ガエターノ・ドニゼッティ

ガエターノ・ドニゼッティ(Donizetti, (Domenico) Gaetano ):

生:1797年11月ベルガモ、没:1848年4月8日ベルガモ。

イタリアの作曲家。悲劇・喜劇のジャンルで成功、イタリアのオペラ作曲家ヴェルディが誕生する上で重要な役割を果たした。

生涯

師との出会い・音楽家としての出発(1830年まで)

ドニゼッティは、父アンドレアと母ドメニカの5番目の子供としてベルガモにて誕生した。一家は、慎ましやかな暮らしをしていた。父アンドレアは、ベルガモの質屋であるモンテ・デ・ペーニの管理人と案内係を務めていた。ガエターノ・ドニゼッティの兄ジュゼッペは、当初軍楽隊員であったが、オスマン帝国軍の楽隊長となった。

ドニゼッティは、ベルガモのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のマエストロ・ディ・カペッラ(maestro di cappella)であったバイエルン出身の師ヨハン・シモン・マイール(Johann Simon Mayr)との出会いによって音楽の世界に入った。9歳のドニゼッティは、レツィオーニ・カリタテヴォッリ(the Lezioni Caritatevoli)の奨学生となった。この学校は、マイールが音楽家を養成するために設立したものであった。ドニゼッティはそこでまずは声楽と鍵盤楽器、後に作曲法と理論を学んだ。その後、喉の不調のためにドニゼッティは、大聖堂の聖歌隊のメンバーとしての活動を制限されるようになったものの、マイールの指導のもと作曲の才能を伸ばしていくこととなる。1815年、マイールは、ボローニャのリチェオ・フィラルモニコ・コムナーレ(Liceo Filarmonico Comunale)で勉強を続けられるようにドニゼッティのために環境を整えた。新しい師スタニラオ・マッテイは、ロッシーニやモルラッキも教えた経験があったものの、彼のオペラに対する嗜好は少々古いものであった。この頃、ドニゼッティは、『ピグマリオン』(Il pigmalione)を作曲しているが、この曲はマイールとロッシーニの影響を少なからず受けている。

1817年、学業を終えたドニゼッティは、マイールの助けもあって、ヴェネツィアのサンタ・ルチア劇場にて『ブルゴーニュのエンリーコ』(Enrico di Borgogna)(1818) を上演することに成功した。その後も同じ興行主パオロ・ザンクラの依頼を得ることができたドニゼッティは、続けてそれぞれマントヴァトヴェネツィアにて、『ロシア大帝ピョートル』(Il falegname di Livonia, o Pietro il grande czar delle Russie) (1819)と『村の結婚式』(Le nozze in villa)(1821) の2作品を発表した。徐々に作曲家としての地位を確立していったドニゼッティは、再びマイールの推薦もあって、ローマのアルジェンティーナ劇場のために新しい作品を作曲することとなった。この時作曲された曲『グラナダのゾライーダ』(Zoraida di Granata)(1822) は、大成功を収め、この作品によってナポリ王立劇場の大興行主ドメニコ・バルバイア(Domenico Barbaja)の依頼を受けることとなった。またドニゼッティは、『グラナダのゾライーダ』のリハーサル中、後の1828年に結婚することとなるヴィルジニア・ヴァッセッリと出会っている。

1822年2月、ナポリに到着したドニゼッティは、『ジンガラ』(La zingara) (1822)を作曲し、この曲は当時学生であったヴィンチェンツォ・ベッリーニ(Vincenzo Bellini)に感銘を与えた。この頃、ドニゼッティは、新進気鋭の詩人であるヤコポ・フェッレッティ(Jacopo Ferretti)、ドメニコ・ジラルドーニ(Domenico Gilardoni)、フェリーチェ・ロマーニ(Felice Romani)と親交を深めていた。また名誉ある依頼をミラノのスカラ座から受けたドニゼッティは、『キアラとセラフィナ、または海賊たち』(Chiara e Serafina ossia i Pirati) (1822) を発表した。ところがこの作品の評判は悪く、12回しか公演されなかった。また1825年から26年にかけて、ドニゼッティはパレルモのカロリーノ劇場にて月給僅か45ドゥカートという冷遇を受けることとなる。この頃作曲された『グラナダのアラホール』(Alahor in Granata)(1826)は、「不道徳」という批評を受けていた。

