ジョアッキーノ・ロッシーニ(Rossini, Gioachino (Antonio)):b 1792年2月29日教皇領ペーザロ;d 1868年11月13日フランス帝国パリ。19世紀前半に活躍し、ベッリーニやドニゼッティといった同時代の人々からも賞賛を得たイタリアの作曲家。イタリアのオペラ作曲家ヴェルディが、19世紀後半になって活躍するようになるまで、ロッシーニはイタリアのオペラの第一人者とされていた。
Contents
生涯 | Biography
1. 少年時代
1792年、ロッシーニは、ホルン奏者の父ジュゼッペ・アントニオ・ロッシーニ(Giuseppe Antonio Rossini)と同じく音楽家アンナの母の間に、マルケ地方の都市ペーザロにて誕生した。1801年、ロッシーニは、父によって、アカデミア・フィラルモニカ・ディ・ボローニャ(the Bologna Accademia Filarmonica)1)アカデミア・フィラルモニカ・ディ・ボローニャ(Accademia Filarmonica di Bologna):1666年に創設されたイタリアのボローニャにある音楽家による団体機関。1770年にはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが入会を認められている。1804年には、音楽学校が設立され、続いて音楽図書館も併設された。に入った。ロッシーニがペーザロで過ごした少年時代は、ナポレオンによるイタリア侵攻、粉のフランスを支持した父ジュゼッペの投獄という事件のために決して平和なものではなかった。この強国による侵攻という経験が、後にロッシーニののちの人生において、「イタリア」という国家への愛国心をそぐものとなった。ロッシーニは音楽家として活動する両親と共に舞台に立つようになり、ヴィオラ奏者として1801年のカーニバルシーズンのファノにおけるオーケストラに参加したことが確認されている。
1802年頃、ロッシーニ一家はルーゴ(Lugo)に移り、父は少年ロッシーニにホルンを教授するようになると同時に、ロッシーニは、地方の司教座聖堂参事会員2)司教座聖堂参事会員(canon): 司教座聖堂に勤めて司教の神木活動に協力する司祭、あるいは司教座聖堂参事会に属する聖職者。ジュゼッペ・マレルビ(Giuseppe Malerbi)のもとで声楽と作曲法を習うようになる。この時期に、ロッシーニは、ラヴェンナの豊かな実業家アゴスティーノ・トリオッシ(Agostino Triossi)と出会い、コンヴェンテッロの別荘に招かれる仲となる。この経験をもとに、若き作曲家ロッシーニは、『弦楽のためのソナタ』(sonate a Quattro)を作曲し、後にこの友人のために 『シンフォニア・アル・コンヴェンテッロ』(the Sinfonia ‘al Conventello’ )と『コントラバスのための大序曲』(the Grand’overtura obbligata a contrabbasso) も創作することとなる。
1804年頃、一家は、ボローニャへと拠点を移し、そこでロッシーニは、歌手として才能の片鱗を見せるようになる。ロッシーニが、1804年4月22日、イーモラのテアトロ・コムーネにおけるアカデミア・ディ・ムジカに参加したり、またプライベートなコンサートで活躍したりしていたという記録が残っている。またボローニャにて、ロッシーニは、神父アンジェロ・テセイ(Angelo Tesei)のもとで勉強し、1806年4月までに音楽高等学校(Liceo Musicale)に入学した。そこでは、声楽、チェロ、ピアノなどのコースを履修した。高等学校時代にロッシーニは、いくつかの器楽のための曲と宗教音楽を作曲している。そのうち、『オルフェウスの死におけるアモニアの涙』(Il pianto d’Armonia sulla morte d’Orfeo)は学校で賞を獲得し、1808年8月11日、式典で演奏された。
この頃、すでにロッシーニは、地方の劇場にてチェンバロの指揮者として働き始めていた。ロッシーニの初めてのオペラは、おそらく1810年ボローニャ訪問中、テナー歌手のドメニコ・モンベッリ(Domenico Mombelli)によって、作曲を依頼されたとされているが、この作品が上演されたのは1812年になってからであった。
2. 『結婚手形』によるデビュー、『タンクレーディ』から『泥棒かささぎ』まで(1810—17年):「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」
19世紀最初の10年間は、イタリアオペラの変革期であった。ナポリの喜劇(buffo)の伝統は、衰退していたが、イタリアの外の作曲家たちは、モーツァルトのような洗練された音楽を受け入れ取り入れていっていた。パエジエッロ(Paisiello)、ケルビーニ(Cherubini)、スポンティーニ(Spontini)といったイタリアの作曲家はパリを中心としてヨーロッパの主要都市をまわっていたために、イタリアオペラは、他国の音楽の影響を多分に受けることとなった。またフランスの小説家スタンダール3)スタンダール(Stendhal): フランスの小説家(生没1783-1842年)。代表作は、『赤と黒』(1830)。、率直に、同時代の作曲家たちに対する不満を述べていたが、ロッシーニだけが、「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」として天才であることを認めていた。
衣装とロッシーニの像の展示(スカラ座博物館にて)
