ジョージ・ガーシュウィン

ガーシュウィン

生 : ブルックリン、ニューヨーク(Brooklyn, NY)、1898年9月26日/没 : ハリウッド、カリフォルニア(Hollywood, CA)、1937年7月11日)

ジョージ・ガーシュウィン(Gershwin, George)はアメリカの作曲者、ピアニスト、指揮者。本名、ジェイコブ・ガーショヴィッツ(Jacob Gershowitz)。ブロードウェイの作曲家としての地位を確立し、クラシックとジャズの垣根を越えた音楽を次々と生み出した。代表作に『ラプソディー・イン・ブルー』、『パリのアメリカ人』、『ポーギーとベス』などがある。

生涯 | Biography

少年時代

1890年代、ガーシュウィンの両親モイシュ・ゲルショヴィッツ(Moshe Gershovitz)とローズ・ブルスキン(Rose Bruskin)は、ロシアからアメリカへ移民としてニューヨークに居を構えた1)アメリカへの移民:19世紀半ばから第一次世界大戦期にかけてヨーロッパ諸国から北米・南米への海外移住が最盛期を迎えた。その背景として、ヨーロッパ諸国側のプッシュ要因とアメリカ大陸側の受け入れ要因がある。まずヨーロッパ諸国では、産業革命の結果、海外貿易・投資が活性化され、海外移住に関する諸制限が撤廃されていった。一方、独立を勝ち取った北米・南米の植民地国においては、未開拓地の発展のために人材が必要とされたため、移住者に対する経済的補助・便宜が準備された。こうしてイギリス、イタリア、オーストリア、ハンガリー、旧チェコスロバキア、スペイン、ポルトガル、ドイツ、そしてガーシュウィンの両親の出身地帝政ロシアなどから多くの人々が新天地に渡った。ところが、1910年前後に最高潮に達した海外移住は、第一次世界大戦、世界恐慌以降、減少していくこととなる。特にアメリカでは、1921年・1924年の移民法によって、年間移民数が制限されることとなった。。1910年、両親は、作詞を得意とする兄アイラ2)兄アイラ・ガーシュウィン:1896年生まれ。弟ジョージと組み、作詞家として数々の名曲を生み出した。アイラは次のようなコメントを残している:「私の歌詞のほとんどは、すでに出来上がった音楽にモザイク細工のようにつなげられていくために、生きているのか死んでいるのか(も分からない)。(中略)極めて奇妙なものになっているのである。」。アイラは、ジョージの急逝(1937)後も他の作曲家と組み活動を続けた。1983年86歳で死去。へピアノを買い与えたが、このピアノによって、それまで音楽に興味を示すことのなかったガーシュウィンの才能が開花した。ガーシュウィンは瞬く間に近所の音楽教師から知識を吸収していき、1912年頃にはチャールズ・ハンビッツァー(Charles Hambitzer)の弟子となった。1914年、ガーシュウィンは、高校を退学し、週15ドルの給料で、ティン・パン・アレイ(Tin Pan Alley) 3)ティン・パン・アレイ:19世紀末から発展していったニューヨーク市の楽譜出版社や楽器商が集まっていた地区を指す。ニューヨーク市マンハッタンのフラワーディストリクトの5番街と6番街の間西28丁目に位置する。この名は、常に音楽が鳴り響いていたため、鉄鍋を叩いているかのような賑やかさであったことに由来する。のジェローム・ホスメル・レミック(Jerome H. Remick)4)ジェローム・ホスメル・レミック(Jerome Hosmer Remick): 1867年デトロイト生まれの楽譜出版経営者、慈善家。1931年没。のもとでソング・プラガー(song pluger)5)またはソング・デモストレーター(song demonstrator):20世紀初頭より活動するようになった、百貨店や音楽出版社と契約を結び、新曲を演奏したり歌ったりしてプロモートする歌手やピアニストのこと。蓄音機やレコードが高価な当時、新譜を再生することができる歌手・演奏者は重要な存在であった。として働き始めた。またガーシュウィンは、歌の伴奏者としての演奏のスキルを磨くうちに、作曲も手がけるようになった。ついに、ガーシュウィンは、ティン・パン・アレイから、ニューヨーク市のショービジネスの中心地ブロードウェイへ6)ブロードウェイ(Broad Way):ニューヨーク市マンハッタン島を南北に走る大通り。この大通りと7番街との交差点にあたるタイムズスクエア(Times Square)周辺は演劇・映画会社が集中し、アメリカの演劇界の意味でもブロードウェイという言葉が使われる。またここには当時、アメリカの代表的な新聞社ニューヨークタイムズ社のビルがあった。と活躍の場を移した。

