カミーユ・サン=サーンス

サン=サーンス

生 : 1835年10月9日(フランス王国、パリ)/没 : 1921年12月16日(仏領アルジェリア、アルジェ)

シャルル・カミーユ・サン=サーンス (Charles Camille Saint-Saëns) はフランスの作曲家。代表作に『動物の謝肉祭』などがある。

生涯 | Biography

カミーユ・サン=サーンスは1835年10月9日、父ジャック・サン=サーンスと母クレマンス・コランの間に生まれた。ノルマンディー地方の農家の子孫である父は内務省の官僚であり、1834年にクレマンスと結婚した。父ジャックはカミーユ・サン=サーンスの生後わずか3ヶ月で死去。カミーユは結核のため2年間の療養生活を送った後、母方の家庭で育てられることとなった。そこで3歳の頃からピアノを習い、若干10歳にしてパリのサル・プレイエルでピアニストとしてデビューを果たした。演目はベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番およびモーツァルトのピアノ協奏曲第15番。このときサン=サーンスはすべての曲目を暗譜で演奏したが、当時としては異例のことだった。

サン=サーンスはピエール・マルダン (Pierre Maleden) から作曲を学んだが、彼を比類なき教師だったと認めている。サン=サーンスの早熟は多分野に渡った。フランスの古典や宗教、ラテン語やギリシャ語を習得したほか、数学や自然科学、とりわけ天文学や考古学、そして哲学に親しんだ。サン=サーンスが自作曲の著作権で500フランを得た際、彼はその金を使って天体望遠鏡を買ったという。

1848年、サン=サーンスはパリ音楽院(コンセルヴァトワール)に入学。オルガン科でフランソワ・ブノワの指導を受け、1851年グラン・プリを獲得する。同1851年よりリュドヴィク・アレヴィに作曲および管弦楽法を習い、また伴奏や歌唱の方法も学んだ。

音楽家としてのキャリアをピアニストおよびオルガン奏者から開始したサン=サーンスは、バッハやラモー、ワグナーやリストを好んで演奏した。ピアニストとしての成功のため作曲家としての評価は遅れ、ローマ大賞を逃している。しかしながら『聖セシルのための頌歌』は1852年ボルドーの聖セシル協会主催のコンテストで1位を獲得する。若くして頭角を現したサン=サーンスは、ポーリーヌ・ヴィアルドやシャルル・グノー、ジョアキーノ・ロッシーニやエクトル・ベルリオーズといった同時代の音楽家と交友関係を結び、また彼らの庇護を受けた。

当初サン=サーンスは交響曲や室内楽を多く作曲し、同世代のフランス人音楽家とは異なりオペラに関心を持たなかった。しかしながらコンセルヴァトワール時代の師であるアレヴィの影響によりオペラに取り組むようになり、ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドやシャルル・グノーの支援を受けた。1854年パリに取材したオペラ・コミックの制作に取り掛かるが、後に放棄。ジュール・バルビエ発案によるオペラの序曲も作曲したが、結局これも半世紀以上が経過した1913年まで完成を見ることはなかった。

1853年、サン=サーンスはパリのサン・メリ教会のオルガニストに就任した。同教会のガブリエル神父に同伴して赴いたイタリア旅行が、サン=サーンスにとって生涯続く演奏旅行の最初のものだった。続く1857年にはパリのマドレーヌ寺院のオルガニストに就任し、サン=サーンスはこの職を1857年まで20年に渡って務めた。フランツ・リストはサン=サーンスの演奏を聴き、彼を世界一偉大なオルガニストとして称賛している。オルガン演奏はこの時期のサン=サーンスにとっての主要な職務であり、作曲の多くも宗教音楽だった。1857年には交響曲『ローマ』により再び聖セシル協会のコンテストで賞を獲得した。もっとも、彼自身は必ずしも信心深いキリスト教徒というわけではなかったという。この時期サン=サーンスはクリストフ・ヴィリバルト・グルックの全集の編纂に協力し、またベートーヴェンやリスト、モーツァルトの作品の校訂版の編集も行った。

この期間もサン=サーンスは歌劇に対する関心を維持していた。とりわけリヒャルト・ワグナーを好み、『タンホイザー』や『ローエングリン』に年長者が眉をひそめたのに対し、彼はこれを擁護した。1860年から1861年にかけてのワグナーのパリ滞在時期、『ローエングリン』や『トリスタンとイゾルデ』、『ラインの黄金』を作曲者の目の前でピアノで演奏する機会を得た。ワグナーへの酔心はその後も続き、1869年にミュンヘンで『ラインの黄金』を、1876年には第1回バイロイト音楽祭で『ニーベルングの指環』を聴く。

サン=サーンスの生涯の中でも1860年代初頭は充実した期間だった。ピアニストとしての名声を高め、『スパルタクス』序曲はまたも聖セシル協会から授賞された。1867年、パリ万国博覧会に際して作曲されたカンタータ『プロメテの結婚』が万博の審査会で表彰される。このときの審査員にはロッシーニやオーベール、ベルリオーズ、ヴェルディ、そしてグノーが含まれていた。こうしたサン=サーンスの成功からグノーは彼をして「フランスのベートーヴェン」と形容している。