ロッシーニのオペラ作曲家としてのキャリアは、ガエターノ・ロッシ(Gaetano Rossi)のために『結婚手形』(La cambiale di matrimonio)を作曲するというヴェネツィアのサン・モイゼ劇場(Teatro S Moisè)からの依頼によって、1810年に始まった。この劇場は、ロッシーニの他、マイヤー(Mayr)、ゼネラリ(Generali)、パヴェージ(Pavesi)、ファリネッリ(Farinelli)、コッチャ(Coccia)といった若手の音楽家のデビューの場になっていたという。ロッシーニの初期の9作品は、サン・モイゼ劇場のために書かれたものであった。続いて、1811年10月26日、ボローニャにてロッシーニの次の作品となる『ひどい誤解』(L’equivoco stravagante)が上演された。翌1812年1月、ロッシーニの作品を心待ちにしていたサン・モイゼ劇場にて、『幸せな間違い』(L’inganno felice)が上演され、この作品はロッシーニにとって最初のヒット作となった。
他の劇場からロッシーニへの依頼が相次いだ。彼の『バビロニアのキュロス』(Ciro in Babilonia)は、四旬節中のフェラーラで上演された一方で、サン・モゼ劇場では、『絹のはしご』(La scala di seta)が上演された。1816年9月26日、ミラノのスカラ座にて上演された『試金石』(La pietra del paragone)は大成功を収め、この作品によって軍役免除となったと言われたほどであった。その後、ヴェネツィアに戻ったロッシーニは、サン・モゼ劇場のために、『成り行き泥棒』(L’occasione fa il ladro)と『ブルスキーノ氏』(Il signor Bruschino)を作曲した。こうして『ひどい誤解』(L’equivoco stravagante)から『ブルスキーノ氏』(Il signor Bruschino)までの16ヶ月間で、ロッシーニは7つのオペラを作曲したことになる。
特に、『タンクレーディ』(Tancredi)から『泥棒かささぎ』(La gazza ladra)までが創作された時期において、ロッシーニは、家族を支えるために次々とオペラを生み出すことに専念した。この時期のオペラは、それぞれ1ヶ月で準備され、特にロッシーニの傑作の一つである『セビリアの理髪師』(Il barbiere di Siviglia)はわずか3週間で制作された。また、『タンクレーディ』(Tancredi)と『アルジェのイタリア女』(L’italiana in Algeri)は、それぞれヴェネツィアのフェリーチェ劇場(the Teatro La Fenice ; 1813年2月6日)と聖ヴェネディクト劇場(Teatro S Benedetto; 1813年5月 22日)において、ロッシーニ自身の指揮にて初演され、大成功を収める。
『タンクレーディ』以降、ロッシーニの名声は確実なものとなり、ミラノ・スカラ座のために、新作『パルミーラのアウレリアーノ』(Aureliano in Palmira; 1813年12月26日)と『イタリアのトルコ人』(Il turco in Italia; 1814年8月14日)を作曲している。1814年末、ロッシーニは再びヴェネツィアに戻り、カーニバルに向けて『シジスモンド』(Sigismondo)を作曲した。次にナポリに向かったロッシーニは、『イングランドの女王エリザベッタ』(Elisabetta, Regina d’Inghirtrra; 1815年10月4日)を作曲したが、ナポリ滞在中も他都市のために『トルヴァルドとドルリスカ』(Torvaldo e Dorlisca)(1815、ローマ)、『セリビアの理髪師』(Il barbiere di Siviglia) (1816、ローマ)、『チェネレントラ』(La Cenerentora)(1817)などといった曲を作曲した。これらの作品は、ナポリのオペラとは特徴が異なるものとして最初に評価されたものである。
『イングランドの女王エリザベッタ』の舞台の様子
1817年5月、ロッシーニは、ミラノ・スカラ座のために劇中の音楽は全て書き下ろしの『泥棒かささぎ』(La gazza ladra)を執筆した。イタリアのオペラにおけるロマン主義の伝統は、ベッリーニとドニゼッティの作品によって定められるにしても、この伝統は、ロッシーニが駆け出しの時期に(1810-17年)、続くナポリ滞在時代において生み出した数々の傑作なくしては考えることはできない。
スカラ座博物館「ロッシーニ展」の展示
3. ナポリ滞在期に生み出された一連のオペラ(1815-23)
1815年までに、ロッシーニの作品はいたるところで上演されるにようになっていたが、ナポリでは看過されていた。それは、伝統が息づくナポリにおいては、華やかな北部の音楽を受け入れることが進まなかったからである。実際に、ロッシーニの出現はイタリアのオペラにおけるナポリの優位に終わりを告げるものであった。ナポリの劇場の権力を持つ興行主ドメニコ・バルバイア(Domenico Barbaia)は、ナポリのオペラを再び活気づけようとして、ロッシーニを招聘した。ロッシーニは、当初、現地の抵抗に遭うことになったが、徐々に彼の音楽は受け入れられていくこととなる。ロッシーニは、ナポリの劇場のために次の二つの作品を作曲した:1. 『新聞』(La Gazetta; 1816年9月26日フィオレンティーニ劇場)、2. 『オテッロ』(Otello; 1816年12月4日フォンド劇場)。
