ジャック・オッフェンバック

ジャック・オッフェンバック

生 : 1819年6月20日(プロイセン王国、ケルン)/没 : 1880年10月5日(フランス共和国、パリ)

ジャック・オッフェンバック (Jacques Offenbach) はフランスの作曲家。19世紀中葉のパリを中心に活躍し、オペレッタを確立した大衆音楽の第一人者とされる。代表作に『地獄のオルフェ』、『パリの生活』、『ホフマン物語』などがある。

生涯 | Biography

ケルンにおける少年時代

ジャック・オッフェンバックは1819年6月20日、当時プロイセン王国領だったケルンで生まれた。本名はヤーコブ・レヴィ・エーベルスト。父のイザーク・エーベルスト (Isaac Juda Eberst) はオッフェンバッハ・アム・マイン出身のユダヤ人で、1800年頃ケルンに移住し「オッフェンバッハの人」(Der Offenbacher) として名を知られていた。イザークは製本や音楽教師、作曲により生計を立て、後にケルンのユダヤ教会堂(シナゴーグ)で礼拝の主唱者を務めるなど、音楽家として活動した。

7人兄弟の末子として生まれた幼いヤーコブは初め母親よりヴァイオリンを、続いてチェロを習った。ヴァイオリン弾きである兄のユリウス、ピアノ弾きである姉のイザベラとともにトリオを組んでケルンの酒場で演奏するなど、少年時代からその才覚を現しつつあった。

パリにおける音楽修行

1833年11月、ヤーコブ・エーベルストが14歳の時に父親のイザークは彼と兄ユリウスに音楽教育を受けさせるため、二人の兄弟を連れてパリへ移住した。ヤーコブは外国人ながらその能力を認められ、厳格な校風で知られるパリ音楽院(コンセルヴァトワール)への入学を許可される。兄弟はシナゴーグの合唱団で活動したが、ほどなくしてユリウスはケルンに戻る。

パリ暮らしを始めた青年ヤーコブはフランス風に「ジャック」と呼ばれ、音楽活動を開始した。音楽家ジャック・オッフェンバックの誕生である。オッフェンバックはアンビギュ=コミック座、続いてオペラ=コミック座においてオーケストラのチェロ奏者を務める。ルイ・ノルブラン (Louis Norblin) やジャック・アレヴィ (Jacques Halévy 1)アレヴィ家は文化人の一門として有名な家系。ジャックの甥リュドヴィク・アレヴィはジョルジュ・ビゼーの協力者として『カルメン』を執筆した。リュドヴィクの子エリー・アレヴィは『哲学的急進主義の成立』で知られる哲学者、エリーの弟ダニエル・アレヴィは『名望家の終焉』で知られる歴史家である。) に師事し作曲を学んだ。

1838年にオペラ=コミック座を引退したオッフェンバックは、フリードリッヒ・フォン・フロトーの知己を得、パリ社交界のサロンに出入りするようになる。1839年1月に兄のユリウス(「ジュール」と呼ばれた)とともに最初の公演会を主催している。

チェロ奏者としての日々

青年時代のオッフェンバック

1840年代、オッフェンバックは名チェロ奏者としての地位を確立し、1843年にはケルンでフランツ・リストと共演している。私生活では1844年にカトリックへと改宗し、同年8月14日にサロンで出会ったスペインの良家の娘エルミニー・ダルカン (Herminie d’Alcain) と結婚した。夫妻は5人の子宝に恵まれた。

演奏家としてキャリアを形成する反面、オッフェンバック自身の作品は振るわなかった。オペラ=コミック座で1847年に上演された『アルコーヴ』を始めとする一連の劇作は失敗に終わり、再起を賭けて参加したアドルフ・アダンによるテアトル・ナシオナルは翌1848年閉鎖に追い込まれる。二月革命が勃発したのだ。

革命の混乱を逃れるため、オッフェンバックは一時ケルンに避難。1850年にコメディ=フランセーズの音楽監督に任命されたが、さしたる成功を収めることはできなかった。演奏者としてのみならず、自らの作品による成功を目論むオッフェンバックは、次第に自前の劇場を持つことを望むようになる。

劇場支配人としての成功

1855年、皇帝ナポレオン3世は国の威信を賭けてパリで万国博覧会を開催する。1851年にロンドンで行われた世界初の万博に赴き、会場として建築された水晶宮(クリスタル・パレス)に衝撃を受けたナポレオン3世は、イギリスへの対抗心からパリ万博では豪華絢爛な「産業の宮殿」をシャンゼリゼ通り沿いに造営する。