兄アイラとジョージ・ガーシュウィン

「ラプソディー・イン・ブルー」の誕生

1917年3月、ガーシュウィンは、レミックの会社を離れ、6月までには、『ミス 1917』(Miss 1917)(ケルン(Kern) とヴィクター・ハーバート(Victor Herbert)による軽喜劇)のリハーサルを担当するピアニストを務めるようになった。同年の11月にショーがセンチュリーシアターで始まると、ガーシュウィンは主催者兼伴奏者となり、その年のうちに、ブロードウェイではガーシュウィンの曲が3曲も使用された。間もなくして、ガーシュウィンは、初のブロードウェイ総譜・付帯音楽となる『ラ・ラ・ルシール』(La La Lucille)を完成させ、1919年5月26日に封切られた。こうして、ブロードウェイのピアニストとしてのガーシュウィンの快進撃が始まった。この時彼は弱冠21歳であった。翌1920年、歌手アル・ジョルソン(Al Jolson)によって録音された『スワニー』(Swanee)はその年だけで10,000ドルを売り上げた。またプロデューサーのジョージ・ホワイト(George White)7)ジョージ・ホワイト(George White):1891年生まれ。俳優、ダンサー、作曲者、劇場のオーナーなどとしても名を馳せた多彩なアメリカの映画プロデューサー。代表作は『ジョージ・ホワイトのスキャンダル』(George White’s Scandals )(1934, 1935, 1945)。1968年ハリウッドにて死去。との契約(1920年から1924年まで)のもと、ブロードウェイレビューの年刊誌のために、ガーシュウィンは、『Lady Be Good!』(レディ・ビー・グッド) (1924)を作曲し、この曲も大ヒットを記録した。

作曲中のガーシュウィン

1924年、すでに作曲によって有名になっていたガーシュウィンは、ポール・ホワイトマン(Paul Whiteman)が主宰するコンサートのために、ピアノとオーケストラのための楽曲『ラプソディー・イン・ブルー』(Rhapsody in Blue)(1924)をピアニストとして作曲する。このジャズ8)ジャズ(Jazz):19世紀末から20世紀にかけて、アメリカの黒人の民族音楽と白人の音楽の融合によって、ルイジアナ州ニュー・オーリンズのブラスバンドから生まれた。またオフビート(アフタービート)のリズムによるスウィング感や即興演奏といった特徴を持つ。をコンサートホールに持ち込んだ記念碑的作品である『ラプソディー・イン・ブルー』は、「現代音楽におけるとある試み」(An Experiment in Modern Music)と題されたコンサート(1924年2月12日 於ニューヨークのエオリアン・ホール(Aeolian Hall))にて初演されることとなる。また、このコンサートには、当時ソビエト社会主義共和国連邦9)ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連):1917年、二月革命により帝政ロシアが終焉した後、十月革命によって建国された世界初の社会主義国家。首都モスクワ。当時、ラフマニノフの他、作曲家プロコフィエフなどのロシアの知識人たちがアメリカへ亡命した。1991年解体。から亡命していた音楽家ラフマニノフをはじめとする著名人が来場していた。

以上のようにショービジネスで成功を収めたガーシュウィンであったが、クラッシックに対する熱意を持ち続け、弦楽四重奏『ララバイ』(Lullaby)(1919)、オペラ『ブルー・マンデー』(Blue Monday)(1922)を作曲した。

1930年代のブロードウェイ

富と名声と

ガーシュウィンは、1920年代のニューヨークで富と名声を手に入れた。一例を挙げるとすると、彼個人には、1924年から1934年の10年間で、『ラプソディー・イン・ブルー』の録音・使用料のみで、年間25万ドルの収益があったとされる。1920年代半ばより、ガーシュウィンは、視覚芸術や絵画、彫刻、印刷物やデッサンに興味を示し始め、彼自身も絵筆を手に取るようになる。また彼は、ニューヨークの演劇界・文学界のサロンにも出入りするようになり、そのパーティーは彼のピアノによって幕を開けることも多かった。

『ラプソディー・イン・ブルー』の成功以降も、ガーシュウィンはショービジネスのためのスコアを書き続けたものの、クラシックの基本に倣ったコンサート音楽も精力的に作曲した。1925年の夏、彼は『ピアノ協奏曲ヘ長調』(The Concerto in F for piano and orchestra)の作曲に専念し、1926年12月にはピアノのための『三つの前奏曲』(The Preludes for Piano)を完成させた。そして、1928年、ガーシュウィンは、3月半ばから6月までヨーロッパを旅行し、そこからインスピレーションを得て『パリのアメリカ人』(An American in Paris)を作曲した。この欧州旅行中に、ガーシュウィンは、プロコフィエフ、プーランク、ラヴェル、ウォールトン、ベルグといった音楽家たちの歓待を受け、フランスの音楽家たちによって『ラプソディー・イン・ブルー』と『ピアノ協奏曲ヘ長調』が演奏された。また1929年頃のインタービューでガーシュウィンは次のように答えている:「おきまりのハーモニー、リズム、反復進行、インターバル、これらは私の耳を満足させることはない。私は、満足のいくまでこれらを取り巻くものを変えることに没頭したい。」ガーシュウィンが新大陸アメリカで生み出した20世紀の音楽は、クラシック音楽の中心地であるヨーロッパにも届いていたのであった。