後者の『オテッロ』は、英語圏で複雑な評価を得ることとなった。1818年、バイロン4)バイロン(George Gordon Byron): 生没1788-1824年、英国のロマン派の詩人。代表作は、『チェイルド=ハロルドの巡歴』(Childe Harold’s Pilgrimage)(1812-18)、『ドン=ジュアン』(Don Juan)(1819-24)。は、次のようにコメントしている:「かの(シェイクスピアの)『オセロー』は、ロッシーニの翻案によって台無しにされてしまった。」
『オテッロ』のポスター(スカラ座にて撮影)
『チェネレントラ』と『泥棒かささぎ』の作曲のためにローマとミラノに赴いた後、ロッシーニはナポリに戻り、そこで1817年から1822年までの間、次々と傑作を生み出した;『アルミーダ』(Armida)(1817年11月9日、ナポリ)、『エジプトのモーゼ』(Mose in Egitto)(1818年5月5日、ナポリ)、『リッチャルドとゾライーデ』(Ricciardo e Zoraide)(1818年12月3日、ナポリ)、『エルミオーネ』(Ermione)(1819年3月27日、 ナポリ)、『湖上の美人』(La donna del lago)(1819年10月24日、ナポリ)、『マオメット2世』(Maometto secondo)(1820年12月3日、ナポリ)、『ゼルミーラ』(Zermira)(1822年2月16日、ナポリ)。一方、この期間に、ナポリ以外の都市のために制作された曲『ブルゴーニュのアデライーデ 』(1817、ローマ)、『アディーナ』(Adina)(1818)『エドゥアルドとクリスティーナ』(Eduardo e Cristina)(1819、ヴェネツィア)、『ビアンカとファッリエーロ』(Bianca e Falliero)(1819、ミラノ)、『マティルデ・ディ・シャブラン』(Matilde di Shabran )(1821) も、ナポリで制作された作品に匹敵するものである。またロッシーニはこの頃、王室の訪問の機会などのために、魅力的なカンタータも作曲している。また1822年ボローニャにて、ロッシーニはオペラ歌手のイサベラ・コルブラン(生没1785-1845年)と結婚している。
イザベラ・コルブランの肖像
4. ヨーロッパ、パリへ(1822-29年)
ロッシーニの作品は、フランスやイギリスなどから国際的な賞賛を得ていた。イタリアの興行主ドメニコ・バルバイア(Domenico Barbaia)(生没1777-1841年)との提携もあって、ロッシーニは収入を増やしていた。さらに、1821年末、ウィーンのケルントナートーア劇場(Kärntnertortheater )の監督を引き受けたバルバイアは、自身のナポリの会社を、ロッシーニ・フェスティバルのためにその地に移した。このフェスティバルは、1822年4月13日に始まり、7月まで開催されていた。ベートーベンやシューベルトといったドイツ語圏の音楽家たちは、ロッシーニを歓迎した。このウィーン滞在の後、ロッシーニは、バルバイアとナポリに別れを告げ、1822年夏のうちにイタリアに戻った。1823年のカーニバルの季節には、ヴェネツィアのフェニス劇場に赴き、『マホメット2世』を改作して発表した。1823年の夏ボローニャに滞在した後、ロッシーニは、10月20日、パリとイギリスに向けて旅立った。この時、彼は31歳であった。
『マホメット2世』の舞台写真
まずパリにて、ロッシーニは、イタリア座(Théâtre Italien )とオペラ座(Opéra)にて後々活動するために、フランス政府と交渉を始めた。続いて、ロッシーニは、ロンドンに赴き、王立劇場で公演したものの、評判は芳しくなかった。この頃、ロッシーニは、『イタリア王ウーゴ』という新しいオペラを執筆していたとされるが、現在は残されていない。
1824年8月1日までに、ロッシーニはパリに戻り、フランス大使の家で、フランス政府との契約にサインがなされた。この大使の家で、ロッシーニはフランスに1年とどまり、イタリア座とオペラ座のために活動することに合意した。 1824年9月7日、イタリア座にて、『湖上の美人』が上演され大成功を収めた。同年11月25日の新契約によりイタリア座の演出家・指揮者となったロッシーニは、『ゼルミーラ』(1825年3月14日上演)や『セミラーミデ』(1825年12月8日上演)といった彼がイタリアで作曲したオペラを上演するために、イタリア人歌手をパリに招いた。ロッシーニの手腕で、イタリア座は、彼がパリを完全に離れる1836年まで常に人々を魅了していた。
一方、パリのためにロッシーニが製作したオペラは、1825年5月29日のシャルル10世の戴冠式を祝うための『ランスへの旅』(Il viaggio a Reims)(1825、パリ)である。また、ロッシーニは、前作『マホメット2世』を改訂して『コリントの包囲』(Le siège de Corinthe)(1826、パリ)を、同じく前作『エジプトのモーゼ』を改訂して『モーゼとファラオ』(Moïse et pharaon) (1827、パリ)を発表した。ナポリで作成された前作と、パリで発表された新作との違いは明らかである。ナポリで作成された作品では、華麗なソロのヴォーカルが、ドラマティックシチュエーションを表現する形で壮大な構想と共存している。他方、パリの改訂版では、それがトーンダウンし、より堅実なものに仕上がっている。
