ニコロ・パガニーニ

ニコロ・パガニーニ(Niccolò Paganini):生:1782年10月27日(ジェノヴァ共和国 (現在のイタリア共和国のジェノヴァ))/没 : 1840年5月27日(サルデーニャ王国領ニッツァ(現在のフランス共和国ニース))。イタリアのヴァイオリニスト・作曲家。彼の優れた技能は、ヴァイオリンの歴史に貢献したとともに、同時代のロマン派の音楽家たちにも大きな影響を与えた。

生涯 | Biography

1. 少年時代からルッカでの活動まで(1801-09年)

1782年10月27日、ジェノヴァにてパガニーニは、父アントニオ・パガニーニ(Antonio Paganini)(1754-1817)と母テレサ・ボッチャルド(1757-1831)の間に生まれた。パガニーニは、アマチュアの音楽家であり湾岸労働者であるその父アントニオからマンドリンとヴァイオリンの音楽教育を受けた。パガニーニの才能を見出した父は、息子をプロのヴァイオリニストであるジョヴァンニ・チェルヴェット(Giovanni Cervetto (or Sevetto))、指揮者ジャコモ・コスタ(Giacomo Costa)、そして作曲家のフランチェスコ・ニェッコ(Francesco Gnecco)に師事させることにした。12歳の頃から地元の教会などに楽曲を提供するようになっていたパガニーニは、フランス革命を題材にしたヴァリオリンとギターのための14変奏曲である『カルマニョーラ』(Carmagnola)を作曲した。またこの頃、パガニーニを指導したパルマの公爵の劇場のトップを務めていたアレッサンドロ・ローラ(Alessandro Rolla)はこの少年の傑出したテクニックに圧倒され、作曲をフェルディナンド・パエル(Ferdinando Paer)に師事しい行くように勧めた。1796年末、パガニーニがジェノヴァに戻った際にはすでに管弦楽編曲法と対位法の理論を習得していた。

1790年代後半、イタリア1)近世以降のイタリア半島:パガニーニが生きた時代にまだ「イタリア」という国家はなかった。15世紀のイタリア半島では、ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリの五大都市が覇権を争った一方で、各都市ではルネサンス文化が花開いた。ところが、1494年、ナポリの継承権を主張するフランス王が半島に南下したことによってイタリア戦争が始まり、半島は強国が争う戦場となった。1559年のカトー・カンブレジ条約によって戦争は終結するものの、以降、イタリアの各都市は、スペイン・ハプスブルク家やフランスの支配を受けるようになった。パガニーニは、生涯で何度もイタリアでの演奏旅行を行っているが、現在の「イタリア共和国」という一つの国家の中で移動していたのではなく、それぞれが別々の上級権力から支配を受ける都市間を移動していたと捉えることができる。に侵攻したナポレオンの軍隊はジェノヴァを占領した一方で、英国艦隊が海上封鎖したため、パガニーニ一家は故郷ジェノヴァを離れることを余儀なくされ、リヴォルノに赴いた。

1801年9月、パガニーニはルッカ2) ルッカ(Lucca):イタリア中部トスカーナ州の都市。中世には、フィレンツェ共和国や海港都市ピサの圧力を受けたものの、毛織物・絹織物の生産都市として対抗し、ナポレオンの時代まで自立を保った。1815年のウィーン公会議でルッカ公国となったが1847年にはトスカーナ大公国に組み込まれることとなった。パガニーニがルッカに滞在したのは、ちょうどナポレオン統治期である。に移った。ルッカでのコンサートは、パガニーニの並々ならぬ才能と常識外れの言動が公にされた最初の場となったが、彼はこの街に馴染み10年以上も滞在することになった。1805年、パガニーニは、共和国のオーケストラ(republican orchestra)のコンサートマスターに任命された。ところが、ルッカ=ピオンビーノ大公妃に任命されたナポレオンの妹エリザとその夫フェリーチェ・バチョッチがルッカに到着した時、パガニーニは降格され、フェリーチェにヴァイオリンを教示する役割を命じられた。

この時期、パガニーニはヴァイオリンとギターのための多くの曲を作曲した。その中でも、『ナポレオンのソナタ』(Napoléon; Sonata Napoleone)と題されたヴァイオリンとオーケストラのための曲が第一に挙げられる。またパガニーニはヴィバルディらによって「不協和音」(‘scordatura’)とされた旋律を生み出すことに興味を持っていた。