CDジャケット

1929年夏、ガーシュウィンは、ニューヨークのルウィーソン・スタジアム(Lewisohn Stadium)の屋外コンサートにて指揮者としてデビューした。その年の10月10)1929年10月世界大恐慌:1929年10月、ウォール街の株式市場が大暴落し、第一次世界大戦後の好景気に沸いていたアメリカのみならず、世界中の都市に影響を与えた恐慌。この恐慌は、経済や産業に影響を与えたのみならず、1930年代のヨーロッパの政治情勢にまで爪痕を残すこととなる。、シュロイメ・アンスキー(Shloime Ansky)11)シュロイメ・アンスキー(Shloime Ansky):1863年ベラルーシの都市ヴィチェプスク生まれのイディッシュ語作家・劇作家・民俗学者。ナロードニキ(narodniki)としてロシアのユダヤ系市民のために社会主義活動を行った。1920年死去。の戯曲『ディブック』(The Dybbuk)のために作曲するという契約をメトロポリタン・オペラ(Metropolitan Opera)と結んだものの、その契約は履行されなかった。

1929年10月以降、アメリカ社会は不況に沈んだものの、ガーシュウィンは、『ストライク・アップ・ザ・バンド』(Strike up the Band) (1927; rev. 1930)、『ガール・クレイジー』(Girl Crazy)(1930)、『オブ・ジー・アイ・シング』(Of Thee I Sing)(1931)といったミュージカルの作曲で成功を収めつつ、コンサートツアーも続けた。1934年から35年にかけて、CBS12)CBS(Columbia Broadcasting System):1927年設立のアメリカの放送会社。NBC、ABC、FOXと並ぶアメリカの4大ラジオ会社。によるラジオ番組「ガーシュウィンによる音楽」(Music by Gershwin)でホストを務め、自らも演奏した。このことは、これまで劇場でしか味わうことができなかった音楽が、ラジオ波を介して、劇場の外の大勢の人々も共有できるものになったということを意味する。また1936年6月、ガーシュウィンと兄アイラは、RKO映画会社と契約を結び、8月までにはハリウッドに拠点を移した。そこでは、『躍らん哉』(Shall we Dance?)(1937)、『踊る騎士』(A Damsel in Distress) (1937)、『ゴールドウィン・フォーリーズ』(The Goldwyn Follies) (1938)といった作品に曲を提供し好評を博した。

ヒット曲を出しつつもガーシュウィンは、作曲法を勉強し続けた。1932年から36年までヨーゼフ・シリンガー(Joseph Schillinger)に師事したガーシュウィンは、『キューバ序曲』(Cuban Overture)(1932)、『アイ・ガット・リズム』(I got rhythm)(1934)、そして最高傑作と称されるオペラ『ポーギーとベス』(Porgy and Bess) (1935)を作曲した。ニューヨークのギルド劇場(Theatre Guild)との契約(1933年10月)のもと着手されたこの曲は、1934年夏のガーシュウィン自身のサースカロライナ滞在中に受けた現地での経験が多いに生かされている。1935年初めに完成されたこの曲はニューヨークで絶賛された。また、本曲中のアリア『サマータイム』(Summer Time)は、現代に至るまで幅広いジャンルの音楽家によってカバーされている。

ポーギーとベスの楽譜

1937年前半、演奏と作況を続けながらも、ガーシュウィンは断続的な気鬱に悩まされていた。6月9日、突然昏睡状態に陥ったガーシュウィンは脳腫瘍と診断され、緊急手術を受けたが、6月11日の朝、38歳で永遠の眠りについた。その4日後、ニューヨークとハリウッドでの追悼式の後に、マウントホープ共同墓地(Mount Hope Cemetery)に埋葬された。