1827年、ナポリに戻ったドニゼッティは、興行主バルバイアと待望の新契約を結んだ。その後3年間にわたって1年の間に4つのオペラの作品が発表されていくこととなる。このバルバイアは、1つのオペラにつき200ドゥカートをドニゼッティに支払ったうえに、月給50スクーディのナポリの第二の劇場テアトロ・ヌオーヴォの監督という職を彼に与えた。この安定した境遇が後押しして、ドニゼッティはヴィルジニアとの結婚を決意した。このナポリでの契約に加えて、ドニゼッティは、ジェノヴァのカルロ・フェリーチェ劇場と依頼に招待され、『ゴルコンダの女王アリーナ』(Alina, regina di Gorgonda)(1828)を作曲した。ちょうどこの頃、ジェノヴァではベッリーニの『ビアンカとフェルディナンド』(Bianca e Fernando)とロッシーニの『コリントの包囲』(Le siège de Corinthe)が上演されており、ロッシーニの作品はこれらと競うこととなった。

1828年、ドニゼッティはナポリの王立劇場の監督という地位を手に入れ、この職を1838年まで務めることとなる。こうしてサン・カルロ劇場のために、次の二つの重要な作品が作曲された:『追放されたローマ人』(L’esule di Roma, ossia il proscritto)(1828)、『ノアの大洪水』(Il diluvio universal)(1830)。特に後者はナポリで大絶賛された後、ミラノのスカラ座にて6ヶ月間にわたって上演されることとなる。

 

音楽家としての成功(1830–38)

このようにして、ドニゼッティの評判は、イタリア内外で確立されていき、彼の31番目のオペラである『アンナ・ボレーナ』(Anna Bolena)は、ベッリーニの『夢遊病の娘』(La sonnambula)と共に、ミラノのカルカーノ劇場にて、1830年のカーニバルシーズンに上演された。この作品は大成功を収め、パリやロンドンでも上演されることとなる。ロッシーニやベッリーニのケースと同様に、ドニゼッティの成功は、彼の作品を歌った歌手たちの協力によるところが大きかった。特にドニゼッティの1830年代初頭の作品に対して重要な役割を果たしたバリトン歌手ジョルジョ・ロンコーニ(Girogio Ronconi)は、ローマのヴァッレ劇場のために作曲された『サン・ドミンゴ島の狂人』(Il furioso all’isola di San Domingo)と『トルクァート・タッソ』(Torquato Tasso)でその声を披露した。ロンコーニの声は、とりたてて美しく力強いというわけではなかったものの、劇場的な存在感を放ち、ドニゼッティの作品と見事に調和していたと言われる。1832年に入ると、ドニゼッティは、『愛の妙薬』で大成功を収め、ベッリーニと肩を並べるオペラ作家として名を馳せた。

1833年1月2日、ドニゼッティは、ローマにて、『サン・ドミンゴ島の狂人』(Il furioso all’isola di San Domingo)の初演日を迎え、3月17日には『パリジーナ』(Parisina)の上演を開始した。その後、妻ヴィルジニアと共にローマにとどまっていたドニゼッティであったが、ミラノのスカラ座パリのイタリア座(Théâtre-Italien)と契約を結ぶための交渉を始める。幾つかの仕事をこなした後、ドニゼッティは妻をローマに残してミラノへと旅立ち、この年の10月から11月を『ルクレツィア・ボルジア』(Lucrezia Borgia)の作曲に費やした。この年の12月26日、ミラノのスカラ座における『ルクレツィア・ボルジア』の初演を見届けたドニゼッティは、『ノアの大洪水』の上演のためにジェノヴァへ、『ファウスタ』の上演のためにトリノへと休むことなく移動を続け、ようやく1834年4月になってから、妻を伴ってナポリに戻った。