2. イタリアでの演奏旅行(1810-1827年)

1810年、パガニーニは独立を決意し、エミリオ・ロマーニャ地方とロンバルディア地方のコンサートツアーを開始した。ミラノにて、パガニーニは、アレッサンドロ・ロッラによって、ミラノのスカラ座のコンサートマスターに任命され、ヴァイオリンとオーケストラのための3つの変奏曲『魔女たちの踊り ニ長調』(Le streghe)を作曲した。パガニーニはミラノにて演奏家として成功を収めたものの、同時に非難も受けた。例えば、ペーター・リヒテンタール(Peter Lichtenthal)は、パガニーニの演奏をスコアに忠実ではない自由すぎる解釈だとして批判した。1814年、パガニーニはミラノからジェノヴァのオペラハウス、サン・アゴスティーノ(St. Agostino)に移った。ここでアンジョリーナ・カヴァッナという若い女性と出会ったパガニーニは、パルマへ駆け落ちした。彼らはしばらく同棲したものの、アンジョリーナの父から誘拐罪として訴えられ、パガニーニは数日間投獄される。この事件以降も、パガニーニは生涯を通じて数々の女性と関係することになる。

1815年、ナポレオンが失脚するとジェノヴァ共和国は解体し、リグーリア地方は、サルデーニャ王国に再編されることとなる。「ジャコバン」と見なされていたパガニーニは、新体制を受け入れ、サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世がジェノヴァに到着した際には、王に敬意を表して弦楽四重奏の曲を演奏した。翌1816年、パガニーニはミラノ、ヴェネツィア、トリエステにて多くの契約を結んだ一方で、『ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調作品6』(Concerto no.1, D, op. 6)を完成させた。この初のヴァイオリン協奏曲は、オリジナル版では、ソロのヴァイオリンが半音上がる形で、変ホ短調(E♭)で書かれていたが、後にニ長調(D major)に変更された。

パガニーニはピアチェンツァとボローニャにて次の演奏旅行を始めた。ピアチェンツァでは、ポーランド人ヴァイオリニストのカロル・リピンスキー(Karol Lipiński)と出会い、ボローニャでは、ロッシーニとその未来の妻イザベッラ・コルブランと出会った。 パガニーニはロッシーニの3つのアリアを選び出し(それぞれ『タンクレディ』(Tancredi)、『エジプトのモーゼ』(Mosè in Egitto) 『チェネレントラ(シンデレラ)』(La Cenerentola)から選ばれた) 、そのヴァイオリンとオーケストラのための曲は彼の傑作の一つとなった。その後、パガニーニはフィレンツェ、ローマ、ナポリ、パレルモへ演奏旅行に赴いた。またパガニーニがローマに滞在している時、ロッシーニが自身のオペラ『マティルデ・ディ・シャブラン』(Matilde di Shabran)(1821)の初演をパガニーニに託したところ、公演は大成功を収めた。

1820年、出版社のリコルディは、ローマにて、ヴァイオリンとギターのためのソナタとギターの四重奏が収録された『24の奇想曲 op. 1』(Caprices op.1)を出版した。この楽譜は、あまりに難易度の高いことからたちまちプロを志す人々のバイブルとなった。またこの楽譜は、ヴァイオリンの技術と音楽的な内容がバランス良く詰め込まれたという点で評価された。

 

ミラノ・スカラ座

イタリアの各都市で音楽では成功を収めたものの、パガニーニは性病に苦しみ、治療法を求めた。療養中のパガニーニは、ミラノ近郊のコモ湖にて、後に彼の恋人となり演奏旅行に付き添うことになるアントニア・ビアンキと出会った。回復したパガニーニは再びミラノ・スカラ座やヴェネツィア、トリエステなどで活動を再開した。

