ルクレツィア・ボルジア(ドニゼッティ)

基本情報 | Data

登場人物 | Cast

  • ルクレツィア・ボルジア(Lucrezia Borgia):ソプラノ。この物語の主人公であるフェラーラ公妃。初演を演じたのは、アンリエット・メリク=ラランド(Henriette Méric-Lalande)。その後の歌い手に、ジュリア・グリーシ(Giulia Grisi)(1854年)、テレーゼ・ティージェンヌ(Therese Tietjens)(1849、1877年)、そしてモンセラート・カヴァリエ(Montserrat Caballé)(1965年)がいる。
  • ジェンナーロ(Gennaro):テノール。ルクレツィアの生き別れの息子。初演を演じたのはフランチェスコ・ペドラッチ(Francesco Pedrazzi)。
  • マッフィオ・オルシーニ(Maffio Orsini):メゾ・ソプラノ。初演を演じたのは、マリエッタ・ブランヴィラ(Marietta Brambilla)。
  • リヴェロット(Liverotto) :テノール。
  • ヴィテロッツォ(Vitellozzo):バス。
  • フェラーラ公アルフォンソ・デステ(Alfonso d’Este):バス・バリトン。ルクレツィアの夫であるフェラーラ公。初演を演じたのはルチアーノ・マリアーニ(Luciano Mariani)。

ダンテ・ガブリエル・ロゼッティ作『ルクレツィア・ボルジア』(1871年)

あらすじ | Synopsis

プロローグ

ジェンナーロ、マッフィオ・オルシーニ、リヴェロットそしてヴィテロッツォは、ヴァネツィアのカーニバルにやってきた若者であった。その中でも、かつてボルジア家の政敵であったオルシーニは、かつてのリミニでの戦いを思い出し、ボルジア家の恐ろしさ 1)ボルジア家とオルシーニ家:1492年、ボルジア家出身の枢機卿ロドリーゴ・ボルジアが教皇アレクサンデル6世として即位した。アレクサンデル6世は、親族を重職につけ、政敵を排除するなど、一族の基盤を固めるために政治的手腕をふるった。オルシーニ家もボルジア家の宿敵となっていたローマの領主貴族(Barone)であり、彼らの争いは、都市ローマのみならず、地方の党派や有力者とも結びつき、規模を拡大していった。アレクサンデル6世は、1500年のリミニでの戦いにおいて、その息子チェーザレ・ボルジアを派遣し、侵攻した。オルシーニはこの戦いの記憶をここでは語っていると考えられる。を語りだす(1. アリア「リミニの戦いで (Nella fatal di Rimini)」)。そうこうしているうちに、横になって休むジェンナーロを一人残し、若者たちはその場を去っていく。そこに、仮面をつけた女性が現れ、愛情に満ちた目で眠るジェンナーロを見つめる(2. ロマンス「なんと美しい!(Com’ e bello!)」)。ジェンナーロが目を覚ますと、この若者が自身の息子であることに気づいていたルクレツィアは彼の過去について尋ねた。目の前の女性との関係を知らないジェンナーロは、自身の身の上について語る(3. アリア「卑しい漁師の息子と信じてきたが(Di pescatore ignobile esser figliuol credei)」)。しかしながら、ジェンナーロの仲間たちが戻ってくると、彼らは口々にこの美しい女性は悪名高いボルジアの女、ルクレツィア・ボルジアであることをジェンナーロに教え、ジェンナーロは恐れおののく(4. 六重唱「シニョーラ、マッフィオ・オルシーニです。あなたに兄弟を殺された(Maffio Orsini, signora, son’ io cui svenaste il dormente fratello)」)。