1830年代に制作されたドニゼッティのオペラのほとんどは、検閲の対象となった。例えば、『ルクレツィア・ボルジア』は、5人の登場人物が殺害されるという内容と歴史上の人物の問題をはらむ描写のために、ナポリでは上演を禁じられた。また、他都市においては、『エリサ・フォスコ』(Elisa Fosco)などとタイトルと内容を変えることを条件として、上演を許可された。『ルクレツィア・ボルジア』は比較的検閲が厳しくないミラノのスカラ座のために書かれた作品であったため、他都市においてこのような問題が生じたのであった。1830年代のイタリア半島は未だ「イタリア」という国家として統一されておらず、それぞれの都市が異なる歴史的背景、および19世紀当時の政治的事情を持っていたために問題はより深刻なものとなったのであった。また、1834年、『マリア・ストゥアルダ』も、政治的な事情によりまたナポリにて上演を禁じられたのであった。この検閲をめぐって都市当局と争ったドニゼッティは、1838年、ついにナポリからパリへと移る決断をする。この検閲をめぐる争いが芸術に与えた影響は計り知れない。このセンセーショナルで悲劇的な結末の作品を取り締まる傾向によって、ドニゼッティは真の「ロマン主義者」となりえなかったと解釈されることもある。その一方で、このような検閲が、19世紀のイタリアのオペラに与えたポジティブな側面も否定できない。それは、イタリアのオペラが、表現の制限と自由という緊張状態の間で成長したという捉え方である。

1835年、ロッシーニがパリのイタリア座のために新しい仕事を委託したことにより、待望の機会がドニゼッティに訪れた。これまで協力的であった台本作家フェリーチェ・ロマーニ(Felice Romani)を説得することができなかったドニゼッティは、経験の浅いエマヌエーレ・ビデラ(Emanuele Bidèra)で手を打った。この時期のベッリーニの書簡から、ロッシーニが、ドニゼッティの『マリーノ・フェリエーロ』(Marino Faliero)とベッリーニの『清教徒』(I puritani)、それぞれに携わっていたことが明らかとなっている。これらの作品はパリで受け入れられたものの、ドニゼッティの作曲があまりにも早過ぎて、またロッシーニの模倣に過ぎないという避難をするフランスの人々もいた。

1836年、ドニゼッティは、ドーバー海峡に臨む港町カレー1)カレー(Calais): フランス北部、英国に元も近いフランスの港。百年戦争中の1347年、英国軍に占領されたが、この時、刃物製造業者のサン・ピエールら5人の市民が、英国王エドワード3世に懇願して街を救った。以降、ギーズ家のフランソアがカレーを奪回する1558年まで英国領であったを犠牲にしたというフランスの愛国的なエピソードをモチーフにした『カレの包囲』(L’assedio di Calais)の作曲に5ヶ月の月日を費やした。この年の11月、この曲はナポリのサン・カルロ劇場で初演の日を迎えたものの、パリで上演されることは叶わなかった。オペラ作曲家としての失望は、相次ぐ両親の死、さらに愛する妻ヴィルジニアの出産による死(1837)といったドニゼッティの身内の不幸によって一層深刻なものとなった。この頃、ドニゼッティは、両親や妻、子供に先立たれた悲痛な悲しみを友人に宛てた書簡の中で生々しく綴っている。

 

パリとウィーンでの活躍と晩年(1838–48)

