若き日(オネゲル)

基本情報 | Data

歌詞 | Lyrics

Nous sommes la jeunesse ardente
Qui vient escalader le ciel.
Dans un cortège fraternel
Unissons nos mains frémissantes,
Sachons protéger notre pain.
Nous bâtirons un lendemain
Qui chante

我ら燃ゆる青年 空を乗り越え来た
友愛の列の中 奮う手を取り合い
我らのパンを守ろう
我らは謳う明日を築く

Refrain :
En avant ! jeunesse de France.
Faisons se lever le jour,
La victoire avec nous s’avance,
Fils et filles de l’espérance
Nous ferons se lever le jour
A nous la joie à nous l’amour.

リフレイン:
進めフランスの青年 夜明けをもたらそう
勝利は我らとともに前進する
希望の青少年たる我ら 夜明けをもたらす
我らに喜びと愛を

Comme un torrent qui se déploie
Courons, dansons, rions, luttons,
Avec tous ceux que nous gagnons
Brisons la chaîne qui nous broie.
Vivent la paix, la liberté !
Notre printemps veut un été
De joie

流れ出る急流のように 走り、踊り、笑い、闘おう
我ら勝ち得しものとともに 我らを打ちひしぐ鎖を断とう
平和万歳 自由万歳
我らが春は喜びの夏を待ち望む

Refrain

Un ciel rayonnant nous convie
A la conquête du bonheur.
Avec nos vingt ans d’un seul cœur
Le monde entier se lève et crie :
Place, place au travail vainqueur.
Chantons amis, chantons en chœur
La vie !

広い空は我らを 幸福の獲得へと導く
一心の我ら二十歳とともに 世界中が立ち上がり叫ぶ
労働に勝利をもたらそう
友よ人生を歌おう、声を合わせて人生を歌おう

Refrain

Allons les filles, plus de larmes
Nous construirons notre foyer !
Pour la lutte il faut vous lier
A de braves compagnons d’armes.
Par nos efforts les temps nouveaux
Nous donnerons sur les berceaux
Leurs charmes !

少女たちよ、もはや涙はいらない 我らは自らの家庭を持つ
闘争のためには勇敢な戦友と 友情を結ばねばならない
我らが努力により新時代が
ゆりかごの上でその魅力を我らに与える

Refrain

Nous, les fils de quatre-vingt-treize
De la Commune aux noirs charniers,
Et des héros de Février
Pour que la haine enfin s’apaise
Sur nos chants et sur nos cités
Nous vous apportons l’unité
Française.

我ら93年の コミューンの黒い墓場の
二月の英雄の息子 1)「93年」とはフランス革命中の1793年のジャコバン主義者、「コミューンの黒い墓場」とはパリ・コミューンで政府により鎮圧された反乱者、「二月の英雄」とは1848年の二月革命で共和政府に対し蜂起した労働者を指す。ここでは人民戦線がこうしたフランスにおける革命運動の継承者であることが歌われている。
最後に憎しみが 我らの歌声と共同体の中で和らぐように
我らはフランスに統合をもたらそう

解説 | Synopsis

1936年、フランスでは左翼政党の大同団結運動「人民戦線」が成立する。これに際してオネゲルは、ポール・ヴァイヤン=クチュリエ (Paul Vaillant-Couturier) の作詞した労働歌「青年」の作曲を担当する。なおフランス社会主義運動においてしばしば登場する常套句「謳う明日」(Lendemain qui chante) の初出はこの曲である。

Notes   [ + ]

1. 「93年」とはフランス革命中の1793年のジャコバン主義者、「コミューンの黒い墓場」とはパリ・コミューンで政府により鎮圧された反乱者、「二月の英雄」とは1848年の二月革命で共和政府に対し蜂起した労働者を指す。ここでは人民戦線がこうしたフランスにおける革命運動の継承者であることが歌われている。

エルヴェ・ニケ

エルヴェ・ニケ

生 : 1957年10月28日(フランス共和国、アブヴィル)

エルヴェ・ニケ (Hervé Niquet) はフランスの指揮者。古楽器によるバロック音楽の歴史的考証で名を知られ、とりわけオーケストラ「ル・コンセール・スピリチュエル」との協同によるヘンデルの演奏が高く評価されている。

生涯 | Biography

1980年パリ・オペラ座の合唱指揮者に任命され、ルドルフ・ヌレエフやセルジュ・リファールらとともに仕事をする。1985年から1986年にかけてレザール・フロリサンの楽団員としてテノールを担当したが、1987年に古楽器アンサンブル「ル・コンセール・スピリチュエル」を創設、旧体制期にヴェルサイユをはじめとする宮廷で演奏されたレパートリーの再演を趣旨とした。ヴェルサイユ・バロック音楽センター (Centre de Musique Baroque de Versailles) と共同で、ジャン・ジルやジョゼフ・ボダン・ド・ボワモルティエ、マルク=アントワーヌ・シャルパンティエ、アンドレ・カンプラといったフランス・バロック音楽における隠れた巨匠の再評価に貢献した。

ベルリン古楽アカデミー、シンフォニア・ヴァルソヴィア、ロシア国立室内合唱団、フランス放送フィルハーモニー管弦楽団といったヨーロッパの名だたるオーケストラより名誉指揮者の称号を授与される。2011年にベルギー放送局合唱団 (Chœur de la Radio flamande) 音楽監督に就任、またブリュッセル・フィルハーモニックの客員指揮者に任命された。ヴェネツィアにパラゼット・ブル・ザーネ(フランス・ロマン派音楽センター)創設に協力。

演奏レパートリーの中でもヘンデルの『王宮の花火の音楽』および『水上の音楽』はとりわけ高く評価されており、2004年にエジソン・アワードを受賞している。

演奏 | Discography

参考文献 | Bibliography

  1. Hervé Niquet | Concert Spirituel [http://www.concertspirituel.com/fr/articles/62/herve-niquet]
  2. Hervé Niquet : portrait et biographie sur France Musique [https://www.francemusique.fr/personne/herve-niquet]

ジョルジュ・ビゼー

ジョルジュ・ビゼー

生 : 1838年10月25日(フランス王国、パリ)/没 : 1875年6月3日(フランス共和国、ブージヴァル)

ジョルジュ・ビゼー (Georges Bizet) はフランスの作曲家。とりわけオペラなど劇音楽の分野で名を知られ、代表作に『カルメン』『アルルの女』などがある。

生涯 | Biography

早熟の秀才

ジョルジュ・ビゼーは1838年10月25日、音楽家の両親の下で生まれた。父アドルフ=アルマン・ビゼー (1810-1886) はルアンの手工業者の家柄だったが、パリに出て美容師・ウィッグ職人として生計を立てていたが、1837年の結婚後、声楽教師として音楽家としてのキャリアを開始、その後アマチュアの歌手・作曲家として活動した。

一方、母エメ・デルサルト (1815-1861) はカンブレーで音楽家の家系に生まれた。フランソワ・デルサルトの妹であった彼女は息子に幼少期から楽譜の読み方やピアノ演奏を教え、少年ビゼーの音楽家としてのキャリアに決定的な影響を及ぼした。

両親の一人息子であったビゼーは幼少期から音楽に囲まれて育ち、1848年10月9日、10歳の誕生日を迎える前にパリ音楽院(コンセルヴァトワール)へ入学。9年間に渡って在学した。当初アントワーヌ=フランソワ・マルモンテルよりピアノを、フランソワ・ブノワよりオルガンを習い、両分野の演奏で受賞した。ピエール・ジメルマンやフロマンタル・アレヴィに師事して作曲を学ぶ。リハーサルにおけるピアニストや楽譜の編曲者として活動することで、パリの劇場に親しむようになった。

コンセルヴァトワールにおける修業時代のビゼーにとって重要だったのはシャルル・グノーの影響である。おそらくはジメルマンを介してグノーと対面したビゼーは『サッフォー』や『ユリシーズ』といったグノーの作品に親しみ、両者の交流はその後も長きにわたって継続した。

ビゼーは1850年代半ばからグノーの影響下でピアノ小品の作曲を始めるようになり、同時に生活手段として編曲を盛んに行った。また一幕のオペラ・コミック作品『医者の家』を発表した。

この時期の作品はグノーやアレヴィの影響を受けつつも、2作目のオペラ『ミラクル博士』ではビゼー独自の変化に富んだ軽妙な作風が表れていた。この作品はレオン・バットゥ (Léon Battu) とリュドヴィク・アレヴィが台本を担当し、ジャック・オッフェンバックが経営するブッフ・パリジャン座のコンテストに応募するために制作された。このときの審査員にはかつてビゼーが傾倒したグノーや、リュドヴィク・アレヴィの叔父であるフロマンタル・アレヴィが名を連ねていた。結果、78の応募者の中から一等賞に選ばれたのはビゼーとシャルル・ルコックだった。二人のオペレッタは1857年4月に上演された。

