セルゲイ・ラフマニノフ

生 : 1873年3月20日(4月1日)(ロシア帝国、オネグ)/没 : 1943年3月28日(アメリカ合衆国、ビバリーヒルズ)

1873年3月20日(4月1日)オネグ生まれ/1943年3月28日カリフォルニア州ベバリーヒルズ(Beverly Hills, CA)死去。ロシア出身の作曲家・演奏家・指揮者。これら3つのキャリアで見事に成功した。 特にピアノ演奏については、恵まれた体躯を活かして優れたパフォーマンスを行ったため、人々に賞賛された。チャイコフスキー(Tchaikovsky)やリムスキー・コルサコ(Rimsky-Korsakov)の影響を強く受けている。

生涯 | Biography

1. 不遇な少年時代と師ニコライ・ズヴェーレフとの出会い(1873–89年)

1873年4月1日(ユリウス暦では3月20日)、セルゲイ・ラフマニノフは、ノヴゴロド近郊のオネグで誕生した。ラフマニノフの父は浪費癖があり、一家は、数軒の家の所有者から、オネグに一つの不動産を持つ身まで没落していた。ラフマニノフは、最初は母から、やがてサンクトペテルブルク音楽院(St Petersburg Conservatory)を卒業したアンナ・オルナーツヤカ(Anna Ornatskaya)からピアノを習った。1882年、借金の清算のためにオネグの物件が売却されると、一家はサンクトペテルブルクに移り、音楽院に通うことになったラフマニノフは、ピアノと和声学を学んだ。この時期に、流行病で姉妹のソフィアが亡くなり、さらに悪いことに両親が離婚したという家族の不幸が、後のラフマニノフの生活に陰を落とすことになる。一連の出来事により、母が十分にラフマニノフに家庭での音楽教育をサポートできなくなった結果、1885年の学校での彼の試験結果は振るわず、学校は奨学金打ち切りを示唆するようになった。ところが、従兄弟のアレクサンドル・ジロティ(Aleksandr Ziloti)の勧めにより、ラフマニノフは、モスクワ音楽院に移ることになり、ニコライ・ズヴェーレフ(Nikolay Zverev)の家で下宿しながら勉強することになった。このズヴェーレフの元で、ラフマニノフは、当時の有名な音楽家であったアントン・ルビンステイン(Anton Rubinstein)、セルゲイ・タネーエフ(Sergei Taneyev)、アントン・アレンスキー(Anton Arensky)、ワーシリー・サフォーノ(Vasily Safonov)、そして彼の人生に最も影響を与えたチャイコフスキー(Tchaikovsky)らと出会った。

1888年春、ラフマニノフは進級し、ズヴェーレフの元で下宿を続けながら、従兄弟のピアニスト・ジロティからピアノを習っていた。さらにその秋からタネーフやアレンスキーから和声学と対位法を習い始めた一方で、ズヴェーレフの元で、幾つかの曲を作曲し始めていた。しかしながら、ラフマニノフは、彼の創作活動に反対していたズヴェーレフと、1889年に決別することになる。

ラフマニノフ(左から2番目)と師ズヴェーレフ

 

リムスキー・コルサコフ(Rimsky-Korsakov)と共にサンクトペテルブルクで勉強するようにという母の考えを拒否したラフマニノフは、モスクワにとどまり、ピアノ協奏曲の構想を練っていた。この頃、親族のサーチン家から援助を受けていたラフマニノフは、毎年夏をタンボフ州イワノフカ(Ivanovka)で過ごし、作曲に集中した。1890年夏、イワノフカからモスクワのサーチン家に戻ったラフマニノフは、チャイコフスキーの交響曲に影響されて、『マンフレッド』(Manfred)を作曲した。 1891年6月5日(ユリウス暦5月24日)、モスクワ音楽院ピアノ科を主席で卒業した。なお、この時の学友はスクリャービンである。この年の夏、再びイワノフカに移ったラフマニノフは『ピアノ協奏曲第1番』(First Piano Concerto)など、作曲に集中した。その後12月にモスクワに戻ったラフマニノフは、アレンスキーに捧げる『交響詩「ロスティラフ公」』(Knyaz′ Rostislav Knyaz′ Rostislav (‘Prince Rostislav’))を作曲した。翌1892年にはモスクワ音楽院作曲科を修了したラフマニノフは、オペラ『アレコ』(Aleko)を完成させ、高い評価を得た。このモスクワ音楽院からラフマニノフは金メダルを授けられており、この賞は、 ラフマニノフ以前には、セルゲイ・タエーネフなどの僅か2名にしか与えられたことのなかったものであった。

2. 作曲家としての成功・恩人チャイコフスキーとの別れ(1892–1897)

モスクワ音楽院卒業後、ラフマニノフは、ドイツの出版社グートハイル(Gutheil)と出版契約を結び、『前奏曲 嬰ハ短調』(the piano prelude in C♯ minor)を発表した。この曲は、彼を一躍有名にすることになったが、どのコンサートでもアンコールの嵐が続いたため、彼をうんざりさせることにもなった。1)『前奏曲 嬰ハ短調』のアンコール:この作品はあまりに成功してしまったがために、どこのコンサートでも求められることになった。ラフマニノフが、うんざりしながら繰り返しこの作品を演奏する様子は、ラフマニノフの伝記映画『ラフマニノフ:ある愛の調べ』(原題:Ветка сирени/ 英語: Lilacs/ 2007年)にて、リピートされ続けるメロディーと列車の車輪の映像の組み合わせによって、効果的に描かれている。 『前奏曲嬰ハ短調』の契約について、グートハイル社が国際的な版権を保証せず、国外での著作権保護に無頓着だったために、後にラフマニノフは後悔することになった。それは、当時ロシアは、著作権に関する1886年のベルヌ条約 2)ベルヌ条約:正式名「文学及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」(Berne Convention for the Protection of Literary and Artistic Works)。万国著作権条約(1952年)と並んで、著作権の国際的保護のための条約として考えられている。ベルヌ条約制定前は、外国人の著作物を自国で保護する場合、あるいは自国人の著作物が外国で保護受ける場合、それぞれの国が相互にそして個別に相手の国民の著作権を保護する条約を結ぶという方法、言い換えるならば二国間条約締結という方法が採られていた。ところが、この二国間条約は、条約を締結した二国以外の第三国との関係については無効であるなど、制度上の不備があった。それゆえに国際的な著作権保護の要請から、1884年、スイス政府の呼びかけにより会議が招集され、1886年、ベルンにて条約が締結された。本条約の特徴は次の四つ:(1)内国民待遇の原則、(2)無方式主義、(3)保護を受ける著作物=文芸、学術、美術の範囲に属する全ての製作物、(4)著作者の生存中及びその死後50年が保護期間。 に調印していなかったからである。この事例から、ラフマニノフは、ロシアとドイツで作品を登録することには警戒するようになった。

1893年春、『アレコ』(Aleko)がボリショイ劇場(Bol′shoy)にて初演の日を迎えた。このリハーサルと本番に立ち会ったチャイコフスキーは、この公演を絶賛した一方で、音楽評論家ニコライ・カシュキン(Kashkin)は、1893年5月11日付(ユリウス暦4月29日)のロシア最大の新聞Moskovskiye vedomostiにて、「勿論、批判すべきところはあるものの、若い未来の作曲家に大いに期待できるような功績をここに評価することができる」とまずまずの批評をした。この年の夏と秋には作曲に集中していたラフマニノフは、『組曲第1番 「幻想的絵画」』(Fantaisie-tableaux (Suite no.1)や『交響的幻想曲「岩」』(Utyos [The Rock])といった作品を生み出した。チャイコフスキーは、その次のシーズンもラフマニノフの作品の指揮を取ることを希望していたが、1893年11月に亡くなった。ラフマニノフは、チャイコフスキーに捧げる 『悲しみの三重奏曲第2番 ニ短調』(Trio élégiaque, d)を作曲し、その死を悼んだ。

1895年1月、ラフマニノフは、再び大作の作曲に取り掛かり、『交響曲第1番 ニ短調』(Symphony no.1, d)を完成させた。この曲は、アレクサンドル・グラズノフ(Aleksandr Glazunov)によって、1897年5月15日と27日に、演奏されたが、あまり良い評価を得ることはできなかった。後に、ラフマニノフ夫人は、この指揮の時、グラズノフは酔っ払っていたように思われたと語っている。グラズノフは、サンクトペテルブルク音楽院のレッスン中に、机の下にアルコールの瓶を隠して飲むことがあったようである。どんな理由があったにせよ、ラフマニノフはこの失敗に大いに落ち込み、その後3年間は作曲から遠ざかるほどであった。この頃、オペラ『フランチェスカ・ダ・リミニ』(Francesca da Rimini)に着手していたが、本格的な制作に取り掛かるには、また何年も待たねばならなくなった。

 

3. 指揮者としてのキャリアのスタートと『ピアノ協奏曲第2番』の誕生(1897-1901

しかしながら豊かな資本家サーヴァ・モントフ(Savva Mamontov)3)サーヴァ・マモントフ(Savva Mamontov)(1841-1918):ルネサンス期のフィンレンツェの権力者に重ねられ、「モスクワのメディチ」と称されたモントフ。彼は、芸術を愛し、芸術家たちのパトロンとなった。ラフマニノフの他、チャイコフスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキーも支援していた。 のおかげで、ラフマニノフは作曲家としてのキャリアをスタートすることとなった。1897年から98年の間、ビゼー(Bizet)の『カルメン』、グルック(Gluck)の『オルフェオとエウリディーチェ』(Orfeo ed Euridice)、チャイコフスキーの『スペードの女王』(The Queen of Spades)などの指揮を行った。また、1898年の夏の間、リムスキー・コルサコフとムソグルスキーらのオペラを、オペラ歌手フョードル・シャリアピン(Chaliapin)と共に勉強していた。

1899年4月19日、クイーンズ・ホールにて、ラフマニノフはロンドンにてデビューした。ロンドンの音楽協会(The Philharmonic Society)の要請を受けたラフマニノフは、『ピアノ協奏曲第1番』を、ラフマニノフは、それを学生時代の作品として演奏を拒否して、『交響的幻想曲「岩」』の指揮と、『前奏曲嬰ハ短調』および『幻想的小品集』(Morceaux de fantaisie )(1892)より第1楽章『悲歌 変ホ短調』(Elégie, e♭)の演奏に合意した。結果的にロンドンの聴衆は、ラフマニノフをあたたかく迎え入れ、ロンドン公演は成功した。このような演奏会の成功にもかかわらず、ラフマニノフは未だに作曲ができる状態ではなかった。この期間に、ラフマニノフは文豪のトルストイ(Lev Tolstoy)と出会う他、催眠療法を受けるなどして気鬱の治療を始めていた。また1899年、夏には、ラフマニノフが心を許せる数少ない友人の一人であったオペラ歌手シャリアピンと共にイタリアへ行き、中断していた『フランチェスカ・ダ・リミニ』の愛の二重唱の大部分を描きアフェタ。さらにこの頃、後のラフマニノフの代表的作品となる『ピアノ協奏曲第2番』(Second Piano Concerto)に取り掛かった。1900年12月2日と15日、この曲が演奏されると、ラフマニノフは自信を取り戻し、1901年10月27日と11月9日には彼自身がこの曲を演奏した。

4. 数多くのコンサート・ツアーとイワノフカでの夏(1901–17

こうしてようやく作曲の意欲を取り戻したラフマニノフは、1901年末より、『カンタータ「春」』(Vesna [Spring])や従姉妹であり妻となったナターリア・サチーナ(Natal′ya Satina)に捧げる歌曲を作曲した。その歌曲は、1906年に発表されることになる『12のロマンス』(12 Songs)に収録された。従姉弟同士の結婚は、ロシア正教会が禁じているために難しいものであったが、叔母とクレムリンの聖天使首大聖堂(Cathedral of the Archangel Michael)とのコネクションによって実現した。西欧へのハネムーンの後、ラフマニノフは、モスクワに戻り、1903年5月には、ナターリアとの間に、娘イリーナが生まれた。そうして夏にサチーナ家の別荘のあるイワノフカ(Ivanovka)で過ごす間に、オペラ『吝嗇な騎士』(Skupoy rïtsar′ ; The Miserly Knight)と『フランチェスカ・ダ・リミニ』を完成させ、1906年1月、自身で指揮をとって公演を行った。

ところがロシアの政情が悪化したため、ラフマニノフはボリショイ劇場を離れ、イタリアに渡った。ピサ近郊に滞在した彼は、完成させることはできなかったがオペラ『サランボー』(Salammbô)を書いていた。その後、一度一家でロシアに戻るも、作曲にふさわしい環境ではないと判断し、ロシアからドイツのドレスデンに移った。そこでは、『交響曲第2番 ホ短調』(Symphony no.2, e)、『ピアノ・ソナタ 第1番ニ短調』(Sonata no.1, d)、『交響詩「死の鳥」』(Ostrov myortvïkh [The Isle of the Dead])、部分的ではあったが『モンナ・ヴァンナ』(Monna Vanna)を作曲した。この『モンナ・ヴァンナ』は、およそそれから10年後の1917年にラフマニノフがロシアからアメリカに移住する時に携えていった数少ない作品の一つである。1907年5月には、パリにて、ロシアのバレエ興行主ディアギレフ4)ディアギレフ(Sergei Pavlovich Diaghilev; 1872-1929):美術評論家であるとともに、1909年、パリにBallets Russesを設立した。のロシア・バレエ団に参加した後、夏にはイワノフカで過ごすためにロシアに戻った。

イワノフカでのラフマニノフ

 

1909年11月、ラフマニノフは、初のアメリカツアーを開始した。公演を終える頃には、すっかり嫌気がさした彼は、次のアメリカでのコンサートを断り、また夏にはイワノフカに戻った。そこでは、『13の前奏曲集』(13 Preludes)、『聖金ロイオアン聖体礼儀』(Liturgiya svyatovo Ioanna Zlatousta [Liturgy of St John Chrysostom] )、『練習曲集「音の絵」』(Etudes-tableaux)などを作曲した。また1912-13年にかけて多くのコンサートを行ったラフマニノフは、その疲れを癒すためにスイスやローマに赴いた。ところが子供たちが腸チフスになったため、一家は治療のためベルリンの病院に行き、その後、再びイワノフカに落ち着いた。この頃、第一次世界大戦でヨーロッパには不穏な空気が漂っていたが、ラフマニノフは作曲に集中し、歌曲『徹夜禱』(Vsenoshchnoye bdeniye [All-night Vigil])を完成させた。

1917年2月、ロシア革命によって国内情勢が混迷を極める中、国家の方策にそぐわない芸術家にとって国内では活動することが難しくなっていった。また1917年4月、ラフマニノフは思い出の地イワノフカを訪問したが、その後その地を訪れることはなかった。ロシアを離れるためのビザを申請したラフマニノフであったが、取得に難航し、結局、招待されたストックホルムでのコンサートを利用して、ロシアを出国した。その後、妻ナターリアと子供たちもラフマニノフについてロシアを離れ、一家は2度と祖国に戻ることはなかった。

 

4. 亡命後の生活、アメリカへ(1918–43

ラフマニノフ一家は、ストックホルムからコペンハーゲンに移り、ラフマニノフの演奏活動が、ロシアに財産をおいて亡命した一家の生活を支えた。ラフマニノフはロンドンの劇場と契約を結ぶべく交渉を重ねていたが実現せず、代わりに1918年末、アメリカから3つの契約を持ちかけられた。そのため、気乗りしないにしても、ラフマニノフは一家でアメリカに渡ることを決めた。ニューヨークに到着したラフマニノフは、チャールズ・エリス(Charles Ellis)と契約を結ぶと、スタンウェイのピアノを受け取り、以降、数多くのコンサートを行っていった。1920年代末には、ビクタートーキングマシーン会社(Victor Talking Machine Company)と契約を結ぶと、彼は、ロシア人のハウスキーパーを雇い、思い出の地イワノフカと雰囲気を似せた家をニューヨークで購入した。皮肉なことに、ラフマニノフは、ツアーの際に気乗りしないとしていたアメリカにおいて、大きな成功を手に入れることになったのであった。その後、コンサートを多くこなすと同時に、エージェントとの契約が途切れた期間に、ラフマニノフは作曲に取り掛かった。

 

ラフマニノフは滅多に政治について触れることのない人物であったが、化学者イヴァン・オストロミスレンキー(Ivan Ostromislensky)とイリヤ・トルストイ(Count Il′ya Tolstoy)とともに、ソビエトの政治を批判する書簡を1931年1月12日付の『ニューヨーク・タイムズ』(The New York Times)に出した。これに対し、反論が1931年3月9日付のモスクワの新聞『夕刊モスクワ』(Vechernyaya Moskva)に掲載され、ラフマニノフはロシアでの公演を禁じられることとなった。1930年代も演奏活動を続ける中、ラフマニノフは、スイスのヘルテンシュタイン(Hertenstein)に別荘を立てようとしていた。それを彼は、「セナール」(Senar)と呼んだが、これは自身の名「セルゲイ」(Sergey)、妻の名「ナターリア」(Natal′ya)そして「ラフマニノフ」(Rachmaninoff)の頭文字をとったものであった。また休暇になると、一家はフランスのクレールフォンティーヌ(Clairefontaine)に別荘を借りるなどしており、それは帰れぬ祖国に代わる安息の地を求めているかのような行動であった。ラフマニノフ一家はアメリカにいながらも、ロシア語を話し、常にロシア人の客をもてなすなどしていた。しかしながら、ラフマニノフは、このように故郷を懐かしんでいただけではなく、アメリカや西欧のスタイルの生活を楽しんでいたことは、ニューヨークで最新の車を購入し、流行していたクリームソーダがお気に入りだったという事実からも考えられるであろう。

1934年以降、彼は、『パガニーニの主題による狂詩曲』(Rhapsody on a Theme of Paganini)や『交響曲第3番 イ短調』(Symphony no.3, a)を作曲した。そして1939年3月11日、ラフマニノフは、イギリスで最後のコンサートを行うと、第二次世界大戦による政情の悪化により、ヨーロッパを離れ、アメリカに戻ることを決意した。そして1940年秋、アメリカにてラフマニノフは最後の作品『交響的舞曲』(Symphonic Dances)を作曲した。

ラフマニノフは、1942-43年のシーズンを自身の最後のシーズンと決め、腰痛と戦いながら、演奏会をこなしていた。1943年1月、ツアーの途中に病状が悪化し、医者は肋膜炎という診断を下したが、ラフマニノフは演奏を続けた。体の不調と戦いながら、2月17日、彼は、生涯最後となるコンサートをノックスビル(Knoxville)で行った。コンサートの後、ビバリーヒルズの自宅に戻ったが、その頃にはラフマニノフの身体は、癌に侵されていた。こうして3月28日の朝、彼は自宅で亡くなった。ラフマニノフは、スイスの別荘「セナール」(Senar)あるいはロシアのイワノフカに埋葬されることを望んでいたが、ヨーロッパの政情不安により叶わず、ニューヨークのケンシコ墓地(Kensico)に埋葬された。

 