度重なる身内の不幸に見舞われたドニゼッティは、1838年10月、ナポリを離れ、一時的にパリへと向かった。ドニゼッティは、パリのイタリア座における『ロベルト・デヴリュー、またはエセックス伯爵』(Roberto Devereux, ossia il conte di Essex)と『愛の妙薬』(L’elisir d’amore)の上演を監督したものの、『ポリウト』(Poliuto)が検閲の対象となり、粉の作品を『殉教者』(Les martyrs)として改作することとなった。1840年になって『殉教者』はオペラ座で上演された。また、パリの新しい劇場ルネサンス座(the Théâtre de la Renaissance)は、ドニゼッティに新しい仕事を委託したため、彼は『ニシドの天使』(L’ange de Nisida)の作曲に着手した。ところが、ルネサンス座が破産したため、『ニシドの天使』は完成されることはなく、代わりにドニゼッティはパリ座で上映される曲『ラ・ファヴォリート』(La favorite)の制作に専心することとなった。

このようにして徐々にパリで活躍の場を得ていったドニゼッティであったが、1841年2月、ローマにて『アデリア、または射手の娘』(Adelia, o La figlia dell’arciere)の初演日を迎え、さらにはこの年のうちに、ミラノのスカラ座にて『マリア・パディッラ』(Maria Padilla)を発表した。1842年3月、ドニゼッティは、ロッシーニの『スターバト・マーテル』(Stabat mater)のボローニャでの初演の指揮をとるよう依頼された。 この頃、ロッシーニは、ボローニャのサン・ペトロニオ大聖堂におけるマエストロ・ディ・カペッラ(maestro di cappella)の職を引き受けるようにドニゼッティを説得していたが、ドニゼッティは、ウィーンのハプスブルグ家の宮廷楽長(Hofkapellmeister)の職を引き受けるためにその説得を退けた。

1840年代初頭までに、ドニゼッティは、1年のうちの半分をパリとウィーンに滞在するようになっていた。ドニゼッティの死因となった梅毒の症状は、1844年頃には、その執筆の手を遅めねばならないほど顕著なものとなっていた。1845年になると、ドニゼッティはほとんど作曲できないほど、体調を悪化させていた。一時的にパリの保護施設に入ったドニゼッティは、1847年の秋、故郷のベルガモに帰還し、ローザ・ロータ・バサーニ男爵の家に逗留した。1848年4月、ロンバルディア地方におけるオーストリア支配に対する蜂起と時を同じくして、ドニゼッティは亡くなり、ベルガモの共同墓地に埋葬された。その死からおよそ30年を近くを経た1875年、彼の亡骸は、フィレンツェの大聖堂に移された。

ドニゼッティの故郷ベルガモ

評価

ドニゼッティの存命中、彼の65あまりのオペラのうち20作品は、ヨーロッパ中で上演されており、この傾向は、19世紀末までは続いた。ところが20世紀に入ると、『愛の妙薬』(L’elisir d’amore)、『ルクレツィア・ボルジア』 (Lucrezia Borgia)『ランメルモールのルチア』(Lucia di Lammermoor) 『連隊の娘』(La fille du régiment)、『ラ・ファヴォリート』(La favorite)そして『ドン・パスクヮーレ』(Don Pasquale)といったごく一部の作品のみしか上演されなくなった。

1948年、ドニゼッティの没後100周年を記念してベルガモでは再びドニゼッティに注目が集まった。この「ドニゼッティ・ルネサンス」によって、忘れられていた多くの作品に再び光が当てられることとなり、また1970年代以降は、二人のロンドンに基盤を置く組織がドニゼッティのあまり知られていない作品を公にした。1995年以降、ベルガモに拠点を置くドニゼッティ財団(Fondazione Donizetti)は、ドニゼッティの作品の上演、またはそれに関する会議や学術書の出版のスポンサーとなっている。