イタリアにおける遊学

ビゼーは『ミラクル博士』を制作した直後、若手芸術家の登竜門とされたローマ大賞を1857年に受賞。同年12月より3年間にわたってイタリアに滞在し、ローマのヴィラ・メディチに拠点を置きつつ、建築や絵画などの芸術に触れた。社交を好んだビゼーは、作家のエドモン・アブーや音楽家のエルネスト・ギローらヴィラ・メディチに滞在中のフランス人たちと交友関係を持った。またしばしば地方都市へ旅行に訪れ、パリ育ちのビゼーが初めて海を見たのもこのイタリア滞在中の事だった。

ヴィラ・メディチヴィラ・メディチのファサード

こうしたイタリアの自由な気風の中、ビゼーは当時流行していたロッシーニなどのオペラを中心に現地の音楽を摂取した。特に1858年2月に母親へ送った手紙からは、ガエターノ・ドニゼッティによるオペラ『パリジーナ』の台本に関心を示していたことが読み取れる。

ビゼーはジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『仮面舞踏会』を1859年にローマで観たが、この若き秀才の眼には粗雑で洗練されていないと写った。むしろビゼーの好みに合ったのはロッシーニやモーツァルト、メンデルスゾーンである。こうしたイタリア音楽の影響の中、ローマ大賞受賞者の義務である年に一度の作品提出に向けて作曲を開始した。

ビゼーが1858年春に最初に作曲したのは『テ・デウム』である。この作品によりビゼーはローマ賞受賞者のみに開かれたロドリーグ賞へエントリーしたが、教会音楽の経験不足を理由として、惜しくも受賞を逃した。『テ・デウム』はその後1971年まで出版されなかった。続いてドニゼッティの軽妙なスタイルを模範としつつ、イタリア風のオペラ・ブッファ『ドン・プロコピオ』を作曲した。リブレットを担当したのはイタリアの台本作家カルロ・カンビアッジョ (Carlo Cambiaggio) だった。

ビゼーは続いて本格的なオペラの制作に着手する。『ドン・プロコピオ』の制作中よりドイツ風のスタイルへ移行し、それは文豪ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』を下敷きにルイ・ベルタンが1836年に制作した台本『エスメラルダ』に表れている。

他にもビゼーはフェリシアン・ダヴィドの『砂漠』に着想を得、ローマ在住のフランス人作家ルイ・ドラートル (Louis Delâtre) に交響的頌歌の詞を依頼している。またこの時期ヴォルテールや『ドン・キホーテ』、『ハムレット』や『マクベス』といった題材に興味を示したが、台本作家の欠如などの理由のためアイデアの多くは放棄された。

さらにビゼーは自ら台本制作に取り組み、モリエールの喜劇『愛の画家』を翻案する。しかしながら『ドン・プロコピオ』がアカデミーにおいて不評であったことに傷心し台本制作を止めてしまう。ビゼーはイタリアを題材にした交響曲も構想していたが、結局完成を見たのは着想から8年後の事だった。

パリ・オペラ界における活動

ローマ賞受賞者としての留学期間が終わりに近づいた1860年7月、ビゼーは友人のエルネスト・ギローとともに北イタリア周遊の旅行に出かけた。9月5日、ヴェネツィア滞在中に母親が深刻な病に冒されていることを知る。その後ギローはローマへ戻ったが、ビゼーはイタリアでの遊学を切り上げパリに帰還した。

パリにおいてビゼーは生計を立てるため、オペラの作曲、パトロンへの取りなし、シュダン (Éditions Choudens) をはじめとする出版社の求めに応じての作曲、コンサートにおける指揮、リハーサルピアニスト、伴奏者、あるいは他の音楽家による作品の編曲などといった多種多様な活動に従事した。以後の人生においてビゼーがパリを離れることは稀であった。

1861年3月、ビゼーはワグナーによる『タンホイザー』のパリ初演に赴き、聴衆による激しいブーイングを目の当たりにする。二月後、フランツ・リストと対面し、リストの前でピアノを演奏する機会を得た。「伝説的なオーラを纏う」(Ch. ピゴ)とも評されるビゼーの技術はリストを驚嘆させ、自身やハンス・フォン・ビューローに並び立つ才能を持つと評価された。

1861年9月に母親が45歳の若さで逝去、続く1862年3月には敬愛する師のフロマンタル・アレヴィが他界し、ビゼーを大いに傷心させた。

1861年度、ビゼーはアカデミーに制作中の交響曲から2楽章と、『オシアンの狩り』序曲を提出する。このうち前者は10月12日にアカデミーで披露され、中でも「スケルツォ」は一定の評価を得た。このスケルツォは1862~1863年の冬にかけて3度演奏された。一度目の演奏はアドルフ・ドゥロフル (Adolphe Deloffre) の指揮で社交クラブ「芸術家同盟」(Cercle de l’Union Artistique) において、二度目はジュール・パドルーの指揮するコンセール・ポピュレールにて、そして三度目は作曲者自身の指揮により国民美術協会において行われた。なおこの「スケルツォ」は後に交響組曲『ローマ』に収録されている。

続く数年は多作な時期だった。ローマからの帰国直後、ビゼーはリュドヴィク・アレヴィに台本を依頼し、アカデミーに提出するための一幕のオペラを制作する。しかしこれは途中で放棄され、代わりにビゼーは交響的頌歌『ヴァスコ・ダ・ガマ』およびバルビエとカレの台本によるオペラ・コミック『太守の一弦琴』をアカデミーに提出した。『ヴァスコ・ダ・ガマ』は1863年2月8日、作曲者自身の指揮により国民美術協会において演奏されている。

続いて制作された『真珠採り』はビゼーにさらなる成功をもたらした。1863年夏に完成したこの作品は同年秋に18回に渡って上演された。この作品は聴衆や批評家からはあまり好意的に受け入れられず、傷心したビゼーは生涯に渡って『真珠採り』をレパートリーから外すこととなった。しかしながらベルリオーズは日刊紙『ジュルナル・デ・デバ』に寄せた批評記事において作曲家の才能を高く評価し、その将来に期待を寄せる。他方でビゼーもベルリオーズの『トロイアの人々』に大いに衝撃を受けたという。

『真珠採り』によりビゼーの作曲能力は認められ、テアトル・リリックの計らいによって学生であったビゼーは作曲家として自活できるようになった。テアトル・リリック支配人のレオン・カルヴァロはビゼーを重宝し、さらなる作曲を依頼した。グノーの台本による『イヴァン4世』である。『イヴァン4世』の制作は1862年に開始されたが、カルヴァロの判断により上演は度々延期され、ビゼーの生前に演奏されることはついになかった。

レオン・カルヴァロ劇場支配人レオン・カルヴァロ

このころ父アドルフ=アルマンはパリ近郊のル・ヴェジネに別荘を建て、以後ビゼーも夏の間を別荘で過ごすことを好むようになった。他方、パリで過ごす冬の期間は伴奏や編曲といった仕事に忙殺された。この時期のビゼーによる編曲にはバッハの『アヴェ・マリア』やヘンデルの『調子の良い鍛冶屋』などがあり、それらを収録したアンソロジーがユゲル社から出版されている1)Georges Bizet, Le pianiste chanteur : célèbres oeuvres des maîtres italiens, allemands et français, Paris : Heugel, 1865.。またこの時期ビゼーはエドモン・ガラベール (Edmond Galabert) やポール・ラコンブ (Paul Lacombe) といった作曲の弟子を取った。

1866年、ビゼーは再度カルヴァロと契約し、ジュール=アンリ・ヴェルノワ・ド・サン=ジョルジュとジュール・アドニスの台本によるオペラの作曲に着手した。現在までビゼーの代表作の一つとして知られる『美しきパースの娘』である。ウォルター・スコットの小説に基づくこの作品は短期間で完成され、1867年12月にカルヴェロの経営するテアトル・リリックで初演された。同年夏に行われたパリ万国博覧会の会期には間に合わなかったものの、『美しきパースの娘』は聴衆から好意的に受け入れられ、テアトル・リリックにおいて18回に渡って上演された。

なお、1867年パリ万博はフランス帝国の一大事業であり、聖歌とカンタータのコンクールが実施された。ビゼーもこれに参加し、応募総数823のうち15位に選ばれたものの、ビゼーの応募した曲が演奏されることはなかった2)このとき優勝したのはサン=サーンスのカンタータであるが、これも演奏されていない。

1866年以降、ビゼーは多作な時期を迎える。1860年より構想していた2番目の交響曲を完成させ、交響的幻想曲『ローマの思い出』として1869年2月、シルク・ナポレオン座においてジュール・パドルーの指揮で演奏された。またアテネ劇場 (Théâtre de l’Athénée) のオープンに際して上演された合作オペラ『マールボロは戦場に行った』において第一幕を担当した。

1867年10月、ビゼーはコンセルヴァトワール時代の師匠フロマンタル・アレヴィの娘ジュヌヴィエーヴと婚約する。しかしながらジュヌヴィエーヴの母方の親戚であるユダヤ系の銀行家たちは売れない作曲家との結婚に反対し、婚約は一度は破談となる。結局二人は1869年6月に挙式、カトリックを信仰しないビゼーの意向により民事婚の形式を取った。二人はしばらくの間幸福な結婚生活を送ったものの、ビゼーのスランプや性格の不一致などを理由に、順調な関係は長くは続かなかった。なお1872年に息子のジャックが誕生している。

