ピョートル・チャイコフスキー

生 : 1840年5月7日(ユリウス暦では4月25日)(ロシア帝国、ウラル地方ヴォトンキスク(Kamosko-Votkinsk, Vyatka province))/没 : 1893年11月6日(ユリウス暦では10月25日)(ロシア帝国、サンクトペテルブルグ)

ピョートル・チャイコフスキー (Tchaikovsky, Pyotr Il′yich) は、西欧の交響曲の伝統を融合させた新しいロシアの作曲家。ロシアの伝統的またチャイコフスキーの個人的な素地を持ちながら、ベートーベンやシューマンの交響曲のスタイルとロシアの作曲家のグリンカ(Mikhail (Ivanovch) Glinka) 1)グリンカ(Mikhail (Ivanovch) Glinka):1803年生まれ1857年没。ロシア国民音楽派の先駆者。代表作にオペラ『ルスランとリュドミラ』(Russlan and Ludmilla)(1842)。 の作品を結びつけた。

生涯 | Biography

法科学校での音楽教育、帝室ロシア音楽協会からペテルブルク音楽院へ (1840-1865年)

1840年、ピョートル・チャイコフスキーは、鉱山技師の父ペトローヴィチ・チャイコフスキー(Il’ya Petrovich Tchaikovsky)と母アレクサンドラの次男として誕生した。後にチャコフスキーには、双子の弟と一人の妹が生まれた。双子の一人は、法学者となるアナトリー(Anatoly; 1850-1915)、そしてもう一人は、作家となるモデスト(Modest; 1850-1916)であった。その兄弟たちは、チャイコフスキーを生涯にわたって支えていくことになり、モデストは、『ピョートル・チャイコフスキーの人生』(The Life of Pyotr Il′yich Tchaikovsky (1901–03)) という伝記を出版した。1848年10月、父の仕事を探すために一家はモスクワに移り、その一ヶ月後にサンクトペテルブルクに移った。さらに1849年6月にはアラパエフスク(Alapayevsk)いう鉱山都市に移り住んだ。

チャイコフスキーは語学の才能があったことから、6歳の時にはフランス語とドイツ語を読むことができたという。チャイコフスキーの家庭教師は、少年期のチャイコフスキーの環境は、音楽教育に適したものとは言えなかったことを嘆いていた。そのうちチャイコフスキーの新しい家庭教師アナスタシア・ペトローヴァ(Anastasya Perivna)がやってくると、彼女はチャイコフスキーのために学校入学の準備を行った。このことから、チャイコフスキーはアナスタシアのために『アナスタシア・ワルツ』(1854)という曲を作っている。1850年、チャイコフスキーは、母によって法科学校の予科生としてサンクトペテルブルクに移ることになったが、わずか10歳のチャイコフスキーにとってこの家族との別れはトラウマとなったという。

1852年8月から59年5月まで法科学校に在籍したチャイコフスキーは、喫煙以外は、真面目に学校の規則に従っていた。1854年6月、母のアレクサンドラが亡くなった。弟のモデストは、その著書『チャイコフスキーの生涯』の中で暗にチャイコフスキーが母の師に立ち会えなかったことを示唆している。母の死によって一家の生活は大きく変わり、その弟たちを寄宿学校に入れるために、一家はサンクトペテルブルクで一緒に住むことになった。一見音楽とは関係のないように思われる法科学校は、一流の音楽家のスポンサーとなり、生徒たちにはサンクトペテルブルクのコンサートやオペラに行く機会を与えた上に、音楽のコースを用意していた。チャイコフスキーは、そこでコーラスを勉強したとされる。チャイコフスキーは、文学にも嗜み、1854年には、『ヒュペルボラ』(Hyperbole)というオペラの他、歌も作曲していた。学校の外では、母方の叔母の支援によって音楽の勉強を続け、歌の教師ルイージ・ピッチョリ(Luigi Piccioli)やピアノの教師ルドルフ・キュンディンガー(Rudolf Kündinger)に師事した。

1859年、法科学校を卒業したチャイコフスキーは、法務省で働くこととなる。この頃、チャイコフスキーは、サンクトペテルブルグの劇場にて催されていたバレエ、イタリアオペラ、アマチュアの演劇に触れていた。そして彼の妹サーシャは、1860年11月、ウクライナのカーメンカを拠点とする貴族ダヴィドヴ家 (Lev Davïdov)いだ一方で、1861年の7月から9月の間、チャイコフスキーは父の仕事の手伝いとして西欧を外遊した。役所勤めや一族のビジネスを離れ、つかの間の休息を得たチャイコフスキーは、旅行熱に浮かされながら西欧文化との関わりを大切にしていた。その後、音楽関係の知人の紹介で、コンサートをオーガナイズするために1859年に設立されたロシア音楽協会(The Russian Musical Society)を知ることになり、1860 年春には音楽のコースを受けるようになる。  

