといった音楽出版社と契約し、作品の発表に精を出した。ジュリアーニがアリタリアへ送った手紙によると、彼はブルボン宮廷における演奏活動に満足しておらず、再びウィーンへ帰還し活動することを望んでいたようである。しかしながらこの望みは遂に叶うことはなかった。

ジュリアーニはマリア・ジュゼッパ・デル・モナコと結婚し、ミシェルとエミリアという2人の子供を儲けた。1801年5月17日生まれのミシェルは父に付き添って1814年から1819年までウィーンで過ごした後、1823年よりペテルブルクで、1848年よりフランスで活躍し、マニュエル・ガルシアの後任としてパリ音楽院(コンセルヴァトワール)にて声楽の教師を務めた。1813年にウィーンで生まれたエミリアはギターの演奏家として活動し、1840年頃に亡くなった。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Giuliani, Mauro | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.11230]
  2. Giuliani, Mauro – Enciclopedia Treccani [http://www.treccani.it/enciclopedia/mauro-giuliani]
  3. Giuseppe Zangari, Mauro Giuliani (1781-1829): Instrumental and Vocal Style in Le Sei Rossiniane, Masters Thesis, University of Sydney, 2013.

Notes   [ + ]

1. 今日のトリエステ・ヴェルディ劇場。

イサーク・アルベニス

イサーク・アルベニス

生 : 1860年5月29日(スペイン王国、カンプロドン)/没 : 1909年5月18日(フランス共和国、カンボ=レ=バン)

イサーク・アルベニス (Isaac Albéniz) はスペインの作曲家。民族的な作風で知られ、代表作に組曲『イベリア』などがある。

生涯 | Biography

イサーク・アルベニスはピレネーの山村カンプロドンに生まれ、1歳のとき家族とともにバルセロナへ移住した。幼少期から才能を発揮したアルベニスは、3歳半の頃から姉のクレメンティーナよりピアノのレッスンを受けた。アルベニスは5歳の頃バルセロナのテアトロ・ロメアで最初のコンサートを行い、神童としてその名を轟かせた。その後アルベニスはナルシソ・オリヴェラス (Narciso Oliveras) よりレッスンを受け、1867年パリに転居した。パリでアルベニスはアントワーヌ=フランソワ・マルモンテルより個人レッスンを受け、パリ音楽院(コンセルヴァトワール)の入学試験を受けることになった。しかしながら、審査員は彼の能力を認めはしたものの、その年齢を理由に入学を断ってしまう。

1868年、アルベニスの父は政府の役職を失い、生活費の捻出のためイサークと姉クレメンティーナをスペイン各地へ演奏旅行に連れてゆく。直後に一家はマドリードへ移住し、アルベニスは同地の国立音楽・弁論学校(今日のマドリード音楽院)へ入学した。マドリードではエドゥアルド・コンプタ (Eduardo Compta) やホセ・トラゴ (José Tragó) といったピアニストがアルベニスを教えたが、地方都市における演奏のため学業はしばしば中断された。彼の演奏旅行は1875年プエルトリコやキューバにまで及んだ。

アルベニスはヨーロッパへ戻ると、1876年5月ライプツィヒ音楽院1)今日のフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ。に入学した。しかしながらアルベニスが同校に在籍したのはわずか2か月のみで、夏になると生活手段を探すためマドリードへ帰還した。結局アルベニスはスペイン国王アルフォンソ2世の秘書であったギレルモ・デ・モルフィ (Guillermo Morphy) のとりなしにより奨学金を獲得し、ブリュッセル音楽院に留学する機会を得た。ブリュッセルでアルベニスは1879年までピアノを学び、フランツ・ルメル (Franz Rummel) やルイ・ブラッサン (Louis Brassin) に師事した。

1880年9月アルベニスはマドリードへ戻り、音楽家としてのキャリアの継続を目指した。この間アルベニスはスペイン各地やラテンアメリカで演奏旅行を行う。また指揮の学習も始め、1882年にスペインの歌劇である「サルスエラ」の指揮者に就任している。この時期からアルベニスはサルスエラの作曲も行うようになり、『花盛りのサン・アントニオ』などの作品を残した。

1883年、アルベニスはバルセロナへ転居し、フェリペ・ペドレルに作曲を学ぶ。同時にピアノ講師としての活動も継続し、1883年6月23日には生徒のロサ・ホルダナ (Rosa Jordana) と結婚している。1885年末にアルベニスはマドリードへ転居し、旧知のモルフィの庇護を受けながら、名士の家庭で演奏を披露したり、コンサートを開催するなど、マドリードの音楽業界で精力的に活動した。

これらの音楽活動が認められ、1887年3月21日、サロン・ロメロにてアルベニスの作品を集めたコンサートが催された。彼の作品はまた、フランスの楽器メーカー「エラール」の後援により1888年のバルセロナ万国博覧会で催された20回のコンサートでも披露された。

即興の才能に秀でたアルベニスはピアノソロ曲を多く制作し、その大半はサロンでの演奏を意識して単純なメロディをリピートするという形式だった。1880年代末までにアルベニスはピアノ作曲家としての地位を確立し、彼の作品はスペインの著名な音楽出版社から多く刊行された。1889年3月、アルベニスはパリでコンサートを開催する。数か月後にはロンドンへ赴き、大きな成功を収めた。1890年6月、アルベニスは実業家のヘンリー・ローウェンフェルドと独占契約を結び、年末に妻と3人の子供を連れてロンドンへ移り住んだ。

ロンドンでアルベニスはローウェンフェルドの求めに応じてコンサートを開催したほか、アーサー・ロー (Arthur Law) の台本(リブレット)によるオペラ・コミック『魔法のオパール』を作曲した。またリリック・シアターの支配人ホラース・セドガー (Horace Sedger) の依頼を受け、シャルル・ルコックによる『心と手』の翻案である『インコグニタ』の制作に携わった。

こうしたアルベニスの劇音楽における活動はクーツ銀行のフランシス・バーデットの関心を呼んだ。アマチュアの詩人でもあった彼はローウェンフェルドとともにアルベニスの支援者となり、1894年にはアルベニスの唯一のパトロンとなった。

『貧しいジョナサン』(1893) を完成させた後、アルベニスは病気のためイギリスを離れ、パリに落ち着いた。アルベニスはスペインやパリで複数の劇音楽を発表するが、伝統の枠に収まらない作風やサルスエラの復興といった野心的な芸術運動のため、音楽界の権威や公衆による批判にもさらされた。

この時期からアルベニスはフランスの音楽界における活動の比重を高めてゆく。1895年3月アルベニスはバルセロナのテアトロ・リリコで催されたコンサートにソリストとして出演するが、このとき指揮者を務めたのはヴァンサン・ダンディだった。以後アルベニスはダンディとの親交を深め、またエルネスト・ショーソンやシャルル・ボルド、ポール・デュカスやガブリエル・フォーレといったフランス人音楽家と交流した。

以後、アルベニスは劇音楽の作曲に専念する傍ら、1890年代にバルセロナで行われたカタルーニャ(カタロニア)文化の復興運動にも参加した。1896年からはピアノ曲やオーケストラ曲の制作も行うようになったが、その際アルベニスに影響を与えたのは母国スペインの土着文化だった。中でもオーケストラ編曲が有名な『ラ・ヴェガ』はアルベニスのピアノ曲における作風の転換点とされている。

1898年から1900年にかけて、アルベニスはパリのスコラ・カントルムで教鞭を執った。この時の生徒には南仏の音楽家デオダ・ド・セヴラックも含まれていた。体調不良が原因でスコラ・カントルムを辞職した後、アルベニスは温暖な気候を求めてスペインへ戻った。バルセロナにおいてアルベニスはエンリック・モレラとともにカタルーニャの叙情的な作品の演奏活動を行った。サルスエラの作曲にも積極的だったアルベニスはジャーナリズムによって好意的に評価されたが、その国際的な名声は逆に彼の足をすくう。聴衆や興行主から外国かぶれと見なされたアルベニスは1902年の末に再びフランスへ移り、そこでスペイン音楽を探究する道を選ぶ。

腎臓疾患(ブライト病)に悩まされたアルベニスは、温暖な気候を求めてしばしば南仏コート・ダジュールに位置するニースへ赴き、『ランスロット』や『ペピータ』といった歌劇の制作に取り組んだ。その後アルベニスは再びピアノ曲の制作に専念するようになり、1905年から1908年にかけて、彼の代表作『イベリア』を発表する。

組曲『イベリア』は「印象」と称する12曲から構成され、3曲を一組とする4巻本の形で発表された。母国スペインの音やリズムに取材した作品は、スペイン文化の色彩や質感を表現した極めて技巧的な作品とされる。

晩年のアルベニスはフランシス・バーデットの詩への作曲に取り組み、それらは『4つの歌』として発表された。アルベニスは1908年に亡くなり、その亡骸は故地であるバルセロナのモンジュイック墓地に埋葬された。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Albéniz, Isaac | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.00421]

Notes   [ + ]

1. 今日のフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ。

ジョン・ケージ

ジョン・ケージ

生 : 1912年9月5日(アメリカ合衆国、ロサンゼルス)/没 : 1992年8月12日(アメリカ合衆国、ニューヨーク)

ジョン・ケージ (John Milton Cage Jr.) は米国の音楽家、キノコ研究家。代表作に『4分33秒』などがある。

生涯 | Biography

現代音楽と偶然性の思想

1912年カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれたジョン・ケージは、ロサンゼルス高校で教育を受けた後、カリフォルニア州クレアモントのポモナ・カレッジに入学した。しかしながら大学のカリキュラムを退屈に感じたケージは2年間で退学してしまう。

その後ケージは1930年から一年間パリやセヴィリアなどヨーロッパ各地を回って建築や現代絵画などの芸術を独習し、1931年ロサンゼルスへ戻り作曲の学習を開始する。ケージを最初に教えたのはリチャード・ビューリグ (Richard Buhlig) だった。ビューリグはケージをヘンリー・カウエルに紹介する。ガーシュウィンを教えた経験も持つカウエルは、マンハッタンのニュースクール大学においてケージに対し非西洋文化や現代音楽を教授した。ここでケージは半音階による対位法に関心を示し、カウエルはケージにアドルフ・ワイス (Adolph Weiss) の下で学ぶようアドバイスする。折しも十二音技法の創始者シェーンベルクが訪米し、ケージも1934年、彼に付き添ってロサンゼルスへ向かった。シェーンベルクに感銘を受けたケージは作曲に生涯をささげることを決意する。

