ジュール・マスネ

ジュール・マスネ

生 : 1842年5月12日(フランス王国、モントー)/没 : 1912年8月13日(フランス共和国、パリ)

ジュール・マスネ (Jules Massenet) はフランスの作曲家。19世紀後半にオペラの分野で活躍した。代表作に『マノン』、『ウェルテル』、『タイス』などがある。

生涯 | Biography

小見出し

ジュール・マスネは1842年5月12日、今日ではサン=テティエンヌの一部となっているロワール県のモントー (Montaud) において、商人の家に生まれた。父アレクシは農業に関する会社の重役でかつてのナポレオン軍の士官、マスネは4人兄弟のうち最年少だった。母のエレオノール=アデライド・ロワイエ・ド・マランクールは、マスネ自身の言によると「母親として、また妻として模範的」な女性であり、少年ジュールの精神面・音楽面における成長に影響を与えたという。彼女は才能あるピアニストで、作曲のほかピアノのレッスンも行った。マスネの父親が1847年に退職すると、一家はパリへと移住した。

モントーのマスネの生家(1908年頃)

マスネは10歳の時にコンセルヴァトワール(パリ音楽院)へ入学し、それから十年にわたってピアノやソルフェージュの教育を受けた。1859年ピアノ科で主席、1862年に対位法とフーガで次席を得るなど優秀な成績を収め、1861年にアンブロワーズ・トマによる作曲のクラスを受講した。この頃マスネはピアノのレッスンを行ったりテアトル・リリックでティンパニ奏者を務めながら生計を立てた。とりわけ4年間続けた後者の経験はシャルル・グノーやエルネスト・レイエ (Ernest Reyer) らをはじめとする同時代のフランス人音楽家によるオペラ作品に触れる機会となった。さらにマスネは1855年エクトル・ベルリオーズの指揮する『キリストの幼時』や、シルク・ナポレオン座におけるジュール・パドルーによる舞台、また1860年2月にパリで行われたワグナーによるコンサートに感銘を受けるなど、同時代の音楽シーンから影響を受けた。

1860年頃のマスネ

マスネは1862年ローマ大賞に応募するが落選。しかし翌1863年、カンタータ『デヴィッド・リッツィオ』によりグラン・プリを取得する。2年間をイタリアで過ごす権利を得たマスネは半島を広く旅行し、この時期フランツ・リストと、またリストの紹介により後に妻となるサント=マリー嬢 ―「ニノン」と呼ばれた― と出会っている。マスネのイタリア滞在における最大の成果は『レクイエム』をはじめとする数点のオーケストラ曲である。

1866年、ドイツとオーストリアを旅行した後パリに戻ったマスネは、10月にニノンと結婚し、二年後の1868年に娘のジュリエットをもうけた。この時期マスネはジョルジュ・アルトマン (Georges Hartmann) と出会う。音楽出版業を営むアルトマンはドビュッシーの支持者としても知られていたが、マスネに対してもそれから25年に渡って協力関係を続けた。さらにマスネは、おそらくはパリ音楽院時代の師匠であるアンブロワーズ・トマの手引きにより、オペラ=コミック座の演目の作曲を依頼される。マスネは『エスメラルダ』や『ラ・グラン・タント』を作曲し、オペラ作家の道に足を踏み入れる。

オペラ=コミック座オペラ=コミック座

マスネはパリにおいて急速に知名度を高め、サン=サーンスビゼー、フォーレなどといった世代の才能ある若手音楽家の一人に数えられるようになった。マスネはピアノ曲やオーケストラ曲などの分野で名声を高めたが、オペラではなかなか成功することができなかった。バイロンの詩に基づく『マンフレッド』は未完に終わり、バルビエとカレの台本による『メデュース』は1870年、普仏戦争の勃発により中断された。

プロイセンとの戦争においてマスネは国民衛兵として従軍した。戦後、音楽活動を再開したマスネは完成したばかりのパリ・ガルニエ宮(オペラ座)で1877年に上演された『ラオールの王』で成功を収める。オペラ座における成功はマスネの名声を高め、国際的に名を知られるようになる。とりわけイタリアでの人気は高く、ミラノの楽譜出版社リコルディはフロベールの『エロディアード』に基づくオペラを企画した。リコルディの委託を受けたアンジェロ・ザナルディーニ (Angelo Zanardini) とアルトマンは台本作家のポール・ミリエ (Paul Milliet) にリブレットを依頼した。

