ピョートル・チャイコフスキー

生 : 1840年5月7日(ユリウス暦では4月25日)(ロシア帝国、ウラル地方ヴォトンキスク(Kamosko-Votkinsk, Vyatka province))/没 : 1893年11月6日(ユリウス暦では10月25日)(ロシア帝国、サンクトペテルブルグ)

ピョートル・チャイコフスキー (Tchaikovsky, Pyotr Il′yich) は、西欧の交響曲の伝統を融合させた新しいロシアの作曲家。ロシアの伝統的またチャイコフスキーの個人的な素地を持ちながら、ベートーベンやシューマンの交響曲のスタイルとロシアの作曲家のグリンカ(Mikhail (Ivanovch) Glinka) 1)グリンカ(Mikhail (Ivanovch) Glinka):1803年生まれ1857年没。ロシア国民音楽派の先駆者。代表作にオペラ『ルスランとリュドミラ』(Russlan and Ludmilla)(1842)。 の作品を結びつけた。

生涯 | Biography

法科学校での音楽教育、帝室ロシア音楽協会からペテルブルク音楽院へ (1840-1865年)

1840年、ピョートル・チャイコフスキーは、鉱山技師の父ペトローヴィチ・チャイコフスキー(Il’ya Petrovich Tchaikovsky)と母アレクサンドラの次男として誕生した。後にチャコフスキーには、双子の弟と一人の妹が生まれた。双子の一人は、法学者となるアナトリー(Anatoly; 1850-1915)、そしてもう一人は、作家となるモデスト(Modest; 1850-1916)であった。その兄弟たちは、チャイコフスキーを生涯にわたって支えていくことになり、モデストは、『ピョートル・チャイコフスキーの人生』(The Life of Pyotr Il′yich Tchaikovsky (1901–03)) という伝記を出版した。1848年10月、父の仕事を探すために一家はモスクワに移り、その一ヶ月後にサンクトペテルブルクに移った。さらに1849年6月にはアラパエフスク(Alapayevsk)いう鉱山都市に移り住んだ。

チャイコフスキーは語学の才能があったことから、6歳の時にはフランス語とドイツ語を読むことができたという。チャイコフスキーの家庭教師は、少年期のチャイコフスキーの環境は、音楽教育に適したものとは言えなかったことを嘆いていた。そのうちチャイコフスキーの新しい家庭教師アナスタシア・ペトローヴァ(Anastasya Perivna)がやってくると、彼女はチャイコフスキーのために学校入学の準備を行った。このことから、チャイコフスキーはアナスタシアのために『アナスタシア・ワルツ』(1854)という曲を作っている。1850年、チャイコフスキーは、母によって法科学校の予科生としてサンクトペテルブルクに移ることになったが、わずか10歳のチャイコフスキーにとってこの家族との別れはトラウマとなったという。

1852年8月から59年5月まで法科学校に在籍したチャイコフスキーは、喫煙以外は、真面目に学校の規則に従っていた。1854年6月、母のアレクサンドラが亡くなった。弟のモデストは、その著書『チャイコフスキーの生涯』の中で暗にチャイコフスキーが母の師に立ち会えなかったことを示唆している。母の死によって一家の生活は大きく変わり、その弟たちを寄宿学校に入れるために、一家はサンクトペテルブルクで一緒に住むことになった。一見音楽とは関係のないように思われる法科学校は、一流の音楽家のスポンサーとなり、生徒たちにはサンクトペテルブルクのコンサートやオペラに行く機会を与えた上に、音楽のコースを用意していた。チャイコフスキーは、そこでコーラスを勉強したとされる。チャイコフスキーは、文学にも嗜み、1854年には、『ヒュペルボラ』(Hyperbole)というオペラの他、歌も作曲していた。学校の外では、母方の叔母の支援によって音楽の勉強を続け、歌の教師ルイージ・ピッチョリ(Luigi Piccioli)やピアノの教師ルドルフ・キュンディンガー(Rudolf Kündinger)に師事した。

1859年、法科学校を卒業したチャイコフスキーは、法務省で働くこととなる。この頃、チャイコフスキーは、サンクトペテルブルグの劇場にて催されていたバレエ、イタリアオペラ、アマチュアの演劇に触れていた。そして彼の妹サーシャは、1860年11月、ウクライナのカーメンカを拠点とする貴族ダヴィドヴ家 (Lev Davïdov)いだ一方で、1861年の7月から9月の間、チャイコフスキーは父の仕事の手伝いとして西欧を外遊した。役所勤めや一族のビジネスを離れ、つかの間の休息を得たチャイコフスキーは、旅行熱に浮かされながら西欧文化との関わりを大切にしていた。その後、音楽関係の知人の紹介で、コンサートをオーガナイズするために1859年に設立されたロシア音楽協会(The Russian Musical Society)を知ることになり、1860 年春には音楽のコースを受けるようになる。  

1860年のチャイコフスキー

 1861年より、チャイコフスキーは、仕事を続けながら、ロシア音楽教会において音楽理論のコースを履修し始めた。彼の一番目の教師は、ベートーベンのスタイルを引き継いだニコライ・ザレンバ(Nikolay ZarembaIであった。文官としての出世ができなかった1862年夏、チャイコフスキーは、ロシア音楽教会が新設したペテルブルク音楽院(The St Petersburg Conservatory) 2)ペテルブルク音楽院(The St Petersburg Conservatory): アントン・ルビンシテインによって1862年10月設立。ロシアの千年記念にあたる。 に入った。チャイコフスキーの同級生には、音楽評論家のゲルマン・ラローシ (Herman Laroche; 1845-1904)がいた。チャイコフスキーは、主にアントン・ルビンステイン(Anton Rubinstein; 1829-1894)のもとで、ペテルブルク音楽院では、理論の他、ピアノ、フルート、オルガンを習った。この師と生徒の関係は複雑であり、チャイコフスキーは内心ルビンステインの音楽家としての見くびりながらも、その人格には逆らうことができず、多くのことを師から学んだ。また、すでにこの時にも、チャイコフスキーは当時のロシアにおける音楽を分断していたロシアの音楽と外国の音楽の間の論争を集結させようとしていたという。1865年、音楽院を卒業したチャイコフスキーに対し、同級生のラローシは、「君は現在のロシアにおいて多大なる才能を持っている」と賞賛の言葉を贈っていた。また、この頃のロシア帝国は、皇帝アレクサンドル2世(Alexsander II; r. 1855-1881)のもとで、外政では、度重なる戦争に苦戦しながらも、内政では、農奴解放令を初めとして、地方行政改革、司法改革、軍制改革、教育改革など、様々な改革が皇帝の強い主導によって行われた。このように、強い帝政がしかれるロシアにおいて、チャイコフスキーが学んだロシア音楽協会は、当初ルビンステインら力のある知識人が主導して運営していたものの、1870年代には完全に国営化されるようになった。

モスクワでの活動(1866-76年)と最悪な結婚(1877年)

1865年9月、アントンの弟ニコライ・ルビンステイン(Nikolay Rubinstein; 1835-1881)は、ペテルブルク音楽院のような学校をモスクワにも作るために、音楽理論の教師を探していた。チャイコフスキーは、このポストに応募し、1866年1月にはモスクワに移った。このニコライ・ルビンステインは、精力的に活動した作曲家・ピアニストであり、チャイコフスキーの重要な友であった。こうして1866年9月、帝室音楽協会モスクワ支部が開校して以来、チャイコフスキーは、プロの音楽家としてのキャリアを歩み始め、モスクワのナショナリストからも大きな影響を受けた。モスクワで出会ったチャイコフスキーの友の中には、モスクワ支部で音楽理論について教鞭をとったニコライ・カシュキン(Nikolay Kashkin; 1839-1920)の他、コンスタンチン・カールロヴィチ・アルブレヒト(Konstantin Karl Albrecht,; 1836-1893)や建築家イヴァン・クリメンコ(Ivan Klimenko)があげられ、またサンクトペテルブルクでの同窓生ラローシもモスクワに移った。ルビンステインが立ち上げた芸術家サークルにおいて、チャイコフスキーはモスクワの芸術家やエリートとの交流を楽しんでいた。ところが、チャイコフスキーは繰り返される引越しと移動のために、常に経済的な危機に陥っていた上に、苦情が来るほど教師としての職を遂行するのに支障をきたしていた。このように繊細な性格なチャイコフスキーであったが、1868年歌手のデジレ・アルトー (Désirée Artôt) に恋に落ち、婚約するものの、間も無く破局した。

この時期の作曲家としてのチャイコフスキーのキャリアは、成功していたとは言い難かった。若い頃の作品は散逸している他、演奏されることも稀であった。その後、一時サンクトペテルブルクに戻るものの、チャイコフスキーのモスクワでの初演奏作品は、『序曲 ヘ長調』(Overture, F)であったが、凝った演出となり過ぎた。この時期、強烈な美と明白な論理の間の矛盾がチャイコフスキーの中にはあったといえよう。1875年、『ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調』(Piano Concerto no.1, b♭)を作曲したチャイコフスキーは、初演を友人のニコライ・ルビステインに依頼するも、ニコライは酷評したため、ハンス・フォン・ビューロー(Hans Guido Freiherr von Bülow; 1830-1894)の手によって演奏され成功を収めることとなる。後にこのことを謝罪した友人のニコライ・ルビンステインは手厳しい批評家であったが、そのチャイコフスキーに対する意見は私的なものであったという。

1877年7月18日、チャイコフスキーは、アントニア・イワノヴナ (Antonina Ivanovna Milyukova) と結婚した。あまり相性の良くなかったこの結婚はチャイコフスキーにとって危機を与えたが、二人がすぐに離婚することはなかった。結婚からわずか2週間後、チャイコフスキーは、妹の嫁ぎ先ウクライナで向かいそこで夏を過ごし、9月になるとモスクワで妻との暮らしに戻った。しかしながら、すぐに精神錯乱状態に陥ったチャイコフスキーは、サンクトペテルブルクに移り、医師の勧めで妻アントニアのいない新生活を送ることとなった。

依然として不安定な生活を送るチャイコフスキーには3つの問題があった。一番彼を悩ませていたのは、お金の問題であった。収入がいくら多くても浪費してしまうチャイコフスキーは、援助を友人に頼んでいた。その次に、チャイコフスキーの悩みの種となっていたのは、以前から問題になっていた音楽院での自身の授業であった。この教職のために、作曲に専心できないと考えていた。そして最後の問題は、インスピレーションであった。妻アントニナの証言によると、チャイコフスキーは結婚生活により創造性が失われると考えていたとのことであった。

