アンドレス・セゴビア

アンドレス・セゴビア

生 : 1893年2月21日(スペイン王国、リナーレス)/没 : 1987年6月2日(スペイン王国、マドリード)

アンドレス・セゴビア (Andrés Segovia) はスペインのギタリスト。「現代クラシック・ギター奏法の父」と呼ばれる。

生涯 | Biography

アンドレス・セゴビアはアンダルシアの都市リナーレスで生まれた。グラナダで育ち、幼少期はピアノやチェロを習ったが、その後、独学でギターを学ぶ。当時この楽器は高尚と見なされず、主として酒場やカフェで演奏されるのにふさわしいと考えられていた。1909年頃、セゴビアはグラナダの芸術センター (Centro Artístico) で最初のコンサートを行い、1913年、アテネオ・デ・マドリードでコンサートを行った。1922年、マヌエル・デ・ファリャがグラナダで主催したカンテ・ホンドのコンサートに参加。1919年から1922年にかけて南米でコンサートツアーを行っている。1924年にはパリでデビューし、続けてスイスやドイツ、オーストリアでリサイタルを行った。

1926年、マインツのショット (Schott) 社より古典音楽の楽譜を復刻したシリーズ(セゴビア・アーカイブ)の刊行を開始する。1926年、イギリスとロシアでコンサートデビューする。1927年、デンマークでリサイタルを行い、HMVのために録音を行う。1928年に米国デビュー、1929年には初の日本ツアーを行う。1929年、エイトル・ヴィラ=ロボスがセゴビアに「12のエチュード」を献呈する。1935年、バッハのシャコンヌをギター編曲してパリで演奏する。1936年にスペインを離れてウルグアイのモンテビデオで数年過ごし、南米の演奏旅行を数多く行った。

第二次大戦後、セゴビアは欧米における演奏ツアーを拡大し、さらにLPレコードの発明により1947年から1977年までの三十年間で50以上のアルバムを発売した。1950年代にシエナのサマースクールで講師を務め、1958年からはサンティアゴ・デ・コンポステーラで教え始めた。1961年に最初のオーストラリアにおける演奏ツアーを行った。

セゴビアは晩年、毎年のように米国やヨーロッパの演奏ツアーを行った。1967年、ドキュメンタリー映画『セゴビア・アット・ロス・オリボス』が公開され、スペインの自宅における作曲家が特集された。1976年には自伝が刊行され、また映画『ソング・オブ・ザ・ギター』ではグラナダのアルハンブラ宮殿で演奏を行った。1977年、セゴビア最後のアルバムとなる『夢想集』(Reveries) がリリースされた。1981年、スペイン王フアン・カルロスよりサロブレーニャ侯爵の位を授与され、英国ケント州のリーズ城にてセゴビア国際ギターコンクールが行われた。続く数年の間にセゴビアは日本においてツアーを行い、ニューヨークのメトロポリタン美術館においてマスタークラスを開講した。

1983年にセゴビアは90歳となり、米国および日本でツアーを行った。1985年には英国のロイヤル・フィルハーモニック協会よりゴールドメダルを授与され、故郷のリナーレスに彫像が建てられた。1986年には南カリフォルニア大学でマスタークラスを主催し、フロリダ州のマイアミビーチで最後のリサイタルを行った。晩年のセゴビアは多数の名誉博士号をはじめ、スペインやイタリアの大十字章、日本の旭日章など、世界各国から数多くの賞を得た。

セゴビアは生涯を通じて150以上のリュートやハープシコードのための作品をギター版に編曲した。その中にはクープランやラモー、バッハのバロック音楽も含まれている。彼はその演奏技術の高さから数多くの後進を育て、ギターをオーケストラにふさわしい楽器として認知させるのに貢献した。

参考文献 | Bibliography

  1. Andrés Segovia, An Autobiography of the Years 1893–1920, 1976.
  2. Andrés Segovia, Andrés Segovia, My Book of the Guitar, 1979.
  3. Segovia, Andrés | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.25329]
  4. Andrés Segovia | Spanish musician | Britannica.com [https://www.britannica.com/biography/Andres-Segovia]

カミーユ・サン=サーンス

サン=サーンス

生 : 1835年10月9日(フランス王国、パリ)/没 : 1921年12月16日(仏領アルジェリア、アルジェ)

シャルル・カミーユ・サン=サーンス (Charles Camille Saint-Saëns) はフランスの作曲家。代表作に『動物の謝肉祭』などがある。

生涯 | Biography

カミーユ・サン=サーンスは1835年10月9日、父ジャック・サン=サーンスと母クレマンス・コランの間に生まれた。ノルマンディー地方の農家の子孫である父は内務省の官僚であり、1834年にクレマンスと結婚した。父ジャックはカミーユ・サン=サーンスの生後わずか3ヶ月で死去。カミーユは結核のため2年間の療養生活を送った後、母方の家庭で育てられることとなった。そこで3歳の頃からピアノを習い、若干10歳にしてパリのサル・プレイエルでピアニストとしてデビューを果たした。演目はベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番およびモーツァルトのピアノ協奏曲第15番。このときサン=サーンスはすべての曲目を暗譜で演奏したが、当時としては異例のことだった。

サン=サーンスはピエール・マルダン (Pierre Maleden) から作曲を学んだが、彼を比類なき教師だったと認めている。サン=サーンスの早熟は多分野に渡った。フランスの古典や宗教、ラテン語やギリシャ語を習得したほか、数学や自然科学、とりわけ天文学や考古学、そして哲学に親しんだ。サン=サーンスが自作曲の著作権で500フランを得た際、彼はその金を使って天体望遠鏡を買ったという。

1848年、サン=サーンスはパリ音楽院(コンセルヴァトワール)に入学。オルガン科でフランソワ・ブノワの指導を受け、1851年グラン・プリを獲得する。同1851年よりリュドヴィク・アレヴィに作曲および管弦楽法を習い、また伴奏や歌唱の方法も学んだ。

音楽家としてのキャリアをピアニストおよびオルガン奏者から開始したサン=サーンスは、バッハやラモー、ワグナーやリストを好んで演奏した。ピアニストとしての成功のため作曲家としての評価は遅れ、ローマ大賞を逃している。しかしながら『聖セシルのための頌歌』は1852年ボルドーの聖セシル協会主催のコンテストで1位を獲得する。若くして頭角を現したサン=サーンスは、ポーリーヌ・ヴィアルドやシャルル・グノー、ジョアキーノ・ロッシーニやエクトル・ベルリオーズといった同時代の音楽家と交友関係を結び、また彼らの庇護を受けた。

当初サン=サーンスは交響曲や室内楽を多く作曲し、同世代のフランス人音楽家とは異なりオペラに関心を持たなかった。しかしながらコンセルヴァトワール時代の師であるアレヴィの影響によりオペラに取り組むようになり、ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドやシャルル・グノーの支援を受けた。1854年パリに取材したオペラ・コミックの制作に取り掛かるが、後に放棄。ジュール・バルビエ発案によるオペラの序曲も作曲したが、結局これも半世紀以上が経過した1913年まで完成を見ることはなかった。

1853年、サン=サーンスはパリのサン・メリ教会のオルガニストに就任した。同教会のガブリエル神父に同伴して赴いたイタリア旅行が、サン=サーンスにとって生涯続く演奏旅行の最初のものだった。続く1857年にはパリのマドレーヌ寺院のオルガニストに就任し、サン=サーンスはこの職を1857年まで20年に渡って務めた。フランツ・リストはサン=サーンスの演奏を聴き、彼を世界一偉大なオルガニストとして称賛している。オルガン演奏はこの時期のサン=サーンスにとっての主要な職務であり、作曲の多くも宗教音楽だった。1857年には交響曲『ローマ』により再び聖セシル協会のコンテストで賞を獲得した。もっとも、彼自身は必ずしも信心深いキリスト教徒というわけではなかったという。この時期サン=サーンスはクリストフ・ヴィリバルト・グルックの全集の編纂に協力し、またベートーヴェンやリスト、モーツァルトの作品の校訂版の編集も行った。

この期間もサン=サーンスは歌劇に対する関心を維持していた。とりわけリヒャルト・ワグナーを好み、『タンホイザー』や『ローエングリン』に年長者が眉をひそめたのに対し、彼はこれを擁護した。1860年から1861年にかけてのワグナーのパリ滞在時期、『ローエングリン』や『トリスタンとイゾルデ』、『ラインの黄金』を作曲者の目の前でピアノで演奏する機会を得た。ワグナーへの酔心はその後も続き、1869年にミュンヘンで『ラインの黄金』を、1876年には第1回バイロイト音楽祭で『ニーベルングの指環』を聴く。

サン=サーンスの生涯の中でも1860年代初頭は充実した期間だった。ピアニストとしての名声を高め、『スパルタクス』序曲はまたも聖セシル協会から授賞された。1867年、パリ万国博覧会に際して作曲されたカンタータ『プロメテの結婚』が万博の審査会で表彰される。このときの審査員にはロッシーニやオーベール、ベルリオーズ、ヴェルディ、そしてグノーが含まれていた。こうしたサン=サーンスの成功からグノーは彼をして「フランスのベートーヴェン」と形容している。

ところが1863年、サン=サーンスはローマ大賞をまたも逃してしまう。そこでコンセルヴァトワール院長のフランソワ・オーベールはテアトル・リリック支配人のレオン・カルヴァロに依頼し、サン=サーンスのためにオペラ台本を依頼する。カルヴァロはバルビエとミシェル・カレによる『銀の音色』を提供した。この作品をサン=サーンスは1、2年で完成させるが、劇場側との行き違いもあり、初演にはそれから10年以上の歳月を要した。次のオペラ『サムソンとデリラ』もほぼ忘却されかけ、1872年にオペラ・コミック座で初演された『黄色い王女』もさしたる成功をおさめることはできなかった。この『黄色い王女』で共同作業を行った作家のルイ・ガレとは、1898年にガレが亡くなるまで交友を続けた。

1861年から1865年にかけて、サン=サーンスはパリのエコール・ニデルメイエールで教鞭を執る。生徒の中にはガブリエル・フォーレやアンドレ・メサジェ、ウジェーヌ・ジグーの姿もあった。

1870~1871年の普仏戦争とパリ・コミューンによる政治的混乱の中、1871年にサン=サーンスはコンセルヴァトワールの同僚ロマン・ビュシーヌと共同で国民音楽協会を創設する。「ガリアの芸術」(Ars Gallica) をスローガンとするこの協会には、書記を務めたアレクシス・ド・カスティヨンのほか、ガブリエル・フォーレやジュール・マスネ、セザール・フランク、エドゥアール・ラロといった音楽家が参加し、フランス人音楽家の作曲・演奏活動を振興した。プロイセンとの戦争における屈辱的敗北の後、フランスでは対独ナショナリズムが高揚したが、サン=サーンスもその例外ではなかった。当初ワグナーを好んでいた彼は、次第に様式的ないし愛国的要因からこれを避けるようになる。

1870年代初頭、サン=サーンスは『ルネサンス・リテレール・エ・アルティスティック』(文学と芸術の復興)や『ガゼット・ミュジカル』、『ルヴュ・ブルー』といった文芸誌に複数の記事を掲載し、ヴァンサン・ダンディに代表される従来の音楽様式を批判した。1876年、バイロイトを訪ね『ニーベルングの指環』を鑑賞したサン=サーンスは、『レスタフェット』(L’estafette) 誌に7本の長文記事を執筆し、『ル・ヴォルテール』誌に「ハーモニーとメロディ」と題する連載を執筆した。また第一次世界大戦の始まる1914年には「ドイツ贔屓」と題する記事を発表し、ワグナーに代表されるドイツ音楽の排除を訴えている。

1875年、サン=サーンスは当時19歳だったマリ=ロール・トリュフォと結婚する。しかしながらこの結婚は母親の反対にあい、また2人の子も相次いで夭逝するなど、幸せとは言えないものだった。サン=サーンスは妻に強く当たり、結局二人は離婚した。妻のマリ=ロールは1950年、ボルドー近郊のコードラン (Cauderan) にて95歳で亡くなっている。