1860年のチャイコフスキー

 1861年より、チャイコフスキーは、仕事を続けながら、ロシア音楽教会において音楽理論のコースを履修し始めた。彼の一番目の教師は、ベートーベンのスタイルを引き継いだニコライ・ザレンバ(Nikolay ZarembaIであった。文官としての出世ができなかった1862年夏、チャイコフスキーは、ロシア音楽教会が新設したペテルブルク音楽院(The St Petersburg Conservatory) 2)ペテルブルク音楽院(The St Petersburg Conservatory): アントン・ルビンシテインによって1862年10月設立。ロシアの千年記念にあたる。 に入った。チャイコフスキーの同級生には、音楽評論家のゲルマン・ラローシ (Herman Laroche; 1845-1904)がいた。チャイコフスキーは、主にアントン・ルビンステイン(Anton Rubinstein; 1829-1894)のもとで、ペテルブルク音楽院では、理論の他、ピアノ、フルート、オルガンを習った。この師と生徒の関係は複雑であり、チャイコフスキーは内心ルビンステインの音楽家としての見くびりながらも、その人格には逆らうことができず、多くのことを師から学んだ。また、すでにこの時にも、チャイコフスキーは当時のロシアにおける音楽を分断していたロシアの音楽と外国の音楽の間の論争を集結させようとしていたという。1865年、音楽院を卒業したチャイコフスキーに対し、同級生のラローシは、「君は現在のロシアにおいて多大なる才能を持っている」と賞賛の言葉を贈っていた。また、この頃のロシア帝国は、皇帝アレクサンドル2世(Alexsander II; r. 1855-1881)のもとで、外政では、度重なる戦争に苦戦しながらも、内政では、農奴解放令を初めとして、地方行政改革、司法改革、軍制改革、教育改革など、様々な改革が皇帝の強い主導によって行われた。このように、強い帝政がしかれるロシアにおいて、チャイコフスキーが学んだロシア音楽協会は、当初ルビンステインら力のある知識人が主導して運営していたものの、1870年代には完全に国営化されるようになった。

モスクワでの活動(1866-76年)と最悪な結婚(1877年)

1865年9月、アントンの弟ニコライ・ルビンステイン(Nikolay Rubinstein; 1835-1881)は、ペテルブルク音楽院のような学校をモスクワにも作るために、音楽理論の教師を探していた。チャイコフスキーは、このポストに応募し、1866年1月にはモスクワに移った。このニコライ・ルビンステインは、精力的に活動した作曲家・ピアニストであり、チャイコフスキーの重要な友であった。こうして1866年9月、帝室音楽協会モスクワ支部が開校して以来、チャイコフスキーは、プロの音楽家としてのキャリアを歩み始め、モスクワのナショナリストからも大きな影響を受けた。モスクワで出会ったチャイコフスキーの友の中には、モスクワ支部で音楽理論について教鞭をとったニコライ・カシュキン(Nikolay Kashkin; 1839-1920)の他、コンスタンチン・カールロヴィチ・アルブレヒト(Konstantin Karl Albrecht,; 1836-1893)や建築家イヴァン・クリメンコ(Ivan Klimenko)があげられ、またサンクトペテルブルクでの同窓生ラローシもモスクワに移った。ルビンステインが立ち上げた芸術家サークルにおいて、チャイコフスキーはモスクワの芸術家やエリートとの交流を楽しんでいた。ところが、チャイコフスキーは繰り返される引越しと移動のために、常に経済的な危機に陥っていた上に、苦情が来るほど教師としての職を遂行するのに支障をきたしていた。このように繊細な性格なチャイコフスキーであったが、1868年歌手のデジレ・アルトー (Désirée Artôt) に恋に落ち、婚約するものの、間も無く破局した。

この時期の作曲家としてのチャイコフスキーのキャリアは、成功していたとは言い難かった。若い頃の作品は散逸している他、演奏されることも稀であった。その後、一時サンクトペテルブルクに戻るものの、チャイコフスキーのモスクワでの初演奏作品は、『序曲 ヘ長調』(Overture, F)であったが、凝った演出となり過ぎた。この時期、強烈な美と明白な論理の間の矛盾がチャイコフスキーの中にはあったといえよう。1875年、『ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調』(Piano Concerto no.1, b♭)を作曲したチャイコフスキーは、初演を友人のニコライ・ルビステインに依頼するも、ニコライは酷評したため、ハンス・フォン・ビューロー(Hans Guido Freiherr von Bülow; 1830-1894)の手によって演奏され成功を収めることとなる。後にこのことを謝罪した友人のニコライ・ルビンステインは手厳しい批評家であったが、そのチャイコフスキーに対する意見は私的なものであったという。