1825年1月、パガニーニは2回目となる中部・南イタリア演奏旅行を開始した。ナポリやパレルモで歓待を受けたパガニーニは、ローマでも、アカデミア・ディ・サン・チェチーナの会員に任命されるなど功労を称えられた。この年の7月23日、アントニアは、アキーレ・チロ・アレッサンドロと名付けられたパガニーニの子供を産んだ。翌1826年、パガニーニは、2番目となるヴァイオリン協奏曲『ヴァイオリン協奏曲 第2番ロ短調』(Concerto no.2, b, op.7)を作曲した。この曲が後にドイツにて演奏された時、『ラ・カンパネラ』(La campanella)という名称を得ることなる。ピアニストのフランツ・リスト(Liszt)はこの曲に圧倒され、ピアノ用の曲を作曲した(Grand fantasia de bravoure sur La clochette)。1828年、パガニーニは3番目の協奏曲『ヴァイオリン協奏曲 第3番』(Concerto no.3, E)を作曲した。さらに、フィレンツェ、リヴォルノ、ジェノヴァ、トリノ、ミラノでの演奏旅行中、パガニーニは、パイジエッロ(Paisiello)のオペラ『ラ・モリナーラ』(La Molinara)の中のアリアにのせたヴァイオリンソロ曲を生み出した。この時期、意欲的に作品を生み出していたパガニーニであったが、彼は、ほとんど弟子も取ることなく、また自身の楽譜も盗用を恐れて残そうとしなかったため、そのオリジナルの楽譜は失われているものが多い。

 

3. 欧州での演奏旅行(1828-1834年)

1828年3月初旬、パガニーニは、アントニア・ビアンキと3歳の息子を連れてミラノを離れ、ウィーンへと発った。ウィーンに到着したパガニーニは、イタリア系の音楽出版社であるアルタティア(Artatia)兄弟と交流した。3ヶ月のウィーン滞在の間、パガニーニは、ヨーゼフ・マイセダー(Joseph Mayseder), イグナーツ・シュパンツィヒ(Ignaz Schuppanzigh)、 ハインリヒ・ビルヘルム・エルンスト(H.W. Ernst)、レオン・ド・サン=リュバン(Léon de Saint-Lubin)、「ボヘミアのパガニーニ」と称されたヨーゼフ・スラヴィーク(Josef Slavík)といった音楽家たちと出会い、彼らはパガニーニの比類なき才能を認めた。この地にて、パガニーニは、オーストリアの人々に敬意を表して、『ラ・チ・ダレム変奏曲』(Capriccio on ‘Là ci darem la mano’ from Mozart’s Don Giovanni, perf.)、 『感傷的な堂々たるソナタ』(Maestosa suonata sentimentale)、『ラ・テンペスタ』(La tempest)を作曲した。この頃、内縁の妻アントニアと別れたパガニーニは、息子アレッサンドロを引き取ることとなる。1828年夏の終わり、パガニーニは、健康状態が改善することを期待して、現在のチェコ西部に位置する都市カルロビバリ (Karlovy Vary)に移ったものの、そこで彼の音楽は歓迎されなかった。またプラハでは、後にパガニーニの伝記を書くことになるショトッキー(Julius Schottky)がパガニーニと出会い、その伝記は『パガニーニの生涯と流浪:芸術家として、人間として』(Paganinis Leben und Treiben als Künstler und als Mensch)というタイトルで1830年に出版された。

1829年1月、およそ2年続くこととなるパガニーニのドイツ演奏旅行が始まった。ここで彼は再び、ルイ・シューボア(Louis Spohr) やヒュンメル(Hummel)、シューマン(Schumann)、クララ・シューマン(Clara Wieck- Schumann)そしてゲーテ(Goethe)と出会った。またベルリンでパガニーニは、プロイセン王の音楽活動を担当するスポンティーニというスポンサーを得た。この頃、パガニーニは『ヴァイオリン協奏曲 第4番ニ短調』(Concerto no.4, d)を作曲し、さらにヴァイオリンのための曲『ヴェネツィアの謝肉祭』(Il Carnevale di Venezia)と『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』(God Save the King)を作曲した。

パガニーニが次に向かった都市は、パリである。ここでのオープニングでは、『ソナタ・ミリターレ』(Sonata militare)と『もはや私の心には感じない』(Nel cuor più non mi sento)が使われた。