その後数年間、サン=サーンスは交響詩や歌曲に専念する。1877年2月、テアトル・リリックにおいて『銀の音色』がとうとう上演される。このオペラの献呈を受けたアルベール・リボン (Albert Libon) は同1877年に死去し、サン=サーンスに10万フランを遺贈した。サン=サーンスはこの遺贈者のレクイエムを作曲し、1878年5月22日、パリのサン=シュルピス教会で演奏の機会を得た。さらに1877年末には『サムソンとデリラ』もワイマールで上演がかなった。これに自信をもったサン=サーンスはオペラの作曲に本格的に取り組むようになる。3、4年毎に作品を発表し、すぐに上演された。これは1911年『デジャニール』の千秋楽まで続いた。またリストが『サムソンとデリラ』を激賞したことが縁となり、1878年3月にパリ・イタリア座でリストの楽曲を演奏する。これがリストの交響詩のフランス初演となった。

サン=サーンスのオペラで歴史に取材した初の作品は、ルイ・ガレ (Louis Gallet) の台本による『エティエンヌ・マルセル』である。百年戦争期パリの英雄的な指導者を描いたこの作品は1879年リヨンで初演されたが人気はほどほどだった。続いてパリのガルニエ宮(オペラ座)より依頼され、シェイクスピアおよびペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカのリブレットに基づき制作した『ヘンリー8世』は1883年3月に初演され、大きな成功を収めた。しかしエドモン・アブの小説を原作としたオペラ・コミック『ギエリ』は制作後すぐに没とされた。ルイ・ガレがリブレットを書き、16世紀のフィレンツェを舞台とした『プロセルピーヌ』(1887年上演)など、歴史に題材をとったオペラを相次いで発表した。

1881年、サン=サーンスは芸術アカデミー会員に選出され、1884年にはレジオン・ドヌール勲章のオフィシエを受勲している。

オペラの相次ぐ成功により、1888年の母の死と相まって、サン=サーンスは次第に活動の場をフランス国外に移すようになった。1873年にアルジェリアを訪ねてから、お気に入りの旅先となる。ノルマンディ地方の港町ディエップに所領を移す。ディエップには1890年7月サン=サーンス博物館が開館している。この時期もサン=サーンスは執筆活動を続け、とりわけ『ルヴュ・ブルー』誌に「回想」と題する連載記事を執筆した。南欧や北欧、さらには南米、東アジアと演奏旅行を行った。

サン=サーンスが『動物の謝肉祭』の着想を得たのもオーストリアにおける休暇中だった。またロシアでは赤十字の後援を受け、サンクト・ペテルブルクで7回のコンサートを行っている。サンクト・ペテルブルクではチャイコフスキーと出会い、ニコライ・ルビンシュタインのピアノ伴奏により二人で即興のバレエを披露するという余興も行った。

1906年に初のアメリカ合衆国における演奏旅行を行い、フィラデルフィアやシカゴ、ワシントンでコンサートを行った。1915年には二度目の米国での興行を催し、ニューヨークやサンフランシスコで講演や演奏を行った。

サン=サーンスは1871年を皮切りにイギリスへ何度も赴き、ヴィクトリア女王の御前で演奏を行ったり、バッキンガム宮殿の図書館でヘンデルの手稿文書を閲覧するなどの活動を行った。1886年、ロンドン・フィルハーモニック協会の依頼で作曲した交響曲第3番は作曲者自身の指揮によりロンドンで初演され、1893年にはコヴェント・ガーデンで『サムソンとデリラ』のオラトリオ版を指揮した。1893年にケンブリッジ大学より、1907年にオックスフォード大学より名誉博士号を授与され、また1902年のエドワード7世の戴冠に際して行進曲を作曲したことで、ロイヤル・ヴィクトリア勲章のコマンダーを授与された。

1894年、サン=サーンスはオーギュスト・デュランの音楽出版社のためにラモー全集の編纂に携わった。1895年の『フレデゴンド』はオペラ座で上演されたが、これは失敗に終わる。サン=サーンスはオペラ座での活動休止を決める。代わって彼が活路を見出したのは南仏である。1896年にはフェルナン・カステルボン=ド=ボーゾスト (Fernand Castelbon de Beauxhostes) の招聘を受け、ベジエの野外劇場の再建に協力する。サン=サーンスはこの野外劇場で、地元の楽団「リール・ビテロワーズ」(Lyre Biterroise) などの演奏により、ルイ・ガレの『デジャニール』を上演した。フランス中から1万名以上もの観客が押し寄せたという。ベジエの野外劇場でサン=サーンスの作品は好意的に受け入れられ、1898年に劇場の音楽顧問に就任する。

他方、モンテ・カルロ歌劇場でも積極的に活動を行っている。モナコ大公アルベール1世の庇護を受け、支配人ラウール・ガンズブールの下で『エレーヌ』『祖先』『デジャニール』の3作を上演した。

1900年、パリ万国博覧会の依頼を受け、電力技術の発展を礼賛するカンタータ『天上の火』を作曲した。同1900年、サン=サーンスはフランスの最高勲章であるレジオン・ドヌールの「グラントフィシエ」を受勲し、また皇帝ヴィルヘルム2世によりドイツ帝国の功労勲章を受勲した。芸術アカデミー会長に就任する。

20世紀に入ると、サン=サーンスはエジプトやアルジェリアで過ごす機会が多くなる。1910~1911年の冬にかけて、アルジェの市立劇場では彼のオペラ5作品が上演された。カイロ滞在中の1913年にはレジオン・ドヌールの最高位である「グラン・クロワ」を受賞している。サン=サーンスはその後も自作曲の演奏や改訂を行いながら日々を過ごした。

1916年、南米における4ヶ月の滞在中、サン=サーンスは左手に麻痺を感じるようになる。彼は1921年8月6日、ディエップのカジノで行われたピアノコンサートを以て、自らの演奏家としてのキャリアに終止符を打つことを決める。同1921年8月21日、ベジエにおける『アンティゴネ』のリハーサルを以て、作曲活動からもリタイアした。

1921年12月、サン=サーンスはアルジェに戻り、同地で息を引き取った。フランスでは国葬が行われ、偉大な作曲家の亡骸はパリのマドレーヌ寺院に安置された。

サン=サーンスは生前、1万4千通の書簡、600枚の譜面、そして600冊の書籍をディエップに寄贈していた。パスツールやワグナー、プルーストの手紙をも含むこれらのアーカイブはフランス国立図書館により整理・電子化され、デジタルアーカイブ「ガリカ (Gallica)」にて公開されている1)Dieppe : la correspondance personnelle de Camille Saint-Saëns va rejoindre la bibliothèque numérique nationale Gallica