1877年7月18日、チャイコフスキーは、アントニア・イワノヴナ (Antonina Ivanovna Milyukova) と結婚した。あまり相性の良くなかったこの結婚はチャイコフスキーにとって危機を与えたが、二人がすぐに離婚することはなかった。結婚からわずか2週間後、チャイコフスキーは、妹の嫁ぎ先ウクライナで向かいそこで夏を過ごし、9月になるとモスクワで妻との暮らしに戻った。しかしながら、すぐに精神錯乱状態に陥ったチャイコフスキーは、サンクトペテルブルクに移り、医師の勧めで妻アントニアのいない新生活を送ることとなった。

依然として不安定な生活を送るチャイコフスキーには3つの問題があった。一番彼を悩ませていたのは、お金の問題であった。収入がいくら多くても浪費してしまうチャイコフスキーは、援助を友人に頼んでいた。その次に、チャイコフスキーの悩みの種となっていたのは、以前から問題になっていた音楽院での自身の授業であった。この教職のために、作曲に専心できないと考えていた。そして最後の問題は、インスピレーションであった。妻アントニナの証言によると、チャイコフスキーは結婚生活により創造性が失われると考えていたとのことであった。

このように困難を極めた1877年であったが、チャイコフスキーの人生に変化を与えた。しばらくは公表されることはなかったがこの頃、音楽院を離れ、未亡人であり資産家のナジェジダ・フォン・メック(Nadezhda von Meck; 1831-1894)から金銭的な援助を受けていた。1876年12月から始まるチャイコフスキーとナジェジダの往復書簡は、14年も続いたが2人が会うことは一度もなかった。

旅行生活(1878-1885年)と友人ルビンステインとの関係

1878年夏、前年の不調とは打って変わって、チャイコフスキーは、 『白鳥の湖』 (Lebedinoe ozero [Swan Lake]) や『鍛冶屋のヴァークラ』(Kuznets Vakula [Vakula the Smith])といった大作を生み出した。この頃から特にチャイコフスキーは、度々ロシアの外に出て行くようになり、1878年以降6年間の間で20ヶ月以上はロシア国内にはいなかった。このような小旅行もチャイコフスキーの気鬱を完全に癒したとは言えず、依然として作曲の際には苦慮していた。例えば、『大序曲“1812年”』(1812, festival overture, E♭)は、美しい音とけたたましい音が並存するものであった。

バレエ『白鳥の湖』より

音楽院の仕事上の失敗と結婚生活の失敗を引きずったチャイコフスキーではあったが、1884年の未亡人であるパトロン・メックに送った書簡の中では、自身の交響曲は、伝統や規則から自由であることを語っている。

『ピアノ協奏曲第1番』(1875) の酷評以来、大きな溝ができていた友人ルビステインとチャイコフスキーであったが、ルビステインに捧げた『ピアノ協奏曲第2番』(『ピアノ協奏曲第2番ト長調』(Piano Concerto no.2, G; 1880)がきっかけで二人は和解へと向かっていく。1881年、ルビンステインが亡くなると、彼の死を悼んだチャイコフスキーは、『ピアノ三重奏曲 イ短調 “偉大な芸術家の思い出のために”』(Piano trio; 1881-82)を発表した。ルビンステインは、時にはチャイコフスキーの私生活についてまで酷評し最悪の関係にあった上に、音楽院でチャイコフスキーに用意した職は、チャイコフスキーに務まるものではなかったものの、やはりチャイコフスキーにとって重要な保護者であったことは変わりなかった。

この時期に、チャイコフスキーは、オペラ『オルレアンの少女』(Orleanskaya deva [The Maid of Orléans]; 1878-79)と『マゼッパ』(Mazepa [Mazeppa]; 1881-83)を残しており、それぞれ1881年と1884年に初演を迎えている。作曲にあたりチャイコフスキーは主にシラー 3)シラー(Friedrich von Schille, 1759-1805):ドイツの詩人・劇作家。代表作には『ウィルヘルム=テル』(Wilhelm Tell; 1804)や『ドン=カルロス』(Don Carlos; 1787)がある といった劇作家から引用しながらも、自身のスタイルにシナリオを変えていた。特に『マゼッパ』の方は、サンクトペテルブルクでは失敗に終わったものの、モスクワでは成功を収めた。

1877年から1885年という期間は、チャイコフスキーにとって、結婚の失敗から、放浪生活へというように、常に不安定で先の見えないものであった。パトロンのメックの助けもあって、自由に振舞うことができていたものの、それはコンパスを持たない航海のようであった。このような生活が自身の音楽のためにも人間性のためにもならないと悟ったチャイコフスキーは、帰還することに決め、住む場所と仕事を探すこととなった。