このように困難を極めた1877年であったが、チャイコフスキーの人生に変化を与えた。しばらくは公表されることはなかったがこの頃、音楽院を離れ、未亡人であり資産家のナジェジダ・フォン・メック(Nadezhda von Meck; 1831-1894)から金銭的な援助を受けていた。1876年12月から始まるチャイコフスキーとナジェジダの往復書簡は、14年も続いたが2人が会うことは一度もなかった。

旅行生活(1878-1885年)と友人ルビンステインとの関係

1878年夏、前年の不調とは打って変わって、チャイコフスキーは、 『白鳥の湖』 (Lebedinoe ozero [Swan Lake]) や『鍛冶屋のヴァークラ』(Kuznets Vakula [Vakula the Smith])といった大作を生み出した。この頃から特にチャイコフスキーは、度々ロシアの外に出て行くようになり、1878年以降6年間の間で20ヶ月以上はロシア国内にはいなかった。このような小旅行もチャイコフスキーの気鬱を完全に癒したとは言えず、依然として作曲の際には苦慮していた。例えば、『大序曲“1812年”』(1812, festival overture, E♭)は、美しい音とけたたましい音が並存するものであった。

バレエ『白鳥の湖』より

音楽院の仕事上の失敗と結婚生活の失敗を引きずったチャイコフスキーではあったが、1884年の未亡人であるパトロン・メックに送った書簡の中では、自身の交響曲は、伝統や規則から自由であることを語っている。

『ピアノ協奏曲第1番』(1875) の酷評以来、大きな溝ができていた友人ルビステインとチャイコフスキーであったが、ルビステインに捧げた『ピアノ協奏曲第2番』(『ピアノ協奏曲第2番ト長調』(Piano Concerto no.2, G; 1880)がきっかけで二人は和解へと向かっていく。1881年、ルビンステインが亡くなると、彼の死を悼んだチャイコフスキーは、『ピアノ三重奏曲 イ短調 “偉大な芸術家の思い出のために”』(Piano trio; 1881-82)を発表した。ルビンステインは、時にはチャイコフスキーの私生活についてまで酷評し最悪の関係にあった上に、音楽院でチャイコフスキーに用意した職は、チャイコフスキーに務まるものではなかったものの、やはりチャイコフスキーにとって重要な保護者であったことは変わりなかった。

この時期に、チャイコフスキーは、オペラ『オルレアンの少女』(Orleanskaya deva [The Maid of Orléans]; 1878-79)と『マゼッパ』(Mazepa [Mazeppa]; 1881-83)を残しており、それぞれ1881年と1884年に初演を迎えている。作曲にあたりチャイコフスキーは主にシラー 3)シラー(Friedrich von Schille, 1759-1805):ドイツの詩人・劇作家。代表作には『ウィルヘルム=テル』(Wilhelm Tell; 1804)や『ドン=カルロス』(Don Carlos; 1787)がある といった劇作家から引用しながらも、自身のスタイルにシナリオを変えていた。特に『マゼッパ』の方は、サンクトペテルブルクでは失敗に終わったものの、モスクワでは成功を収めた。

1877年から1885年という期間は、チャイコフスキーにとって、結婚の失敗から、放浪生活へというように、常に不安定で先の見えないものであった。パトロンのメックの助けもあって、自由に振舞うことができていたものの、それはコンパスを持たない航海のようであった。このような生活が自身の音楽のためにも人間性のためにもならないと悟ったチャイコフスキーは、帰還することに決め、住む場所と仕事を探すこととなった。

定住と最高の栄誉 (1885-1993年)

1885年2月、チャイコフスキーは、モスクワから90キロ離れたところに位置するマイダノヴォに家を借りた。1881年の友人ルビンステインの死後、ロシア音楽協会から復職の申し出があったものの、チャイコフスキーは断っていた。彼は公的な生活を避けようとしていたが、その知名度がそれを許さなかった。こうしてロシア音楽協会モスクワ支部の重役となった。この職権を生かして、1889年から90年の間に、彼は国際的な音楽家たちであるブラームス(Brahms)、ドヴォルザーク(Dvořák)、マスネ(Massenet)をモスクワに招いた。また、ロシアの音楽家リムスキー・コルサコフ(Rimsky-Korsakov)が打楽器奏者の才能のなさに絶望した時には、チャイコフスキー自身が、『スペイン狂詩曲』(Spanish Capriccio)にてカスタネットを担当した。これはチャイコフスキーによって、オーケストラの結束を固めようとした作戦であった。このように西欧での人脈を生かして働きかけるなどしていたチャイコフスキーであったが、音楽院での教職に戻ることはなく、同院での監督、試験官、ブローカーの役割に徹した。

音楽院での活動の他、チャイコフスキーは指揮者もこなすようになっていた。1887年12月、チャイコフスキーは指揮者としての初めてのツアーを開始した。1888年7月にはアメリカにまで赴いたこのツアーは、自身の音楽の他、モーツァルト、ベートーベン、アントン・ルビンステイン、ボロディンなどの曲も扱った。これらチャイコフスキーが行った仕事は大成功を収め、彼の名声を確実なものにした。1884年、チャイコフスキーは、聖ウラジミール4等勲章 (the Order of St Vladimir, Fourth Class) を授けられた上に、1886年には、ロシア大公コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (the Grand Duke Konstantin Romanov; 1858-1915) 4)ロシア大公コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (the Grand Duke Konstantin Romanov; 1858-1915): ロシアの皇族。劇作家でもあり、ロシア科学アカデミー総裁を務めた。 との交流も行われるようになった。さらに、1888年には皇帝アレクサンドル (Aleksandr III; 1845-1894/ r. 1881-1894) によって終身年金を授けられた。また、帝国劇場の責任者イワン・フセヴォロシスキー (Ivan Vsevolozhsky; 1835-1909)とのつながりにより、さらなる活動の場を得た。一方で、長年彼を支え続けたパトロン・メックとの文通は、簡潔なものとなっていき、その頻度も減っていった。また仕事上での成功とは裏腹に、この頃からチャイコフスキーの健康状態も悪化していくことになる。

晩年に差し掛かり、チャイコフスキーの音楽のスタイルは、「この世のもの」と「この世のものではないもの」との哲学的な区分に基づく洗練されたものになっていく。これは同時代を生きた友人たちの死が影響していた。ついに14年続いたパトロンであるメックとの関係が1890年に終わり、深い悲しみを抱えていたチャイコフキーのキャリアは、最高潮を迎えており、また1893年にはケンブリッジ音楽協会から名誉博士号を授けられる。この頃、『スペードの女王』(Pikovaya dama [The Queen of Spades])や『眠れる森の美女』(Spyashchaya krasavitsa (‘The Sleeping Beauty’) )といった名作が成功を収めていた。

1890年のチャイコフスキー

チャイコフスキーの評価は、地域によって様々であった。ロシアの外では、「ロシア人らしさ」について議論がなされた一方で、ヨーロッパあるいはアジア、印象的あるいは情熱的、交響曲あるいはオペラなどと多面的な性質を持つとされていた。特に、アメリカや英国において、彼の音楽は大好評であった。ロシアの中では、その巨匠の才能を模倣するものが現れる一方で、あまりに多作だったために巨匠の創造性が損なわれるのではないかという懸念もなされたりした。そのような心配をよそに、チャイコフスキーの芸術性は、保持され、前衛的な段階によって新しいものへ生まれ変わっていった。以前より体調を崩していたチャイコフスキーは、1893年11月6日に急死した。そのわずか9日前の10月28日には、『交響曲第6番 ロ短調』(Symphony, No. 6, B)が初演されたばかりであった。『交響曲第7番』が未完のまま保存されていることを考えると、チャイコフスキーは最期まで精力的な創作活動をしていたのであった。

作品一覧 | Works

作品番号あり(1-80まで)