作品一覧 | Works

作品番号あり

  • Op. 1 3つの小品 3 Morceaux 1852
  • Op. 2 交響曲第1番 変ホ長調 Symphony No.1 in E-flat major 1853
  • Op. 3 6つのバガテル 6 Bagatelles 1855
  • Op. 4 ミサ・ソレムニス Mass 1856
  • Op. 5 タントゥム・エルゴ Tantum ergo 1856
  • Op. 6 タランテラ イ短調 Tarantelle in A minor 1857
  • Op. 7 ブルターニュの歌による3つのラプソディ 3 Rhapsodies sur des cantiques bretons 1866
  • Op. 8 6つの二重奏曲 6 Duos for Harmonium and Piano 1858
  • Op. 8bis Duo for 2 Pianos 1897
  • Op. 9 祝婚曲 ヘ長調 Bénédiction nuptiale in F major 1859
  • Op. 10 ホラティウスの情景 Scène d’Horace 1860
  • Op. 11 小二重奏曲 ト長調 Duettino in G major 1855
  • Op. 12 クリスマス・オラトリオ Oratorio de Noël 1858
  • Op. 13 聖体奉挙 Élévation ou communion in E major 1858
  • Op. 14 ピアノ五重奏曲 イ短調 Piano Quintet in A minor 1855
  • Op. 15 セレナード 変ホ長調 Serenade 1866
  • Op. 16 チェロとピアノのための組曲 Suite for Cello and Piano 1862
  • Op. 16bis Suite for Cello and Orchestra 1919
  • Op. 17 ピアノ協奏曲第1番 ニ長調 Piano Concerto No.1 in D major 1858
  • Op. 18 ピアノ三重奏曲第1番 ヘ長調 Piano Trio No.1 in F major 1863
  • Op. 19 プロメテの結婚 Les Noces de Prométhée 1887
  • Op. 20 ヴァイオリン協奏曲第1番 イ長調 Violin Concerto No.1 in A major 1859
  • Op. 21 マズルカ第1番 ト短調 Mazurka No.1 in G minor 1862
  • Op. 22 ピアノ協奏曲第2番 ト短調 Piano Concerto No.2 in G minor 1868
  • Op. 23 ガヴォット ハ短調 Gavotte in C minor 1871
  • Op. 24 マズルカ第2番 ト短調 Mazurka No.2 in G minor 1871
  • Op. 25 東洋と西洋 Orient et Occident 1869
  • Op. 26 ペルシャの歌 Mélodies persanes 1870
  • Op. 27 ロマンス 変ロ長調 Romance 1866
  • Op. 28 序奏とロンド・カプリチオーソ イ短調 Introduction et Rondo capriccioso 1863
  • Op. 29 ピアノ協奏曲第3番 変ホ長調 Piano Concerto No.3 in E-flat major 1869
  • Op. 30 黄色い王女 La Princesse jaune 1872
  • Op. 31 オンファールの糸車 Le Rouet d’Omphale 1869
  • Op. 32 チェロソナタ第1番 ハ短調 Cello Sonata No.1 in C minor 1872
  • Op. 33 チェロ協奏曲第1番 イ短調 Cello Concerto No.1 in A minor
  • Op. 34 英雄行進曲 変ホ長調 Marche Héroïque 1870
  • Op. 35 ベートーヴェンの主題による変奏曲 Variations on a theme of Beethoven 1874
  • Op. 36 ロマンス ヘ長調 Romance in F major 1874
  • Op. 37 ロマンス 変ニ長調 Romance in D-flat major 1871
  • Op. 38 子守歌 変ロ長調 Berceuse in B-flat major 1871
  • Op. 39 ファエトン Phaéton 1873
  • Op. 40 死の舞踏 Danse macabre 1874
  • Op. 41 ピアノ四重奏曲 変ロ長調 Piano Quartet in B-flat major 1875
  • Op. 42 諸々の天は神の栄光をあらわし Coeli enarrant 1865
  • Op. 43 アレグロ・アパッショナート ロ短調 Allegro appassionato 1875
  • Op. 44 ピアノ協奏曲第4番 ハ短調 Piano Concerto No.4 in C minor 1875
  • Op. 45 ノアの洪水 Le Déluge 1874
  • Op. 46 ゲデオンの兵士たち Les Soldats de Gédéon 1876
  • Op. 47 サムソンとデリラ Samson et Dalila 1877
  • Op. 48 ロマンス ハ長調 Romance in C major 1877
  • Op. 49 組曲 ニ長調 Suite in D major 1862-1863
  • Op. 50 ヘラクレスの青年時代 La Jeunesse d’Hercule 1877
  • Op. 51 ロマンス ニ長調 Romance in D major 1877
  • Op. 52 6つの練習曲 第1集 6 Études for piano 1877
  • Op. 53 2つの合唱曲 2 Chorales 1878
  • Op. 54 レクイエム ハ短調 Requiem 1878
  • Op. 55 交響曲第2番 イ短調 Symphony No.2 in A minor 1859
  • Op. 56 メヌエットとワルツ Menuet et Valse 1872
  • Op. 57 竪琴とハープ La Lyre et la Harpe 1879
  • Op. 58 ヴァイオリン協奏曲第2番 ハ長調 Violin Concerto No.2 in C major 1858
  • Op. 59 ハラルド・ハルファガール王 König Harald Harfagar 1880
  • Op. 60 アルジェリア組曲 Suite algérienne 1880
  • Op. 61 ヴァイオリン協奏曲第3番 ロ短調 Violin Concerto No.3 in B minor 1880
  • Op. 62 演奏会用小品 ホ短調 Morceau de concert in G major 1880
  • Op. 63 リスボンの一夜 Une nuit à Lisbonne in E-flat major 1880
  • Op. 64 ホタ・アラゴネーサ La jota aragonese 1880
  • Op. 65 七重奏曲 変ホ長調 Septet in E-flat major 1881
  • Op. 66 マズルカ第3番 ロ短調 Mazurka No.3 in B minor 1882
  • Op. 67 ロマンス ホ長調 Romance 1885
  • Op. 68 2つの合唱曲 2 Chorales 1882
  • Op. 69 ヴィクトル・ユゴーへの讃歌 Hymne à Victor Hugo 1881
  • Op. 70 アレグロ・アパッショナート 嬰ハ短調 Allegro appassionato 1884
  • Op. 71 2つの合唱曲 2 Chorales 1884
  • Op. 72 アルバム Album 1884
  • Op. 73 オーヴェルニュ狂詩曲 ハ長調 Rhapsodie d’Auvergne 1884
  • Op. 74 サルタレロ Saltarelle 1885
  • Op. 75 ヴァイオリンソナタ第1番 ニ短調 Violin Sonata No. 1 in D minor 1885
  • Op. 76 ウェディング・ケーキ  Wedding Cake 1885
  • Op. 77 ポロネーズ ヘ短調 Polonaise 1886
  • Op. 78 交響曲第3番 ハ短調『オルガン付き Symphony No. 3 in C minor (“Organ Symphony”) 1886
  • Op. 79 デンマークとロシアの歌による奇想曲 Caprice sur des airs danois et russes 1887
  • Op. 80 イタリアの思い出 ト長調 Souvenir d’Italie 1887
  • Op. 81 アルバムのページ 変ロ長調 Feuillet d’Album 1887
  • Op. 82 鼓手の婚約者 La Fiancée du timbalier 1887
  • Op. 83 ハバネラ ホ長調 Havanaise in E major 1887
  • Op. 84 戦士たち Les Guerriers 1888
  • Op. 85 夕べの鐘 Les Cloches du soir 1889
  • Op. 86 速歩 Pas redoublé 1887
  • Op. 87 スケルツォ Scherzo 1889
  • Op. 88 カナリアのワルツ イ短調 Valse canariote in A minor 1890
  • Op. 89 アフリカ Africa 1891
  • Op. 90 組曲 ヘ長調 Suite in F major 1891
  • Op. 91 サッフォー風の歌 Chant saphique 1892
  • Op. 92 ピアノ三重奏曲第2番 ホ短調 Piano Trio No. 2 in E minor 1892
  • Op. 93 サラバンドとリゴードン ホ長調 Sarabande et rigaudon 1892
  • Op. 94 演奏会用小品 ヘ短調 Morceau de concert in F major 1887
  • Op. 95 独奏ハープのための幻想曲 イ短調 Fantaisie for harp 1893
  • Op. 96 アラビア風奇想曲 Caprice arabe 1894
  • Op. 97 ピアノのための主題と変奏曲 Thème varié 1894
  • Op. 98 女神アテナ Pallas Athéné 1894
  • Op. 99 3つの前奏曲とフーガ 3 Preludes and Fugues 1894
  • Op. 100 イスマイリアの思い出 Souvenir d’Ismaïlia 1895
  • Op. 101 幻想曲第2番 変ニ長調 Fantaisie No. 2 in D-flat major 1895
  • Op. 102 ヴァイオリンソナタ第2番 変ホ長調 Violin Sonata No. 2 in E-flat major 1896
  • Op. 103 ピアノ協奏曲第5番 ヘ長調『エジプト風』 Piano Concerto No. 5 in F major (“Egyptian”) 1896
  • Op. 104 可愛いワルツ 変ホ長調 Valse mignonne 1896
  • Op. 105 子守歌 ホ長調 Berceuse 1896
  • Op. 106 英雄的奇想曲 Caprice héroïque 1898
  • Op. 107 宗教的行進曲 ヘ長調 Marche religieuse in F major 1897
  • Op. 108 舟歌 ヘ長調 Barcarolle 1897
  • Op. 109 3つの前奏曲とフーガ 3 Preludes and Fugues 1898
  • Op. 110 投げやりなワルツ 変ニ長調 Valse nonchalante 1898
  • Op. 111 6つの練習曲 第2集 6 Études 1899
  • Op. 112 弦楽四重奏曲第1番 ホ短調 String Quartet No. 1 in E minor 1899
  • Op. 113 秋の歌 Chants d’automne 1899
  • Op. 114 夜 La Nuit 1900
  • Op. 115 天上の火 Le Feu céleste 1900
  • Op. 116 ローラ Lala 1900
  • Op. 117 戴冠式行進曲 ハ長調 Coronation March for Edward VII 1902
  • Op. 118 夕べのロマンス Romance du soir 1902
  • Op. 119 チェロ協奏曲第2番 ニ短調 Cello Concerto No. 2 in D Minor 1902
  • Op. 120 悩ましげなワルツ Valse langoureuse 1903
  • Op. 121 フランスに捧ぐ À la France 1903
  • Op. 122 アンダルシア奇想曲 ト長調 Caprice andalous in G major 1904
  • Op. 123 チェロソナタ第2番 ヘ長調 Cello Sonata No. 2 in F major 1905
  • Op. 124 幻想曲 イ長調 Fantaisie 1907
  • Op. 125 ナイル川の岸辺 Sur les bords du Nil 1908
  • Op. 126 コルネイユの栄光 La Gloire de Corneille 1906
  • Op. 127 主をほめたたえよ Laudate Dominum 1908
  • Op. 128 ギーズ公の暗殺 L’Assassinat du Duc de Guise 1908
  • Op. 129 朝 Le Matin 1908
  • Op. 130 誓い La Foi 1908
  • Op. 131 栄光 La Gloire 1911
  • Op. 132 ミューズと詩人 La Muse et le Poète 1910
  • Op. 133 祝典序曲 ヘ長調 Ouverture de fête 1910
  • Op. 134 飛行士たちに捧ぐ Aux aviateurs 1911
  • Op. 135 左手のための6つの練習曲 6 Études for the left hand 1912
  • Op. 136 3部作 Tryptique 1912
  • Op. 137 抗夫たちに捧ぐ Aux mineurs 1912
  • Op. 138 春の讃歌 Hymne au printemps 1912
  • Op. 139 愉快なワルツ Valse gaie 1913
  • Op. 140 未完成のコミック・オペラのための序曲 ト長調 The Promised Land 1913
  • Op. 141 2つの合唱曲 2 Chorales 1913
  • Op. 142 労働への讃歌 Hymne au travail 1914
  • Op. 143 エレジー ニ長調 Élégie No. 1 1915
  • Op. 144 カヴァティーナ Cavatine in D-flat major 1915
  • Op. 145 アヴェ・マリア Ave Maria 1914
  • Op. 146 赤い灰 La Cendre rouge 1915
  • Op. 147 汝はペテロなり Tu es Petrus 1914
  • Op. 148 どれほど愛されているのだろう Quam Dilecta 1915
  • Op. 149 主を讃えよ Laudate Dominum 1916
  • Op. 150 7つの即興曲 7 Improvisations 1916-1917
  • Op. 151 3つの合唱曲 3 Choeurs 1917
  • Op. 152 勝利に向かって Vers la victoire 1918
  • Op. 153 弦楽四重奏曲第2番 ト長調 String Quartet No. 2 in G major 1918
  • Op. 154 演奏会用小品 ト長調 Morceau de concerto in G major 1918-1919
  • Op. 155 連合国行進曲 Marche interalliée 1918
  • Op. 156 糸杉と月桂樹 ニ短調 Cyprès et lauriers 1919
  • Op. 157 幻想曲第3番 ハ長調 Fantaisie No. 3 in C major 1919
  • Op. 158 祈り Prière 1919
  • Op. 159 平和の讃歌 Hymne à la paix 1919
  • Op. 160 エレジー第2番 ヘ長調 Élégie No. 2 1919
  • Op. 161 6つのフーガ 6 Fugues 1920
  • Op. 162 叙情小詩 ニ長調 Odelette 1920
  • Op. 163 アルジェの学生に捧げる行進曲 Marche dédiée aux étudiants d’Alger 1921
  • Op. 164 空の征服者たちへ Aux conquérants de l’air 1921
  • Op. 165 春 Le Printemps 1921
  • Op. 166 オーボエソナタ ニ長調 Oboe Sonata in D major 1921
  • Op. 167 クラリネットソナタ 変ホ長調 Clarinet Sonata in E-flat major 1921
  • Op. 168 ファゴットソナタ ト長調 Bassoon Sonata in G major 1921
  • Op. 169 アルバムのページ Feuillet d’album 1921

作品番号なし

 

参考文献 | Bibliography

  1. Saint-Saëns, (Charles) Camille | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.24335]
  2. Saint-Saëns, (Charles) Camille | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.O904535]
  3. Camille Saint-Saëns (1835-1921) [https://www.musicologie.org/Biographies/saint_saens_c.html]

Notes   [ + ]

ヘンリー・パーセル

ヘンリー・パーセル

生 : 1659年9月10日(イングランド共和国、ロンドンまたはウエストミンスター)/没 : 1695年11月21日(イングランド王国、ロンドン)

ヘンリー・パーセル (Henry Purcell) はイギリスの作曲家。バロック時代、とりわけイングランド王政復古期に活躍した。代表作に『ディドとエネアス』や『アブデラザール』などがある。

生涯 | Biography

聖歌隊における音楽修行

パーセルの幼年期について語る資料は少ない。おそらくは1659年9月10日、ロンドンないしウエストミンスターで生まれたヘンリー・パーセルは、音楽家である同名の父ヘンリーと母エリザベスの6人兄弟のうち3ないし4番目の子であった。またダニエル・パーセルのいとことされる。

父はオリヴァー・クロムウェルによる共和政(コモンウェルス)時代にロンドンで活躍した音楽家で、王政復古期に「チャペル・ロイヤルのジェントルマン」と呼ばれる国王のための聖歌隊の一員となった。1661年2月16日、ウエストミンスター寺院の聖歌隊長となり、1664年8月11日に同地で亡くなっている。その後1666年にパーセルの母エリザベスはロンドンのトットヒル街に転居し、1680年までそこで暮らした。6人の子の養育を助けたのは宮廷音楽家を務める叔父のトマス・パーセルだった。

ウエストミンスター寺院ウエストミンスター寺院

少年ヘンリー・パーセルは1669年頃から1673年までチャペル・ロイヤルの聖歌隊員として、ヘンリー・クック (Henry Cooke) の下で、クックの死後1672年からはペラム・ハンフリーの下で音楽の訓練を受けた。1673年6月10日から王室の楽器を管理するジョン・ヒングストン (John Hingeston) の無給の助手となる。

聖歌隊を離れた後、パーセルはジョン・ブロウとクリストファー・ギボンズから音楽を学んだ。マシュー・ロックはパーセルの直接の師であるかは定かではないが、パーセルに大きな影響を与えたことは確かである。

王室付音楽家として

1677年、マシュー・ロックの死去に伴い、パーセルは国王の専属作曲家に就任。続いて1679年にウエストミンスター寺院のオルガニストに就任する。1682年7月14日にはチャペル・ロイヤルのオルガニストにも就任している。パーセルは王政復古期に国王チャールズ2世およびジェームズ2世へ、そして名誉革命後は新たに即位したウィリアムとメアリへ仕え、賛歌(アンセム)や頌歌(オード)、歓迎歌や戴冠式のための音楽などの作曲に従事した。

私生活では1680年、フラマン系移民の娘フランセス・ピータースと結婚している。また公職者に英国国教会への帰属を推奨する「審査法」に従い、1683年2月4日にウエストミンスターの聖マーガレット教会より聖餐証明書を得る。これによりパーセルは1683年12月、ジョン・ヒングストンの後を継いで王室の楽器管理人に就任した。