定住と最高の栄誉 (1885-1993年)

1885年2月、チャイコフスキーは、モスクワから90キロ離れたところに位置するマイダノヴォに家を借りた。1881年の友人ルビンステインの死後、ロシア音楽協会から復職の申し出があったものの、チャイコフスキーは断っていた。彼は公的な生活を避けようとしていたが、その知名度がそれを許さなかった。こうしてロシア音楽協会モスクワ支部の重役となった。この職権を生かして、1889年から90年の間に、彼は国際的な音楽家たちであるブラームス(Brahms)、ドヴォルザーク(Dvořák)、マスネ(Massenet)をモスクワに招いた。また、ロシアの音楽家リムスキー・コルサコフ(Rimsky-Korsakov)が打楽器奏者の才能のなさに絶望した時には、チャイコフスキー自身が、『スペイン狂詩曲』(Spanish Capriccio)にてカスタネットを担当した。これはチャイコフスキーによって、オーケストラの結束を固めようとした作戦であった。このように西欧での人脈を生かして働きかけるなどしていたチャイコフスキーであったが、音楽院での教職に戻ることはなく、同院での監督、試験官、ブローカーの役割に徹した。

音楽院での活動の他、チャイコフスキーは指揮者もこなすようになっていた。1887年12月、チャイコフスキーは指揮者としての初めてのツアーを開始した。1888年7月にはアメリカにまで赴いたこのツアーは、自身の音楽の他、モーツァルト、ベートーベン、アントン・ルビンステイン、ボロディンなどの曲も扱った。これらチャイコフスキーが行った仕事は大成功を収め、彼の名声を確実なものにした。1884年、チャイコフスキーは、聖ウラジミール4等勲章 (the Order of St Vladimir, Fourth Class) を授けられた上に、1886年には、ロシア大公コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (the Grand Duke Konstantin Romanov; 1858-1915) 4)ロシア大公コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (the Grand Duke Konstantin Romanov; 1858-1915): ロシアの皇族。劇作家でもあり、ロシア科学アカデミー総裁を務めた。 との交流も行われるようになった。さらに、1888年には皇帝アレクサンドル (Aleksandr III; 1845-1894/ r. 1881-1894) によって終身年金を授けられた。また、帝国劇場の責任者イワン・フセヴォロシスキー (Ivan Vsevolozhsky; 1835-1909)とのつながりにより、さらなる活動の場を得た。一方で、長年彼を支え続けたパトロン・メックとの文通は、簡潔なものとなっていき、その頻度も減っていった。また仕事上での成功とは裏腹に、この頃からチャイコフスキーの健康状態も悪化していくことになる。

晩年に差し掛かり、チャイコフスキーの音楽のスタイルは、「この世のもの」と「この世のものではないもの」との哲学的な区分に基づく洗練されたものになっていく。これは同時代を生きた友人たちの死が影響していた。ついに14年続いたパトロンであるメックとの関係が1890年に終わり、深い悲しみを抱えていたチャイコフキーのキャリアは、最高潮を迎えており、また1893年にはケンブリッジ音楽協会から名誉博士号を授けられる。この頃、『スペードの女王』(Pikovaya dama [The Queen of Spades])や『眠れる森の美女』(Spyashchaya krasavitsa (‘The Sleeping Beauty’) )といった名作が成功を収めていた。

1890年のチャイコフスキー

チャイコフスキーの評価は、地域によって様々であった。ロシアの外では、「ロシア人らしさ」について議論がなされた一方で、ヨーロッパあるいはアジア、印象的あるいは情熱的、交響曲あるいはオペラなどと多面的な性質を持つとされていた。特に、アメリカや英国において、彼の音楽は大好評であった。ロシアの中では、その巨匠の才能を模倣するものが現れる一方で、あまりに多作だったために巨匠の創造性が損なわれるのではないかという懸念もなされたりした。そのような心配をよそに、チャイコフスキーの芸術性は、保持され、前衛的な段階によって新しいものへ生まれ変わっていった。以前より体調を崩していたチャイコフスキーは、1893年11月6日に急死した。そのわずか9日前の10月28日には、『交響曲第6番 ロ短調』(Symphony, No. 6, B)が初演されたばかりであった。『交響曲第7番』が未完のまま保存されていることを考えると、チャイコフスキーは最期まで精力的な創作活動をしていたのであった。

作品一覧 | Works

作品番号あり(1-80まで)