ビゼーはジュヌヴィエーヴと結婚した直後、義父となったはずの故フロマンタル・アレヴィに献呈するため、アレヴィが未完のまま残したオペラ『ノエ』の制作に従事した。『ノエ』はカルヴァロに代わって新しい支配人となったジュール・パドルーの下、テアトル・リリックで上演される手はずとなっていたが、1870年に勃発した普仏戦争の煽りを受けて劇場が財政的問題に直面したため、結局『ノエ』の初演はビゼーの死後10年経ってからカールスルーエで行われた。『ノエ』の完成後もビゼーは古代フランスの英雄ウェルキンゲトリクスの生涯やフレデリック・ミストラルの『カランダル』などに取材したオペラに着手したが、いずれも未完成に終わった。

ビゼーは普仏戦争に際して、ジュール・マスネカミーユ・サン=サーンスといった他の音楽家と同様に国民衛兵へ志願、また続くフランス第三共和政の成立を熱狂をもって迎えた。1871年1月26日の講和成立によりパリの包囲が解除されると、ビゼーは夫婦でアレヴィ夫人を訪ねにボルドーへ赴いた。ところがこの滞在中に母と娘の仲違いが生じ、二人はパリへ帰還。続いてドイツとの講和を望まない市民の手でパリ・コミューンが宣言されたため、難を逃れるためコンピエーニュへ、続いてル・ヴェジネへと退避した。

1871年6月になりパリに平穏が戻ると、アンブロワーズ・トマがコンセルヴァトワールの院長に就任し、サン=サーンスが国民音楽協会を創設、フランス音楽界に新たな風が吹き始めた。同年、ビゼーはオペラ=コミック座の依頼を受け、ルオペラ『ジャミレー(デジャミール)』や、ピアノ連弾曲『子供の遊び』を始めとする作品を手掛けた。『ジャミレー』は高名な作家アルフレッド・ド・ミュッセのトルコを舞台とした詩『ナムーナ』に取材した一幕のオペラで、リブレットを担当したのはルイ・ガレーだった。『ジャミレー』は1872年に上演されたが、成功を収めることはできなかった。

晩年と二つの大作

この時期、ビゼーは生涯最後となる二つの大作に取り掛かった。『アルルの女』と『カルメン』である。今日までビゼーの代表作として知られる二作のうち、『アルルの女』を依頼したのはまたもカルヴァロだった。今やテアトル・デュ・ヴォードヴィルの支配人となっていたカルヴァロは作家アルフォンス・ドーデの戯曲に基づく作品を企画、ビゼーはこれに応え、南仏を舞台としたこのオペラ・コミックを1872年の夏に完成させた。

『アルルの女』は1872年10月1日に初演となった。しかしこれは聴衆から受け入れられず、ビゼーと原作者のドーデは落胆した。エルンスト・レイエ (Ernest Reyer) やジュール・マスネといった一部の音楽家はビゼーの音楽性を評価したものの、多くの音楽評論誌の反応は冷淡なものだった。そこでビゼーはただちに『アルルの女』の一部をオーケストラ用の組曲に編曲し、これは11月にジュール・パドルーの指揮で披露された。この演奏はすぐに高い評価を得、『アルルの女』の名声を不動のものとした。

この成功を受けて、ビゼーは次なる作品に着手した。プロスペル・メリメによる1845年の小説に取材したオペラ『カルメン』である。『カルメン』の制作はビゼー自身の発案によるものだったが、登場人物のセンセーショナルな性格と結末における暴力描写を理由として、オペラ=コミック座の共同支配人であったアドルフ・ド・ルーヴェン (Adolphe de Leuven) とカミーユ・デュ・ロックル (Camille du Locle) の意見は割れた。結局、この作品がルーヴェンの在任中に上演されることはなかった。

この時期、ビゼーの結婚生活は危機を迎えていた。気分屋のビゼーに対して妻のジュヌヴィエーヴは継続的な愛情を求めたのだった。二人は少なくとも2か月の間別居状態となるが、1874年の夏にはブージヴァルの別荘を旅行に訪れる。ところがここでジュヌヴィエーヴは隣人であったピアニストのエライン・ミリアム・ドラボルドの誘いを受ける。後にアレヴィ家が書簡類を破棄してしまったため、この顛末の詳細については現在ではよく分かっていない。

さて、上演が保留されていたオペラ『カルメン』だが、1874年の夏にブージヴァルにてオーケストラ版の公演が実現した。同年9月にはリハーサルが開始され、ここで使用するために作曲者自身の手でピアノ演奏用の譜面も作成された。ところが舞台上で喫煙や乱闘を行うというリブレットに対し女優たちは難色を示し、結局ビゼーと個人的に親しかったセレスティーヌ・ガリ=マリエが主演女優を務めることとなった。

セレスティーヌ・ガリ=マリエ (1866年)セレスティーヌ・ガリ=マリエ (1866年)

『カルメン』のリハーサルは幾度にも渡って行われ、結局初演が実現したのは1875年3月3日、指揮者はアドルフ・ドゥロフル (Adolphe Deloffre) だった。ところがこの初演の評判は芳しくなく、聴衆や批評家は反感をもって迎えた。

『カルメン』封切りの直後、ビゼーは持病であった扁桃腺炎の症状に悩まされるようになった。作品の不成功も相まってビゼーは生気を失い、続いてリウマチや耳鼻咽喉の痛みを訴えるようになる。1875年5月末、ビゼーは家族を連れてブージヴァルへ移住。そこでビゼーはセーヌ川における水浴後に心臓疾患に陥り、翌6月3日に36歳の若さで生涯を終えた。葬儀は6月5日にパリのラ・トリニテ教会で行われ、その亡骸はペール=ラシェーズ墓地に埋葬された。『カルメン』の評価は作曲者の没後に高まり、1875年および続く3年の間に45回の公演が行われた。ビゼーの作品は、散逸したものも含めて20世紀英国の音楽学者ウィントン・ディーンにより編集されている。

作品一覧 | Works

オペラおよびオペレッタ

  • WD1 医者の家 La maison du docteur 1855
  • WD2 ミラクル博士 Le docteur Miracle 1856
  • WD3 パリジーナ Parisina 1858
  • WD4 無題 (sans titre) 1858
  • WD5 ドン・プロコピオ Don Procopio 1858-1859
  • WD6 エスメラルダ Esmeralda 1859
  • WD7 ニュルンベルクの樽職人 Le Tonnelier de Nuremberg 1859
  • WD8 ドン・キホーテ Don Quichotte 1859
  • WD9 愛の画家 L’Amour peintre 1860
  • WD10 巫女 La prêtresse 1854
  • WD11 太守の一弦琴 La guzla de l’émir 1862
  • WD12 イヴァン4世 Ivan IV 1862-1865
  • WD13 真珠採り Les pêcheurs de perles 1862-1863
  • WD14 ニコラ・フラメル Nicolas Flamel 1865
  • WD15 美しきパースの娘 La jolie fille de Perth 1866
  • WD16 マールボロは戦場に行った Marlbrough s’en va-t-en guerre 1867
  • WD17 無題 (sans titre) 1858
  • WD18 トゥーレの王の杯 La coupe du roi de Thulé 1868-1869
  • WD19 テンプル騎士団 Les Templier 1868
  • WD20 ノエ Noé 1868-1869
  • WD21 ウェルキンゲトリクス Vercingétorix 1869
  • WD22 削除
  • WD23 Calendal 1870
  • WD24 ラマ Rama 1870
  • WD25 クリラッサ・ハーロー Clarisse Harlowe 1870-1871
  • WD26 グリゼリディス Grisélidis 1870-1871
  • WD27 ジャミレー Djamileh 1871
  • WD28 アルルの女 L’Arlésienne 1872
  • WD29 ソル=シ=レ=ピフ=パン Sol-si-ré-pif-pan 1872
  • WD30 ドン・ロドリーグ Don Rodrigue 1873
  • WD31 カルメン Carmen 1873-1874

管弦楽曲

  • WD32 序曲 イ長調 Overture in A 1855
  • WD33 交響曲ハ長調 Symphony in C major 1855
  • WD34 交響曲 Symphony 1859
  • WD35 Marche funèbre 1860-1861
  • WD36 オシアンの狩り La Chasse d’Ossian 1861
  • WD37 ローマ Roma Symphony in C major 1860–1871
  • WD38 Marche funèbre 1868-1869
  • WD39 小組曲 Petite Suite 1871
  • WD40 アルルの女 L’Arlésienne 1872
  • WD41 祖国 Patrie 1873