第一幕

一方フェラーラでは、ルクレツィアの4番目の夫フェラーラ公アルフォンソ・デステ2)フェラーラ公アルフォンソ・デステ:実際には、ルクレツィアの3番目の夫で最後の夫。1番目の夫は、ミラノのスフォルツァ家と親族関係にあったペーザロの領主ジョヴァンニ・スフォルツァであった。1493年に執り行われたこの結婚は、その前年の1492年、ルクレツィアの父アレクサンデル6世の教皇選挙の時、ミラノのスフォルツァ家出身の枢機卿アスカニオ・スフォルツァの助力を得たため、スフォルツァ家と教皇が関係を深めるために取り決められたものであった。結婚当時、ルクレツィアはわずか13歳の少女であった。その後、この夫を「不能」と枢機卿会議で認定し、2人の婚姻を無効とした教皇は、ナポリと同盟関係を結ぶために、2番目の夫をナポリから迎えることにした。1498年、ナポリ王の庶子アルフォンソ・ダラゴーナとルクレツィアの結婚式が執り行われ、年の近かった二人は仲睦まじい結婚生活を送っていた。ところが、その幸せは長く続かず、アルフォンソは、1500年何者かによって暗殺された。アルフォンソの死に嘆き悲しんだルクレツィアであったが、悲しみに沈む間もなく、教皇の娘として、次の夫を迎える必要があった。こうして1502年にフェラーラのエステ家の嫡出子アルフォンソ・デステと結婚し、後にルクレツィアはフェラーラ公妃となる。スパイから、ジェンナーロはルクレツィアの愛人である疑いがあることを聞かされた。このスパイは、アルフォンソが、政敵に復讐するために送っていた者であった(1. 大アリア「来たれ、我が復讐よ(Vieni: la mia vendetta)」)。一方、フェラーラにやってきたジェンナーロとその仲間たちであったが、ルクレツィアのことについて仲間たちはジェンナーロのことをからかった。怒ったジェンナーロは、宮殿のファザードに書かれたルクレツィア(Lucrezia Borgia)の紋章を見て、そこから”B”の文字を切り落とし、オルギア(Orgia)3)オルギア:古代ギリシアにおいて、特に豊穣とブドウ酒の神であるディオニュソス(バッカス)を讃える熱狂的な儀礼の形態。英語の「どんちゃん騒ぎ(orgy)」はこのオルギアに由来している。として、ボルジア家を罵った。この侮辱に激情したルクレツィアは、夫アルフォンソに仇を討つように指示した。ジェンナーロが捕らえられ、その当事者がジェンナーロであることを知ったルクレツィアは、この若者の身を案じたが、ひとまず、夫アルフォンソによるジェンナーロ毒殺計画に従うふりをした。夫アルフォンソがその場を去ると、ルクレツィアはこの若者に解毒剤を与え、フェラーラを直ちに去るように命じた(2. 二重唱「2人だけになったぞ(Soli noi siamo)」)。

第二幕

立ち去る前に、マッフィオ・オルシーニは、公爵夫人ネグローニの邸宅にて開かれる舞踏会に参加すべきであると主張した。そこで気の緩んだオルシーニは酒を飲みながら歌ったが(1. 乾杯の歌「幸せでいるための秘密(Il segreto per esser felici)」) 、その歌は不吉な声によって中断された。ジェンナーロとその仲間たちは、慌てて逃げようとしたが、すでに扉には鍵がかけられていた。そこでルクレツィアが突然現れると、一族を侮辱されたことの報復として彼らのワインに毒をもったことを告白した。それはジェンナーロがすでにフェラーラを発ったものと思い、その他の仲間たちをまとめて始末しようと計画したためであった。ジェンナーロ以外の若者たちが連行されると、ルクレツィアとその息子ジェンナーロのみが残った。彼女は、ジェンナーロを傷つけるつもりはなかったとして、解毒剤を飲むように懇願した(2. 二重唱「あなたがここに!(Tu pur qui)」)。ルクレツィアが自分は母であることを告げても、ジェンナーロはその申し出を断った。こうして毒がまわり、ジェンナーロの息は絶えた。その屍を見つつ、ルクレツィアは、この若者が自分の息子であることを告白し、卒倒した(3. カヴァレッタ「この若者は私の息子でした(Era desso il figlio mio)」)。

上演史

ドニゼッティは、原案となったヴィクトル・ユーゴーの小説『リュクレス・ボルジャ』(Lucrèce Borgia)の中に描かれるルクレツィアの犠牲者の6つの棺が突然現れるというワンシーンに感銘を受けた。ところがミラノ当局は、このエピソードを拒否した。実際のところ、この主題は、上演するのに相応しくないと判断されていたために、1833年12月、ミラノのスカラ座で初演日を迎えるまで、3年の月日を要することになった。またしばらくの間、この作品には別の名前がつけられたり、非キリスト教国に舞台が移されたりした。

スカラ座での2回目の上演は、1840年1月であった。この時、ドニゼッティは、エンディングシーンを変えるために、死んでゆくジェンナーロのアリオーソ(arioso)4)詠唱(aria)と叙唱(recitative)の中間のようなもの。を付け加え、ルクレツィアの最後のカバレッタ(cabaletta)5)カバレッタ:オペラのアリアまたは二重唱の一種。カバティーナの後で歌われるテンポの速い活発な曲。を省いた。なぜなら息子の死に対し、華々しく母が歌うというのは不自然だとドニゼッティが考えたからであった。1840年以降、『ルクレツィア・ボルジア』は、繰り返し上演される作品となり、その人気は19世紀末に至るまで続いた。また、同時代の作曲家フランツ・リストは、この『ルクレツィア・ボルジア』の他、ドニゼッティの作品に影響を受けて幻想曲を作曲している。