  1.  『2つの小品』(Two Pieces; 1867):ピアノ曲。
  2. 『ハープサルの思い出』(Souvenir de Hapsal; 1867):ピアノ曲。
  3. 『地方長官』(Voyevoda (The Provincial Governor); 1867-68):歌曲。
  4. 『ワルツ カプリース ニ長調』(Valse caprice, D; 1868):ピアノ曲。
  5. 『ロマンス ヘ短調』(Romance, f; 1868):ピアノ曲。
  6. 『6つの歌』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1869):ピアノと独唱。
  7. 『ワルツ スケルツォ イ長調』(Valse-scherzo, A; 1870):ピアノ曲。
  8. 『カプリース 変ト長調』(Capriccio, G♭; 1870):ピアノ曲。
  9. 『3つの小品』(Trois morceaux; 1870): ピアノ曲。
  10. 『2つの小品』(Deux morceaux; 1871):ピアノ曲。
  11. 『弦楽四重奏曲第1番 ニ長調』(String Quartet no.1, D; 1871): 室内楽。
  12. 『雪娘』(Snegurochka [The Snow Maiden]; 1873):コーラスとオーケストラ。
  13. 『交響曲第1番 ト短調 “冬の日の幻想”』(Symphony no.1, g; 1866):オペラ。
  14. 『鍛冶屋のヴァークラ』(Kuznets Vakula [Vakula the Smith]; 1878):オペラ。
  15. 『デンマーク国家による祝典序曲』(Festival Ov. on the Danish National Hymn, D; 1866):オーケストラ。
  16. 『6つのロマンス』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1872):ピアノと独唱、歌曲集。
  17. 『交響曲第2番 ハ短調“小ロシア”』(Symphony no.2, c (‘Little Russian’); 1872):オーケストラ。
  18. 『幻想序曲“テンペスト”』(Burya [The Tempest]; 1872):オーケストラ。
  19. 『6つの小品』(Six morceaux; 1872):ピアノ曲。
  20. 『白鳥の湖』(Lebedinoe ozero [Swan Lake]; 1878):バレエ音楽。
  21. 『6つの小品』(Six morceaux; 1873):ピアノ曲。
  22. 『弦楽四重奏曲第2番 ヘ長調』(String Quartet no.2, F; 1874):室内楽。
  23. 『ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調』(Piano Concerto no.1, b♭; 1874-75)
  24. 『エフゲニー・オネーギン』(Yevgeny Onegin [Eugene Onegin];1877-78):オペラ。
  25. 『6つの歌』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1874):ピアノと独唱、歌曲集。
  26. 『憂鬱なセレナード』(Sérénade mélancolique, b; 1875): ヴァイオリンコンチェルト。
  27. 『6つの歌』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1875):ピアノと独唱、歌曲。
  28. 『6つの歌』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1875):ピアノと独唱、歌曲。
  29. 『交響曲第3番二長調“ポーランド”』(Symphony no.3, D (‘Polish’); 1875):オーケストラ。
  30. 『弦楽四重奏曲第三番変ホ長調』(String Quartet no.3, e♭; 1876):室内楽。
  31. 『スラブ行進曲』(Slavyansky marsh [Slavonic March] (Serbo-Russky marsh), B♭; 1876):オーケストラ。
  32. 『幻想曲 “フランチェスカ・ダ・リミニ』(Francesca da Rimini, sym. fantasia after Dante; 1876):オーケストラ。ダンテの『神曲』を題材にした曲。
  33. 『ロココ風の主題による変奏曲』(Variations on a Rococo Theme, A ; 1876):チェロコンチェルト。
  34. 『ワルツ・スケルツォ』(Valse-scherzo, C;1877):ヴァイオリンコンチェルト。
  35. 『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』(Violin Concerto, D; 1876-77)
  36. 『交響曲第4番ヘ短調』(Symphony no.4, f; 1876):オーケストラ。
  37. 『ピアノソナタ ト長調』(Sonata, G; 1878)/ 37b.『四季』(Les saisons; 1875-76):ピアノ曲。
  38. 『6つの歌』(1878):独唱とピアノ。
  39. 『子供のアルバム』(Album pour enfants; 1878):ピアノ曲。
  40. 『12の小品 中級』(Douze morceaux (difficulté moyenne); 1878):ピアノ曲。
  41. 『聖金口イオアン聖体礼儀』(Liturgy of St John Chrysostom; 1878): コーラス。クリュソストモス(Saint John Chrysostom; 347?-407)は、コンスタンティノープル大司教(r. 398-404)・ギリシアの教父。彼の雄弁は、「金の口ヨハネ」と賞賛された。
  42. 『なつかしい土地の思い出』(Souvenir d’un lieu cher; 1878):ヴァイオリン、ピアノ。
  43. 『組曲第1番ニ長調』(Suite no.1, D; 1878-79):オーケストラ。
  44. 『ピアノ協奏曲第2番ト長調』(Piano Concerto no.2, G;1879-80)
  45. 『イタリア奇想曲』(Capriccio Italien, A; 1880):オーケストラ。
  46. 『6つの二重唱曲』(1880)
  47. 『7つの歌』(1880)
  48. 『弦楽のためのセレナーデハ長調』(Serenade, C, str; 1880):オーケストラ。
  49. 『大序曲“1812年”』(1812, festival ov., E♭; 1880):オーケストラ。
  50. 『ピアノ三重奏曲 イ短調 “偉大な芸術家の思い出のために”』(Piano trio; 1881-82)
  51. 『6つの小品』(Six morceaux; 1882)
  52. 『晩祷』(Vesper Service; 1882): コーラス。
  53. 『組曲第2番ハ長調“性格的”』(Suite no.2, C; 1883):オーケストラ。
  54. 『16の子供のための歌』(1883):独唱とピアノ。
  55. 『組曲第3番ト長調』(Suite no.3, G; 1884):オーケストラ。
  56. 『協奏的幻想曲ト長調』(Concert Fantasia, G; 1884):ピアノコンチェルト。
  57. 『6つの歌』(1884): 独唱とピアノ。
  58. 『マンフレッド交響曲』(Manfred, sym. after Byron, b; 1885):オーケストラ。
  59. 『ドゥムカ:ロシアの農村風景』(Dumka: Russian rustic scene; 1886):ピアノ曲。
  60. 『12の歌』(1886):独唱とピアノ。
  61. 『組曲第4番ト長調“モーツァルティアーナ”』(Suite no.4, G; 1887):オーケストラ。
  62. 『奇想的小品ロ短調』(Pezzo capriccioso; 1887):チェロコンチェルト。
  63. 『6つの歌』(1887):独唱と歌。
  64. 『交響曲第5番ホ短調』(Symphony no.5, e; 1888):オーケストラ。
  65. 『フランス語の歌詞による6つの歌』(1888):独唱とピアノ。
  66. 『眠れる森の美女』(Spyashchaya krasavitsa [The Sleeping Beauty]; 1888-89):バレエ音楽。
  67. 『幻想序曲ハムレット』(Hamlet, fantasy ov. after Shakespeare, f; 1889-90):オーケストラ。
  68. 『スペードの女王』(Pikovaya dama [The Queen of Spades]; 1890): オペラ。
  69. 『イオランタ』(Iolanta [Iolanthe]; 1891):オペラ。
  70. 『弦楽六重奏曲ニ短調 “フィレンツェの思い出”』(Souvenir de Florence, str sextet, D; 1887-90)
  71. 『組曲くるみ割り人形』(Shchelkunchik [The Nutcracker]; 1892):オーケストラ。
  72. 『18の小品』(Dix-huit morceaux; 1893):ピアノ曲。
  73. 『D. M. ラートガウスの詞による6つの歌』(1893)
  74. 『交響曲第6番ロ短調“悲愴”』(Symphony no.6, b (‘Pathétique’); 1893):オーケストラ。
  75. 『ピアノ協奏曲第3番変ホ長調』(Piano Concerto no.3, E♭;1893)
  76. 『序曲 嵐』(Groza [The Storm]; 1864):オーケストラ。
  77. 『幻想曲 運命』(Fatum [Fate]; 1868):オーケストラ。
  78. 『交響的バラード“地方長官”』(Voyevoda; 1890-91):オーケストラ。
  79. 『アンダンテとフィナーレ変ロ長調/変ホ長調』(Andante, B♭, Finale, E♭ ;1893):ピアノコンチェルト。
  80. 『ピアノソナタ 嬰ハ短調』(1865; Sonata, c♯): 死後出版(1900)。