1684年、パーセルは国王チャールズ2世の命を受け、作曲家ジョン・ブロウや台本作家ジョン・ドライデンと組んで、国王の治世を称えるオペラ『アルビオンとアルバニウス』の作曲に取り掛かった。ところが彼らは後に降板となり、結局『アルビオンとアルバニウス』はフランスで音楽を学んだルイ・グラビュによって完成された。

チャールズ2世チャールズ2世

1685年のチャールズ2世崩御に際して、パーセルは葬送歌を作曲した。続く国王ジェームズ2世のカトリック信仰はパーセルの音楽家としてのキャリアに影響を与えた。パーセルの作風を気に入らなかった新国王は彼をチャペル・ロイヤルのオルガン奏者としての身分に留めはしたものの、カトリックの立場から国教会の地位は縮小されることとなった。私生活でも息子のトマスを1686年夏に亡くし、また生後間もない子ヘンリーを1687年9月に亡くすなど、私生活でも不幸が続いた。

1688~1689年の名誉革命を経て、パーセルは1690年に新国王ウィリアムとメアリの推薦によりホワイトホール宮殿における劇場の作曲家に就任する。しかしながら革命の余波により王宮における音楽活動が削減されたため、パーセルは教育や出版、あるいは一般公衆向けの演奏活動や商業的な作曲活動により生計を立てることを余儀なくされた。パーセルの次なるキャリアが始まろうとしていた。

オペラ作曲家として

パーセルが最初に劇音楽と接点を持ったのは1680年、ナサニエル・リーの悲劇『テオドシウス』の作曲である。1677年のマシュー・ロックの死はロンドンの音楽シーンに新風を吹かせる契機となったが、この『テオドシウス』はさほど話題にならなかったようである。

パーセルのオペラ作曲家としての名を今日まで不動としているのは1689年の作品『ディドとエネアス』である。1680年代に構想された『ディドとエネアス』は、パーセルの師であるジョン・ブロウのオペラ『ヴィーナスとアドニス』のプロットから多分に影響を受けながらも、イタリアやフランスの要素も取り入れた様式をとった。とはいえこの作品の来歴や初演について詳細は分かっておらず、パーセル存命中の上演で判明しているのは、チェルシーの女子寄宿学校におけるジョシアス・プリースト (Josias Priest) による1689年のものだけである。

『ディドとエネアス』はパーセルの経歴に転機をもたらした。王宮における活動を縮小した彼はオペラ作曲家としての道を本格的に歩み始めたのだ。1690年から1695年にかけて、パーセルはロンドンの興行会社「ユナイテッド・カンパニー」のために40を超える劇付随音楽を作曲した。

中でも『アーサー王、またはブリテンの守護者』は18世紀まで劇場における演目の常連としての地位を保ち続け、トマス・アーン (Thomas Arne) の編曲版が1770年にデイヴィット・ギャリックによって演じられた。『アーサー王』の成功により、パーセルは続くシーズンの演目の作曲を依頼され、『妖精の女王』を発表した。シェイクスピアの戯曲『真夏の夜の夢』を下敷きにしたこの作品は1692年5月2日にシアター・ロイヤルで初演となり、人気を博した。

シアター・ロイヤルシアター・ロイヤルのファサード(1775年)

1694年の末に起こった俳優たちの造反はパーセルのキャリアにも影響した。悪名高い劇場支配人クリストファー・リッチ (Christopher Rich) による独裁的な経営のため、トマス・ベタートン (Thomas Betterton) ら多くの俳優がリンカーンズ・イン・フィールズにあるライバルの劇場に移籍したのだ。パーセルと関係の深かった歌手も多くが辞めてしまい、シアター・ロイヤルは窮地に陥った。そうした中、経営立て直しのために計画された『インドの女王』、あるいは最晩年の傑作『アブデラザール、あるいはムーア人の復讐』など、パーセルは精力的に作曲活動を行った。

さらにパーセルは教育活動や後進の育成にも貢献した。1693年にヘンリー・プレイフォードの編集による曲集『聖なる調和』(ハルモニア・サクラ)の第2巻に複数の自作曲を寄せ、また翌1694年には、当時の標準的な教則本として普及していたジョン・プレイフォード著『音楽技術入門』第12版の編集に貢献した。1693~1694年、チャペル・ロイヤル時代の同僚であったジョン・ワルターの紹介によりジョン・ウェルドン (John Weldon) を弟子に迎えた。またロバート・ハワード卿の妻アナベラや孫娘のダイアナもパーセルの生徒であった。

1694年12月28日に女王メアリが天然痘で崩御したため、翌1695年3月5日の国葬のため、パーセルは葬送歌を作曲した。病魔は音楽家自身の身にも迫っていた。1695年のある晩、酒場から帰宅したパーセルは体調を崩し、療養を余儀なくされた。本人は死の直前まで病の深刻さに気付かなかったという。11月21日、妻のフランセスが看取る中、ヘンリー・パーセルはロンドンのマーシャム街の自宅で息を引き取った。葬儀は11月26日の午後にウエストミンスター寺院で行われた。

死後の評価

パーセルはそのキャリアの絶頂で息を引き取った。彼の死後、妻のフランセス・パーセルは1696年に『ハープシコードまたはスピネットのためのレッスン選集』を刊行している。また、ヘンリー・プレイフォードの手によって1698年から1702年にかけて出版された2巻本の『英国のオルフェウス』(オルフェウス・ブリタニクス)は1706年および1711年の第2版、1721年の第3版と版を重ねた。

ヘンリー・パーセルは英国を代表する音楽家として今日まで評価されているが、その作風は彼が生きた同時代のイギリス音楽の標準からは逸脱したものである。パーセルはイギリス音楽の伝統に根ざしながらも、彼を重用した国王チャールズ2世の好みからフランス音楽の要素を取り入れ、さらにはオペラの本場であるイタリアの様式も参照した。すなわち16・17世紀における英国風のポリフォニーを用いるのみならず、イタリアのオペラにおける声楽の様式をも取り入れたのだ。晩年におけるパーセルのオペラ作品はイタリアの影響を受けつつも、ロンドンの公衆の好みに即したスタイルが取られている。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Curtis A. Price, Henry Purcell and the London Stage, Cambridge University Press, 2009.
  2. Purcell, Henry (1659–1695), organist and composer | Oxford Dictionary of National Biography [https://doi.org/10.1093/ref:odnb/22894]
  3. Purcell, Henry | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.O002310]
  4. Henry Purcell (1659-1695) [https://www.musicologie.org/Biographies/purcell_henry.html]

エリック・サティ

エリック・サティ

生 : 1866年5月17日(フランス帝国、オンフルール)/没 : 1925年7月1日(フランス共和国、パリ)

エリック・サティ (Erik Satie) はフランスの作曲家。代表作に『ジムノペディ』『グノシエンヌ』『ジュ・トゥ・ヴ』などがある。

生涯 | Biography

「コンセルヴァトワールで最も怠惰な生徒」

エリック・サティは1866年、ノルマンディー地方、カルヴァドス県の港町オンフルールにて、船舶解体業を営む父のアルフレッド・サティと、スコットランド系の血を引く母のジェーン・レスリー・アントンの長男として生まれた。毎日家から海を眺め、船の発する音を聞く少年時代だったという。1870年の普仏戦争を経て、父のアルフレッドは事業を売却し、一家はパリへと移り住んだ。

オンフルール19世紀のオンフルール

1872年、エリック・サティが6歳の時、母のジェーンが亡くなった。そのためエリックと弟のコンラッドはオンフルールの父方の祖父母のもとに預けられ、カトリックの影響の中で育てられた。サティは1874年より、ヴィノ (Vinot) という名の地元の教会のオルガン奏者から音楽のレッスンを受け始めた。このオルガニストの影響でサティはグレゴリオ聖歌を好むようになったという。

1878年の夏、祖母の死という悲劇に見舞われたサティは、パリに戻り父親のもとで教育を受ける。父アルフレッドはピアノ教師のウジェニー・バルネシュ (Eugénie Barnetche) と出会い、1879年1月に彼女と再婚する。この結婚は少年サティの望むものではなかったが、ウジェニーはサティをパリ音楽院(コンセルヴァトワール)の準備学級でエミール・デコンブによるピアノの授業を受けさせた。1879年11月のことだった。

サティはパリ音楽院で7年を過ごしたが、彼にとってこの経験は苦痛でしかなかった。デコンブは1881年、サティを「コンセルヴァトワールで最も怠惰な生徒」と評している。多くの教師がサティのピアニストとしての才能を認めたが、同時に彼の熱意の低さに苦言を呈した。1885年よりサティは継母ウジェニーの元教師であったジョルジュ・マティアス (Georges Mathias) よりピアノを習い始める。しかしながらマティアスもサティを「つまらない奴」と評した。後の1892年、サティは母校に対して次のような手紙を送っている。

子供だった私は、あなた方のクラスに入りました。私の心はとても柔らかかったため、あなた方はそれを理解できませんでした。私のやり方は花をも驚かしていました。〔…〕そして、私が若さの絶頂にいて機敏さを備えていたのに、あなた方の無理解のおかげで、私はあなた方が教えていた趣味の悪い芸術が大嫌いになりました1)cité par : Erik Satie, Correspondance presque complète, réunie et présentée, Paris : Fayard, 2000.

コンセルヴァトワール在学中、サティの最も親しい友人はスペイン生れの詩人パトリス・コンタミーヌ・ド・ラトゥールだった。ラトゥールの証言によると、サティは兵役期間を短縮するためだけにパリ音楽院への学籍登録を続けていたという。さらにサティは気管支炎に罹患し、結局彼は一年もせず除隊となった。療養中、サティはフロベールやペラダンの文学作品に親しんだ。

父アルフレッドは1883年に音楽出版社を創業し、息子が友人のラトゥールとともに制作した曲を出版した。しかしながら、父子の関係は次第に悪化してゆく。1887年、ついにサティは家元を離れることを決意する。

「エリック・サティ、職業はジムノペディスト」

家族からの独立を果たした21歳のサティはパリ・モンマルトルのアパルトマンに入居した。住所はコンドルセ街50番地。すぐ側では有名なキャバレー「黒猫(ル・シャ・ノワール)」が営業しており、間もなくサティはキャバレーの常連となる。

シャ・ノワールキャバレー「ル・シャ・ノワール」のポスター(1896年)

そんなある日、サティはラトゥールとともにル・シャ・ノワール支配人のロドルフ・サリに紹介される。有力な興行主の印象に残るようにと、無名の音楽青年は自らを次のように紹介した。「エリック・サティ、職業はジムノペディストです」。一年後の1888年春、サティは美しい3つのピアノ小品を作曲する。現在まで彼の代表作として知られる「ジムノペディ」である。

抑圧的な教育環境から解放されたサティは、モンマルトルのボヘミアンな生活を満喫した。作家ジュール・レヴィの創始した「支離滅裂」を意味する芸術運動「アンコエラン派」と関係し、作家アルフォンス・アレーのような新進気鋭の個性的な芸術家たちと交流した。シルクハットに長髪、フロックコートという彼特有のファッションが確立されたのもこの時期である。1890年までサティはル・シャ・ノワールでアンリ・リヴィエールによる影絵芝居のオーケストラを指揮した。

1891年、ロドルフ・サリと仲違いしたサティはル・シャ・ノワールを離れ、同じ界隈にある「オーベルジュ・デュ・クルー」という店でピアニストとして働き始めた。ここでサティはクロード・ドビュッシーと知り合いになる。ドビュッシーは少し変わったこの友人を「今世紀に迷い込んだ中世の優しい音楽家」と評した。以後二人は四半世紀にわたって親交を続けることになる。

1890年、サティはコンドルセ街を離れ、ビュット・モンマルトルのコルト街6番地に転居する。借金取りから逃れるため、というのがその名目だった。ここでサティは1891~1892年にかけて作家のジョゼファン・ペラダンと交友する。ペルシアの王「シャー」を自称するペラダンが主催する神秘主義的な芸術家集団「聖堂聖杯カトリック薔薇十字騎士団」において、サティは公認の作曲家となる。サティが初めて自作曲を披露する機会を得たのも、ペラダンによる「薔薇十字サロン」においてであった。