作品一覧 | Works

オーケストラ

  • 『管弦楽のためのスケルツォ ニ短調』(Scherzo, d)(1888)
  • 『ピアノ協奏曲ハ短調』(Piano Concerto, c)(1889):スケッチのみ。
  • 『交響詩 マンフレッド』(Manfred)(1890):今では失われている。
  • 『交響詩「ロスティラフ公」』(Knyaz′ Rostislav [Prince Rostislav])(1891)
  • 『ピアノ協奏曲 第1番嬰ヘ短調』(Piano Concerto no,1. f♯)(1890/ 1917):作品番号1。
  • 『交響曲ニ短調』(Symphony, d)(1891):第1章のみ残されている。
  • 『交響的幻想曲「岩」』(Utyos [The Rock])(1893):作品番号7。
  • 『ジプシー狂詩曲』(Kaprichchio na tsïganskiye temï [Capriccio on Gypsy Themes] )(1894):作品番号12。
  • 『交響曲第1番 ニ短調』(Symphony no.1, d)(1895):作品番号13。
  • 『交響曲』(Symphony)(1897):スケッチのみ残されている。
  • 『ピアノ協奏曲 第2番ハ短調』(Piano Concerto no.2, c)(1901):作品番号18。
  • 『交響曲第2番 ホ短調』(Symphony no.2, e)(1907):作品番号27。
  • 『交響詩「死の鳥」』(Ostrov myortvïkh [The Isle of the Dead])(1909):作品番号29。
  • 『ピアノ協奏曲 第3番ニ短調』(Piano Concerto no.3, d)(1909):作品番号30。
  • 『ピアノ協奏曲 ト短調』(Piano Concerto no.4, g) (1926/1941):作品番号40。
  • 『パガニーニの主題による狂詩曲』(Rhapsody on a Theme of Paganini)(1934):作品番号43。
  • 『交響曲第3番 イ短調』(Symphony no.3, a)(1936):作品番号44。
  • 『交響的舞曲』(Symphonic Dances)(1940):作品番号45。

Piano Concerto No. 2 in C Minor, Op. 18: I. Moderato
リーリャ・ジルベルシュタイン, ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 & クラウディオ・アバド
1994/10/31 ¥400

室内音楽

  • 弦楽四重奏曲』(String Quartet)(1889):現在は2曲のみ残されている。
  • 『チェロとピアノのためのロマンス ヘ短調』(Romance, a, vn, pf)(1890年代)
  • 『チェロとピアノのための2つの小品』(2 Pieces, vc, pf)(1892):作品番号2。第1楽章「前奏曲」(Prélude)、第2楽章「東洋風舞曲」(Danse orientale)。
  • 『幻想的小品集』(Morceaux de fantaisie )(1892):作品番号3。第1楽章『悲歌 変ホ短調』(Elégie, e♭)、第2楽章『前奏曲 嬰ハ短調』(Prélude, c♯)、第3楽章『メロディ ホ長調』(Mélodie, E)、第4楽章『道化役者 嬰ヘ短調』(Polichinelle, f♯)、第5楽章『セレナード 変ロ短調』(Sérénade, b♭)。
  • 『ヴァイオリンとピアノのための2つの小品』(2 Pieces, vn, pf) (1893):作品番号6。第1楽章「ロマンス」(Romance)、第2楽章「ハンガリー舞曲」(Hungarian Dance)。
  • 『悲しみの三重奏曲第1番 ト短調』(Trio élégiaque, g)(1892)
  • 『悲しみの三重奏曲第2番 ニ短調』(Trio élégiaque, d)(1893):作品番号9。
  • 『弦楽四重奏』(String Quartet)(1896):2曲のみ残されている。
  • 『チェロ・ソナタ ト短調』(Sonata, g)(1901):作品番号19。

 

ピアノソロ

  • 『無言歌 ニ短調』(Pesn′ bez slov [Song without Words], d)(1886)
  • 『3つの夜想曲』(3 Nocturnes)(1887):第1楽章『嬰ヘ短調』(f♯)、第2楽章『ヘ長調』(F)、第3楽章『ハ短調』(c–E♭)。
  • 『4つの小品』(4 Pieces)(1888):第1楽章『ロマンス 嬰ヘ短調』(Romance, f♯)、第2楽章『前奏曲 変ホ短調』(Prélude, e♭)、第3楽章『メロディー ホ長調』(Mélodie, E)、第4楽章『ガヴォット ニ長調』(Gavotte, D)。
  • 『6手のための「ワルツ」』(2 Pieces, 6 hands: Waltz, A)(1890)
  • 『6手のための「ロマンス」』(Romance, A)(1891)
  • 『2台のピアノのための「ロシアの主題による狂詩曲」』(Russian Rhapsody, e)(1891)
  • 『前奏曲 ヘ長調』(Prélude, F)(1891)
  • 『組曲第1番 「幻想的絵画」』(Fantaisie-tableaux, Suite no.1)(1893):作品番号5。
  • 『4手のピアノのための6つの小品』(6 Duets, 4 hands )(1894):作品番号11。第1楽章『舟歌』(Barcarolle, g) 、第2楽章『スケルツォ』(Scherzo, D)、第3楽章『ロシアの歌』(Thème russe, b)、第4楽章『ワルツ』(Valse, A)、第5楽章『ロマンス』(Romance, c)、第6楽章『栄光』(Slava)。
  • 『サロン的小品集』(Morceaux de salon)(1894): 作品番号10。第1楽章『夜想曲 イ短調』(Nocturne, a)、第2楽章『円舞曲 イ長調』(Valse, A)、第3楽章『舟唄 ト短調』(Barcarolle, g)、第4楽章『メロディ ホ短調』(Mélodie, e)、第5楽章『ユーモレスク ト長調』(Humoresque, G)、第6楽章『ロマンス ヘ短調』(Romance, f)、第7楽章『マズルカ 変ニ長調』(Mazurka, D♭)。
  • 『楽興の時』(Moments musicaux)(1896):作品番号16。第1楽章『変ロ短調』(Andantino, b♭)、第2楽章『変ホ短調』(Allegretto, e♭)、第3楽章『ロ短調』(Andante cantabile, b)、第4楽章『ホ短調』(Presto, e)、第5楽章『変ニ長調』(Adagio sostenuto, D♭)、第6楽章『ハ長調』(Maestoso, C)。
  • 『幻想的小品 ト短調』(Morceau de fantaisie, g)(1899)
  • 『フゲッタ ヘ長調』(Fughetta, F)(1899)
  • 『組曲第2番』(Suite no.2)(1901):作品番号17。
  • 『フーガ ニ短調』(1891)
  • 『ショパンの主題による変奏曲』(Variations on a Theme of Chopin)(1903):作品番号22。
  • 『10の前奏曲集』(10 Preludes)(1903):作品番号23。
  • 『ピアノ・ソナタ 第1番ニ短調』(Sonata no.1, d)(1907):作品番号28。
  • 『13の前奏曲集』(13 Preludes)(1910):作品番号32。
  • 『練習曲集「音の絵」』(Etudes-tableaux)(1911):作品番号33。第1楽章『ヘ短調』(f)、第2楽章『ハ長調』(C)、第3楽章『ハ短調』(c)、第4楽章『ニ短調』、第5楽章『変ホ短調』、第6楽章『変ホ長調』(「市場の情景」)、第7楽章『ト短調』、第8楽章『嬰ハ短調』。
  • 『ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調』(Sonata no.2, b♭)(1913/1931):作品番号36。
  • 『練習曲集「音の絵」』(Etudes-tableaux)(1916-17):作品番号39。第1楽章『ハ短調』(c)、第2楽章『イ短調』(「海とかもめ」)(a)、第3楽章『嬰ヘ短調』(f♯)、第4楽章『ロ短調』(b)、第5楽章『変ホ短調』(e♭)、第6楽章『イ短調』(「赤ずきんちゃんと狼」)(a)、第7楽章『ハ短調』(「葬送の行進」)(c)、第8楽章『ニ短調』(d)、第9楽章『ニ長調』(「東洋風行進曲」)(D)。
  • 『前奏曲ニ短調』(Piece, d)(1917)
  • 『断片』(Fragments)(1917)
  • 『オリエンタル・スケッチ』(Oriental Sketch)(1917)
  • 『コレルリの主題による変奏曲』(Variations on a Theme of Corelli)(1931):作品番号42。

 

声楽

  • 『聖なる修道院の門の傍らに』(U vrat obiteli svyatoy [At the Gates of the Holy Abode])(1890)
  • 『君には何も語るまい』(Ya tebe nichego ne skazhu [I Shall Tell You Nothing])(1890):フェート(A. Fet)作詞。
  • 『心よ、お前はふたたび目覚めた』(Opyat′ vstrepenulos′ tï, serdtse [Again You Leapt, my Heart])(1890)
  • 『四月、春の祭の日』(C’était en avril)(1891)
  • 『夕闇は迫り』(Smerkalos′ [Twilight has Fallen])(1891)
  • 『君は覚えているだろうか、あの夕べを』(Tï pomnish′ li vecher [Do you remember the evening])(1893)
  • 『幻滅した男の歌』(Pesnya razocharovannogo [Song of the Disillusioned])(1893)
  • 『祈祷に眠らざる生神女』(V molitvakh neusïpayushchuyu bogoroditsu [In our Prayers, Ever-vigilant Mother of God])(1893)
  • 『花はしぼんだ』(Uvyal tsvetok [The Flower has Faded])(1893)
  • 『6つのロマンス』(6 Songs)(1890-93): 作品番号4。
  • 『6つのロマンス』(6 Songs)(1893): 作品番号8。
  • 『12のロマンス』(12 Songs)(1896): 作品番号14。
  • 『女声合唱または児童合唱のための 6つの合唱曲』(6 Choruses, female or children’s vv )(1896):作品番号15。
  • 『君はしゃっくりをしなかったかい』(Ikalos′ li tebe [Were You Hiccoughing])(1899)
  • 『夜』(Noch′ [Night])(1900)
  • 『カンタータ「春」』(Vesna [Spring])(1902):作品番号20。
  • 『12のロマンス』(12 Songs)(1906): 作品番号21。
  • 『15のロマンス』(15 Songs)(1906): 作品番号26。
  • 『ラフマニノフからスタニスラフスキーへの手紙』(Letter to K.S. Stanislavsky)(1906)
  • 『聖金ロイオアン聖体礼儀』(Liturgiya svyatovo Ioanna Zlatousta [Liturgy of St John Chrysostom] )(1910):作品番号31。
  • 『14のロマンス』(14 Songs)(1912): 作品番号34。
  • 『合唱交響曲「鐘」』(Kolokola [The Bells])(1913):作品番号35。
  • 『「ヨハネ福音書」から』(Iz evangeliya ot Ioanna [From the Gospel of St John])(1915)
  • 『徹夜禱』(Vsenoshchnoye bdeniye [All-night Vigil])(1915):作品番号37。
  • 『6つのロマンス』(6 Songs)(1916): 作品番号38。
  • 『3つのロシアの歌』(3 Russian Songs)(1926):作品番号41。

編曲

  • 『4手ピアノのための イタリア風ポルカ』(Polka italienne, pf 4 hands)(1906)
  • 『バレエ音楽「眠れる森の美女」』(The Sleeping Beauty)(1890):4手ピアノ。
  • 『グラズノフ:交響曲第6番』(A. Glazunov: Symphony no.6)(1897):4手ピアノ。
  • 『 R.のポルカ ベーア作曲「笑う小娘」より』(Behr: Lachtäubchen op.303, pubd as Polka de WR)(1911):ピアノ独奏。
  • 『ラフマニノフ:歌曲「ライラック」作品21-5』(Lilacs op.21 no.5)(1913-14):ピアノ独奏。
  • 『アメリカ合衆国国歌 「星条旗」』(S. Smith: The Star-Spangled Banner)(1918):ピアノ独奏。
  • 『リストのためのカデンツァ:ハンガリー狂詩曲』(Cadenza for Liszt: Hungarian Rhapsody no.2)(1919):ピアノ。
  • 『クライスラー:愛の悲しみ』(Liebesleid)(1921):ピアノ独奏。
  • 『ビゼー:「アルルの女」第1組曲より「メヌエット」』( Bizet: L’Arlésienne Suite no.1: Minuet)(1922):ピアノ独奏。
  • 『ラフマニノフ:歌曲「ひなげし」作品38-3』( Rachmaninoff: Daisies op.38 no.3)(1922?):ピアノ独奏。
  • 『ムソルグスキー:ホパーク 歌劇「ソロチンスクの市」より』(M. Musorgsky: Sorochintsy Fair: Hopak)(1924):ピアノ独奏。ピアノとヴァイオリン版も1926年に作られている。
  • 『シューベルト:いずこへ 歌曲集「美しき水車小屋の娘」より』( Schubert: Wohin?)(1925):ピアノ独奏。
  • 『クライスラー:愛の喜び』(Liebesfreud )(1925):ピアノ独奏。
  • 『リムスキー=コルサコフ:「熊ん蜂の飛行」 歌劇「皇帝サルタンの物語」より』( Rimsky-Korsakov: Flight of the Bumble Bee)(1929):ピアノ独奏。
  • 『バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番より』(S. Bach: Violin Partita)(1933):ピアノ独奏。第1楽章『前奏曲』(Prélude)、第2楽章『ガヴォット』(Gavotte)、第3楽章『ジグ』(Gigue)。
  • 『メンデルスゾーン:スケルツォ 劇付随音楽「夏の夜の夢」』(F. Mendelssohn: A Midsummer Night’s Dream: Scherzo)(1933):ピアノ独奏。
  • 『チャイコフスキー:「子守唄」作品16-1』(I. Tchaikovsky: Lullaby op.16 no.1)(1941):ピアノ独奏。

オペラ

  • 『エスメルダ』(Esmeralda)(1888)
  • 『アレコ』(Aleko)(1892)
  • 『吝嗇な騎士 作品24』(Skupoy rïtsar′ [The Miserly Knight])(1904)
  • 『フランチェスカ・ダ・リミニ 作品25』(Francesca da Rimini) (1900-1906)
  • 『サランボー』(Salammbô)(1906):シナリオが存在。
  • 『モンナ・ヴァンナ』(Monna Vanna)(1907)

 

ラフマニノフの曲を使用した映像作品・フィギュアスケート

  • 『シャイン』(Shine/1996年):『ピアノ協奏曲第3番』がコンクールのシーンで使用される。ピアニストのデイヴィット・ヘルフゴットの半生を基にした映画。
  • 『ラフマニノフ:ある愛の調べ』(原題:Ветка сирени/ 英語: Lilacs/ 2007年)
  • 浅田真央(2009-10年・フリー)『前奏曲嬰ハ短調: 鐘』:2010年、バンクーバー・オリンピック銀メダル。
  • 浅田真央(2013-14年・フリー)『ピアノ協奏曲第2番』:ソチオリンピック総合6位。

 

Notes   [ + ]

1. 『前奏曲 嬰ハ短調』のアンコール:この作品はあまりに成功してしまったがために、どこのコンサートでも求められることになった。ラフマニノフが、うんざりしながら繰り返しこの作品を演奏する様子は、ラフマニノフの伝記映画『ラフマニノフ:ある愛の調べ』(原題:Ветка сирени/ 英語: Lilacs/ 2007年)にて、リピートされ続けるメロディーと列車の車輪の映像の組み合わせによって、効果的に描かれている。
2. ベルヌ条約:正式名「文学及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」(Berne Convention for the Protection of Literary and Artistic Works)。万国著作権条約(1952年)と並んで、著作権の国際的保護のための条約として考えられている。ベルヌ条約制定前は、外国人の著作物を自国で保護する場合、あるいは自国人の著作物が外国で保護受ける場合、それぞれの国が相互にそして個別に相手の国民の著作権を保護する条約を結ぶという方法、言い換えるならば二国間条約締結という方法が採られていた。ところが、この二国間条約は、条約を締結した二国以外の第三国との関係については無効であるなど、制度上の不備があった。それゆえに国際的な著作権保護の要請から、1884年、スイス政府の呼びかけにより会議が招集され、1886年、ベルンにて条約が締結された。本条約の特徴は次の四つ:(1)内国民待遇の原則、(2)無方式主義、(3)保護を受ける著作物=文芸、学術、美術の範囲に属する全ての製作物、(4)著作者の生存中及びその死後50年が保護期間。
3. サーヴァ・マモントフ(Savva Mamontov)(1841-1918):ルネサンス期のフィンレンツェの権力者に重ねられ、「モスクワのメディチ」と称されたモントフ。彼は、芸術を愛し、芸術家たちのパトロンとなった。ラフマニノフの他、チャイコフスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキーも支援していた。
4. ディアギレフ(Sergei Pavlovich Diaghilev; 1872-1929):美術評論家であるとともに、1909年、パリにBallets Russesを設立した。

ピョートル・チャイコフスキー

生 : 1840年5月7日(ユリウス暦では4月25日)(ロシア帝国、ウラル地方ヴォトンキスク(Kamosko-Votkinsk, Vyatka province))/没 : 1893年11月6日(ユリウス暦では10月25日)(ロシア帝国、サンクトペテルブルグ)

ピョートル・チャイコフスキー (Tchaikovsky, Pyotr Il′yich) は、西欧の交響曲の伝統を融合させた新しいロシアの作曲家。ロシアの伝統的またチャイコフスキーの個人的な素地を持ちながら、ベートーベンやシューマンの交響曲のスタイルとロシアの作曲家のグリンカ(Mikhail (Ivanovch) Glinka) 1)グリンカ(Mikhail (Ivanovch) Glinka):1803年生まれ1857年没。ロシア国民音楽派の先駆者。代表作にオペラ『ルスランとリュドミラ』(Russlan and Ludmilla)(1842)。 の作品を結びつけた。

生涯 | Biography

法科学校での音楽教育、帝室ロシア音楽協会からペテルブルク音楽院へ (1840-1865年)

1840年、ピョートル・チャイコフスキーは、鉱山技師の父ペトローヴィチ・チャイコフスキー(Il’ya Petrovich Tchaikovsky)と母アレクサンドラの次男として誕生した。後にチャコフスキーには、双子の弟と一人の妹が生まれた。双子の一人は、法学者となるアナトリー(Anatoly; 1850-1915)、そしてもう一人は、作家となるモデスト(Modest; 1850-1916)であった。その兄弟たちは、チャイコフスキーを生涯にわたって支えていくことになり、モデストは、『ピョートル・チャイコフスキーの人生』(The Life of Pyotr Il′yich Tchaikovsky (1901–03)) という伝記を出版した。1848年10月、父の仕事を探すために一家はモスクワに移り、その一ヶ月後にサンクトペテルブルクに移った。さらに1849年6月にはアラパエフスク(Alapayevsk)いう鉱山都市に移り住んだ。

チャイコフスキーは語学の才能があったことから、6歳の時にはフランス語とドイツ語を読むことができたという。チャイコフスキーの家庭教師は、少年期のチャイコフスキーの環境は、音楽教育に適したものとは言えなかったことを嘆いていた。そのうちチャイコフスキーの新しい家庭教師アナスタシア・ペトローヴァ(Anastasya Perivna)がやってくると、彼女はチャイコフスキーのために学校入学の準備を行った。このことから、チャイコフスキーはアナスタシアのために『アナスタシア・ワルツ』(1854)という曲を作っている。1850年、チャイコフスキーは、母によって法科学校の予科生としてサンクトペテルブルクに移ることになったが、わずか10歳のチャイコフスキーにとってこの家族との別れはトラウマとなったという。

1852年8月から59年5月まで法科学校に在籍したチャイコフスキーは、喫煙以外は、真面目に学校の規則に従っていた。1854年6月、母のアレクサンドラが亡くなった。弟のモデストは、その著書『チャイコフスキーの生涯』の中で暗にチャイコフスキーが母の師に立ち会えなかったことを示唆している。母の死によって一家の生活は大きく変わり、その弟たちを寄宿学校に入れるために、一家はサンクトペテルブルクで一緒に住むことになった。一見音楽とは関係のないように思われる法科学校は、一流の音楽家のスポンサーとなり、生徒たちにはサンクトペテルブルクのコンサートやオペラに行く機会を与えた上に、音楽のコースを用意していた。チャイコフスキーは、そこでコーラスを勉強したとされる。チャイコフスキーは、文学にも嗜み、1854年には、『ヒュペルボラ』(Hyperbole)というオペラの他、歌も作曲していた。学校の外では、母方の叔母の支援によって音楽の勉強を続け、歌の教師ルイージ・ピッチョリ(Luigi Piccioli)やピアノの教師ルドルフ・キュンディンガー(Rudolf Kündinger)に師事した。