  1.  『2つの小品』(Two Pieces; 1867):ピアノ曲。
  2. 『ハープサルの思い出』(Souvenir de Hapsal; 1867):ピアノ曲。
  3. 『地方長官』(Voyevoda (The Provincial Governor); 1867-68):歌曲。
  4. 『ワルツ カプリース ニ長調』(Valse caprice, D; 1868):ピアノ曲。
  5. 『ロマンス ヘ短調』(Romance, f; 1868):ピアノ曲。
  6. 『6つの歌』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1869):ピアノと独唱。
  7. 『ワルツ スケルツォ イ長調』(Valse-scherzo, A; 1870):ピアノ曲。
  8. 『カプリース 変ト長調』(Capriccio, G♭; 1870):ピアノ曲。
  9. 『3つの小品』(Trois morceaux; 1870): ピアノ曲。
  10. 『2つの小品』(Deux morceaux; 1871):ピアノ曲。
  11. 『弦楽四重奏曲第1番 ニ長調』(String Quartet no.1, D; 1871): 室内楽。
  12. 『雪娘』(Snegurochka [The Snow Maiden]; 1873):コーラスとオーケストラ。
  13. 『交響曲第1番 ト短調 “冬の日の幻想”』(Symphony no.1, g; 1866):オペラ。
  14. 『鍛冶屋のヴァークラ』(Kuznets Vakula [Vakula the Smith]; 1878):オペラ。
  15. 『デンマーク国家による祝典序曲』(Festival Ov. on the Danish National Hymn, D; 1866):オーケストラ。
  16. 『6つのロマンス』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1872):ピアノと独唱、歌曲集。
  17. 『交響曲第2番 ハ短調“小ロシア”』(Symphony no.2, c (‘Little Russian’); 1872):オーケストラ。
  18. 『幻想序曲“テンペスト”』(Burya [The Tempest]; 1872):オーケストラ。
  19. 『6つの小品』(Six morceaux; 1872):ピアノ曲。
  20. 『白鳥の湖』(Lebedinoe ozero [Swan Lake]; 1878):バレエ音楽。
  21. 『6つの小品』(Six morceaux; 1873):ピアノ曲。
  22. 『弦楽四重奏曲第2番 ヘ長調』(String Quartet no.2, F; 1874):室内楽。
  23. 『ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調』(Piano Concerto no.1, b♭; 1874-75)
  24. 『エフゲニー・オネーギン』(Yevgeny Onegin [Eugene Onegin];1877-78):オペラ。
  25. 『6つの歌』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1874):ピアノと独唱、歌曲集。
  26. 『憂鬱なセレナード』(Sérénade mélancolique, b; 1875): ヴァイオリンコンチェルト。
  27. 『6つの歌』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1875):ピアノと独唱、歌曲。
  28. 『6つの歌』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1875):ピアノと独唱、歌曲。
  29. 『交響曲第3番二長調“ポーランド”』(Symphony no.3, D (‘Polish’); 1875):オーケストラ。
  30. 『弦楽四重奏曲第三番変ホ長調』(String Quartet no.3, e♭; 1876):室内楽。
  31. 『スラブ行進曲』(Slavyansky marsh [Slavonic March] (Serbo-Russky marsh), B♭; 1876):オーケストラ。
  32. 『幻想曲 “フランチェスカ・ダ・リミニ』(Francesca da Rimini, sym. fantasia after Dante; 1876):オーケストラ。ダンテの『神曲』を題材にした曲。
  33. 『ロココ風の主題による変奏曲』(Variations on a Rococo Theme, A ; 1876):チェロコンチェルト。
  34. 『ワルツ・スケルツォ』(Valse-scherzo, C;1877):ヴァイオリンコンチェルト。
  35. 『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』(Violin Concerto, D; 1876-77)
  36. 『交響曲第4番ヘ短調』(Symphony no.4, f; 1876):オーケストラ。
  37. 『ピアノソナタ ト長調』(Sonata, G; 1878)/ 37b.『四季』(Les saisons; 1875-76):ピアノ曲。
  38. 『6つの歌』(1878):独唱とピアノ。
  39. 『子供のアルバム』(Album pour enfants; 1878):ピアノ曲。
  40. 『12の小品 中級』(Douze morceaux (difficulté moyenne); 1878):ピアノ曲。
  41. 『聖金口イオアン聖体礼儀』(Liturgy of St John Chrysostom; 1878): コーラス。クリュソストモス(Saint John Chrysostom; 347?-407)は、コンスタンティノープル大司教(r. 398-404)・ギリシアの教父。彼の雄弁は、「金の口ヨハネ」と賞賛された。
  42. 『なつかしい土地の思い出』(Souvenir d’un lieu cher; 1878):ヴァイオリン、ピアノ。
  43. 『組曲第1番ニ長調』(Suite no.1, D; 1878-79):オーケストラ。
  44. 『ピアノ協奏曲第2番ト長調』(Piano Concerto no.2, G;1879-80)
  45. 『イタリア奇想曲』(Capriccio Italien, A; 1880):オーケストラ。
  46. 『6つの二重唱曲』(1880)
  47. 『7つの歌』(1880)
  48. 『弦楽のためのセレナーデハ長調』(Serenade, C, str; 1880):オーケストラ。
  49. 『大序曲“1812年”』(1812, festival ov., E♭; 1880):オーケストラ。
  50. 『ピアノ三重奏曲 イ短調 “偉大な芸術家の思い出のために”』(Piano trio; 1881-82)
  51. 『6つの小品』(Six morceaux; 1882)
  52. 『晩祷』(Vesper Service; 1882): コーラス。
  53. 『組曲第2番ハ長調“性格的”』(Suite no.2, C; 1883):オーケストラ。
  54. 『16の子供のための歌』(1883):独唱とピアノ。
  55. 『組曲第3番ト長調』(Suite no.3, G; 1884):オーケストラ。
  56. 『協奏的幻想曲ト長調』(Concert Fantasia, G; 1884):ピアノコンチェルト。
  57. 『6つの歌』(1884): 独唱とピアノ。
  58. 『マンフレッド交響曲』(Manfred, sym. after Byron, b; 1885):オーケストラ。
  59. 『ドゥムカ:ロシアの農村風景』(Dumka: Russian rustic scene; 1886):ピアノ曲。
  60. 『12の歌』(1886):独唱とピアノ。
  61. 『組曲第4番ト長調“モーツァルティアーナ”』(Suite no.4, G; 1887):オーケストラ。
  62. 『奇想的小品ロ短調』(Pezzo capriccioso; 1887):チェロコンチェルト。
  63. 『6つの歌』(1887):独唱と歌。
  64. 『交響曲第5番ホ短調』(Symphony no.5, e; 1888):オーケストラ。
  65. 『フランス語の歌詞による6つの歌』(1888):独唱とピアノ。
  66. 『眠れる森の美女』(Spyashchaya krasavitsa [The Sleeping Beauty]; 1888-89):バレエ音楽。
  67. 『幻想序曲ハムレット』(Hamlet, fantasy ov. after Shakespeare, f; 1889-90):オーケストラ。
  68. 『スペードの女王』(Pikovaya dama [The Queen of Spades]; 1890): オペラ。
  69. 『イオランタ』(Iolanta [Iolanthe]; 1891):オペラ。
  70. 『弦楽六重奏曲ニ短調 “フィレンツェの思い出”』(Souvenir de Florence, str sextet, D; 1887-90)
  71. 『組曲くるみ割り人形』(Shchelkunchik [The Nutcracker]; 1892):オーケストラ。
  72. 『18の小品』(Dix-huit morceaux; 1893):ピアノ曲。
  73. 『D. M. ラートガウスの詞による6つの歌』(1893)
  74. 『交響曲第6番ロ短調“悲愴”』(Symphony no.6, b (‘Pathétique’); 1893):オーケストラ。
  75. 『ピアノ協奏曲第3番変ホ長調』(Piano Concerto no.3, E♭;1893)
  76. 『序曲 嵐』(Groza [The Storm]; 1864):オーケストラ。
  77. 『幻想曲 運命』(Fatum [Fate]; 1868):オーケストラ。
  78. 『交響的バラード“地方長官”』(Voyevoda; 1890-91):オーケストラ。
  79. 『アンダンテとフィナーレ変ロ長調/変ホ長調』(Andante, B♭, Finale, E♭ ;1893):ピアノコンチェルト。
  80. 『ピアノソナタ 嬰ハ短調』(1865; Sonata, c♯): 死後出版(1900)。

作品番号なし

オペラとバレエ

  • 『ヒュペルボラ』(Hyperbole; 1854)
  • 『ポリス・ゴドノフ』(Boris Godunov; 1863-64)
  • 『僭称者ドミトリーとワシリー・シュイスキー』(Dmitry Samozvanets i Vasily Shuysky [Dmitry the Pretender and Vasily Shuysky]; 1867)
  • 『大混乱』(Putanista [The Tangle]; 1867)
  • 『地方長官』(The Voyevoda; 1867-68)
  • 『オーベールの“黒いドミノ”のためのレチタティーヴォと合唱』(Le domino noir (D.-F.-E. Auber); 1868)
  • 『オンディーヌ』(Undina [Undine]; 1869)
  • 『マンドラゴラ』(Mandragora; 1870)
  • 『オプリーチニク(親衛隊)』(Oprichnik [The Oprichnik]; 1870-72)
  •  『セヴィリアの理髪師』(Le barbier de Séville; 1872)
  • 『”オプリチーニク”の主題による葬送行進曲』(Oprichnik; 1877)
  • 『オルレアンの少女』(Orleanskaya deva [The Maid of Orléans]; 1878-79)
  • 『妖精』(La fée ;1879)
  • 『マゼッパ』(Mazepa [Mazeppa]; 1881-83)
  • 『チャロディカ』(Charodeyka [The Enchantress]; 1885-87)
  • 『スペードの女王』(The Queen of Spades, Op. 68; 1890)
  •  『くるみ割り人形』(The nutcracker, Op. 71; 1892)

オーケストラ

  • 『アンダンテ・マ・ノン・トロッポ イ長調』(Andante ma non troppo, A; 1863-64)
  • 『アジタートとアレグロ』(Agitato and allegro; 1863-64)
  • 『リトル・アレグロ』(Little Allegro, with introduction, D; 1863-64)
  • 『アレグロ・ヴィーヴォ』(Allegro vivo, c; 1863-64)
  • 『コロッセウムのローマ人』(The Romans in the Coliseum; 1863-64):現在は失われている。
  • 『序曲 ヘ長調』(Overture, F; 1865)
  • 『性格的な舞曲』(Characteristic Dances;1865)
  • 『序曲 ハ短調』(Concert Overture, c; 1865-66)
  • 『交響曲第1番 ト短調』(Symphony, No. 1, G, Op. 13; 1866)
  • 『幻想序曲 ロメオとジュリエット』(Romeo i Dzul′etta [Romeo and Juliet]; 1869)
  • 『N. ルビンシテインの命名日のためのセレナード』(Serenade for Nikolay Rubinstein’s nameday ; 1872)
  • 『交響曲第2番 ハ短調』(Symphony, No. 2, C, Op. 17; 1872)
  • 『交響曲第3番 ニ長調』(Symphony, No. 3, D, Op. 29; 1875)
  • 『交響曲第4番 ヘ短調』(Symphony, No. 4, F, Op. 36; 1877-78)
  • 『交響曲第5番 ホ短調』(Symphony, No. 5, E, Op. 64; 1888)
  • 『交響曲第6番 ロ短調』(Symphony, No. 6, B; 1893)
  •  『交響曲第7番 変ホ長調』(Symphony, No.7, E♭; 1892): 未完。

独唱とピアノ

  • 『私の守護神、私の天使、私の友』(Moy geniy, moy angel, moy drug [My Genius, my Angel, my Friend] ; 1856)
  •  『ゼムフィーラの歌』(Pesn′ Zemfirï [Zemfira’s song]; 1860)
  • 『真夜中』(Mezza note; 1860-61)
  • 『真夜中の回想』(Nochnoy posmotr [The Midnight Review]; 1864): 現在は失われている。
  • 『自然と愛』(Priroda i lyubov′ [Nature and Love] ; 1870)
  • 『そんなに早く忘れて』(Zabït′ tak skoro [To Forget so Soon];1870)
  • 『二つの歌』(1873):第一曲「私の心を運び行け」(Unosi moyo serdtse [Take my Heart Away])、第二曲「春の青い瞳」(Glazki vesnï golubïye [Blue Eyes of Spring])

ピアノソロ

  • 『アナスタシア・ワルツ』(Valse [Anastasiya valse]; 1854)
  • 『川のほとりで、橋のたもとで』(Piece on the tune ‘Vozle rechki, vozle mostu’ [By the river, by the bridge]; 1862)
  • 『アレグロ ヘ短調』(Allegro, f ; 1863-64)
  • 『主題と変奏 イ短調』(Theme and variations, a; 1865)
  • 『歌劇”地方長官”の主題による接続曲』(Potpourri on themes from the opera Voyevoda ; 1867-68)
  • 『ナタリー・ワルツ』(Nathalie-valse, G;1878)
  • 『即興曲とカプリース』(Impromptu-caprice, G; 1884)
  • 『ワルツ・スケルツォ 第2番』(Valse-scherzo [no.2]; 1889)
  • 『即興曲 変イ長調』(Impromptu, A♭ ; 1889)
  • 『情熱的な告白』(Aveu passionné, e; 1892)
  • 『軍隊行進曲 変ロ長調』(Military march [for the Yurevsky Regiment], B♭; 1893); 『ユーリエフスキー連隊行進曲』とも。
  • 『即興曲 変イ長調』(Impromptu (Momento lirico), A♭; 1894)