歴史的背景|Historical context

ルクレツィアの子供たち:ジェンナーロの正体

ルクレツィア・ボルジア(1480-1519年)は、本作にも登場する(正確には3番目の)夫フェラーラ公アルフォンソ・デステ(1476-1534年)と結婚するまでに、2人の息子を産んだとされている。ジェンナーロは、ルクレツィアがフェラーラのアルフォンソに嫁ぐ前にもうけられ生き別れたという設定であるが、ここではジェンナーロのモデルとなったと考えられる2人の息子を取り上げよう。

1493年、13歳のルクレツィアは、ペーザロ領主ジョヴァンニ・スフォルツァ(1466-1510年)と一回目の結婚をする。ところがその幼さゆえに妻としての務めを果たすことができないとして、ルクレツィアは、父である教皇アレクサンデル6世(1431-1503年)のもとで過ごす期間が長かった。その一方で、ジョヴァンニは、軍役に就くなど別居状態が続いた。そうこうするうちに政局が変わり、父教皇の意向で2人の結婚が無効であることが主張されるようになった。ここでジョヴァンニは、婚姻の無効は、自らの不能のせいであるという証言をするように強いられた。1497年12月、ジョヴァンニの親族にあたるミラノ出身の枢機卿アスカニオ・スフォルツァ(1455-1505年)のとりなしにより、婚姻の無効が成立した。この侮辱的な仕打ちに激昂したジョヴァンニは、ほとんどローマに滞在していたルクレツィアへの当て付けとして、父教皇との近親相姦の関係にあったという噂を触れ回った。その真偽を判断することはできないが、この父と娘の暗い噂は、その後も物語として再生され続けていくこととなる。

ピントゥルッキオ(1454-1513年)によってヴァチカン宮殿ボルジアの間のフレスコ壁画として描かれたもの

婚姻解消後、ローマで過ごしていたルクレツィアであったが、1498年3月、男児を出産する。ジョヴァンニ・ボルジア(Giovvani Borgia)(1498-1548年)と名付けられた赤子は、「ローマの子供」(l’Infante romano)としてヴァチカンで養育された。この子供が生まれる一ヶ月前の1498年2月、ティヴェレ川に教皇の従者であったペドロ・カルデンの亡骸があがったが、この若者がローマの子供の父親だと考えられている。ルクレツィアがフェラーラに嫁ぐ前の1501年9月1日、教皇は、このローマの子供がルクレツィアの兄チェーザレの子供であるという勅書を出した。ところが、この勅書の後に、教皇はローマの子供はルクレツィアの子供であるという勅書を出そうとした。それは、次期フェラーラ公アルフォンソ・デステとの婚姻が成立する段になって、次期フェラーラ公妃ルクレツィアの私生児としてローマの子供を認め、フェラーラの財産に対する権限を少しでも確保したいという教皇の意図であった。

このローマの子供の誕生とほぼ時を同じくして、ルクレツィアの2番目の婚姻が取り決められた。2番目の夫は、ナポリ王の親族にあたりルクレツィアより少し歳の若いサレルノ君主・ビシェリエ公アルフォンソ・ダラゴーナ(1481-1500年)であった。1498年7月、ヴァチカンにて結婚式が執り行われた。ルクレツィアはアルフォンソを心から愛し、またアルフォンソもそれに応え、2人は仲睦まじい夫婦であった。ところがその幸せは長くは続かなかった。それは、1499年5月12日、兄チェーザレと、ナヴァラ王の妹シャルロットの結婚式が行われるなど、教皇一族は、ナポリとの友好関係よりも、フランスと同盟関係を選ぶようになったからである。1499年8月2日、夫アルフォンソは、この政局を案じ、仲間を連れてローマから逃亡した。この時、アルフォンソの子を宿していたルクレツィアは、悲しみにくれる間も無く、8月半ば、統治官として任命されてスポレートに赴いた。そうこうするうちに逃亡から戻ってきた夫とローマに戻ったルクレツィアは再会し、同年11月、ルクレツィアは、ロドリーゴと名付けられる男児(1500-1512年)を出産した。