産業宮

これに商機を見たジャック・オッフェンバックは、万博の会期であるサマーシーズンにあわせてシャンゼリゼのマリニー劇場を買収し、7月5日にブッフ・パリジャン劇場としてリニューアルオープンした。こけら落としの演目『二人の盲人』を皮切りに、定期的に演目が変更される歌劇の小品は万博を目的に各国から訪れたブルジョワたちの間で好評を博し、興業は大成功を収めた。

この成功によりオッフェンバックはコメディ=フランセーズの音楽監督を退任し独立、1855年のウィンターシーズンの劇場としてパサージュ・ショワズル(現在のモンシニ街)のテアトル・コント座に入居する。翌1856年の冬季からシャンゼリゼを引き払い、以後はテアトル・コント座において年間を通して興行を催した。

オッフェンバックの作風は派手好きの皇帝ナポレオン3世に認められ、チュイルリ宮殿で御前上演を行う栄誉にあずかる。さらに皇帝の異父弟にしてタレーラン=ペリゴールの孫であるモルニー公もオッフェンバックの庇護者となった。モルニーはオッフェンバックの息子の名付け親にもなっている。

この頃オッフェンバックはモーツァルトの『劇場支配人』やロッシーニの『ブルスキーノ氏』の翻案を行い、1856年に青年作曲家コンクールを開催するなど、精力的に活動を行った。このコンクールの入賞者には若きジョルジュ・ビゼーとシャルル・ルコックがいた。

オペレッタの確立と最盛期

1858年10月21日初演の『地獄のオルフェ2)日本では『天国と地獄』の名称で人口に膾炙している。』は228回上演、連日満員と大成功を収め、ジャック・オッフェンバックの名を不動のものとした。フィナーレを飾るフレンチ・カンカン「地獄のギャロップ」に象徴される華々しい構成は、大規模なオペレッタの原型とされる。

地獄のオルフェ

オッフェンバックは1860年フランスに帰化し、1861年にレジオン・ドヌール勲章(シュヴァリエ)を授与された。『地獄のオルフェ』の成功で財をなしたオッフェンバックは、当時の高級住宅地であったパリのラフィット街に居を構えたほか、ノルマンディの上流階級のリゾート地として知られるエトルタに「ヴィラ・オルフェ」と称する別荘を保有した。

オッフェンバックの確立した「オペラ・ブッフ」は国外でも広く認知された。1864年『ラインの妖精』がウィーン国立歌劇場で上演され、作曲者自身が指揮を執った。彼の代表作『美しきエレーヌ』(1864)、『青ひげ』(1866)、『パリの生活』(1866)、『ジェロルステイン大公妃殿下』(1867)、『ラ・ペリコール』(1868)はこの時期に書かれている。

オッフェンバックの成功の契機が万博ならば、彼の最盛期も万博にあった。1867年のパリ万国博覧会の会期中3)1867年のパリ万博は日本が初めて参加した万博でもある。江戸幕府のほか、薩摩藩と佐賀藩が出展を行った。、オッフェンバックの作品はパリ中の劇場の演目を埋め尽くしたという。おそらくこの時オッフェンバックは彼の生涯の絶頂にあった。

栄華の終焉と晩年

しかし栄華は長く続かなかった。パリ万博から3年後、普仏戦争における屈辱的な敗戦(1870年)とそれに続く民衆蜂起(パリ・コミューン、1871年)は、パリ市民の音楽に対する嗜好を変えた。かつてオッフェンバック主催のコンクールによって見出されたシャルル・ルコックの現実逃避的な作品が大衆の人気を博する中、オッフェンバックはテアトル・ド・ラ・ゲテの支配人となるも、1874年に破産の憂き目にあう。

1870年代、オッフェンバックはファンタジックな台本を特徴とする民衆劇とオペレッタを融合させた「オペラ・フェリー」(opéra féerie) を確立、『にんじん王』や『ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン』、『月世界旅行』といった大衆劇を残した。しかしながら、最盛期の作品に比べてこれらの夢幻的オペレッタは今日まで知名度が低く、上演の機会も少ない。

かくして晩年のオッフェンバックは次第に活動の場を国外に移していく。1874年のクリスマスシーズンにはロンドンのアルハンブラ劇場のために『ウィッティントン』を書き、アメリカ独立100周年を記念するフィラデルフィア万国博覧会に際しては借金返済のためニューヨークやフィラデルフィアで演奏旅行をおこなった。