ピアノ曲

  • WD42 Vier Préludes
  • WD43 ワルツ ハ長調 Valse in C major
  • WD44 華麗なる主題 ハ長調 Thème brilliant in C
  • WD45 奇想曲第1番 嬰ハ短調 Caprice in C♯ minor 1860
  • WD46 無言歌 ハ長調 Romance sans paroles in C major 1860
  • WD47 奇想曲第2番 ハ長調 Caprice in C major 1860
  • WD48 演奏会用大ワルツ 変ホ長調 Grande valse de concert in E♭ 1854
  • WD49 夜想曲第1番 ヘ長調 Nocturne in F major 1854
  • WD50 3つの音楽スケッチ Trois esquisses musicales 1858
  • WD51 幻想的な狩り Chasse fantastique 1865
  • WD52 ラインの歌 Chants du Rhin 1865
  • WD53 海景 Marine Nocturne in D major 1868
  • WD54 演奏会用半音階的変奏曲 Variations chromatiques de concert 1868
  • WD55 夜想曲第2番 ニ長調 Nocturne in F major 1868
  • WD56 子供の遊び Jeux d’enfant 1871
  • WD57 Promenade au clair de lune
  • WD58 Causerie sentimentale
  • WD59 Roma 1871

室内楽曲

  • WD60 Fugen und Übungen 1850-1854
  • WD61 Vierstimmige Fuge A-Dur
  • WD62 Vierstimmige Fuge a-Moll 1854
  • WD63 Vierstimmige Fuge f-Moll 1855
  • WD64 Vierstimmige Fuge G-Dur 1856
  • WD65 Vierstimmige Fuge e-moll 1857
  • WD66 Zweistimmige Fuge 1866
  • WD67 Duo für Fagott und Cello c-Moll 1874

歌曲

  • WD68 L’âme triste est pareille au doux ciel
  • WD69 Petite Marguerite 1854
  • WD70 La rose et l’abeille 1854
  • WD70a 信仰、希望、愛 La foi, l’esperance et la charité 1854
  • WD71 古い歌 Vieille chanson 1865
  • WD72 別れを告げるアラビアの女主人 Adieux de l’hôtesse arabe 1866
  • WD73 冬のあとに Apres l’hiver 1866
  • WD74 静かな海 Douce mer 1866
  • WD75 4月の歌 Chanson d’avril 1866
  • WD76 A une fleur 1866
  • WD77 Adieux à Suzon 1866
  • WD78 Sonnet 1866
  • WD79 Guitare 1866
  • WD80 Rose d’amour 1866
  • WD81 Le Grillon 1866
  • WD82 パストラール Pastorale 1868
  • WD83 夢を見る男の子 Rêve de la bien-aimée 1868
  • WD84 私の命には秘密がある Ma vie a son secret 1868
  • WD85 子守歌 Berceuse 1868
  • WD86 La chanson du fou 1868
  • WD87 てんとう虫 La coccinell  1868
  • WD88 シレーヌ La sirène 1868
  • WD89 疑い Le doute 1868
  • WD90 L’Esprit saint 1869
  • WD91 Absense 1872
  • WD92 愛の歌 Chant d’amour 1872
  • WD93 タランテラ Tarentelle 1872
  • WD94 あなたが祈るしかない Vous ne priez pas 1872
  • WD95 蜂雀 Le colibri 1868
  • WD96 おお私の眠る時 Oh, quand je dors 1873
  • WD97 誓い Vœu 1868
  • WD98 Voyage
  • WD99 Aubade
  • WD100 La nuit 1868
  • WD101 Conte
  • WD102 Aimons, rêvons! 1868
  • WD103 La Chanson de la rose
  • WD104 Le Gascon 1868
  • WD105 N’oublions pas! 1868
  • WD106 Si vous aimez!
  • WD107 Pastel
  • WD108 L’Abandonnée 1868
  • WD109 Vokalise für Tenor C-Dur 1850
  • WD110 Vokalise für zwei Soprane F-Dur (Barcarolle)
  • WD111 Chœur d’étudiants
  • WD112 Valse G-Dur 1855
  • WD113 L’Ange et Tobie 1855-1857
  • WD114 Héloïse de Montfort 1855-1857
  • WD115 Le Chevalier enchanté 1855-1857
  • WD116 Herminie 1855-1857
  • WD117 Le Retour de Virginie 1855-1857
  • WD118 David 1856
  • WD119 Le Golfe de Baïa 1856
  • WD120 La Chanson du rouet 1857
  • WD121 クロヴィスとクロティルド Clovis et Clotilde 1857
  • WD122 テ・デウム Te Deum 1858
  • WD123 Ulysse et Circe 1859
  • WD124 ヴァスコ・ダ・ガマ Vasco de Gama 1859-1860
  • WD125 Carmen saeculare 1860
  • WD126 パトモス島の聖ヨハネ Saint-Jean de Pathmos 1866
  • WD127 Chants de Pyrénées
  • WD128 Les Noces de Prométhée 1867
  • WD129 Hymne 1867
  • WD130 Le Retour
  • WD131 Rêvons 1868
  • WD132 Les Nymphes des bois 1868
  • WD133 La Mort s’avance 1869
  • WD134 アヴェ・マリア Ave Maria
  • WD135 La Fruite 1870
  • WD136 Geneviève de Paris 1875
  • Ouvre ton cœur 1860
  • Le matin 1873
  • Qui donc t’aimera mieux?
  • Pourqoui pleurer

参考文献 | Bibliography

  1. Winton Dean, Georges Bizet: His Life and Work, London: Dent, 1965.
  2. Bizet, Georges | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.O900746]
  3. Bizet, Georges | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.51829]

Notes   [ + ]

1. Georges Bizet, Le pianiste chanteur : célèbres oeuvres des maîtres italiens, allemands et français, Paris : Heugel, 1865.
2. このとき優勝したのはサン=サーンスのカンタータであるが、これも演奏されていない。

マウロ・ジュリアーニ

マウロ・ジュリアーニ

生 : 1781年7月27日(ビシェーリエ)/没 : 1829年5月8日(ナポリ)

マウロ・ジュリアーニ (Mauro Giuliani) はイタリアのギタリスト、作曲家。

生涯 | Biography

ウィーンにおける活躍

1781年生まれのマウロ・ジュリアーニは当初チェロと対位法を学んだが、早い時期にギターを専門とするようになった。ジュリアーニは1803年にトリエステへ赴き、テアトロ・ヌオーヴォ1)今日のトリエステ・ヴェルディ劇場。でギターやチェロを演奏している。

19世紀初頭のイタリアはフェルディナンド・カルッリやフィリッポ・グラニャーニといったギターのヴィルトゥオーゾを数多く輩出したが、ギター曲は他の音楽ジャンルに比べて公衆に親しまれてはいなかった。そのためジュリアーニは他の多くのイタリア人ギタリストと同様、活動の場を他のヨーロッパ大陸諸国に求めた。

1806年より当時ハプスブルク帝国の首都であったウィーンに住み始めたジュリアーニは、この音楽の都においてすぐに頭角を現してゆく。1808年3月27日、ジュリアーニはベートーヴェンやサリエリといった音楽家とともに、ハイドンの76歳の誕生日を祝うコンサートに参加した。1808年4月にはオーケストラを伴って最初の自前のギター演奏会を行った。

以後ジュリアーニはウィーンにおけるクラシックギターの音楽シーンを牽引し、作曲のほか教育や演奏にも力を注いだ。弟子を伴ったベルリンやライプツィヒにおける演奏旅行も成功し、ジュリアーニの名声はヨーロッパ中に広まった。

1813年12月8日、ジュリアーニはヨハン・ネポムク・フンメルやルイ・シュポーアといった当時のウィーンを代表する音楽家とともにベートーヴェンの交響曲第7番の初演に参加し、作曲家自身による指揮の下、チェロを担当した。かくして当代随一の音楽家として名を馳せたジュリアーニは、1814年ごろにはハプスブルク家出身のフランス皇妃マリ=ルイーズの庇護を受けるに至った。

イタリアにおける後半生

1810年代末、ウィーンにおけるギターの流行は、ピアノに代替される形で下火となった。ジュリアーニは経済難から1819年夏にイタリアへ帰還し、1819年11月にヴェネツィアへ、12月には老いた両親の住むトリエステへ、続いて翌1820年3月4日にパドヴァへと住まいを転々とする。ジュリアーニは1820年から1823年頃までローマで、その後は生涯ナポリで過ごした。

ジュリアーニはローマにおいてニコロ・パガニーニジョアキーノ・ロッシーニといった音楽家と交流し、とりわけロッシーニの作品を翻案した6つのギター曲『ロッシニアーナ』を残している。またナポリでは両シチリア王国のブルボン家の宮廷で貴族たちの庇護を受けながら、ギター演奏などの活動を行った。

この時期ジュリアーニはリコルディやアルタリアといった音楽出版社と契約し、作品の発表に精を出した。ジュリアーニがアリタリアへ送った手紙によると、彼はブルボン宮廷における演奏活動に満足しておらず、再びウィーンへ帰還し活動することを望んでいたようである。しかしながらこの望みは遂に叶うことはなかった。

ジュリアーニはマリア・ジュゼッパ・デル・モナコと結婚し、ミシェルとエミリアという2人の子供を儲けた。1801年5月17日生まれのミシェルは父に付き添って1814年から1819年までウィーンで過ごした後、1823年よりペテルブルクで、1848年よりフランスで活躍し、マニュエル・ガルシアの後任としてパリ音楽院(コンセルヴァトワール)にて声楽の教師を務めた。1813年にウィーンで生まれたエミリアはギターの演奏家として活動し、1840年頃に亡くなった。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Giuliani, Mauro | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.11230]
  2. Giuliani, Mauro – Enciclopedia Treccani [http://www.treccani.it/enciclopedia/mauro-giuliani]
  3. Giuseppe Zangari, Mauro Giuliani (1781-1829): Instrumental and Vocal Style in Le Sei Rossiniane, Masters Thesis, University of Sydney, 2013.