しばらく事態は落ち着きを見せたかのように思われたが、事件は1500年7月半ばに起きた。アルフォンソは何者かによって攻撃され重傷を負った。息も絶え絶えのアルフォンソをルクレツィアは、必死に看病し、数週間後、彼は小康状態を得た。ところが、8月18日、部屋に侵入した兄チェーザレの腹心ミケロットによってアルフォンソは暗殺された。夫の死の悲しみに沈む間も無く、20歳の未亡人ルクレツィアのもとには次々と縁談が舞い込んだ。1501年9月、フェラーラに向けて次なる婚姻のために旅立つことに決めたルクレツィアは、ローマの子供のジョヴァンニとロドリーゴにローマ内の所領を譲った。こうして、1502年1月6日、ルクレツィアは、幼い息子たちを残してローマから旅立った。

ここまでが、フェラーラに嫁ぐまでのルクレツィアの半生であり、フェラーラに嫁いだ後、彼女は、およそ6人の子供を3番目の夫アルフォンソとの間にもうけたとされている。少なくとも、ローマの子供ジョヴァンニ・ボルジアの方は、おそらくローマから呼び寄せられたのか、フェラーラで生まれた1508年生まれのエルコーレ(後のフェラーラ公)や1509年生まれのイッポリートといった義父兄弟と共に育ったとされる。彼女がローマで産んだとされる2人の息子の影は薄いとはいっても、ローマの子供ジョヴァンニ・ボルジアは1548年まで生きたとされており、毒殺のような悲劇的な結末は迎えていないようである。

ジョン・コリア作『チェーザレ・ボルジアと一杯のワイン』(1893年)

元「教皇の娘」6)父教皇アレクサンデル6世の崩御(1503年):ルクレツィアがフェラーラに嫁いだ翌年の8月、父である教皇が崩御した。これを機に、兄である教皇軍総司令官チェーザレ・ボルジアも敗戦を重ね、ボルジア家は没落の一途をたどった。ところが、すでにフェラーラに嫁いでいたルクレツィアの名声は衰えることなく、ルクレツィアは夫のもとで安定した後半生を送ることができた。このボルジア家の衰退という悲劇に悲しむルクレツィアを慰めたのが、当時フェラーラの宮廷に滞在していたヴェネツィア出身の枢機卿ピエトロ・ベンボである。ベンボとルクレツィアは、生涯書簡を通じて交流した。、現フェラーラ公妃として注目されていたルクレツィアの2人の子(とされるもの)は、フェラーラでの子供と対照的に、その消息は謎に包まれてきた。それゆえに、ドニゼッティのオペラのような生き別れの母息子という設定が生まれたのであろう。

ファム・ファタール?賢妻?土地経営者?

ドニゼッティの本作が示しているように、ルクレツィア・ボルジアには常にスキャンダラスなイメージが付きまとっている。特に19世紀のロマン派の芸術家たちにとって、ルクレツィアは格好の素材となり、毒殺、近親相姦、類稀な美貌などのイメージを相まって彼女の像はさらに膨らんだ。それゆえに、20世紀に入ってからも、小説、映画などが生産され続け、そこでは、悪徳と欲望に満ちたボルジア家というように描かれている。

『ボルジア 欲望の系譜』(season 1-3)(フランス、ドイツ)(2011-2014年)にてルクレツィアを演じたイゾルデ・ディシャウク

ところが20世紀末になると、歴史学の分野では、ボルジア家について再考されるようになった。例えば、1999年には、ローマにて行われたシンポジウムをもとに論文集が刊行されたり、2006年には「教皇アレクサンデル6世(1492-1503)治世500周年記念シンポジウム」が開催されたりするなど、長らく物語の題材にはなっても研究の対象とはされてこなかった状況が変わりつつある7)Roma di Fronte all’Europe al Tempo di AlessandroVI, vol. 1-3, a cura di M. Chaibo, S. Maddalo e A. M. Oliva, Roma, 2001.。その一環として、ルクレツィア個人についての研究も新たな見地を得ることとなった。ここでは、このような研究状況を参考に、有能な土地経営・管理者としてのルクレツィアの一面を紹介したい。