ところが1863年、サン=サーンスはローマ大賞をまたも逃してしまう。そこでコンセルヴァトワール院長のフランソワ・オーベールはテアトル・リリック支配人のレオン・カルヴァロに依頼し、サン=サーンスのためにオペラ台本を依頼する。カルヴァロはバルビエとミシェル・カレによる『銀の音色』を提供した。この作品をサン=サーンスは1、2年で完成させるが、劇場側との行き違いもあり、初演にはそれから10年以上の歳月を要した。次のオペラ『サムソンとデリラ』もほぼ忘却されかけ、1872年にオペラ・コミック座で初演された『黄色い王女』もさしたる成功をおさめることはできなかった。この『黄色い王女』で共同作業を行った作家のルイ・ガレとは、1898年にガレが亡くなるまで交友を続けた。

1861年から1865年にかけて、サン=サーンスはパリのエコール・ニデルメイエールで教鞭を執る。生徒の中にはガブリエル・フォーレやアンドレ・メサジェ、ウジェーヌ・ジグーの姿もあった。

1870~1871年の普仏戦争とパリ・コミューンによる政治的混乱の中、1871年にサン=サーンスはコンセルヴァトワールの同僚ロマン・ビュシーヌと共同で国民音楽協会を創設する。「ガリアの芸術」(Ars Gallica) をスローガンとするこの協会には、書記を務めたアレクシス・ド・カスティヨンのほか、ガブリエル・フォーレやジュール・マスネ、セザール・フランク、エドゥアール・ラロといった音楽家が参加し、フランス人音楽家の作曲・演奏活動を振興した。プロイセンとの戦争における屈辱的敗北の後、フランスでは対独ナショナリズムが高揚したが、サン=サーンスもその例外ではなかった。当初ワグナーを好んでいた彼は、次第に様式的ないし愛国的要因からこれを避けるようになる。

1870年代初頭、サン=サーンスは『ルネサンス・リテレール・エ・アルティスティック』(文学と芸術の復興)や『ガゼット・ミュジカル』、『ルヴュ・ブルー』といった文芸誌に複数の記事を掲載し、ヴァンサン・ダンディに代表される従来の音楽様式を批判した。1876年、バイロイトを訪ね『ニーベルングの指環』を鑑賞したサン=サーンスは、『レスタフェット』(L’estafette) 誌に7本の長文記事を執筆し、『ル・ヴォルテール』誌に「ハーモニーとメロディ」と題する連載を執筆した。また第一次世界大戦の始まる1914年には「ドイツ贔屓」と題する記事を発表し、ワグナーに代表されるドイツ音楽の排除を訴えている。

1875年、サン=サーンスは当時19歳だったマリ=ロール・トリュフォと結婚する。しかしながらこの結婚は母親の反対にあい、また2人の子も相次いで夭逝するなど、幸せとは言えないものだった。サン=サーンスは妻に強く当たり、結局二人は離婚した。妻のマリ=ロールは1950年、ボルドー近郊のコードラン (Cauderan) にて95歳で亡くなっている。

その後数年間、サン=サーンスは交響詩や歌曲に専念する。1877年2月、テアトル・リリックにおいて『銀の音色』がとうとう上演される。このオペラの献呈を受けたアルベール・リボン (Albert Libon) は同1877年に死去し、サン=サーンスに10万フランを遺贈した。サン=サーンスはこの遺贈者のレクイエムを作曲し、1878年5月22日、パリのサン=シュルピス教会で演奏の機会を得た。さらに1877年末には『サムソンとデリラ』もワイマールで上演がかなった。これに自信をもったサン=サーンスはオペラの作曲に本格的に取り組むようになる。3、4年毎に作品を発表し、すぐに上演された。これは1911年『デジャニール』の千秋楽まで続いた。またリストが『サムソンとデリラ』を激賞したことが縁となり、1878年3月にパリ・イタリア座でリストの楽曲を演奏する。これがリストの交響詩のフランス初演となった。

サン=サーンスのオペラで歴史に取材した初の作品は、ルイ・ガレ (Louis Gallet) の台本による『エティエンヌ・マルセル』である。百年戦争期パリの英雄的な指導者を描いたこの作品は1879年リヨンで初演されたが人気はほどほどだった。続いてパリのガルニエ宮(オペラ座)より依頼され、シェイクスピアおよびペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカのリブレットに基づき制作した『ヘンリー8世』は1883年3月に初演され、大きな成功を収めた。しかしエドモン・アブの小説を原作としたオペラ・コミック『ギエリ』は制作後すぐに没とされた。ルイ・ガレがリブレットを書き、16世紀のフィレンツェを舞台とした『プロセルピーヌ』(1887年上演)など、歴史に題材をとったオペラを相次いで発表した。