1859年、法科学校を卒業したチャイコフスキーは、法務省で働くこととなる。この頃、チャイコフスキーは、サンクトペテルブルグの劇場にて催されていたバレエ、イタリアオペラ、アマチュアの演劇に触れていた。そして彼の妹サーシャは、1860年11月、ウクライナのカーメンカを拠点とする貴族ダヴィドヴ家 (Lev Davïdov)いだ一方で、1861年の7月から9月の間、チャイコフスキーは父の仕事の手伝いとして西欧を外遊した。役所勤めや一族のビジネスを離れ、つかの間の休息を得たチャイコフスキーは、旅行熱に浮かされながら西欧文化との関わりを大切にしていた。その後、音楽関係の知人の紹介で、コンサートをオーガナイズするために1859年に設立されたロシア音楽協会(The Russian Musical Society)を知ることになり、1860 年春には音楽のコースを受けるようになる。  

1860年のチャイコフスキー

 1861年より、チャイコフスキーは、仕事を続けながら、ロシア音楽教会において音楽理論のコースを履修し始めた。彼の一番目の教師は、ベートーベンのスタイルを引き継いだニコライ・ザレンバ(Nikolay ZarembaIであった。文官としての出世ができなかった1862年夏、チャイコフスキーは、ロシア音楽教会が新設したペテルブルク音楽院(The St Petersburg Conservatory) 2)ペテルブルク音楽院(The St Petersburg Conservatory): アントン・ルビンシテインによって1862年10月設立。ロシアの千年記念にあたる。 に入った。チャイコフスキーの同級生には、音楽評論家のゲルマン・ラローシ (Herman Laroche; 1845-1904)がいた。チャイコフスキーは、主にアントン・ルビンステイン(Anton Rubinstein; 1829-1894)のもとで、ペテルブルク音楽院では、理論の他、ピアノ、フルート、オルガンを習った。この師と生徒の関係は複雑であり、チャイコフスキーは内心ルビンステインの音楽家としての見くびりながらも、その人格には逆らうことができず、多くのことを師から学んだ。また、すでにこの時にも、チャイコフスキーは当時のロシアにおける音楽を分断していたロシアの音楽と外国の音楽の間の論争を集結させようとしていたという。1865年、音楽院を卒業したチャイコフスキーに対し、同級生のラローシは、「君は現在のロシアにおいて多大なる才能を持っている」と賞賛の言葉を贈っていた。また、この頃のロシア帝国は、皇帝アレクサンドル2世(Alexsander II; r. 1855-1881)のもとで、外政では、度重なる戦争に苦戦しながらも、内政では、農奴解放令を初めとして、地方行政改革、司法改革、軍制改革、教育改革など、様々な改革が皇帝の強い主導によって行われた。このように、強い帝政がしかれるロシアにおいて、チャイコフスキーが学んだロシア音楽協会は、当初ルビンステインら力のある知識人が主導して運営していたものの、1870年代には完全に国営化されるようになった。

モスクワでの活動(1866-76年)と最悪な結婚(1877年)

1865年9月、アントンの弟ニコライ・ルビンステイン(Nikolay Rubinstein; 1835-1881)は、ペテルブルク音楽院のような学校をモスクワにも作るために、音楽理論の教師を探していた。チャイコフスキーは、このポストに応募し、1866年1月にはモスクワに移った。このニコライ・ルビンステインは、精力的に活動した作曲家・ピアニストであり、チャイコフスキーの重要な友であった。こうして1866年9月、帝室音楽協会モスクワ支部が開校して以来、チャイコフスキーは、プロの音楽家としてのキャリアを歩み始め、モスクワのナショナリストからも大きな影響を受けた。モスクワで出会ったチャイコフスキーの友の中には、モスクワ支部で音楽理論について教鞭をとったニコライ・カシュキン(Nikolay Kashkin; 1839-1920)の他、コンスタンチン・カールロヴィチ・アルブレヒト(Konstantin Karl Albrecht,; 1836-1893)や建築家イヴァン・クリメンコ(Ivan Klimenko)があげられ、またサンクトペテルブルクでの同窓生ラローシもモスクワに移った。ルビンステインが立ち上げた芸術家サークルにおいて、チャイコフスキーはモスクワの芸術家やエリートとの交流を楽しんでいた。ところが、チャイコフスキーは繰り返される引越しと移動のために、常に経済的な危機に陥っていた上に、苦情が来るほど教師としての職を遂行するのに支障をきたしていた。このように繊細な性格なチャイコフスキーであったが、1868年歌手のデジレ・アルトー (Désirée Artôt) に恋に落ち、婚約するものの、間も無く破局した。

この時期の作曲家としてのチャイコフスキーのキャリアは、成功していたとは言い難かった。若い頃の作品は散逸している他、演奏されることも稀であった。その後、一時サンクトペテルブルクに戻るものの、チャイコフスキーのモスクワでの初演奏作品は、『序曲 ヘ長調』(Overture, F)であったが、凝った演出となり過ぎた。この時期、強烈な美と明白な論理の間の矛盾がチャイコフスキーの中にはあったといえよう。1875年、『ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調』(Piano Concerto no.1, b♭)を作曲したチャイコフスキーは、初演を友人のニコライ・ルビステインに依頼するも、ニコライは酷評したため、ハンス・フォン・ビューロー(Hans Guido Freiherr von Bülow; 1830-1894)の手によって演奏され成功を収めることとなる。後にこのことを謝罪した友人のニコライ・ルビンステインは手厳しい批評家であったが、そのチャイコフスキーに対する意見は私的なものであったという。

1877年7月18日、チャイコフスキーは、アントニア・イワノヴナ (Antonina Ivanovna Milyukova) と結婚した。あまり相性の良くなかったこの結婚はチャイコフスキーにとって危機を与えたが、二人がすぐに離婚することはなかった。結婚からわずか2週間後、チャイコフスキーは、妹の嫁ぎ先ウクライナで向かいそこで夏を過ごし、9月になるとモスクワで妻との暮らしに戻った。しかしながら、すぐに精神錯乱状態に陥ったチャイコフスキーは、サンクトペテルブルクに移り、医師の勧めで妻アントニアのいない新生活を送ることとなった。

依然として不安定な生活を送るチャイコフスキーには3つの問題があった。一番彼を悩ませていたのは、お金の問題であった。収入がいくら多くても浪費してしまうチャイコフスキーは、援助を友人に頼んでいた。その次に、チャイコフスキーの悩みの種となっていたのは、以前から問題になっていた音楽院での自身の授業であった。この教職のために、作曲に専心できないと考えていた。そして最後の問題は、インスピレーションであった。妻アントニナの証言によると、チャイコフスキーは結婚生活により創造性が失われると考えていたとのことであった。

このように困難を極めた1877年であったが、チャイコフスキーの人生に変化を与えた。しばらくは公表されることはなかったがこの頃、音楽院を離れ、未亡人であり資産家のナジェジダ・フォン・メック(Nadezhda von Meck; 1831-1894)から金銭的な援助を受けていた。1876年12月から始まるチャイコフスキーとナジェジダの往復書簡は、14年も続いたが2人が会うことは一度もなかった。

旅行生活(1878-1885年)と友人ルビンステインとの関係

1878年夏、前年の不調とは打って変わって、チャイコフスキーは、 『白鳥の湖』 (Lebedinoe ozero [Swan Lake]) や『鍛冶屋のヴァークラ』(Kuznets Vakula [Vakula the Smith])といった大作を生み出した。この頃から特にチャイコフスキーは、度々ロシアの外に出て行くようになり、1878年以降6年間の間で20ヶ月以上はロシア国内にはいなかった。このような小旅行もチャイコフスキーの気鬱を完全に癒したとは言えず、依然として作曲の際には苦慮していた。例えば、『大序曲“1812年”』(1812, festival overture, E♭)は、美しい音とけたたましい音が並存するものであった。

バレエ『白鳥の湖』より

音楽院の仕事上の失敗と結婚生活の失敗を引きずったチャイコフスキーではあったが、1884年の未亡人であるパトロン・メックに送った書簡の中では、自身の交響曲は、伝統や規則から自由であることを語っている。

『ピアノ協奏曲第1番』(1875) の酷評以来、大きな溝ができていた友人ルビステインとチャイコフスキーであったが、ルビステインに捧げた『ピアノ協奏曲第2番』(『ピアノ協奏曲第2番ト長調』(Piano Concerto no.2, G; 1880)がきっかけで二人は和解へと向かっていく。1881年、ルビンステインが亡くなると、彼の死を悼んだチャイコフスキーは、『ピアノ三重奏曲 イ短調 “偉大な芸術家の思い出のために”』(Piano trio; 1881-82)を発表した。ルビンステインは、時にはチャイコフスキーの私生活についてまで酷評し最悪の関係にあった上に、音楽院でチャイコフスキーに用意した職は、チャイコフスキーに務まるものではなかったものの、やはりチャイコフスキーにとって重要な保護者であったことは変わりなかった。

この時期に、チャイコフスキーは、オペラ『オルレアンの少女』(Orleanskaya deva [The Maid of Orléans]; 1878-79)と『マゼッパ』(Mazepa [Mazeppa]; 1881-83)を残しており、それぞれ1881年と1884年に初演を迎えている。作曲にあたりチャイコフスキーは主にシラー 3)シラー(Friedrich von Schille, 1759-1805):ドイツの詩人・劇作家。代表作には『ウィルヘルム=テル』(Wilhelm Tell; 1804)や『ドン=カルロス』(Don Carlos; 1787)がある といった劇作家から引用しながらも、自身のスタイルにシナリオを変えていた。特に『マゼッパ』の方は、サンクトペテルブルクでは失敗に終わったものの、モスクワでは成功を収めた。

1877年から1885年という期間は、チャイコフスキーにとって、結婚の失敗から、放浪生活へというように、常に不安定で先の見えないものであった。パトロンのメックの助けもあって、自由に振舞うことができていたものの、それはコンパスを持たない航海のようであった。このような生活が自身の音楽のためにも人間性のためにもならないと悟ったチャイコフスキーは、帰還することに決め、住む場所と仕事を探すこととなった。

定住と最高の栄誉 (1885-1993年)

1885年2月、チャイコフスキーは、モスクワから90キロ離れたところに位置するマイダノヴォに家を借りた。1881年の友人ルビンステインの死後、ロシア音楽協会から復職の申し出があったものの、チャイコフスキーは断っていた。彼は公的な生活を避けようとしていたが、その知名度がそれを許さなかった。こうしてロシア音楽協会モスクワ支部の重役となった。この職権を生かして、1889年から90年の間に、彼は国際的な音楽家たちであるブラームス(Brahms)、ドヴォルザーク(Dvořák)、マスネ(Massenet)をモスクワに招いた。また、ロシアの音楽家リムスキー・コルサコフ(Rimsky-Korsakov)が打楽器奏者の才能のなさに絶望した時には、チャイコフスキー自身が、『スペイン狂詩曲』(Spanish Capriccio)にてカスタネットを担当した。これはチャイコフスキーによって、オーケストラの結束を固めようとした作戦であった。このように西欧での人脈を生かして働きかけるなどしていたチャイコフスキーであったが、音楽院での教職に戻ることはなく、同院での監督、試験官、ブローカーの役割に徹した。

音楽院での活動の他、チャイコフスキーは指揮者もこなすようになっていた。1887年12月、チャイコフスキーは指揮者としての初めてのツアーを開始した。1888年7月にはアメリカにまで赴いたこのツアーは、自身の音楽の他、モーツァルト、ベートーベン、アントン・ルビンステイン、ボロディンなどの曲も扱った。これらチャイコフスキーが行った仕事は大成功を収め、彼の名声を確実なものにした。1884年、チャイコフスキーは、聖ウラジミール4等勲章 (the Order of St Vladimir, Fourth Class) を授けられた上に、1886年には、ロシア大公コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (the Grand Duke Konstantin Romanov; 1858-1915) 4)ロシア大公コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (the Grand Duke Konstantin Romanov; 1858-1915): ロシアの皇族。劇作家でもあり、ロシア科学アカデミー総裁を務めた。 との交流も行われるようになった。さらに、1888年には皇帝アレクサンドル (Aleksandr III; 1845-1894/ r. 1881-1894) によって終身年金を授けられた。また、帝国劇場の責任者イワン・フセヴォロシスキー (Ivan Vsevolozhsky; 1835-1909)とのつながりにより、さらなる活動の場を得た。一方で、長年彼を支え続けたパトロン・メックとの文通は、簡潔なものとなっていき、その頻度も減っていった。また仕事上での成功とは裏腹に、この頃からチャイコフスキーの健康状態も悪化していくことになる。

晩年に差し掛かり、チャイコフスキーの音楽のスタイルは、「この世のもの」と「この世のものではないもの」との哲学的な区分に基づく洗練されたものになっていく。これは同時代を生きた友人たちの死が影響していた。ついに14年続いたパトロンであるメックとの関係が1890年に終わり、深い悲しみを抱えていたチャイコフキーのキャリアは、最高潮を迎えており、また1893年にはケンブリッジ音楽協会から名誉博士号を授けられる。この頃、『スペードの女王』(Pikovaya dama [The Queen of Spades])や『眠れる森の美女』(Spyashchaya krasavitsa (‘The Sleeping Beauty’) )といった名作が成功を収めていた。

1890年のチャイコフスキー

チャイコフスキーの評価は、地域によって様々であった。ロシアの外では、「ロシア人らしさ」について議論がなされた一方で、ヨーロッパあるいはアジア、印象的あるいは情熱的、交響曲あるいはオペラなどと多面的な性質を持つとされていた。特に、アメリカや英国において、彼の音楽は大好評であった。ロシアの中では、その巨匠の才能を模倣するものが現れる一方で、あまりに多作だったために巨匠の創造性が損なわれるのではないかという懸念もなされたりした。そのような心配をよそに、チャイコフスキーの芸術性は、保持され、前衛的な段階によって新しいものへ生まれ変わっていった。以前より体調を崩していたチャイコフスキーは、1893年11月6日に急死した。そのわずか9日前の10月28日には、『交響曲第6番 ロ短調』(Symphony, No. 6, B)が初演されたばかりであった。『交響曲第7番』が未完のまま保存されていることを考えると、チャイコフスキーは最期まで精力的な創作活動をしていたのであった。

作品一覧 | Works

作品番号あり(1-80まで)

  1.  『2つの小品』(Two Pieces; 1867):ピアノ曲。
  2. 『ハープサルの思い出』(Souvenir de Hapsal; 1867):ピアノ曲。
  3. 『地方長官』(Voyevoda (The Provincial Governor); 1867-68):歌曲。
  4. 『ワルツ カプリース ニ長調』(Valse caprice, D; 1868):ピアノ曲。
  5. 『ロマンス ヘ短調』(Romance, f; 1868):ピアノ曲。
  6. 『6つの歌』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1869):ピアノと独唱。
  7. 『ワルツ スケルツォ イ長調』(Valse-scherzo, A; 1870):ピアノ曲。
  8. 『カプリース 変ト長調』(Capriccio, G♭; 1870):ピアノ曲。
  9. 『3つの小品』(Trois morceaux; 1870): ピアノ曲。
  10. 『2つの小品』(Deux morceaux; 1871):ピアノ曲。
  11. 『弦楽四重奏曲第1番 ニ長調』(String Quartet no.1, D; 1871): 室内楽。
  12. 『雪娘』(Snegurochka [The Snow Maiden]; 1873):コーラスとオーケストラ。
  13. 『交響曲第1番 ト短調 “冬の日の幻想”』(Symphony no.1, g; 1866):オペラ。
  14. 『鍛冶屋のヴァークラ』(Kuznets Vakula [Vakula the Smith]; 1878):オペラ。
  15. 『デンマーク国家による祝典序曲』(Festival Ov. on the Danish National Hymn, D; 1866):オーケストラ。
  16. 『6つのロマンス』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1872):ピアノと独唱、歌曲集。
  17. 『交響曲第2番 ハ短調“小ロシア”』(Symphony no.2, c (‘Little Russian’); 1872):オーケストラ。
  18. 『幻想序曲“テンペスト”』(Burya [The Tempest]; 1872):オーケストラ。
  19. 『6つの小品』(Six morceaux; 1872):ピアノ曲。
  20. 『白鳥の湖』(Lebedinoe ozero [Swan Lake]; 1878):バレエ音楽。
  21. 『6つの小品』(Six morceaux; 1873):ピアノ曲。
  22. 『弦楽四重奏曲第2番 ヘ長調』(String Quartet no.2, F; 1874):室内楽。
  23. 『ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調』(Piano Concerto no.1, b♭; 1874-75)
  24. 『エフゲニー・オネーギン』(Yevgeny Onegin [Eugene Onegin];1877-78):オペラ。
  25. 『6つの歌』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1874):ピアノと独唱、歌曲集。
  26. 『憂鬱なセレナード』(Sérénade mélancolique, b; 1875): ヴァイオリンコンチェルト。
  27. 『6つの歌』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1875):ピアノと独唱、歌曲。
  28. 『6つの歌』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1875):ピアノと独唱、歌曲。
  29. 『交響曲第3番二長調“ポーランド”』(Symphony no.3, D (‘Polish’); 1875):オーケストラ。
  30. 『弦楽四重奏曲第三番変ホ長調』(String Quartet no.3, e♭; 1876):室内楽。
  31. 『スラブ行進曲』(Slavyansky marsh [Slavonic March] (Serbo-Russky marsh), B♭; 1876):オーケストラ。
  32. 『幻想曲 “フランチェスカ・ダ・リミニ』(Francesca da Rimini, sym. fantasia after Dante; 1876):オーケストラ。ダンテの『神曲』を題材にした曲。
  33. 『ロココ風の主題による変奏曲』(Variations on a Rococo Theme, A ; 1876):チェロコンチェルト。
  34. 『ワルツ・スケルツォ』(Valse-scherzo, C;1877):ヴァイオリンコンチェルト。
  35. 『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』(Violin Concerto, D; 1876-77)
  36. 『交響曲第4番ヘ短調』(Symphony no.4, f; 1876):オーケストラ。
  37. 『ピアノソナタ ト長調』(Sonata, G; 1878)/ 37b.『四季』(Les saisons; 1875-76):ピアノ曲。
  38. 『6つの歌』(1878):独唱とピアノ。
  39. 『子供のアルバム』(Album pour enfants; 1878):ピアノ曲。
  40. 『12の小品 中級』(Douze morceaux (difficulté moyenne); 1878):ピアノ曲。
  41. 『聖金口イオアン聖体礼儀』(Liturgy of St John Chrysostom; 1878): コーラス。クリュソストモス(Saint John Chrysostom; 347?-407)は、コンスタンティノープル大司教(r. 398-404)・ギリシアの教父。彼の雄弁は、「金の口ヨハネ」と賞賛された。
  42. 『なつかしい土地の思い出』(Souvenir d’un lieu cher; 1878):ヴァイオリン、ピアノ。
  43. 『組曲第1番ニ長調』(Suite no.1, D; 1878-79):オーケストラ。
  44. 『ピアノ協奏曲第2番ト長調』(Piano Concerto no.2, G;1879-80)
  45. 『イタリア奇想曲』(Capriccio Italien, A; 1880):オーケストラ。
  46. 『6つの二重唱曲』(1880)
  47. 『7つの歌』(1880)
  48. 『弦楽のためのセレナーデハ長調』(Serenade, C, str; 1880):オーケストラ。
  49. 『大序曲“1812年”』(1812, festival ov., E♭; 1880):オーケストラ。
  50. 『ピアノ三重奏曲 イ短調 “偉大な芸術家の思い出のために”』(Piano trio; 1881-82)
  51. 『6つの小品』(Six morceaux; 1882)
  52. 『晩祷』(Vesper Service; 1882): コーラス。
  53. 『組曲第2番ハ長調“性格的”』(Suite no.2, C; 1883):オーケストラ。
  54. 『16の子供のための歌』(1883):独唱とピアノ。
  55. 『組曲第3番ト長調』(Suite no.3, G; 1884):オーケストラ。
  56. 『協奏的幻想曲ト長調』(Concert Fantasia, G; 1884):ピアノコンチェルト。
  57. 『6つの歌』(1884): 独唱とピアノ。
  58. 『マンフレッド交響曲』(Manfred, sym. after Byron, b; 1885):オーケストラ。
  59. 『ドゥムカ:ロシアの農村風景』(Dumka: Russian rustic scene; 1886):ピアノ曲。
  60. 『12の歌』(1886):独唱とピアノ。
  61. 『組曲第4番ト長調“モーツァルティアーナ”』(Suite no.4, G; 1887):オーケストラ。
  62. 『奇想的小品ロ短調』(Pezzo capriccioso; 1887):チェロコンチェルト。
  63. 『6つの歌』(1887):独唱と歌。
  64. 『交響曲第5番ホ短調』(Symphony no.5, e; 1888):オーケストラ。
  65. 『フランス語の歌詞による6つの歌』(1888):独唱とピアノ。
  66. 『眠れる森の美女』(Spyashchaya krasavitsa [The Sleeping Beauty]; 1888-89):バレエ音楽。
  67. 『幻想序曲ハムレット』(Hamlet, fantasy ov. after Shakespeare, f; 1889-90):オーケストラ。
  68. 『スペードの女王』(Pikovaya dama [The Queen of Spades]; 1890): オペラ。
  69. 『イオランタ』(Iolanta [Iolanthe]; 1891):オペラ。
  70. 『弦楽六重奏曲ニ短調 “フィレンツェの思い出”』(Souvenir de Florence, str sextet, D; 1887-90)
  71. 『組曲くるみ割り人形』(Shchelkunchik [The Nutcracker]; 1892):オーケストラ。
  72. 『18の小品』(Dix-huit morceaux; 1893):ピアノ曲。
  73. 『D. M. ラートガウスの詞による6つの歌』(1893)
  74. 『交響曲第6番ロ短調“悲愴”』(Symphony no.6, b (‘Pathétique’); 1893):オーケストラ。
  75. 『ピアノ協奏曲第3番変ホ長調』(Piano Concerto no.3, E♭;1893)
  76. 『序曲 嵐』(Groza [The Storm]; 1864):オーケストラ。
  77. 『幻想曲 運命』(Fatum [Fate]; 1868):オーケストラ。
  78. 『交響的バラード“地方長官”』(Voyevoda; 1890-91):オーケストラ。
  79. 『アンダンテとフィナーレ変ロ長調/変ホ長調』(Andante, B♭, Finale, E♭ ;1893):ピアノコンチェルト。
  80. 『ピアノソナタ 嬰ハ短調』(1865; Sonata, c♯): 死後出版(1900)。