作品一覧

オペラ

  • 『ピグマリオン』(Pigmalione)(1816):1960年10月13日ベルガモにて初演。
  • 『アキレスの怒り』(L’ira di Achille)(1817)
  • 『ブルゴーニュのエンリーコ』(Enrico di Borgogna)(1818)
  • 『ばかげた行い』(Una follia)(1818):現在は失われている。『狂気』とも。
  • 『ロシア大帝ピョートル』(Il falegname di Livonia, o Pietro il grande czar delle Russie) (1819)
  • 『村の結婚式』(Le nozze in villa)(1821)
  • 『グラナダのゾライーダ』(Zoraida di Granata)(1822)
  • 『ジンガラ』(La zingara)(1822):『ジプシーの女』とも。
  • 『匿名の手紙』(La lettera anonima )(1822)
  • 『キアラとセラフィナ、または海賊たち』(Chiara e Serafina ossia i Pirati) (1822)
  • 『アルフレッド大王』(Alfredo il grande)(1823)
  • 『幸福な間違い』(Il fortunate inganno)(1823):『だまされた幸運な男』とも。
  • 『当惑した家庭教師』(L’ajo nell’imbarazzo)(1824)
  • 『リヴァプールのエミリア』(Emilia di Liverpool)(1824)
  • 『グラナダのアラホール』(Alahor in Granata)(1826):『グラナダの亡命者』
  • 『エルヴィーダ』(Elvida)(1826)
  • 『ヴェルジーのガブリエッラ』(Gabriella di Vergy)(1826):未上演、1838年改訂。
  • 『オリーヴォとパスクワーレ』(Olivo e Pasquale)(1827)
  • 『2時間で8ヶ月、またはシベリアの流刑者たち』(Otto mesi in due ore, ossi Gli esiliati in Siberia)(1827)
  • 『サールダムの市長』(Il borgomastro di Saardam)(1827)
  • 『劇場の都合』(Le convenienze teatrali)(1827)
  • 『追放されたローマ人』(L’esule di Roma, ossia il proscritto)(1828):『ローマの亡命者』とも。
  • 『リヴァプールの隠れ家』(L’eremitaggio di Liverpool)(1828):『リヴァプールのエミリア』の改作。
  • 『ゴルコンダの女王アリーナ』(Alina, regina di Gorgonda)(1828)
  • 『カレのジャンニ』(Gianni di Calais) (1828)
  • 『世襲貴族』(Il paria)(1829):『パーリア』とも。
  • 『カーニヴァルの木曜日』(Il giovedi grasso, o il nuovo Pouceaugnac)(1829):『謝肉祭の木曜日、または新しいプルソーニャ』とも。
  • 『ケニルウォース城のエリザベッタ』(Elisabetta al castello di Kenilworth)(1829):『エリザベッタ、またはケニルワースの城』とも。
  • 『気違いのふりをする人たち』(I pazzi per progetto )(1830):『狂気じみた人たち』とも。
  • 『ノアの大洪水』(Il diluvio universal)(1830):『世界的な大洪水』とも。1834年改訂。
  • 『ランベルタッツィのイメルダ』(Imelda de’Lambertazzi)(1830)
  • 『アンナ・ボレーナ』(Anna Bolena)(1830)
  • 『劇場の好不都合』(Le convenienze ed incovenienze teatrali)(1831):『劇場の都合』改作。『劇場的都合不都合』とも。
  • 『パリのジャンニ』(Gianni di Parigi)(1831)
  • 『フォアのフランチェスカ』(Franzesca di Foix)(1831)
  • 『女流小説家とどろぼう』(La romanziera e l’uomo)(1831):『女小説家と黒い男』とも。
  • 『ファウスタ』(Fausta)(1832)
  • 『パリのウーゴ伯爵』(Ugo, conte di Parigi)(1832)
  • 『愛の妙薬』(L’elisir d’amore)(1832)
  • 『カスティーリャのサンチャ』(Sancia di Castiglia)(1832):『カスティグリアのサンチャ』とも。
  • 『サン・ドミンゴ島の狂人』(Il furioso all’isola di San Domingo)(1833) :『ドミニカ島の激情』とも。
  • 『パリジーナ』(Parisina)(1833):『パリジーナ・デステ』とも。
  • 『トルクァート・タッソー』(Torquato Tasso)(1833)
  • 『ルクレツィア・ボルジア』(Lucrezia Borgia)(1833)
  • 『イングランドのロスモンダ』(Rosmonda d’Inghilterra)(1834)
  • 『マリア・ストゥアルダ』(Maria Stuarda)(1834)
  • 『ブオンデルモンテ』(Buondelmonte)(1834)
  • 『ヴェルジーのジェンマ』(Gemma di Vergy)(1834)
  • 『マリーノ・フェリエーロ』(Marino Faliero)(1835)
  • 『ランメルモールのルチア』(Lucia di Lammermoor)(1835)
  • 『ベリザーリオ』(Belisario)(1836)
  • 『夜の呼び鈴』(Il campanello di note)(1836)
  • 『ベトリー、またはスイスの山小屋』(Betly, ossia La capanna svizzera)(1836)
  • 『カレの包囲』(L’assedio di Calais)(1836)
  • 『ピーア・デ・トロメイ』(Pia de’Tolomei)(1837):『トロメイのピーア』とも。
  • 『ロベルト・デヴリュー、またはエセックス伯爵』(Roberto Devereux, ossia il conte di Essex)(1837)
  • 『ルデンツ家のマリア』(Maria di Rudenz)(1838)
  • 『ポリウト』(Poliuto)(1838):『殉教者』とも。
  • 『連隊の娘』(La fille du regiment)(1839)
  • 『ニシドの天使』(L’ange de Nisida)(1839):未完成。
  • 『殉教者』(Les martyrs)(1840):1838年の『ポリウト』の改作。
  • 『ラ・ファヴォリート』(La favorite)(1840)
  • 『アデリア、または射手の娘』(Adelia, o La figlia dell’arciere)(1841)
  • 『リータ、または打ちのめされた夫』(Rita ou Le mari battu)(1841)
  • 『マリア・パディッラ』(Maria Padilla)(1841)
  • 『シャモニーのリンダ』(Linda di Chamounix)(1842)
  • 『ドン・パスクヮーレ』(Don Pasquale)(1842)
  • 『ロアン家のマリア』(Maria di Rohan)(1843)
  • 『ドン・セバスティアン』(Dom Sébastien)(1843)
  • 『カテリーナ・コルナーロ』(Caterina Cornaro)( 1844)
  • 『忘れな草』(Ne m’oubliez pas)(1843)