さらに、『オリー伯爵』(Le Comte Ory)(1828年8月20日、パリ)と『ウィリアム・テル』(Guillaume Tell)(1829年8月3日、パリ)は、ロッシーニがパリで作曲した大傑作とされている。どちらの作品も効果的に、イタリアとフランス両方のオペラのスタイルを取り入れている。14世紀初めスイス中央部で活躍したとされる伝説の英雄「ウィリアム・テル」を題材とした後者は、革命を想起させるとして特にイタリア半島では検閲の対象となり、上演は困難を極めた。この作品を最後に、ロッシーニはオペラを作曲することはなかった。
5.作曲家生活からの引退
1829年に『ウィリアム・テル』を発表してから、ロッシーニは、多くの人に賞賛され、また多くの人に新作の発表を請われたものの、およそ40年間にもわたる隠遁生活を送ることとなる。ロッシーニは精神的にも肉体的にも疲弊しており、余生を半病人のようにして過ごした。1811年から19年までの間は平均して年に3つのオペラを作曲していたのが、1820年から23年は年に1本となり、パリの生活では僅かな新作しか発表しなかった。特に、『モーセ』のリハーサル中の1827年2月20日に彼の母親が亡くなってから、彼の精神状態は不安定なものとなり、『ウィリアム・テル』の作曲に彼の全てのエネルギーを使い尽くしたと言える。
引退後、恩給を使って、ロッシーニは銀行家ライオネル・ド・ロスチャイルド(Lionel de Rothschild)5)ライオネル・ド・ロスチャイルド(Lionel de Rothschild): 生没1808-1879年。英国ロスチャイルド家嫡流の第二代当主の男爵。イギリスの銀行家・政治家として活躍した。とドイツへ小旅行に出かけ、作曲家のメンデルスゾーンやヒラーと面会した。イタリアに戻ったロッシーニは仲間とともに、ミラノにサロンを開いたり(1837-8)、多くの夜会を開催したりするなどしたが、1839年の彼の父の死がさらに自身の体調を悪化させた。ロッシーニの唯一の活動は、ボローニャの音楽高等学校の名誉顧問という役割のみであった。1842年、ベルガモ出身のオペラ作曲家ガエターノ・ドニゼッティによってロッシーニ作の『哀しみの聖母』(Stabat Mater)がボローニャで初めて上演され、成功を収めた。新たな創作意欲がロッシーニに沸くことはなかったものの、このボローニャでのパフォーマンスのために、ロッシーニはドニゼッティに特別な感謝の念を抱くこととなった。パリとイタリアを行き来していたロッシーニであったが、1845年、妻のイザベッラが亡くなった後、1846年8月16日にかねてより付き合いのあった芸術家のモデルであるオランプ・ペリシエ(Olympe Pélissier)(生没1799-1878)と結婚した。この時、ロッシーニはほとんど初期の作品の引用であったが、小品を作曲している。
オランプ・ペリシエの肖像
1848年、イタリア半島に一気に広まった革命運動6)1848年1月、両シチリア王国からの分離独立と憲法制定を要求する人々によってパレルモにて暴動が起こり、これを契機として、革命運動がイタリア半島に広まった。3月、オーストリアの統治下にあったロンバルディアとヴェネツィアの人々が反乱を起こした。人々によって要請を受けたサルデーニャ=ピエモンテ国王カルロ・アルベルトは、3月23日にオーストリアに宣戦布告した(第一次イタリア独立戦争)。はロッシーニの生活の転換点となった。ロッシーニは、国家統一運動に対する情熱を欠いていると自覚していたため、多くのボローニャ市民からの疎外感を感じていた。ロッシーニはボローニャを離れ、フィレンツェに向かった。彼は、常に、この時期のことを、ボローニャの人々を暗殺者だとして、自身と妻が危険にさらされた身の毛のよだつ時期だったと回想していた。さらに健康状態が悪化したロッシーニは、モンテカティーニやルッカに休息を求めて向かった。フランスの医者が最善の治療を尽くしてくれることを願って、ロッシーニは1855年春、パリに移ることに決めた。その後も数々の病魔に悩みつつ、1868年11月16日、ロッシーニは76歳でその生涯を終えた。
ミラノ・スカラ座の「ロッシーニ展」にて
評価
1980年代より、ロッシーニは、作曲者として評価されるようになった。ペーザロのロッシーニ財団(the Fondazione Rossini)の力もあって、ロッシーニが精力的に創作活動を行った時期の史料が刊行されるに至った(B. Cagli and S. Ragni, eds., Gioachino Rossini: lettere e documenti, i: 29 Feb 1792 – 17 March 1822(Pesaro, 1992); ii: 21 March 1822 – 11 Oct 1826 (Pesaro, 1996), iii: 17 October – 30 December 1830 (Pesaro, 2000))。また、時を同じくして、ロッシーニ財団によって、ペーザロにてロッシーニ・オペラ・フェスティバル(the Rossini Opera Festival)が開催されるようになり、世界中の注目を集めている。
美食家としての一面が描かれたロッシーニのスケッチ
作品一覧 | Works
オペラ
- 『デメトリオとポリービオ』( Demetrio e Polibio )(1808):初演は1812年、ローマにて。
- 『結婚手形』( La cambiale di matrimonio )(1810、ヴェネツィア)
- 『ひどい誤解』( L’equivoco stravagante )(1811、ボローニャ)
- 『幸せな間違い』( L’inganno felice)(1812、ヴェネツィア)