Notes   [ + ]

1. 今日のトリエステ・ヴェルディ劇場。

イサーク・アルベニス

イサーク・アルベニス

生 : 1860年5月29日(スペイン王国、カンプロドン)/没 : 1909年5月18日(フランス共和国、カンボ=レ=バン)

イサーク・アルベニス (Isaac Albéniz) はスペインの作曲家。民族的な作風で知られ、代表作に組曲『イベリア』などがある。

生涯 | Biography

イサーク・アルベニスはピレネーの山村カンプロドンに生まれ、1歳のとき家族とともにバルセロナへ移住した。幼少期から才能を発揮したアルベニスは、3歳半の頃から姉のクレメンティーナよりピアノのレッスンを受けた。アルベニスは5歳の頃バルセロナのテアトロ・ロメアで最初のコンサートを行い、神童としてその名を轟かせた。その後アルベニスはナルシソ・オリヴェラス (Narciso Oliveras) よりレッスンを受け、1867年パリに転居した。パリでアルベニスはアントワーヌ=フランソワ・マルモンテルより個人レッスンを受け、パリ音楽院(コンセルヴァトワール)の入学試験を受けることになった。しかしながら、審査員は彼の能力を認めはしたものの、その年齢を理由に入学を断ってしまう。

1868年、アルベニスの父は政府の役職を失い、生活費の捻出のためイサークと姉クレメンティーナをスペイン各地へ演奏旅行に連れてゆく。直後に一家はマドリードへ移住し、アルベニスは同地の国立音楽・弁論学校(今日のマドリード音楽院)へ入学した。マドリードではエドゥアルド・コンプタ (Eduardo Compta) やホセ・トラゴ (José Tragó) といったピアニストがアルベニスを教えたが、地方都市における演奏のため学業はしばしば中断された。彼の演奏旅行は1875年プエルトリコやキューバにまで及んだ。

アルベニスはヨーロッパへ戻ると、1876年5月ライプツィヒ音楽院1)今日のフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ。に入学した。しかしながらアルベニスが同校に在籍したのはわずか2か月のみで、夏になると生活手段を探すためマドリードへ帰還した。結局アルベニスはスペイン国王アルフォンソ2世の秘書であったギレルモ・デ・モルフィ (Guillermo Morphy) のとりなしにより奨学金を獲得し、ブリュッセル音楽院に留学する機会を得た。ブリュッセルでアルベニスは1879年までピアノを学び、フランツ・ルメル (Franz Rummel) やルイ・ブラッサン (Louis Brassin) に師事した。

1880年9月アルベニスはマドリードへ戻り、音楽家としてのキャリアの継続を目指した。この間アルベニスはスペイン各地やラテンアメリカで演奏旅行を行う。また指揮の学習も始め、1882年にスペインの歌劇である「サルスエラ」の指揮者に就任している。この時期からアルベニスはサルスエラの作曲も行うようになり、『花盛りのサン・アントニオ』などの作品を残した。

1883年、アルベニスはバルセロナへ転居し、フェリペ・ペドレルに作曲を学ぶ。同時にピアノ講師としての活動も継続し、1883年6月23日には生徒のロサ・ホルダナ (Rosa Jordana) と結婚している。1885年末にアルベニスはマドリードへ転居し、旧知のモルフィの庇護を受けながら、名士の家庭で演奏を披露したり、コンサートを開催するなど、マドリードの音楽業界で精力的に活動した。

これらの音楽活動が認められ、1887年3月21日、サロン・ロメロにてアルベニスの作品を集めたコンサートが催された。彼の作品はまた、フランスの楽器メーカー「エラール」の後援により1888年のバルセロナ万国博覧会で催された20回のコンサートでも披露された。

即興の才能に秀でたアルベニスはピアノソロ曲を多く制作し、その大半はサロンでの演奏を意識して単純なメロディをリピートするという形式だった。1880年代末までにアルベニスはピアノ作曲家としての地位を確立し、彼の作品はスペインの著名な音楽出版社から多く刊行された。1889年3月、アルベニスはパリでコンサートを開催する。数か月後にはロンドンへ赴き、大きな成功を収めた。1890年6月、アルベニスは実業家のヘンリー・ローウェンフェルドと独占契約を結び、年末に妻と3人の子供を連れてロンドンへ移り住んだ。

ロンドンでアルベニスはローウェンフェルドの求めに応じてコンサートを開催したほか、アーサー・ロー (Arthur Law) の台本(リブレット)によるオペラ・コミック『魔法のオパール』を作曲した。またリリック・シアターの支配人ホラース・セドガー (Horace Sedger) の依頼を受け、シャルル・ルコックによる『心と手』の翻案である『インコグニタ』の制作に携わった。

こうしたアルベニスの劇音楽における活動はクーツ銀行のフランシス・バーデットの関心を呼んだ。アマチュアの詩人でもあった彼はローウェンフェルドとともにアルベニスの支援者となり、1894年にはアルベニスの唯一のパトロンとなった。

『貧しいジョナサン』(1893) を完成させた後、アルベニスは病気のためイギリスを離れ、パリに落ち着いた。アルベニスはスペインやパリで複数の劇音楽を発表するが、伝統の枠に収まらない作風やサルスエラの復興といった野心的な芸術運動のため、音楽界の権威や公衆による批判にもさらされた。

この時期からアルベニスはフランスの音楽界における活動の比重を高めてゆく。1895年3月アルベニスはバルセロナのテアトロ・リリコで催されたコンサートにソリストとして出演するが、このとき指揮者を務めたのはヴァンサン・ダンディだった。以後アルベニスはダンディとの親交を深め、またエルネスト・ショーソンやシャルル・ボルド、ポール・デュカスやガブリエル・フォーレといったフランス人音楽家と交流した。

以後、アルベニスは劇音楽の作曲に専念する傍ら、1890年代にバルセロナで行われたカタルーニャ(カタロニア)文化の復興運動にも参加した。1896年からはピアノ曲やオーケストラ曲の制作も行うようになったが、その際アルベニスに影響を与えたのは母国スペインの土着文化だった。中でもオーケストラ編曲が有名な『ラ・ヴェガ』はアルベニスのピアノ曲における作風の転換点とされている。

1898年から1900年にかけて、アルベニスはパリのスコラ・カントルムで教鞭を執った。この時の生徒には南仏の音楽家デオダ・ド・セヴラックも含まれていた。体調不良が原因でスコラ・カントルムを辞職した後、アルベニスは温暖な気候を求めてスペインへ戻った。バルセロナにおいてアルベニスはエンリック・モレラとともにカタルーニャの叙情的な作品の演奏活動を行った。サルスエラの作曲にも積極的だったアルベニスはジャーナリズムによって好意的に評価されたが、その国際的な名声は逆に彼の足をすくう。聴衆や興行主から外国かぶれと見なされたアルベニスは1902年の末に再びフランスへ移り、そこでスペイン音楽を探究する道を選ぶ。

腎臓疾患(ブライト病)に悩まされたアルベニスは、温暖な気候を求めてしばしば南仏コート・ダジュールに位置するニースへ赴き、『ランスロット』や『ペピータ』といった歌劇の制作に取り組んだ。その後アルベニスは再びピアノ曲の制作に専念するようになり、1905年から1908年にかけて、彼の代表作『イベリア』を発表する。

組曲『イベリア』は「印象」と称する12曲から構成され、3曲を一組とする4巻本の形で発表された。母国スペインの音やリズムに取材した作品は、スペイン文化の色彩や質感を表現した極めて技巧的な作品とされる。

晩年のアルベニスはフランシス・バーデットの詩への作曲に取り組み、それらは『4つの歌』として発表された。アルベニスは1908年に亡くなり、その亡骸は故地であるバルセロナのモンジュイック墓地に埋葬された。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Albéniz, Isaac | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.00421]

Notes   [ + ]

1. 今日のフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ。

ジョン・ケージ

ジョン・ケージ

生 : 1912年9月5日(アメリカ合衆国、ロサンゼルス)/没 : 1992年8月12日(アメリカ合衆国、ニューヨーク)

ジョン・ケージ (John Milton Cage Jr.) は米国の音楽家、キノコ研究家。代表作に『4分33秒』などがある。

生涯 | Biography

現代音楽と偶然性の思想

1912年カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれたジョン・ケージは、ロサンゼルス高校で教育を受けた後、カリフォルニア州クレアモントのポモナ・カレッジに入学した。しかしながら大学のカリキュラムを退屈に感じたケージは2年間で退学してしまう。