まず、ルクレツィアは、1498年に父教皇からネーピ、セルモネータ、カエターニといった教皇領のいくつかの領地を受け取っていたれていた。そのうち、ネーピについては、1499年秋、2番目の夫アルフォンソの死を悲しみローマを離れたルクレツィアが実際に滞在していた領地であった。これらの領地の一部は、1501年、3番目の夫アルフォンソとの結婚が決まった際に、ルクレツィアがローマで出産した2人の子供、ローマの子供ことジョヴァンニとロドリーゴに譲られた。その後、ルクレツィアは、フェラーラに嫁いだ後、土地管理・経営者としての才覚を見せるようになる。投資によって財産を増やしたルクレツィアが力を入れたことは、干拓事業であった。彼女の始めた干拓事業は、その孫アルフォンソ2世の代となった1564年には、フェラーラのポレージネにおいて9000エッタリ(おそらく21000エーカー)と大規模に行われるようになったのである。この16世紀半ばの干拓事業は、ポー川下流域の沈殿物の蓄積や、主要収入であった通行税の減少によって苦しんでいたフェラーラ公国の財政を救うものであった。結果的にこの事業は、ヴェネツィアというライバル出現によって頓挫するものの、16世紀前半に生み出された資金を投資し湿地や休閑地を耕作地に変えるというルクレツィアのヴィジョンは特筆すべきものである。

このような事業の他に、ルクレツィアがフェラーラで力を入れていたことは信仰生活であった。1515年から1518年の間に建てられたコルソ・ジョヴェッカに位置する宮廷は、ルクレツィア個人が信仰生活を全うするための別荘でもあった。また彼女の周りには、修道士がいたことなどから、彼女の宮廷は修道院のようであったと評する声もある。つまり、ルクレツィアのフェラーラ時代を特徴づけていたのは、信仰心と企業精神であったと言えよう 8)Diane Yvonne Ghirardo, “Lucrezia Borgia as Entrepreneur”, Renaissance Quarterly, 61. 2008, pp. 53-91.

以上のように、研究史上の見解から見るルクレツィアの像は、フェラーラに嫁いでからに限定されるものの、ドニゼッティの本作とは異なるものである。よく、父や兄に翻弄された前半生と比べて、フェラーラでの後半生は不倫の恋を楽しみながらも穏やかなものであったと評されることの多いルクレツィアであるが、妊娠と出産を繰り返しながらも、夫の財力に頼ることなく、所領管理する姿は一人の君主のようである。さらなる研究の進化によって、新たなルクレツィア像が生まれることであろう。

ルネサンス期のファションアイコン

ルクレツィア・ボルジアは、いわゆるファッション・アイコンであった。父教皇の死によるボルジア家の凋落にも関わらず、生涯を通じて当時の宮廷の中心にいたルクレツィアは、常に人びとの目を惹きつけていた。その容貌は、ほっそりとした体つきに豊かな金髪、イタリア語やスペイン語に加えラテン語やギリシア語の教養を身につけ、ダンスを得意としていた彼女は、当時の人びとにとっても大変魅力的に映ったようである。そんなルクレツィアの衣装の華やかさを語る2つのエピソードをここでは紹介する。

豪華な行列

ルクレツィアは、1499年8月、父教皇によってスポレート統治官任命され、ローマからスポレートへと旅立った。

スポレートのアルボルノツィアーナ城塞と城塞内の教皇の間。この城塞にルクレツィアは滞在した。

その出発の模様を、教皇庁の式部官ブルカルド(1445?1450-1506年)が詳細に記録している。このブルカルドは、役人として5人の教皇に仕え、1483年から1506年に至るまで日記を残している。教皇庁の内情を細やかにラテン語で描いたブルカルドの日記は、イタリア語ばかりか、英語にも訳されたために、多くの物語の素材となった。しかし、シニカルでフラットな筆致ながらもブルカルドが重視したのは、教皇庁の儀礼・典礼の記述であった。そんなブルカルドによって、ルクレツィアは次のように描かれている。

8月8日木曜日、猊下〔=教皇アレクサンデル6世〕のご令嬢ルクレツィア・ボルジア・ダラゴーナは、スポレートへ向かうためにポポロ門からローマを離れられた。その統治官の職を、聖下によって託されたのであった。彼女と一緒に、その左には、弟君であるスキラーチェ公ホフレ・ボルジア・ダラゴーナもいた。広場の上の開廊から、教皇は、荷物を積んだ多くの動物が続いた行列を眺めておられた。サン・ピエトロ大聖堂の階段まで自ら来られたルクレツィアと弟君は、馬あるいはラバに乗り、帽子を脱いで教皇の方を向いた。そして最後に恭しく、改めて許可を求めるために頭を下げた。猊下は、窓から、三回、神のご加護を願った:そのようにしてご子息は旅立たれた。

 

彼らの前には、教皇庁の護衛の兵と都市の統治官が、整然と並んで先に進んでいた。敷き藁とマットレスを乗せたラバ、花模様が施された毛布、白いダマスクス織の二つの枕、そして美しい移動天蓋。これらを、乗馬に疲れたルクレツィアが横になる時は、何人かの者で担ぐのであった。また別のラバは、鞍を乗せ、そこには背もたれと足台も付いた高座が固定されており、絹で覆いがされ豪華に装飾がなされていた:望む時にルクレツィアが快適に座れるように。

 

サン・ピエトロ広場からサンタンジェロ門まで、ルクレツィアの右には、ナポリ王の大使が付き従っていた;その後、その都市の統治官が付き従った。二人にそれぞれ高位聖職者が続き、その後群衆も続いた:猊下に賞賛と栄光があらんことを! 9)Alla corte di cinque Papi: Diario 1483-1506 di Giovanni Burcardo, a cura di L. Bianchi, Milano, 1988, p. 300.