1937年、ジョン・ケージはUCLAにてダンス振付師としての活動を開始し、続く数年の間、シアトルのコーニッシュ・スクールにて教鞭を執った。ここでケージは舞踏家のマース・カニンガムと出会う。二人はその後、仕事上のパートナーとして生涯に渡って共同で活動する。

ケージはダンスを通じて音楽の幅を拡大した。打楽器アンサンブルのための作曲により、ダンサーを音楽家と見なす。これは雑音など、これまで音楽と見なされていなかった対象を作曲に使用する後年の活動につながった。民族音楽に深い関心を示したケージは、バリ島や日本、インドで楽器として使用されたドラムやブロック、ゴングなどを用いて作曲を行った。

同時に、ケージは電子音楽の技術がもたらす新たな音響の可能性にも注目していた。コーニッシュ・スクールのラジオ局から1939年に放送された「心象風景 第1番」はピアノとシンバルに加えて、ターンテーブルを用いて録音されたランダムな試験音声を用いるという前衛的な構成が取られた。

コーニッシュ・スクールではさらに「プリペアド・ピアノ」と呼ばれる仕組みも用いられた。1938年、あるダンサーが打楽器アンサンブルを求めたが、アンサンブルの演奏には会場のスペースが足りなかったため、ピアノの弦と弦の間にネジ回しやボルトなどを散りばめ、演奏とともにパーカッションのような響きが得られるようにしたのだ。ケージはこの「プリペアド・ピアノ」を利用して「バッカナール」などを作曲し、音楽の可能性を開いていった。

プリペアド・ピアノプリペアド・ピアノ

ケージはサンフランシスコを中心に活動していたルー・ハリソンと合流し、シカゴへ行く1941年まで西海岸の各地でコンサートを行った。ケージの打楽器アンサンブルはメディアの注目を集め、当時の大手ラジオ局だったCBSの依頼を受け、1942年、詩人ケネス・パッチェンによるラジオ・ドラマ『街は帽子を被っている』の音楽を担当した。ラジオでの仕事を好機と捉えたケージは1942年ニューヨークへ移住し、ニューヨーク近代美術館 (MoMA) で打楽器のコンサートを催した。しかしながらこのコンサートの後、ケージはスランプに陥り、東の郊外の古びた商業ビルへの居住を余儀なくされる。

その後ケージは再び「プリペアド・ピアノ」による作曲を盛んに行う。マース・カニングハムの振り付けと相まって、木片や竹、プラスチックやゴム、硬貨といった小物を使用し、楽器の可能性を広めていった。こうした「プリペアド・ピアノ」を用いたケージの前衛的・実験的な活動に対し、1949年グッゲンハイム財団およびアメリカ芸術文学アカデミー協会より表彰された。また1951年にはウッドストック・フィルム・フェスティバル最優秀賞を授与されている。

東洋思想と「沈黙」の美学

1946年、ケージはインド人音楽家のギータ・サラバイ (Gita Sarabhai) と出会う。ケージは彼女からインド哲学を紹介され、アジア的な美学や精神世界に強い親近感を抱く。さらにアナンダ・クマラスワミの美術史に関する研究や、中世の神秘主義者マイスター・エックハルトの教説を学んだケージは、インドの美学に影響を受けた作品を発表するようになる。その特徴は性的、英雄的、あるいは怒りや嫌味、陽気さ、恐怖、悲哀、驚嘆といった感情、そしてとりわけ「沈黙」であった。プリペアド・ピアノによる新たな音響の発明とアジア的な沈黙の精神の発見は、以後のケージの作曲活動を象徴する特徴となる。

1949年、ケージは友人のピエール・ブーレーズとともにヨーロッパを旅行する。ニューヨークへ戻ると、ケージはその批判精神を発揮するようになる。あるときニューヨーク交響楽団の演奏によるアントン・ヴェーベルンの『9つの楽器のための協奏曲』を耐え難く感じ、演奏の途中でコンサート会場を後にしてしまった。するとそこで同じ行動を取った作曲家のモートン・フェルドマンと鉢合わせる。二人は美的感覚において共感するものがあり、それから4年間にわたって意見交換や共作を行う。フェルドマンはケージにピアニストのデイヴィッド・チューダーや作曲家のクリスチャン・ウォルフを紹介し、またフェルドマンの交友関係を通じてケージはニューヨークの画家たちと知り合った。以後ケージはこうした芸術家のサークルに入り浸るようになる。

1940年代末頃、ケージは「沈黙」の美学を発展させる。インドのヒンドゥー教や日本の仏教、禅の思想に傾倒したケージは、1945年から二年間に渡ってコロンビア大学にて鈴木大拙より禅を学び、また松尾芭蕉の俳句や京都・龍安寺石庭に見られる精神世界に感銘を受け、以後、生涯を通じて沈黙の美学を追及してゆく。

龍安寺石庭龍安寺石庭

1950年、ケージは著書『サイレンス』をの原型となった講義を行う。この講義においてケージは沈黙を時間配分の構造と関連付けて論じている。すなわち、作曲家が何かを表現しようがしまいが、音楽における尺の長さは一定である。したがって沈黙や意味のない音でも楽曲を構成することができるというのである。ケージはこうした考えを1948年には着想しており、4分30秒の尺を持つ小品「沈黙の祈り」が構想されていた。

不確定性と図形譜の改良

1950年、ケージは『弦楽四重奏曲』を発表する。かつてプリペアド・ピアノにおける鍵盤の一音が複雑な音階をもたらしたように、ここではそれぞれの奏者が限定された音を発することで、曲の進行を打ち消すような意味のない和音を断続的に生み出す「ギャマット」と呼ばれる独自の形式がとられた。「ギャマット」の技法は1950年代後半、オーケストラに応用される。これに際してケージは連続する幾何学的なパターンを敷き写した長方形のチャートから成る独特な譜面を考案した。こうした図形譜のアイデアはすでにモートン・フェルドマンが着想していたが、ケージはこれをさらに抽象化させ、譜面の構成における「沈黙」を具現したと言える。

1950年代末、ケージは中国の古典である『易経』を手に取る。卜占における硬貨の表裏を記載した8×8のランダムなパターンを記したこの書物にインスピレーションを受けたケージは、偶然性の要素を自身の図形譜に応用する。この「易の音楽」において、作曲者の意図が介入する余地はきわめて少ない。音楽の進行は神の託宣に随うというわけである。

「易の音楽」(1951) におけるチャート

かくして「沈黙」の概念は単にナンセンスであるのみならず、作曲者の意図や趣向、願望を完全に否定する段階に至る。作者の手を離れた結果から成る「偶然性」の音楽の確立である。

1952年、ケージは長年温めていた「沈黙の祈り」の構想をついに公にする。『4分33秒』である。「偶然性」の要素を1940年代以前からの「沈黙」の概念と結合させることにより、ケージの作品中で最も論争的で、なおかつ彼の代表作とされる楽曲が誕生したのだ。

1950年代における音響機器の技術革新も、ケージが表現の幅を拡大するのに貢献した。1952年、ケージは最新式のテープレコーダーを購入し、磁気テープのための曲『ウィリアム・ミックス』を発表した。こうした中でケージはチャートを使うのをやめ、さらなる表現のために五線譜に様々な輪郭を持った図形を配置する譜面形態を採用するようになる。

ケージによる図形譜は演奏者に解釈の余地を与え、演奏ごとに異なったパフォーマンスが実現するという結果をもたらした。こうしたケージによる不確定性音楽の探求の中でも特筆すべきは、透明なプラスチック製のシートを用いたピッチや音色の表現である。この表現形式は『ミュージック・ウォーク』(1958) において最初に試みられ、『ヴァリエーションズⅡ』(1961) において最も純粋な形で発表された。

1950年代後半以降、ケージの名声は国際的なものとなる。ニュースクール大学で彼が教えた学生の中には後にフルクサスを結成するメンバーも含まれており、そのこともケージの名を高める要因となった。この頃ケージは活動の場を米国外へと移し、マース・カニングハムとともにパフォーマンスやレコーディングに精を出した。1961年に刊行された著書『サイレンス』も読者に衝撃を与え、彼の音楽表現は論争の的となった。

サイレンス』の成功によりもたらされた名声、そしてパフォーマンスやスピーチの機会により、ケージは1960年代半ばより作曲家として自活するだけの収入を得ることができるようになった。しかしながら、過密なスケジュールとそれにともなうストレスにより、ケージはしばらくの間スランプに陥る。1960年代に発表された数少ないケージの作品の中でも特筆すべきものに、演奏者がステージ上で単一の行動をなす『0分00秒』(1962) や、複数のテープレコーダーを再生しつつ操作するだけの『ローツァルト・ミックス』(1965)、演奏者への招待状を作品と称した『ミュージサーカス』(1967) などがある。

1967年の著書『月曜日からの一年』において、ケージは「私はだんだん音楽に興味を持たなくなっている」とまで述べている。彼の作品は次第に音楽以外の分野への言及を増やし、マクルーハンのメディア論、毛沢東主義、バックミンスター・フラーなどの政治理論や文化論を創作に取り入れた。しかしながら、エリック・サティに着想を得た『安価な模造品』などを通じてケージは音楽への関心を取り戻し、以後の生涯を多様なメディアにおける作曲活動に費やすこととなる。

『月曜日からの一年』の表紙

環境への関心と晩年

ところで、ケージは1950年代にニューヨークから郊外へ転居した頃より、自然に対して関心を示していた。中でもキノコ狩りへの情熱は群を抜いており、彼のコレクションは現在カリフォルニア大学サンタクルーズ校が収蔵している。またニューヨーク菌類学会の創設者にも名を連ねた。こうしたケージの嗜好は1970年代以降の作品に登場する。

ジェイムズ・ジョイスの作品も70年代以降の作品におけるインスピレーションの源であり、『ロアラトリオ』(1979) はジョイスの小説『フィネガンズ・ウェイク』に基づいていた。この曲は小説中で言及された音をコラージュしてゆき、それにアイルランドの民族音楽を重ねるという形式の作品だった。

晩年のケージはグラフィックや詩作といった音楽以外のメディアでも才能を発揮した。他にも『One11』などの映画作品や、展覧会のキュレーションも行った。これらすべての分野において、ケージは偶然性の要素を追求しながら表現技法の革新に努めた。

ジョン・ケージはその生涯を通じて多くの褒章を得た。中でも1989年に「偶然性や非西欧的思想によって音楽の新しい地平を開いた作曲家」として、第5回「京都賞」を受賞している。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. ジョン・ケージ | 第5回(1989年)受賞者 | 京都賞[https://www.kyotoprize.org/laureates/john_cage/]