その後ケージは1930年から一年間パリやセヴィリアなどヨーロッパ各地を回って建築や現代絵画などの芸術を独習し、1931年ロサンゼルスへ戻り作曲の学習を開始する。ケージを最初に教えたのはリチャード・ビューリグ (Richard Buhlig) だった。ビューリグはケージをヘンリー・カウエルに紹介する。ガーシュウィンを教えた経験も持つカウエルは、マンハッタンのニュースクール大学においてケージに対し非西洋文化や現代音楽を教授した。ここでケージは半音階による対位法に関心を示し、カウエルはケージにアドルフ・ワイス (Adolph Weiss) の下で学ぶようアドバイスする。折しも十二音技法の創始者シェーンベルクが訪米し、ケージも1934年、彼に付き添ってロサンゼルスへ向かった。シェーンベルクに感銘を受けたケージは作曲に生涯をささげることを決意する。

1937年、ジョン・ケージはUCLAにてダンス振付師としての活動を開始し、続く数年の間、シアトルのコーニッシュ・スクールにて教鞭を執った。ここでケージは舞踏家のマース・カニンガムと出会う。二人はその後、仕事上のパートナーとして生涯に渡って共同で活動する。

ケージはダンスを通じて音楽の幅を拡大した。打楽器アンサンブルのための作曲により、ダンサーを音楽家と見なす。これは雑音など、これまで音楽と見なされていなかった対象を作曲に使用する後年の活動につながった。民族音楽に深い関心を示したケージは、バリ島や日本、インドで楽器として使用されたドラムやブロック、ゴングなどを用いて作曲を行った。

同時に、ケージは電子音楽の技術がもたらす新たな音響の可能性にも注目していた。コーニッシュ・スクールのラジオ局から1939年に放送された「心象風景 第1番」はピアノとシンバルに加えて、ターンテーブルを用いて録音されたランダムな試験音声を用いるという前衛的な構成が取られた。

コーニッシュ・スクールではさらに「プリペアド・ピアノ」と呼ばれる仕組みも用いられた。1938年、あるダンサーが打楽器アンサンブルを求めたが、アンサンブルの演奏には会場のスペースが足りなかったため、ピアノの弦と弦の間にネジ回しやボルトなどを散りばめ、演奏とともにパーカッションのような響きが得られるようにしたのだ。ケージはこの「プリペアド・ピアノ」を利用して「バッカナール」などを作曲し、音楽の可能性を開いていった。

プリペアド・ピアノプリペアド・ピアノ

ケージはサンフランシスコを中心に活動していたルー・ハリソンと合流し、シカゴへ行く1941年まで西海岸の各地でコンサートを行った。ケージの打楽器アンサンブルはメディアの注目を集め、当時の大手ラジオ局だったCBSの依頼を受け、1942年、詩人ケネス・パッチェンによるラジオ・ドラマ『街は帽子を被っている』の音楽を担当した。ラジオでの仕事を好機と捉えたケージは1942年ニューヨークへ移住し、ニューヨーク近代美術館 (MoMA) で打楽器のコンサートを催した。しかしながらこのコンサートの後、ケージはスランプに陥り、東の郊外の古びた商業ビルへの居住を余儀なくされる。

その後ケージは再び「プリペアド・ピアノ」による作曲を盛んに行う。マース・カニングハムの振り付けと相まって、木片や竹、プラスチックやゴム、硬貨といった小物を使用し、楽器の可能性を広めていった。こうした「プリペアド・ピアノ」を用いたケージの前衛的・実験的な活動に対し、1949年グッゲンハイム財団およびアメリカ芸術文学アカデミー協会より表彰された。また1951年にはウッドストック・フィルム・フェスティバル最優秀賞を授与されている。

東洋思想と「沈黙」の美学

1946年、ケージはインド人音楽家のギータ・サラバイ (Gita Sarabhai) と出会う。ケージは彼女からインド哲学を紹介され、アジア的な美学や精神世界に強い親近感を抱く。さらにアナンダ・クマラスワミの美術史に関する研究や、中世の神秘主義者マイスター・エックハルトの教説を学んだケージは、インドの美学に影響を受けた作品を発表するようになる。その特徴は性的、英雄的、あるいは怒りや嫌味、陽気さ、恐怖、悲哀、驚嘆といった感情、そしてとりわけ「沈黙」であった。プリペアド・ピアノによる新たな音響の発明とアジア的な沈黙の精神の発見は、以後のケージの作曲活動を象徴する特徴となる。

1949年、ケージは友人のピエール・ブーレーズとともにヨーロッパを旅行する。ニューヨークへ戻ると、ケージはその批判精神を発揮するようになる。あるときニューヨーク交響楽団の演奏によるアントン・ヴェーベルンの『9つの楽器のための協奏曲』を耐え難く感じ、演奏の途中でコンサート会場を後にしてしまった。するとそこで同じ行動を取った作曲家のモートン・フェルドマンと鉢合わせる。二人は美的感覚において共感するものがあり、それから4年間にわたって意見交換や共作を行う。フェルドマンはケージにピアニストのデイヴィッド・チューダーや作曲家のクリスチャン・ウォルフを紹介し、またフェルドマンの交友関係を通じてケージはニューヨークの画家たちと知り合った。以後ケージはこうした芸術家のサークルに入り浸るようになる。

1940年代末頃、ケージは「沈黙」の美学を発展させる。インドのヒンドゥー教や日本の仏教、禅の思想に傾倒したケージは、1945年から二年間に渡ってコロンビア大学にて鈴木大拙より禅を学び、また松尾芭蕉の俳句や京都・龍安寺石庭に見られる精神世界に感銘を受け、以後、生涯を通じて沈黙の美学を追及してゆく。

龍安寺石庭龍安寺石庭

1950年、ケージは著書『サイレンス』をの原型となった講義を行う。この講義においてケージは沈黙を時間配分の構造と関連付けて論じている。すなわち、作曲家が何かを表現しようがしまいが、音楽における尺の長さは一定である。したがって沈黙や意味のない音でも楽曲を構成することができるというのである。ケージはこうした考えを1948年には着想しており、4分30秒の尺を持つ小品「沈黙の祈り」が構想されていた。

不確定性と図形譜の改良

1950年、ケージは『弦楽四重奏曲』を発表する。かつてプリペアド・ピアノにおける鍵盤の一音が複雑な音階をもたらしたように、ここではそれぞれの奏者が限定された音を発することで、曲の進行を打ち消すような意味のない和音を断続的に生み出す「ギャマット」と呼ばれる独自の形式がとられた。「ギャマット」の技法は1950年代後半、オーケストラに応用される。これに際してケージは連続する幾何学的なパターンを敷き写した長方形のチャートから成る独特な譜面を考案した。こうした図形譜のアイデアはすでにモートン・フェルドマンが着想していたが、ケージはこれをさらに抽象化させ、譜面の構成における「沈黙」を具現したと言える。

1950年代末、ケージは中国の古典である『易経』を手に取る。卜占における硬貨の表裏を記載した8×8のランダムなパターンを記したこの書物にインスピレーションを受けたケージは、偶然性の要素を自身の図形譜に応用する。この「易の音楽」において、作曲者の意図が介入する余地はきわめて少ない。音楽の進行は神の託宣に随うというわけである。

「易の音楽」(1951) におけるチャート

かくして「沈黙」の概念は単にナンセンスであるのみならず、作曲者の意図や趣向、願望を完全に否定する段階に至る。作者の手を離れた結果から成る「偶然性」の音楽の確立である。

1952年、ケージは長年温めていた「沈黙の祈り」の構想をついに公にする。『4分33秒』である。「偶然性」の要素を1940年代以前からの「沈黙」の概念と結合させることにより、ケージの作品中で最も論争的で、なおかつ彼の代表作とされる楽曲が誕生したのだ。

1950年代における音響機器の技術革新も、ケージが表現の幅を拡大するのに貢献した。1952年、ケージは最新式のテープレコーダーを購入し、磁気テープのための曲『ウィリアム・ミックス』を発表した。こうした中でケージはチャートを使うのをやめ、さらなる表現のために五線譜に様々な輪郭を持った図形を配置する譜面形態を採用するようになる。

ケージによる図形譜は演奏者に解釈の余地を与え、演奏ごとに異なったパフォーマンスが実現するという結果をもたらした。こうしたケージによる不確定性音楽の探求の中でも特筆すべきは、透明なプラスチック製のシートを用いたピッチや音色の表現である。この表現形式は『ミュージック・ウォーク』(1958) において最初に試みられ、『ヴァリエーションズⅡ』(1961) において最も純粋な形で発表された。

ケージは1956年から1961年にかけて「ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ」で教鞭を執っている。ニュー・スクールは1918年ニューヨークに創設された研究教育機関。ハンナ・アレントやジョン・デューイらリベラルな知識人を迎え、自由と民主主義の校風で知られる1)紀平英作『ニュースクール 20世紀アメリカのしなやかな反骨者たち』岩波書店、2017年。。ケージはここで実験音楽に関する講座を担当した2)John Cage – Histories of the New School[http://newschoolhistories.org/people/john-cage/]