1499年8月8日にローマを出発した一行は、ナルニ、フラミニア、サンジェミニ、カルソーリ、ポルカリアを6日間かけて進み、8月15日にスポレートに到着する。特筆すべきは、数日間の移動の際にもルクレツィアが快適に過ごせるよう、花模様の毛布にダマスクス織の枕、そして美しい天蓋と贅と尽くした装備がなされたということであった。ローマからスポレートへと至る間に通過した各地方都市の人々は、この豪華で優雅な行列を目にしたはずである。残念ながら、ルクレツィアの衣装についてまでの記述は確認できなかったが、まさに視覚に訴える教皇の娘の威光であったと言えよう。

「あの女(ひと)の着ているものが知りたい」

フェラーラに嫁いでからのルクレツィアは、宮廷に一流の人文主義者や芸術家を招いた。その中心にいたルクレツィアのファッションは、フェラーラに訪れる人びとの関心の的であったようである。ルクレツィアの義姉であるマントヴァ候夫人イザベッラ・デステ(1474-1539年)も、大使などを通じてルクレツィアの衣装について逐一情報を得ようとしていた。なお、このイザベッラ自身も、レオナルド・ダ・ヴィンチといった芸術家と交流し、マントヴァの宮廷を芸術の一大拠点にしようとしたルネサンスの女性であった。

ティツィアーノ作『イザベラ・デステの肖像』(1534年 – 1536年頃)

ここでは、ルクレツィアのフェラーラ時代を物語る2つの史料を紹介しよう。まず、前述のブルカルドの日記には、ルクレツィアに送られた数々の宝飾品について記述されている。ルクレツィアがローマを離れフェラーラに向けて出発したのは、1502年1月6日、フェラーラに到着したのは2月2日であるが、その前の1501年12月30日、ヴァチカンにてパーリオ(競馬レース)が催された。この催しの場で、未来の夫アルフォンソの弟である枢機卿イッポリート・デステ(1479-1520年)とシジスモンド・デステ(1480-1524年)は、花婿の名でルクレツィアへ宝飾品を送った。まず、ルクレツィアに金の指輪がつけられた後、ダイヤモンド、ルビー、エメラルド、トルコ石の4つの指輪が送られた。さらに、15のダイヤモンドと15のルビー、40の真珠がついた帽子、細やかな細工のネックレス、高価な石のついた4つのネックレス、真珠のついた大きな4つのネックレス、ダイヤモンドなどの宝石のついた煌びやかな4つ十字架など。そのうちの一つがルクレツィアの首にかけられた。ブルカルドによると、これらの価値は8000ドゥカートにものぼるとのことであった。花婿の家から花嫁への贈り物は、ブルカルドが詳細に記録していることからも、公衆の場で、しかも人が大勢集まった催し物の場で行われ、それは嫁ぎ先のエステ家の財力を見せつけるものでもあった 10)Alla corte di cinque Papi: Diario 1483-1506 di Giovanni Burcardo, a cura di L. Bianchi, Milano, 1988, pp. 366-367.

また、フェラーラへのルクレツィアの嫁入り道具の数々を記載した目録が、モデナ国立図書館に所蔵されているという。そこには、衣装をはじめとして、銀食器、布類、小物類が事細かに記載されており、中でも黒や薄緑がかった灰色、深紅などのゴンネッラ11)ゴンネッラ(gonnella):当時の上流階級の女性が着た袖付きのゆったりした服。は56着にものぼる12)伊藤亜紀『青を着る人びと』東信堂、2016年、133-140頁。藤内哲也編著『はじめて学ぶイタリアの歴史と文化』ミネルヴァ書房、2015年、266-284頁。