こうした「薔薇十字騎士団」との交流を通じて、サティは神秘主義やゴシック芸術への関心を強めてゆく。ペラダンによる『星たちの息子』では前奏曲を担当した。

しかしながら1892年8月、サティはペラダンと喧嘩別れしてしまう。1893年から1895年にかけて、サティは「指揮者イエスの芸術首都教会」(Église Métropolitaine d’Art de Jésus Conducteur) なる結社の創設者となる。「修道院付属聖堂」と称したコルト街のアパルトマンにて、サティはライバルの音楽家たちを酷評する文書を発行するなどの活動を行った。ただし、この結社の構成員はサティただ一人であった。

当時サティは芸術アカデミー会員に選出されるために3度立候補しているが、いずれも失敗に終わっている。私生活では1893年、モンマルトルの隣人であった画家のシュザンヌ・ヴァラドンと一時恋愛関係にあった。服装も「ベルベットの紳士」と称するスタイルに変更し、1895年に遺産の一部を使って7着の焦茶色の背広を新調した。ヴァラドンとの6ヶ月間の短く激しい関係が破局に終わった後、サティが女性と関係を持つことは二度となかった。

シュザンヌ・ヴァラドンシュザンヌ・ヴァラドンの肖像写真

この頃作曲した『貧者のミサ』は、サティにとって青年時代の神秘主義的な音楽スタイルを終わらせるものだった。それは彼にとって新しい様式の長い模索の始まりでもあった。

「君の年齢では、もう生まれ変わるのは難しい」

1898年の末、仕事に集中でき、また安く住める環境を求めたサティは、青年時代の住処であったモンマルトルを離れ、パリ南郊に位置するアルクイユに転居した。セーヌの支流であるビエーヴル川に面した労働者街、コシー通22番地にあるサティの自宅は広さ15平米、電気も水道も通っておらず、夏はビエーヴル川から湧く蚊に悩まされた。みすぼらしいその部屋に彼は誰を入れることも許さなかった。

サティはブルジョア風のファッションに身を包んで日々10キロメートルの道をパリ市内まで歩き、カフェを転々としながら作曲に勤しんだ。彼がアルクイユの自宅に帰るのは大抵モンパルナス駅から出る終電か、それよりも遅くなる場合は徒歩であった。サティは雨の日を好んだ。彼はコートの下に傘をしのばせ、また護身用の金槌も携帯していたのだった。

サティは生計を立てるため古巣であるモンマルトルのカフェ・コンセールへ趣き、俳優ヴァンサン・イスパの伴奏者として活動した。また「スロー・ワルツの女王」と呼ばれたシャンソン歌手ポーレット・ダルティのためにいくつかの曲を書き、商業的成功を収めた。今日までサティの代表作の一つとして親しまれている『ジュ・トゥ・ヴ』(あなたが欲しい)も、この時期ダルティのために書かれた曲である。

ジュ・トゥ・ヴ『ジュ・トゥ・ヴ』の楽譜の表紙(1904年)

サティは旧友のコンタミーヌ・ド・ラトゥールや漫画家のジュール・デパキ (Jules Dépaquit) とともにショービジネスの業界で働いた。この時期の小品『夢見る魚』では、当時流行していたミュージック・ホールの粋なスタイルをドビュッシー風の印象派の和声に合わせるという独自の様式を生み出した。

サティはさらなる様式の変革を求めて、1905年10月にスコラ・カントルムへ入学する。この時彼は既に39歳、親友のドビュッシーは「君の年齢ではもう生まれ変わるのは難しい」と言ったが、サティは1908年、アルベール・ルーセルの下で対位法の学位を取得し、また1912年までヴァンサン・ダンディによる作曲のクラスに出席した。

「現代的な感性を用いて古典の簡素さに回帰する」

サティの人生の転機は1911年1月に訪れた。モーリス・ラヴェルによる独立音楽協会のコンサートを聴いたサティは、印象派風の前衛的な和声技法に大きな衝撃を受ける。この時期ドビュッシーが『ジムノペディ』のオーケストラ編曲をパリのサル・ガヴォーで指揮し世間の評判となるが、自分の曲による友人の成功はサティを大いに嫉妬させたという。

1912年、有力な音楽出版業者であるウジェーヌ・デメ (Eugène Demets) がサティの『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』の出版に同意し、さらに追加で新曲の制作を依頼する。これによりサティはキャバレーでの演奏活動を引退し、作曲に専念できるようになった。

1914年、第一次世界大戦の勃発がサティの音楽活動を一時中断させる。しかしながら1916年、『3つの小品』の演奏を聴いた詩人のジャン・コクトーはサティの才能を評価し、バレエ『パラード』の制作チームに彼を招き入れる。台本コクトー、美術パブロ・ピカソ、振付レオニード・マシーンという当代一流の芸術家によるこの作品は、セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスで1917年に初演され、大変なスキャンダルを呼ぶこととなった。

この出来事をきっかけにサティは劇伴音楽のジャンルで活動するようになる。ピカソやディアギレフとの交流も続け、また音楽家集団「フランス6人組」の庇護者ともなった。サティは1916年10月にポリニャック大公夫人の依頼を受けて『ソクラテス』の作曲を開始する。批評家ジャン・プーエー (Jean Poueigh) の起こした名誉毀損訴訟と相まって幾度かの中断をはさみながらも、『ソクラテス』は2年後の1918年に完成された。この曲はプラトン『対話篇』の哲学者ヴィクトール・クザンによる仏訳の抜粋を下敷きにしたもので、「現代的な感性を用いて古典の簡素さに回帰する」という作曲者の言葉が示すとおり、ストラヴィンスキーの前衛音楽に大きな影響を受けたものだった。

1920年、「6人組」の一人であるダリウス・ミヨーと『家具の音楽』と題する曲をギャルリー・バルバザンジュ (Galerie Barbazanges) にて披露した。この曲名は家具のように日常生活の背景に溶け込むようにデザインされた音楽を意味して付けられたものである。この年以降、サティは新聞や雑誌に文章を発表するようになる。1921年には前年に結成されたフランス共産党に加入し、またダダイズムの運動にも関わった。1922年2月にはモンパルナスのカフェ「クロズリー・デ・リラ」において、アンドレ・ブルトンを弾劾する公開集会を主催している。

クロズリー・デ・リラクロズリー・デ・リラ(1909年)

1923年、アンリ・クリケ=プレイエル、ロジェ・デゾルミエール、マクシム・ジャコブ、アンリ・ソーゲの4人の青年音楽家はサティの庇護を受け、彼の自宅にちなんで「アルクイユ楽派」を称し活動を行った。1924年にはピカソとマシーンのバレエ『メルキュール』やピカビアとボルランの『本日休演』などを作曲する。特に後者はルネ・クレールの短編映画『幕間』に使用され、サティ初の映画使用曲となった。ちなみにこの映画にはサティも出演している。

1925年2月、サティは過度の飲酒がたたって肝硬変および胸膜炎を発症し、入院を余儀なくされる。死期を悟ってもなお彼は自己を貫き、喧嘩別れしたかつての友人たちと会うことを最期まで拒んだ。遺品整理のため弟のコンラッド、ミヨー、デゾルミエールそしてロベール・カビーがアルクイユの部屋を訪ねた際、彼らは荷台2つ分のがらくたを運び出さねばならなかったという。サティの遺した手稿文書のうち、手紙の多くはコンラッドの家が火事にあった際に焼失してしまった。草稿と楽譜はミヨーによって保管された。

作品一覧 | Works

ピアノ曲

  • 1884 アレグロ Allegro
  • 1885 ワルツ=バレエ Valse-ballet
  • 1885 幻想ワルツ Fantaisie-valse
  • 1887 3つのサラバンド Trois Sarabandes
  • 1888 4つのオジーヴ Quatre Ogives
  • 1888 3つのジムノペディ Trois Gymnopédies
  • 1889 グノシエンヌ第5番 Gnossienne, No. 5
  • 1889 Chanson Hongroise
  • 1890 3つのグノシエンヌ Trois Gnossiennes
  • 1891 薔薇十字団の最初の思想 Première Pensée Rose+Croix
  • 1891 グノシエンヌ第4番 Gnossienne, No. 4
  • 1891 「至高存在」のライトモティーフ Leit-motiv de ‘Panthée’
  • 1891 「ビザンツの王子」前奏曲 Prélude du ‘Prince du Byzance’
  • 1891 「星たちの息子」前奏曲 Le Fils des étoiles
  • 1891 薔薇十字団の鐘の音 Trois Sonneries de la Rose+Croix
  • 1892 Fête donnée par des chevaliers normands en l’honneur d’une jeune demoiselle
  • 1892 ナザレ人の前奏曲 Prélude du Nazaréen
  • 1892 クリスマス Noël
  • 1893 エジナールの前奏曲 Eginhard Prélude
  • 1893 ゴチック舞曲 Danses Gothiques
  • 1893 ヴェクサシオン Vexations
  • 1893 祈り Prière
  • 1893 モデレ Modéré
  • 1894 天国の英雄的な門への前奏曲 Prélude de la porte héroïque du ciel
  • 1895 詩篇 Psaumes
  • 1897 グノシエンヌ第6番 Gnossienne, No. 6
  • 1897 舞踏への小序曲 Petite Ouverture à danser
  • 1897 愛撫 Caresse
  • 1897 冷たい小品 Pièces froides
  • 1899 びっくり箱 Jack-in-the-box
  • 1899 アリーヌ=ポルカ Aline-Polka
  • 1900 蝿氏の死への前奏曲 Prélude de La mort de Monsieur Mouche
  • 1900 世俗的で豪華な唱句 Verset laïque & somptueux
  • 1901 夢見る魚 The Dreamy Fish
  • 1901 金の粉 Poudre d’or
  • 1902 野蛮な歌 Chanson barbare
  • 1903 Trois Morceaux en forme de Poire
  • 1905 カリフォルニアの伝説 Légende Californienne
  • 1905 Exercices
  • 1905 Gambades
  • 1906 Padacale
  • 1906 フーガ=ワルツ Fugue-Valse
  • 1906 パッサカリア Passacaille
  • 1906 壁掛けとしての前奏曲 Prélude en tapisserie
  • 1907 新・冷たい小品集 Nouvelles ‘Piéces froides’
  • 1908 悪い手本 Fâcheux exemple
  • 1908 快い絶望 Désespoir agréable
  • 1909 小ソナタ Petite Sonate
  • 1909 2つの物 Deux Choses
  • 1909 Profondeur
  • 1909 Douze petits Chorals
  • 1909 バスクのメヌエット Menuet basque
  • 1909 不思議なコント作家 Le Conteur magique
  • 1909 Songe-creux
  • 1909 無口な囚人 Le Prisonnier maussade
  • 1909 大猿 Le Grand Singe
  • 1909 ピエロの夕食 Le Dîner de Pierrot
  • 1911 馬の装具で En Habit de cheval
  • 1912 Apercus désagréables
  • 1912 犬のための2つの前奏曲 Deux Préludes pour un chien
  • 1912 犬のためのぶよぶよとした前奏曲 Préludes flasques pour un chien
  • 1912 犬のためのぶよぶよとした本当の前奏曲 Véritables préludes flasques pour un chien
  • 1913 自動記述法 Descriptions automatiques
  • 1913 Croquis et agaceries d’un gros bonhomme en bois
  • 1913 Embryons desséchés
  • 1913 San Bernardo
  • 1913 Chapitres tournés en tous sens
  • 1913 Vieux sequins et vielles cuirasses
  • 1913 Trois Nouvelles Enfantines
  • 1913 Menus propos enfantins
  • 1913 Enfantillages pittoresques
  • 1913 Peccadilles importunes
  • 1913 Les Pantins dansent
  • 1914 Air
  • 1914 スポーツと気晴らし Sports et divertissements
  • 1914 世紀ごとの時間と瞬間の時間 Heures séculaires et instantanées
  • 1914 Obstacles venimeux
  • 1914 いやらしい気取り屋の3つの高雅なワルツ Les Trois Valses Distinguées du Précieux Dégoûté
  • 1915 皿の上の夢 Rêverie sur un plat
  • 1915 最後から2番目の思想 Avant-dernières pensées
  • 1916 L’Aurore aux doigts de rose
  • 1917 官僚的なソナチネ Sonatine bureaucratique
  • 1919 5つの夜想曲 Cinq Nocturnes
  • 1919 Petite Danse
  • 1919 Trois Petites Pièces montées
  • 1920 6e Nocturne
  • 1920 Musique d’ameublement
  • 1920 最初のメヌエット Premier Menuet
  • 1920 風変わりな美女 La Belle Excentrique
  • 1921 Motifs lumineux