ホアキン・ロドリーゴ

ホアキン・ロドリーゴ

生 : 1901年11月22日(スペイン王国、サグント)/没 : 1999年7月6日(スペイン王国、マドリード)

ホアキン・ロドリーゴ (Joaquín Rodrigo) はスペインの作曲家。代表作に『アランフエス協奏曲』などがある。

生涯 | Biography

ホアキン・ロドリーゴはバレンシア地方のサグントにて、1901年11月22日に生まれた。この日は偶然にも音楽の聖人である聖セシリアの日と同一であった。3歳の頃に罹患したジフテリアの後遺症で失明したため8歳の頃から音楽のレッスンを受け、16歳になるとバレンシアでフランシスコ・アンティッチ (Francisco Antich) に作曲および和声を学んだ。

ロドリーゴは1927年パリへ移住し、エコール・ノルマル音楽院にて5年間、ポール・デュカスの指導を受けた。ロドリーゴはパリでピアニストおよび作曲家として頭角を現し、オネゲルやミヨー、ラヴェルといった当代を代表する音楽家と親交を結んだ。1933年、トルコ人ピアニストのビクトリア・カムヒ (Victoria Kamhi) とバレンシアで結婚。二人は生涯に渡って仕事上のパートナーでもあり続けた。その後ロドリーゴは奨学金を得てパリに戻り、パリ音楽院(コンセルヴァトワール)およびソルボンヌ大学にて学究を続けた。

ロドリーゴはスペイン内戦期にフランスやドイツをはじめ、オーストリアやスイスと欧州各国を転々とし、1939年にマドリードへ帰還し、以後生涯を通じてこの都市に居住した。1940年『アランフエス協奏曲』によりコンサートデビューを飾ると、すぐにスペインを代表する作曲家として認知されるようになった。その後数年は作曲活動を縮小し、新聞記事などの執筆活動を盛んに行ったほか、スペイン国営ラジオやスペイン国立盲人協会 (ONCE) にて勤務した。1947年、ロドリーゴはマドリード・コンプルテンセ大学にて、彼のために新設された「チェア・マニュエル・デ・ファラ」と称する教授職に就任し音楽史の講座を担当、さらに1950年には王立サン・フェルナンド美術アカデミー会員に選出された。

アランフエスの王宮

この時期ロドリーゴはスペイン国内のみならず欧州、アメリカ、さらにはイスラエルや日本へ演奏旅行に赴き、また教育やピアノリサイタルといった多様な活動を行った。中でもアルゼンチン(1949年)、トルコ(1953年、1972年)、日本(1973年)、メキシコ(1975年)、ロンドン(1986年)で行ったコンサートが重要なものとされる。

アルフォンソ10世賢王大十字章(1953年)やフランスのレジオン・ドヌール勲章(1963年)、アストゥリアス皇太子賞(1996年)などの褒章を得、またベルギー王立芸術アカデミー会員(1978年)、サラマンカ大学(1964年)、南カリフォルニア大学(1982年)、バレンシア工科大学(1988年)、マドリード大学、アリカンテ大学(1989年)およびエクセター大学(1990年)の名誉博士号などの栄誉職に就任した。

1991年から1992年にかけて、ロドリーゴの90歳の誕生日を祝うコンサートが世界各地で行われた。また1991年には国王フアン・カルロス1世により「アランフエス庭園侯」の爵位を授与された。その後1999年7月6日、ロドリーゴはマドリードの自宅にて、家族に看取られながら息を引き取った。ロドリーゴの一人娘であったセシリアはヴァイオリニストのアグスティン・レオン・アラと結婚し、1999年に「ホアキン・ロドリーゴ財団」を創設した。

「ネオ・カスティシスモ」(新生粋主義)とも称されるロドリーゴの作風は保守的で、彼自身の言葉を借りると「伝統に忠実」なものだった。ロドリーゴの初期作品はグラナドスやラヴェル、ストラヴィンスキーなどの影響が色濃かったが、その幅広い音楽知識と相まって、次第にスペインの伝統文化や国民性を前面に押し出した独自のスタイルを確立した。ローマ時代の歴史から現代詩まで幅広い分野のスペイン文化に取材したロドリーゴの作風は唯一無二のものとされる。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Rodrigo (Vidre), Joaquín | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.23647]
  2. Joaquín Rodrigo [https://www.joaquin-rodrigo.com]

ナルシソ・イエペス

ナルシソ・イエペス

生 : 1927年11月14日(スペイン王国、ロルカ)/没 : 1997年5月3日(スペイン王国、ムルシア)

ナルシソ・イエペス (Narciso Yepes) はスペインのギタリスト、作曲家。代表作に『禁じられた遊び』より「ロマンス」などがある。10弦ギターの考案でも知られる。

生涯 | Biography

ナルシソ・イエペスはスペイン南部の田舎町であるロルカにて、平均的な農民の子として生まれた。自然に囲まれた環境で幼少期を過ごし、ギターの奏でる庶民的な音色に親しんだイエペスは、ヘスス・ゲバラ (Jesús Guevara) という名の音楽教師よりソルフェージュおよびギター奏法を習った。

1939年、13歳の頃に家族とともにバレンシアへ移り住んだイエペスは音楽学校に入学し、ビセンテ・アセンシオに作曲を学んだ。アセンシオはギタリストではなかったものの、イエペスにギター奏法も教えた。

家族が故郷のロルカに戻ると、イエペスは指揮者アタウルフォ・アルヘンタの導きによりマドリードへ移り住む。この都市でイエペスは、アルヘンタを介してレヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサやホアキン・ロドリーゴといった音楽家と知り合った。1947年、イエペスはテアトロ・エスパニョールにて、アルヘンタが音楽監督を務めるスペイン国立管弦楽団とともに、ロドリーゴの『アランフエス協奏曲』でデビューを飾った。この出来事は20世紀ギター史の重要な一里塚と見なされている。

翌1948年、イエペスはジュネーヴでコンサートを行い、活動の場を国際的な舞台へと広げてゆく。イエペスは欧州で演奏ツアーを行った後、1950年パリに滞在してヴァルター・ギーゼキングやジョルジェ・エネスクより演奏法を学んだ。この都市でイエペスはナディア・ブーランジェとも知己を得ている。

映画『禁じられた遊び』や『金色の眼の女』の音楽を担当。中でもルネ・クレマン監督による『禁じられた遊び』の中で印象的に使用された「愛のロマンス」はイエペスの代表作であるのみならず、今日までクラシックギターのスタンダードナンバーとして世界中で親しまれている。バロック音楽に関心をもつイエペスは17、18世紀に作曲され今日では忘れられた音楽をギターに翻案。ギター曲のレパートリー拡大につながった。

1950年以降、イエペスはアンドレス・セゴビアに次ぐ国際的名声を得る。レオ・ブローウェルやブルーノ・マデルナ、モーリス・オアナやホアキン・ロドリーゴといった作曲家がイエペスに曲を捧げた。

私生活では1958年、パリ・ソルボンヌ大学哲学科の学生だったマリサと結婚。夫婦は3人の子に恵まれた。

イエペスは1963年、古典楽曲の音色をより正確に表現するため十弦ギターを考案した。表現や音色の豊かさから、今日に至るまで多くのギター奏者の支持を集めている。

十弦ギター

1960年代から1970年代にかけて欧州をはじめ、アメリカ大陸や東アジアと世界を股にかけて演奏旅行に赴いた。1980年にソ連で初のコンサートを開催。日本での演奏は40回を数えた。

イエペスはその名声により、数多くの賞を得た。主要なものとしてムルシア大学より哲学の名誉博士号を、国王フアン・カルロス1世より芸術功労金メダルを授与され、アルフォンソ10世賢王アカデミーおよび王立サン・フェルナンド美術アカデミーの会員に選出されている。

参考文献 | Bibliography

  1. narciscoyepes.org [http://www.narcisoyepes.org]
  2. Yepes, Narciso | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.30699]
  3. Yepes Narcisso (1927-1997) [https://www.musicologie.org/Biographies/y/yepes.html]

レオ・ブローウェル

レオ・ブローウェル

生 : 1939年3月1日(キューバ共和国、ハバナ)

レオ・ブローウェル (Leo Brouwer) はキューバのギタリスト、作曲家。代表作に『11月のある日』などがある。

生涯 | Biography

青年時代

レオ・ブローウェルは1953年、キューバのギター学校創設者であるイサーク・ニコラ (Isaac Nicola) の下でギターの習得を開始した。1955年7月22日にハバナのリセウム・アンド・テニスクラブで最初のリサイタルを行う。同1955年、独学で作曲を学んだブローウェルは『ギター協奏曲第1番』などの制作を開始し、翌1956年に最初の作品を発表する。

1959年、奨学金を得たブローウェルは米国ハートフォード大学の音楽学科へ、続いてニューヨークのジュリアード音楽学校へ留学し、ギターの高度な技術を習得する。ここでブローウェルを教えたのはステファン・ウォルペやヴィンセント・パーシケッティ、ジョゼフ・イアドーン (Joseph Iadone) といった音楽家だった。

ナショナリズムの時代 : 1955-1962

1960年、ブローウェルはキューバ映画芸術産業庁 (ICAIC) の音楽部門長に就任し、映画音楽の作曲を始める1)キューバ映画芸術産業庁はカストロやチェ・ゲバラらによる1959年のキューバ革命後に創設された国立機関。革命を顕彰するための映画を多く作成し、同国の映画産業を牽引した。。ここで彼が執筆した楽譜は60曲を数えた。1969年、ブローウェルはICAICの「音響実験グループ」創設に関わり、メンバーの教育活動に当たった2)音響実験グループの創設メンバーにはやシルヴィオ・ロドリゲスやパブロ・ミラーネスといったキューバ現代音楽の重要人物が多数含まれていた。その経緯はドキュメンタリー映画『声を上げる集団がいた』(Hay un grupo que dice, 2013) に描かれている。

ブローウェルは1960年から1968年にかけて国営放送局「ラジオ・ハバナ・キューバ」の音楽顧問を務め、また1960年から1967年にかけてハバナ市立音楽院で対位法や和声、作曲などを教えた。テクストにはブローウェル自身の執筆した教科書『現代和声総合』(Síntesis de la armonía contemporánea) が使用された。