以上ルクレツィアの宝飾品と衣装を見てきたが、ルクレツィアの持参したゴンネッラは特に黒といった暗い色が多かったようである。贈り物の高価な宝飾品が普段使いのものであったのか、それとも保存用・式典用であったのかは定かではないが、仮に、シックな色の衣装にダイヤモンドや真珠の白っぽい煌びやかな宝飾品が合わせられたとしたら、そのコントラストはこの上なく美しいコントラストとして人々の目に映ったはずである。残念ながら、同時代の貴族女性に比べて、確実にルクレツィアとされる肖像は極めて少ない。彼女の容貌やセンスは、当時の文字史料から想像することしかできないが、極めて洗練されたその佇まいは、女性たちからも憧れていたことが考えられるであろう。

参考文献

ルクレツィアが登場する小説・エッセイ

  • アレクサンドル・デュマ著、田房直子『ボルジア家』作品社、2016年。
  • 塩野七生『ルネサンスの女たち『ルネサンスの女たち』(中央公論社、1969年/中公文庫、1973年、 1996年(改版) /新潮文庫、2012年)。
  • 中田耕『ルクレツィア・ボルジア (上) (下)』集英社、1984年。
  • Dario Fo13)ダリオ・フォ(1926-2016年):イタリアのノーベル文学賞(1997年)作家。英訳版のタイトルはThe Pope’s Daughter, La Figlia del Papa, Milano, 2014.

映像作品

  • 『ボルジア家の毒薬』(原題:Lucrèce Borgia)(フランス、イタリア、1953年)。
  • 『ボルジア家 愛と欲望の教皇一族』(season 1-3)(原題:The Borgias)(アメリカ、2011-2013年)。
  • 『ボルジア 欲望の系譜』(season 1-3)(原題:Borgia)(フランス、ドイツ)(2011-2014年)。

漫画

  • 川原泉『バビロンまで何マイル?』白泉社、1991年。
  • 惣領冬実『チェーザレ:破壊の創造者』講談社、2005年〜(現在11巻まで刊行中)。
  • 氷栗優『カンタレラ』秋田書店、2001-2010年(全12巻)。

研究文献

  • Alla corte di cinque Papi: Diario 1483-1506 di Giovanni Burcardo, a cura di L. Bianchi, Milano, 1988.
  • LUCREZIA Borgia, duchessa di Ferrara, Dizionario Biografico degli Italiani, vol. 66 (2006) a cura di Raffaele Tamalio.(http://www.treccani.it/enciclopedia/lucrezia-borgia/)
  • Feci, “Signore di curia. Rapporti di potere ed esperienze di governo nella Roma papale”, in: L. Arcangeli and S. Peyronel (eds.), Donne di potere nel Rinascimento, Roma, 2008, pp. 195-222.
  • Ferente, “Women and the state”, in: A. Gamberini and I. Lazzarini (eds.), The Italian Renaissance State, Cambridge, 2012, pp. 345-356.
  • Diane Yvonne Ghirardo, “Lucrezia Borgia as Entrepreneur”, Renaissance Quarterly, 61. 2008, pp. 53-91.
  • Gregorovius, Lucrezia Borgia, according to original documents and correspondence of her day, New York, 1903.
  • Lucrezia Borigia: Storia e mito, a cura di M. Bordin e P. Trovato, Firenze, 2006.
  • Anna Maira Oliva, ‘Cesare e Lucrezia Borgia negli archivi e nelle biblioteche italiane. Alcune riflessioni’, in Il Simposi Borja Els fills del senyor papa, 2, Revista Borja, 2007, pp. 315-323
  • Pellegrini, Ascanio Maria Sforza: La parabola politica di un cardinale-principe del rinascimento, Roma, 2002.
  • Roma di Fronte all’Europe al Tempo di AlessandroVI, vol. 1-3, a cura di M. Chaibo, S. Maddalo e A. M. Oliva, Roma, 2001.
  • Shaw, ‘Alexander VI, Cesare Borgia and the Orsini’, in: European Studies Review, 11, 1981, pp.1-23.
  • Zarri, “Il Rinascimento di Lucrezia Borgia”, in Scienza & Politica, 37, 2007, pp. 63-75.
  • 伊藤亜紀『青を着る人びと』東信堂、2016年。
  • 藤内哲也編著『はじめて学ぶイタリアの歴史と文化』ミネルヴァ書房、2015年。
  • ピエトロ・ベンボ、仲谷満寿美訳『アゾーロの談論』ありな書房、2013年。

Notes   [ + ]