管弦楽曲

  • 1886 Deux Quatuors
  • 1890 舞曲 Danse
  • 1893 ロクサーヌ Roxane
  • 1902 アンゴラの牛 The Angora Ox
  • 1906 愛の芽生え Pousse l’amour
  • 1915 La Mer est pleine d’eau: c’est à n’y rien comprendre
  • 1915 Cinq grimaces pour Le songe d’une nuit d’été
  • 1916 Fables de la Fontaine
  • 1917 Musique d’ameublement
  • 1919 Marche de Cocagne
  • 1921 Sonnerie pour reveiller le bon gros Roi des Singes
  • 1921 Alice au Pays de Merveilles
  • 1921 La Naissance de Vênus
  • 1921 Supercinéma
  • 1923 Suite d’Archi danses
  • 1923 Couleurs
  • 1923 Tenture de Cabinet préfectoral
  • 1924 Concurrence
  • 1924 Quadrille
  • 1924 Deux petites Choses
  • 1924 Mercure
  • 1924 Relâche
  • 1924 Cinema : entr’acte symphonique de Relache

室内楽曲

  • 1891 Salut Drapeau !
  • 1893 Bonjour Biqui, Bonjour!
  • 1899 Un Dîner à l’Elysée
  • 1899 Le Veuf
  • 1914 右と左に見えるもの Choses vues à droite et à gauche
  • 1917 シテール島への船出 Embarquement pour Cythère
  • 1923 再発見された像の娯楽 Divertissement La Statue retrouvée

歌曲

  • 1887 エレジー Elégie
  • 1887 3つの歌 Trois Mélodies
  • 1887 シャンソン Chanson
  • 1897 ジュ・トゥ・ヴ Je te veux
  • 1902 やさしく Tendrement
  • 1903 Le Picador est mort
  • 1903 Sorcière
  • 1903 Enfant martyre
  • 1903 Air fantôme
  • 1904 La Diva de l’Empire
  • 1904 Le Picadilly Marche
  • 1905 L’Omnibus automobile
  • 1905 お医者さんのところで Chez le docteur
  • 1905 オックスフォード帝国 Impérial-Oxford
  • 1905 いいとも、ショショット Allons-y Chochotte
  • 1906 中世の歌 Chanson médiévale
  • 1907 ランブイエ Rambouillet
  • 1907 Les Oiseaux
  • 1907 Marienbad
  • 1907 Psitt! Psitt!
  • 1909 シャツ La Chemise
  • 1909 Choeur d’adolescents
  • 1909 Dieu Credo rouge
  • 1914 3つの恋愛詩 Trois Poèmes d’amour
  • 1916 Trois Mélodies
  • 1917 戦いの前日 La Veille du combat
  • 1918 Socrate
  • 1920 Quatre Petites Mélodies
  • 1921 Le Roi de la Grande Ile
  • 1923 ポールとヴィルジニー Paul & Virginie
  • 1923 Ludions
  • 1923 Scènes Nouvelles pour Le médecin malgré lui

舞台作品

  • 1892 ユスピュ Uspud
  • 1899 ブラバン夫人のジュヌヴィエーヴ Geneviève de Brabant
  • 1913 メデューサの罠 Le Piège de Méduse
  • 1917 パラード Parade

宗教音楽

  • 1894 信仰のミサ Messe de la foi
  • 1895 貧者のミサ Messe des pauvres

参考文献 | Bibliography

  1. Satie, Erik | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.40105]
  2. Erik Satie (1866-1925) [https://www.musicologie.org/Biographies/satie.html]
  3. Jerrold Seigel, Bohemian Paris : Culture, politics, and the boundaries of bourgeois life, 1830-1930, Baltimore ; London : Johns Hopkins University Press, 1999.
  4. エリック・サティ —— “沈黙”の作曲家(ル・モンド・ディプロマティーク日本語)[http://www.diplo.jp/articles16/1608-6lecompositeur.html]

Notes   [ + ]

1. cité par : Erik Satie, Correspondance presque complète, réunie et présentée, Paris : Fayard, 2000.

アルテュール・オネゲル

アルテュール・オネゲル

生 : 1892年3月10日(フランス共和国、ル・アーヴル)/没 : 1955年11月27日(フランス共和国、パリ)

アルテュール・オネゲル (Arthur Honegger) はフランスの作曲家。「フランス6人組」の一人。代表作に『ダヴィデ王』などがある。

生涯 | Biography

アルテュール・オネゲルは1892年、北フランス・ノルマンディ地方の港町ル・アーヴルにて、スイス人の両親の下で生まれた。父アルテュール・オネゲル=ユルリックは1870年代に故郷のスイスからル・アーヴルに移住して輸出業を営み、1891年5月にオネゲルの母であるジュリー・ユルリックと結婚した。二人は家族とともにこの港町で1913年まで暮らし、その後退職と共にチューリッヒに移り住んだ。

両親が儲けた4人の子供のうち最年長であったアルテュール・オネゲルは 、ル・アーヴルでソートゥルイユやサン=ミシェル教会のオルガン奏者ロベール・シャルル・マルタンなどからヴァイオリンと和声を学んだ後、2年間チューリッヒ音楽院(今日のチューリッヒ芸術大学)でフリードリヒ・ヘガー (Friedrich Hegar) から作曲を、ウィレム・ド・ボーア (Willem de Boer) および ロタール・ケンプター (Lothar Kempter) より音楽理論を学んだ。オネゲルはチューリッヒでリヒャルト・ワグナーやシュトラウス、マックス・レーガーらの音楽を知り、生涯を通じて彼らドイツ人作曲家の影響下にあった。

その後故郷のル・アーヴルに戻ったオネゲルは、1911年にパリ音楽院(コンセルヴァトワール)へ入学する。ル・アーヴルからパリ北駅まで週に2、3回、数時間かけて電車通学を行ったことで、オネゲルは後年までラグビーやモータースポーツと並んで鉄道を好むようになった 1)オネゲルの愛車はイタリア・ブガッティ社製だった。

1913年、両親がスイスに戻るとオネゲルはル・アーヴルからパリ・モンパルナス地区に転居し、生涯ここで過ごした。コンセルヴァトワールには7年間在学し、リュシアン・カペーにヴァイオリンを、アンドレ・ジェダルジュに対位法とフーガを、 シャルル=マリー・ヴィドールに作曲と管弦楽法を、そしてヴァンサン・ダンディに指揮を学んだ。このとき机を並べたのがジェルメーヌ・タイユフェールジョルジュ・オーリック、ジャック・イベール、ダリウス・ミヨーであり、オネゲルは彼らと生涯に渡って交友を続けた。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、オネゲルも召集を受けスイス軍に入隊する。軍務の間もオネゲルは音楽の勉強を続け、数ヶ月後に除隊となりパリへ帰還した。

オネゲルの制作した曲は1916年7月に最初に公演された。私生活ではソプラノ歌手のクレール・クロワザと短期間関係を持ち一子をもうけたが、1926年5月10日にピアニストのアンドレ・ヴォラブールと結婚した。トゥルーズ生まれのヴォラプールは才覚を認められパリで活躍し、オネゲルとは彼の設立した音楽家団体が主催するコンサートで出会った。オネゲルが作曲に際して一人になることを求めたため、1935年にヴォラブールが自動車事故により重症を負った時期、そしてオネゲルの晩年を除き、夫婦は別居することとなった。ヴォラブールは卓越したピアニストであり、パリで和声や対位法、フーガの指導を行った。生徒の中にはピエール・ブーレーズの姿もあった。 オネゲルは妻の感性を尊敬し、 アンドレは夫の欧米諸国における演奏旅行に付き添いピアノ部分を担当した。

オネゲルはコンセルヴァトワール時代の同窓生であるジョルジュ・オーリック、そしてルイ・デュレとともにエリック・サティに招き入れられ、「新しい若者」グループを結成する。彼らがジェルメーヌ・タイユフェール、フランシス・プーランク、ダリウス・ミヨーと合流して結成したのが「フランス6人組」である。6人組は息の合った友人同士として、詩人ジャン・コクトーより依頼を受けバレエ『エッフェル塔の花嫁花婿』を協同で制作するなどしたが、オネゲルはむしろ『ダヴィデ王』(1921) など個人として発表した曲により名声を高めた。『ダヴィデ王』はスイスの詩人ルネ・モラ (René Morax) による劇作の付帯音楽として制作されたが、これによりオネゲルは国際的にその名を知られるようになった。

以後彼のキャリアを特徴づけたのは劇音楽や交響曲といった大規模な作品である。オネゲルは映画やラジオのための音楽も多く制作した。

オネゲルは旅行を好んだ。1933年と1936年にワグネリエンヌのヒルダ・ジュリ=ディドとともにバイロイトへ滞在し、偉大な作曲家への熱情を高めた。オネゲルが好んだもう一つの旅行先はアルザスである。彼はストラスブールやミュルーズといった都市で演奏を行い、同地の公衆から熱狂的に迎えられた。

この時期、オネゲルは当時勃興しつつあった社会主義、共産主義運動にも接近する。「フランス6人組」の中ではルイ・デュレの政治活動が有名だが、オネゲルも左翼政党の大同団結運動「人民戦線」に協力している。1937年、オネゲルは作家ポール・ヴァイヤン=クチュリエが作詞した有名な労働歌「若き日」(Jeunesse) の作曲を担当2)労働歌「若き日」はフランス社会主義運動においてしばしば登場する常套句「謳う明日」(Lendemain qui chante) の初出である。、またジャン・エプシュタイン監督作品『建造者』(1937) では、主題歌「労働への賛歌」を作曲した 3)『建設者たち』はフランス最大の労働組合である「フランス労働総同盟」(CGT) の依頼により制作されたドキュメンタリー映画。人民戦線の成立を背景としたサンディカリスムの勃興を背景とする作品で、オーギュスト・ペレやル・コルビュジエによる建築技術の革新が強調されている。 Cf. Mary Mc Leod, « Le Corbusier, Planification and Regional Syndicalism », Colloque « Passés recomposés : Le Corbusier et l’architecture française, 1929-1945 », Centre Pompidou, 23 et 24 novembre 2016.