作品一覧 | Works

オーケストラ

  • 『ラプソディー・イン・ブルー』(Rhapsody in Blue)(1924):ピアノと管弦楽のための曲。典型的なアメリカ芸術を象徴するものとして現在に至るまで親しまれている。もとは『アメリカン・ラプソディー』(American Rhapsody)という題名であったが、兄アイラの発案で変更された。クラリネットの低音から高音へのグリッサンドによって始まる全体的に軽快で明るい曲調は、この曲が作曲された当時の好景気に沸くアメリカ社会を反映しているといえよう。
  • 『ピアノ協奏曲ヘ長調』(Concerto in F)(1925)
  • 『パリのアメリカ人』(An American in Paris)(1928)
  • 『ラプソディ第2番』(Second Rhapsody for Piano and Orchestra)(1931)
  • 『キューバ序曲』(Cuban Overture)(1932)
  • 『アイ・ガット・リズム』(I got Rhythm)(1934)
  • 交響組曲『キャットフィッシュ・ロウ』(なまず横丁・Catfish Row)(1935):オペラ『ポーギーとベス』をオーケストラ用に編曲したもの

室内楽

  • 『子守唄』(Lullaby) (1919–20)
  • 『ショート ストーリー』(Short Story)(1925) :ピアノとヴァイオリンのための曲

ピアノソロ曲

  • 『リアルトのさざ波』(Rialto Ripples)(1916)
  • 『3つの前奏曲』(The Preludes for Piano)(1926):曲名のとおり、テンポの良い第1楽章『アレグロ・ベン・リトマート・エ・デチーゾ』(Allegro ben ritmato e deciso)(変ロ長調)、ゆったりと気だるげな第2楽章『アンダンテ・コン・モート・エ・ポコ・ルバート』(Andante con moto e poco rubato)(嬰ハ短調)、テンポを取り戻し小気味よく展開する第3楽章『アレグロ・ベン・リトマート・エ・デチーゾ』(Allegro ben ritmato e deciso)(変ホ長調)によって構成される。
  •   『2つの調のための即興曲』(Impromptu in 2 Keys)(1924)
  •   『スイス・ミス』(Swiss Miss)(1926)
  •   『メリー・アンドリュー』(Merry Andrew)(1928)
  •   『ジョージ・ガーシュウィンのソング・ブック』(George Gershwin’s Song-Book)(1932)
  •   『2つのワルツ』(2 Waltzes) (1933)
  •   『プロムナード』(Promenade)(1937)

オペラ

  • 『135番街』(135th Street)(1923)
  • 『ポーギーとベス』(Porgy and Bess)(1935):サースカロライナ州のチャールストンに住む黒人について書かれたデュボーズ・ヘイワード(DuBose Heyward)の小説『ポーギー』(Porgy)に影響を受けて書かれた曲。全3幕9場のオペラ。アリア『サマータイム』も含まれる。

映画音楽

  • 『ザ・サンシャイン・トレイル』(The Sunshine Trail)(1923) : 監督トーマス・H・インス(Thomas H.Ince)
  • 『デリシャス』(Delicious)(1931): 監督デイヴィット・バトラー、製作会社FOX 。劇中歌『ブラ・ブラ・ブラ』(Blah, blah, blah)、『デリシャス』(Delicious)、(Katinkitschka)、『サムバディ・フロム・サムウェア』(Somebody from Somewhere)。
  • 『踊らん哉』(Shall We Dance)(1937): 製作会社RKOラジオ。劇中歌『ビギナーズラック』((I’ve got) Beginner’s Luck)『レッツ・コール・ザ・ホール・スィング・オフ』(Let’s call the whole thing off)、『踊らん哉』(Shall We Dance)、『スラップ ザット バス』(Slap that bass)、『ゼイ・オール・ラフト』(They all laughed)『ゼイ・キャント・テイク・ザット・アウェイ・フロム・ミー』(They can’t take that away from me)。
  • 『踊る騎士』(A Damsel In Distress)(1937):監督ジョージ・スティーヴンス、製作会社RKOラジオ。劇中歌『ア・フォギー・デイ』(A Foggy Day)、『アイ・キャント・ビー・ボーダード・ナウ』(I can’t be bothered now)、『ザ・ジョリー・タール・アンド・ザ・ミルク・メイド』(The Jolly Tar and the Milk Maid: ガーシュウィンがコーラスとソロの歌を提供)、『ナイス・ウォーク・イフ・ユー・キャン・ゲット・イット』(Nice work if you can get it)、『シング・オブ・スプリング』(Sing of Spring:ガーシュウィンによるコーラスアレンジ)。
  • 『華麗なるミュージカル』(The Goldwyn Follies)(1938):製作中にガーシュウィンの死去。監督ジョージ・マーシャル。劇中歌『アイ・ラブ・トゥー・ライム』(I love to rhyme)、『アイ・ワズ・ドゥーイング・オール・ライト』(I was doing all right)、『ラブ・イズ・ヒア・トゥー・ステイ』(Love is here to stay:邦題『愛はここに』。この曲を書き上げた直後、ガーシュウィンは亡くなった)、『ラブ・ウォーキード・イン』(Love walked in)。
  • 『ザ・ショッキング・ミス・ピルグリム』(1946): 製作会社は20世紀フォックス。ガーシュウィンの歌を使用。劇中歌『アント・ユー・カインド・オブ・グラード・ウィー・ディド?』(Aren’t you kind of glad we did?)、『ザ・バック・ベイ・ポルカ』(The Back Bay Polka)、『チェンジング・マイ・チューン』(Changing my Tune)、『フォア・ユー、フォア・ミー、フォア・エヴァーモア』(For You, for Me, for Evermore)、『ワン・ツー・スリー』(One, two, three)。
  • 『キス・ミー、ストゥピッド』(Kiss me, stupid)(1964) : 劇中歌『オール・ザ・リブロング・デイ(アンド・ザ・ロング、ロング・ナイト)』(All the Livelong Day (and the Long, Long Night)、『アイム ポーチドエッグ』(I’m a poached egg)、『ソフィア』(Sophia)。