マスネは1878年から『エロディアード』の作曲を開始する。同年、今やパリ音楽院学長となったかつての師匠アンブロワーズ・トマの後任として音楽院の教授に就任、さらにフランソワ・バザンの後任として芸術アカデミー会員に選出され、作曲部門の席次6を得た1)このとき同時に立候補していたのがかつての友人カミーユ・サン=サーンスで、以後両者の関係は悪化してしまう。。パリ音楽院においてマスネは18年間に渡って作曲の講座を持ち、多くの後進を育てた。彼は授業が開講される冬の間はパリに留まり、夏のバカンス期間を利用して諸外国へ旅行しつつ作曲に専念するという生活スタイルを取った。

『エロディアード』の楽譜は1879年に完成した。しかしながら、聖書に取材した不道徳な内容であることを理由に、オペラ座の音楽監督オーギュスト・ヴォーコルベイユ (Auguste Vaucorbeil) は上演を断ってしまう。代わりにマスネは、当時若いフランス人音楽家の注目を集めていたブリュッセル・モネ劇場の誘致を受け、結局『エロディアード』は1881年12月に初演となった。

続いてマスネはアンリ・メイヤックとフィリップ・ジルに台本を依頼し、プレヴォ神父の古典『マノン・レスコー』のオペラ翻案に取り組んだ。この『マノン』は1884年1月、オペラ=コミック座において初演となり、作曲者の名声を不動のものとした。続く約30年の間にマスネは20以上のオペラを作曲したほか、バレエ曲などの舞台芸術に取り組んだ。非公開に終った『モンタルト』、コルネイユの戯曲に取材した『ル・シッド』を制作した後、マスネが次に取り組んだのは『ウェルテル』である。

文豪ゲーテによる『若きウェルテルの悩み』に取材し、『マノン』に並ぶ代表作として知られるこの作品をマスネは1880年頃から着想していたが、実際に作曲を始めたのは1885年だった。盟友アルトマンは彼のために18世紀に建てられたヴェルサイユのアパルトマンを買い与え、作曲に専念できるよう取り計らった。マスネとアルトマンは1886年8月オーストリア・バイロイトへ旅行する。これはゲーテがドイツのヴェッツラーを旅行中に『若きウェルテルの悩み』を着想した事実を彷彿とさせるものであり、マスネの作曲にとってもこの旅行は刺激になったという。

ところが1887年、『ウェルテル』の上演はオペラ=コミック座によって断られてしまう。ストーリーが暗すぎるというのがその理由である。結局『ウェルテル』は1892年2月、ウィーンにおいて初演が実現した。この都市では2年前に『マノン』が成功を収めたこともあり、マスネの新作も好意的に受け入れられた。結局『ウェルテル』は1893年にパリでも上演され、西欧の音楽シーンを席巻することとなった。

1887年、マスネは22歳のアメリカ人ソプラノ歌手シビル・サンダーソン (Sybil Sanderson) と出会う。彼女の美しい声と容姿に魅了されたマスネはサンダーソンのために『エスクラルモンド』を制作する。「オペラ=ロマネスク」として構想されたこの作品は劇的な特殊効果を使用し、中世のビザンツ帝国の宮廷における騎士道物語を演出するものだった。ワグナーの影響を多分に受けたこの作品は、1889年のパリ万国博覧会において上演された。2年後の1891年アルトマンが破産したため、以後マスネの楽譜はジャック=レオポール・ユーゲル (Jacques-Léopold Heugel) のもとで出版されるようになる。

シビル・サンダーソンシビル・サンダーソン

1892年、『ウェルテル』およびバレエ『ル・カリヨン』の上演のためウィーンを訪れたマスネは、サンダーソンのための新しい作品を構想する。『タイス』である。アナトール・フランスのセンセーショナルな小説を原作としたこのオペラは、宗教と愛というマスネの主要なテーマが前面に表れたものだった。1894年3月パリ・オペラ座で『タイス』の初演が実現したことを皮切りに、同年5月にはオペラ=コミック座で『マノンの肖像』が、6月にはロンドンのコヴェント・ガーデンに所在するロイヤル・オペラ・ハウスで『ラ・ナヴァレーズ』が上演されるなど、この時期マスネは精力的に作品を発表した。