 

声楽曲と小品

  • 『春の帰路』(Il ritorno di primavera)(1818)
  • 『テレーザとジャンファルドーニ』(Teresa e Gianfaldoni)(1821)
  • 『カンタータ:これは大地』(Cantata(‘Questo è il suolo’)(1822)
  • 『アンジェリカとメドロ』(Angelica e Medoro (after Ariosto))(1822)
  • 『聖母マリア被昇天』(L’auunzione di Maria Vergine(G. B. Rusi))(1822)
  • 『アリステア』(Aristea (azione pastorale, 1, G. F. Schmidt)(1823)
  • 『愛しいシルヴィオよ』(A Silvio amante)(1823)
  • 『ティスベの逃亡』(La fuga di Tisbe)(1824)
  • 『臣下たちの宣誓』(I voti dei sudditi)(1825)
  • 『出発』(La Partenza)(1825)
  • 『カンタータ』(Cantata)(1825)
  • 『リチェンツァ』(Licenza)(1825/26)
  • 『サッフォー』(Saffo)(1828)
  • 『神曲 第8歌』(Il Canto XXXIII della Divina commedia (Dante))(1843)
  • 『国王の讃歌』(Inno reale (F. Romani))(1828)
  • 『調和の神』(Il genio dell’armonia(E. Visconti)(1829)
  • 『幸運な帰還』(Il fausto ritorno)(1830)
  • 『カンタータ』(Cantata)(1831)
  • 『ナポリ王のための讃歌』(Inno, for wedding of King of Naples)(1832)
  • 『神の意志』(Il fato (J. Ferretti))(1833)
  • 『カンタータ』(E. and C. Carnevali)(for nameday of Anna Carvali, 26 July 1833)
  • 『人々の祈り』(La preghiera di un popolo(hymn))(1837)
  • 『カンタータ』(Donizetti)(1838)
  • 『フランスからの挨拶』(Dalla Francia un saluto t’invia)(1841)
  • 『クリストフォロ・コロンボ』(Cristoforo Colombo)(1845)