第二次大戦中、オネゲルはパリのエコール・ノルマル音楽院で教えたほか、雑誌『コメディア』に音楽批評や美学記事を執筆するなどの活動を行った。この頃彼はスイスを多く訪れ、パウル・ザッハーの楽団のための作品を残すなどした。

晩年のオネゲルは病魔に悩まされた。1947年8月アメリカ合衆国滞在中に血栓症にかかり、以後音楽活動を制限せざるを得なくなる。この出来事は彼を落胆させたが、以後オネゲルは音楽家の地位向上のための活動を行うようになる。1952年9月22~28日にかけてヴェネツィアで行われたユネスコの大会「国際芸術家会議」において「現代社会における音楽家4)Arthur Honegger, « The Musician in Modern Society », dans The Artist in Modern Society. Essays and Statements Collected by UNESCO, 1952, pp. 55-68.」を発表、またフランス音楽著作権協会 (SACEM) の会長を務めた。1952年には芸術アカデミー会員に選出され、席次6を得る。また1948年にはチューリッヒ大学より名誉博士号を授与された。

1955年11月27日、医師の来診を自宅で待っていたオネゲルは起き上がろうとして意識を失い、そのまま妻の腕の中で亡くなった。オラトリオ会の葬送ミサにおいてオマージュを読んだのは、ストラスブールにでオネゲルの演奏活動を助けたフリッツ・ミュンシュだった。オネゲルの亡骸はモンマルトルの丘のサン・ピエール小墓地に埋葬された。モンマルトルのクリシー大路にあった作曲家の自宅は現在、妻のアンドレ・ヴォラプールの献身によって博物館として公開されている。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. ジャック・フェショット『オネゲル』音楽之友社、1971年。
  2. Honegger, Arthur | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.13298]
  3. Encyclopédie Larousse en ligne – Arthur Honegger [http://www.larousse.fr/encyclopedie/personnage/Arthur_Honegger/111515]
  4. Arthur Honegger (France Archives) [https://francearchives.fr/commemo/recueil-2005/39740]
  5. Arthur Honegger (1892-1955) [https://www.musicologie.org/Biographies/h/honegger_arthur.html]

Notes   [ + ]

1. オネゲルの愛車はイタリア・ブガッティ社製だった。
2. 労働歌「若き日」はフランス社会主義運動においてしばしば登場する常套句「謳う明日」(Lendemain qui chante) の初出である。
3. 『建設者たち』はフランス最大の労働組合である「フランス労働総同盟」(CGT) の依頼により制作されたドキュメンタリー映画。人民戦線の成立を背景としたサンディカリスムの勃興を背景とする作品で、オーギュスト・ペレやル・コルビュジエによる建築技術の革新が強調されている。 Cf. Mary Mc Leod, « Le Corbusier, Planification and Regional Syndicalism », Colloque « Passés recomposés : Le Corbusier et l’architecture française, 1929-1945 », Centre Pompidou, 23 et 24 novembre 2016.
4. Arthur Honegger, « The Musician in Modern Society », dans The Artist in Modern Society. Essays and Statements Collected by UNESCO, 1952, pp. 55-68.

ジュール・マスネ

ジュール・マスネ

生 : 1842年5月12日(フランス王国、モントー)/没 : 1912年8月13日(フランス共和国、パリ)

ジュール・マスネ (Jules Massenet) はフランスの作曲家。19世紀後半にオペラの分野で活躍した。代表作に『マノン』、『ウェルテル』、『タイス』などがある。

生涯 | Biography

小見出し

ジュール・マスネは1842年5月12日、今日ではサン=テティエンヌの一部となっているロワール県のモントー (Montaud) において、商人の家に生まれた。父アレクシは農業に関する会社の重役でかつてのナポレオン軍の士官、マスネは4人兄弟のうち最年少だった。母のエレオノール=アデライド・ロワイエ・ド・マランクールは、マスネ自身の言によると「母親として、また妻として模範的」な女性であり、少年ジュールの精神面・音楽面における成長に影響を与えたという。彼女は才能あるピアニストで、作曲のほかピアノのレッスンも行った。マスネの父親が1847年に退職すると、一家はパリへと移住した。

モントーのマスネの生家(1908年頃)

マスネは10歳の時にコンセルヴァトワール(パリ音楽院)へ入学し、それから十年にわたってピアノやソルフェージュの教育を受けた。1859年ピアノ科で主席、1862年に対位法とフーガで次席を得るなど優秀な成績を収め、1861年にアンブロワーズ・トマによる作曲のクラスを受講した。この頃マスネはピアノのレッスンを行ったりテアトル・リリックでティンパニ奏者を務めながら生計を立てた。とりわけ4年間続けた後者の経験はシャルル・グノーやエルネスト・レイエ (Ernest Reyer) らをはじめとする同時代のフランス人音楽家によるオペラ作品に触れる機会となった。さらにマスネは1855年エクトル・ベルリオーズの指揮する『キリストの幼時』や、シルク・ナポレオン座におけるジュール・パドルーによる舞台、また1860年2月にパリで行われたワグナーによるコンサートに感銘を受けるなど、同時代の音楽シーンから影響を受けた。

1860年頃のマスネ

マスネは1862年ローマ大賞に応募するが落選。しかし翌1863年、カンタータ『デヴィッド・リッツィオ』によりグラン・プリを取得する。2年間をイタリアで過ごす権利を得たマスネは半島を広く旅行し、この時期フランツ・リストと、またリストの紹介により後に妻となるサント=マリー嬢 ―「ニノン」と呼ばれた― と出会っている。マスネのイタリア滞在における最大の成果は『レクイエム』をはじめとする数点のオーケストラ曲である。

1866年、ドイツとオーストリアを旅行した後パリに戻ったマスネは、10月にニノンと結婚し、二年後の1868年に娘のジュリエットをもうけた。この時期マスネはジョルジュ・アルトマン (Georges Hartmann) と出会う。音楽出版業を営むアルトマンはドビュッシーの支持者としても知られていたが、マスネに対してもそれから25年に渡って協力関係を続けた。さらにマスネは、おそらくはパリ音楽院時代の師匠であるアンブロワーズ・トマの手引きにより、オペラ=コミック座の演目の作曲を依頼される。マスネは『エスメラルダ』や『ラ・グラン・タント』を作曲し、オペラ作家の道に足を踏み入れる。

オペラ=コミック座オペラ=コミック座

マスネはパリにおいて急速に知名度を高め、サン=サーンスビゼー、フォーレなどといった世代の才能ある若手音楽家の一人に数えられるようになった。マスネはピアノ曲やオーケストラ曲などの分野で名声を高めたが、オペラではなかなか成功することができなかった。バイロンの詩に基づく『マンフレッド』は未完に終わり、バルビエとカレの台本による『メデュース』は1870年、普仏戦争の勃発により中断された。

プロイセンとの戦争においてマスネは国民衛兵として従軍した。戦後、音楽活動を再開したマスネは完成したばかりのパリ・ガルニエ宮(オペラ座)で1877年に上演された『ラオールの王』で成功を収める。オペラ座における成功はマスネの名声を高め、国際的に名を知られるようになる。とりわけイタリアでの人気は高く、ミラノの楽譜出版社リコルディはフロベールの『エロディアード』に基づくオペラを企画した。リコルディの委託を受けたアンジェロ・ザナルディーニ (Angelo Zanardini) とアルトマンは台本作家のポール・ミリエ (Paul Milliet) にリブレットを依頼した。

マスネは1878年から『エロディアード』の作曲を開始する。同年、今やパリ音楽院学長となったかつての師匠アンブロワーズ・トマの後任として音楽院の教授に就任、さらにフランソワ・バザンの後任として芸術アカデミー会員に選出され、作曲部門の席次6を得た1)このとき同時に立候補していたのがかつての友人カミーユ・サン=サーンスで、以後両者の関係は悪化してしまう。。パリ音楽院においてマスネは18年間に渡って作曲の講座を持ち、多くの後進を育てた。彼は授業が開講される冬の間はパリに留まり、夏のバカンス期間を利用して諸外国へ旅行しつつ作曲に専念するという生活スタイルを取った。

『エロディアード』の楽譜は1879年に完成した。しかしながら、聖書に取材した不道徳な内容であることを理由に、オペラ座の音楽監督オーギュスト・ヴォーコルベイユ (Auguste Vaucorbeil) は上演を断ってしまう。代わりにマスネは、当時若いフランス人音楽家の注目を集めていたブリュッセル・モネ劇場の誘致を受け、結局『エロディアード』は1881年12月に初演となった。

続いてマスネはアンリ・メイヤックとフィリップ・ジルに台本を依頼し、プレヴォ神父の古典『マノン・レスコー』のオペラ翻案に取り組んだ。この『マノン』は1884年1月、オペラ=コミック座において初演となり、作曲者の名声を不動のものとした。続く約30年の間にマスネは20以上のオペラを作曲したほか、バレエ曲などの舞台芸術に取り組んだ。非公開に終った『モンタルト』、コルネイユの戯曲に取材した『ル・シッド』を制作した後、マスネが次に取り組んだのは『ウェルテル』である。

文豪ゲーテによる『若きウェルテルの悩み』に取材し、『マノン』に並ぶ代表作として知られるこの作品をマスネは1880年頃から着想していたが、実際に作曲を始めたのは1885年だった。盟友アルトマンは彼のために18世紀に建てられたヴェルサイユのアパルトマンを買い与え、作曲に専念できるよう取り計らった。マスネとアルトマンは1886年8月オーストリア・バイロイトへ旅行する。これはゲーテがドイツのヴェッツラーを旅行中に『若きウェルテルの悩み』を着想した事実を彷彿とさせるものであり、マスネの作曲にとってもこの旅行は刺激になったという。

ところが1887年、『ウェルテル』の上演はオペラ=コミック座によって断られてしまう。ストーリーが暗すぎるというのがその理由である。結局『ウェルテル』は1892年2月、ウィーンにおいて初演が実現した。この都市では2年前に『マノン』が成功を収めたこともあり、マスネの新作も好意的に受け入れられた。結局『ウェルテル』は1893年にパリでも上演され、西欧の音楽シーンを席巻することとなった。

1887年、マスネは22歳のアメリカ人ソプラノ歌手シビル・サンダーソン (Sybil Sanderson) と出会う。彼女の美しい声と容姿に魅了されたマスネはサンダーソンのために『エスクラルモンド』を制作する。「オペラ=ロマネスク」として構想されたこの作品は劇的な特殊効果を使用し、中世のビザンツ帝国の宮廷における騎士道物語を演出するものだった。ワグナーの影響を多分に受けたこの作品は、1889年のパリ万国博覧会において上演された。2年後の1891年アルトマンが破産したため、以後マスネの楽譜はジャック=レオポール・ユーゲル (Jacques-Léopold Heugel) のもとで出版されるようになる。

シビル・サンダーソンシビル・サンダーソン

1892年、『ウェルテル』およびバレエ『ル・カリヨン』の上演のためウィーンを訪れたマスネは、サンダーソンのための新しい作品を構想する。『タイス』である。アナトール・フランスのセンセーショナルな小説を原作としたこのオペラは、宗教と愛というマスネの主要なテーマが前面に表れたものだった。1894年3月パリ・オペラ座で『タイス』の初演が実現したことを皮切りに、同年5月にはオペラ=コミック座で『マノンの肖像』が、6月にはロンドンのコヴェント・ガーデンに所在するロイヤル・オペラ・ハウスで『ラ・ナヴァレーズ』が上演されるなど、この時期マスネは精力的に作品を発表した。

マスネは当時もパリ音楽院における教授職を続けていたが、作曲による多忙を理由にしばしばアンドレ・ジェダルジュによる代講が行われた。学長のアンブロワーズ・トマが1896年2月に亡くなると、後任としてマスネが指名されそうになったが、結局テオドール・デュボワが選出され、マスネは正式に教授を辞任することができた。

マスネが次に取り組んだオペラ作品は『サッフォー』である。『最後の授業』などで知られるアルフォンス・ドーデの小説を下敷きにしたこの作品は1897年11月オペラ=コミック座で初演が行われたが、地方出身のナイーヴな青年と経験豊富なパリジェンヌとの恋愛を主軸とする台本は話題を読んだ。

1899年、『サンドリヨン』の上演と前後して、マスネはパリの南郊にある小村エグルヴィルにシャトーを持ち、ここを終の棲家とした。マスネは作曲に際してワグナー的な精神性に魅力を感じながらも、1890年代にフランスやロシア、ウィーンで登場した新しい流行を取り入れず、自らの様式を守り続けた。この頃パリのオペラ座やオペラ=コミック座では常時何らかのマスネ作品が上演されており、またロンドンやミラノ、ウィーンといったヨーロッパ諸国の主要都市でも彼の作品は人気を博するなど、マスネはそのキャリアの絶頂にあった。1900年12月14日にはレジオン・ドヌール勲章の最高位であるグラントフィシエを授与されている。