マスネは当時もパリ音楽院における教授職を続けていたが、作曲による多忙を理由にしばしばアンドレ・ジェダルジュによる代講が行われた。学長のアンブロワーズ・トマが1896年2月に亡くなると、後任としてマスネが指名されそうになったが、結局テオドール・デュボワが選出され、マスネは正式に教授を辞任することができた。

マスネが次に取り組んだオペラ作品は『サッフォー』である。『最後の授業』などで知られるアルフォンス・ドーデの小説を下敷きにしたこの作品は1897年11月オペラ=コミック座で初演が行われたが、地方出身のナイーヴな青年と経験豊富なパリジェンヌとの恋愛を主軸とする台本は話題を読んだ。

1899年、『サンドリヨン』の上演と前後して、マスネはパリの南郊にある小村エグルヴィルにシャトーを持ち、ここを終の棲家とした。マスネは作曲に際してワグナー的な精神性に魅力を感じながらも、1890年代にフランスやロシア、ウィーンで登場した新しい流行を取り入れず、自らの様式を守り続けた。この頃パリのオペラ座やオペラ=コミック座では常時何らかのマスネ作品が上演されており、またロンドンやミラノ、ウィーンといったヨーロッパ諸国の主要都市でも彼の作品は人気を博するなど、マスネはそのキャリアの絶頂にあった。1900年12月14日にはレジオン・ドヌール勲章の最高位であるグラントフィシエを授与されている。

世紀が変わり1900年代が幕を開けると、マスネはピアノ協奏曲をはじめとしたオーケストラ曲の制作に取り組む。このピアノ協奏曲は1903年、ヴィルトゥオーゾとして名を馳せたルイ・ディエメによってパリ音楽院で演奏されたが、それほどの評判を得ることができなかった。そのためマスネはすぐに得意分野であるオペラの作曲に復帰した。モーツァルト『フィガロの結婚』の登場人物ケルビーノの後日談である『シェルバン』のほか、バレエ曲『シガール』といった作品がこの時期に発表された。

そうした中、マスネは新しい歌手を発掘する。リュシー・アルベルである。1878年生まれのアルベルは『アリアーヌ』や『バッカス』などのマスネ晩年のオペラに多く出演し、歌姫としての名声を高めていった。マスネは健康を悪化させつつも死の直前まで精力的に活動を続け、『ドン・キホーテ』『ローマ』『クレオパトラ』などの名作を残した。

リュシー・アルベルナダールによるリュシー・アルベルの肖像写真

晩年のマスネはリュクサンブール公園の北側に面したヴォジラール街48番地の中二階のアパルトマンに住んだ。マスネは人付き合いが悪いというわけではなかったが、パリのカフェや舞踏会にはあまり顔を出さず、新聞や雑誌のインタビューにもあまり答えなかった。その生涯はラフィット社から1912年に刊行された自伝『回想録』において克明に語られている。

ジュール・マスネが亡くなったのは1912年8月13日、朝5時ごろのことだった 2)Le Temps, 13 aout 1912. 。家族や友人、そしてとりわけパリ音楽院における生徒を愛したマスネの葬儀では、関係者による数多くのエロージュが読み上げられたという。

作品一覧 | Works

オペラ

参考文献 | Bibliography

  1. Archives de la Préfecture de police de Paris, série Ea11, Papiers Jules Massenet
  2. Massenet, Jules | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.51469]
  3. Jules Massenet : 10 (petites) choses que vous ne saviez (peut-être) pas sur le compositeur de Werther [https://www.francemusique.fr/musique-classique/10-petites-choses-que-vous-ne-saviez-peut-etre-pas-sur-jules-massenet-36296]
  4. Jules Massenet (1842-1912) [https://www.musicologie.org/Biographies/m/massenet.html]
  5. Christophe Prochasson, Les années électriques, 1880-1910, Paris : Découverte , 1991 .
  6. Christophe Prochasson, Paris 1900. Essai d’histoire culturelle, Paris : Calmann-Lévy, 1999.

Notes   [ + ]

1. このとき同時に立候補していたのがかつての友人カミーユ・サン=サーンスで、以後両者の関係は悪化してしまう。
2. Le Temps, 13 aout 1912.
1988年生まれ。東京大学文学部卒業後、同大学院進学。現在はパリ社会科学高等研究院にて在外研究中。専門は近代フランス社会政策思想史。好きな作曲家はジャン・シベリウス。Doctorant à l'Ecole des hautes études en sciences sociales, ingenieur d'études. Histoire politique et culturelle.
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