作品番号なし

オペラとバレエ

  • 『ヒュペルボラ』(Hyperbole; 1854)
  • 『ポリス・ゴドノフ』(Boris Godunov; 1863-64)
  • 『僭称者ドミトリーとワシリー・シュイスキー』(Dmitry Samozvanets i Vasily Shuysky [Dmitry the Pretender and Vasily Shuysky]; 1867)
  • 『大混乱』(Putanista [The Tangle]; 1867)
  • 『地方長官』(The Voyevoda; 1867-68)
  • 『オーベールの“黒いドミノ”のためのレチタティーヴォと合唱』(Le domino noir (D.-F.-E. Auber); 1868)
  • 『オンディーヌ』(Undina [Undine]; 1869)
  • 『マンドラゴラ』(Mandragora; 1870)
  • 『オプリーチニク(親衛隊)』(Oprichnik [The Oprichnik]; 1870-72)
  •  『セヴィリアの理髪師』(Le barbier de Séville; 1872)
  • 『”オプリチーニク”の主題による葬送行進曲』(Oprichnik; 1877)
  • 『オルレアンの少女』(Orleanskaya deva [The Maid of Orléans]; 1878-79)
  • 『妖精』(La fée ;1879)
  • 『マゼッパ』(Mazepa [Mazeppa]; 1881-83)
  • 『チャロディカ』(Charodeyka [The Enchantress]; 1885-87)
  • 『スペードの女王』(The Queen of Spades, Op. 68; 1890)
  •  『くるみ割り人形』(The nutcracker, Op. 71; 1892)