オッフェンバック最晩年の業績は『ホフマン物語』の作曲にある。彼はパリ近郊のサン=ジェルマン=アン=レの高台にある高級ホテル「パヴィヨン・アンリ・キャトル」に滞在しスコアの作成に専念したが、1880年9月、健康悪化のためパリに戻ることを余儀なくされた。翌10月、痛風に伴う心臓疾患により死去。享年61であった4)オッフェンバックの亡骸は現在、パリのモンマルトル墓地に安置されている。

アンドレ・ジルによる風刺画

ジャック・オッフェンバックの栄華はフランス第二帝政とともに訪れ、帝政の崩壊はオッフェンバックの時代を終わらせた。しかしながら、オッフェンバックは流行遅れとなることで、同時に自らの作品を古典としての地位にまで高めた。21世紀の今日、CM使用曲や番組のBGMなどを通じて彼の親しみやすいメロディを耳にしたことのない人はいない。かのロッシーニはオッフェンバックを「シャンゼリゼのモーツァルト」と呼んだ 5) 「オッフェンバック」, 日本大百科全書(ニッポニカ)。民衆に愛された歌劇の革新者の作品は人類の財産として共有され、今なお世界中で親しまれているのである。

作品一覧 | Works

オペラおよびオペレッタ

  • 1839 パスカルとシャンボール Pascal et Chambord
  • 1855 ペピート Pépito
  • 1855 マチュラン神の宝物 Le Trésor à Mathurin
  • 1855 白夜 Une nuit blanche
  • 1855 二人の盲人 Les Deux Aveugles
  • 1855 へぼなヴァイオリン弾き Le Violoneux
  • 1855 ペンポルとペリネット Paimpol et Périnette
  • 1855 バタクラン Ba-ta-clan
  • 1856 アルカザールの竜巻 Tromb-al-ca-zar ou les Criminels dramatiques
  • 1856 サン=フルールの薔薇 La Rose de Saint-Flour
  • 1856 洗礼の砂糖菓子 Les Dragées du baptême
  • 1856 66 Le Soixante-six
  • 1856 靴直しと徴税人 Le Financier et le Savetier
  • 1856 子守の女 La Bonne d’enfant
  • 1857 悪魔の三つの口づけ Les Trois Baisers du diable
  • 1857 最後の遍歴騎士クロックフェール Croquefer ou le Dernier des paladins
  • 1857 小さな竜 Dragonette
  • 1857 夜の風、あるいは恐るべき宴 Vent-du-Soir ou l’Horrible Festin
  • 1857 宝くじのお嬢さん Une demoiselle en loterie
  • 1857 提灯結婚 Le Mariage aux lanternes
  • 1857 二人の漁師 Les Deux Pêcheurs ou le Lever du soleil
  • 1858 市場の女商人たち Mesdames de la Halle
  • 1858 女に化けた雌猫 La Chatte métamorphosée en femme
  • 1858 地獄のオルフェ Orphée aux Enfers
  • 1859 追い出された亭主 Un mari à la porte
  • 1859 酒保の女 Les Vivandières des zouaves
  • 1859 ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン Geneviève de Brabant
  • 1860 雑誌のカーニバル Le Carnaval des revues
  • 1860 ダフニスとクロエ Daphnis et Chloé
  • 1860 蝶々Le Papillon
  • 1860 バルクーフ Barkouf
  • 1861 フォルチュニオの歌 La Chanson de Fortunio
  • 1861 ため息橋 Le Pont des soupirs
  • 1861 シューフルリ氏はご在宅 Monsieur Choufleuri restera chez lui le…
  • 1861 薬剤師とかつら作り Apothicaire et Perruquier
  • 1861 滑稽な小説 Le Roman comique
  • 1862 ドゥニ夫妻 Monsieur et Madame Denis
  • 1862 デュナナン父子の旅行 Le Voyage de MM. Dunanan père et fils
  • 1862 おしゃべり者 Les Bavards
  • 1862 ジャクリーヌ Jacqueline
  • 1863 ブラジル人 Le Brésilien
  • 1863 ファゴット氏 Il signor Fagotto
  • 1863 リッシェンとフリッツヒェン Lischen et Fritzchen
  • 1864 恋の歌手 L’Amour chanteur
  • 1864 ラインの妖精 Die Rheinnixen
  • 1864 ジョージアの女たち Les Géorgiennes
  • 1864 泣くジャンヌと笑うジャン Jeanne qui pleure et Jean qui rit
  • 1864 魔法使いの兵士 Le Fifre enchanté ou le Soldat magicien
  • 1864 美しきエレーヌ La Belle Hélène
  • 1865 コスコレット Coscoletto ou le Lazzarone
  • 1865 羊飼い Les Bergers
  • 1866 青ひげ Barbe-Bleue
  • 1866 パリの生活 La Vie parisienne
  • 1867 ジェロルステイン大公妃殿下 La grande duchesse de Gérolstein
  • 1867 10時間の外出 La Permission de dix heures
  • 1867 電磁気楽曲入門 La Leçon de chant électro-magnétique
  • 1867 ロビンソン・クルーソー Robinson Crusoé
  • 1868 トトの城 Le Château à Toto
  • 1868 チュリパタン島 L’Île de Tulipatan
  • 1868 ペリコール La Périchole
  • 1869 ヴェール=ヴェール Vert-Vert
  • 1869 ディーヴァ La Diva
  • 1869 トレビゾンド姫 La Princesse de Trébizonde
  • 1869 山賊たち Les Brigands
  • 1869 薔薇のロマンス La Romance de la rose
  • 1871 雪だるま Boule-de-neige
  • 1872 人参の王様 Le Roi Carotte
  • 1872 ファンタジオ Fantasio
  • 1872 黒い海賊船 Der schwartze Korsar
  • 1872 小さな花 Fleurette
  • 1873 密猟者 Les Braconniers
  • 1873 りんご娘 Pomme d’api
  • 1873 美しい香水屋 La Jolie parfumeuse
  • 1874 バガテル Bagatelle
  • 1874 オーストリア皇太子妃 Madame l’Archiduc
  • 1874 憎しみ La Haine
  • 1874 ウィッティントン Whittington
  • 1875 黄金虫 Les Hannetons
  • 1875 パン屋の女将はお金持ち La boulangère a des écus
  • 1875 月世界旅行 Le Voyage dans la Lune
  • 1875 西インド諸島の女 La Créole
  • 1875 クリーム・タルト Tarte à la crème
  • 1876 ピエレットとジャッコ Pierrette et Jacquot
  • 1876 牛乳箱 La boite au lait
  • 1877 オックス博士 Le docteur Ox
  • 1877 サン=ローランの市 La foire Saint-Laurent
  • 1878 ペロニラ先生 Maître Péronilla
  • 1878 ファヴァール夫人 Madame Favart
  • 1879 モロッコの女 La marocaine
  • 1879 鼓手隊長の娘 La fille du tambour-major
  • 1880 美しきリュレット Belle Lurette
  • 1881 ホフマン物語 Les contes d’Hoffmann
  • 1881 ムシュロン姉ちゃん Moucheron