コーラス

  •  『歓喜に寄す』(K radosti [To Joy] ; 1865): シラー (Schiller) 原作。K. アクサーコフ (K. Aksakov) 翻訳。
  • 『春』(Vesna [Spring]; 1871)
  • 『夜』(Vecher [Evening] ; 1871)
  • 『ピョートル大帝生誕200年記念カンタータ』(Cantata in commemoration of the bicentenary of the birth of Peter the Great (Ya. Polonsky); 1872):『モスクワ工業博覧会開会のカンタータ』とも。
  • 『ペトロフの活動50年記念カンタータ』(Chorus in celebration of the golden jubilee of Osip Petrov; 1875)
  • 『夕べ』(Vecher [Evening]; 1881)
  • 『モスクワ』(Moskva [Moscow];1883)
  • 『3つのケルビウム賛歌』(Kheruvimskaya pesnya [Cherubic Hymn]; 1884)
  • 『9つの宗教的音楽作品』(9 sacred pieces, unacc. mixed chorus; 1885)
  • 『黄金の雲は眠りにつき』(Nochevala tuchka zolotaya [The Golden Cloud has Slept]; 1887)
  • 『天使は叫ぶ』(Angel vopiyashe [An Angel Cried Out]; 1887)
  • 『アントン・ルビンシテインへの挨拶』(A greeting to Anton Rubinstein for his golden jubilee as an artist; 1889)
  • 『夜鳴きうぐいす』(Solovushka [The Nightingale]; 1889)
  •  『3つの合唱曲』(1891):第1曲「松明で鳴いているのはかっこうではない」(Ne kukushechka vo sïrom boru [’Tis not the Cuckoo in the Damp Pinewood])、第2曲「暇もなく、時もなく」(Bez porï, da bez vremeni [Without Time, Without Season] )、第3曲「楽しげな声が静まって」(Chto smolknul veseliya glas [The Voice of Mirth Grew Silent]
  • 『夜』(Noch′ [Night]; 1893)

室内楽

  • 『アレグレット ホ長調』(Allegretto, E; 1863-64)
  • 『アダージョ ハ長調』(Adagio, C; 1863-64)
  • 『アダージョ ヘ長調』(Adagio, F; 1863-64)
  • 『アレグロ ハ短調』(Allegro, c; 1863-64)
  • 『アレグレット・モデラート』(Allegretto moderato, D; 1863-64)
  • 『アンダンテ・モルト ト長調』(Andante molto, G; 1863-64)
  • 『前奏曲ホ短調』(1863-64)
  • 『アレグロ・ヴィヴァーチェ変ロ長調』(Allegro vivace, B♭; 1863-64):弦楽四重奏。
  • 『アレグレット ホ長調』(1863-64):弦楽四重奏。
  • 『アンダンテ・モルト ト長調』(1863-64):弦楽四重奏。
  • 『弦楽四重奏曲 変ロ長調』(String Quartet, B♭; 1865)
  • 『弦楽四重奏第1番 ニ長調』(String Quartet, D, Op. 11; 1871)
  • 『弦楽四重奏第2番 ヘ長調』(String Quartet, F, Op. 22; 1874)
  •  『弦楽四重奏第3番 変ホ短調』(String Quartet, E♭, Op. 30; 1875)
  •  『ピアノ三重奏 イ長調』(Piano Trio, A, Op. 50; 1882)

 

チャイコフスキーに関連する映画・舞台

 

参考文献 | Bibliography

  1.  Oxford Online Music, Roland John Wiley, published in print (20 January, 2001), Published online (2001).
  2. 和田春樹編『世界各国史 ロシア史』山川出版社、2008年。

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Notes   [ + ]

1. グリンカ(Mikhail (Ivanovch) Glinka):1803年生まれ1857年没。ロシア国民音楽派の先駆者。代表作にオペラ『ルスランとリュドミラ』(Russlan and Ludmilla)(1842)。
2. ペテルブルク音楽院(The St Petersburg Conservatory): アントン・ルビンシテインによって1862年10月設立。ロシアの千年記念にあたる。
3. シラー(Friedrich von Schille, 1759-1805):ドイツの詩人・劇作家。代表作には『ウィルヘルム=テル』(Wilhelm Tell; 1804)や『ドン=カルロス』(Don Carlos; 1787)がある
4. ロシア大公コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (the Grand Duke Konstantin Romanov; 1858-1915): ロシアの皇族。劇作家でもあり、ロシア科学アカデミー総裁を務めた。

アントニオ・サリエリ

生 : 1750年8月18日(レニャーゴ)/没 : 1825年5月7日(ウィーン)

アントニオ・サリエリは、ウィーンで活躍したイタリア半島出身の音楽家。また、イタリアやパリでオペラ作曲家としても成功し、「ドイツ音楽を甘いイタリア式の音楽にまとめ上げることができる作曲家」との評価を得た。

生涯 | Biography

1. 少年時代

1750年、ヴェネトのレニャーノに生まれる。サリエリは、兄弟のフランチェスコと地方のオルガニスト・ジュゼッペ・シモーニと共にヴァイオリンと鍵盤楽器を学んだ。1763年から1765年にかけて両親がなくなると、ヴェネツィアに移り音楽教育を受けた。ヴェネツィアの作曲家F. L. ガスマン (F. L. Gassmann)はサリエリの才能を見出し、彼を連れてウィーンに向かった。ガスマンのもとウィーンで学ぶサリエリは、ここでキャリアを共にする生涯の友人を作った。またこの師のもとで、サリエリは、メタスタジオ(Pietro Metastasio; 1698-1782)、ドイツの作曲家グルック(Christoph Willbald von Gluck; 1714-87)、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世(Joseph II; 1765-90)と関係を築いた。

 

  1. オペラ作曲家として

1769年、師ガスマンがイタリアに滞在していた時、サリエリは、もともとはガスマンの作品であった『文学の女』(Le donne leterate)のリブレットを担当した。喜歌劇(operabuffa)の作曲家としてサリエリは、以降作曲に専心していくこととなる。1771年6月、マルコ・コルテッリーニによるリブレット『アルミーダ』(Armida)が上演された。こうして1780年代にかけて、サリエリは、グルックの主要な後継者と称されるようになる。

F. Rehburg作 サリエリの肖像(1821)
  1. 皇帝ヨーゼフ2世:ハプスブルク一族によるサポート

サリエリのウィーンでの成功は、皇帝ヨーゼフ2世の力添えによるところが大きい。また、皇帝ヨーゼフ2世の兄弟であるトスカーナ大公レオポルト、ロンバルディアの統治者フェルディナンド、妹のフランス王妃マリー・アントワネット(Marie Antoinette)といったフランスやイタリア半島の諸地域の権力者のサポートもあって、サリエリは各地で活動することができた。また、ヨーゼフ2世が兄弟へ、サリエリの作品のコピーを送ることもあった。1772年には、ヨーゼフ2世は、トスカーナ大公レオポルトに、フィレンツェについてのオペラをサリエリに書かせてくれるよう求めている。

Pompeo Batoni作 ヨーゼフ2世の肖像(1769)

 

1774年、ガスマンが亡くなると、ヨーゼフは、サリエリを後継者として宮廷楽長(カペルマイスター)(Kammerkomponist)に任命した。この時、サリエリは弱冠24歳であった。劇場の詩人ジョヴァンニ・ディ・ガメッラ(Giovanni di Gamerra)と共に、サリエリは、宮廷劇場のために2つのオペラを共同制作した。一つは、『愚かな嘘』(La finta scema)(1775)でありもう一つはグルックの『デリラとデルミタ』(Daliso e Delmita)(1776)であった。

1776年、ヨーゼフが劇場の再建に取り掛かったため、サリエリはイタリアでオペラを作曲することとなった。1778年から1780年にかけて、サリエリは、ミラノ、ヴェネツィア、ローマの劇場のために5つの作品を書いた。特に、『見出されたエウローパ』(Europa riconosciuta)1)エウロペ(Europe):この作品は、ギリシア神話をもとに作られている。フェニキアのテュロス王の娘エウロペは、白牛に姿を変えた全能の神ゼウスによってクレタ島に運ばれた。エウロペは、ゼウスの子ミノス(後のクレタ島の王)を産んだ。エウロペの名前は、ヨーロッパの語源となっている。 は、1778年、ハプスブルク家の統治下にあったミラノのスカラ座のこけらおとしを祝う作品となった。また、翌年ヴェネツィアのカーニバルにおいて上演された『やきもち焼きの学校』(La scuola de’gelosi )は、サリエリの名声をヨーロッパ中に広めることとなった。1780年、ヨーゼフ2世は、サリエリに、ナショナル・シアター(National theater)のドイツの楽団によって演奏されることを想定したジンシュピール(Singspiel)2)ジングシュピール(Singspiel):ドイツの台詞入りコミック=オペラの一種。18世紀末から19世紀初頭にかけて流行。の作曲を命じた。サリエリは、ドイツ語のオペラを2つしか作曲していないが、そのうちの1つ『煙突掃除人』(独:Der Rauchfangkehrer;伊:spazzacamino)(1781)はこの時に制作されたものである。この作品は、モーツァルトのオペラ『後宮からの誘拐』(Die Entführung aus dem Serail)が発表されるまで、その人気を保っていた。

『見出されたエウローパ』 2004年12月 スカラ座上演時のポスター

 

 

サリエリはグルックに代わって、パリのオペラ座での仕事も行うようになる。皇帝ヨーゼフ2世の推薦もあって、サリエリは、『ダナオスの娘たち』(Les Danaides)(1784) を制作する。この成功をきっかけに、サリエリはパリにおいて、フランスの叙情悲劇(tragédie lyrique)とイタリアの喜歌劇(opera buffa)の制作に熱を注いでいでいくこととなる。1786年の『オラース兄弟』(Les Horaces)は、不発に終わったものの、その翌年に上演された『タラール』は大成功を収めた。

1783年、ヨーゼフ2世は、ドイツの楽団に代わってイタリアの喜歌劇に特化した楽団を創設した。その楽団は、サリエリの『やきもち焼きの学校』(La scuola de’gelosi )によってデビューを果たした。