歌曲

オペラ、ミュージカルから独立したもの

  • 『シンス・アイ・ファウンド・ユー』(Since I found you(1913)
  • 『ホエン・ユー・ウォント・エム、ユー・キャント・ゲット・エム』(When you want’em, you can’t get ‘em)(1916)
  • 『ザ・リアル・アメリカン・フォーク・ソング』(The real American folk song)(1918):ミュージカル『レディース・ファースト』より
  • 『香港』(Hong Kong(1918):ミュージカル『8時半』より
  • 『ドーナッツ』(Doughnuts)(1919):ミュージカル『モリス・ジェストの深夜の騒ぎ』より
  • 『スワニー』(Swanee)(1919):『キャピトル・レヴュー』より
  • 『ヤンキー』(Yan-Kee(1920):ミュージカル『モリス・ジェストの深夜の騒ぎ』より
  • 『バックホーム』(Back home)(1920):ミュージカル『Dere Mable』より
  • 『サムワン』(Someone(1922):『巴里のアメリカ人』より
  • 『アクロス・ザ・シー』(Across the Sea)(1922)
  • 『サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー』(Someone To Watch Over Me)(1926):邦題「やさしい伴侶を」。ミュージカル『Oh, Kay!』より。兄アイラが作詞。オフビートで始まりルバート奏法に入っていく。
  • 『アイル・ビルド・ア・ステアウェイ・トゥ・パラダイス』(I’ll Build A Stairway To Paradise)(1928):ミュージカル『For Goodness Sake』より
  • 『アイ・ガッタ・リズム』(I got rhythm(1930):
  • 『バット・ノット・フォア・ミー』(But Not for Me (1930):兄アイラが作詞担当。オフビートで始まりルバート奏法に入っていく。
  • 『エムブレースアブル・ユー』(Embraceable You)(1930):兄アイラが作詞担当。オフビートで始まりルバート奏法に入っていく。
  • 『サマータイム』(Summer Time)(1935):オペラ『ポーギーとベス』のために作曲されたアリア。作詞はデュボーズ・ヘイワード(DuBose Heyward)。1936年にビリー・ホリデイが歌って以来、ジャズのスタンダードナンバーとして時代を超えて様々な場でカバーされている。一例を挙げると、1960年、モダンジャズのサックスプレーヤーであるジョン・コルトレーン(John Coltrane)がこの曲を歌い、『マイ・フェイバリット・シングス』(My favorite things) に収録した。
  • 『ジャスト・アナザー・ルンバ』(Just another rhumba(1938)

ミュージカル

  • 『8時半』(Half Past Eight)(1918)
  • 『1918年のヒッチー=クー『(Hitchy-Koo of 1918)(1918)
  • 『危険なメイド』(A Dangerous Maid(1921)
  • 『お願いだから』(For Goodness Sake(1922)
  • 『虹』(The Rainbow(1923)
  • 『プリムローズ』(Primrose(1924)
  • 『レディー・ビー・グッド』(Lady be Good)(1924):邦題「淑女よ善良なれ」。1924年12月1日初演
  • 『ティップ・トー』(Tip-toes)(1925)
  • 『トレジャー・ガール』(Treasure Girl)(1928)
  • 『ロザリー』(Rosalie)(1928)
  • 『ショー・ガール』(Show Girl)(1929)
  • 『ストライク・アップ・ザ・バンド』(Strike up the Band)(1930)
  • 『ガール・クレイジー』(Girl Crazy)(1930):ミュージカル『クレイジー・ガール』(Girl Crazyにおいてエセル・マーマン(Ethel Merman)13)エセル・マーマン(Ethel Merman): 1908年ニューヨーク市クイーンズ区アストリア地区生まれのアメリカの歌手・女優。「ブロードウェイの女王」と賞賛された。ゴールデングローブ賞主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)受賞(1953)。1984年76歳で没。が歌う『アイ・ガッタ・リズム』( I got rhythm)(1930)は、1930年代から1950年代にかけて、有名な歌手やピアニスト、ジャズミュージシャン、スウィングバンド、オーケストラによって広く演奏・録音された。ガーシュウィンから広まったその調和した枠組みは、ジャズの歴史において最も有名な32小節の構成(32-bar structure)14)32小節の構成(32-bar structure):8小節を1段落とし、その4つ分32小節で曲を構成、「Aメロ(8小節)→Aメロ(8小節)→Bメロ(8小節)→Aメロ(8小節)」の順に演奏。各パートが8小節に維持されてさえいればパートの内部はルバートでテンポを崩しても良いというもの。とされた:いわゆる「リズムの変化」(rhythm changes)である。
  • 『オブ・ジー・アイ・シング』(Of Thee I Sing(1931)
  • 『レットエム・イート・ケーク』(Let ‘em eat cake)(1933)
  • 『ショー・イズ・オン』(The Show is On)(1936)