この時期の作品を特徴づけるのはソナタや変奏曲といった伝統的な音楽形式に加え、キューバ独自の和声構造である。これはブローウェルの愛国心がなしたものだった。

アヴァンギャルドの時代 : 1962-1967

ブローウェルは1960年代、作曲家のフアン・ブランコ (Juan Blanco) やカルロス・ファリーニャス (Carlos Fariñas)、また指揮者のマニュエル・デュシェーヌ・クザン (Manuel Duchesne Cuzán)らとともに前衛音楽の運動を主導する。この時期の作品は様式的な厳格さを保ちながらも、「草木や幾何学的なシンボルなど、音楽の様式を発見する手助けとなるものは何でも使う」というブローウェルの言葉が示す通り、前衛的な音響のコンセプトがより優勢となっている。

こうした傾向は同時代における多くのキューバ前衛音楽家と同様、ポーランドからの影響を多分に受けたものである。ブローウェル自身も1961年に「ワルシャワの秋」へ赴き、ポーランド前衛音楽を直接耳にしている。1960年代の作品は総じてポストモダンの作風によって特徴づけられている。

今日のブローウェル

1970年代に入ってもブローウェルは偶然音楽やセリエル音楽のような前衛的要素をギターで表現しようとした。しかしながら、1980年代に入るとシンプルかつミニマル、そしてロマン主義的な新しい作風へと移行する。

ブローウェルはハバナギターコンクールを主導し、また1981年よりキューバ国立管弦楽団の主任指揮者に就任した。さらにはベルリンフィルやコルドバオーケストラを含む海外のオーケストラも指揮した。ベルリン芸術アカデミーや UNESCO の会員となり、また1996年キューバ高等芸術院の名誉教授に就任した。長きにわたる国際的な活躍により、キューバ政府よりフェリックス・バレラ勲章を授与されている。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Brouwer (Mezquida), Leo | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.04092]

Notes   [ + ]

1. キューバ映画芸術産業庁はカストロやチェ・ゲバラらによる1959年のキューバ革命後に創設された国立機関。革命を顕彰するための映画を多く作成し、同国の映画産業を牽引した。
2. 音響実験グループの創設メンバーにはやシルヴィオ・ロドリゲスやパブロ・ミラーネスといったキューバ現代音楽の重要人物が多数含まれていた。その経緯はドキュメンタリー映画『声を上げる集団がいた』(Hay un grupo que dice, 2013) に描かれている。

アンドレス・セゴビア

アンドレス・セゴビア

生 : 1893年2月21日(スペイン王国、リナーレス)/没 : 1987年6月2日(スペイン王国、マドリード)

アンドレス・セゴビア (Andrés Segovia) はスペインのギタリスト。「現代クラシック・ギター奏法の父」と呼ばれる。

生涯 | Biography

アンドレス・セゴビアはアンダルシアの都市リナーレスで生まれた。グラナダで育ち、幼少期はピアノやチェロを習ったが、その後、独学でギターを学ぶ。当時この楽器は高尚と見なされず、主として酒場やカフェで演奏されるのにふさわしいと考えられていた。1909年頃、セゴビアはグラナダの芸術センター (Centro Artístico) で最初のコンサートを行い、1913年、アテネオ・デ・マドリードでコンサートを行った。1922年、マヌエル・デ・ファリャがグラナダで主催したカンテ・ホンドのコンサートに参加。1919年から1922年にかけて南米でコンサートツアーを行っている。1924年にはパリでデビューし、続けてスイスやドイツ、オーストリアでリサイタルを行った。

1926年、マインツのショット (Schott) 社より古典音楽の楽譜を復刻したシリーズ(セゴビア・アーカイブ)の刊行を開始する。1926年、イギリスとロシアでコンサートデビューする。1927年、デンマークでリサイタルを行い、HMVのために録音を行う。1928年に米国デビュー、1929年には初の日本ツアーを行う。1929年、エイトル・ヴィラ=ロボスがセゴビアに「12のエチュード」を献呈する。1935年、バッハのシャコンヌをギター編曲してパリで演奏する。1936年にスペインを離れてウルグアイのモンテビデオで数年過ごし、南米の演奏旅行を数多く行った。

第二次大戦後、セゴビアは欧米における演奏ツアーを拡大し、さらにLPレコードの発明により1947年から1977年までの三十年間で50以上のアルバムを発売した。1950年代にシエナのサマースクールで講師を務め、1958年からはサンティアゴ・デ・コンポステーラで教え始めた。1961年に最初のオーストラリアにおける演奏ツアーを行った。

セゴビアは晩年、毎年のように米国やヨーロッパの演奏ツアーを行った。1967年、ドキュメンタリー映画『セゴビア・アット・ロス・オリボス』が公開され、スペインの自宅における作曲家が特集された。1976年には自伝が刊行され、また映画『ソング・オブ・ザ・ギター』ではグラナダのアルハンブラ宮殿で演奏を行った。1977年、セゴビア最後のアルバムとなる『夢想集』(Reveries) がリリースされた。1981年、スペイン王フアン・カルロスよりサロブレーニャ侯爵の位を授与され、英国ケント州のリーズ城にてセゴビア国際ギターコンクールが行われた。続く数年の間にセゴビアは日本においてツアーを行い、ニューヨークのメトロポリタン美術館においてマスタークラスを開講した。

1983年にセゴビアは90歳となり、米国および日本でツアーを行った。1985年には英国のロイヤル・フィルハーモニック協会よりゴールドメダルを授与され、故郷のリナーレスに彫像が建てられた。1986年には南カリフォルニア大学でマスタークラスを主催し、フロリダ州のマイアミビーチで最後のリサイタルを行った。晩年のセゴビアは多数の名誉博士号をはじめ、スペインやイタリアの大十字章、日本の旭日章など、世界各国から数多くの賞を得た。

セゴビアは生涯を通じて150以上のリュートやハープシコードのための作品をギター版に編曲した。その中にはクープランやラモー、バッハのバロック音楽も含まれている。彼はその演奏技術の高さから数多くの後進を育て、ギターをオーケストラにふさわしい楽器として認知させるのに貢献した。

参考文献 | Bibliography

  1. Andrés Segovia, An Autobiography of the Years 1893–1920, 1976.
  2. Andrés Segovia, Andrés Segovia, My Book of the Guitar, 1979.
  3. Segovia, Andrés | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.25329]
  4. Andrés Segovia | Spanish musician | Britannica.com [https://www.britannica.com/biography/Andres-Segovia]

カミーユ・サン=サーンス

サン=サーンス

生 : 1835年10月9日(フランス王国、パリ)/没 : 1921年12月16日(仏領アルジェリア、アルジェ)

シャルル・カミーユ・サン=サーンス (Charles Camille Saint-Saëns) はフランスの作曲家。代表作に『動物の謝肉祭』などがある。

生涯 | Biography

カミーユ・サン=サーンスは1835年10月9日、父ジャック・サン=サーンスと母クレマンス・コランの間に生まれた。ノルマンディー地方の農家の子孫である父は内務省の官僚であり、1834年にクレマンスと結婚した。父ジャックはカミーユ・サン=サーンスの生後わずか3ヶ月で死去。カミーユは結核のため2年間の療養生活を送った後、母方の家庭で育てられることとなった。そこで3歳の頃からピアノを習い、若干10歳にしてパリのサル・プレイエルでピアニストとしてデビューを果たした。演目はベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番およびモーツァルトのピアノ協奏曲第15番。このときサン=サーンスはすべての曲目を暗譜で演奏したが、当時としては異例のことだった。

サン=サーンスはピエール・マルダン (Pierre Maleden) から作曲を学んだが、彼を比類なき教師だったと認めている。サン=サーンスの早熟は多分野に渡った。フランスの古典や宗教、ラテン語やギリシャ語を習得したほか、数学や自然科学、とりわけ天文学や考古学、そして哲学に親しんだ。サン=サーンスが自作曲の著作権で500フランを得た際、彼はその金を使って天体望遠鏡を買ったという。

1848年、サン=サーンスはパリ音楽院(コンセルヴァトワール)に入学。オルガン科でフランソワ・ブノワの指導を受け、1851年グラン・プリを獲得する。同1851年よりリュドヴィク・アレヴィに作曲および管弦楽法を習い、また伴奏や歌唱の方法も学んだ。

音楽家としてのキャリアをピアニストおよびオルガン奏者から開始したサン=サーンスは、バッハやラモー、ワグナーやリストを好んで演奏した。ピアニストとしての成功のため作曲家としての評価は遅れ、ローマ大賞を逃している。しかしながら『聖セシルのための頌歌』は1852年ボルドーの聖セシル協会主催のコンテストで1位を獲得する。若くして頭角を現したサン=サーンスは、ポーリーヌ・ヴィアルドやシャルル・グノー、ジョアキーノ・ロッシーニやエクトル・ベルリオーズといった同時代の音楽家と交友関係を結び、また彼らの庇護を受けた。

当初サン=サーンスは交響曲や室内楽を多く作曲し、同世代のフランス人音楽家とは異なりオペラに関心を持たなかった。しかしながらコンセルヴァトワール時代の師であるアレヴィの影響によりオペラに取り組むようになり、ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドやシャルル・グノーの支援を受けた。1854年パリに取材したオペラ・コミックの制作に取り掛かるが、後に放棄。ジュール・バルビエ発案によるオペラの序曲も作曲したが、結局これも半世紀以上が経過した1913年まで完成を見ることはなかった。

1853年、サン=サーンスはパリのサン・メリ教会のオルガニストに就任した。同教会のガブリエル神父に同伴して赴いたイタリア旅行が、サン=サーンスにとって生涯続く演奏旅行の最初のものだった。続く1857年にはパリのマドレーヌ寺院のオルガニストに就任し、サン=サーンスはこの職を1857年まで20年に渡って務めた。フランツ・リストはサン=サーンスの演奏を聴き、彼を世界一偉大なオルガニストとして称賛している。オルガン演奏はこの時期のサン=サーンスにとっての主要な職務であり、作曲の多くも宗教音楽だった。1857年には交響曲『ローマ』により再び聖セシル協会のコンテストで賞を獲得した。もっとも、彼自身は必ずしも信心深いキリスト教徒というわけではなかったという。この時期サン=サーンスはクリストフ・ヴィリバルト・グルックの全集の編纂に協力し、またベートーヴェンやリスト、モーツァルトの作品の校訂版の編集も行った。