ウィーンに戻ったサリエリは、ブルグ劇場(Burgtheater)にてイタリアの喜歌劇の作曲と指揮に打ち込むようになる。この頃、パイジエッロ(Paisiello)やビセンテ・マルティーン・イ・ソレル(Martín y Soler)、そしてモーツァルト(Mozart)といった代表的な作曲家がヨーゼフ2世によってウィーンに集められており、音家としてのサリエリに大きな影響を与えた。また、詩人のジョヴァンニ・バッティスタ・カスティ(Giovanni Battista Casti; 1724-1803)と共に、『トロフォーニオの洞窟』(La grotto di Trofonio)と『はじめに音楽、次に言葉』(Prima la musica e po le parole)(1786年) といった作品が生み出された。1787年、パリにて『タラール』(Tarare)を初演したサリエリがウィーンに再び戻ると、ヨーゼフ2世は、ウィーンのためにイタリア語版のオペラを用意することをサリエリに命じた。サリエリの協力者であったイタリアの台本作家ロレンツォ・ダ・ポンテ(Lorenzo da Ponte; 1749-1838)がリブレットを書いた『オルムスの王アクスール』(Axur, Re d’Ormus)は、『タラール』の筋書きをなぞっているものの、フランスの劇作家ボーマルシェ(Beaumarchais; 1732-99)の政治的な寓意を大幅に省いたものとなっている。『アクスール』は、ビュルテンベルク大公フランツとエリザベスの結婚式で上演されてから、1788年から1805年にいたるまでウィーンの劇場で100回以上も上演されることとなった。

以上のようなサリエリの華々しい活躍は、皇帝ヨーゼフ2世の存在なくして実現しなかったものである。マリア・テレジアの息子として、母とは方針は違うものの、18世紀の啓蒙君主として広大な領土の頂点に君臨したヨーゼフ2世。また、婚姻を通じてヨーロッパ中に点在していたハプスブルク一族。サリエリは、教育や文化を奨励する啓蒙的政策に忠実な音楽家であったのであり、またそれがゆえにハプスブルク家のネットワークを通じた音楽活動を生涯続けることができたのであった。

  1. 宮廷楽長として:ヨーゼフ2世の死後の活動

1788年2月、ヨーゼフ2世は、サリエリに宮廷楽長(Hofkapellmeister)の役職を与えた。病身のジュゼッペ・ボンノ(Giuseppe Bonno)の後を継いだサリエリは、以降、1824年に引退するまでこの職を務めることとなり、教会音楽の作曲を行なっていく。

1790年2月20日、サリエリの強力なパトロンであった皇帝ヨーゼフ2世がなくなり、レオポルトが次の皇帝となった。サリエリの1790年代とは、パトロンのヨーゼフ2世の死去、フランス革命にも起因するパリでの仕事の削減、輝かしい才能のライバル・モーツァルトとの別れ(1791年死去)という目まぐるしい転機に対応せねばならない時期であった。1794年、サリエリは、台本作家ジョヴァンニ・デ・ガメッラ(Giovanni de Gamerra; 1742-1803)と共に、『ヘラクレイトスとデモクリトス』(Eraclito e Democrito) 、『ペルシャの女王パルミーラ』(Palmira, regina di Persia)、『ムーア人』(Il moro)を作曲し、特に『パルミーラ』は大成功を収めた。また、サリエリは、イタリアの協力者デフランチェスキ(C. P. Defrancheschi)と共に、『ファルスタッフ』(Falstaff)やサリエリが最後に完成させたオペラとなる『黒人』(独 Die Neger; 伊 I negri)を共に制作した。

宮廷楽長としてサリエリは、新しい歌手の登用、新しい楽器の購入の監督、音楽図書館の整備などを行った。また、サリエリは、自身が孤児としてガスマンのもとで教育を受けた経験もあってか、ガスマンが音楽家の寡婦と孤児を支援するために1771年に創設した音楽団体(the Tonkünstler-Societät)のトップとして精力的に活動した。また1815年、サリエリは、ウィーン会議3)ウィーン会議:1814年から15年にかけて、フランス革命とナポレオン戦争後の国際秩序の回復を図るために行われた会議。その結果、革命前の状態へ戻す正統主義と、大国間の勢力均衡という2大原則からなるウィーン体制が成立した。 の際の音楽イベントの責任者を務めている。

サリエリが教育者として果たした役割も見逃すことができない。彼の弟子の中には、コロラトゥーラ・ソプラノのカテリーナ・カヴァリエーリ(Catherina Cavalieri)、テレーゼ・ガスマン(Therese Gassmann; 師ガスマンの娘)、またベートヴェン(Beeathoven)やシューベルト(Schubert)といった才能あふれる若き作曲家もいた。

 

作品一覧 | Works

オペラ

  • 『アルミーダ』(Armida)(1771年)
  • 『ヴェネツィアの市』(La fiera di Venezia)(1772年)
  • 『古城の領主』(Il Barone di Rocca antica)(1772年)
  • 『宿屋の女主人』(La locandiera)(1773年)
  • 『イエス・キリストの情熱』(La Passione di Gesù Cristo)(1776年)
  • 『見出されたエウローパ』(Europa riconosciuta)(1778年)(スカラ座)
  • 『やきもち焼きの学校』(La scuola de’gelosi )(1778年)
  • 『煙突掃除人』(独:Der Rauchfangkehrer;伊:spazzacamino)(1781年)
  • 『セミラーミデ』(Semiramide)(1782年)
  • 『ダナオスの娘たち』(Les Danaides)(1784年)
  • 『トロフォーニオの洞窟』(La grotto di Trofonio)(1785年)
  • 『はじめに音楽、次に言葉』(Prima la musica e po le parole)(1786年)
  • 『オラース兄弟』(Les Horaces)(1786年)
  • 『最後の審判』(Le judgement dernier)(1787年)
  • 『タラール』(Tarare)(1787年)
  • 『オルムスの王アクスール』(Axur, Re d’Ormus) (1788年)
  • 『花文字』(La cifra)(1789年)
  • 『ヘラクレイトスとデモクリトス』(Eraclito e Democrito)(1795年)
  • 『ペルシャの女王パルミーラ』(Palmira, regina di Persia)(1795年)
  • 『ムーア人』(Il moro)(1795年)
  • 『ファルスタッフ』(Falstaff)(1799年)
  • 『ファルマクーザのカエサル』(Cesare in Farmacusa)(1800年)
  • 『アンジョリーナ』(1800年)
  • 『カプアのアンニーバレ(ハンニバル)』(Hannibal in Capua)(1801年)
  • 『黒人』(Die Neger)(1804年):ジングシュピール。

 

ミサ曲

  • 『皇帝ミサ ニ長調』(1788年)
  • 『戴冠式テ・デウム』(1792年)
  • 『レクイエム ハ短調』(Requiem c)(1804年)

器楽作品

  • 『シンフォニア ニ長調 「ヴェネツィア人」』 (Symphony in D major, Veneziano)
  • 『ピアノ協奏曲 ハ長調 』(Piano Concerto in C major)
  • 『オルガン協奏曲 ハ長調』 (Organ Concerti in C major)
  • 『スペインのフォリア』(La follia di Spagna)(1815年):「フォリア」(follia)とは16世紀に流行した舞踏曲。

詩篇曲

  • 『どん底の叫び』(De profundis)(1805年)
  • 『エルサレム賛歌』(Lauda Jerusalem)(1815年)
  • 『福者』(Beatus vir)(1815年)
  • 『主よ、感謝します』(Confitebor tibi Domine)(1815年)
  • 『どん底の叫び』(De profundis)(1815年)
  • 『主は言った』(Dixit Dominus)(1815年)
  • 『褒め称えよ、主のしもべたちよ』(1815年)

歌曲

  • 『栄光と徳の勝利』(Il trionfo della Gloria e della Virtù)(1774年)
  • 『チロル陸軍』(Der Tyroler Landturm)(1799年)
  • 『チロルの感謝』(La riconoscenza de’Tirolesi)(1800年)

合唱曲

  • 『平和の機会に』(Bei Gelegenheit des Friedens)(1800年)
  • 『ド・レ・ミ・ファ』(Do re mi fa)(1818年)

 

サリエリを扱った作品

  • 映画『アマデウス』(原題:Amadeus、1984年・米):サリエリを演じたのはF・マーリー・エイブラハム(1939-)。

参考文献 | Bibliography

  1. Oxford Music Online
  2. 藤内哲也編著『イタリアの歴史と文化』ミネルヴァ書房、2016年。
  3. 水谷彰良『新イタリア・オペラ史』音楽之友社、2015年。

Notes   [ + ]

1. エウロペ(Europe):この作品は、ギリシア神話をもとに作られている。フェニキアのテュロス王の娘エウロペは、白牛に姿を変えた全能の神ゼウスによってクレタ島に運ばれた。エウロペは、ゼウスの子ミノス(後のクレタ島の王)を産んだ。エウロペの名前は、ヨーロッパの語源となっている。
2. ジングシュピール(Singspiel):ドイツの台詞入りコミック=オペラの一種。18世紀末から19世紀初頭にかけて流行。
3. ウィーン会議:1814年から15年にかけて、フランス革命とナポレオン戦争後の国際秩序の回復を図るために行われた会議。その結果、革命前の状態へ戻す正統主義と、大国間の勢力均衡という2大原則からなるウィーン体制が成立した。

ジョアキーノ・ロッシーニ

ジョアッキーノ・ロッシーニ(Rossini, Gioachino (Antonio))b 1792年2月29日教皇領ペーザロ;d 1868年11月13日フランス帝国パリ。19世紀前半に活躍し、ベッリーニやドニゼッティといった同時代の人々からも賞賛を得たイタリアの作曲家。イタリアのオペラ作曲家ヴェルディが、19世紀後半になって活躍するようになるまで、ロッシーニはイタリアのオペラの第一人者とされていた。

ニコロ・パガニーニ

ニコロ・パガニーニ(Niccolò Paganini):生:1782年10月27日(ジェノヴァ共和国 (現在のイタリア共和国のジェノヴァ))/没 : 1840年5月27日(サルデーニャ王国領ニッツァ(現在のフランス共和国ニース))。イタリアのヴァイオリニスト・作曲家。彼の優れた技能は、ヴァイオリンの歴史に貢献したとともに、同時代のロマン派の音楽家たちにも大きな影響を与えた。

ジョージ・ガーシュウィン

ガーシュウィン

生 : ブルックリン、ニューヨーク(Brooklyn, NY)、1898年9月26日/没 : ハリウッド、カリフォルニア(Hollywood, CA)、1937年7月11日)

ジョージ・ガーシュウィン(Gershwin, George)はアメリカの作曲者、ピアニスト、指揮者。本名、ジェイコブ・ガーショヴィッツ(Jacob Gershowitz)。ブロードウェイの作曲家としての地位を確立し、クラシックとジャズの垣根を越えた音楽を次々と生み出した。代表作に『ラプソディー・イン・ブルー』、『パリのアメリカ人』、『ポーギーとベス』などがある。