1881年、サン=サーンスは芸術アカデミー会員に選出され、1884年にはレジオン・ドヌール勲章のオフィシエを受勲している。

オペラの相次ぐ成功により、1888年の母の死と相まって、サン=サーンスは次第に活動の場をフランス国外に移すようになった。1873年にアルジェリアを訪ねてから、お気に入りの旅先となる。ノルマンディ地方の港町ディエップに所領を移す。ディエップには1890年7月サン=サーンス博物館が開館している。この時期もサン=サーンスは執筆活動を続け、とりわけ『ルヴュ・ブルー』誌に「回想」と題する連載記事を執筆した。南欧や北欧、さらには南米、東アジアと演奏旅行を行った。

サン=サーンスが『動物の謝肉祭』の着想を得たのもオーストリアにおける休暇中だった。またロシアでは赤十字の後援を受け、サンクト・ペテルブルクで7回のコンサートを行っている。サンクト・ペテルブルクではチャイコフスキーと出会い、ニコライ・ルビンシュタインのピアノ伴奏により二人で即興のバレエを披露するという余興も行った。

1906年に初のアメリカ合衆国における演奏旅行を行い、フィラデルフィアやシカゴ、ワシントンでコンサートを行った。1915年には二度目の米国での興行を催し、ニューヨークやサンフランシスコで講演や演奏を行った。

サン=サーンスは1871年を皮切りにイギリスへ何度も赴き、ヴィクトリア女王の御前で演奏を行ったり、バッキンガム宮殿の図書館でヘンデルの手稿文書を閲覧するなどの活動を行った。1886年、ロンドン・フィルハーモニック協会の依頼で作曲した交響曲第3番は作曲者自身の指揮によりロンドンで初演され、1893年にはコヴェント・ガーデンで『サムソンとデリラ』のオラトリオ版を指揮した。1893年にケンブリッジ大学より、1907年にオックスフォード大学より名誉博士号を授与され、また1902年のエドワード7世の戴冠に際して行進曲を作曲したことで、ロイヤル・ヴィクトリア勲章のコマンダーを授与された。

1894年、サン=サーンスはオーギュスト・デュランの音楽出版社のためにラモー全集の編纂に携わった。1895年の『フレデゴンド』はオペラ座で上演されたが、これは失敗に終わる。サン=サーンスはオペラ座での活動休止を決める。代わって彼が活路を見出したのは南仏である。1896年にはフェルナン・カステルボン=ド=ボーゾスト (Fernand Castelbon de Beauxhostes) の招聘を受け、ベジエの野外劇場の再建に協力する。サン=サーンスはこの野外劇場で、地元の楽団「リール・ビテロワーズ」(Lyre Biterroise) などの演奏により、ルイ・ガレの『デジャニール』を上演した。フランス中から1万名以上もの観客が押し寄せたという。ベジエの野外劇場でサン=サーンスの作品は好意的に受け入れられ、1898年に劇場の音楽顧問に就任する。

他方、モンテ・カルロ歌劇場でも積極的に活動を行っている。モナコ大公アルベール1世の庇護を受け、支配人ラウール・ガンズブールの下で『エレーヌ』『祖先』『デジャニール』の3作を上演した。

1900年、パリ万国博覧会の依頼を受け、電力技術の発展を礼賛するカンタータ『天上の火』を作曲した。同1900年、サン=サーンスはフランスの最高勲章であるレジオン・ドヌールの「グラントフィシエ」を受勲し、また皇帝ヴィルヘルム2世によりドイツ帝国の功労勲章を受勲した。芸術アカデミー会長に就任する。

20世紀に入ると、サン=サーンスはエジプトやアルジェリアで過ごす機会が多くなる。1910~1911年の冬にかけて、アルジェの市立劇場では彼のオペラ5作品が上演された。カイロ滞在中の1913年にはレジオン・ドヌールの最高位である「グラン・クロワ」を受賞している。サン=サーンスはその後も自作曲の演奏や改訂を行いながら日々を過ごした。

1916年、南米における4ヶ月の滞在中、サン=サーンスは左手に麻痺を感じるようになる。彼は1921年8月6日、ディエップのカジノで行われたピアノコンサートを以て、自らの演奏家としてのキャリアに終止符を打つことを決める。同1921年8月21日、ベジエにおける『アンティゴネ』のリハーサルを以て、作曲活動からもリタイアした。

1921年12月、サン=サーンスはアルジェに戻り、同地で息を引き取った。フランスでは国葬が行われ、偉大な作曲家の亡骸はパリのマドレーヌ寺院に安置された。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Saint-Saëns, (Charles) Camille | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.24335]
  2. Saint-Saëns, (Charles) Camille | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.O904535]
  3. Camille Saint-Saëns (1835-1921) [https://www.musicologie.org/Biographies/saint_saens_c.html]
1988年生まれ。東京大学文学部卒業後、同大学院進学。現在はパリ社会科学高等研究院にて在外研究中。専門は近代フランス社会政策思想史。好きな作曲家はジャン・シベリウス。Doctorant à l'Ecole des hautes études en sciences sociales. Histoire politique et culturelle.
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