作品番号なし

オペラとバレエ

  • 『ヒュペルボラ』(Hyperbole; 1854)
  • 『ポリス・ゴドノフ』(Boris Godunov; 1863-64)
  • 『僭称者ドミトリーとワシリー・シュイスキー』(Dmitry Samozvanets i Vasily Shuysky [Dmitry the Pretender and Vasily Shuysky]; 1867)
  • 『大混乱』(Putanista [The Tangle]; 1867)
  • 『地方長官』(The Voyevoda; 1867-68)
  • 『オーベールの“黒いドミノ”のためのレチタティーヴォと合唱』(Le domino noir (D.-F.-E. Auber); 1868)
  • 『オンディーヌ』(Undina [Undine]; 1869)
  • 『マンドラゴラ』(Mandragora; 1870)
  • 『オプリーチニク(親衛隊)』(Oprichnik [The Oprichnik]; 1870-72)
  •  『セヴィリアの理髪師』(Le barbier de Séville; 1872)
  • 『”オプリチーニク”の主題による葬送行進曲』(Oprichnik; 1877)
  • 『オルレアンの少女』(Orleanskaya deva [The Maid of Orléans]; 1878-79)
  • 『妖精』(La fée ;1879)
  • 『マゼッパ』(Mazepa [Mazeppa]; 1881-83)
  • 『チャロディカ』(Charodeyka [The Enchantress]; 1885-87)
  • 『スペードの女王』(The Queen of Spades, Op. 68; 1890)
  •  『くるみ割り人形』(The nutcracker, Op. 71; 1892)

オーケストラ

  • 『アンダンテ・マ・ノン・トロッポ イ長調』(Andante ma non troppo, A; 1863-64)
  • 『アジタートとアレグロ』(Agitato and allegro; 1863-64)
  • 『リトル・アレグロ』(Little Allegro, with introduction, D; 1863-64)
  • 『アレグロ・ヴィーヴォ』(Allegro vivo, c; 1863-64)
  • 『コロッセウムのローマ人』(The Romans in the Coliseum; 1863-64):現在は失われている。
  • 『序曲 ヘ長調』(Overture, F; 1865)
  • 『性格的な舞曲』(Characteristic Dances;1865)
  • 『序曲 ハ短調』(Concert Overture, c; 1865-66)
  • 『交響曲第1番 ト短調』(Symphony, No. 1, G, Op. 13; 1866)
  • 『幻想序曲 ロメオとジュリエット』(Romeo i Dzul′etta [Romeo and Juliet]; 1869)
  • 『N. ルビンシテインの命名日のためのセレナード』(Serenade for Nikolay Rubinstein’s nameday ; 1872)
  • 『交響曲第2番 ハ短調』(Symphony, No. 2, C, Op. 17; 1872)
  • 『交響曲第3番 ニ長調』(Symphony, No. 3, D, Op. 29; 1875)
  • 『交響曲第4番 ヘ短調』(Symphony, No. 4, F, Op. 36; 1877-78)
  • 『交響曲第5番 ホ短調』(Symphony, No. 5, E, Op. 64; 1888)
  • 『交響曲第6番 ロ短調』(Symphony, No. 6, B; 1893)
  •  『交響曲第7番 変ホ長調』(Symphony, No.7, E♭; 1892): 未完。

独唱とピアノ

  • 『私の守護神、私の天使、私の友』(Moy geniy, moy angel, moy drug [My Genius, my Angel, my Friend] ; 1856)
  •  『ゼムフィーラの歌』(Pesn′ Zemfirï [Zemfira’s song]; 1860)
  • 『真夜中』(Mezza note; 1860-61)
  • 『真夜中の回想』(Nochnoy posmotr [The Midnight Review]; 1864): 現在は失われている。
  • 『自然と愛』(Priroda i lyubov′ [Nature and Love] ; 1870)
  • 『そんなに早く忘れて』(Zabït′ tak skoro [To Forget so Soon];1870)
  • 『二つの歌』(1873):第一曲「私の心を運び行け」(Unosi moyo serdtse [Take my Heart Away])、第二曲「春の青い瞳」(Glazki vesnï golubïye [Blue Eyes of Spring])

ピアノソロ

  • 『アナスタシア・ワルツ』(Valse [Anastasiya valse]; 1854)
  • 『川のほとりで、橋のたもとで』(Piece on the tune ‘Vozle rechki, vozle mostu’ [By the river, by the bridge]; 1862)
  • 『アレグロ ヘ短調』(Allegro, f ; 1863-64)
  • 『主題と変奏 イ短調』(Theme and variations, a; 1865)
  • 『歌劇”地方長官”の主題による接続曲』(Potpourri on themes from the opera Voyevoda ; 1867-68)
  • 『ナタリー・ワルツ』(Nathalie-valse, G;1878)
  • 『即興曲とカプリース』(Impromptu-caprice, G; 1884)
  • 『ワルツ・スケルツォ 第2番』(Valse-scherzo [no.2]; 1889)
  • 『即興曲 変イ長調』(Impromptu, A♭ ; 1889)
  • 『情熱的な告白』(Aveu passionné, e; 1892)
  • 『軍隊行進曲 変ロ長調』(Military march [for the Yurevsky Regiment], B♭; 1893); 『ユーリエフスキー連隊行進曲』とも。
  • 『即興曲 変イ長調』(Impromptu (Momento lirico), A♭; 1894)

コーラス

  •  『歓喜に寄す』(K radosti [To Joy] ; 1865): シラー (Schiller) 原作。K. アクサーコフ (K. Aksakov) 翻訳。
  • 『春』(Vesna [Spring]; 1871)
  • 『夜』(Vecher [Evening] ; 1871)
  • 『ピョートル大帝生誕200年記念カンタータ』(Cantata in commemoration of the bicentenary of the birth of Peter the Great (Ya. Polonsky); 1872):『モスクワ工業博覧会開会のカンタータ』とも。
  • 『ペトロフの活動50年記念カンタータ』(Chorus in celebration of the golden jubilee of Osip Petrov; 1875)
  • 『夕べ』(Vecher [Evening]; 1881)
  • 『モスクワ』(Moskva [Moscow];1883)
  • 『3つのケルビウム賛歌』(Kheruvimskaya pesnya [Cherubic Hymn]; 1884)
  • 『9つの宗教的音楽作品』(9 sacred pieces, unacc. mixed chorus; 1885)
  • 『黄金の雲は眠りにつき』(Nochevala tuchka zolotaya [The Golden Cloud has Slept]; 1887)
  • 『天使は叫ぶ』(Angel vopiyashe [An Angel Cried Out]; 1887)
  • 『アントン・ルビンシテインへの挨拶』(A greeting to Anton Rubinstein for his golden jubilee as an artist; 1889)
  • 『夜鳴きうぐいす』(Solovushka [The Nightingale]; 1889)
  •  『3つの合唱曲』(1891):第1曲「松明で鳴いているのはかっこうではない」(Ne kukushechka vo sïrom boru [’Tis not the Cuckoo in the Damp Pinewood])、第2曲「暇もなく、時もなく」(Bez porï, da bez vremeni [Without Time, Without Season] )、第3曲「楽しげな声が静まって」(Chto smolknul veseliya glas [The Voice of Mirth Grew Silent]
  • 『夜』(Noch′ [Night]; 1893)

室内楽

  • 『アレグレット ホ長調』(Allegretto, E; 1863-64)
  • 『アダージョ ハ長調』(Adagio, C; 1863-64)
  • 『アダージョ ヘ長調』(Adagio, F; 1863-64)
  • 『アレグロ ハ短調』(Allegro, c; 1863-64)
  • 『アレグレット・モデラート』(Allegretto moderato, D; 1863-64)
  • 『アンダンテ・モルト ト長調』(Andante molto, G; 1863-64)
  • 『前奏曲ホ短調』(1863-64)
  • 『アレグロ・ヴィヴァーチェ変ロ長調』(Allegro vivace, B♭; 1863-64):弦楽四重奏。
  • 『アレグレット ホ長調』(1863-64):弦楽四重奏。
  • 『アンダンテ・モルト ト長調』(1863-64):弦楽四重奏。
  • 『弦楽四重奏曲 変ロ長調』(String Quartet, B♭; 1865)
  • 『弦楽四重奏第1番 ニ長調』(String Quartet, D, Op. 11; 1871)
  • 『弦楽四重奏第2番 ヘ長調』(String Quartet, F, Op. 22; 1874)
  •  『弦楽四重奏第3番 変ホ短調』(String Quartet, E♭, Op. 30; 1875)
  •  『ピアノ三重奏 イ長調』(Piano Trio, A, Op. 50; 1882)

チャイコフスキーに関連する映画・舞台

参考文献 | Bibliography

  1.  Oxford Online Music, Roland John Wiley, published in print (20 January, 2001), Published online (2001).
  2. 和田春樹編『世界各国史 ロシア史』山川出版社、2008年。

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Notes   [ + ]

1. グリンカ(Mikhail (Ivanovch) Glinka):1803年生まれ1857年没。ロシア国民音楽派の先駆者。代表作にオペラ『ルスランとリュドミラ』(Russlan and Ludmilla)(1842)。
2. ペテルブルク音楽院(The St Petersburg Conservatory): アントン・ルビンシテインによって1862年10月設立。ロシアの千年記念にあたる。
3. シラー(Friedrich von Schille, 1759-1805):ドイツの詩人・劇作家。代表作には『ウィルヘルム=テル』(Wilhelm Tell; 1804)や『ドン=カルロス』(Don Carlos; 1787)がある
4. ロシア大公コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (the Grand Duke Konstantin Romanov; 1858-1915): ロシアの皇族。劇作家でもあり、ロシア科学アカデミー総裁を務めた。

アントニオ・サリエリ

生 : 1750年8月18日(レニャーゴ)/没 : 1825年5月7日(ウィーン)

アントニオ・サリエリは、ウィーンで活躍したイタリア半島出身の音楽家。また、イタリアやパリでオペラ作曲家としても成功し、「ドイツ音楽を甘いイタリア式の音楽にまとめ上げることができる作曲家」との評価を得た。

生涯 | Biography

1. 少年時代

1750年、ヴェネトのレニャーノに生まれる。サリエリは、兄弟のフランチェスコと地方のオルガニスト・ジュゼッペ・シモーニと共にヴァイオリンと鍵盤楽器を学んだ。1763年から1765年にかけて両親がなくなると、ヴェネツィアに移り音楽教育を受けた。ヴェネツィアの作曲家F. L. ガスマン (F. L. Gassmann)はサリエリの才能を見出し、彼を連れてウィーンに向かった。ガスマンのもとウィーンで学ぶサリエリは、ここでキャリアを共にする生涯の友人を作った。またこの師のもとで、サリエリは、メタスタジオ(Pietro Metastasio; 1698-1782)、ドイツの作曲家グルック(Christoph Willbald von Gluck; 1714-87)、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世(Joseph II; 1765-90)と関係を築いた。

 

  1. オペラ作曲家として

1769年、師ガスマンがイタリアに滞在していた時、サリエリは、もともとはガスマンの作品であった『文学の女』(Le donne leterate)のリブレットを担当した。喜歌劇(operabuffa)の作曲家としてサリエリは、以降作曲に専心していくこととなる。1771年6月、マルコ・コルテッリーニによるリブレット『アルミーダ』(Armida)が上演された。こうして1780年代にかけて、サリエリは、グルックの主要な後継者と称されるようになる。

F. Rehburg作 サリエリの肖像(1821)
  1. 皇帝ヨーゼフ2世:ハプスブルク一族によるサポート

サリエリのウィーンでの成功は、皇帝ヨーゼフ2世の力添えによるところが大きい。また、皇帝ヨーゼフ2世の兄弟であるトスカーナ大公レオポルト、ロンバルディアの統治者フェルディナンド、妹のフランス王妃マリー・アントワネット(Marie Antoinette)といったフランスやイタリア半島の諸地域の権力者のサポートもあって、サリエリは各地で活動することができた。また、ヨーゼフ2世が兄弟へ、サリエリの作品のコピーを送ることもあった。1772年には、ヨーゼフ2世は、トスカーナ大公レオポルトに、フィレンツェについてのオペラをサリエリに書かせてくれるよう求めている。

Pompeo Batoni作 ヨーゼフ2世の肖像(1769)

 

1774年、ガスマンが亡くなると、ヨーゼフは、サリエリを後継者として宮廷楽長(カペルマイスター)(Kammerkomponist)に任命した。この時、サリエリは弱冠24歳であった。劇場の詩人ジョヴァンニ・ディ・ガメッラ(Giovanni di Gamerra)と共に、サリエリは、宮廷劇場のために2つのオペラを共同制作した。一つは、『愚かな嘘』(La finta scema)(1775)でありもう一つはグルックの『デリラとデルミタ』(Daliso e Delmita)(1776)であった。

1776年、ヨーゼフが劇場の再建に取り掛かったため、サリエリはイタリアでオペラを作曲することとなった。1778年から1780年にかけて、サリエリは、ミラノ、ヴェネツィア、ローマの劇場のために5つの作品を書いた。特に、『見出されたエウローパ』(Europa riconosciuta)1)エウロペ(Europe):この作品は、ギリシア神話をもとに作られている。フェニキアのテュロス王の娘エウロペは、白牛に姿を変えた全能の神ゼウスによってクレタ島に運ばれた。エウロペは、ゼウスの子ミノス(後のクレタ島の王)を産んだ。エウロペの名前は、ヨーロッパの語源となっている。 は、1778年、ハプスブルク家の統治下にあったミラノのスカラ座のこけらおとしを祝う作品となった。また、翌年ヴェネツィアのカーニバルにおいて上演された『やきもち焼きの学校』(La scuola de’gelosi )は、サリエリの名声をヨーロッパ中に広めることとなった。1780年、ヨーゼフ2世は、サリエリに、ナショナル・シアター(National theater)のドイツの楽団によって演奏されることを想定したジンシュピール(Singspiel)2)ジングシュピール(Singspiel):ドイツの台詞入りコミック=オペラの一種。18世紀末から19世紀初頭にかけて流行。の作曲を命じた。サリエリは、ドイツ語のオペラを2つしか作曲していないが、そのうちの1つ『煙突掃除人』(独:Der Rauchfangkehrer;伊:spazzacamino)(1781)はこの時に制作されたものである。この作品は、モーツァルトのオペラ『後宮からの誘拐』(Die Entführung aus dem Serail)が発表されるまで、その人気を保っていた。

『見出されたエウローパ』 2004年12月 スカラ座上演時のポスター

 

 

サリエリはグルックに代わって、パリのオペラ座での仕事も行うようになる。皇帝ヨーゼフ2世の推薦もあって、サリエリは、『ダナオスの娘たち』(Les Danaides)(1784) を制作する。この成功をきっかけに、サリエリはパリにおいて、フランスの叙情悲劇(tragédie lyrique)とイタリアの喜歌劇(opera buffa)の制作に熱を注いでいでいくこととなる。1786年の『オラース兄弟』(Les Horaces)は、不発に終わったものの、その翌年に上演された『タラール』は大成功を収めた。

1783年、ヨーゼフ2世は、ドイツの楽団に代わってイタリアの喜歌劇に特化した楽団を創設した。その楽団は、サリエリの『やきもち焼きの学校』(La scuola de’gelosi )によってデビューを果たした。

ウィーンに戻ったサリエリは、ブルグ劇場(Burgtheater)にてイタリアの喜歌劇の作曲と指揮に打ち込むようになる。この頃、パイジエッロ(Paisiello)やビセンテ・マルティーン・イ・ソレル(Martín y Soler)、そしてモーツァルト(Mozart)といった代表的な作曲家がヨーゼフ2世によってウィーンに集められており、音家としてのサリエリに大きな影響を与えた。また、詩人のジョヴァンニ・バッティスタ・カスティ(Giovanni Battista Casti; 1724-1803)と共に、『トロフォーニオの洞窟』(La grotto di Trofonio)と『はじめに音楽、次に言葉』(Prima la musica e po le parole)(1786年) といった作品が生み出された。1787年、パリにて『タラール』(Tarare)を初演したサリエリがウィーンに再び戻ると、ヨーゼフ2世は、ウィーンのためにイタリア語版のオペラを用意することをサリエリに命じた。サリエリの協力者であったイタリアの台本作家ロレンツォ・ダ・ポンテ(Lorenzo da Ponte; 1749-1838)がリブレットを書いた『オルムスの王アクスール』(Axur, Re d’Ormus)は、『タラール』の筋書きをなぞっているものの、フランスの劇作家ボーマルシェ(Beaumarchais; 1732-99)の政治的な寓意を大幅に省いたものとなっている。『アクスール』は、ビュルテンベルク大公フランツとエリザベスの結婚式で上演されてから、1788年から1805年にいたるまでウィーンの劇場で100回以上も上演されることとなった。

以上のようなサリエリの華々しい活躍は、皇帝ヨーゼフ2世の存在なくして実現しなかったものである。マリア・テレジアの息子として、母とは方針は違うものの、18世紀の啓蒙君主として広大な領土の頂点に君臨したヨーゼフ2世。また、婚姻を通じてヨーロッパ中に点在していたハプスブルク一族。サリエリは、教育や文化を奨励する啓蒙的政策に忠実な音楽家であったのであり、またそれがゆえにハプスブルク家のネットワークを通じた音楽活動を生涯続けることができたのであった。

  1. 宮廷楽長として:ヨーゼフ2世の死後の活動

1788年2月、ヨーゼフ2世は、サリエリに宮廷楽長(Hofkapellmeister)の役職を与えた。病身のジュゼッペ・ボンノ(Giuseppe Bonno)の後を継いだサリエリは、以降、1824年に引退するまでこの職を務めることとなり、教会音楽の作曲を行なっていく。