生涯 | Biography

1. 少年時代

1890年代、ガーシュウィンの両親モイシュ・ゲルショヴィッツ(Moshe Gershovitz)とローズ・ブルスキン(Rose Bruskin)は、ロシアからアメリカへ移民としてニューヨークに居を構えた1)アメリカへの移民:19世紀半ばから第一次世界大戦期にかけてヨーロッパ諸国から北米・南米への海外移住が最盛期を迎えた。その背景として、ヨーロッパ諸国側のプッシュ要因とアメリカ大陸側の受け入れ要因がある。まずヨーロッパ諸国では、産業革命の結果、海外貿易・投資が活性化され、海外移住に関する諸制限が撤廃されていった。一方、独立を勝ち取った北米・南米の植民地国においては、未開拓地の発展のために人材が必要とされたため、移住者に対する経済的補助・便宜が準備された。こうしてイギリス、イタリア、オーストリア、ハンガリー、旧チェコスロバキア、スペイン、ポルトガル、ドイツ、そしてガーシュウィンの両親の出身地帝政ロシアなどから多くの人々が新天地に渡った。ところが、1910年前後に最高潮に達した海外移住は、第一次世界大戦、世界恐慌以降、減少していくこととなる。特にアメリカでは、1921年・1924年の移民法によって、年間移民数が制限されることとなった。。1910年、両親は、作詞を得意とする兄アイラ3)兄アイラ・ガーシュウィン:1896年生まれ。弟ジョージと組み、作詞家として数々の名曲を生み出した。アイラは次のようなコメントを残している:「私の歌詞のほとんどは、すでに出来上がった音楽にモザイク細工のようにつなげられていくために、生きているのか死んでいるのか(も分からない)。(中略)極めて奇妙なものになっているのである。」。アイラは、ジョージの急逝(1937)後も他の作曲家と組み活動を続けた。1983年86歳で死去。へピアノを買い与えたが、このピアノによって、それまで音楽に興味を示すことのなかったガーシュウィンの才能が開花した。ガーシュウィンは瞬く間に近所の音楽教師から知識を吸収していき、1912年頃にはチャールズ・ハンビッツァー(Charles Hambitzer)の弟子となった。1914年、ガーシュウィンは、高校を退学し、週15ドルの給料で、ティン・パン・アレイ(Tin Pan Alley) 2)ティン・パン・アレイ:19世紀末から発展していったニューヨーク市の楽譜出版社や楽器商が集まっていた地区を指す。ニューヨーク市マンハッタンのフラワーディストリクトの5番街と6番街の間西28丁目に位置する。この名は、常に音楽が鳴り響いていたため、鉄鍋を叩いているかのような賑やかさであったことに由来する。のジェローム・ホスメル・レミック(Jerome H. Remick)4)ジェローム・ホスメル・レミック(Jerome Hosmer Remick): 1867年デトロイト生まれの楽譜出版経営者、慈善家。1931年没。のもとでソング・プラガー(song pluger)5)またはソング・デモストレーター(song demonstrator):20世紀初頭より活動するようになった、百貨店や音楽出版社と契約を結び、新曲を演奏したり歌ったりしてプロモートする歌手やピアニストのこと。蓄音機やレコードが高価な当時、新譜を再生することができる歌手・演奏者は重要な存在であった。として働き始めた。またガーシュウィンは、歌の伴奏者としての演奏のスキルを磨くうちに、作曲も手がけるようになった。ついに、ガーシュウィンは、ティン・パン・アレイから、ニューヨーク市のショービジネスの中心地ブロードウェイへ6)ブロードウェイ(Broad Way):ニューヨーク市マンハッタン島を南北に走る大通り。この大通りと7番街との交差点にあたるタイムズスクエア(Times Square)周辺は演劇・映画会社が集中し、アメリカの演劇界の意味でもブロードウェイという言葉が使われる。またここには当時、アメリカの代表的な新聞社ニューヨークタイムズ社のビルがあった。と活躍の場を移した。

兄アイラとジョージ・ガーシュウィン

2. 「ラプソディー・イン・ブルー」の誕生

1917年3月、ガーシュウィンは、レミックの会社を離れ、6月までには、『ミス 1917』(Miss 1917)(ケルン(Kern) とヴィクター・ハーバート(Victor Herbert)による軽喜劇)のリハーサルを担当するピアニストを務めるようになった。同年の11月にショーがセンチュリーシアターで始まると、ガーシュウィンは主催者兼伴奏者となり、その年のうちに、ブロードウェイではガーシュウィンの曲が3曲も使用された。間もなくして、ガーシュウィンは、初のブロードウェイ総譜・付帯音楽となる『ラ・ラ・ルシール』(La La Lucille)を完成させ、1919年5月26日に封切られた。こうして、ブロードウェイのピアニストとしてのガーシュウィンの快進撃が始まった。この時彼は弱冠21歳であった。翌1920年、歌手アル・ジョルソン(Al Jolson)によって録音された『スワニー』(Swanee)はその年だけで10,000ドルを売り上げた。またプロデューサーのジョージ・ホワイト(George White)7)ジョージ・ホワイト(George White):1891年生まれ。俳優、ダンサー、作曲者、劇場のオーナーなどとしても名を馳せた多彩なアメリカの映画プロデューサー。代表作は『ジョージ・ホワイトのスキャンダル』(George White’s Scandals )(1934, 1935, 1945)。1968年ハリウッドにて死去。との契約(1920年から1924年まで)のもと、ブロードウェイレビューの年刊誌のために、ガーシュウィンは、『Lady Be Good!』(レディ・ビー・グッド) (1924)を作曲し、この曲も大ヒットを記録した。

作曲中のガーシュウィン

1924年、すでに作曲によって有名になっていたガーシュウィンは、ポール・ホワイトマン(Paul Whiteman)が主宰するコンサートのために、ピアノとオーケストラのための楽曲『ラプソディー・イン・ブルー』(Rhapsody in Blue)(1924)をピアニストとして作曲する。このジャズ8)ジャズ(Jazz):19世紀末から20世紀にかけて、アメリカの黒人の民族音楽と白人の音楽の融合によって、ルイジアナ州ニュー・オーリンズのブラスバンドから生まれた。またオフビート(アフタービート)のリズムによるスウィング感や即興演奏といった特徴を持つ。をコンサートホールに持ち込んだ記念碑的作品である『ラプソディー・イン・ブルー』は、「現代音楽におけるとある試み」(An Experiment in Modern Music)と題されたコンサート(1924年2月12日 於ニューヨークのエオリアン・ホール(Aeolian Hall))にて初演されることとなる。また、このコンサートには、当時ソビエト社会主義共和国連邦9)ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連):1917年、二月革命により帝政ロシアが終焉した後、十月革命によって建国された世界初の社会主義国家。首都モスクワ。当時、ラフマニノフの他、作曲家プロコフィエフなどのロシアの知識人たちがアメリカへ亡命した。1991年解体。から亡命していた音楽家ラフマニノフをはじめとする著名人が来場していた。

以上のようにショービジネスで成功を収めたガーシュウィンであったが、クラッシックに対する熱意を持ち続け、弦楽四重奏『ララバイ』(Lullaby)(1919)、オペラ『ブルー・マンデー』(Blue Monday)(1922)を作曲した。

1930年代のブロードウェイ

3. 富と名声と

ガーシュウィンは、1920年代のニューヨークで富と名声を手に入れた。一例を挙げるとすると、彼個人には、1924年から1934年の10年間で、『ラプソディー・イン・ブルー』の録音・使用料のみで、年間25万ドルの収益があったとされる。1920年代半ばより、ガーシュウィンは、視覚芸術や絵画、彫刻、印刷物やデッサンに興味を示し始め、彼自身も絵筆を手に取るようになる。また彼は、ニューヨークの演劇界・文学界のサロンにも出入りするようになり、そのパーティーは彼のピアノによって幕を開けることも多かった。

『ラプソディー・イン・ブルー』の成功以降も、ガーシュウィンはショービジネスのためのスコアを書き続けたものの、クラシックの基本に倣ったコンサート音楽も精力的に作曲した。1925年の夏、彼は『ピアノ協奏曲ヘ長調』(The Concerto in F for piano and orchestra)の作曲に専念し、1926年12月にはピアノのための『三つの前奏曲』(The Preludes for Piano)を完成させた。そして、1928年、ガーシュウィンは、3月半ばから6月までヨーロッパを旅行し、そこからインスピレーションを得て『パリのアメリカ人』(An American in Paris)を作曲した。この欧州旅行中に、ガーシュウィンは、プロコフィエフ、プーランク、ラヴェル、ウォールトン、ベルグといった音楽家たちの歓待を受け、フランスの音楽家たちによって『ラプソディー・イン・ブルー』と『ピアノ協奏曲ヘ長調』が演奏された。また1929年頃のインタービューでガーシュウィンは次のように答えている:「おきまりのハーモニー、リズム、反復進行、インターバル、これらは私の耳を満足させることはない。私は、満足のいくまでこれらを取り巻くものを変えることに没頭したい。」ガーシュウィンが新大陸アメリカで生み出した20世紀の音楽は、クラシック音楽の中心地であるヨーロッパにも届いていたのであった。

CDジャケット

1929年夏、ガーシュウィンは、ニューヨークのルウィーソン・スタジアム(Lewisohn Stadium)の屋外コンサートにて指揮者としてデビューした。その年の10月10)1929年10月世界大恐慌:1929年10月、ウォール街の株式市場が大暴落し、第一次世界大戦後の好景気に沸いていたアメリカのみならず、世界中の都市に影響を与えた恐慌。この恐慌は、経済や産業に影響を与えたのみならず、1930年代のヨーロッパの政治情勢にまで爪痕を残すこととなる。、シュロイメ・アンスキー(Shloime Ansky)11)シュロイメ・アンスキー(Shloime Ansky):1863年ベラルーシの都市ヴィチェプスク生まれのイディッシュ語作家・劇作家・民俗学者。ナロードニキ(narodniki)としてロシアのユダヤ系市民のために社会主義活動を行った。1920年死去。の戯曲『ディブック』(The Dybbuk)のために作曲するという契約をメトロポリタン・オペラ(Metropolitan Opera)と結んだものの、その契約は履行されなかった。

1929年10月以降、アメリカ社会は不況に沈んだものの、ガーシュウィンは、『ストライク・アップ・ザ・バンド』(Strike up the Band) (1927; rev. 1930)、『ガール・クレイジー』(Girl Crazy)(1930)、『オブ・ジー・アイ・シング』(Of Thee I Sing)(1931)といったミュージカルの作曲で成功を収めつつ、コンサートツアーも続けた。1934年から35年にかけて、CBS12)CBS(Columbia Broadcasting System):1927年設立のアメリカの放送会社。NBC、ABC、FOXと並ぶアメリカの4大ラジオ会社。によるラジオ番組「ガーシュウィンによる音楽」(Music by Gershwin)でホストを務め、自らも演奏した。このことは、これまで劇場でしか味わうことができなかった音楽が、ラジオ波を介して、劇場の外の大勢の人々も共有できるものになったということを意味する。また1936年6月、ガーシュウィンと兄アイラは、RKO映画会社と契約を結び、8月までにはハリウッドに拠点を移した。そこでは、『躍らん哉』(Shall we Dance?)(1937)、『踊る騎士』(A Damsel in Distress) (1937)、『ゴールドウィン・フォーリーズ』(The Goldwyn Follies) (1938)といった作品に曲を提供し好評を博した。