 

歌曲

  • 『3つのカンツォネッタ』(3 canzonette)(1823)
  • 『ポジリッポの夏の夜』(Nuits d’été à Pausilippe)(1836)
  • 『インフラスカータの秋の夕べ』(Soirées d’automne à l’Infrascata)(1837)
  • 『パリの冬』(Un hiver à Paris)(1839)
  • 『音楽集』(Matinée musicale)(6 songs, 2 duets, 2 qts)(1841)
  • 『ウィーンの感性』(Inspirations viennoises)(1842)
  • 『6つのカンツォネッタと2つのドュエット』(Raccolta di 6 canzonette e 2 duettini)(制作年代不明)
  • 『墓地の花』(Fiori di sepolcro)(制作年代不明)

 

オーケストラ

  • 『協奏曲風交響曲』(Sinfonia concertante)(1816)
  • 『コンチェルティーノ』(Concertino, G)(1817)

その他の作品

  • 『序曲』(Introduzione)(1829)
  • 『軍隊行進曲』(Gran marcia militare imperial, for the Sultan of Turkey)(制作年代不明)
  • 『行進曲』(1840)
  • 『アダージョとアレグロト長調、アレグロヘ短調』(Adagio e Allegro, G, Allegro, f, ed. R. Meylan)(制作年代不明)

ピアノ曲

  • 『田園曲 ホ長調』(Pastorale, E)(1813)
  • 『交響曲第3番 イ長調』(Sinfonia no. 3, A)(1813)
  • 『交響曲 ハ長調』(Sinfonia, C)(1816)
  • 『交響曲の中の奇想曲』(Un capriccio in sinfonia)(1817)
  • 『ロンド ニ長調』(Rondò, D)(1825)
  • 『ラルゲット ハ長調』(Larghetto, C)(1834)
  • 『ヴェネツィア・ワルツ』(La vénitienne, waltz)(1843)

ピアノ連弾曲

  • 『イル・カピタン・バッタリア』(Il Capitan Battaglia, sonata, E♭)(1819)
  • 『ポロネーズ』(Polacca, D)(1819)
  • 『ソナタ ハ長調』(Sonata, C)(1819)
  • 『ソナタ ニ長調』(Sonata, D)(1819)
  • 『交響曲第2番 ニ短調』(Sinfonia no. 2, d)(1820)
  • 『ソナタ イ短調』(Sonata, a)(1820)
  • 『ウナ・デッレ・ピウ・マッテ ハ長調』(Una delle più matte, C)(1820)
  • 『無題 ハ長調』(untitled piece, C)(1821)
  • 『ワルツ』(1844)

教本・練習曲

  • 『フーガと対位法の練習曲』(Fugues and counterint exercises)(1815-17)

ドニゼッティを知るための文献

便覧・目録

  • Campana,E. Senici and M.A. Smart, eds.: Donizetti a Casa Ricordi: gli autografi teatrale(Bergamo, 1998).
  • P. Cassaro:Donizetti: a Guide to Research (New York, 2000).
  • Inzaghi: ‘Catalogo generale della opera’,Gaetano Donizetti, ed. G. Tintori (Milan, 1983), pp. 133–278.
  • Malherbe:Centenaire de Gaetano Donizetti: catalogue bibliographique de la section française à l’exposition de Bergamo (Paris,1897).
  • Sacchiero, ed.:Il Museo donizettiano di Bergamo (Bergamo, 1970).
  • Zavadini:Museo donizettiano di Bergamo: catalogo generale (Bergamo,1936).