この期間もサン=サーンスは歌劇に対する関心を維持していた。とりわけリヒャルト・ワグナーを好み、『タンホイザー』や『ローエングリン』に年長者が眉をひそめたのに対し、彼はこれを擁護した。1860年から1861年にかけてのワグナーのパリ滞在時期、『ローエングリン』や『トリスタンとイゾルデ』、『ラインの黄金』を作曲者の目の前でピアノで演奏する機会を得た。ワグナーへの酔心はその後も続き、1869年にミュンヘンで『ラインの黄金』を、1876年には第1回バイロイト音楽祭で『ニーベルングの指環』を聴く。

サン=サーンスの生涯の中でも1860年代初頭は充実した期間だった。ピアニストとしての名声を高め、『スパルタクス』序曲はまたも聖セシル協会から授賞された。1867年、パリ万国博覧会に際して作曲されたカンタータ『プロメテの結婚』が万博の審査会で表彰される。このときの審査員にはロッシーニやオーベール、ベルリオーズ、ヴェルディ、そしてグノーが含まれていた。こうしたサン=サーンスの成功からグノーは彼をして「フランスのベートーヴェン」と形容している。

ところが1863年、サン=サーンスはローマ大賞をまたも逃してしまう。そこでコンセルヴァトワール院長のフランソワ・オーベールはテアトル・リリック支配人のレオン・カルヴァロに依頼し、サン=サーンスのためにオペラ台本を依頼する。カルヴァロはバルビエとミシェル・カレによる『銀の音色』を提供した。この作品をサン=サーンスは1、2年で完成させるが、劇場側との行き違いもあり、初演にはそれから10年以上の歳月を要した。次のオペラ『サムソンとデリラ』もほぼ忘却されかけ、1872年にオペラ・コミック座で初演された『黄色い王女』もさしたる成功をおさめることはできなかった。この『黄色い王女』で共同作業を行った作家のルイ・ガレとは、1898年にガレが亡くなるまで交友を続けた。

1861年から1865年にかけて、サン=サーンスはパリのエコール・ニデルメイエールで教鞭を執る。生徒の中にはガブリエル・フォーレやアンドレ・メサジェ、ウジェーヌ・ジグーの姿もあった。

1870~1871年の普仏戦争とパリ・コミューンによる政治的混乱の中、1871年にサン=サーンスはコンセルヴァトワールの同僚ロマン・ビュシーヌと共同で国民音楽協会を創設する。「ガリアの芸術」(Ars Gallica) をスローガンとするこの協会には、書記を務めたアレクシス・ド・カスティヨンのほか、ガブリエル・フォーレやジュール・マスネ、セザール・フランク、エドゥアール・ラロといった音楽家が参加し、フランス人音楽家の作曲・演奏活動を振興した。プロイセンとの戦争における屈辱的敗北の後、フランスでは対独ナショナリズムが高揚したが、サン=サーンスもその例外ではなかった。当初ワグナーを好んでいた彼は、次第に様式的ないし愛国的要因からこれを避けるようになる。

1870年代初頭、サン=サーンスは『ルネサンス・リテレール・エ・アルティスティック』(文学と芸術の復興)や『ガゼット・ミュジカル』、『ルヴュ・ブルー』といった文芸誌に複数の記事を掲載し、ヴァンサン・ダンディに代表される従来の音楽様式を批判した。1876年、バイロイトを訪ね『ニーベルングの指環』を鑑賞したサン=サーンスは、『レスタフェット』(L’estafette) 誌に7本の長文記事を執筆し、『ル・ヴォルテール』誌に「ハーモニーとメロディ」と題する連載を執筆した。また第一次世界大戦の始まる1914年には「ドイツ贔屓」と題する記事を発表し、ワグナーに代表されるドイツ音楽の排除を訴えている。

1875年、サン=サーンスは当時19歳だったマリ=ロール・トリュフォと結婚する。しかしながらこの結婚は母親の反対にあい、また2人の子も相次いで夭逝するなど、幸せとは言えないものだった。サン=サーンスは妻に強く当たり、結局二人は離婚した。妻のマリ=ロールは1950年、ボルドー近郊のコードラン (Cauderan) にて95歳で亡くなっている。

その後数年間、サン=サーンスは交響詩や歌曲に専念する。1877年2月、テアトル・リリックにおいて『銀の音色』がとうとう上演される。このオペラの献呈を受けたアルベール・リボン (Albert Libon) は同1877年に死去し、サン=サーンスに10万フランを遺贈した。サン=サーンスはこの遺贈者のレクイエムを作曲し、1878年5月22日、パリのサン=シュルピス教会で演奏の機会を得た。さらに1877年末には『サムソンとデリラ』もワイマールで上演がかなった。これに自信をもったサン=サーンスはオペラの作曲に本格的に取り組むようになる。3、4年毎に作品を発表し、すぐに上演された。これは1911年『デジャニール』の千秋楽まで続いた。またリストが『サムソンとデリラ』を激賞したことが縁となり、1878年3月にパリ・イタリア座でリストの楽曲を演奏する。これがリストの交響詩のフランス初演となった。

サン=サーンスのオペラで歴史に取材した初の作品は、ルイ・ガレ (Louis Gallet) の台本による『エティエンヌ・マルセル』である。百年戦争期パリの英雄的な指導者を描いたこの作品は1879年リヨンで初演されたが人気はほどほどだった。続いてパリのガルニエ宮(オペラ座)より依頼され、シェイクスピアおよびペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカのリブレットに基づき制作した『ヘンリー8世』は1883年3月に初演され、大きな成功を収めた。しかしエドモン・アブの小説を原作としたオペラ・コミック『ギエリ』は制作後すぐに没とされた。ルイ・ガレがリブレットを書き、16世紀のフィレンツェを舞台とした『プロセルピーヌ』(1887年上演)など、歴史に題材をとったオペラを相次いで発表した。

1881年、サン=サーンスは芸術アカデミー会員に選出され、1884年にはレジオン・ドヌール勲章のオフィシエを受勲している。

オペラの相次ぐ成功により、1888年の母の死と相まって、サン=サーンスは次第に活動の場をフランス国外に移すようになった。1873年にアルジェリアを訪ねてから、お気に入りの旅先となる。ノルマンディ地方の港町ディエップに所領を移す。ディエップには1890年7月サン=サーンス博物館が開館している。この時期もサン=サーンスは執筆活動を続け、とりわけ『ルヴュ・ブルー』誌に「回想」と題する連載記事を執筆した。南欧や北欧、さらには南米、東アジアと演奏旅行を行った。

サン=サーンスが『動物の謝肉祭』の着想を得たのもオーストリアにおける休暇中だった。またロシアでは赤十字の後援を受け、サンクト・ペテルブルクで7回のコンサートを行っている。サンクト・ペテルブルクではチャイコフスキーと出会い、ニコライ・ルビンシュタインのピアノ伴奏により二人で即興のバレエを披露するという余興も行った。

1906年に初のアメリカ合衆国における演奏旅行を行い、フィラデルフィアやシカゴ、ワシントンでコンサートを行った。1915年には二度目の米国での興行を催し、ニューヨークやサンフランシスコで講演や演奏を行った。

サン=サーンスは1871年を皮切りにイギリスへ何度も赴き、ヴィクトリア女王の御前で演奏を行ったり、バッキンガム宮殿の図書館でヘンデルの手稿文書を閲覧するなどの活動を行った。1886年、ロンドン・フィルハーモニック協会の依頼で作曲した交響曲第3番は作曲者自身の指揮によりロンドンで初演され、1893年にはコヴェント・ガーデンで『サムソンとデリラ』のオラトリオ版を指揮した。1893年にケンブリッジ大学より、1907年にオックスフォード大学より名誉博士号を授与され、また1902年のエドワード7世の戴冠に際して行進曲を作曲したことで、ロイヤル・ヴィクトリア勲章のコマンダーを授与された。

1894年、サン=サーンスはオーギュスト・デュランの音楽出版社のためにラモー全集の編纂に携わった。1895年の『フレデゴンド』はオペラ座で上演されたが、これは失敗に終わる。サン=サーンスはオペラ座での活動休止を決める。代わって彼が活路を見出したのは南仏である。1896年にはフェルナン・カステルボン=ド=ボーゾスト (Fernand Castelbon de Beauxhostes) の招聘を受け、ベジエの野外劇場の再建に協力する。サン=サーンスはこの野外劇場で、地元の楽団「リール・ビテロワーズ」(Lyre Biterroise) などの演奏により、ルイ・ガレの『デジャニール』を上演した。フランス中から1万名以上もの観客が押し寄せたという。ベジエの野外劇場でサン=サーンスの作品は好意的に受け入れられ、1898年に劇場の音楽顧問に就任する。

他方、モンテ・カルロ歌劇場でも積極的に活動を行っている。モナコ大公アルベール1世の庇護を受け、支配人ラウール・ガンズブールの下で『エレーヌ』『祖先』『デジャニール』の3作を上演した。

1900年、パリ万国博覧会の依頼を受け、電力技術の発展を礼賛するカンタータ『天上の火』を作曲した。同1900年、サン=サーンスはフランスの最高勲章であるレジオン・ドヌールの「グラントフィシエ」を受勲し、また皇帝ヴィルヘルム2世によりドイツ帝国の功労勲章を受勲した。芸術アカデミー会長に就任する。

20世紀に入ると、サン=サーンスはエジプトやアルジェリアで過ごす機会が多くなる。1910~1911年の冬にかけて、アルジェの市立劇場では彼のオペラ5作品が上演された。カイロ滞在中の1913年にはレジオン・ドヌールの最高位である「グラン・クロワ」を受賞している。サン=サーンスはその後も自作曲の演奏や改訂を行いながら日々を過ごした。

1916年、南米における4ヶ月の滞在中、サン=サーンスは左手に麻痺を感じるようになる。彼は1921年8月6日、ディエップのカジノで行われたピアノコンサートを以て、自らの演奏家としてのキャリアに終止符を打つことを決める。同1921年8月21日、ベジエにおける『アンティゴネ』のリハーサルを以て、作曲活動からもリタイアした。

1921年12月、サン=サーンスはアルジェに戻り、同地で息を引き取った。フランスでは国葬が行われ、偉大な作曲家の亡骸はパリのマドレーヌ寺院に安置された。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Saint-Saëns, (Charles) Camille | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.24335]
  2. Saint-Saëns, (Charles) Camille | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.O904535]
  3. Camille Saint-Saëns (1835-1921) [https://www.musicologie.org/Biographies/saint_saens_c.html]

ヘンリー・パーセル

ヘンリー・パーセル

生 : 1659年9月10日(イングランド共和国、ロンドンまたはウエストミンスター)/没 : 1695年11月21日(イングランド王国、ロンドン)