1790年2月20日、サリエリの強力なパトロンであった皇帝ヨーゼフ2世がなくなり、レオポルトが次の皇帝となった。サリエリの1790年代とは、パトロンのヨーゼフ2世の死去、フランス革命にも起因するパリでの仕事の削減、輝かしい才能のライバル・モーツァルトとの別れ(1791年死去)という目まぐるしい転機に対応せねばならない時期であった。1794年、サリエリは、台本作家ジョヴァンニ・デ・ガメッラ(Giovanni de Gamerra; 1742-1803)と共に、『ヘラクレイトスとデモクリトス』(Eraclito e Democrito) 、『ペルシャの女王パルミーラ』(Palmira, regina di Persia)、『ムーア人』(Il moro)を作曲し、特に『パルミーラ』は大成功を収めた。また、サリエリは、イタリアの協力者デフランチェスキ(C. P. Defrancheschi)と共に、『ファルスタッフ』(Falstaff)やサリエリが最後に完成させたオペラとなる『黒人』(独 Die Neger; 伊 I negri)を共に制作した。

宮廷楽長としてサリエリは、新しい歌手の登用、新しい楽器の購入の監督、音楽図書館の整備などを行った。また、サリエリは、自身が孤児としてガスマンのもとで教育を受けた経験もあってか、ガスマンが音楽家の寡婦と孤児を支援するために1771年に創設した音楽団体(the Tonkünstler-Societät)のトップとして精力的に活動した。また1815年、サリエリは、ウィーン会議3)ウィーン会議:1814年から15年にかけて、フランス革命とナポレオン戦争後の国際秩序の回復を図るために行われた会議。その結果、革命前の状態へ戻す正統主義と、大国間の勢力均衡という2大原則からなるウィーン体制が成立した。 の際の音楽イベントの責任者を務めている。

サリエリが教育者として果たした役割も見逃すことができない。彼の弟子の中には、コロラトゥーラ・ソプラノのカテリーナ・カヴァリエーリ(Catherina Cavalieri)、テレーゼ・ガスマン(Therese Gassmann; 師ガスマンの娘)、またベートヴェン(Beeathoven)やシューベルト(Schubert)といった才能あふれる若き作曲家もいた。

 

作品一覧 | Works

オペラ

  • 『アルミーダ』(Armida)(1771年)
  • 『ヴェネツィアの市』(La fiera di Venezia)(1772年)
  • 『古城の領主』(Il Barone di Rocca antica)(1772年)
  • 『宿屋の女主人』(La locandiera)(1773年)
  • 『イエス・キリストの情熱』(La Passione di Gesù Cristo)(1776年)
  • 『見出されたエウローパ』(Europa riconosciuta)(1778年)(スカラ座)
  • 『やきもち焼きの学校』(La scuola de’gelosi )(1778年)
  • 『煙突掃除人』(独:Der Rauchfangkehrer;伊:spazzacamino)(1781年)
  • 『セミラーミデ』(Semiramide)(1782年)
  • 『ダナオスの娘たち』(Les Danaides)(1784年)
  • 『トロフォーニオの洞窟』(La grotto di Trofonio)(1785年)
  • 『はじめに音楽、次に言葉』(Prima la musica e po le parole)(1786年)
  • 『オラース兄弟』(Les Horaces)(1786年)
  • 『最後の審判』(Le judgement dernier)(1787年)
  • 『タラール』(Tarare)(1787年)
  • 『オルムスの王アクスール』(Axur, Re d’Ormus) (1788年)
  • 『花文字』(La cifra)(1789年)
  • 『ヘラクレイトスとデモクリトス』(Eraclito e Democrito)(1795年)
  • 『ペルシャの女王パルミーラ』(Palmira, regina di Persia)(1795年)
  • 『ムーア人』(Il moro)(1795年)
  • 『ファルスタッフ』(Falstaff)(1799年)
  • 『ファルマクーザのカエサル』(Cesare in Farmacusa)(1800年)
  • 『アンジョリーナ』(1800年)
  • 『カプアのアンニーバレ(ハンニバル)』(Hannibal in Capua)(1801年)
  • 『黒人』(Die Neger)(1804年):ジングシュピール。

 

ミサ曲

  • 『皇帝ミサ ニ長調』(1788年)
  • 『戴冠式テ・デウム』(1792年)
  • 『レクイエム ハ短調』(Requiem c)(1804年)

器楽作品

  • 『シンフォニア ニ長調 「ヴェネツィア人」』 (Symphony in D major, Veneziano)
  • 『ピアノ協奏曲 ハ長調 』(Piano Concerto in C major)
  • 『オルガン協奏曲 ハ長調』 (Organ Concerti in C major)
  • 『スペインのフォリア』(La follia di Spagna)(1815年):「フォリア」(follia)とは16世紀に流行した舞踏曲。

詩篇曲

  • 『どん底の叫び』(De profundis)(1805年)
  • 『エルサレム賛歌』(Lauda Jerusalem)(1815年)
  • 『福者』(Beatus vir)(1815年)
  • 『主よ、感謝します』(Confitebor tibi Domine)(1815年)
  • 『どん底の叫び』(De profundis)(1815年)
  • 『主は言った』(Dixit Dominus)(1815年)
  • 『褒め称えよ、主のしもべたちよ』(1815年)

歌曲

  • 『栄光と徳の勝利』(Il trionfo della Gloria e della Virtù)(1774年)
  • 『チロル陸軍』(Der Tyroler Landturm)(1799年)
  • 『チロルの感謝』(La riconoscenza de’Tirolesi)(1800年)

合唱曲

  • 『平和の機会に』(Bei Gelegenheit des Friedens)(1800年)
  • 『ド・レ・ミ・ファ』(Do re mi fa)(1818年)

 

サリエリを扱った作品

  • 映画『アマデウス』(原題:Amadeus、1984年・米):サリエリを演じたのはF・マーリー・エイブラハム(1939-)。

参考文献 | Bibliography

  1. Oxford Music Online
  2. 藤内哲也編著『イタリアの歴史と文化』ミネルヴァ書房、2016年。
  3. 水谷彰良『新イタリア・オペラ史』音楽之友社、2015年。

Notes   [ + ]

1. エウロペ(Europe):この作品は、ギリシア神話をもとに作られている。フェニキアのテュロス王の娘エウロペは、白牛に姿を変えた全能の神ゼウスによってクレタ島に運ばれた。エウロペは、ゼウスの子ミノス(後のクレタ島の王)を産んだ。エウロペの名前は、ヨーロッパの語源となっている。
2. ジングシュピール(Singspiel):ドイツの台詞入りコミック=オペラの一種。18世紀末から19世紀初頭にかけて流行。
3. ウィーン会議:1814年から15年にかけて、フランス革命とナポレオン戦争後の国際秩序の回復を図るために行われた会議。その結果、革命前の状態へ戻す正統主義と、大国間の勢力均衡という2大原則からなるウィーン体制が成立した。

ルクレツィア・ボルジア(ドニゼッティ)

基本情報 | Data

登場人物 | Cast

  • ルクレツィア・ボルジア(Lucrezia Borgia):ソプラノ。この物語の主人公であるフェラーラ公妃。初演を演じたのは、アンリエット・メリク=ラランド(Henriette Méric-Lalande)。その後の歌い手に、ジュリア・グリーシ(Giulia Grisi)(1854年)、テレーゼ・ティージェンヌ(Therese Tietjens)(1849、1877年)、そしてモンセラート・カヴァリエ(Montserrat Caballé)(1965年)がいる。
  • ジェンナーロ(Gennaro):テノール。ルクレツィアの生き別れの息子。初演を演じたのはフランチェスコ・ペドラッチ(Francesco Pedrazzi)。
  • マッフィオ・オルシーニ(Maffio Orsini):メゾ・ソプラノ。初演を演じたのは、マリエッタ・ブランヴィラ(Marietta Brambilla)。
  • リヴェロット(Liverotto) :テノール。
  • ヴィテロッツォ(Vitellozzo):バス。
  • フェラーラ公アルフォンソ・デステ(Alfonso d’Este):バス・バリトン。ルクレツィアの夫であるフェラーラ公。初演を演じたのはルチアーノ・マリアーニ(Luciano Mariani)。

ダンテ・ガブリエル・ロゼッティ作『ルクレツィア・ボルジア』(1871年)

あらすじ | Synopsis

プロローグ

ジェンナーロ、マッフィオ・オルシーニ、リヴェロットそしてヴィテロッツォは、ヴァネツィアのカーニバルにやってきた若者であった。その中でも、かつてボルジア家の政敵であったオルシーニは、かつてのリミニでの戦いを思い出し、ボルジア家の恐ろしさ 1)ボルジア家とオルシーニ家:1492年、ボルジア家出身の枢機卿ロドリーゴ・ボルジアが教皇アレクサンデル6世として即位した。アレクサンデル6世は、親族を重職につけ、政敵を排除するなど、一族の基盤を固めるために政治的手腕をふるった。オルシーニ家もボルジア家の宿敵となっていたローマの領主貴族(Barone)であり、彼らの争いは、都市ローマのみならず、地方の党派や有力者とも結びつき、規模を拡大していった。アレクサンデル6世は、1500年のリミニでの戦いにおいて、その息子チェーザレ・ボルジアを派遣し、侵攻した。オルシーニはこの戦いの記憶をここでは語っていると考えられる。を語りだす(1. アリア「リミニの戦いで (Nella fatal di Rimini)」)。そうこうしているうちに、横になって休むジェンナーロを一人残し、若者たちはその場を去っていく。そこに、仮面をつけた女性が現れ、愛情に満ちた目で眠るジェンナーロを見つめる(2. ロマンス「なんと美しい!(Com’ e bello!)」)。ジェンナーロが目を覚ますと、この若者が自身の息子であることに気づいていたルクレツィアは彼の過去について尋ねた。目の前の女性との関係を知らないジェンナーロは、自身の身の上について語る(3. アリア「卑しい漁師の息子と信じてきたが(Di pescatore ignobile esser figliuol credei)」)。しかしながら、ジェンナーロの仲間たちが戻ってくると、彼らは口々にこの美しい女性は悪名高いボルジアの女、ルクレツィア・ボルジアであることをジェンナーロに教え、ジェンナーロは恐れおののく(4. 六重唱「シニョーラ、マッフィオ・オルシーニです。あなたに兄弟を殺された(Maffio Orsini, signora, son’ io cui svenaste il dormente fratello)」)。

第一幕

一方フェラーラでは、ルクレツィアの4番目の夫フェラーラ公アルフォンソ・デステ2)フェラーラ公アルフォンソ・デステ:実際には、ルクレツィアの3番目の夫で最後の夫。1番目の夫は、ミラノのスフォルツァ家と親族関係にあったペーザロの領主ジョヴァンニ・スフォルツァであった。1493年に執り行われたこの結婚は、その前年の1492年、ルクレツィアの父アレクサンデル6世の教皇選挙の時、ミラノのスフォルツァ家出身の枢機卿アスカニオ・スフォルツァの助力を得たため、スフォルツァ家と教皇が関係を深めるために取り決められたものであった。結婚当時、ルクレツィアはわずか13歳の少女であった。その後、この夫を「不能」と枢機卿会議で認定し、2人の婚姻を無効とした教皇は、ナポリと同盟関係を結ぶために、2番目の夫をナポリから迎えることにした。1498年、ナポリ王の庶子アルフォンソ・ダラゴーナとルクレツィアの結婚式が執り行われ、年の近かった二人は仲睦まじい結婚生活を送っていた。ところが、その幸せは長く続かず、アルフォンソは、1500年何者かによって暗殺された。アルフォンソの死に嘆き悲しんだルクレツィアであったが、悲しみに沈む間もなく、教皇の娘として、次の夫を迎える必要があった。こうして1502年にフェラーラのエステ家の嫡出子アルフォンソ・デステと結婚し、後にルクレツィアはフェラーラ公妃となる。スパイから、ジェンナーロはルクレツィアの愛人である疑いがあることを聞かされた。このスパイは、アルフォンソが、政敵に復讐するために送っていた者であった(1. 大アリア「来たれ、我が復讐よ(Vieni: la mia vendetta)」)。一方、フェラーラにやってきたジェンナーロとその仲間たちであったが、ルクレツィアのことについて仲間たちはジェンナーロのことをからかった。怒ったジェンナーロは、宮殿のファザードに書かれたルクレツィア(Lucrezia Borgia)の紋章を見て、そこから”B”の文字を切り落とし、オルギア(Orgia)3)オルギア:古代ギリシアにおいて、特に豊穣とブドウ酒の神であるディオニュソス(バッカス)を讃える熱狂的な儀礼の形態。英語の「どんちゃん騒ぎ(orgy)」はこのオルギアに由来している。として、ボルジア家を罵った。この侮辱に激情したルクレツィアは、夫アルフォンソに仇を討つように指示した。ジェンナーロが捕らえられ、その当事者がジェンナーロであることを知ったルクレツィアは、この若者の身を案じたが、ひとまず、夫アルフォンソによるジェンナーロ毒殺計画に従うふりをした。夫アルフォンソがその場を去ると、ルクレツィアはこの若者に解毒剤を与え、フェラーラを直ちに去るように命じた(2. 二重唱「2人だけになったぞ(Soli noi siamo)」)。

第二幕

立ち去る前に、マッフィオ・オルシーニは、公爵夫人ネグローニの邸宅にて開かれる舞踏会に参加すべきであると主張した。そこで気の緩んだオルシーニは酒を飲みながら歌ったが(1. 乾杯の歌「幸せでいるための秘密(Il segreto per esser felici)」) 、その歌は不吉な声によって中断された。ジェンナーロとその仲間たちは、慌てて逃げようとしたが、すでに扉には鍵がかけられていた。そこでルクレツィアが突然現れると、一族を侮辱されたことの報復として彼らのワインに毒をもったことを告白した。それはジェンナーロがすでにフェラーラを発ったものと思い、その他の仲間たちをまとめて始末しようと計画したためであった。ジェンナーロ以外の若者たちが連行されると、ルクレツィアとその息子ジェンナーロのみが残った。彼女は、ジェンナーロを傷つけるつもりはなかったとして、解毒剤を飲むように懇願した(2. 二重唱「あなたがここに!(Tu pur qui)」)。ルクレツィアが自分は母であることを告げても、ジェンナーロはその申し出を断った。こうして毒がまわり、ジェンナーロの息は絶えた。その屍を見つつ、ルクレツィアは、この若者が自分の息子であることを告白し、卒倒した(3. カヴァレッタ「この若者は私の息子でした(Era desso il figlio mio)」)。

上演史

ドニゼッティは、原案となったヴィクトル・ユーゴーの小説『リュクレス・ボルジャ』(Lucrèce Borgia)の中に描かれるルクレツィアの犠牲者の6つの棺が突然現れるというワンシーンに感銘を受けた。ところがミラノ当局は、このエピソードを拒否した。実際のところ、この主題は、上演するのに相応しくないと判断されていたために、1833年12月、ミラノのスカラ座で初演日を迎えるまで、3年の月日を要することになった。またしばらくの間、この作品には別の名前がつけられたり、非キリスト教国に舞台が移されたりした。

スカラ座での2回目の上演は、1840年1月であった。この時、ドニゼッティは、エンディングシーンを変えるために、死んでゆくジェンナーロのアリオーソ(arioso)4)詠唱(aria)と叙唱(recitative)の中間のようなもの。を付け加え、ルクレツィアの最後のカバレッタ(cabaletta)5)カバレッタ:オペラのアリアまたは二重唱の一種。カバティーナの後で歌われるテンポの速い活発な曲。を省いた。なぜなら息子の死に対し、華々しく母が歌うというのは不自然だとドニゼッティが考えたからであった。1840年以降、『ルクレツィア・ボルジア』は、繰り返し上演される作品となり、その人気は19世紀末に至るまで続いた。また、同時代の作曲家フランツ・リストは、この『ルクレツィア・ボルジア』の他、ドニゼッティの作品に影響を受けて幻想曲を作曲している。

歴史的背景|Historical context

ルクレツィアの子供たち:ジェンナーロの正体

ルクレツィア・ボルジア(1480-1519年)は、本作にも登場する(正確には3番目の)夫フェラーラ公アルフォンソ・デステ(1476-1534年)と結婚するまでに、2人の息子を産んだとされている。ジェンナーロは、ルクレツィアがフェラーラのアルフォンソに嫁ぐ前にもうけられ生き別れたという設定であるが、ここではジェンナーロのモデルとなったと考えられる2人の息子を取り上げよう。

1493年、13歳のルクレツィアは、ペーザロ領主ジョヴァンニ・スフォルツァ(1466-1510年)と一回目の結婚をする。ところがその幼さゆえに妻としての務めを果たすことができないとして、ルクレツィアは、父である教皇アレクサンデル6世(1431-1503年)のもとで過ごす期間が長かった。その一方で、ジョヴァンニは、軍役に就くなど別居状態が続いた。そうこうするうちに政局が変わり、父教皇の意向で2人の結婚が無効であることが主張されるようになった。ここでジョヴァンニは、婚姻の無効は、自らの不能のせいであるという証言をするように強いられた。1497年12月、ジョヴァンニの親族にあたるミラノ出身の枢機卿アスカニオ・スフォルツァ(1455-1505年)のとりなしにより、婚姻の無効が成立した。この侮辱的な仕打ちに激昂したジョヴァンニは、ほとんどローマに滞在していたルクレツィアへの当て付けとして、父教皇との近親相姦の関係にあったという噂を触れ回った。その真偽を判断することはできないが、この父と娘の暗い噂は、その後も物語として再生され続けていくこととなる。

ピントゥルッキオ(1454-1513年)によってヴァチカン宮殿ボルジアの間のフレスコ壁画として描かれたもの

婚姻解消後、ローマで過ごしていたルクレツィアであったが、1498年3月、男児を出産する。ジョヴァンニ・ボルジア(Giovvani Borgia)(1498-1548年)と名付けられた赤子は、「ローマの子供」(l’Infante romano)としてヴァチカンで養育された。この子供が生まれる一ヶ月前の1498年2月、ティヴェレ川に教皇の従者であったペドロ・カルデンの亡骸があがったが、この若者がローマの子供の父親だと考えられている。ルクレツィアがフェラーラに嫁ぐ前の1501年9月1日、教皇は、このローマの子供がルクレツィアの兄チェーザレの子供であるという勅書を出した。ところが、この勅書の後に、教皇はローマの子供はルクレツィアの子供であるという勅書を出そうとした。それは、次期フェラーラ公アルフォンソ・デステとの婚姻が成立する段になって、次期フェラーラ公妃ルクレツィアの私生児としてローマの子供を認め、フェラーラの財産に対する権限を少しでも確保したいという教皇の意図であった。

このローマの子供の誕生とほぼ時を同じくして、ルクレツィアの2番目の婚姻が取り決められた。2番目の夫は、ナポリ王の親族にあたりルクレツィアより少し歳の若いサレルノ君主・ビシェリエ公アルフォンソ・ダラゴーナ(1481-1500年)であった。1498年7月、ヴァチカンにて結婚式が執り行われた。ルクレツィアはアルフォンソを心から愛し、またアルフォンソもそれに応え、2人は仲睦まじい夫婦であった。ところがその幸せは長くは続かなかった。それは、1499年5月12日、兄チェーザレと、ナヴァラ王の妹シャルロットの結婚式が行われるなど、教皇一族は、ナポリとの友好関係よりも、フランスと同盟関係を選ぶようになったからである。1499年8月2日、夫アルフォンソは、この政局を案じ、仲間を連れてローマから逃亡した。この時、アルフォンソの子を宿していたルクレツィアは、悲しみにくれる間も無く、8月半ば、統治官として任命されてスポレートに赴いた。そうこうするうちに逃亡から戻ってきた夫とローマに戻ったルクレツィアは再会し、同年11月、ルクレツィアは、ロドリーゴと名付けられる男児(1500-1512年)を出産した。

しばらく事態は落ち着きを見せたかのように思われたが、事件は1500年7月半ばに起きた。アルフォンソは何者かによって攻撃され重傷を負った。息も絶え絶えのアルフォンソをルクレツィアは、必死に看病し、数週間後、彼は小康状態を得た。ところが、8月18日、部屋に侵入した兄チェーザレの腹心ミケロットによってアルフォンソは暗殺された。夫の死の悲しみに沈む間も無く、20歳の未亡人ルクレツィアのもとには次々と縁談が舞い込んだ。1501年9月、フェラーラに向けて次なる婚姻のために旅立つことに決めたルクレツィアは、ローマの子供のジョヴァンニとロドリーゴにローマ内の所領を譲った。こうして、1502年1月6日、ルクレツィアは、幼い息子たちを残してローマから旅立った。

ここまでが、フェラーラに嫁ぐまでのルクレツィアの半生であり、フェラーラに嫁いだ後、彼女は、およそ6人の子供を3番目の夫アルフォンソとの間にもうけたとされている。少なくとも、ローマの子供ジョヴァンニ・ボルジアの方は、おそらくローマから呼び寄せられたのか、フェラーラで生まれた1508年生まれのエルコーレ(後のフェラーラ公)や1509年生まれのイッポリートといった義父兄弟と共に育ったとされる。彼女がローマで産んだとされる2人の息子の影は薄いとはいっても、ローマの子供ジョヴァンニ・ボルジアは1548年まで生きたとされており、毒殺のような悲劇的な結末は迎えていないようである。

ジョン・コリア作『チェーザレ・ボルジアと一杯のワイン』(1893年)

元「教皇の娘」6)父教皇アレクサンデル6世の崩御(1503年):ルクレツィアがフェラーラに嫁いだ翌年の8月、父である教皇が崩御した。これを機に、兄である教皇軍総司令官チェーザレ・ボルジアも敗戦を重ね、ボルジア家は没落の一途をたどった。ところが、すでにフェラーラに嫁いでいたルクレツィアの名声は衰えることなく、ルクレツィアは夫のもとで安定した後半生を送ることができた。このボルジア家の衰退という悲劇に悲しむルクレツィアを慰めたのが、当時フェラーラの宮廷に滞在していたヴェネツィア出身の枢機卿ピエトロ・ベンボである。ベンボとルクレツィアは、生涯書簡を通じて交流した。、現フェラーラ公妃として注目されていたルクレツィアの2人の子(とされるもの)は、フェラーラでの子供と対照的に、その消息は謎に包まれてきた。それゆえに、ドニゼッティのオペラのような生き別れの母息子という設定が生まれたのであろう。

ファム・ファタール?賢妻?土地経営者?