- 『バビロニアのキュロス』(Ciro in Babilonia )(1812、フェラーラ)
- 『絹のはしご』(La scala di seta )(1812、ヴェネツィア)
- 『試金石』(La pietra di paragone)(1812、ミラノ)
- 『成り行き泥棒』(L’occadione fa il ladro)(1812、ヴェネツィア)
- 『ブルスキーノ氏』(Il Signor Bruschino)(1813、ヴェネツィア)
- 『タンクレーディ』(Tancredi)(1813、ヴェネツィア)
- 『アルジェリアのイタリア女』(L’italiana in Algeri)(1813、ヴェネツィア)
- 『パルミーラのアウレリアーノ』(Aureliano in Parmira )(1813、ミラノ)
- 『イタリアのトルコ人』(Il Turco in Italia)(1814、ミラノ)
- 『シジスモンド』(Sigismondo)(1814、ヴェネツィア)
- 『イングランドの女王エリザベッタ』(Elisabetta, Regina d’Inghirtrra)(1815、ナポリ)
- 『トルヴァルドとドルリスカ』(Torvaldo e Dorlisca)(1815、ローマ)
- 『セリビアの理髪師(アルマヴィーヴァ)』(Il barbiere di Siviglia)(Almaviva)(1816、ローマ)
- 『新聞』(La Gazetta)(1816、ナポリ)
- 『オテッロ』(Otello)(1816、ナポリ):『ヴェネツィアのムーア人』とも。
- 『チェネレントラ』(La Cenerentora)(1817、ローマ):『善意の勝利』(Il trionfo della bonta’ossia)とも。
- 『泥棒かささぎ』(La gazza ladra)(1817、ミラノ)
- 『アルミーダ』(Armida)(1817、ナポリ)
- 『ブルゴーニュのアデライーデ 』(Adelaide di Borgogna )(1817、ローマ)
- 『エジプトのモーゼ』( Mose in Egitto)(1818、ナポリ)
- 『アディーナ』(Adina)(1818): 1818年に作曲されたものの、初演 は1826年6月12日(リスボン)を待たねばならなかった。
- 『リッチャルドとゾライーデ』(Ricciardo e Zoraide)(1819、ナポリ)
- 『エルミオーネ』(Ermione)(1819、 ナポリ)
- 『エドゥアルドとクリスティーナ』(Eduardo e Cristina)(1819、ヴェネツィア)
- 『湖上の美人』(La donna del lago)(1819、ナポリ)
- 『ビアンカとファッリエーロ』(Bianca e Falliero)(1819、ミラノ)
- 『マオメット2世』(Maometto secondo)(1820、ナポリ)
- 『マティルデ・ディ・シャブラン』(Matilde di Shabran )(1821)
- 『ゼルミーラ』(Zermira)(1822、ナポリ)
- 『セミラーミデ』(Semiramide)(1823、ヴェネツィア)
- 『ランスへの旅』(Il viaggio a Reims )(1825、パリ):または『百合咲く宿』。シャルル10世の戴冠式のための曲。
- 『コリントの包囲』(Le siège de Corinthe)(1826、 パリ ):『マホメット2世』の改作。
- 『モーゼとファラオ』(Moïse et pharaon) (1827、パリ):『エジプトのモーゼ』の改作。
- 『オリー伯爵』(Le Comte Ory)(1828、パリ)
- 『ギヨーム・テル』(Guillaume Tell)(1829、パリ):『ウィリアム・テル』とも。
歌曲、賛美歌、コーラス
- 『オルフェウスの死におけるアモニアの涙』(Il pianto d’Amonia sulla morte di Orfeo (cant., G. Ruggia), T, male chorus, orch) (ボローニャ、1808)
- 『ディドーの死』(La morte di Didone (cant.), S. chorus, orch)(1811)
- 『ダッレ・クエーテ・エ・パッライドンブレ』(Dalle quete e pallaid’ombre(Cant., P. Vanazio), S. B, pf) (ヴェネツィア1812)
- 『覚えていてくれ、愛しい恋人たちよ』(Apprendete, o cari amanti (cant.), S, 2 vn, vc)(ヴェネツィア、1812)
- 『アグライアとエイレネ』(Egle ed Irene(cant.), S, A, pf)(ミラノ、1814)
- 『独立の賛歌』(Inno dell’Indipendenza (‘Sorgi, Italia, venuta è già l’ora’)(G. Giusti)(ボローニャのコンタヴァッリ劇場、1815):『ヒュムノス』とも。
- 『感謝』(La gratitudine(cant.)(フェラーラ、1815)
- 『夜明け』(L’Aurora (cant.), A, T, B, pf)(ローマ、1815)
- 『ユーノー:フェルディナンド4世の誕生日のための歌』(Giunone, cant. For the birthday of Ferdinado IV, S, chorus, orch)(1816)