参考文献 | Bibliography

  1. Offenbach, Jacques | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.20271]
  2. Jacques Offenbach (1819-1880) [https://www.musicologie.org/Biographies/o/offenbach_jacques.html]
  3. Jean-Claude Yon, Jacques Offenbach, Paris : Gallimard, 2000.
  4. « Jacques Offenbach », in Jean Tulard (dir.), Dictionnaire du Second Empire, Paris : Fayard, 1995.
  5. ジークフリート・クラカウアー(平井正訳)『天国と地獄 : ジャック・オッフェンバックと同時代のパリ』せりか書房1978年。
  6. 森佳子『オッフェンバックと大衆芸術:パリジャンが愛した夢幻オペレッタ』早稲田大学出版部、2014年。
  7. 横張誠『芸術と策謀のパリ : ナポレオン三世時代の怪しい男たち』講談社、1999年。

Notes   [ + ]

1. アレヴィ家は文化人の一門として有名な家系。ジャックの甥リュドヴィク・アレヴィはジョルジュ・ビゼーの協力者として『カルメン』を執筆した。リュドヴィクの子エリー・アレヴィは『哲学的急進主義の成立』で知られる哲学者、エリーの弟ダニエル・アレヴィは『名望家の終焉』で知られる歴史家である。
2. 日本では『天国と地獄』の名称で人口に膾炙している。
3. 1867年のパリ万博は日本が初めて参加した万博でもある。江戸幕府のほか、薩摩藩と佐賀藩が出展を行った。
4. オッフェンバックの亡骸は現在、パリのモンマルトル墓地に安置されている。
5.  「オッフェンバック」, 日本大百科全書(ニッポニカ)
1988年生まれ。東京大学文学部卒業後、同大学院進学。現在はパリ社会科学高等研究院にて在外研究中。専門は近代フランス社会政策思想史。好きな作曲家はジャン・シベリウス。Doctorant à l'Ecole des hautes études en sciences sociales, ingenieur d'études. Histoire politique et culturelle.
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