1. ボルジア家とオルシーニ家:1492年、ボルジア家出身の枢機卿ロドリーゴ・ボルジアが教皇アレクサンデル6世として即位した。アレクサンデル6世は、親族を重職につけ、政敵を排除するなど、一族の基盤を固めるために政治的手腕をふるった。オルシーニ家もボルジア家の宿敵となっていたローマの領主貴族(Barone)であり、彼らの争いは、都市ローマのみならず、地方の党派や有力者とも結びつき、規模を拡大していった。アレクサンデル6世は、1500年のリミニでの戦いにおいて、その息子チェーザレ・ボルジアを派遣し、侵攻した。オルシーニはこの戦いの記憶をここでは語っていると考えられる。
2. フェラーラ公アルフォンソ・デステ:実際には、ルクレツィアの3番目の夫で最後の夫。1番目の夫は、ミラノのスフォルツァ家と親族関係にあったペーザロの領主ジョヴァンニ・スフォルツァであった。1493年に執り行われたこの結婚は、その前年の1492年、ルクレツィアの父アレクサンデル6世の教皇選挙の時、ミラノのスフォルツァ家出身の枢機卿アスカニオ・スフォルツァの助力を得たため、スフォルツァ家と教皇が関係を深めるために取り決められたものであった。結婚当時、ルクレツィアはわずか13歳の少女であった。その後、この夫を「不能」と枢機卿会議で認定し、2人の婚姻を無効とした教皇は、ナポリと同盟関係を結ぶために、2番目の夫をナポリから迎えることにした。1498年、ナポリ王の庶子アルフォンソ・ダラゴーナとルクレツィアの結婚式が執り行われ、年の近かった二人は仲睦まじい結婚生活を送っていた。ところが、その幸せは長く続かず、アルフォンソは、1500年何者かによって暗殺された。アルフォンソの死に嘆き悲しんだルクレツィアであったが、悲しみに沈む間もなく、教皇の娘として、次の夫を迎える必要があった。こうして1502年にフェラーラのエステ家の嫡出子アルフォンソ・デステと結婚し、後にルクレツィアはフェラーラ公妃となる。
3. オルギア:古代ギリシアにおいて、特に豊穣とブドウ酒の神であるディオニュソス(バッカス)を讃える熱狂的な儀礼の形態。英語の「どんちゃん騒ぎ(orgy)」はこのオルギアに由来している。
4. 詠唱(aria)と叙唱(recitative)の中間のようなもの。
5. カバレッタ:オペラのアリアまたは二重唱の一種。カバティーナの後で歌われるテンポの速い活発な曲。
6. 父教皇アレクサンデル6世の崩御(1503年):ルクレツィアがフェラーラに嫁いだ翌年の8月、父である教皇が崩御した。これを機に、兄である教皇軍総司令官チェーザレ・ボルジアも敗戦を重ね、ボルジア家は没落の一途をたどった。ところが、すでにフェラーラに嫁いでいたルクレツィアの名声は衰えることなく、ルクレツィアは夫のもとで安定した後半生を送ることができた。このボルジア家の衰退という悲劇に悲しむルクレツィアを慰めたのが、当時フェラーラの宮廷に滞在していたヴェネツィア出身の枢機卿ピエトロ・ベンボである。ベンボとルクレツィアは、生涯書簡を通じて交流した。
7. Roma di Fronte all’Europe al Tempo di AlessandroVI, vol. 1-3, a cura di M. Chaibo, S. Maddalo e A. M. Oliva, Roma, 2001.
8. Diane Yvonne Ghirardo, “Lucrezia Borgia as Entrepreneur”, Renaissance Quarterly, 61. 2008, pp. 53-91.
9. Alla corte di cinque Papi: Diario 1483-1506 di Giovanni Burcardo, a cura di L. Bianchi, Milano, 1988, p. 300.
10. Alla corte di cinque Papi: Diario 1483-1506 di Giovanni Burcardo, a cura di L. Bianchi, Milano, 1988, pp. 366-367.
11. ゴンネッラ(gonnella):当時の上流階級の女性が着た袖付きのゆったりした服。
12. 伊藤亜紀『青を着る人びと』東信堂、2016年、133-140頁。藤内哲也編著『はじめて学ぶイタリアの歴史と文化』ミネルヴァ書房、2015年、266-284頁。
13. ダリオ・フォ(1926-2016年):イタリアのノーベル文学賞(1997年)作家。英訳版のタイトルはThe Pope’s Daughter
1989年生まれ。京都大学文学部卒業後、同大学院を経て、一橋大学大学院に進学。現在はミラノ大学にて在外研究中。専門はルネサンス期北イタリアの政治文化と外交。ミラノにてピアノ演奏会に出演するなど活動歴多数。好きな作曲家は、バルトーク、ラフマニノフ。 Studentessa in corso di dottorato di ricerca
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