ガーシュウィンの楽曲が使用されている作品

フィギュアスケートにおいて使用されたガーシュウィンの楽曲

  • 浅田真央(1990〜/日本):2012-13年SP使用曲『アイ・ガッタ・リズム』
  • 金妍兒(キム・ヨナ)(1990〜/大韓民国):2009-2010年フリー使用曲『ピアノ協奏曲ヘ長調』
  • キーラ・コルピ(1988〜/ フィンランド):2011-12年使用曲『アイ・ガッタ・リズム』

ガーシュウィンが生きた時代を知るための文献 | Further Readings

欧語文献

ガーシュウィンの生涯と作品

  • Grove A( Crawford, W. Schneider) [incl. further bibliography]
  • Goldberg: George Gershwin: a Study in American Music (New York, 1931, rev. and enlarged 2/1958)
  • Armitage, ed.:George Gershwin (New York, 1938; repr. 1995 with a new introduction by E. Jablonski)
  • Duke: ‘Gershwin, Shillinger and Dukelsky’, MQ, 33 (1947), 102–15
  • Ewen: A Journey to Greatness (New York, 1956; rev. and enlarged 2/1970/R as George Gershwin: his Journey to Greatness)
  • Armitage: George Gershwin: Man and Legend (New York, 1958/R)
  • Jablonskiand L.D. Stewart : The Gershwin Years (Garden City, NY, 1958, rev. 2/1973)
  • M. Schwartz: Gershwin: his Life and Music (Indianapolis, IN, 1973) [incl. catalogue of works and bibliography]
  • Jablonski: ‘Gershwin at 80: Observations, Discographical and Otherwise, on the 80th Anniversary of the Birth of George Gershwin, American Composer’, American Record Guide, 41 (1977–8), no.11, pp.6–12, 58 only; no.12, pp.8–12, 57–9
  • Jeambar: George Gershwin (Paris, 1982)
  • Jablonski: Gershwin: a Biography, Illustrated (New York, 1987)
  • Jablonski: Gershwin Remembered (Portland, OR, 1992)
  • Rosenberg: Fascinating Rhythm: the Collaboration of George and Ira Gershwin (New York, 1991)
  • Peyser: The Memory of All That (New York, 1993)

音楽史

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  • Levine: ‘Gershwin, Handy and the Blues’, Clavier, 9/7 (1970), 10–20
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  • Wilder: ‘George Gershwin (1898–1937)’, American Popular Song (New York, 1972), 121–62
  • Crawford: ‘Gershwin’s Reputation: a Note on Porgy and Bess’, MQ, 65 (1979), 257–64
  • D. Shirley: ‘Reconciliation on Catfish Row: Bess, Serena and the Short Score of Porgy and Bess’, Quarterly Journal of the Library of Congress, 38 (1980–81), 144–65
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  • E. Gilbert: ‘Gershwin’s Art of Counterpoint’, MQ, 70 (1984), 423–56
  • D. Shirley: ‘Scoring the Concerto in F: George Gershwin’s First Orchestration’, American Music, 3 (1985), 277–98
  • Wyatt: ‘The Seven Jazz Preludes of George Gershwin’, American Music, 7 (1989), 68–85
  • Alpert: The Life and Times of Porgy and Bess (New York, 1990)
  • Hamm: ‘A Blues for the Ages’, A Celebration of American Music, ed. R. Crawford, R.A. Lott and C.J. Oja (Ann Arbor, 1990), 346–55
  • Crawford: ‘George Gershwin’s “I Got Rhythm” (1930)’, America’s Musical Landscape (Berkeley, CA, 1993), 213–36
  • Nauert: ‘Theory and Practice in Porgy and Bess: the Gershwin-Schillinger Connection’, MQ, 78 (1994), 9–33
  • J. Oja: ‘Gershwin and American Modernists of the 1920s’, MQ, 78 (1994), 646–68
  • Forte: ‘Ballads of George Gershwin’, The American Popular Ballad of the Golden Era: 1924–1950(Princeton, NJ, 1995), 147–76
  • E. Gilbert: The Music of Gershwin (New Haven, CT, 1995)
  • Hamm: ‘Towards a New Reading of Gershwin’, Putting Popular Music in its Place (Cambridge and New York, 1995), 306–24
  • Block: ‘Porgy and Bess: Broadway Opera’, Enchanted Evenings: the Broadway Musical from Show Boat to Sondheim (New York and Oxford, 1997), 60–84, 328–9
  • Schiff: Gershwin: Rhapsody in Blue (New York, 1997)
  • Crawford: ‘Rethinking the Rhapsody’, ISAM News Letter, 28/1 (1998), 1–2, 15
  • J. Schneider, ed.:The Gershwin Style: New Looks at the Music of George Gershwin (New York, 1999)