パリの批評家たちにもパガニーニの演奏技巧は認められたものの、ロンドンの王立劇場のマネージャーであるピエール-フランソワ・ラポルト(Pierre-François Laporte)からの招待によって、パガニーニはパリを早々に去り、1831年5月14日、ロンドンに到着する。公演チケットが誤って2倍の値段で宣伝され人々の怒りを買ったことにより、公演の延期が余儀なくされたものの、1831年6月3日に開催された王立劇場での初公演は大成功を収めた。ロンドンでパガニーニは、ピオ・チャンケッティ(Pio Cianchettini)、マイケル・コスタ(Michael Costa)、ドラゴネッティ(Dragonetti)、ニコラス・モリ(Nicolas Mori)、ジュディッタ・パスタ(Giuditta Pasta)そしてパオロ・スパニョレッティ(Paolo Spagnoletti)といったイタリアの音楽家たちに出会った。1831年8月初め、パガニーニはアイルランドとスコットランドでの演奏旅行を開始し、ダブリンでは、アイルランドの民族音楽に基づく変奏曲『聖パトリックの日』(St Patrick’s Day)を提供した。1832年3月にはロンドンに戻ったものの、パガニーニは再びパリに赴くことを計画した。休む間も無い演奏旅行が続く生活にパガニーニの健康状態は不安定なものであったために、この時期にパリにてパガニーニが作曲したのは次の2曲のみである;弦楽器のための『モト・ペルオペトゥオ』 (Moto perpetuo)(弦楽四重奏no.14より)、ヴァイオリンのための『サン・ベルナール修道院』(Le couvent du Mont Saint Bernard)。

 

1832年から34年の間、パガニーニはヴィオラに興味を持つようになり、ロンドンやパリで、ヴィオラを演奏したり、ヴィオラ、チェロ、ギターのための三重奏曲を作曲したりするなどしていた。ロンドン滞在も終わりに近づいた頃、パガニーニは、ピアノ伴奏者の娘であるシャーロット・ワトソン(Charlotte Watson)と恋に落ち、彼女との結婚を決意し、彼女とフランス北部の町ブーローニュで落ち合おうとした。ところが、シャーロットはそこで父親に見つかり、この駆け落ち事件はたちまちスキャンダルとして新聞などに書き立てられた。2ヶ月間、ブーローニュにて各機関に対して弁明の書簡を書く羽目になったパガニーニは、パリに戻っても保守派の日刊紙『ジュルナル・デ・デバ』(Journal des débats)の編集者ジュール・ジャナン(Jules Janin)による攻撃を受け、ついにイタリアに帰還した。1835年初め、パガニーニは6年ぶりに故郷ジェノヴァに戻り、そこで『ジェノヴァの歌「バルカバ」の主題による60の変奏曲』 (60 Variations on ‘Barucabà’, op. 14)の作曲に専心した。この曲の主題は、ユダヤ教徒の婚姻の儀礼と関係する複雑なセレモニーのパロディーである。

1835年11月、再びパルマに戻ったパガニーニはオーストリア大公妃マリ・ルイーズ3)マリ・ルイーズ(Marie Louise)(1791-1847):ナポレオン1世の2度目の妃。ハプスブルク家のオーストリア皇帝フランス1世の娘。1番目の皇妃ジョセフィーヌと離別したナポレオンと、1810年4月に結婚、翌年3月、後のナポレオン2世となる男児をもうけた。1814年4月、ナポレオンが退位すると、ウィーンの宮廷に帰り別離した一方で、イタリア半島にて領土を得た。によって公爵のオーケストラの助言者に任命された。このパガニーニが指揮したオーケストラは、パガニーニによって団員の選抜が行われた結果、47人の団員からなるイタリア最高のオーケストラとなった。その後、トリノに赴いたパガニーニは、自身の息子アキーレの嫡出推定を得るために、サルデーニャ国王カルロ・アルベルト 4)カルロ・アルベルト(Carlo Alberto)(1798-1849):サルデーニャ国王(在位1831-49)。1815年頃から反オーストリアの自由主義政策を支持する青年貴族たちと交流し、21年の立憲制を要求するピエモンテ革命に関わった。ところが31年にサルデーニャ国王となると、絶対主義的政策をとり、マッツィーニの指導する「青年イタリア」運動を弾圧した。48年、憲法を発布し、オーストリアに宣戦布告したものの敗北。その後、ビットーリオ・エマヌエーレ2世に王位を譲った。のために演奏した。トリノの後、パガニーニはマルセイユとニースでも演奏会を行うものの、1837年初め、ジェノヴァに戻った。この時、パガニーニの身体は病魔に蝕まれていた。

4. 晩年(1837-40年)