ヘンリー・パーセル (Henry Purcell) はイギリスの作曲家。バロック時代、とりわけイングランド王政復古期に活躍した。代表作に『ディドとエネアス』や『アブデラザール』などがある。

生涯 | Biography

聖歌隊における音楽修行

パーセルの幼年期について語る資料は少ない。おそらくは1659年9月10日、ロンドンないしウエストミンスターで生まれたヘンリー・パーセルは、音楽家である同名の父ヘンリーと母エリザベスの6人兄弟のうち3ないし4番目の子であった。またダニエル・パーセルのいとことされる。

父はオリヴァー・クロムウェルによる共和政(コモンウェルス)時代にロンドンで活躍した音楽家で、王政復古期に「チャペル・ロイヤルのジェントルマン」と呼ばれる国王のための聖歌隊の一員となった。1661年2月16日、ウエストミンスター寺院の聖歌隊長となり、1664年8月11日に同地で亡くなっている。その後1666年にパーセルの母エリザベスはロンドンのトットヒル街に転居し、1680年までそこで暮らした。6人の子の養育を助けたのは宮廷音楽家を務める叔父のトマス・パーセルだった。

ウエストミンスター寺院ウエストミンスター寺院

少年ヘンリー・パーセルは1669年頃から1673年までチャペル・ロイヤルの聖歌隊員として、ヘンリー・クック (Henry Cooke) の下で、クックの死後1672年からはペラム・ハンフリーの下で音楽の訓練を受けた。1673年6月10日から王室の楽器を管理するジョン・ヒングストン (John Hingeston) の無給の助手となる。

聖歌隊を離れた後、パーセルはジョン・ブロウとクリストファー・ギボンズから音楽を学んだ。マシュー・ロックはパーセルの直接の師であるかは定かではないが、パーセルに大きな影響を与えたことは確かである。

王室付音楽家として

1677年、マシュー・ロックの死去に伴い、パーセルは国王の専属作曲家に就任。続いて1679年にウエストミンスター寺院のオルガニストに就任する。1682年7月14日にはチャペル・ロイヤルのオルガニストにも就任している。パーセルは王政復古期に国王チャールズ2世およびジェームズ2世へ、そして名誉革命後は新たに即位したウィリアムとメアリへ仕え、賛歌(アンセム)や頌歌(オード)、歓迎歌や戴冠式のための音楽などの作曲に従事した。

私生活では1680年、フラマン系移民の娘フランセス・ピータースと結婚している。また公職者に英国国教会への帰属を推奨する「審査法」に従い、1683年2月4日にウエストミンスターの聖マーガレット教会より聖餐証明書を得る。これによりパーセルは1683年12月、ジョン・ヒングストンの後を継いで王室の楽器管理人に就任した。

1684年、パーセルは国王チャールズ2世の命を受け、作曲家ジョン・ブロウや台本作家ジョン・ドライデンと組んで、国王の治世を称えるオペラ『アルビオンとアルバニウス』の作曲に取り掛かった。ところが彼らは後に降板となり、結局『アルビオンとアルバニウス』はフランスで音楽を学んだルイ・グラビュによって完成された。

チャールズ2世チャールズ2世

1685年のチャールズ2世崩御に際して、パーセルは葬送歌を作曲した。続く国王ジェームズ2世のカトリック信仰はパーセルの音楽家としてのキャリアに影響を与えた。パーセルの作風を気に入らなかった新国王は彼をチャペル・ロイヤルのオルガン奏者としての身分に留めはしたものの、カトリックの立場から国教会の地位は縮小されることとなった。私生活でも息子のトマスを1686年夏に亡くし、また生後間もない子ヘンリーを1687年9月に亡くすなど、私生活でも不幸が続いた。

1688~1689年の名誉革命を経て、パーセルは1690年に新国王ウィリアムとメアリの推薦によりホワイトホール宮殿における劇場の作曲家に就任する。しかしながら革命の余波により王宮における音楽活動が削減されたため、パーセルは教育や出版、あるいは一般公衆向けの演奏活動や商業的な作曲活動により生計を立てることを余儀なくされた。パーセルの次なるキャリアが始まろうとしていた。

オペラ作曲家として

パーセルが最初に劇音楽と接点を持ったのは1680年、ナサニエル・リーの悲劇『テオドシウス』の作曲である。1677年のマシュー・ロックの死はロンドンの音楽シーンに新風を吹かせる契機となったが、この『テオドシウス』はさほど話題にならなかったようである。

パーセルのオペラ作曲家としての名を今日まで不動としているのは1689年の作品『ディドとエネアス』である。1680年代に構想された『ディドとエネアス』は、パーセルの師であるジョン・ブロウのオペラ『ヴィーナスとアドニス』のプロットから多分に影響を受けながらも、イタリアやフランスの要素も取り入れた様式をとった。とはいえこの作品の来歴や初演について詳細は分かっておらず、パーセル存命中の上演で判明しているのは、チェルシーの女子寄宿学校におけるジョシアス・プリースト (Josias Priest) による1689年のものだけである。

『ディドとエネアス』はパーセルの経歴に転機をもたらした。王宮における活動を縮小した彼はオペラ作曲家としての道を本格的に歩み始めたのだ。1690年から1695年にかけて、パーセルはロンドンの興行会社「ユナイテッド・カンパニー」のために40を超える劇付随音楽を作曲した。

中でも『アーサー王、またはブリテンの守護者』は18世紀まで劇場における演目の常連としての地位を保ち続け、トマス・アーン (Thomas Arne) の編曲版が1770年にデイヴィット・ギャリックによって演じられた。『アーサー王』の成功により、パーセルは続くシーズンの演目の作曲を依頼され、『妖精の女王』を発表した。シェイクスピアの戯曲『真夏の夜の夢』を下敷きにしたこの作品は1692年5月2日にシアター・ロイヤルで初演となり、人気を博した。

シアター・ロイヤルシアター・ロイヤルのファサード(1775年)

1694年の末に起こった俳優たちの造反はパーセルのキャリアにも影響した。悪名高い劇場支配人クリストファー・リッチ (Christopher Rich) による独裁的な経営のため、トマス・ベタートン (Thomas Betterton) ら多くの俳優がリンカーンズ・イン・フィールズにあるライバルの劇場に移籍したのだ。パーセルと関係の深かった歌手も多くが辞めてしまい、シアター・ロイヤルは窮地に陥った。そうした中、経営立て直しのために計画された『インドの女王』、あるいは最晩年の傑作『アブデラザール、あるいはムーア人の復讐』など、パーセルは精力的に作曲活動を行った。

さらにパーセルは教育活動や後進の育成にも貢献した。1693年にヘンリー・プレイフォードの編集による曲集『聖なる調和』(ハルモニア・サクラ)の第2巻に複数の自作曲を寄せ、また翌1694年には、当時の標準的な教則本として普及していたジョン・プレイフォード著『音楽技術入門』第12版の編集に貢献した。1693~1694年、チャペル・ロイヤル時代の同僚であったジョン・ワルターの紹介によりジョン・ウェルドン (John Weldon) を弟子に迎えた。またロバート・ハワード卿の妻アナベラや孫娘のダイアナもパーセルの生徒であった。

1694年12月28日に女王メアリが天然痘で崩御したため、翌1695年3月5日の国葬のため、パーセルは葬送歌を作曲した。病魔は音楽家自身の身にも迫っていた。1695年のある晩、酒場から帰宅したパーセルは体調を崩し、療養を余儀なくされた。本人は死の直前まで病の深刻さに気付かなかったという。11月21日、妻のフランセスが看取る中、ヘンリー・パーセルはロンドンのマーシャム街の自宅で息を引き取った。葬儀は11月26日の午後にウエストミンスター寺院で行われた。

死後の評価

パーセルはそのキャリアの絶頂で息を引き取った。彼の死後、妻のフランセス・パーセルは1696年に『ハープシコードまたはスピネットのためのレッスン選集』を刊行している。また、ヘンリー・プレイフォードの手によって1698年から1702年にかけて出版された2巻本の『英国のオルフェウス』(オルフェウス・ブリタニクス)は1706年および1711年の第2版、1721年の第3版と版を重ねた。

ヘンリー・パーセルは英国を代表する音楽家として今日まで評価されているが、その作風は彼が生きた同時代のイギリス音楽の標準からは逸脱したものである。パーセルはイギリス音楽の伝統に根ざしながらも、彼を重用した国王チャールズ2世の好みからフランス音楽の要素を取り入れ、さらにはオペラの本場であるイタリアの様式も参照した。すなわち16・17世紀における英国風のポリフォニーを用いるのみならず、イタリアのオペラにおける声楽の様式をも取り入れたのだ。晩年におけるパーセルのオペラ作品はイタリアの影響を受けつつも、ロンドンの公衆の好みに即したスタイルが取られている。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Curtis A. Price, Henry Purcell and the London Stage, Cambridge University Press, 2009.
  2. Purcell, Henry (1659–1695), organist and composer | Oxford Dictionary of National Biography [https://doi.org/10.1093/ref:odnb/22894]
  3. Purcell, Henry | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.O002310]
  4. Henry Purcell (1659-1695) [https://www.musicologie.org/Biographies/purcell_henry.html]

エリック・サティ

エリック・サティ

生 : 1866年5月17日(フランス帝国、オンフルール)/没 : 1925年7月1日(フランス共和国、パリ)

エリック・サティ (Erik Satie) はフランスの作曲家。代表作に『ジムノペディ』『グノシエンヌ』『ジュ・トゥ・ヴ』などがある。

生涯 | Biography

「コンセルヴァトワールで最も怠惰な生徒」

エリック・サティは1866年、ノルマンディー地方、カルヴァドス県の港町オンフルールにて、船舶解体業を営む父のアルフレッド・サティと、スコットランド系の血を引く母のジェーン・レスリー・アントンの長男として生まれた。毎日家から海を眺め、船の発する音を聞く少年時代だったという。1870年の普仏戦争を経て、父のアルフレッドは事業を売却し、一家はパリへと移り住んだ。

オンフルール19世紀のオンフルール

1872年、エリック・サティが6歳の時、母のジェーンが亡くなった。そのためエリックと弟のコンラッドはオンフルールの父方の祖父母のもとに預けられ、カトリックの影響の中で育てられた。サティは1874年より、ヴィノ (Vinot) という名の地元の教会のオルガン奏者から音楽のレッスンを受け始めた。このオルガニストの影響でサティはグレゴリオ聖歌を好むようになったという。

1878年の夏、祖母の死という悲劇に見舞われたサティは、パリに戻り父親のもとで教育を受ける。父アルフレッドはピアノ教師のウジェニー・バルネシュ (Eugénie Barnetche) と出会い、1879年1月に彼女と再婚する。この結婚は少年サティの望むものではなかったが、ウジェニーはサティをパリ音楽院(コンセルヴァトワール)の準備学級でエミール・デコンブによるピアノの授業を受けさせた。1879年11月のことだった。

サティはパリ音楽院で7年を過ごしたが、彼にとってこの経験は苦痛でしかなかった。デコンブは1881年、サティを「コンセルヴァトワールで最も怠惰な生徒」と評している。多くの教師がサティのピアニストとしての才能を認めたが、同時に彼の熱意の低さに苦言を呈した。1885年よりサティは継母ウジェニーの元教師であったジョルジュ・マティアス (Georges Mathias) よりピアノを習い始める。しかしながらマティアスもサティを「つまらない奴」と評した。後の1892年、サティは母校に対して次のような手紙を送っている。

子供だった私は、あなた方のクラスに入りました。私の心はとても柔らかかったため、あなた方はそれを理解できませんでした。私のやり方は花をも驚かしていました。〔…〕そして、私が若さの絶頂にいて機敏さを備えていたのに、あなた方の無理解のおかげで、私はあなた方が教えていた趣味の悪い芸術が大嫌いになりました1)cité par : Erik Satie, Correspondance presque complète, réunie et présentée, Paris : Fayard, 2000.