邦語文献

  • 秋元英一『世界大恐慌 : 1929年に何がおこったか』講談社、2009年。
  • ダナ・R・ガバッチア著、一政(野村)史織訳『移民からみるアメリカ外交史 』白水社、2015年。
  • 菊地成孔、大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー : 東大ジャズ講義録』メディア総合研究所、2005年。
  • 北野圭介『ハリウッド100年史講義: 夢の工場から夢の王国へ』平凡社、2017年。
  • デイヴィッド・グッドマン著、長崎励朗訳『ラジオが夢見た市民社会 : アメリカン・デモクラシーの栄光と挫折』岩波書店、2018年。
  • ポール・クレシュ著、鈴木晶訳『アメリカン・ラプソディ : ガーシュインの生涯』、晶文社、1989年。
  • ポール・クローデル著、宇京頼三訳『大恐慌のアメリカ : ポール・クローデル外交書簡1927-1932』法政大学出版界、2011年。
  • 笹田直人、野田研一、山里勝己編著『アメリカ文化55のキーワード』ミネルヴァ書房、2013年。
  • ジョルジュ・サドゥール著、丸尾定訳『ハリウッドの確立1919-1929』国書刊行会、1999年。
  • ジョン・F・スウェッド著、諸岡敏行訳『ジャズ・ヒストリー』青土社、2004年。
  • 末延芳晴『ラプソディ・イン・ブルー : ガーシュインとジャズ精神の行方』平凡社、2003年。
  • 杉野健太郎編著『映画とイデオロギー 』ミネルヴァ書房、2015年。
  • デーヴィッド・ ストウ著、湯川新訳『スウィング : ビッグバンドのジャズとアメリカの文化』法政大学出版局、1999年。
  • 田中正之編『ニューヨーク :錯乱する都市の夢と現実』竹林舎、2017年。
  • 塚田鉄也『ヨーロッパ統合正当化の論理 : 「アメリカ」と「移民」が果たした役割』ミネルヴァ書房、2013年。
  • 中野耕太郎『20世紀アメリカ国民秩序の形成』名古屋大学出版会、2015年。
  • 西山隆行『移民大国アメリカ』筑摩書房、2017年。
  • リチャード・ハドロック著、諸岡敏行訳『ジャズ1920年代 』草思社、1985年。
  • ジョーン・ペイザー著 、小藤隆志訳 『もうひとつのラプソディ : ガーシュインの光と影』青土社、1994年。
  • 前川玲子『亡命知識人たちのアメリカ』世界思想社、2014年。
  • 吉田広明『亡命者たちのハリウッド : 歴史と映画史の結節点 』作品社、2012年。
  • 和田光弘編著『大学で学ぶアメリカ史』ミネルヴァ書房、2014年。

参考文献 | Bibliography

  1. Oxford Music Online(https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.47026
  2. ピティナ・ピアノ曲編集部(https://enc.piano.or.jp/persons/4689
  3. 『日本第百科全書(ニッポニカ)』小学館

Notes   [ + ]