パガニーニの友人ラッツァロ・レビッツォ(Lazzaro Rebizzo)は、「カジノ・パガニーニ」と称された新しい音楽事業の株主となるようにパガニーニに勧めた。1837年6月、パガニーニは新しい事業のためにパリに赴くも、悪い健康上のため事業を続けることができず、失敗に終わる。

パガニーニは、もはや演奏者として十分な役割を果たすことができなくなっていたものの、作曲に対する意欲を失うことはなかった。パリにて、パガニーニは『春 イ短調』(La primavera)と『バレット、牧歌、変奏曲』(Balletto campestre)といったヴァイオリンと管弦楽のための楽曲を生み出した。パリを離れる1838年末の前、パガニーニは、友人のフランスの作曲家ベルリオーズ(Louis-Hector Berlioz)に宛てて短い手紙とともに20.000フランの小切手を送った。ベルリオーズは、『ロミオとジュリエット』(Roméo et Juliette)を捧げるかたちでその友情に応えた。カジノの件で、パリでの法的手続きを逃れようとしたパガニーニは、外国人の判決を法的に施行することができないサルデーニャ王国に属する街ニッツァ ― 今日のフランス領ニース ― に移った。この地でパガニーニは弦楽器を扱うディーラーとして活動した。パガニーニがついに死の床についても、その不信心な行動を司教たちに咎められ、神聖な地での葬式を禁じられた。1840年5月27日、パガニーニはニースにて死去したが、彼の遺体は、死後36年経ってようやくパルマの共同墓地に埋葬された。