ヒット曲を出しつつもガーシュウィンは、作曲法を勉強し続けた。1932年から36年までヨーゼフ・シリンガー(Joseph Schillinger)に師事したガーシュウィンは、『キューバ序曲』(Cuban Overture)(1932)、『アイ・ガット・リズム』(I got rhythm)(1934)、そして最高傑作と称されるオペラ『ポーギーとベス』(Porgy and Bess) (1935)を作曲した。ニューヨークのギルド劇場(Theatre Guild)との契約(1933年10月)のもと着手されたこの曲は、1934年夏のガーシュウィン自身のサースカロライナ滞在中に受けた現地での経験が多いに生かされている。1935年初めに完成されたこの曲はニューヨークで絶賛された。また、本曲中のアリア『サマータイム』(Summer Time)は、現代に至るまで幅広いジャンルの音楽家によってカバーされている。

ポーギーとベスの楽譜

1937年前半、演奏と作況を続けながらも、ガーシュウィンは断続的な気鬱に悩まされていた。6月9日、突然昏睡状態に陥ったガーシュウィンは脳腫瘍と診断され、緊急手術を受けたが、6月11日の朝、38歳で永遠の眠りについた。その4日後、ニューヨークとハリウッドでの追悼式の後に、マウントホープ共同墓地(Mount Hope Cemetery)に埋葬された。

作品一覧 | Works

オーケストラ

  • 『ラプソディー・イン・ブルー』(Rhapsody in Blue)(1924):

ピアノと管弦楽のための曲。典型的なアメリカ芸術を象徴するものとして現在に至るまで親しまれている。もとは『アメリカン・ラプソディー』(American Rhapsody)という題名であったが、兄アイラの発案で変更された。クラリネットの低音から高音へのグリッサンドによって始まる全体的に軽快で明るい曲調は、この曲が作曲された当時の好景気に沸くアメリカ社会を反映しているといえよう。

  • 『ピアノ協奏曲ヘ長調』(Concerto in F)(1925)
  • 『パリのアメリカ人』(An American in Paris)(1928)
  • 『ラプソディ第2番』(Second Rhapsody for Piano and Orchestra)(1931)
  • 『キューバ序曲』(Cuban Overture)(1932)
  • 『アイ・ガット・リズム』(I got Rhythm)(1934)
  • 交響組曲『キャットフィッシュ・ロウ』(なまず横丁・Catfish Row)(1935):

オペラ『ポーギーとベス』をオーケストラ用に編曲したもの

室内楽

  • 『子守唄』(Lullaby) (1919–20)
  • 『ショート ストーリー』(Short Story)(1925):

ピアノとヴァイオリンのための曲

ピアノソロ曲

  • 『リアルトのさざ波』(Rialto Ripples)(1916)
  • 『3つの前奏曲』(The Preludes for Piano)(1926):

曲名のとおり、テンポの良い第1楽章『アレグロ・ベン・リトマート・エ・デチーゾ』(Allegro ben ritmato e deciso)(変ロ長調)、ゆったりと気だるげな第2楽章『アンダンテ・コン・モート・エ・ポコ・ルバート』(Andante con moto e poco rubato)(嬰ハ短調)、テンポを取り戻し小気味よく展開する第3楽章『アレグロ・ベン・リトマート・エ・デチーゾ』(Allegro ben ritmato e deciso)(変ホ長調)によって構成される。

  •   『2つの調のための即興曲』(Impromptu in 2 Keys)(1924)
  •   『スイス・ミス』(Swiss Miss)(1926)
  •   『メリー・アンドリュー』(Merry Andrew)(1928)
  •   『ジョージ・ガーシュウィンのソング・ブック』(George Gershwin’s Song-Book)(1932)
  •   『2つのワルツ』(2 Waltzes) (1933)
  •   『プロムナード』(Promenade)(1937)

オペラ

  • 『135番街』(135th Street)(1923)
  • 『ポーギーとベス』(Porgy and Bess)(1935):

サースカロライナ州のチャールストンに住む黒人について書かれたデュボーズ・ヘイワード(DuBose Heyward)の小説『ポーギー』(Porgy)に影響を受けて書かれた曲。全3幕9場のオペラ。アリア『サマータイム』も含まれる。

映画音楽

  • 『ザ・サンシャイン・トレイル』(The Sunshine Trail)(1923):

監督トーマス・H・インス(Thomas H.Ince)

  • 『デリシャス』(Delicious)(1931):

監督デイヴィット・バトラー、製作会社FOX 。劇中歌『ブラ・ブラ・ブラ』(Blah, blah, blah)、『デリシャス』(Delicious)、(Katinkitschka)、『サムバディ・フロム・サムウェア』(Somebody from Somewhere)。

  • 『踊らん哉』(Shall We Dance)(1937):

製作会社RKOラジオ。劇中歌『ビギナーズラック』((I’ve got) Beginner’s Luck)『レッツ・コール・ザ・ホール・スィング・オフ』(Let’s call the whole thing off)、『踊らん哉』(Shall We Dance)、『スラップ ザット バス』(Slap that bass)、『ゼイ・オール・ラフト』(They all laughed)『ゼイ・キャント・テイク・ザット・アウェイ・フロム・ミー』(They can’t take that away from me)。

  • 『踊る騎士』(A Damsel In Distress)(1937):

監督ジョージ・スティーヴンス、製作会社RKOラジオ。劇中歌『ア・フォギー・デイ』(A Foggy Day)、『アイ・キャント・ビー・ボーダード・ナウ』(I can’t be bothered now)、『ザ・ジョリー・タール・アンド・ザ・ミルク・メイド』(The Jolly Tar and the Milk Maid: ガーシュウィンがコーラスとソロの歌を提供)、『ナイス・ウォーク・イフ・ユー・キャン・ゲット・イット』(Nice work if you can get it)、『シング・オブ・スプリング』(Sing of Spring:ガーシュウィンによるコーラスアレンジ)。

  • 『華麗なるミュージカル』(The Goldwyn Follies)(1938):

製作中にガーシュウィンの死去。監督ジョージ・マーシャル。劇中歌『アイ・ラブ・トゥー・ライム』(I love to rhyme)、『アイ・ワズ・ドゥーイング・オール・ライト』(I was doing all right)、『ラブ・イズ・ヒア・トゥー・ステイ』(Love is here to stay:邦題『愛はここに』。この曲を書き上げた直後、ガーシュウィンは亡くなった)、『ラブ・ウォーキード・イン』(Love walked in)。

  • 『ザ・ショッキング・ミス・ピルグリム』(1946):

製作会社は20世紀フォックス。ガーシュウィンの歌を使用。劇中歌『アント・ユー・カインド・オブ・グラード・ウィー・ディド?』(Aren’t you kind of glad we did?)、『ザ・バック・ベイ・ポルカ』(The Back Bay Polka)、『チェンジング・マイ・チューン』(Changing my Tune)、『フォア・ユー、フォア・ミー、フォア・エヴァーモア』(For You, for Me, for Evermore)、『ワン・ツー・スリー』(One, two, three)。

  • 『キス・ミー、ストゥピッド』(Kiss me, stupid)(1964):

劇中歌『オール・ザ・リブロング・デイ(アンド・ザ・ロング、ロング・ナイト)』(All the Livelong Day (and the Long, Long Night)、『アイム ポーチドエッグ』(I’m a poached egg)、『ソフィア』(Sophia)。

歌曲

オペラ、ミュージカルから独立したもの

  • 『シンス・アイ・ファウンド・ユー』(Since I found you(1913)
  • 『ホエン・ユー・ウォント・エム、ユー・キャント・ゲット・エム』(When you want’em, you can’t get ‘em)(1916)
  • 『ザ・リアル・アメリカン・フォーク・ソング』(The real American folk song)(1918):

ミュージカル『レディース・ファースト』より

  • 『香港』(Hong Kong(1918):

ミュージカル『8時半』より

  • 『ドーナッツ』(Doughnuts)(1919):

ミュージカル『モリス・ジェストの深夜の騒ぎ』より

  • 『スワニー』(Swanee)(1919):

『キャピトル・レヴュー』より

  • 『ヤンキー』(Yan-Kee(1920):

ミュージカル『モリス・ジェストの深夜の騒ぎ』より

  • 『バックホーム』(Back home)(1920):

ミュージカル『Dere Mable』より

  • 『サムワン』(Someone(1922):

『巴里のアメリカ人』より

  • 『アクロス・ザ・シー』(Across the Sea)(1922)
  • 『サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー』(Someone To Watch Over Me)(1926):

邦題「やさしい伴侶を」。ミュージカル『Oh, Kay!』より。兄アイラが作詞。オフビートで始まりルバート奏法に入っていく。

  • 『アイル・ビルド・ア・ステアウェイ・トゥ・パラダイス』(I’ll Build A Stairway To Paradise)(1928):

ミュージカル『For Goodness Sake』より

  • 『アイ・ガッタ・リズム』(I got rhythm(1930):
  • 『バット・ノット・フォア・ミー』(But Not for Me (1930):

兄アイラが作詞担当。オフビートで始まりルバート奏法に入っていく。

  • 『エムブレースアブル・ユー』(Embraceable You)(1930):

兄アイラが作詞担当。オフビートで始まりルバート奏法に入っていく。

  • 『サマータイム』(Summer Time)(1935):

オペラ『ポーギーとベス』のために作曲されたアリア。作詞はデュボーズ・ヘイワード(DuBose Heyward)。1936年にビリー・ホリデイが歌って以来、ジャズのスタンダードナンバーとして時代を超えて様々な場でカバーされている。一例を挙げると、1960年、モダンジャズのサックスプレーヤーであるジョン・コルトレーン(John Coltrane)がこの曲を歌い、『マイ・フェイバリット・シングス』(My favorite things) に収録した。

  • 『ジャスト・アナザー・ルンバ』(Just another rhumba(1938)

ミュージカル

  • 『8時半』(Half Past Eight)(1918)
  • 『1918年のヒッチー=クー『(Hitchy-Koo of 1918)(1918)
  • 『危険なメイド』(A Dangerous Maid(1921)
  • 『お願いだから』(For Goodness Sake(1922)
  • 『虹』(The Rainbow(1923)
  • 『プリムローズ』(Primrose(1924)
  • 『レディー・ビー・グッド』(Lady be Good)(1924)