ドニゼッティの本作が示しているように、ルクレツィア・ボルジアには常にスキャンダラスなイメージが付きまとっている。特に19世紀のロマン派の芸術家たちにとって、ルクレツィアは格好の素材となり、毒殺、近親相姦、類稀な美貌などのイメージを相まって彼女の像はさらに膨らんだ。それゆえに、20世紀に入ってからも、小説、映画などが生産され続け、そこでは、悪徳と欲望に満ちたボルジア家というように描かれている。

『ボルジア 欲望の系譜』(season 1-3)(フランス、ドイツ)(2011-2014年)にてルクレツィアを演じたイゾルデ・ディシャウク

ところが20世紀末になると、歴史学の分野では、ボルジア家について再考されるようになった。例えば、1999年には、ローマにて行われたシンポジウムをもとに論文集が刊行されたり、2006年には「教皇アレクサンデル6世(1492-1503)治世500周年記念シンポジウム」が開催されたりするなど、長らく物語の題材にはなっても研究の対象とはされてこなかった状況が変わりつつある7)Roma di Fronte all’Europe al Tempo di AlessandroVI, vol. 1-3, a cura di M. Chaibo, S. Maddalo e A. M. Oliva, Roma, 2001.。その一環として、ルクレツィア個人についての研究も新たな見地を得ることとなった。ここでは、このような研究状況を参考に、有能な土地経営・管理者としてのルクレツィアの一面を紹介したい。

まず、ルクレツィアは、1498年に父教皇からネーピ、セルモネータ、カエターニといった教皇領のいくつかの領地を受け取っていたれていた。そのうち、ネーピについては、1499年秋、2番目の夫アルフォンソの死を悲しみローマを離れたルクレツィアが実際に滞在していた領地であった。これらの領地の一部は、1501年、3番目の夫アルフォンソとの結婚が決まった際に、ルクレツィアがローマで出産した2人の子供、ローマの子供ことジョヴァンニとロドリーゴに譲られた。その後、ルクレツィアは、フェラーラに嫁いだ後、土地管理・経営者としての才覚を見せるようになる。投資によって財産を増やしたルクレツィアが力を入れたことは、干拓事業であった。彼女の始めた干拓事業は、その孫アルフォンソ2世の代となった1564年には、フェラーラのポレージネにおいて9000エッタリ(おそらく21000エーカー)と大規模に行われるようになったのである。この16世紀半ばの干拓事業は、ポー川下流域の沈殿物の蓄積や、主要収入であった通行税の減少によって苦しんでいたフェラーラ公国の財政を救うものであった。結果的にこの事業は、ヴェネツィアというライバル出現によって頓挫するものの、16世紀前半に生み出された資金を投資し湿地や休閑地を耕作地に変えるというルクレツィアのヴィジョンは特筆すべきものである。

このような事業の他に、ルクレツィアがフェラーラで力を入れていたことは信仰生活であった。1515年から1518年の間に建てられたコルソ・ジョヴェッカに位置する宮廷は、ルクレツィア個人が信仰生活を全うするための別荘でもあった。また彼女の周りには、修道士がいたことなどから、彼女の宮廷は修道院のようであったと評する声もある。つまり、ルクレツィアのフェラーラ時代を特徴づけていたのは、信仰心と企業精神であったと言えよう 8)Diane Yvonne Ghirardo, “Lucrezia Borgia as Entrepreneur”, Renaissance Quarterly, 61. 2008, pp. 53-91.

以上のように、研究史上の見解から見るルクレツィアの像は、フェラーラに嫁いでからに限定されるものの、ドニゼッティの本作とは異なるものである。よく、父や兄に翻弄された前半生と比べて、フェラーラでの後半生は不倫の恋を楽しみながらも穏やかなものであったと評されることの多いルクレツィアであるが、妊娠と出産を繰り返しながらも、夫の財力に頼ることなく、所領管理する姿は一人の君主のようである。さらなる研究の進化によって、新たなルクレツィア像が生まれることであろう。

ルネサンス期のファションアイコン

ルクレツィア・ボルジアは、いわゆるファッション・アイコンであった。父教皇の死によるボルジア家の凋落にも関わらず、生涯を通じて当時の宮廷の中心にいたルクレツィアは、常に人びとの目を惹きつけていた。その容貌は、ほっそりとした体つきに豊かな金髪、イタリア語やスペイン語に加えラテン語やギリシア語の教養を身につけ、ダンスを得意としていた彼女は、当時の人びとにとっても大変魅力的に映ったようである。そんなルクレツィアの衣装の華やかさを語る2つのエピソードをここでは紹介する。

豪華な行列

ルクレツィアは、1499年8月、父教皇によってスポレート統治官任命され、ローマからスポレートへと旅立った。

スポレートのアルボルノツィアーナ城塞と城塞内の教皇の間。この城塞にルクレツィアは滞在した。

その出発の模様を、教皇庁の式部官ブルカルド(1445?1450-1506年)が詳細に記録している。このブルカルドは、役人として5人の教皇に仕え、1483年から1506年に至るまで日記を残している。教皇庁の内情を細やかにラテン語で描いたブルカルドの日記は、イタリア語ばかりか、英語にも訳されたために、多くの物語の素材となった。しかし、シニカルでフラットな筆致ながらもブルカルドが重視したのは、教皇庁の儀礼・典礼の記述であった。そんなブルカルドによって、ルクレツィアは次のように描かれている。

8月8日木曜日、猊下〔=教皇アレクサンデル6世〕のご令嬢ルクレツィア・ボルジア・ダラゴーナは、スポレートへ向かうためにポポロ門からローマを離れられた。その統治官の職を、聖下によって託されたのであった。彼女と一緒に、その左には、弟君であるスキラーチェ公ホフレ・ボルジア・ダラゴーナもいた。広場の上の開廊から、教皇は、荷物を積んだ多くの動物が続いた行列を眺めておられた。サン・ピエトロ大聖堂の階段まで自ら来られたルクレツィアと弟君は、馬あるいはラバに乗り、帽子を脱いで教皇の方を向いた。そして最後に恭しく、改めて許可を求めるために頭を下げた。猊下は、窓から、三回、神のご加護を願った:そのようにしてご子息は旅立たれた。

 

彼らの前には、教皇庁の護衛の兵と都市の統治官が、整然と並んで先に進んでいた。敷き藁とマットレスを乗せたラバ、花模様が施された毛布、白いダマスクス織の二つの枕、そして美しい移動天蓋。これらを、乗馬に疲れたルクレツィアが横になる時は、何人かの者で担ぐのであった。また別のラバは、鞍を乗せ、そこには背もたれと足台も付いた高座が固定されており、絹で覆いがされ豪華に装飾がなされていた:望む時にルクレツィアが快適に座れるように。

 

サン・ピエトロ広場からサンタンジェロ門まで、ルクレツィアの右には、ナポリ王の大使が付き従っていた;その後、その都市の統治官が付き従った。二人にそれぞれ高位聖職者が続き、その後群衆も続いた:猊下に賞賛と栄光があらんことを! 9)Alla corte di cinque Papi: Diario 1483-1506 di Giovanni Burcardo, a cura di L. Bianchi, Milano, 1988, p. 300.

1499年8月8日にローマを出発した一行は、ナルニ、フラミニア、サンジェミニ、カルソーリ、ポルカリアを6日間かけて進み、8月15日にスポレートに到着する。特筆すべきは、数日間の移動の際にもルクレツィアが快適に過ごせるよう、花模様の毛布にダマスクス織の枕、そして美しい天蓋と贅と尽くした装備がなされたということであった。ローマからスポレートへと至る間に通過した各地方都市の人々は、この豪華で優雅な行列を目にしたはずである。残念ながら、ルクレツィアの衣装についてまでの記述は確認できなかったが、まさに視覚に訴える教皇の娘の威光であったと言えよう。

「あの女(ひと)の着ているものが知りたい」

フェラーラに嫁いでからのルクレツィアは、宮廷に一流の人文主義者や芸術家を招いた。その中心にいたルクレツィアのファッションは、フェラーラに訪れる人びとの関心の的であったようである。ルクレツィアの義姉であるマントヴァ候夫人イザベッラ・デステ(1474-1539年)も、大使などを通じてルクレツィアの衣装について逐一情報を得ようとしていた。なお、このイザベッラ自身も、レオナルド・ダ・ヴィンチといった芸術家と交流し、マントヴァの宮廷を芸術の一大拠点にしようとしたルネサンスの女性であった。

ティツィアーノ作『イザベラ・デステの肖像』(1534年 – 1536年頃)

ここでは、ルクレツィアのフェラーラ時代を物語る2つの史料を紹介しよう。まず、前述のブルカルドの日記には、ルクレツィアに送られた数々の宝飾品について記述されている。ルクレツィアがローマを離れフェラーラに向けて出発したのは、1502年1月6日、フェラーラに到着したのは2月2日であるが、その前の1501年12月30日、ヴァチカンにてパーリオ(競馬レース)が催された。この催しの場で、未来の夫アルフォンソの弟である枢機卿イッポリート・デステ(1479-1520年)とシジスモンド・デステ(1480-1524年)は、花婿の名でルクレツィアへ宝飾品を送った。まず、ルクレツィアに金の指輪がつけられた後、ダイヤモンド、ルビー、エメラルド、トルコ石の4つの指輪が送られた。さらに、15のダイヤモンドと15のルビー、40の真珠がついた帽子、細やかな細工のネックレス、高価な石のついた4つのネックレス、真珠のついた大きな4つのネックレス、ダイヤモンドなどの宝石のついた煌びやかな4つ十字架など。そのうちの一つがルクレツィアの首にかけられた。ブルカルドによると、これらの価値は8000ドゥカートにものぼるとのことであった。花婿の家から花嫁への贈り物は、ブルカルドが詳細に記録していることからも、公衆の場で、しかも人が大勢集まった催し物の場で行われ、それは嫁ぎ先のエステ家の財力を見せつけるものでもあった 10)Alla corte di cinque Papi: Diario 1483-1506 di Giovanni Burcardo, a cura di L. Bianchi, Milano, 1988, pp. 366-367.

また、フェラーラへのルクレツィアの嫁入り道具の数々を記載した目録が、モデナ国立図書館に所蔵されているという。そこには、衣装をはじめとして、銀食器、布類、小物類が事細かに記載されており、中でも黒や薄緑がかった灰色、深紅などのゴンネッラ11)ゴンネッラ(gonnella):当時の上流階級の女性が着た袖付きのゆったりした服。は56着にものぼる12)伊藤亜紀『青を着る人びと』東信堂、2016年、133-140頁。藤内哲也編著『はじめて学ぶイタリアの歴史と文化』ミネルヴァ書房、2015年、266-284頁。

以上ルクレツィアの宝飾品と衣装を見てきたが、ルクレツィアの持参したゴンネッラは特に黒といった暗い色が多かったようである。贈り物の高価な宝飾品が普段使いのものであったのか、それとも保存用・式典用であったのかは定かではないが、仮に、シックな色の衣装にダイヤモンドや真珠の白っぽい煌びやかな宝飾品が合わせられたとしたら、そのコントラストはこの上なく美しいコントラストとして人々の目に映ったはずである。残念ながら、同時代の貴族女性に比べて、確実にルクレツィアとされる肖像は極めて少ない。彼女の容貌やセンスは、当時の文字史料から想像することしかできないが、極めて洗練されたその佇まいは、女性たちからも憧れていたことが考えられるであろう。

参考文献

ルクレツィアが登場する小説・エッセイ

  • アレクサンドル・デュマ著、田房直子『ボルジア家』作品社、2016年。
  • 塩野七生『ルネサンスの女たち『ルネサンスの女たち』(中央公論社、1969年/中公文庫、1973年、 1996年(改版) /新潮文庫、2012年)。
  • 中田耕『ルクレツィア・ボルジア (上) (下)』集英社、1984年。
  • Dario Fo13)ダリオ・フォ(1926-2016年):イタリアのノーベル文学賞(1997年)作家。英訳版のタイトルはThe Pope’s Daughter, La Figlia del Papa, Milano, 2014.

映像作品

  • 『ボルジア家の毒薬』(原題:Lucrèce Borgia)(フランス、イタリア、1953年)。
  • 『ボルジア家 愛と欲望の教皇一族』(season 1-3)(原題:The Borgias)(アメリカ、2011-2013年)。
  • 『ボルジア 欲望の系譜』(season 1-3)(原題:Borgia)(フランス、ドイツ)(2011-2014年)。

漫画

  • 川原泉『バビロンまで何マイル?』白泉社、1991年。
  • 惣領冬実『チェーザレ:破壊の創造者』講談社、2005年〜(現在11巻まで刊行中)。
  • 氷栗優『カンタレラ』秋田書店、2001-2010年(全12巻)。

研究文献

  • Alla corte di cinque Papi: Diario 1483-1506 di Giovanni Burcardo, a cura di L. Bianchi, Milano, 1988.
  • LUCREZIA Borgia, duchessa di Ferrara, Dizionario Biografico degli Italiani, vol. 66 (2006) a cura di Raffaele Tamalio.(http://www.treccani.it/enciclopedia/lucrezia-borgia/)
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  • Gregorovius, Lucrezia Borgia, according to original documents and correspondence of her day, New York, 1903.
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  • Shaw, ‘Alexander VI, Cesare Borgia and the Orsini’, in: European Studies Review, 11, 1981, pp.1-23.
  • Zarri, “Il Rinascimento di Lucrezia Borgia”, in Scienza & Politica, 37, 2007, pp. 63-75.
  • 伊藤亜紀『青を着る人びと』東信堂、2016年。
  • 藤内哲也編著『はじめて学ぶイタリアの歴史と文化』ミネルヴァ書房、2015年。
  • ピエトロ・ベンボ、仲谷満寿美訳『アゾーロの談論』ありな書房、2013年。

Notes   [ + ]

1. ボルジア家とオルシーニ家:1492年、ボルジア家出身の枢機卿ロドリーゴ・ボルジアが教皇アレクサンデル6世として即位した。アレクサンデル6世は、親族を重職につけ、政敵を排除するなど、一族の基盤を固めるために政治的手腕をふるった。オルシーニ家もボルジア家の宿敵となっていたローマの領主貴族(Barone)であり、彼らの争いは、都市ローマのみならず、地方の党派や有力者とも結びつき、規模を拡大していった。アレクサンデル6世は、1500年のリミニでの戦いにおいて、その息子チェーザレ・ボルジアを派遣し、侵攻した。オルシーニはこの戦いの記憶をここでは語っていると考えられる。
2. フェラーラ公アルフォンソ・デステ:実際には、ルクレツィアの3番目の夫で最後の夫。1番目の夫は、ミラノのスフォルツァ家と親族関係にあったペーザロの領主ジョヴァンニ・スフォルツァであった。1493年に執り行われたこの結婚は、その前年の1492年、ルクレツィアの父アレクサンデル6世の教皇選挙の時、ミラノのスフォルツァ家出身の枢機卿アスカニオ・スフォルツァの助力を得たため、スフォルツァ家と教皇が関係を深めるために取り決められたものであった。結婚当時、ルクレツィアはわずか13歳の少女であった。その後、この夫を「不能」と枢機卿会議で認定し、2人の婚姻を無効とした教皇は、ナポリと同盟関係を結ぶために、2番目の夫をナポリから迎えることにした。1498年、ナポリ王の庶子アルフォンソ・ダラゴーナとルクレツィアの結婚式が執り行われ、年の近かった二人は仲睦まじい結婚生活を送っていた。ところが、その幸せは長く続かず、アルフォンソは、1500年何者かによって暗殺された。アルフォンソの死に嘆き悲しんだルクレツィアであったが、悲しみに沈む間もなく、教皇の娘として、次の夫を迎える必要があった。こうして1502年にフェラーラのエステ家の嫡出子アルフォンソ・デステと結婚し、後にルクレツィアはフェラーラ公妃となる。
3. オルギア:古代ギリシアにおいて、特に豊穣とブドウ酒の神であるディオニュソス(バッカス)を讃える熱狂的な儀礼の形態。英語の「どんちゃん騒ぎ(orgy)」はこのオルギアに由来している。
4. 詠唱(aria)と叙唱(recitative)の中間のようなもの。
5. カバレッタ:オペラのアリアまたは二重唱の一種。カバティーナの後で歌われるテンポの速い活発な曲。
6. 父教皇アレクサンデル6世の崩御(1503年):ルクレツィアがフェラーラに嫁いだ翌年の8月、父である教皇が崩御した。これを機に、兄である教皇軍総司令官チェーザレ・ボルジアも敗戦を重ね、ボルジア家は没落の一途をたどった。ところが、すでにフェラーラに嫁いでいたルクレツィアの名声は衰えることなく、ルクレツィアは夫のもとで安定した後半生を送ることができた。このボルジア家の衰退という悲劇に悲しむルクレツィアを慰めたのが、当時フェラーラの宮廷に滞在していたヴェネツィア出身の枢機卿ピエトロ・ベンボである。ベンボとルクレツィアは、生涯書簡を通じて交流した。
7. Roma di Fronte all’Europe al Tempo di AlessandroVI, vol. 1-3, a cura di M. Chaibo, S. Maddalo e A. M. Oliva, Roma, 2001.
8. Diane Yvonne Ghirardo, “Lucrezia Borgia as Entrepreneur”, Renaissance Quarterly, 61. 2008, pp. 53-91.
9. Alla corte di cinque Papi: Diario 1483-1506 di Giovanni Burcardo, a cura di L. Bianchi, Milano, 1988, p. 300.
10. Alla corte di cinque Papi: Diario 1483-1506 di Giovanni Burcardo, a cura di L. Bianchi, Milano, 1988, pp. 366-367.
11. ゴンネッラ(gonnella):当時の上流階級の女性が着た袖付きのゆったりした服。
12. 伊藤亜紀『青を着る人びと』東信堂、2016年、133-140頁。藤内哲也編著『はじめて学ぶイタリアの歴史と文化』ミネルヴァ書房、2015年、266-284頁。
13. ダリオ・フォ(1926-2016年):イタリアのノーベル文学賞(1997年)作家。英訳版のタイトルはThe Pope’s Daughter