 

専門的刊行物

  • Studi donizettiani, no.1 (1962); no.2 (1972); no.3 (1978); no.4 (1988) [SD]
  • Donizetti Society Journal(1974–) [DSJ]

 

書簡

  • An Unpublished Donizetti Letter’,DSJ, 2 (1975), pp. 271–4 [letter to  Peluti].
  • Barblanand F. Walker: ‘Contributo all’epistolario di Gaetano Donizetti’, SD, no.1 (1962), pp. 1–150.
  • Commons: ‘Una corrispondenza tra Alessandro Lanari e Donizetti (45 lettere inedite)’,SD, no.3 (1978), pp. 9–74.
  • Lippmann: ‘Autographe Briefe Rossinis und Donizettis in der Bibliothek Massimo, Rom’,AnMc, no.19 (1980), pp. 330–35.
  • Schlitzer: ‘Curiosità epistolari inedite nella vita teatrale di Gaetano Donizetti’,RMI, 1 (1948), pp. 273–83.
  • SD, no.4 (1988), pp. 7–126.
  • Speranza: ‘Lettere inedite di Donizetti’, ‘Lettere inedite dirette a Donizetti’,SD, no.2 (1972), pp. 97–110, 111–29 [index, 131–2].
  • G. Waidelich: ‘“In dem Vaterlande der Haydn, der Mozarte, und so vieler andern berühmten Componisten”: ein unbekannter Brief Gaetano Donizettis betreffend den Vertrieb seiner Opera buffaOlivo e Pasquale in Deutschland’, Semantische Inseln, musikalisches Festland: für Tibor Kneif zum 65. Geburtstag, ed. H.-W. Heister and others (Hamburg, 1997), pp. 57–62.
  • Zavadini:Donizetti: vita, musiche, epistolario (Bergamo, 1948).

 

伝記

  • Ashbrook,Donizetti and his Operas (Cambridge, 1982) [incl. full bibliography].
  • Bossi,Donizetti (Brescia, 1956).
  • Donati-Petteni,Donizetti (Milan, 1930, 3/1947)
  • Gavazzeni,Gaetano Donizetti: vita e musiche (Milan, 1937).
  • Geddo,Donizetti: l’uomo, le musiche (Bergamo, 1956).
  • Mioli,Donizetti: 70 melodrammi (Turin, 1988).
  • Monaldi,Gaetano Donizetti (Turin, 1938).
  • Regli,Gaetano Donizetti e le sue opere (Turin, 1850).
  • Weinstock,Donizetti and the World of Opera in Italy, Paris and Vienna in the First Half of the Nineteenth Century (New York, 1963/R).
  • Zavadini,Donizetti: vita, musiche, epistolario (Bergamo, 1948).

 

邦語文献

  • グリエルモ・バルブラン, ブルーノ・ザノリーニ著、高橋和恵訳 『ガエターノ・ドニゼッティ : ロマン派音楽家の生涯と作品』昭和音楽大学、2005年。
  • 丸本隆 [ほか] 編『オペラ学の地平』(総合舞台芸術への学際的アプローチ, 2)彩流社、2009年。

 

参考文献

 

Notes   [ + ]

1. カレー(Calais): フランス北部、英国に元も近いフランスの港。百年戦争中の1347年、英国軍に占領されたが、この時、刃物製造業者のサン・ピエールら5人の市民が、英国王エドワード3世に懇願して街を救った。以降、ギーズ家のフランソアがカレーを奪回する1558年まで英国領であった
1989年生まれ。京都大学文学部卒業後、同大学院を経て、一橋大学大学院に進学。現在はミラノ大学にて在外研究中。専門はルネサンス期北イタリアの政治文化と外交。ミラノにてピアノ演奏会に出演するなど活動歴多数。好きな作曲家は、バルトーク、ラフマニノフ。 Studentessa in corso di dottorato di ricerca
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