- 『テティスとペレーウスの結婚』(Le nozze di Teti, e di Peleo(cant., A. M. Ricci), 3S, 2T, chorus, orch)(1816): ギリシア神話の英雄アキレウスの両親、プティア王ペレーウスと海の女神テティスの婚姻を歌った曲。
- 『劇付随音楽 コロノスのオイディプス』(Edipo a Colono (Giusti, after Sophocles), incid music, B, male chorus, orch [orchestration completed anon.](1817)
- 『陛下に捧げる敬意』(Omaggio umiliato a Sua Maestà(cant., A. Niccolini), S, chorus, orch)(1819)
- 『1819年5月9日フランシス1世の訪問のためのカンタータ』(Cantat…9 maggio 1819 (G. Genoino), for Francis I’s visit, S, 2T, chorus, orch)(1819)
- 『子の誓い』(Il voto filiale (cant.), S, pf) (ナポリ、1819)
- 『感謝』(la riconoscenza (cant., Genoino), S, A, T, B, chorus, orch)(1821)
- 『神聖同盟』(La santa alleanza(cant., G. Rossi), 2B, chorus, orch)(ヴェローナ、1822):現在は失われている。
- 『真のオマージュ』(Il vero omaggio (cant., Rossi), Sopranista, S, 2T, B, chorus, orch)(ヴェローナ、1822)
- 『オマッジョ・パストラーレ』(Omaggio pastorale (cant.), 3 female vv, orch)(トレヴィーゾ、1823)
- 『バイロンの死におけるムーサたちの涙』(Il pianto delle muse in morte di Lord Byron, canzone, T, chorus)(ロンドン、1824)
- 『イタリア?フランス? シャルル10世の洗礼名となっている聖人の祝日のための賛歌』(De l’Italie et de la France? Hymn for Charles X’s nameday, S, B, chorus, orch)(1825)
- 『銀行家アグアードの息子の洗礼のためのカンタータ』(Cantata per il battesimo del figlio del banchiere Aguado, 6 solo vv, pf)(パリ、1827)
- 『サンピエリ侯爵を讃えるアルモニカ・チェトラ』(L’armonica cetra del nume, in honour of Marchese Sampieri, S, A, T, B, male chorus, fl, 2ob, cl bn, 2 hn, hp)(ボローニャ、1890)
- 『ジョヴァンナ・ダルコ』(Giovanna d’Arco(cant.), S, pf)(パリ、1832)
- 『イタリアの大地の精霊:タッソ生誕300周年のための歌』(Santo Genio dell’Italia terra (G. Marchetti), for tercentenary of Tasso’s Brith, chorus, orch)(トリノ、1844)
- 『カンタータのための叙唱』(Recitatives for a Cantata, Giovanna d’Arco, by Lucio Campiani)(ボローニャ、1845)
- 『教皇ピウス9世のための信徒についての喜びの歌』(Su fratelli, letizia si canti (Canonico Golfieri), for Pope Pius IX, chorus, orch)(ボローニャ、1846)
- 『教皇ピウス9世を讃えるカンタータ』(Cantata in omore del Sommo Pontidicie Pio Nono (Marchetti), 4 solo vv, chorus, roch)(ローマ、1847)
- 『センニャ・イッディオ・ネスオイ・コンフィーネ』(Segna Iddio ne’suoi confine(F. Martinelli), chorus of the Guardia Civica of Bologna, acc, arr, D. Livernani for band)(ボローニャ、1848)
- 『平和の前兆』(è foriera la Pace ai mortali (G. Arcangeli, after Bacchilde), hymn, Bar, male vv, pf)(1850)
- 『ナポレオン3世と勇敢な人々への賛歌』(Hymne à Napoléon III et à son vaillant people(‘Dieu tout puissant’)(E. Pacini), hymn, Bar, chorus, orch, military band)(パリ、1867年7月1日)
ヴォーカル
- 『ドルチ・アウレッテ』(Dolci aurette, T, orch)(フェラーラ、1809)
- 『コーラスとカヴァティーナ』(Coro e cavatina ‘Viva Roma e Quinto viva’, ‘Cara Patria’)(ボローニャ、1811)