ジョアキーノ・ロッシーニ

ジョアッキーノ・ロッシーニ(Rossini, Gioachino (Antonio))b 1792年2月29日教皇領ペーザロ;d 1868年11月13日フランス帝国パリ。19世紀前半に活躍し、ベッリーニやドニゼッティといった同時代の人々からも賞賛を得たイタリアの作曲家。イタリアのオペラ作曲家ヴェルディが、19世紀後半になって活躍するようになるまで、ロッシーニはイタリアのオペラの第一人者とされていた。

ニコロ・パガニーニ

ニコロ・パガニーニ(Niccolò Paganini):生:1782年10月27日(ジェノヴァ共和国 (現在のイタリア共和国のジェノヴァ))/没 : 1840年5月27日(サルデーニャ王国領ニッツァ(現在のフランス共和国ニース))。イタリアのヴァイオリニスト・作曲家。彼の優れた技能は、ヴァイオリンの歴史に貢献したとともに、同時代のロマン派の音楽家たちにも大きな影響を与えた。

ジョージ・ガーシュウィン

ガーシュウィン

生 : ブルックリン、ニューヨーク(Brooklyn, NY)、1898年9月26日/没 : ハリウッド、カリフォルニア(Hollywood, CA)、1937年7月11日)

ジョージ・ガーシュウィン(Gershwin, George)はアメリカの作曲者、ピアニスト、指揮者。本名、ジェイコブ・ガーショヴィッツ(Jacob Gershowitz)。ブロードウェイの作曲家としての地位を確立し、クラシックとジャズの垣根を越えた音楽を次々と生み出した。代表作に『ラプソディー・イン・ブルー』、『パリのアメリカ人』、『ポーギーとベス』などがある。

生涯 | Biography

少年時代

1890年代、ガーシュウィンの両親モイシュ・ゲルショヴィッツ(Moshe Gershovitz)とローズ・ブルスキン(Rose Bruskin)は、ロシアからアメリカへ移民としてニューヨークに居を構えた1)アメリカへの移民:19世紀半ばから第一次世界大戦期にかけてヨーロッパ諸国から北米・南米への海外移住が最盛期を迎えた。その背景として、ヨーロッパ諸国側のプッシュ要因とアメリカ大陸側の受け入れ要因がある。まずヨーロッパ諸国では、産業革命の結果、海外貿易・投資が活性化され、海外移住に関する諸制限が撤廃されていった。一方、独立を勝ち取った北米・南米の植民地国においては、未開拓地の発展のために人材が必要とされたため、移住者に対する経済的補助・便宜が準備された。こうしてイギリス、イタリア、オーストリア、ハンガリー、旧チェコスロバキア、スペイン、ポルトガル、ドイツ、そしてガーシュウィンの両親の出身地帝政ロシアなどから多くの人々が新天地に渡った。ところが、1910年前後に最高潮に達した海外移住は、第一次世界大戦、世界恐慌以降、減少していくこととなる。特にアメリカでは、1921年・1924年の移民法によって、年間移民数が制限されることとなった。。1910年、両親は、作詞を得意とする兄アイラ3)兄アイラ・ガーシュウィン:1896年生まれ。弟ジョージと組み、作詞家として数々の名曲を生み出した。アイラは次のようなコメントを残している:「私の歌詞のほとんどは、すでに出来上がった音楽にモザイク細工のようにつなげられていくために、生きているのか死んでいるのか(も分からない)。(中略)極めて奇妙なものになっているのである。」。アイラは、ジョージの急逝(1937)後も他の作曲家と組み活動を続けた。1983年86歳で死去。へピアノを買い与えたが、このピアノによって、それまで音楽に興味を示すことのなかったガーシュウィンの才能が開花した。ガーシュウィンは瞬く間に近所の音楽教師から知識を吸収していき、1912年頃にはチャールズ・ハンビッツァー(Charles Hambitzer)の弟子となった。1914年、ガーシュウィンは、高校を退学し、週15ドルの給料で、ティン・パン・アレイ(Tin Pan Alley) 2)ティン・パン・アレイ:19世紀末から発展していったニューヨーク市の楽譜出版社や楽器商が集まっていた地区を指す。ニューヨーク市マンハッタンのフラワーディストリクトの5番街と6番街の間西28丁目に位置する。この名は、常に音楽が鳴り響いていたため、鉄鍋を叩いているかのような賑やかさであったことに由来する。のジェローム・ホスメル・レミック(Jerome H. Remick)4)ジェローム・ホスメル・レミック(Jerome Hosmer Remick): 1867年デトロイト生まれの楽譜出版経営者、慈善家。1931年没。のもとでソング・プラガー(song pluger)5)またはソング・デモストレーター(song demonstrator):20世紀初頭より活動するようになった、百貨店や音楽出版社と契約を結び、新曲を演奏したり歌ったりしてプロモートする歌手やピアニストのこと。蓄音機やレコードが高価な当時、新譜を再生することができる歌手・演奏者は重要な存在であった。として働き始めた。またガーシュウィンは、歌の伴奏者としての演奏のスキルを磨くうちに、作曲も手がけるようになった。ついに、ガーシュウィンは、ティン・パン・アレイから、ニューヨーク市のショービジネスの中心地ブロードウェイへ6)ブロードウェイ(Broad Way):ニューヨーク市マンハッタン島を南北に走る大通り。この大通りと7番街との交差点にあたるタイムズスクエア(Times Square)周辺は演劇・映画会社が集中し、アメリカの演劇界の意味でもブロードウェイという言葉が使われる。またここには当時、アメリカの代表的な新聞社ニューヨークタイムズ社のビルがあった。と活躍の場を移した。

兄アイラとジョージ・ガーシュウィン

「ラプソディー・イン・ブルー」の誕生

1917年3月、ガーシュウィンは、レミックの会社を離れ、6月までには、『ミス 1917』(Miss 1917)(ケルン(Kern) とヴィクター・ハーバート(Victor Herbert)による軽喜劇)のリハーサルを担当するピアニストを務めるようになった。同年の11月にショーがセンチュリーシアターで始まると、ガーシュウィンは主催者兼伴奏者となり、その年のうちに、ブロードウェイではガーシュウィンの曲が3曲も使用された。間もなくして、ガーシュウィンは、初のブロードウェイ総譜・付帯音楽となる『ラ・ラ・ルシール』(La La Lucille)を完成させ、1919年5月26日に封切られた。こうして、ブロードウェイのピアニストとしてのガーシュウィンの快進撃が始まった。この時彼は弱冠21歳であった。翌1920年、歌手アル・ジョルソン(Al Jolson)によって録音された『スワニー』(Swanee)はその年だけで10,000ドルを売り上げた。またプロデューサーのジョージ・ホワイト(George White)7)ジョージ・ホワイト(George White):1891年生まれ。俳優、ダンサー、作曲者、劇場のオーナーなどとしても名を馳せた多彩なアメリカの映画プロデューサー。代表作は『ジョージ・ホワイトのスキャンダル』(George White’s Scandals )(1934, 1935, 1945)。1968年ハリウッドにて死去。との契約(1920年から1924年まで)のもと、ブロードウェイレビューの年刊誌のために、ガーシュウィンは、『Lady Be Good!』(レディ・ビー・グッド) (1924)を作曲し、この曲も大ヒットを記録した。

作曲中のガーシュウィン

1924年、すでに作曲によって有名になっていたガーシュウィンは、ポール・ホワイトマン(Paul Whiteman)が主宰するコンサートのために、ピアノとオーケストラのための楽曲『ラプソディー・イン・ブルー』(Rhapsody in Blue)(1924)をピアニストとして作曲する。このジャズ8)ジャズ(Jazz):19世紀末から20世紀にかけて、アメリカの黒人の民族音楽と白人の音楽の融合によって、ルイジアナ州ニュー・オーリンズのブラスバンドから生まれた。またオフビート(アフタービート)のリズムによるスウィング感や即興演奏といった特徴を持つ。をコンサートホールに持ち込んだ記念碑的作品である『ラプソディー・イン・ブルー』は、「現代音楽におけるとある試み」(An Experiment in Modern Music)と題されたコンサート(1924年2月12日 於ニューヨークのエオリアン・ホール(Aeolian Hall))にて初演されることとなる。また、このコンサートには、当時ソビエト社会主義共和国連邦9)ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連):1917年、二月革命により帝政ロシアが終焉した後、十月革命によって建国された世界初の社会主義国家。首都モスクワ。当時、ラフマニノフの他、作曲家プロコフィエフなどのロシアの知識人たちがアメリカへ亡命した。1991年解体。から亡命していた音楽家ラフマニノフをはじめとする著名人が来場していた。

以上のようにショービジネスで成功を収めたガーシュウィンであったが、クラッシックに対する熱意を持ち続け、弦楽四重奏『ララバイ』(Lullaby)(1919)、オペラ『ブルー・マンデー』(Blue Monday)(1922)を作曲した。

1930年代のブロードウェイ

富と名声と

ガーシュウィンは、1920年代のニューヨークで富と名声を手に入れた。一例を挙げるとすると、彼個人には、1924年から1934年の10年間で、『ラプソディー・イン・ブルー』の録音・使用料のみで、年間25万ドルの収益があったとされる。1920年代半ばより、ガーシュウィンは、視覚芸術や絵画、彫刻、印刷物やデッサンに興味を示し始め、彼自身も絵筆を手に取るようになる。また彼は、ニューヨークの演劇界・文学界のサロンにも出入りするようになり、そのパーティーは彼のピアノによって幕を開けることも多かった。

『ラプソディー・イン・ブルー』の成功以降も、ガーシュウィンはショービジネスのためのスコアを書き続けたものの、クラシックの基本に倣ったコンサート音楽も精力的に作曲した。1925年の夏、彼は『ピアノ協奏曲ヘ長調』(The Concerto in F for piano and orchestra)の作曲に専念し、1926年12月にはピアノのための『三つの前奏曲』(The Preludes for Piano)を完成させた。そして、1928年、ガーシュウィンは、3月半ばから6月までヨーロッパを旅行し、そこからインスピレーションを得て『パリのアメリカ人』(An American in Paris)を作曲した。この欧州旅行中に、ガーシュウィンは、プロコフィエフ、プーランク、ラヴェル、ウォールトン、ベルグといった音楽家たちの歓待を受け、フランスの音楽家たちによって『ラプソディー・イン・ブルー』と『ピアノ協奏曲ヘ長調』が演奏された。また1929年頃のインタービューでガーシュウィンは次のように答えている:「おきまりのハーモニー、リズム、反復進行、インターバル、これらは私の耳を満足させることはない。私は、満足のいくまでこれらを取り巻くものを変えることに没頭したい。」ガーシュウィンが新大陸アメリカで生み出した20世紀の音楽は、クラシック音楽の中心地であるヨーロッパにも届いていたのであった。

CDジャケット

1929年夏、ガーシュウィンは、ニューヨークのルウィーソン・スタジアム(Lewisohn Stadium)の屋外コンサートにて指揮者としてデビューした。その年の10月10)1929年10月世界大恐慌:1929年10月、ウォール街の株式市場が大暴落し、第一次世界大戦後の好景気に沸いていたアメリカのみならず、世界中の都市に影響を与えた恐慌。この恐慌は、経済や産業に影響を与えたのみならず、1930年代のヨーロッパの政治情勢にまで爪痕を残すこととなる。、シュロイメ・アンスキー(Shloime Ansky)11)シュロイメ・アンスキー(Shloime Ansky):1863年ベラルーシの都市ヴィチェプスク生まれのイディッシュ語作家・劇作家・民俗学者。ナロードニキ(narodniki)としてロシアのユダヤ系市民のために社会主義活動を行った。1920年死去。の戯曲『ディブック』(The Dybbuk)のために作曲するという契約をメトロポリタン・オペラ(Metropolitan Opera)と結んだものの、その契約は履行されなかった。

1929年10月以降、アメリカ社会は不況に沈んだものの、ガーシュウィンは、『ストライク・アップ・ザ・バンド』(Strike up the Band) (1927; rev. 1930)、『ガール・クレイジー』(Girl Crazy)(1930)、『オブ・ジー・アイ・シング』(Of Thee I Sing)(1931)といったミュージカルの作曲で成功を収めつつ、コンサートツアーも続けた。1934年から35年にかけて、CBS12)CBS(Columbia Broadcasting System):1927年設立のアメリカの放送会社。NBC、ABC、FOXと並ぶアメリカの4大ラジオ会社。によるラジオ番組「ガーシュウィンによる音楽」(Music by Gershwin)でホストを務め、自らも演奏した。このことは、これまで劇場でしか味わうことができなかった音楽が、ラジオ波を介して、劇場の外の大勢の人々も共有できるものになったということを意味する。また1936年6月、ガーシュウィンと兄アイラは、RKO映画会社と契約を結び、8月までにはハリウッドに拠点を移した。そこでは、『躍らん哉』(Shall we Dance?)(1937)、『踊る騎士』(A Damsel in Distress) (1937)、『ゴールドウィン・フォーリーズ』(The Goldwyn Follies) (1938)といった作品に曲を提供し好評を博した。

ヒット曲を出しつつもガーシュウィンは、作曲法を勉強し続けた。1932年から36年までヨーゼフ・シリンガー(Joseph Schillinger)に師事したガーシュウィンは、『キューバ序曲』(Cuban Overture)(1932)、『アイ・ガット・リズム』(I got rhythm)(1934)、そして最高傑作と称されるオペラ『ポーギーとベス』(Porgy and Bess) (1935)を作曲した。ニューヨークのギルド劇場(Theatre Guild)との契約(1933年10月)のもと着手されたこの曲は、1934年夏のガーシュウィン自身のサースカロライナ滞在中に受けた現地での経験が多いに生かされている。1935年初めに完成されたこの曲はニューヨークで絶賛された。また、本曲中のアリア『サマータイム』(Summer Time)は、現代に至るまで幅広いジャンルの音楽家によってカバーされている。

ポーギーとベスの楽譜

1937年前半、演奏と作況を続けながらも、ガーシュウィンは断続的な気鬱に悩まされていた。6月9日、突然昏睡状態に陥ったガーシュウィンは脳腫瘍と診断され、緊急手術を受けたが、6月11日の朝、38歳で永遠の眠りについた。その4日後、ニューヨークとハリウッドでの追悼式の後に、マウントホープ共同墓地(Mount Hope Cemetery)に埋葬された。

作品一覧 | Works

オーケストラ

  • 『ラプソディー・イン・ブルー』(Rhapsody in Blue)(1924):ピアノと管弦楽のための曲。典型的なアメリカ芸術を象徴するものとして現在に至るまで親しまれている。もとは『アメリカン・ラプソディー』(American Rhapsody)という題名であったが、兄アイラの発案で変更された。クラリネットの低音から高音へのグリッサンドによって始まる全体的に軽快で明るい曲調は、この曲が作曲された当時の好景気に沸くアメリカ社会を反映しているといえよう。
  • 『ピアノ協奏曲ヘ長調』(Concerto in F)(1925)
  • 『パリのアメリカ人』(An American in Paris)(1928)
  • 『ラプソディ第2番』(Second Rhapsody for Piano and Orchestra)(1931)
  • 『キューバ序曲』(Cuban Overture)(1932)
  • 『アイ・ガット・リズム』(I got Rhythm)(1934)
  • 交響組曲『キャットフィッシュ・ロウ』(なまず横丁・Catfish Row)(1935):オペラ『ポーギーとベス』をオーケストラ用に編曲したもの

室内楽

  • 『子守唄』(Lullaby) (1919–20)
  • 『ショート ストーリー』(Short Story)(1925) :ピアノとヴァイオリンのための曲

ピアノソロ曲

  • 『リアルトのさざ波』(Rialto Ripples)(1916)
  • 『3つの前奏曲』(The Preludes for Piano)(1926):曲名のとおり、テンポの良い第1楽章『アレグロ・ベン・リトマート・エ・デチーゾ』(Allegro ben ritmato e deciso)(変ロ長調)、ゆったりと気だるげな第2楽章『アンダンテ・コン・モート・エ・ポコ・ルバート』(Andante con moto e poco rubato)(嬰ハ短調)、テンポを取り戻し小気味よく展開する第3楽章『アレグロ・ベン・リトマート・エ・デチーゾ』(Allegro ben ritmato e deciso)(変ホ長調)によって構成される。
  •   『2つの調のための即興曲』(Impromptu in 2 Keys)(1924)
  •   『スイス・ミス』(Swiss Miss)(1926)
  •   『メリー・アンドリュー』(Merry Andrew)(1928)
  •   『ジョージ・ガーシュウィンのソング・ブック』(George Gershwin’s Song-Book)(1932)
  •   『2つのワルツ』(2 Waltzes) (1933)
  •   『プロムナード』(Promenade)(1937)

オペラ

  • 『135番街』(135th Street)(1923)
  • 『ポーギーとベス』(Porgy and Bess)(1935):サースカロライナ州のチャールストンに住む黒人について書かれたデュボーズ・ヘイワード(DuBose Heyward)の小説『ポーギー』(Porgy)に影響を受けて書かれた曲。全3幕9場のオペラ。アリア『サマータイム』も含まれる。

映画音楽

  • 『ザ・サンシャイン・トレイル』(The Sunshine Trail)(1923) : 監督トーマス・H・インス(Thomas H.Ince)
  • 『デリシャス』(Delicious)(1931): 監督デイヴィット・バトラー、製作会社FOX 。劇中歌『ブラ・ブラ・ブラ』(Blah, blah, blah)、『デリシャス』(Delicious)、(Katinkitschka)、『サムバディ・フロム・サムウェア』(Somebody from Somewhere)。
  • 『踊らん哉』(Shall We Dance)(1937): 製作会社RKOラジオ。劇中歌『ビギナーズラック』((I’ve got) Beginner’s Luck)『レッツ・コール・ザ・ホール・スィング・オフ』(Let’s call the whole thing off)、『踊らん哉』(Shall We Dance)、『スラップ ザット バス』(Slap that bass)、『ゼイ・オール・ラフト』(They all laughed)『ゼイ・キャント・テイク・ザット・アウェイ・フロム・ミー』(They can’t take that away from me)。
  • 『踊る騎士』(A Damsel In Distress)(1937):監督ジョージ・スティーヴンス、製作会社RKOラジオ。劇中歌『ア・フォギー・デイ』(A Foggy Day)、『アイ・キャント・ビー・ボーダード・ナウ』(I can’t be bothered now)、『ザ・ジョリー・タール・アンド・ザ・ミルク・メイド』(The Jolly Tar and the Milk Maid: ガーシュウィンがコーラスとソロの歌を提供)、『ナイス・ウォーク・イフ・ユー・キャン・ゲット・イット』(Nice work if you can get it)、『シング・オブ・スプリング』(Sing of Spring:ガーシュウィンによるコーラスアレンジ)。
  • 『華麗なるミュージカル』(The Goldwyn Follies)(1938):製作中にガーシュウィンの死去。監督ジョージ・マーシャル。劇中歌『アイ・ラブ・トゥー・ライム』(I love to rhyme)、『アイ・ワズ・ドゥーイング・オール・ライト』(I was doing all right)、『ラブ・イズ・ヒア・トゥー・ステイ』(Love is here to stay:邦題『愛はここに』。この曲を書き上げた直後、ガーシュウィンは亡くなった)、『ラブ・ウォーキード・イン』(Love walked in)。
  • 『ザ・ショッキング・ミス・ピルグリム』(1946): 製作会社は20世紀フォックス。ガーシュウィンの歌を使用。劇中歌『アント・ユー・カインド・オブ・グラード・ウィー・ディド?』(Aren’t you kind of glad we did?)、『ザ・バック・ベイ・ポルカ』(The Back Bay Polka)、『チェンジング・マイ・チューン』(Changing my Tune)、『フォア・ユー、フォア・ミー、フォア・エヴァーモア』(For You, for Me, for Evermore)、『ワン・ツー・スリー』(One, two, three)。
  • 『キス・ミー、ストゥピッド』(Kiss me, stupid)(1964) : 劇中歌『オール・ザ・リブロング・デイ(アンド・ザ・ロング、ロング・ナイト)』(All the Livelong Day (and the Long, Long Night)、『アイム ポーチドエッグ』(I’m a poached egg)、『ソフィア』(Sophia)。