作品一覧 | Works

ヴァイオリンと管弦楽のための楽曲

  • 『ナポレオン・ソナタ 変ホ長調』(Napoléon (Sonata Napoleone), E♭)(1807): M・アッバドによってヴァイオリンとピアノのための曲として出版 (Milan, 1940)。
  • 『序奏曲ポラッカ・コン・バリアツィオーニ イ長調』(Polacca con variazioni, A, perf.)(1810年10月28日): ヴァイオリンとピアノのための曲として出版 (M. Kergl, ed., Mainz, 1952)。
  • 『ソナタ ホ長調「マリア・ルイザ」』(Sonata ‘Maria Luisa’, E)(1813)
  • 『魔女たちの踊り ニ長調』(Le streghe, op. 8)(1813) (Paris and Mainz, 1851): ジュースマイヤー(Süssmayr)のバレエ『ベネヴェントのくるみの木』(Il noce di Benevento)のアリアによる変奏曲。
  • 『ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調作品6』(Concerto no.1, D, op. 6) (1816) (Paris and Mainz, 1851)
  • 『ノン・ピウ・メスタ』(Non più mesta op.12)(1819)(Paris and Mainz, 1851):ロッシーニのオペラ『シンデレラ』の主題『ノン・ピウ・メスタ』による序奏。
  • 『ディ・タンティ・パルピティ』(I palpiti, op. 13)(1819):ロッシーニのオペラ『タンクレーディ』のアリア『こんなに胸騒ぎが』(Di tanti palpiti)による序奏と変奏曲(Mainz, 1851)。
  • 『汝の星をちりばめた玉座に』(別名:モーゼ幻想曲)(Dal tuo stellato soglio)(1819):ロッシーニのオペラ『エジプトのモーゼ』(Mosè in Egitto)の『汝の星をちりばめた玉座に』による序奏と変奏曲 (Hamburg, 1855)。
  • 『ソナタ・ミリターレ』(Sonata militare)(1825):モーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』の第一幕第9番のアリア『もう飛ぶまいぞ、この蝶々』(Non più andrai)による曲。ヴァイオリンのパートは現在失われている。
  • 『ヴァイオリン協奏曲 第2番ロ短調』(Concerto no.2, b, op.7) (1826) (Paris and Mainz, 1851):第三楽章のロンド(アレグロ・モデラート)は、有名な『ラ・カンパネラ(鐘のロンド)』のヴァイオリン独奏で始まる。
  • 『ヴァイオリン協奏曲 第3番』(Concerto no.3, E)(1826-8)
  • 『ラ・チ・ダレム変奏曲』(Capriccio on ‘Là ci darem la mano’ from Mozart’s Don Giovanni, perf.)(Vienna, 1828年5月11日):モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』の『お手をどうぞ』による変奏曲。現在は失われている。
  • 『変奏曲テンペスタ』(La tempesta, variations)(1828)
  • 『感傷的な堂々たるソナタ』(Maestosa suonata sentimentale) (1828): A・M・モンテロッソによって出版 (Rome, 1978)。
  • 『ヴァイクルの主題によるソナタと変奏曲ホ長調 29』(Sonata and Variations on ‘Pria ch’io l’impegno’ from Weigl’s L’amor marinaro)(1828): ヴァイオリンとピアノのための曲として出版 (G. Kinsky  and F. Rothschild, ed., Vienna, 1922)。
  • 『サン・ベルナール修道院』(Le couvent du Mont Saint Bernard)(1828-30)
  • 『英国国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・キング」による変奏曲』(Variations on God Save the King, op.9)(1829) (Paris and Mainz, 1851)
  • 『ヴェニスの謝肉祭の「いとしいお母さん」による変奏曲』(Variations on ‘O mamma, mamma cara’ from Il carnevale di Venezia, op.10)(1829) (Paris and Mainz, 1851)
  • 『ワルシャワ・ソナタ ホ長調』(Sonata Varsavia, variations on a mazurka by Elsner)(1829): エルスナーのマズルカによる変奏曲。
  • 『ソナタ・アッパショナータ』(Sonata appassionata)(1829)
  • 『ヴァイオリン協奏曲 第4番ニ短調』(Concerto no.4, d)(1830)
  • 『ヴァイオリン協奏曲第5番』(Concerto no.5)(1830):フェデリコ・モンペリオ(F. Mompellio)によって出版(Siena, 1958)。ヴァイオリンソロパートのみ現存。
  • 『ソナタ・アモラータ・ガランテ』(Sonata amorosa galante)(1831): ロッシーニの主題による。ヴァイオリンパートは失われている。
  • 『ポプリ』(Potpourri)(1831) :ヴァイオリンパートは失われている。
  • 『聖パトリックの日』(St Patrick’s Day, variations on the Irish folktune)(1831):アイルランド民族音楽による。ヴァイオリンパートは失われている。
  • 『ソナチネとポルケッタ』(Sonatina e polacchetta, with variations, B♭)(1831)
  • 『無窮動 ハ長調(モト・ペルペトゥオ)作品11』(Moto perpetuo, op. 11)(1831–2)
  • 『アレグロ・ヴィヴァーチェ・ア・モヴィメント・ペルペトゥオ』(Allegro vivace a movimento perpetuo, C, op. 11)(1835)
  • 『春 イ短調』(Sonata ‘La primavera’) (1838): ヴァイオリンパートだけが残る。ヴァイオリンとピアノのための曲として出版 (Max Kergl, ed., Mainz, 1952)。
  • 『バッレット、牧歌、変奏曲』(Balletto campestre, variations)(1838): ヴァイオリンとピアノのためにの曲として出版 (M. Kergl, ed., Mainz, 1952)。
  • 『タランテラ イ短調』(Tarantella)(制作年代不明):ヴァイオリンとギターのために編曲された(Frankfurt, 1959)。

その他の管弦楽

  •   『ニコロ・パガニーニ・ア・ミスター・ヘンリー』(Concertino)(1831): ホルン、ファゴット、管弦楽のための曲。
  • 『ヴィオラと管弦楽のためのソナタ』(Sonata per la grand viola, large va, orch, perf. )(1834)

 

ヴァイオリンと弦楽器のための曲

  • 『変奏を伴ったカルマニョーラ』(Carmagnola, variations, perf.)(1795年7月31日):S・アッカルドによって出版 (Genoa, 1980)。
  • 『協奏的ソナタ イ長調』(Sonata concertata)(1804)(E. Schwarz-Reiflingen, Frankfurt, 1955)
  • 『6つのソナタ op. 2』(6 sonatas)(1805)
  • 『6つのソナタ 3』(6 sonatas)(1805)
  • 『45のソナタ』(45 sonatas)(1805-9)
  • 『ドゥエット・アモローゾ ハ長調』(Duetto amoroso)(1807):ヴァイオリンとピアノのための曲として出版 (M. Kergl, ed., Mainz, 1952)。
  • 『カンタービレとワルツ ホ長調』(Cantabile e Valtz)(1823):G. Kinsky と ロートシルト(Rothschild)によって出版 (Vienna, 1922)。
  • 『チェントーネ・ディ・ソナタ』(Centone di sonate, 18 sonatas)(1828年以降): E. Schwarz-Reiflingen によって出版(Frankfurt, 1955)。
  • 『グランド・ソナタ イ長調』(Grand Sonata, A): シュヴァルツ=ライフリンゲン(E. Schwarz-Reiflingen)によって出版 (Frankfurt, 1955)。
  • 『ジェノヴァの歌「バルカバ」の主題による60の変奏曲』 (60 Variations on ‘Barucabà’, op. 14)(1835)