コンセルヴァトワール在学中、サティの最も親しい友人はスペイン生れの詩人パトリス・コンタミーヌ・ド・ラトゥールだった。ラトゥールの証言によると、サティは兵役期間を短縮するためだけにパリ音楽院への学籍登録を続けていたという。さらにサティは気管支炎に罹患し、結局彼は一年もせず除隊となった。療養中、サティはフロベールやペラダンの文学作品に親しんだ。

父アルフレッドは1883年に音楽出版社を創業し、息子が友人のラトゥールとともに制作した曲を出版した。しかしながら、父子の関係は次第に悪化してゆく。1887年、ついにサティは家元を離れることを決意する。

「エリック・サティ、職業はジムノペディスト」

家族からの独立を果たした21歳のサティはパリ・モンマルトルのアパルトマンに入居した。住所はコンドルセ街50番地。すぐ側では有名なキャバレー「黒猫(ル・シャ・ノワール)」が営業しており、間もなくサティはキャバレーの常連となる。

シャ・ノワールキャバレー「ル・シャ・ノワール」のポスター(1896年)

そんなある日、サティはラトゥールとともにル・シャ・ノワール支配人のロドルフ・サリに紹介される。有力な興行主の印象に残るようにと、無名の音楽青年は自らを次のように紹介した。「エリック・サティ、職業はジムノペディストです」。一年後の1888年春、サティは美しい3つのピアノ小品を作曲する。現在まで彼の代表作として知られる「ジムノペディ」である。

抑圧的な教育環境から解放されたサティは、モンマルトルのボヘミアンな生活を満喫した。作家ジュール・レヴィの創始した「支離滅裂」を意味する芸術運動「アンコエラン派」と関係し、作家アルフォンス・アレーのような新進気鋭の個性的な芸術家たちと交流した。シルクハットに長髪、フロックコートという彼特有のファッションが確立されたのもこの時期である。1890年までサティはル・シャ・ノワールでアンリ・リヴィエールによる影絵芝居のオーケストラを指揮した。

1891年、ロドルフ・サリと仲違いしたサティはル・シャ・ノワールを離れ、同じ界隈にある「オーベルジュ・デュ・クルー」という店でピアニストとして働き始めた。ここでサティはクロード・ドビュッシーと知り合いになる。ドビュッシーは少し変わったこの友人を「今世紀に迷い込んだ中世の優しい音楽家」と評した。以後二人は四半世紀にわたって親交を続けることになる。

1890年、サティはコンドルセ街を離れ、ビュット・モンマルトルのコルト街6番地に転居する。借金取りから逃れるため、というのがその名目だった。ここでサティは1891~1892年にかけて作家のジョゼファン・ペラダンと交友する。ペルシアの王「シャー」を自称するペラダンが主催する神秘主義的な芸術家集団「聖堂聖杯カトリック薔薇十字騎士団」において、サティは公認の作曲家となる。サティが初めて自作曲を披露する機会を得たのも、ペラダンによる「薔薇十字サロン」においてであった。

こうした「薔薇十字騎士団」との交流を通じて、サティは神秘主義やゴシック芸術への関心を強めてゆく。ペラダンによる『星たちの息子』では前奏曲を担当した。

しかしながら1892年8月、サティはペラダンと喧嘩別れしてしまう。1893年から1895年にかけて、サティは「指揮者イエスの芸術首都教会」(Église Métropolitaine d’Art de Jésus Conducteur) なる結社の創設者となる。「修道院付属聖堂」と称したコルト街のアパルトマンにて、サティはライバルの音楽家たちを酷評する文書を発行するなどの活動を行った。ただし、この結社の構成員はサティただ一人であった。

当時サティは芸術アカデミー会員に選出されるために3度立候補しているが、いずれも失敗に終わっている。私生活では1893年、モンマルトルの隣人であった画家のシュザンヌ・ヴァラドンと一時恋愛関係にあった。服装も「ベルベットの紳士」と称するスタイルに変更し、1895年に遺産の一部を使って7着の焦茶色の背広を新調した。ヴァラドンとの6ヶ月間の短く激しい関係が破局に終わった後、サティが女性と関係を持つことは二度となかった。

シュザンヌ・ヴァラドンシュザンヌ・ヴァラドンの肖像写真

この頃作曲した『貧者のミサ』は、サティにとって青年時代の神秘主義的な音楽スタイルを終わらせるものだった。それは彼にとって新しい様式の長い模索の始まりでもあった。

「君の年齢では、もう生まれ変わるのは難しい」

1898年の末、仕事に集中でき、また安く住める環境を求めたサティは、青年時代の住処であったモンマルトルを離れ、パリ南郊に位置するアルクイユに転居した。セーヌの支流であるビエーヴル川に面した労働者街、コシー通22番地にあるサティの自宅は広さ15平米、電気も水道も通っておらず、夏はビエーヴル川から湧く蚊に悩まされた。みすぼらしいその部屋に彼は誰を入れることも許さなかった。

サティはブルジョア風のファッションに身を包んで日々10キロメートルの道をパリ市内まで歩き、カフェを転々としながら作曲に勤しんだ。彼がアルクイユの自宅に帰るのは大抵モンパルナス駅から出る終電か、それよりも遅くなる場合は徒歩であった。サティは雨の日を好んだ。彼はコートの下に傘をしのばせ、また護身用の金槌も携帯していたのだった。

サティは生計を立てるため古巣であるモンマルトルのカフェ・コンセールへ趣き、俳優ヴァンサン・イスパの伴奏者として活動した。また「スロー・ワルツの女王」と呼ばれたシャンソン歌手ポーレット・ダルティのためにいくつかの曲を書き、商業的成功を収めた。今日までサティの代表作の一つとして親しまれている『ジュ・トゥ・ヴ』(あなたが欲しい)も、この時期ダルティのために書かれた曲である。

ジュ・トゥ・ヴ『ジュ・トゥ・ヴ』の楽譜の表紙(1904年)

サティは旧友のコンタミーヌ・ド・ラトゥールや漫画家のジュール・デパキ (Jules Dépaquit) とともにショービジネスの業界で働いた。この時期の小品『夢見る魚』では、当時流行していたミュージック・ホールの粋なスタイルをドビュッシー風の印象派の和声に合わせるという独自の様式を生み出した。

サティはさらなる様式の変革を求めて、1905年10月にスコラ・カントルムへ入学する。この時彼は既に39歳、親友のドビュッシーは「君の年齢ではもう生まれ変わるのは難しい」と言ったが、サティは1908年、アルベール・ルーセルの下で対位法の学位を取得し、また1912年までヴァンサン・ダンディによる作曲のクラスに出席した。

「現代的な感性を用いて古典の簡素さに回帰する」

サティの人生の転機は1911年1月に訪れた。モーリス・ラヴェルによる独立音楽協会のコンサートを聴いたサティは、印象派風の前衛的な和声技法に大きな衝撃を受ける。この時期ドビュッシーが『ジムノペディ』のオーケストラ編曲をパリのサル・ガヴォーで指揮し世間の評判となるが、自分の曲による友人の成功はサティを大いに嫉妬させたという。

1912年、有力な音楽出版業者であるウジェーヌ・デメ (Eugène Demets) がサティの『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』の出版に同意し、さらに追加で新曲の制作を依頼する。これによりサティはキャバレーでの演奏活動を引退し、作曲に専念できるようになった。

1914年、第一次世界大戦の勃発がサティの音楽活動を一時中断させる。しかしながら1916年、『3つの小品』の演奏を聴いた詩人のジャン・コクトーはサティの才能を評価し、バレエ『パラード』の制作チームに彼を招き入れる。台本コクトー、美術パブロ・ピカソ、振付レオニード・マシーンという当代一流の芸術家によるこの作品は、セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスで1917年に初演され、大変なスキャンダルを呼ぶこととなった。

この出来事をきっかけにサティは劇伴音楽のジャンルで活動するようになる。ピカソやディアギレフとの交流も続け、また音楽家集団「フランス6人組」の庇護者ともなった。サティは1916年10月にポリニャック大公夫人の依頼を受けて『ソクラテス』の作曲を開始する。批評家ジャン・プーエー (Jean Poueigh) の起こした名誉毀損訴訟と相まって幾度かの中断をはさみながらも、『ソクラテス』は2年後の1918年に完成された。この曲はプラトン『対話篇』の哲学者ヴィクトール・クザンによる仏訳の抜粋を下敷きにしたもので、「現代的な感性を用いて古典の簡素さに回帰する」という作曲者の言葉が示すとおり、ストラヴィンスキーの前衛音楽に大きな影響を受けたものだった。

1920年、「6人組」の一人であるダリウス・ミヨーと『家具の音楽』と題する曲をギャルリー・バルバザンジュ (Galerie Barbazanges) にて披露した。この曲名は家具のように日常生活の背景に溶け込むようにデザインされた音楽を意味して付けられたものである。この年以降、サティは新聞や雑誌に文章を発表するようになる。1921年には前年に結成されたフランス共産党に加入し、またダダイズムの運動にも関わった。1922年2月にはモンパルナスのカフェ「クロズリー・デ・リラ」において、アンドレ・ブルトンを弾劾する公開集会を主催している。