- 『アッラ・グロリア・ウン・ジェニオ・エレット』(Alla glorya un genio eletto, T, orch)(ヴェネツィア、1812)
- 『私の安らぎはすでに失われた』(La mia pace io già perdei, T, orch)(1812)
- 『クアル・ヴォーチェ、クアイ・ノーテ』(Qual voce, quai note, S, pf)(1813)
- 『アッレ・ヴォーチ・デッラ・グロリア』(Alle voci della glorya, B, orch)(1813)
- 『愛しい人よ、私のもとに』(Amore mi assisti, S, T, pf)(1814)
- 『 ニッコリーニのために』(for G. Niccolini: Quinto Fabio)(1817)
- 『トロヴァトーレ』(Il trovatore (‘Chi m’ascolta il canto usato”), T, pf)(1818):「トロヴァトーレ」とは、中世、シチリア宮廷などの吟遊詩人。
- 『ヴェネツィアのカーニバル』(Il Carnevale di Venezia(‘Siamo ciechi, siamo nati’)(Rossini, Paganini, M. d’Azeglio, Lipparini), 2T, “B, pf)(1821)
- 『残酷な美しさ』(Beltà crudele(‘Amori scendete’)(N. di Santo-Magno), S. pf)(1821)
- 『パストレッラ(羊飼いの歌)』(La Pastorella (‘Odia la pastorella’) (Santo-Magno), S, pf)(1821)
- 『スペインの短い民謡』(Canzonetta spagnuola ‘En medio a mis colores’(‘Pianges un di pensando’), S, pf)(1821)
- 『不幸な私』(infelice ch’io son, S, pf)(1821)
- 『ウィーンの人々への別れ』(Addio ai viennesi (‘Da voi parto, amate sponde’), T, pf)(1822)
- 『ダッロリエンテ・ラストロ・デル・ジョルノ』(Dall’Oriente l’astro del giorno, S, 2T, B, pf)(1824)
- 『リディアーモ、カンティアーモ・ケ・トゥット・セン・ヴァ』(Ridiamo, cantiamo, che tutto sen va, S, 2 T, B, pf)(1824)
- 『美しい日に』(In giorno sì bello, 2 S, T, pf)(1824)
- 『ローマへの別れ』(Les adieux à Rome (‘Rome pour la derniere fois’)(C. Delavigne), T, pf/hp)(1827)
- 『雷雨と美しい時』(Orage et beau temps(‘Sur les flots inconstans’)(A. Betourne), T, B, pf)(1830)
- 『行進』(La passéggiata(‘Or che du fiori adorno’) S, pf)(1831)
- 『ラ・ディキアラツィオーネ』(La dichiarazione (1834)
- 『音楽の夕べ』(Les soirées musicales)(1830-35)
- 『2つの夜想曲』(2 nocturnes (Crével de Charlemagne), S, T, p)(1836): 1 Adieu à l’Italie (‘Je te quite, belle Italies?)、2 Le départ (‘Il faut partir’)
- 『ニース』(Nizza (‘Nizza, je puis sans peine’)(E. Deschamps), S, pf) (1836)
- 『見捨てられた魂』(L’âme délaissée (‘Mon bien aimé’)(Delavigne), S, pf)(1844)
- 『レチタティヴォ・リトマート』(‘Farò come colui che piange e dice’)(Dante), S. pf (1848)
- 『別れ』(La separazione (‘Muto rimase il labbro’)(F. Uccelli), S, pf)(1858)
- 『ラマンテ・ディスクレート』(L’amante discrete, S, pf)(1835)
器楽
- 『弦楽のためのソナタ』(6 sonate a Quattro, G. A, C, B♭, E♭, D, 2 vn, vc, db)(1804年):全6曲。ヴァイオリン2、チェロ、コントラバスのための楽曲。
- 『シンフォニア・アル・コンヴェンテッロ』(Sinfonia ‘al Conventello)’(1806)
- 『5つの二重奏曲』(5 duets, E♭, E♭, B♭, E♭, E♭, 2hn)(1806)
- 『シンフォニア ニ長調』(Sinfonia, D, orch)(1808)
- 『シンフォニア 変ホ長調』(Sinfonia, E♭, orch)(1809)
- 『コントラバスのための大序曲』(Grand’overtura obbligata a contrabbasso, D, orch)(1809)