その他の作品

  • 『グランド・ソナタ イ長調』(Grande Sonata, A)(1803): ヴァイオリンとギターのための楽曲。
  • 『セレナータ ハ長調』(Serenata, C)(1808):A・セバスティアーニによって出版 (Milan, 1989)。
  • 『3つの弦楽四重奏曲』(3 String Quartets, d, E♭, a)(1815): 第1番ニ短調、第2番変ホ長調、第3番イ短調。
  • 『9つの四重奏』(9 Quartets [nos.7–15], vn, va, gui, vc)(1818-20)
  •  『カンタービレ ニ長調』(Cantabile, D, vn, pf)(1824)
  • 『ソナタと変奏曲』(Sonata and Variations, vn, va, vc, gui)(1824):ヴァイオリンパートは失われている。
  • 『ナポレオンのテーマ』(Tema napolitano, vn, pf)(1829):ピアノパートのみ現存。
  •  『ロンド イ長調』(Rondò, vn, vc)(1831)
  • 『パドヴァの魔法』(Les charmes de Padoue, vn, pf) (London, 1831)
  • 『別れのカプリース』(Caprice d’adieux, vn, pf) (Mainz, 1833)
  • 『協奏的三重奏曲 ニ長調』(Terzetto, D, vn, vc, gui)(1833)
  • 『6つの二重奏曲』(6 duetti fiorentini, vn, pf)(制作年代不明)(M. Kergl, ed., Mainz, 1952)。
  • 『セレナータ ヘ長調』(Serenata, 2 vn, gui)(制作年代不明):バレストラ(G. Balestra)によって出版(Ancona, 1970)。
  • 『4つの夜想曲』(4 notturni)(制作年代不明)
  • ヴァイオリンソロ曲
  • 『ファンダンゴ・スパニョーロ』(Fandango spagnolo)(1800):「ファンダンゴ」(fandango)とはスペインアンダルシア地方の舞踏曲のこと。
  • 『24の奇想曲』(24 Caprices, op.1) (Milan, 1820):『24のカプリース』とも。
  • 『驚異の二重奏』(Due merveille, op. 20) (1808)(K. Guhr, ed., 1830)。
  • 『もはや私の心には感じない』(Nel cor più non mi sento) (1820): イタリアの作曲家パイジエッロのアリア『もはや私の心には感じない』(『ネル・コル・ピウ』または『うつろな心』)による序奏と変奏曲(K. Guhr, ed., 1830)。
  • 『愛国の讃歌』(Inno patriotico, theme and 6 variations)(年代不明)
  • 『変奏曲』(Tema variato, theme and 7 variations): E・ネッリによって出版(Milan, 1999)。

ギターソロ曲

  • 『ロドヴィシアのためのシンフォニア ニ長調』(Sinfonia Lodovisca)(1800年頃):マイヤーの歌劇『ロドイスカ』(La Lodoiska)の序曲の編曲。
  • 『気まぐれ』(Ghiribizzi, 43 short pieces)(1820)

歌曲

  • 『エ・プル・アマービレ』(È pur amabile)(1828): 独唱。作詞者不明。
  • 『カンツォネッタ ハ長調』(Canzonetta, C): 独唱。
  • 『気まぐれ』(Ghiribizzo vocale)
  •  『スル・マルジーネ・ディ・ウン・リオ』(Sul margine di un rio)