1950年代後半以降、ケージの名声は国際的なものとなる。ニュー・スクールで彼が教えた学生の中には後にフルクサスを結成するメンバーも含まれており、そのこともケージの名を高める要因となった。この頃ケージは活動の場を米国外へと移し、マース・カニングハムとともにパフォーマンスやレコーディングに精を出した。1961年に刊行された著書『サイレンス』も読者に衝撃を与え、彼の音楽表現は論争の的となった。

サイレンス』の成功によりもたらされた名声、そしてパフォーマンスやスピーチの機会により、ケージは1960年代半ばより作曲家として自活するだけの収入を得ることができるようになった。しかしながら、過密なスケジュールとそれにともなうストレスにより、ケージはしばらくの間スランプに陥る。1960年代に発表された数少ないケージの作品の中でも特筆すべきものに、演奏者がステージ上で単一の行動をなす『0分00秒』(1962) や、複数のテープレコーダーを再生しつつ操作するだけの『ローツァルト・ミックス』(1965)、演奏者への招待状を作品と称した『ミュージサーカス』(1967) などがある。

1967年の著書『月曜日からの一年』において、ケージは「私はだんだん音楽に興味を持たなくなっている」とまで述べている。彼の作品は次第に音楽以外の分野への言及を増やし、マクルーハンのメディア論、毛沢東主義、バックミンスター・フラーなどの政治理論や文化論を創作に取り入れた。しかしながら、エリック・サティに着想を得た『安価な模造品』などを通じてケージは音楽への関心を取り戻し、以後の生涯を多様なメディアにおける作曲活動に費やすこととなる。

『月曜日からの一年』の表紙

環境への関心と晩年

ところで、ケージは1950年代にニューヨークから郊外へ転居した頃より、自然に対して関心を示していた。中でもキノコ狩りへの情熱は群を抜いており、彼のコレクションは現在カリフォルニア大学サンタクルーズ校が収蔵している。またニューヨーク菌類学会の創設者にも名を連ねた。こうしたケージの嗜好は1970年代以降の作品に登場する。

ジェイムズ・ジョイスの作品も70年代以降の作品におけるインスピレーションの源であり、『ロアラトリオ』(1979) はジョイスの小説『フィネガンズ・ウェイク』に基づいていた。この曲は小説中で言及された音をコラージュしてゆき、それにアイルランドの民族音楽を重ねるという形式の作品だった。

晩年のケージはグラフィックや詩作といった音楽以外のメディアでも才能を発揮した。他にも『One11』などの映画作品や、展覧会のキュレーションも行った。これらすべての分野において、ケージは偶然性の要素を追求しながら表現技法の革新に努めた。

ジョン・ケージはその生涯を通じて多くの褒章を得た。中でも1989年に「偶然性や非西欧的思想によって音楽の新しい地平を開いた作曲家」として、第5回「京都賞」を受賞している。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. ジョン・ケージ | 第5回(1989年)受賞者 | 京都賞[https://www.kyotoprize.org/laureates/john_cage/]

Notes   [ + ]

1. 紀平英作『ニュースクール 20世紀アメリカのしなやかな反骨者たち』岩波書店、2017年。
2. John Cage – Histories of the New School[http://newschoolhistories.org/people/john-cage/]

フランシスコ・タレガ

フランシスコ・タレガ

生 : 1852年11月21日(スペイン王国、ヴィラ=レアル)/没 : 1909年12月15日(スペイン王国、バルセロナ)

フランシスコ・タレガ (Francisco Tárrega) はスペインのギタリスト、作曲家。日本では慣習的に「フランシスコ・タルレガ」とも表記される。代表作に『アルハンブラの思い出』『アラビア風奇想曲』などがある。

生涯 | Biography

1862年よりジュリアン・アルカス (Julian Arcas) の下でギターの習得を開始する。当時のヨーロッパにおいてギターは格式の低い楽器と見なされていたため、父親はタレガにピアノも同時に習わせた。

1869年、タレガは著名な楽器職人であるアントニオ・デ・トーレスの製作したギターを手にする機会を得た。それは従来のものに比べて音量が大きく、またよく響くという特徴を持っていた。

1874年、タレガはマドリード音楽院に入学し、音楽理論や和声、ピアノ演奏などを学んだ。1877年から音楽教師として、またギタリストとして生計を立てるようになり、「ギターのサラサーテ」として評判になった。私生活では1881年に (María Josepha Rizo) と結婚し、1885年バルセロナに移り住んだ。

それから数年間でタレガは複数のギター曲を発表し、その中にはメンデルスゾーンやゴットシャルク、タールベルクらのピアノ曲を編曲したものも含まれていた。当時タレガはアルベニスやグラナドスといったスペイン人作曲家と交流し、彼らの作品をギター曲へと編曲した。その他にもベートーヴェンのピアノソナタ第4番、第13番(悲愴)および第14番(月光)、またショパンによる複数のプレリュードがタレガによってギター曲にアレンジされた。

1885年から1903年にかけてスペイン全土で演奏を行った後、タレガは1903年イタリアへ移住した。しかし名声の絶頂にあった1906年に右半身麻痺となったが、1909年の死の直前まで公演をやめることはなかった。

タレガはエミリオ・プジョルやマリア・リタ・ブロンディ (Maria Rita Brondi) などの後進を育て、20世紀ギター史に大きな影響を及ぼした。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Tárrega (y Eixea), Francisco | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.27525]

ホアキン・ロドリーゴ

ホアキン・ロドリーゴ

生 : 1901年11月22日(スペイン王国、サグント)/没 : 1999年7月6日(スペイン王国、マドリード)

ホアキン・ロドリーゴ (Joaquín Rodrigo) はスペインの作曲家。代表作に『アランフエス協奏曲』などがある。

生涯 | Biography

ホアキン・ロドリーゴはバレンシア地方のサグントにて、1901年11月22日に生まれた。この日は偶然にも音楽の聖人である聖セシリアの日と同一であった。3歳の頃に罹患したジフテリアの後遺症で失明したため8歳の頃から音楽のレッスンを受け、16歳になるとバレンシアでフランシスコ・アンティッチ (Francisco Antich) に作曲および和声を学んだ。

ロドリーゴは1927年パリへ移住し、エコール・ノルマル音楽院にて5年間、ポール・デュカスの指導を受けた。ロドリーゴはパリでピアニストおよび作曲家として頭角を現し、オネゲルやミヨー、ラヴェルといった当代を代表する音楽家と親交を結んだ。1933年、トルコ人ピアニストのビクトリア・カムヒ (Victoria Kamhi) とバレンシアで結婚。二人は生涯に渡って仕事上のパートナーでもあり続けた。その後ロドリーゴは奨学金を得てパリに戻り、パリ音楽院(コンセルヴァトワール)およびソルボンヌ大学にて学究を続けた。

ロドリーゴはスペイン内戦期にフランスやドイツをはじめ、オーストリアやスイスと欧州各国を転々とし、1939年にマドリードへ帰還し、以後生涯を通じてこの都市に居住した。1940年『アランフエス協奏曲』によりコンサートデビューを飾ると、すぐにスペインを代表する作曲家として認知されるようになった。その後数年は作曲活動を縮小し、新聞記事などの執筆活動を盛んに行ったほか、スペイン国営ラジオやスペイン国立盲人協会 (ONCE) にて勤務した。1947年、ロドリーゴはマドリード・コンプルテンセ大学にて、彼のために新設された「チェア・マニュエル・デ・ファラ」と称する教授職に就任し音楽史の講座を担当、さらに1950年には王立サン・フェルナンド美術アカデミー会員に選出された。

アランフエスの王宮

この時期ロドリーゴはスペイン国内のみならず欧州、アメリカ、さらにはイスラエルや日本へ演奏旅行に赴き、また教育やピアノリサイタルといった多様な活動を行った。中でもアルゼンチン(1949年)、トルコ(1953年、1972年)、日本(1973年)、メキシコ(1975年)、ロンドン(1986年)で行ったコンサートが重要なものとされる。

アルフォンソ10世賢王大十字章(1953年)やフランスのレジオン・ドヌール勲章(1963年)、アストゥリアス皇太子賞(1996年)などの褒章を得、またベルギー王立芸術アカデミー会員(1978年)、サラマンカ大学(1964年)、南カリフォルニア大学(1982年)、バレンシア工科大学(1988年)、マドリード大学、アリカンテ大学(1989年)およびエクセター大学(1990年)の名誉博士号などの栄誉職に就任した。

1991年から1992年にかけて、ロドリーゴの90歳の誕生日を祝うコンサートが世界各地で行われた。また1991年には国王フアン・カルロス1世により「アランフエス庭園侯」の爵位を授与された。その後1999年7月6日、ロドリーゴはマドリードの自宅にて、家族に看取られながら息を引き取った。ロドリーゴの一人娘であったセシリアはヴァイオリニストのアグスティン・レオン・アラと結婚し、1999年に「ホアキン・ロドリーゴ財団」を創設した。