邦題「淑女よ善良なれ」。1924年12月1日初演

  • 『ティップ・トー』(Tip-toes)(1925)
  • 『トレジャー・ガール』(Treasure Girl)(1928)
  • 『ロザリー』(Rosalie)(1928)
  • 『ショー・ガール』(Show Girl)(1929)
  • 『ストライク・アップ・ザ・バンド』(Strike up the Band)(1930)
  • 『ガール・クレイジー』(Girl Crazy)(1930):

ミュージカル『クレイジー・ガール』(Girl Crazyにおいてエセル・マーマン(Ethel Merman)13)エセル・マーマン(Ethel Merman): 1908年ニューヨーク市クイーンズ区アストリア地区生まれのアメリカの歌手・女優。「ブロードウェイの女王」と賞賛された。ゴールデングローブ賞主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)受賞(1953)。1984年76歳で没。が歌う『アイ・ガッタ・リズム』( I got rhythm)(1930)は、1930年代から1950年代にかけて、有名な歌手やピアニスト、ジャズミュージシャン、スウィングバンド、オーケストラによって広く演奏・録音された。ガーシュウィンから広まったその調和した枠組みは、ジャズの歴史において最も有名な32小節の構成(32-bar structure)14)32小節の構成(32-bar structure):8小節を1段落とし、その4つ分32小節で曲を構成、「Aメロ(8小節)→Aメロ(8小節)→Bメロ(8小節)→Aメロ(8小節)」の順に演奏。各パートが8小節に維持されてさえいればパートの内部はルバートでテンポを崩しても良いというもの。とされた:いわゆる「リズムの変化」(rhythm changes)である。

  • 『オブ・ジー・アイ・シング』(Of Thee I Sing(1931)
  • 『レットエム・イート・ケーク』(Let ‘em eat cake)(1933)
  • 『ショー・イズ・オン』(The Show is On)(1936)

ガーシュウィンの楽曲が使用されている作品

フィギュアスケートにおいて使用されたガーシュウィンの楽曲

  • 浅田真央(1990〜/日本):2012-13年SP使用曲『アイ・ガッタ・リズム』
  • 金妍兒(キム・ヨナ)(1990〜/大韓民国):2009-2010年フリー使用曲『ピアノ協奏曲ヘ長調』
  • キーラ・コルピ(1988〜/ フィンランド):2011-12年使用曲『アイ・ガッタ・リズム』

ガーシュウィンが生きた時代を知るための文献 | Further Readings

欧語文献

ガーシュウィンの生涯と作品

  • Grove A( Crawford, W. Schneider) [incl. further bibliography]
  • Goldberg: George Gershwin: a Study in American Music (New York, 1931, rev. and enlarged 2/1958)
  • Armitage, ed.:George Gershwin (New York, 1938; repr. 1995 with a new introduction by E. Jablonski)
  • Duke: ‘Gershwin, Shillinger and Dukelsky’, MQ, 33 (1947), 102–15
  • Ewen: A Journey to Greatness (New York, 1956; rev. and enlarged 2/1970/R as George Gershwin: his Journey to Greatness)
  • Armitage: George Gershwin: Man and Legend (New York, 1958/R)
  • Jablonskiand L.D. Stewart : The Gershwin Years (Garden City, NY, 1958, rev. 2/1973)
  • M. Schwartz: Gershwin: his Life and Music (Indianapolis, IN, 1973) [incl. catalogue of works and bibliography]
  • Jablonski: ‘Gershwin at 80: Observations, Discographical and Otherwise, on the 80th Anniversary of the Birth of George Gershwin, American Composer’, American Record Guide, 41 (1977–8), no.11, pp.6–12, 58 only; no.12, pp.8–12, 57–9
  • Jeambar: George Gershwin (Paris, 1982)
  • Jablonski: Gershwin: a Biography, Illustrated (New York, 1987)
  • Jablonski: Gershwin Remembered (Portland, OR, 1992)
  • Rosenberg: Fascinating Rhythm: the Collaboration of George and Ira Gershwin (New York, 1991)
  • Peyser: The Memory of All That (New York, 1993)

音楽史

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  • Levine: ‘Gershwin, Handy and the Blues’, Clavier, 9/7 (1970), 10–20
  • Crawford: ‘It ain’t Necessarily Soul: Gershwin’s Porgy and Bess as Symbol’, Yearbook for Inter-American Musical Research, 8 (1972), 17–38
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  • Crawford: ‘Gershwin’s Reputation: a Note on Porgy and Bess’, MQ, 65 (1979), 257–64
  • D. Shirley: ‘Reconciliation on Catfish Row: Bess, Serena and the Short Score of Porgy and Bess’, Quarterly Journal of the Library of Congress, 38 (1980–81), 144–65
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  • Nauert: ‘Theory and Practice in Porgy and Bess: the Gershwin-Schillinger Connection’, MQ, 78 (1994), 9–33
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邦語文献

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  • デイヴィッド・グッドマン著、長崎励朗訳『ラジオが夢見た市民社会 : アメリカン・デモクラシーの栄光と挫折』岩波書店、2018年。
  • ポール・クレシュ著、鈴木晶訳『アメリカン・ラプソディ : ガーシュインの生涯』、晶文社、1989年。
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  • リチャード・ハドロック著、諸岡敏行訳『ジャズ1920年代 』草思社、1985年。
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  • 前川玲子『亡命知識人たちのアメリカ』世界思想社、2014年。
  • 吉田広明『亡命者たちのハリウッド : 歴史と映画史の結節点 』作品社、2012年。
  • 和田光弘編著『大学で学ぶアメリカ史』ミネルヴァ書房、2014年。

参考文献 | Bibliography

  1. Oxford Music Online(https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.47026
  2. ピティナ・ピアノ曲編集部(https://enc.piano.or.jp/persons/4689
  3. 『日本第百科全書(ニッポニカ)』小学館

Notes   [ + ]

1. アメリカへの移民:19世紀半ばから第一次世界大戦期にかけてヨーロッパ諸国から北米・南米への海外移住が最盛期を迎えた。その背景として、ヨーロッパ諸国側のプッシュ要因とアメリカ大陸側の受け入れ要因がある。まずヨーロッパ諸国では、産業革命の結果、海外貿易・投資が活性化され、海外移住に関する諸制限が撤廃されていった。一方、独立を勝ち取った北米・南米の植民地国においては、未開拓地の発展のために人材が必要とされたため、移住者に対する経済的補助・便宜が準備された。こうしてイギリス、イタリア、オーストリア、ハンガリー、旧チェコスロバキア、スペイン、ポルトガル、ドイツ、そしてガーシュウィンの両親の出身地帝政ロシアなどから多くの人々が新天地に渡った。ところが、1910年前後に最高潮に達した海外移住は、第一次世界大戦、世界恐慌以降、減少していくこととなる。特にアメリカでは、1921年・1924年の移民法によって、年間移民数が制限されることとなった。
2. ティン・パン・アレイ:19世紀末から発展していったニューヨーク市の楽譜出版社や楽器商が集まっていた地区を指す。ニューヨーク市マンハッタンのフラワーディストリクトの5番街と6番街の間西28丁目に位置する。この名は、常に音楽が鳴り響いていたため、鉄鍋を叩いているかのような賑やかさであったことに由来する。
3. 兄アイラ・ガーシュウィン:1896年生まれ。弟ジョージと組み、作詞家として数々の名曲を生み出した。アイラは次のようなコメントを残している:「私の歌詞のほとんどは、すでに出来上がった音楽にモザイク細工のようにつなげられていくために、生きているのか死んでいるのか(も分からない)。(中略)極めて奇妙なものになっているのである。」。アイラは、ジョージの急逝(1937)後も他の作曲家と組み活動を続けた。1983年86歳で死去。
4. ジェローム・ホスメル・レミック(Jerome Hosmer Remick): 1867年デトロイト生まれの楽譜出版経営者、慈善家。1931年没。
5. またはソング・デモストレーター(song demonstrator):20世紀初頭より活動するようになった、百貨店や音楽出版社と契約を結び、新曲を演奏したり歌ったりしてプロモートする歌手やピアニストのこと。蓄音機やレコードが高価な当時、新譜を再生することができる歌手・演奏者は重要な存在であった。
6. ブロードウェイ(Broad Way):ニューヨーク市マンハッタン島を南北に走る大通り。この大通りと7番街との交差点にあたるタイムズスクエア(Times Square)周辺は演劇・映画会社が集中し、アメリカの演劇界の意味でもブロードウェイという言葉が使われる。またここには当時、アメリカの代表的な新聞社ニューヨークタイムズ社のビルがあった。
7. ジョージ・ホワイト(George White):1891年生まれ。俳優、ダンサー、作曲者、劇場のオーナーなどとしても名を馳せた多彩なアメリカの映画プロデューサー。代表作は『ジョージ・ホワイトのスキャンダル』(George White’s Scandals )(1934, 1935, 1945)。1968年ハリウッドにて死去。
8. ジャズ(Jazz):19世紀末から20世紀にかけて、アメリカの黒人の民族音楽と白人の音楽の融合によって、ルイジアナ州ニュー・オーリンズのブラスバンドから生まれた。またオフビート(アフタービート)のリズムによるスウィング感や即興演奏といった特徴を持つ。
9. ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連):1917年、二月革命により帝政ロシアが終焉した後、十月革命によって建国された世界初の社会主義国家。首都モスクワ。当時、ラフマニノフの他、作曲家プロコフィエフなどのロシアの知識人たちがアメリカへ亡命した。1991年解体。
10. 1929年10月世界大恐慌:1929年10月、ウォール街の株式市場が大暴落し、第一次世界大戦後の好景気に沸いていたアメリカのみならず、世界中の都市に影響を与えた恐慌。この恐慌は、経済や産業に影響を与えたのみならず、1930年代のヨーロッパの政治情勢にまで爪痕を残すこととなる。
11. シュロイメ・アンスキー(Shloime Ansky):1863年ベラルーシの都市ヴィチェプスク生まれのイディッシュ語作家・劇作家・民俗学者。ナロードニキ(narodniki)としてロシアのユダヤ系市民のために社会主義活動を行った。1920年死去。
12. CBS(Columbia Broadcasting System):1927年設立のアメリカの放送会社。NBC、ABC、FOXと並ぶアメリカの4大ラジオ会社。
13. エセル・マーマン(Ethel Merman): 1908年ニューヨーク市クイーンズ区アストリア地区生まれのアメリカの歌手・女優。「ブロードウェイの女王」と賞賛された。ゴールデングローブ賞主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)受賞(1953)。1984年76歳で没。
14. 32小節の構成(32-bar structure):8小節を1段落とし、その4つ分32小節で曲を構成、「Aメロ(8小節)→Aメロ(8小節)→Bメロ(8小節)→Aメロ(8小節)」の順に演奏。各パートが8小節に維持されてさえいればパートの内部はルバートでテンポを崩しても良いというもの。
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