パガニーニを扱った作品

映画

パガニーニを生きた時代を知るための文献

欧語文献

  • M. d’Azeglio, I miei ricordi, a cura di Alberto M. Ghisalberti, Torino 1971, pp. 352 s.
  • G. E. Anders, Biographical sketch of Niccolò Paganini, London, 1831.
  • P. Berri, Paganini: la vita e le opere, a cura di M. Monti, Milano 1982.
  • C. Cimagalli, Niccolò Paganini e la burocrazia pontificia: nuovi documenti autografi relativi ai suoi concerti romani del 1827, in Studi musicali, XXXIII (2004), pp. 165-184.
  • A. Codignola, Paganini intimo, Genova 1935.
  • G. Croll, Paganinis Konzerte in Wien, in Österreichische Musikzeitschrift, XXXVII (1982), pp. 675-684.
  • C. Dahlhaus, Die Musik des 19. Jahrhunderts, Wiesbaden 1980, p. 111.
  • F. Fayolle, Paganini et Bériot, in Courier de l’Europe, 9 giugno 1831.
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  • Guhr,Über Paganini’s Kunst, die Violine zu spielen, Mainz, 1830.
  • Harrys,P. in seinem Reisewagen und Zimmer, Braunschweig 1830.
  • L.F. L’Héritier, Some account of the celebrated violinist, N. P., London 1830.
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  • La pagina e l’archetto, Genova, 2001-04. Per la ricostruzione M.R. Moretti, I fondi paganiniani di Pietro Berri e Zdeněk Výborný, Genova 2011.
  • M. R. Moretti, Sei giorni di una tournée europea di N. P.: Kassel-Göttingen-Kassel, 25-30 maggio 1830, in Rivista italiana di musicologia, XLI (2006), pp. 273-306.
  • E. Neill, Niccolò Paganini Il cavaliere filarmonico, Genova 1990.
  • Niccolò Paganini, Epistolario, a cura di R. Grisley, I, 1810-31, Milano-Roma 2006; II, in corso di pubblicazione.
  • Quaderni dell’Istituto di Studi paganiniani, Genova, 1972-2000.
  • J. Schottky, Paganini’s Leben und Treiben als Künstler und als Mensch, Prag 1830.
  • L. Sisto, Nuove fonti sulla biografia e l’attività di Niccolò Paganini: Napoli 1816-1821, in Studi musicali, XXXVIII (2009), pp. 75-107.

 

邦語文献

参考文献 | Bibliograph

1. Roberto Grisley, Dizionario Biografico degli Italiani, Vol. 80 (2014).

2. Oxford Music Online

 

 

References   [ + ]

1. 近世以降のイタリア半島:パガニーニが生きた時代にまだ「イタリア」という国家はなかった。15世紀のイタリア半島では、ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリの五大都市が覇権を争った一方で、各都市ではルネサンス文化が花開いた。ところが、1494年、ナポリの継承権を主張するフランス王が半島に南下したことによってイタリア戦争が始まり、半島は強国が争う戦場となった。1559年のカトー・カンブレジ条約によって戦争は終結するものの、以降、イタリアの各都市は、スペイン・ハプスブルク家やフランスの支配を受けるようになった。パガニーニは、生涯で何度もイタリアでの演奏旅行を行っているが、現在の「イタリア共和国」という一つの国家の中で移動していたのではなく、それぞれが別々の上級権力から支配を受ける都市間を移動していたと捉えることができる。
2. ルッカ(Lucca):イタリア中部トスカーナ州の都市。中世には、フィレンツェ共和国や海港都市ピサの圧力を受けたものの、毛織物・絹織物の生産都市として対抗し、ナポレオンの時代まで自立を保った。1815年のウィーン公会議でルッカ公国となったが1847年にはトスカーナ大公国に組み込まれることとなった。パガニーニがルッカに滞在したのは、ちょうどナポレオン統治期である。
3. マリ・ルイーズ(Marie Louise)(1791-1847):ナポレオン1世の2度目の妃。ハプスブルク家のオーストリア皇帝フランス1世の娘。1番目の皇妃ジョセフィーヌと離別したナポレオンと、1810年4月に結婚、翌年3月、後のナポレオン2世となる男児をもうけた。1814年4月、ナポレオンが退位すると、ウィーンの宮廷に帰り別離した一方で、イタリア半島にて領土を得た。
4. カルロ・アルベルト(Carlo Alberto)(1798-1849):サルデーニャ国王(在位1831-49)。1815年頃から反オーストリアの自由主義政策を支持する青年貴族たちと交流し、21年の立憲制を要求するピエモンテ革命に関わった。ところが31年にサルデーニャ国王となると、絶対主義的政策をとり、マッツィーニの指導する「青年イタリア」運動を弾圧した。48年、憲法を発布し、オーストリアに宣戦布告したものの敗北。その後、ビットーリオ・エマヌエーレ2世に王位を譲った。
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