- 『小管弦楽のための変奏曲』(Variazioni a più istrumenti obbligati, F, 2 vn, va, vc, cl, orch)(1809)
- 『クラリネットのための変奏曲』(Variazioni a clarinetto, C, cl, orch)(1809)
- 『変奏曲によるアンダンテと主題』(Andante e Tema con variazioni, F, fl, cl, hn, bn)(1812)
- 『三重奏』(Terzetto, hn, bn, pf) (1812): 原本は失われている。
- 『夜、祈り、狩り』(La note, la preghiera, la caccia, 2 fl, 2 vn, va, vc)(1820):「カッチャ」(caccia)とは、狩りの場面をテーマとした曲のこと。
- 『変奏曲とアンダンテ』(Andante con variazioni, F, hp, vn)(1820)
- 『パソ・ドブレ:軍楽隊』(Passo doppio, military band)(1822): 「パソ・ドブレ」(Paso doble)とは、行進曲風のスペイン舞曲の一つで、8分の6拍子のリズムを持つ。この曲は、現在失われている。
- 『ワルツ』(Waltz, E♭, pf)(1823)
- 『セレナーデ』(Serenata, E♭, 2 vn, va, vc, fl, ob, eng hn)(1823):「セレナーデ(小夜曲)」(serenata)とは、男性が夜、恋人のために歌い、演奏する曲のこと。
- 『チェロとコントラバスのための二重奏曲』(Duetto, D, vc, db)(1824)
- 『涙:チェロとピアノのための主題と変奏』(年代不明)
- 『狩りのランデブー』(rendez-vous de chasse, D, 4 corni da caccia, orch)(1829)
- 『ファンタジー』(Fantasie, E♭, cl pf)(1834)
- 『3つのマーチ:軍楽隊』(Three marches, military band):第一楽章(Passage du Balcon, grande marche, E♭)、第二楽章(Prise d’Erivan, pas redouble, E♭)、大三楽章(Assaut de varsovie, pas redouble, E♭)
- 『スケルツォ』(a, pf)(1843)
- 『ヴァイオリンのための変奏曲:ロッシーニのテーマ』(Tema originale di Rossini variato per violino da Giovacchino Giovacchini, A, pf, Vn)(1845)
- 『マーチ』(March, “Pas-redoublé”, C, military band)(1852)
- 『ロッシーニのテーマ』(Thème de Rossini, suivi de deux, variations et coda par Moscheles Père, E, hn, pf) (1860)
- 『イタリアの戴冠式』(La corona d’Italia, E♭, military band)(1868)
ロッシーニを知るための文献
原資料
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邦語文献
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- 水谷彰良『ロッシーニ「セビーリャの理髪師」 : 名作を究める十の扉』水声社、2017年。
Notes
1. | ↑ | アカデミア・フィラルモニカ・ディ・ボローニャ(Accademia Filarmonica di Bologna):1666年に創設されたイタリアのボローニャにある音楽家による団体機関。1770年にはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが入会を認められている。1804年には、音楽学校が設立され、続いて音楽図書館も併設された。 |
2. | ↑ | 司教座聖堂参事会員(canon): 司教座聖堂に勤めて司教の神木活動に協力する司祭、あるいは司教座聖堂参事会に属する聖職者。 |
3. | ↑ | スタンダール(Stendhal): フランスの小説家(生没1783-1842年)。代表作は、『赤と黒』(1830)。 |
4. | ↑ | バイロン(George Gordon Byron): 生没1788-1824年、英国のロマン派の詩人。代表作は、『チェイルド=ハロルドの巡歴』(Childe Harold’s Pilgrimage)(1812-18)、『ドン=ジュアン』(Don Juan)(1819-24)。 |
5. | ↑ | ライオネル・ド・ロスチャイルド(Lionel de Rothschild): 生没1808-1879年。英国ロスチャイルド家嫡流の第二代当主の男爵。イギリスの銀行家・政治家として活躍した。 |
6. | ↑ | 1848年1月、両シチリア王国からの分離独立と憲法制定を要求する人々によってパレルモにて暴動が起こり、これを契機として、革命運動がイタリア半島に広まった。3月、オーストリアの統治下にあったロンバルディアとヴェネツィアの人々が反乱を起こした。人々によって要請を受けたサルデーニャ=ピエモンテ国王カルロ・アルベルトは、3月23日にオーストリアに宣戦布告した(第一次イタリア独立戦争)。 |