歌曲

オペラ、ミュージカルから独立したもの

  • 『シンス・アイ・ファウンド・ユー』(Since I found you(1913)
  • 『ホエン・ユー・ウォント・エム、ユー・キャント・ゲット・エム』(When you want’em, you can’t get ‘em)(1916)
  • 『ザ・リアル・アメリカン・フォーク・ソング』(The real American folk song)(1918):ミュージカル『レディース・ファースト』より
  • 『香港』(Hong Kong(1918):ミュージカル『8時半』より
  • 『ドーナッツ』(Doughnuts)(1919):ミュージカル『モリス・ジェストの深夜の騒ぎ』より
  • 『スワニー』(Swanee)(1919):『キャピトル・レヴュー』より
  • 『ヤンキー』(Yan-Kee(1920):ミュージカル『モリス・ジェストの深夜の騒ぎ』より
  • 『バックホーム』(Back home)(1920):ミュージカル『Dere Mable』より
  • 『サムワン』(Someone(1922):『巴里のアメリカ人』より
  • 『アクロス・ザ・シー』(Across the Sea)(1922)
  • 『サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー』(Someone To Watch Over Me)(1926):邦題「やさしい伴侶を」。ミュージカル『Oh, Kay!』より。兄アイラが作詞。オフビートで始まりルバート奏法に入っていく。
  • 『アイル・ビルド・ア・ステアウェイ・トゥ・パラダイス』(I’ll Build A Stairway To Paradise)(1928):ミュージカル『For Goodness Sake』より
  • 『アイ・ガッタ・リズム』(I got rhythm(1930):
  • 『バット・ノット・フォア・ミー』(But Not for Me (1930):兄アイラが作詞担当。オフビートで始まりルバート奏法に入っていく。
  • 『エムブレースアブル・ユー』(Embraceable You)(1930):兄アイラが作詞担当。オフビートで始まりルバート奏法に入っていく。
  • 『サマータイム』(Summer Time)(1935):オペラ『ポーギーとベス』のために作曲されたアリア。作詞はデュボーズ・ヘイワード(DuBose Heyward)。1936年にビリー・ホリデイが歌って以来、ジャズのスタンダードナンバーとして時代を超えて様々な場でカバーされている。一例を挙げると、1960年、モダンジャズのサックスプレーヤーであるジョン・コルトレーン(John Coltrane)がこの曲を歌い、『マイ・フェイバリット・シングス』(My favorite things) に収録した。
  • 『ジャスト・アナザー・ルンバ』(Just another rhumba(1938)

ミュージカル

  • 『8時半』(Half Past Eight)(1918)
  • 『1918年のヒッチー=クー『(Hitchy-Koo of 1918)(1918)
  • 『危険なメイド』(A Dangerous Maid(1921)
  • 『お願いだから』(For Goodness Sake(1922)
  • 『虹』(The Rainbow(1923)
  • 『プリムローズ』(Primrose(1924)
  • 『レディー・ビー・グッド』(Lady be Good)(1924):邦題「淑女よ善良なれ」。1924年12月1日初演
  • 『ティップ・トー』(Tip-toes)(1925)
  • 『トレジャー・ガール』(Treasure Girl)(1928)
  • 『ロザリー』(Rosalie)(1928)
  • 『ショー・ガール』(Show Girl)(1929)
  • 『ストライク・アップ・ザ・バンド』(Strike up the Band)(1930)
  • 『ガール・クレイジー』(Girl Crazy)(1930):ミュージカル『クレイジー・ガール』(Girl Crazyにおいてエセル・マーマン(Ethel Merman)13)エセル・マーマン(Ethel Merman): 1908年ニューヨーク市クイーンズ区アストリア地区生まれのアメリカの歌手・女優。「ブロードウェイの女王」と賞賛された。ゴールデングローブ賞主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)受賞(1953)。1984年76歳で没。が歌う『アイ・ガッタ・リズム』( I got rhythm)(1930)は、1930年代から1950年代にかけて、有名な歌手やピアニスト、ジャズミュージシャン、スウィングバンド、オーケストラによって広く演奏・録音された。ガーシュウィンから広まったその調和した枠組みは、ジャズの歴史において最も有名な32小節の構成(32-bar structure)14)32小節の構成(32-bar structure):8小節を1段落とし、その4つ分32小節で曲を構成、「Aメロ(8小節)→Aメロ(8小節)→Bメロ(8小節)→Aメロ(8小節)」の順に演奏。各パートが8小節に維持されてさえいればパートの内部はルバートでテンポを崩しても良いというもの。とされた:いわゆる「リズムの変化」(rhythm changes)である。
  • 『オブ・ジー・アイ・シング』(Of Thee I Sing(1931)
  • 『レットエム・イート・ケーク』(Let ‘em eat cake)(1933)
  • 『ショー・イズ・オン』(The Show is On)(1936)

ガーシュウィンの楽曲が使用されている作品

フィギュアスケートにおいて使用されたガーシュウィンの楽曲

  • 浅田真央(1990〜/日本):2012-13年SP使用曲『アイ・ガッタ・リズム』
  • 金妍兒(キム・ヨナ)(1990〜/大韓民国):2009-2010年フリー使用曲『ピアノ協奏曲ヘ長調』
  • キーラ・コルピ(1988〜/ フィンランド):2011-12年使用曲『アイ・ガッタ・リズム』

ガーシュウィンが生きた時代を知るための文献 | Further Readings

欧語文献

ガーシュウィンの生涯と作品

  • Grove A( Crawford, W. Schneider) [incl. further bibliography]
  • Goldberg: George Gershwin: a Study in American Music (New York, 1931, rev. and enlarged 2/1958)
  • Armitage, ed.:George Gershwin (New York, 1938; repr. 1995 with a new introduction by E. Jablonski)
  • Duke: ‘Gershwin, Shillinger and Dukelsky’, MQ, 33 (1947), 102–15
  • Ewen: A Journey to Greatness (New York, 1956; rev. and enlarged 2/1970/R as George Gershwin: his Journey to Greatness)
  • Armitage: George Gershwin: Man and Legend (New York, 1958/R)
  • Jablonskiand L.D. Stewart : The Gershwin Years (Garden City, NY, 1958, rev. 2/1973)
  • M. Schwartz: Gershwin: his Life and Music (Indianapolis, IN, 1973) [incl. catalogue of works and bibliography]
  • Jablonski: ‘Gershwin at 80: Observations, Discographical and Otherwise, on the 80th Anniversary of the Birth of George Gershwin, American Composer’, American Record Guide, 41 (1977–8), no.11, pp.6–12, 58 only; no.12, pp.8–12, 57–9
  • Jeambar: George Gershwin (Paris, 1982)
  • Jablonski: Gershwin: a Biography, Illustrated (New York, 1987)
  • Jablonski: Gershwin Remembered (Portland, OR, 1992)
  • Rosenberg: Fascinating Rhythm: the Collaboration of George and Ira Gershwin (New York, 1991)
  • Peyser: The Memory of All That (New York, 1993)

音楽史

  • Quarterly Journal of Current Acquisitions[Library of Congress], 4 (1946–7), 65–6; xi (1953–4), 15–26; xii (1954–5), 47 only; xiv (1956–7), 13 only; xvi (1958–9), 17 only; xvii (1959–60), 23–4; xviii (1960–61), 23 only; xix (1961–2), 22–3; xx (1962–3), 34–5, 60–61; Quarterly Journal of the Library of Congress, xxi (1963–4), 23–4, 45 only; xxiii (1965–6), 41, 44–5; xxv (1967–8), 53–5, 75, 78 only; xxvi (1968–9), 22, 37 only; xxvii (1969–70), 53, 77 only; xxviii (1970–71), 46, 67–8; xxix (1971–2), 49, 61, 64, 75 only; xxx (1972–3), 50 only; xxxi (1973–4), 32, 50, 57, 62–3 [reports on acquisitions by E.N. Waters and others]
  • C. Campbell: ‘Some Manuscripts of George Gershwin’, Manuscripts, 6 (1953–4), 66–75
  • C. Campbell: ‘The Musical Scores of George Gershwin’, Quarterly Journal of Current Acquisitions[Library of Congress], 11 (1953–4), 127–39
  • Bernstein: ‘Why Don’t You Run Upstairs and Write a Nice Gershwin Tune’, Atlantic Monthly, 195/4 (1955), 39–42; repr. in The Joy of Music (New York, 1959), 52–64
  • Keller: ‘Rhythm: Gershwin and Stravinsky’, Score and I.M.A. Magazine, no.20 (1957), 19–31
  • Levine: ‘Gershwin, Handy and the Blues’, Clavier, 9/7 (1970), 10–20
  • Crawford: ‘It ain’t Necessarily Soul: Gershwin’s Porgy and Bess as Symbol’, Yearbook for Inter-American Musical Research, 8 (1972), 17–38
  • Wilder: ‘George Gershwin (1898–1937)’, American Popular Song (New York, 1972), 121–62
  • Crawford: ‘Gershwin’s Reputation: a Note on Porgy and Bess’, MQ, 65 (1979), 257–64
  • D. Shirley: ‘Reconciliation on Catfish Row: Bess, Serena and the Short Score of Porgy and Bess’, Quarterly Journal of the Library of Congress, 38 (1980–81), 144–65
  • Starr: ‘Toward a Reevaluation of Gershwin’s Porgy and Bess’, American Music, 2/2 (1984), 25–37
  • E. Gilbert: ‘Gershwin’s Art of Counterpoint’, MQ, 70 (1984), 423–56
  • D. Shirley: ‘Scoring the Concerto in F: George Gershwin’s First Orchestration’, American Music, 3 (1985), 277–98
  • Wyatt: ‘The Seven Jazz Preludes of George Gershwin’, American Music, 7 (1989), 68–85
  • Alpert: The Life and Times of Porgy and Bess (New York, 1990)
  • Hamm: ‘A Blues for the Ages’, A Celebration of American Music, ed. R. Crawford, R.A. Lott and C.J. Oja (Ann Arbor, 1990), 346–55
  • Crawford: ‘George Gershwin’s “I Got Rhythm” (1930)’, America’s Musical Landscape (Berkeley, CA, 1993), 213–36
  • Nauert: ‘Theory and Practice in Porgy and Bess: the Gershwin-Schillinger Connection’, MQ, 78 (1994), 9–33
  • J. Oja: ‘Gershwin and American Modernists of the 1920s’, MQ, 78 (1994), 646–68
  • Forte: ‘Ballads of George Gershwin’, The American Popular Ballad of the Golden Era: 1924–1950(Princeton, NJ, 1995), 147–76
  • E. Gilbert: The Music of Gershwin (New Haven, CT, 1995)
  • Hamm: ‘Towards a New Reading of Gershwin’, Putting Popular Music in its Place (Cambridge and New York, 1995), 306–24
  • Block: ‘Porgy and Bess: Broadway Opera’, Enchanted Evenings: the Broadway Musical from Show Boat to Sondheim (New York and Oxford, 1997), 60–84, 328–9
  • Schiff: Gershwin: Rhapsody in Blue (New York, 1997)
  • Crawford: ‘Rethinking the Rhapsody’, ISAM News Letter, 28/1 (1998), 1–2, 15
  • J. Schneider, ed.:The Gershwin Style: New Looks at the Music of George Gershwin (New York, 1999)

邦語文献

  • 秋元英一『世界大恐慌 : 1929年に何がおこったか』講談社、2009年。
  • ダナ・R・ガバッチア著、一政(野村)史織訳『移民からみるアメリカ外交史 』白水社、2015年。
  • 菊地成孔、大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー : 東大ジャズ講義録』メディア総合研究所、2005年。
  • 北野圭介『ハリウッド100年史講義: 夢の工場から夢の王国へ』平凡社、2017年。
  • デイヴィッド・グッドマン著、長崎励朗訳『ラジオが夢見た市民社会 : アメリカン・デモクラシーの栄光と挫折』岩波書店、2018年。
  • ポール・クレシュ著、鈴木晶訳『アメリカン・ラプソディ : ガーシュインの生涯』、晶文社、1989年。
  • ポール・クローデル著、宇京頼三訳『大恐慌のアメリカ : ポール・クローデル外交書簡1927-1932』法政大学出版界、2011年。
  • 笹田直人、野田研一、山里勝己編著『アメリカ文化55のキーワード』ミネルヴァ書房、2013年。
  • ジョルジュ・サドゥール著、丸尾定訳『ハリウッドの確立1919-1929』国書刊行会、1999年。
  • ジョン・F・スウェッド著、諸岡敏行訳『ジャズ・ヒストリー』青土社、2004年。
  • 末延芳晴『ラプソディ・イン・ブルー : ガーシュインとジャズ精神の行方』平凡社、2003年。
  • 杉野健太郎編著『映画とイデオロギー 』ミネルヴァ書房、2015年。
  • デーヴィッド・ ストウ著、湯川新訳『スウィング : ビッグバンドのジャズとアメリカの文化』法政大学出版局、1999年。
  • 田中正之編『ニューヨーク :錯乱する都市の夢と現実』竹林舎、2017年。
  • 塚田鉄也『ヨーロッパ統合正当化の論理 : 「アメリカ」と「移民」が果たした役割』ミネルヴァ書房、2013年。
  • 中野耕太郎『20世紀アメリカ国民秩序の形成』名古屋大学出版会、2015年。
  • 西山隆行『移民大国アメリカ』筑摩書房、2017年。
  • リチャード・ハドロック著、諸岡敏行訳『ジャズ1920年代 』草思社、1985年。
  • ジョーン・ペイザー著 、小藤隆志訳 『もうひとつのラプソディ : ガーシュインの光と影』青土社、1994年。
  • 前川玲子『亡命知識人たちのアメリカ』世界思想社、2014年。
  • 吉田広明『亡命者たちのハリウッド : 歴史と映画史の結節点 』作品社、2012年。
  • 和田光弘編著『大学で学ぶアメリカ史』ミネルヴァ書房、2014年。

参考文献 | Bibliography

  1. Oxford Music Online(https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.47026
  2. ピティナ・ピアノ曲編集部(https://enc.piano.or.jp/persons/4689
  3. 『日本第百科全書(ニッポニカ)』小学館

Notes   [ + ]

1. アメリカへの移民:19世紀半ばから第一次世界大戦期にかけてヨーロッパ諸国から北米・南米への海外移住が最盛期を迎えた。その背景として、ヨーロッパ諸国側のプッシュ要因とアメリカ大陸側の受け入れ要因がある。まずヨーロッパ諸国では、産業革命の結果、海外貿易・投資が活性化され、海外移住に関する諸制限が撤廃されていった。一方、独立を勝ち取った北米・南米の植民地国においては、未開拓地の発展のために人材が必要とされたため、移住者に対する経済的補助・便宜が準備された。こうしてイギリス、イタリア、オーストリア、ハンガリー、旧チェコスロバキア、スペイン、ポルトガル、ドイツ、そしてガーシュウィンの両親の出身地帝政ロシアなどから多くの人々が新天地に渡った。ところが、1910年前後に最高潮に達した海外移住は、第一次世界大戦、世界恐慌以降、減少していくこととなる。特にアメリカでは、1921年・1924年の移民法によって、年間移民数が制限されることとなった。
2. ティン・パン・アレイ:19世紀末から発展していったニューヨーク市の楽譜出版社や楽器商が集まっていた地区を指す。ニューヨーク市マンハッタンのフラワーディストリクトの5番街と6番街の間西28丁目に位置する。この名は、常に音楽が鳴り響いていたため、鉄鍋を叩いているかのような賑やかさであったことに由来する。
3. 兄アイラ・ガーシュウィン:1896年生まれ。弟ジョージと組み、作詞家として数々の名曲を生み出した。アイラは次のようなコメントを残している:「私の歌詞のほとんどは、すでに出来上がった音楽にモザイク細工のようにつなげられていくために、生きているのか死んでいるのか(も分からない)。(中略)極めて奇妙なものになっているのである。」。アイラは、ジョージの急逝(1937)後も他の作曲家と組み活動を続けた。1983年86歳で死去。
4. ジェローム・ホスメル・レミック(Jerome Hosmer Remick): 1867年デトロイト生まれの楽譜出版経営者、慈善家。1931年没。
5. またはソング・デモストレーター(song demonstrator):20世紀初頭より活動するようになった、百貨店や音楽出版社と契約を結び、新曲を演奏したり歌ったりしてプロモートする歌手やピアニストのこと。蓄音機やレコードが高価な当時、新譜を再生することができる歌手・演奏者は重要な存在であった。
6. ブロードウェイ(Broad Way):ニューヨーク市マンハッタン島を南北に走る大通り。この大通りと7番街との交差点にあたるタイムズスクエア(Times Square)周辺は演劇・映画会社が集中し、アメリカの演劇界の意味でもブロードウェイという言葉が使われる。またここには当時、アメリカの代表的な新聞社ニューヨークタイムズ社のビルがあった。
7. ジョージ・ホワイト(George White):1891年生まれ。俳優、ダンサー、作曲者、劇場のオーナーなどとしても名を馳せた多彩なアメリカの映画プロデューサー。代表作は『ジョージ・ホワイトのスキャンダル』(George White’s Scandals )(1934, 1935, 1945)。1968年ハリウッドにて死去。
8. ジャズ(Jazz):19世紀末から20世紀にかけて、アメリカの黒人の民族音楽と白人の音楽の融合によって、ルイジアナ州ニュー・オーリンズのブラスバンドから生まれた。またオフビート(アフタービート)のリズムによるスウィング感や即興演奏といった特徴を持つ。
9. ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連):1917年、二月革命により帝政ロシアが終焉した後、十月革命によって建国された世界初の社会主義国家。首都モスクワ。当時、ラフマニノフの他、作曲家プロコフィエフなどのロシアの知識人たちがアメリカへ亡命した。1991年解体。
10. 1929年10月世界大恐慌:1929年10月、ウォール街の株式市場が大暴落し、第一次世界大戦後の好景気に沸いていたアメリカのみならず、世界中の都市に影響を与えた恐慌。この恐慌は、経済や産業に影響を与えたのみならず、1930年代のヨーロッパの政治情勢にまで爪痕を残すこととなる。
11. シュロイメ・アンスキー(Shloime Ansky):1863年ベラルーシの都市ヴィチェプスク生まれのイディッシュ語作家・劇作家・民俗学者。ナロードニキ(narodniki)としてロシアのユダヤ系市民のために社会主義活動を行った。1920年死去。
12. CBS(Columbia Broadcasting System):1927年設立のアメリカの放送会社。NBC、ABC、FOXと並ぶアメリカの4大ラジオ会社。
13. エセル・マーマン(Ethel Merman): 1908年ニューヨーク市クイーンズ区アストリア地区生まれのアメリカの歌手・女優。「ブロードウェイの女王」と賞賛された。ゴールデングローブ賞主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)受賞(1953)。1984年76歳で没。
14. 32小節の構成(32-bar structure):8小節を1段落とし、その4つ分32小節で曲を構成、「Aメロ(8小節)→Aメロ(8小節)→Bメロ(8小節)→Aメロ(8小節)」の順に演奏。各パートが8小節に維持されてさえいればパートの内部はルバートでテンポを崩しても良いというもの。
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