オーケストラ

  • 『アンダンテ・マ・ノン・トロッポ イ長調』(Andante ma non troppo, A; 1863-64)
  • 『アジタートとアレグロ』(Agitato and allegro; 1863-64)
  • 『リトル・アレグロ』(Little Allegro, with introduction, D; 1863-64)
  • 『アレグロ・ヴィーヴォ』(Allegro vivo, c; 1863-64)
  • 『コロッセウムのローマ人』(The Romans in the Coliseum; 1863-64):現在は失われている。
  • 『序曲 ヘ長調』(Overture, F; 1865)
  • 『性格的な舞曲』(Characteristic Dances;1865)
  • 『序曲 ハ短調』(Concert Overture, c; 1865-66)
  • 『交響曲第1番 ト短調』(Symphony, No. 1, G, Op. 13; 1866)
  • 『幻想序曲 ロメオとジュリエット』(Romeo i Dzul′etta [Romeo and Juliet]; 1869)
  • 『N. ルビンシテインの命名日のためのセレナード』(Serenade for Nikolay Rubinstein’s nameday ; 1872)
  • 『交響曲第2番 ハ短調』(Symphony, No. 2, C, Op. 17; 1872)
  • 『交響曲第3番 ニ長調』(Symphony, No. 3, D, Op. 29; 1875)
  • 『交響曲第4番 ヘ短調』(Symphony, No. 4, F, Op. 36; 1877-78)
  • 『交響曲第5番 ホ短調』(Symphony, No. 5, E, Op. 64; 1888)
  • 『交響曲第6番 ロ短調』(Symphony, No. 6, B; 1893)
  •  『交響曲第7番 変ホ長調』(Symphony, No.7, E♭; 1892): 未完。

独唱とピアノ

  • 『私の守護神、私の天使、私の友』(Moy geniy, moy angel, moy drug [My Genius, my Angel, my Friend] ; 1856)
  •  『ゼムフィーラの歌』(Pesn′ Zemfirï [Zemfira’s song]; 1860)
  • 『真夜中』(Mezza note; 1860-61)
  • 『真夜中の回想』(Nochnoy posmotr [The Midnight Review]; 1864): 現在は失われている。
  • 『自然と愛』(Priroda i lyubov′ [Nature and Love] ; 1870)
  • 『そんなに早く忘れて』(Zabït′ tak skoro [To Forget so Soon];1870)
  • 『二つの歌』(1873):第一曲「私の心を運び行け」(Unosi moyo serdtse [Take my Heart Away])、第二曲「春の青い瞳」(Glazki vesnï golubïye [Blue Eyes of Spring])

ピアノソロ

  • 『アナスタシア・ワルツ』(Valse [Anastasiya valse]; 1854)
  • 『川のほとりで、橋のたもとで』(Piece on the tune ‘Vozle rechki, vozle mostu’ [By the river, by the bridge]; 1862)
  • 『アレグロ ヘ短調』(Allegro, f ; 1863-64)
  • 『主題と変奏 イ短調』(Theme and variations, a; 1865)
  • 『歌劇”地方長官”の主題による接続曲』(Potpourri on themes from the opera Voyevoda ; 1867-68)
  • 『ナタリー・ワルツ』(Nathalie-valse, G;1878)
  • 『即興曲とカプリース』(Impromptu-caprice, G; 1884)
  • 『ワルツ・スケルツォ 第2番』(Valse-scherzo [no.2]; 1889)
  • 『即興曲 変イ長調』(Impromptu, A♭ ; 1889)
  • 『情熱的な告白』(Aveu passionné, e; 1892)
  • 『軍隊行進曲 変ロ長調』(Military march [for the Yurevsky Regiment], B♭; 1893); 『ユーリエフスキー連隊行進曲』とも。
  • 『即興曲 変イ長調』(Impromptu (Momento lirico), A♭; 1894)