クロズリー・デ・リラクロズリー・デ・リラ(1909年)

1923年、アンリ・クリケ=プレイエル、ロジェ・デゾルミエール、マクシム・ジャコブ、アンリ・ソーゲの4人の青年音楽家はサティの庇護を受け、彼の自宅にちなんで「アルクイユ楽派」を称し活動を行った。1924年にはピカソとマシーンのバレエ『メルキュール』やピカビアとボルランの『本日休演』などを作曲する。特に後者はルネ・クレールの短編映画『幕間』に使用され、サティ初の映画使用曲となった。ちなみにこの映画にはサティも出演している。

1925年2月、サティは過度の飲酒がたたって肝硬変および胸膜炎を発症し、入院を余儀なくされる。死期を悟ってもなお彼は自己を貫き、喧嘩別れしたかつての友人たちと会うことを最期まで拒んだ。遺品整理のため弟のコンラッド、ミヨー、デゾルミエールそしてロベール・カビーがアルクイユの部屋を訪ねた際、彼らは荷台2つ分のがらくたを運び出さねばならなかったという。サティの遺した手稿文書のうち、手紙の多くはコンラッドの家が火事にあった際に焼失してしまった。草稿と楽譜はミヨーによって保管された。

作品一覧 | Works

ピアノ曲

  • 1884 アレグロ Allegro
  • 1885 ワルツ=バレエ Valse-ballet
  • 1885 幻想ワルツ Fantaisie-valse
  • 1887 3つのサラバンド Trois Sarabandes
  • 1888 4つのオジーヴ Quatre Ogives
  • 1888 3つのジムノペディ Trois Gymnopédies
  • 1889 グノシエンヌ第5番 Gnossienne, No. 5
  • 1889 Chanson Hongroise
  • 1890 3つのグノシエンヌ Trois Gnossiennes
  • 1891 薔薇十字団の最初の思想 Première Pensée Rose+Croix
  • 1891 グノシエンヌ第4番 Gnossienne, No. 4
  • 1891 「至高存在」のライトモティーフ Leit-motiv de ‘Panthée’
  • 1891 「ビザンツの王子」前奏曲 Prélude du ‘Prince du Byzance’
  • 1891 「星たちの息子」前奏曲 Le Fils des étoiles
  • 1891 薔薇十字団の鐘の音 Trois Sonneries de la Rose+Croix
  • 1892 Fête donnée par des chevaliers normands en l’honneur d’une jeune demoiselle
  • 1892 ナザレ人の前奏曲 Prélude du Nazaréen
  • 1892 クリスマス Noël
  • 1893 エジナールの前奏曲 Eginhard Prélude
  • 1893 ゴチック舞曲 Danses Gothiques
  • 1893 ヴェクサシオン Vexations
  • 1893 祈り Prière
  • 1893 モデレ Modéré
  • 1894 天国の英雄的な門への前奏曲 Prélude de la porte héroïque du ciel
  • 1895 詩篇 Psaumes
  • 1897 グノシエンヌ第6番 Gnossienne, No. 6
  • 1897 舞踏への小序曲 Petite Ouverture à danser
  • 1897 愛撫 Caresse
  • 1897 冷たい小品 Pièces froides
  • 1899 びっくり箱 Jack-in-the-box
  • 1899 アリーヌ=ポルカ Aline-Polka
  • 1900 蝿氏の死への前奏曲 Prélude de La mort de Monsieur Mouche
  • 1900 世俗的で豪華な唱句 Verset laïque & somptueux
  • 1901 夢見る魚 The Dreamy Fish
  • 1901 金の粉 Poudre d’or
  • 1902 野蛮な歌 Chanson barbare
  • 1903 Trois Morceaux en forme de Poire
  • 1905 カリフォルニアの伝説 Légende Californienne
  • 1905 Exercices
  • 1905 Gambades
  • 1906 Padacale
  • 1906 フーガ=ワルツ Fugue-Valse
  • 1906 パッサカリア Passacaille
  • 1906 壁掛けとしての前奏曲 Prélude en tapisserie
  • 1907 新・冷たい小品集 Nouvelles ‘Piéces froides’
  • 1908 悪い手本 Fâcheux exemple
  • 1908 快い絶望 Désespoir agréable
  • 1909 小ソナタ Petite Sonate
  • 1909 2つの物 Deux Choses
  • 1909 Profondeur
  • 1909 Douze petits Chorals
  • 1909 バスクのメヌエット Menuet basque
  • 1909 不思議なコント作家 Le Conteur magique
  • 1909 Songe-creux
  • 1909 無口な囚人 Le Prisonnier maussade
  • 1909 大猿 Le Grand Singe
  • 1909 ピエロの夕食 Le Dîner de Pierrot
  • 1911 馬の装具で En Habit de cheval
  • 1912 Apercus désagréables
  • 1912 犬のための2つの前奏曲 Deux Préludes pour un chien
  • 1912 犬のためのぶよぶよとした前奏曲 Préludes flasques pour un chien
  • 1912 犬のためのぶよぶよとした本当の前奏曲 Véritables préludes flasques pour un chien
  • 1913 自動記述法 Descriptions automatiques
  • 1913 Croquis et agaceries d’un gros bonhomme en bois
  • 1913 Embryons desséchés
  • 1913 San Bernardo
  • 1913 Chapitres tournés en tous sens
  • 1913 Vieux sequins et vielles cuirasses
  • 1913 Trois Nouvelles Enfantines
  • 1913 Menus propos enfantins
  • 1913 Enfantillages pittoresques
  • 1913 Peccadilles importunes
  • 1913 Les Pantins dansent
  • 1914 Air
  • 1914 スポーツと気晴らし Sports et divertissements
  • 1914 世紀ごとの時間と瞬間の時間 Heures séculaires et instantanées
  • 1914 Obstacles venimeux
  • 1914 いやらしい気取り屋の3つの高雅なワルツ Les Trois Valses Distinguées du Précieux Dégoûté
  • 1915 皿の上の夢 Rêverie sur un plat
  • 1915 最後から2番目の思想 Avant-dernières pensées
  • 1916 L’Aurore aux doigts de rose
  • 1917 官僚的なソナチネ Sonatine bureaucratique
  • 1919 5つの夜想曲 Cinq Nocturnes
  • 1919 Petite Danse
  • 1919 Trois Petites Pièces montées
  • 1920 6e Nocturne
  • 1920 Musique d’ameublement
  • 1920 最初のメヌエット Premier Menuet
  • 1920 風変わりな美女 La Belle Excentrique
  • 1921 Motifs lumineux

管弦楽曲

  • 1886 Deux Quatuors
  • 1890 舞曲 Danse
  • 1893 ロクサーヌ Roxane
  • 1902 アンゴラの牛 The Angora Ox
  • 1906 愛の芽生え Pousse l’amour
  • 1915 La Mer est pleine d’eau: c’est à n’y rien comprendre
  • 1915 Cinq grimaces pour Le songe d’une nuit d’été
  • 1916 Fables de la Fontaine
  • 1917 Musique d’ameublement
  • 1919 Marche de Cocagne
  • 1921 Sonnerie pour reveiller le bon gros Roi des Singes
  • 1921 Alice au Pays de Merveilles
  • 1921 La Naissance de Vênus
  • 1921 Supercinéma
  • 1923 Suite d’Archi danses
  • 1923 Couleurs
  • 1923 Tenture de Cabinet préfectoral
  • 1924 Concurrence
  • 1924 Quadrille
  • 1924 Deux petites Choses
  • 1924 Mercure
  • 1924 Relâche
  • 1924 Cinema : entr’acte symphonique de Relache

室内楽曲

  • 1891 Salut Drapeau !
  • 1893 Bonjour Biqui, Bonjour!
  • 1899 Un Dîner à l’Elysée
  • 1899 Le Veuf
  • 1914 右と左に見えるもの Choses vues à droite et à gauche
  • 1917 シテール島への船出 Embarquement pour Cythère
  • 1923 再発見された像の娯楽 Divertissement La Statue retrouvée

歌曲

  • 1887 エレジー Elégie
  • 1887 3つの歌 Trois Mélodies
  • 1887 シャンソン Chanson
  • 1897 ジュ・トゥ・ヴ Je te veux
  • 1902 やさしく Tendrement
  • 1903 Le Picador est mort
  • 1903 Sorcière
  • 1903 Enfant martyre
  • 1903 Air fantôme
  • 1904 La Diva de l’Empire
  • 1904 Le Picadilly Marche
  • 1905 L’Omnibus automobile
  • 1905 お医者さんのところで Chez le docteur
  • 1905 オックスフォード帝国 Impérial-Oxford
  • 1905 いいとも、ショショット Allons-y Chochotte
  • 1906 中世の歌 Chanson médiévale
  • 1907 ランブイエ Rambouillet
  • 1907 Les Oiseaux
  • 1907 Marienbad
  • 1907 Psitt! Psitt!
  • 1909 シャツ La Chemise
  • 1909 Choeur d’adolescents
  • 1909 Dieu Credo rouge
  • 1914 3つの恋愛詩 Trois Poèmes d’amour
  • 1916 Trois Mélodies
  • 1917 戦いの前日 La Veille du combat
  • 1918 Socrate
  • 1920 Quatre Petites Mélodies
  • 1921 Le Roi de la Grande Ile
  • 1923 ポールとヴィルジニー Paul & Virginie
  • 1923 Ludions
  • 1923 Scènes Nouvelles pour Le médecin malgré lui

舞台作品

  • 1892 ユスピュ Uspud
  • 1899 ブラバン夫人のジュヌヴィエーヴ Geneviève de Brabant
  • 1913 メデューサの罠 Le Piège de Méduse
  • 1917 パラード Parade

宗教音楽

  • 1894 信仰のミサ Messe de la foi
  • 1895 貧者のミサ Messe des pauvres

参考文献 | Bibliography

  1. Satie, Erik | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.40105]
  2. Erik Satie (1866-1925) [https://www.musicologie.org/Biographies/satie.html]
  3. Jerrold Seigel, Bohemian Paris : Culture, politics, and the boundaries of bourgeois life, 1830-1930, Baltimore ; London : Johns Hopkins University Press, 1999.
  4. エリック・サティ —— “沈黙”の作曲家(ル・モンド・ディプロマティーク日本語)[http://www.diplo.jp/articles16/1608-6lecompositeur.html]

Notes   [ + ]

1. cité par : Erik Satie, Correspondance presque complète, réunie et présentée, Paris : Fayard, 2000.
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