「ネオ・カスティシスモ」(新生粋主義)とも称されるロドリーゴの作風は保守的で、彼自身の言葉を借りると「伝統に忠実」なものだった。ロドリーゴの初期作品はグラナドスやラヴェル、ストラヴィンスキーなどの影響が色濃かったが、その幅広い音楽知識と相まって、次第にスペインの伝統文化や国民性を前面に押し出した独自のスタイルを確立した。ローマ時代の歴史から現代詩まで幅広い分野のスペイン文化に取材したロドリーゴの作風は唯一無二のものとされる。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Rodrigo (Vidre), Joaquín | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.23647]
  2. Joaquín Rodrigo [https://www.joaquin-rodrigo.com]

ナルシソ・イエペス

ナルシソ・イエペス

生 : 1927年11月14日(スペイン王国、ロルカ)/没 : 1997年5月3日(スペイン王国、ムルシア)

ナルシソ・イエペス (Narciso Yepes) はスペインのギタリスト、作曲家。代表作に『禁じられた遊び』より「ロマンス」などがある。10弦ギターの考案でも知られる。

生涯 | Biography

ナルシソ・イエペスはスペイン南部の田舎町であるロルカにて、平均的な農民の子として生まれた。自然に囲まれた環境で幼少期を過ごし、ギターの奏でる庶民的な音色に親しんだイエペスは、ヘスス・ゲバラ (Jesús Guevara) という名の音楽教師よりソルフェージュおよびギター奏法を習った。

1939年、13歳の頃に家族とともにバレンシアへ移り住んだイエペスは音楽学校に入学し、ビセンテ・アセンシオに作曲を学んだ。アセンシオはギタリストではなかったものの、イエペスにギター奏法も教えた。

家族が故郷のロルカに戻ると、イエペスは指揮者アタウルフォ・アルヘンタの導きによりマドリードへ移り住む。この都市でイエペスは、アルヘンタを介してレヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサやホアキン・ロドリーゴといった音楽家と知り合った。1947年、イエペスはテアトロ・エスパニョールにて、アルヘンタが音楽監督を務めるスペイン国立管弦楽団とともに、ロドリーゴの『アランフエス協奏曲』でデビューを飾った。この出来事は20世紀ギター史の重要な一里塚と見なされている。

翌1948年、イエペスはジュネーヴでコンサートを行い、活動の場を国際的な舞台へと広げてゆく。イエペスは欧州で演奏ツアーを行った後、1950年パリに滞在してヴァルター・ギーゼキングやジョルジェ・エネスクより演奏法を学んだ。この都市でイエペスはナディア・ブーランジェとも知己を得ている。

映画『禁じられた遊び』や『金色の眼の女』の音楽を担当。中でもルネ・クレマン監督による『禁じられた遊び』の中で印象的に使用された「愛のロマンス」はイエペスの代表作であるのみならず、今日までクラシックギターのスタンダードナンバーとして世界中で親しまれている。バロック音楽に関心をもつイエペスは17、18世紀に作曲され今日では忘れられた音楽をギターに翻案。ギター曲のレパートリー拡大につながった。

1950年以降、イエペスはアンドレス・セゴビアに次ぐ国際的名声を得る。レオ・ブローウェルやブルーノ・マデルナ、モーリス・オアナやホアキン・ロドリーゴといった作曲家がイエペスに曲を捧げた。

私生活では1958年、パリ・ソルボンヌ大学哲学科の学生だったマリサと結婚。夫婦は3人の子に恵まれた。

イエペスは1963年、古典楽曲の音色をより正確に表現するため十弦ギターを考案した。表現や音色の豊かさから、今日に至るまで多くのギター奏者の支持を集めている。

十弦ギター

1960年代から1970年代にかけて欧州をはじめ、アメリカ大陸や東アジアと世界を股にかけて演奏旅行に赴いた。1980年にソ連で初のコンサートを開催。日本での演奏は40回を数えた。

イエペスはその名声により、数多くの賞を得た。主要なものとしてムルシア大学より哲学の名誉博士号を、国王フアン・カルロス1世より芸術功労金メダルを授与され、アルフォンソ10世賢王アカデミーおよび王立サン・フェルナンド美術アカデミーの会員に選出されている。

参考文献 | Bibliography

  1. narciscoyepes.org [http://www.narcisoyepes.org]
  2. Yepes, Narciso | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.30699]
  3. Yepes Narcisso (1927-1997) [https://www.musicologie.org/Biographies/y/yepes.html]

レオ・ブローウェル

レオ・ブローウェル

生 : 1939年3月1日(キューバ共和国、ハバナ)

レオ・ブローウェル (Leo Brouwer) はキューバのギタリスト、作曲家。代表作に『11月のある日』などがある。

生涯 | Biography

青年時代

レオ・ブローウェルは1953年、キューバのギター学校創設者であるイサーク・ニコラ (Isaac Nicola) の下でギターの習得を開始した。1955年7月22日にハバナのリセウム・アンド・テニスクラブで最初のリサイタルを行う。同1955年、独学で作曲を学んだブローウェルは『ギター協奏曲第1番』などの制作を開始し、翌1956年に最初の作品を発表する。

1959年、奨学金を得たブローウェルは米国ハートフォード大学の音楽学科へ、続いてニューヨークのジュリアード音楽学校へ留学し、ギターの高度な技術を習得する。ここでブローウェルを教えたのはステファン・ウォルペやヴィンセント・パーシケッティ、ジョゼフ・イアドーン (Joseph Iadone) といった音楽家だった。

ナショナリズムの時代 : 1955-1962

1960年、ブローウェルはキューバ映画芸術産業庁 (ICAIC) の音楽部門長に就任し、映画音楽の作曲を始める1)キューバ映画芸術産業庁はカストロやチェ・ゲバラらによる1959年のキューバ革命後に創設された国立機関。革命を顕彰するための映画を多く作成し、同国の映画産業を牽引した。。ここで彼が執筆した楽譜は60曲を数えた。1969年、ブローウェルはICAICの「音響実験グループ」創設に関わり、メンバーの教育活動に当たった2)音響実験グループの創設メンバーにはやシルヴィオ・ロドリゲスやパブロ・ミラーネスといったキューバ現代音楽の重要人物が多数含まれていた。その経緯はドキュメンタリー映画『声を上げる集団がいた』(Hay un grupo que dice, 2013) に描かれている。

ブローウェルは1960年から1968年にかけて国営放送局「ラジオ・ハバナ・キューバ」の音楽顧問を務め、また1960年から1967年にかけてハバナ市立音楽院で対位法や和声、作曲などを教えた。テクストにはブローウェル自身の執筆した教科書『現代和声総合』(Síntesis de la armonía contemporánea) が使用された。

この時期の作品を特徴づけるのはソナタや変奏曲といった伝統的な音楽形式に加え、キューバ独自の和声構造である。これはブローウェルの愛国心がなしたものだった。

アヴァンギャルドの時代 : 1962-1967

ブローウェルは1960年代、作曲家のフアン・ブランコ (Juan Blanco) やカルロス・ファリーニャス (Carlos Fariñas)、また指揮者のマニュエル・デュシェーヌ・クザン (Manuel Duchesne Cuzán)らとともに前衛音楽の運動を主導する。この時期の作品は様式的な厳格さを保ちながらも、「草木や幾何学的なシンボルなど、音楽の様式を発見する手助けとなるものは何でも使う」というブローウェルの言葉が示す通り、前衛的な音響のコンセプトがより優勢となっている。

こうした傾向は同時代における多くのキューバ前衛音楽家と同様、ポーランドからの影響を多分に受けたものである。ブローウェル自身も1961年に「ワルシャワの秋」へ赴き、ポーランド前衛音楽を直接耳にしている。1960年代の作品は総じてポストモダンの作風によって特徴づけられている。

今日のブローウェル

1970年代に入ってもブローウェルは偶然音楽やセリエル音楽のような前衛的要素をギターで表現しようとした。しかしながら、1980年代に入るとシンプルかつミニマル、そしてロマン主義的な新しい作風へと移行する。

ブローウェルはハバナギターコンクールを主導し、また1981年よりキューバ国立管弦楽団の主任指揮者に就任した。さらにはベルリンフィルやコルドバオーケストラを含む海外のオーケストラも指揮した。ベルリン芸術アカデミーや UNESCO の会員となり、また1996年キューバ高等芸術院の名誉教授に就任した。長きにわたる国際的な活躍により、キューバ政府よりフェリックス・バレラ勲章を授与されている。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Brouwer (Mezquida), Leo | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.04092]

Notes   [ + ]

1. キューバ映画芸術産業庁はカストロやチェ・ゲバラらによる1959年のキューバ革命後に創設された国立機関。革命を顕彰するための映画を多く作成し、同国の映画産業を牽引した。
2. 音響実験グループの創設メンバーにはやシルヴィオ・ロドリゲスやパブロ・ミラーネスといったキューバ現代音楽の重要人物が多数含まれていた。その経緯はドキュメンタリー映画『声を上げる集団がいた』(Hay un grupo que dice, 2013) に描かれている。
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