1. アメリカへの移民:19世紀半ばから第一次世界大戦期にかけてヨーロッパ諸国から北米・南米への海外移住が最盛期を迎えた。その背景として、ヨーロッパ諸国側のプッシュ要因とアメリカ大陸側の受け入れ要因がある。まずヨーロッパ諸国では、産業革命の結果、海外貿易・投資が活性化され、海外移住に関する諸制限が撤廃されていった。一方、独立を勝ち取った北米・南米の植民地国においては、未開拓地の発展のために人材が必要とされたため、移住者に対する経済的補助・便宜が準備された。こうしてイギリス、イタリア、オーストリア、ハンガリー、旧チェコスロバキア、スペイン、ポルトガル、ドイツ、そしてガーシュウィンの両親の出身地帝政ロシアなどから多くの人々が新天地に渡った。ところが、1910年前後に最高潮に達した海外移住は、第一次世界大戦、世界恐慌以降、減少していくこととなる。特にアメリカでは、1921年・1924年の移民法によって、年間移民数が制限されることとなった。
2. 兄アイラ・ガーシュウィン:1896年生まれ。弟ジョージと組み、作詞家として数々の名曲を生み出した。アイラは次のようなコメントを残している:「私の歌詞のほとんどは、すでに出来上がった音楽にモザイク細工のようにつなげられていくために、生きているのか死んでいるのか(も分からない)。(中略)極めて奇妙なものになっているのである。」。アイラは、ジョージの急逝(1937)後も他の作曲家と組み活動を続けた。1983年86歳で死去。
3. ティン・パン・アレイ:19世紀末から発展していったニューヨーク市の楽譜出版社や楽器商が集まっていた地区を指す。ニューヨーク市マンハッタンのフラワーディストリクトの5番街と6番街の間西28丁目に位置する。この名は、常に音楽が鳴り響いていたため、鉄鍋を叩いているかのような賑やかさであったことに由来する。
4. ジェローム・ホスメル・レミック(Jerome Hosmer Remick): 1867年デトロイト生まれの楽譜出版経営者、慈善家。1931年没。
5. またはソング・デモストレーター(song demonstrator):20世紀初頭より活動するようになった、百貨店や音楽出版社と契約を結び、新曲を演奏したり歌ったりしてプロモートする歌手やピアニストのこと。蓄音機やレコードが高価な当時、新譜を再生することができる歌手・演奏者は重要な存在であった。
6. ブロードウェイ(Broad Way):ニューヨーク市マンハッタン島を南北に走る大通り。この大通りと7番街との交差点にあたるタイムズスクエア(Times Square)周辺は演劇・映画会社が集中し、アメリカの演劇界の意味でもブロードウェイという言葉が使われる。またここには当時、アメリカの代表的な新聞社ニューヨークタイムズ社のビルがあった。
7. ジョージ・ホワイト(George White):1891年生まれ。俳優、ダンサー、作曲者、劇場のオーナーなどとしても名を馳せた多彩なアメリカの映画プロデューサー。代表作は『ジョージ・ホワイトのスキャンダル』(George White’s Scandals )(1934, 1935, 1945)。1968年ハリウッドにて死去。
8. ジャズ(Jazz):19世紀末から20世紀にかけて、アメリカの黒人の民族音楽と白人の音楽の融合によって、ルイジアナ州ニュー・オーリンズのブラスバンドから生まれた。またオフビート(アフタービート)のリズムによるスウィング感や即興演奏といった特徴を持つ。
9. ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連):1917年、二月革命により帝政ロシアが終焉した後、十月革命によって建国された世界初の社会主義国家。首都モスクワ。当時、ラフマニノフの他、作曲家プロコフィエフなどのロシアの知識人たちがアメリカへ亡命した。1991年解体。
10. 1929年10月世界大恐慌:1929年10月、ウォール街の株式市場が大暴落し、第一次世界大戦後の好景気に沸いていたアメリカのみならず、世界中の都市に影響を与えた恐慌。この恐慌は、経済や産業に影響を与えたのみならず、1930年代のヨーロッパの政治情勢にまで爪痕を残すこととなる。
11. シュロイメ・アンスキー(Shloime Ansky):1863年ベラルーシの都市ヴィチェプスク生まれのイディッシュ語作家・劇作家・民俗学者。ナロードニキ(narodniki)としてロシアのユダヤ系市民のために社会主義活動を行った。1920年死去。
12. CBS(Columbia Broadcasting System):1927年設立のアメリカの放送会社。NBC、ABC、FOXと並ぶアメリカの4大ラジオ会社。
13. エセル・マーマン(Ethel Merman): 1908年ニューヨーク市クイーンズ区アストリア地区生まれのアメリカの歌手・女優。「ブロードウェイの女王」と賞賛された。ゴールデングローブ賞主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)受賞(1953)。1984年76歳で没。
14. 32小節の構成(32-bar structure):8小節を1段落とし、その4つ分32小節で曲を構成、「Aメロ(8小節)→Aメロ(8小節)→Bメロ(8小節)→Aメロ(8小節)」の順に演奏。各パートが8小節に維持されてさえいればパートの内部はルバートでテンポを崩しても良いというもの。
1989年生まれ。京都大学文学部卒業後、同大学院を経て、一橋大学大学院に進学。現在はミラノ大学にて在外研究中。専門はルネサンス期北イタリアの政治文化と外交。ミラノにてピアノ演奏会に出演するなど活動歴多数。好きな作曲家は、バルトーク、ラフマニノフ。 Studentessa in corso di dottorato di ricerca
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