コーラス

  •  『歓喜に寄す』(K radosti [To Joy] ; 1865): シラー (Schiller) 原作。K. アクサーコフ (K. Aksakov) 翻訳。
  • 『春』(Vesna [Spring]; 1871)
  • 『夜』(Vecher [Evening] ; 1871)
  • 『ピョートル大帝生誕200年記念カンタータ』(Cantata in commemoration of the bicentenary of the birth of Peter the Great (Ya. Polonsky); 1872):『モスクワ工業博覧会開会のカンタータ』とも。
  • 『ペトロフの活動50年記念カンタータ』(Chorus in celebration of the golden jubilee of Osip Petrov; 1875)
  • 『夕べ』(Vecher [Evening]; 1881)
  • 『モスクワ』(Moskva [Moscow];1883)
  • 『3つのケルビウム賛歌』(Kheruvimskaya pesnya [Cherubic Hymn]; 1884)
  • 『9つの宗教的音楽作品』(9 sacred pieces, unacc. mixed chorus; 1885)
  • 『黄金の雲は眠りにつき』(Nochevala tuchka zolotaya [The Golden Cloud has Slept]; 1887)
  • 『天使は叫ぶ』(Angel vopiyashe [An Angel Cried Out]; 1887)
  • 『アントン・ルビンシテインへの挨拶』(A greeting to Anton Rubinstein for his golden jubilee as an artist; 1889)
  • 『夜鳴きうぐいす』(Solovushka [The Nightingale]; 1889)
  •  『3つの合唱曲』(1891):第1曲「松明で鳴いているのはかっこうではない」(Ne kukushechka vo sïrom boru [’Tis not the Cuckoo in the Damp Pinewood])、第2曲「暇もなく、時もなく」(Bez porï, da bez vremeni [Without Time, Without Season] )、第3曲「楽しげな声が静まって」(Chto smolknul veseliya glas [The Voice of Mirth Grew Silent]
  • 『夜』(Noch′ [Night]; 1893)

室内楽

  • 『アレグレット ホ長調』(Allegretto, E; 1863-64)
  • 『アダージョ ハ長調』(Adagio, C; 1863-64)
  • 『アダージョ ヘ長調』(Adagio, F; 1863-64)
  • 『アレグロ ハ短調』(Allegro, c; 1863-64)
  • 『アレグレット・モデラート』(Allegretto moderato, D; 1863-64)
  • 『アンダンテ・モルト ト長調』(Andante molto, G; 1863-64)
  • 『前奏曲ホ短調』(1863-64)
  • 『アレグロ・ヴィヴァーチェ変ロ長調』(Allegro vivace, B♭; 1863-64):弦楽四重奏。
  • 『アレグレット ホ長調』(1863-64):弦楽四重奏。
  • 『アンダンテ・モルト ト長調』(1863-64):弦楽四重奏。
  • 『弦楽四重奏曲 変ロ長調』(String Quartet, B♭; 1865)
  • 『弦楽四重奏第1番 ニ長調』(String Quartet, D, Op. 11; 1871)
  • 『弦楽四重奏第2番 ヘ長調』(String Quartet, F, Op. 22; 1874)
  •  『弦楽四重奏第3番 変ホ短調』(String Quartet, E♭, Op. 30; 1875)
  •  『ピアノ三重奏 イ長調』(Piano Trio, A, Op. 50; 1882)

チャイコフスキーに関連する映画・舞台

参考文献 | Bibliography

  1.  Oxford Online Music, Roland John Wiley, published in print (20 January, 2001), Published online (2001).
  2. 和田春樹編『世界各国史 ロシア史』山川出版社、2008年。

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Notes   [ + ]

1. グリンカ(Mikhail (Ivanovch) Glinka):1803年生まれ1857年没。ロシア国民音楽派の先駆者。代表作にオペラ『ルスランとリュドミラ』(Russlan and Ludmilla)(1842)。
2. ペテルブルク音楽院(The St Petersburg Conservatory): アントン・ルビンシテインによって1862年10月設立。ロシアの千年記念にあたる。
3. シラー(Friedrich von Schille, 1759-1805):ドイツの詩人・劇作家。代表作には『ウィルヘルム=テル』(Wilhelm Tell; 1804)や『ドン=カルロス』(Don Carlos; 1787)がある
4. ロシア大公コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (the Grand Duke Konstantin Romanov; 1858-1915): ロシアの皇族。劇作家でもあり、ロシア科学アカデミー総裁を務めた。
1989年生まれ。京都大学文学部卒業後、同大学院を経て、一橋大学大学院に進学。現在はミラノ大学にて在外研究中。専門はルネサンス期北イタリアの政治文化と外交。ミラノにてピアノ演奏会に出演するなど活動歴多数。好きな作曲家は、バルトーク、ラフマニノフ。 Studentessa in corso di dottorato di ricerca
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