世紀が変わり1900年代が幕を開けると、マスネはピアノ協奏曲をはじめとしたオーケストラ曲の制作に取り組む。このピアノ協奏曲は1903年、ヴィルトゥオーゾとして名を馳せたルイ・ディエメによってパリ音楽院で演奏されたが、それほどの評判を得ることができなかった。そのためマスネはすぐに得意分野であるオペラの作曲に復帰した。モーツァルト『フィガロの結婚』の登場人物ケルビーノの後日談である『シェルバン』のほか、バレエ曲『シガール』といった作品がこの時期に発表された。

そうした中、マスネは新しい歌手を発掘する。リュシー・アルベルである。1878年生まれのアルベルは『アリアーヌ』や『バッカス』などのマスネ晩年のオペラに多く出演し、歌姫としての名声を高めていった。マスネは健康を悪化させつつも死の直前まで精力的に活動を続け、『ドン・キホーテ』『ローマ』『クレオパトラ』などの名作を残した。

リュシー・アルベルナダールによるリュシー・アルベルの肖像写真

晩年のマスネはリュクサンブール公園の北側に面したヴォジラール街48番地の中二階のアパルトマンに住んだ。マスネは人付き合いが悪いというわけではなかったが、パリのカフェや舞踏会にはあまり顔を出さず、新聞や雑誌のインタビューにもあまり答えなかった。その生涯はラフィット社から1912年に刊行された自伝『回想録』において克明に語られている。

ジュール・マスネが亡くなったのは1912年8月13日、朝5時ごろのことだった 2)Le Temps, 13 aout 1912. 。家族や友人、そしてとりわけパリ音楽院における生徒を愛したマスネの葬儀では、関係者による数多くのエロージュが読み上げられたという。

作品一覧 | Works

オペラ

参考文献 | Bibliography

  1. Archives de la Préfecture de police de Paris, série Ea11, Papiers Jules Massenet
  2. Massenet, Jules | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.51469]
  3. Jules Massenet : 10 (petites) choses que vous ne saviez (peut-être) pas sur le compositeur de Werther [https://www.francemusique.fr/musique-classique/10-petites-choses-que-vous-ne-saviez-peut-etre-pas-sur-jules-massenet-36296]
  4. Jules Massenet (1842-1912) [https://www.musicologie.org/Biographies/m/massenet.html]
  5. Christophe Prochasson, Les années électriques, 1880-1910, Paris : Découverte , 1991 .
  6. Christophe Prochasson, Paris 1900. Essai d’histoire culturelle, Paris : Calmann-Lévy, 1999.

Notes   [ + ]

1. このとき同時に立候補していたのがかつての友人カミーユ・サン=サーンスで、以後両者の関係は悪化してしまう。
2. Le Temps, 13 aout 1912.

デオダ・ド・セヴラック

デオダ・ド・セヴラック

生 : 1872年7月20日(フランス共和国、サン=フェリックス=ド=カラマン)/没 : 1921年3月24日(フランス共和国、セレ)

デオダ・ド・セヴラック (Déodat de Séverac) はフランスの作曲家。南仏の風土や自然に取材した作品を多く残した。

生涯 | Biography

スコラ・カントルムの秀才として

デオダ・ド・セヴラックは1872年7月20日、南仏オート=ガロンヌ県の小村サン=フェリックス=ド=カラマン(現在のサン=フェリックス=ロラゲ)で生まれた。セヴラック家は11世紀にまで遡る由緒正しい貴族の家系で、デオダの父ジルベール・ド・セヴラックは画家であった。またスペイン・アラゴン王朝と関係の深い家系の娘である母はオルガン奏者として活動していた。少年デオダは当初この両親から音楽を学び、のち村のオルガニストであるルイ・アミエルのもとに委ねられた。南仏の大都市トゥルーズにあったドミニコ会のコレージュ(ソレーズ神学校)でピアノやオルガン、オーボエを学んだ後、1890年に父の勧めによりトゥルーズ大学の法学部に進学した。3年後、父はやはりデオダに音楽を学ばせることを決め、彼を地元の音楽学校(トゥルーズ音楽院)へ入学させた。

1896年、セヴラックはトゥルーズを離れ、パリのスコラ・カントルムに入学する。ここでセヴラックは1907年まで在籍し、アンドレ・ピロ (André Pirro) とアレクサンドル・ギルマン (Alexandre Guilmant) よりオルガンを、シャルル・ボルド (Charles Bordes) より合唱指揮を、アルベリク・マニャールとヴァンサン・ダンディより対位法と作曲を学んだ。この学校でセヴラックはイサーク・アルベニスと交流を持ち、またブランシュ・セルヴァ (Blanche Selva) 、ジョゼフ・カントルーブ (Joseph Canteloube) 、マルセル・ラベ (marcel labey) 、アルベール・ルーセル (Albert Roussel) 、オーギュスト・セリユー (Auguste Sérieyx) らと知り合った。中でもアルベニスとの関係は深く、1900年から彼の助手を務めている。またスコラ・カントルムの外でもデュカスやフォーレ、ラヴェルやドラージュといった音楽家、レオン=ポール・ファルグやジャン・モレアスといった詩人、ピカソやルドン、ファン・グリスといった画家、カルヴォコレッシなどの批評家と交友関係を持ち、ポリニャック大公妃のものを含む複数のサロンに出入りしていた。

セヴラックはスコラ・カントルム在学中より意欲的に作曲を行った。中でもピアノ曲「大地の歌」および「ラングドックにて」は彼の代表作である。1905年にはスコラ・カントルムでセヴラック作品の演奏会が催され、リカルド・ヴィニエスやブランシュ・セルヴァ 、マリ・ド・ラ・ルヴィエールといったピアニストが参加した。

さらにセヴラックは全国向けないし南仏の地方向けの新聞・雑誌への寄稿を行うなど、精力的な活動を行った。1907年、セヴラックは論文『中央集権と礼拝音楽』(La centralisation et les petites chapelles musicales) によりスコラ・カントルムを修了する。この論文で彼は、ドイツ音楽の影響から離脱するため、フランス音楽は地方独自の伝統から着想を得るべきことを主張した。

セヴラックにとって地方の伝統とは南仏ラングドック地方における地中海性の文化を意味した。セヴラックはスコラ・カントルム卒業後に地元の村へ戻り、そこで1919年まで地方議会議員を務めたほか、「オータンの風の竪琴」と称する楽団を結成した。ラテン語の altanus (海風)に由来する「オータンの風」とは、ラングドックとオクシタニー地方に向けて地中海から吹く強風のことで、南仏特有の気候を象徴する自然現象である。セヴラックは南仏気質を愛した作曲家であった。

地元を愛する南仏の名士として

セヴラックの主要作品もこの時期、彼の生まれ故郷であるサン=フェリックスの村で制作されている。『ポンパドゥール夫人へのスタンス』『日向で水浴びする女たち』『カルダーニャ』などがそれにあたる。1910年、セヴラックはルシヨンの小村セレに転居、同地でサン=ピエール教会のオルガニストを生涯に渡って務めた。この地でセヴラックが作曲した3幕からなるオペラ『エリオガバール』はベジエの円形劇場で1910年に初演され、1万3千以上もの観客数を記録した。

ベジエの円形劇場ベジエの円形劇場

セヴラックはオーケストラ曲の制作に際して、フラビオルやティプラ、テノーラなどからなる「コブラ」と呼ばれるカタルーニャ地方の伝統的な楽器編成を用いた。1911年、セヴラックはピアノ曲『ヴァカンスにて』および『ナヴァーラ』の制作に着手した。後者は未完のまま残されたアルベニスの遺作であったが、セヴラックが引き継いで完成させたものである。

第一次世界大戦中、応召したセヴラックは看護兵としてカルカソンヌ、ペルピニャン、サン=ポンおよびプラードと次々に配置を変えられ、3年間に渡って音楽活動の中断を余儀なくされた。ただしこの間、数曲の軍歌や愛国歌謡を作曲している。1919年1月に復員したセヴラックは戦前に着手していた作品を完成させたが、いくつかの楽譜は戦火の混乱の中で散逸してしまった。セヴラックは復員から2年後の1921年に他界したため、オラトリオ『地中海』やエミール・プヴィヨンの小説を下敷きにしたオペラ『アンティベル家の人々』といった多くの作品が未完のまま残された。セヴラックは死の前年、1920年にフランスの最高勲章であるレジオン・ドヌールのシュヴァリエを受勲している。

デオダ・ド・セヴラックはドビュッシーやラヴェル、フォーレといった音楽家と同世代に属するが、パリを拠点にした後3者に対し、彼はスコラ・カントルム卒業後に故郷の南仏に定着した。そのことも一因となりセヴラックは一般に知られているとは言い難い。しかしながら、南仏の自然や風土に取材した彼の作品は現在も世界中に根強い愛好家を有している。ウラディミール・ジャンケレヴィッチは著書『遥かなる現前』において、セヴラックの音楽について論じている。

作品一覧 | Works

イダ・ルビンシュタイン『スパルタのヘレネー』におけるイダ・ルビンシュタインの衣装

ピアノ曲

  • Petite étude 1889
  • P’tit bâteau 1889-1898
  • Mélancolie, inspiré à la simple vue d’une certaine cane 1889
  • Sérénade au clair de lune 1889-1895
  • Matin de pâques à Toulouse 1895
  • Pastorale 1895-1897
  • Dix scènes des champs 1895
  • Préludio 1896-1898
  • Air de ballet 1896-1898
  • Promenade en mer 1896-1898
  • Trois mélodies et quatre pages pianistes inédites 1897-1907
  • Sérénade au clair de lune 1898
  • Petite étude en sol mineur 1898
  • Vent d’Autan 1898
  • Deuxième impromtu, dans le caractère romantique 1898
  • Sonate en si bémol mineur 1899
  • Le chant de la terre 1899-1900
  • Valse lente 1901
  • En Languedoc 1903-1904
  • Méditerranéenne 1904
  • Le soldat de plomb 1906
  • Le tombeau de Gauguin 1906
  • Valse métèque 1907
  • Danse du tonneau et du bidon 1907
  • Pippermint-Get 1907
  • Stances à Mme de Pompadour 1907
  • Baigneuses au soleil 1908
  • La danse des treilles 1909
  • Navarra 1909
  • Cerdaña 1908-1911
  • En vacances, premier recueil 1911
  • Les naïades et le faune indiscret 1908-1919
  • En vacances, second recueil 1919
  • Sous les lauriers roses 1919
  • Musique pour piano 1919

参考文献 | Bibliography

  1. Sévérac, (Marie Joseph Alexandre) Déodat de, Baron de Sévérac, Baron de Beauville | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.25524]
  2. 日本セヴラック協会 [http://www.geocities.jp/severacjp/]
  3. ウラディミール・ジャンケレヴィッチ(近藤秀樹訳)『遥かなる現前 : アルベニス、セヴラック、モンポウ』春秋社、2002年。

ジョルジュ・オーリック

ジョルジュ・オーリック

生 : 1899年2月15日(フランス共和国、ロデーヴ)/没 : 1983年7月23日(フランス共和国、パリ)

ジョルジュ・オーリック (Georges Auric) はフランスの作曲家。「フランス6人組」のメンバー。主として映画音楽を手がけ、『ローマの休日』や『赤い風車』の音楽も担当した。

生涯 | Biography

早熟な少年時代

ラングドック地方のロデーヴで生れたジョルジュ・オーリックは、少年期を南仏の都市モンプリエで過ごした。地方の音楽学校でルイ・コンブ (Louis Combes) からピアノのレッスンを受け、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキーの音楽を知った。コンブはオーリックをデオダ・ド・セヴラックに紹介し、蔵書のフランス現代文学を自由に読ませた。オーリックがエリック・サティを知ったのも音楽雑誌『ムジカ』の読書を通じてであった。

早熟な少年であったオーリックは10歳から作曲を始め、14歳となった1913年、両親は彼がコンセルヴァトワールで学べるよう一家でパリへ引っ越した。オーリックは15歳の頃にストラヴィンスキーやアポリネール、ジャン・コクトー、レイモン・ラディゲ、ピカソ、ブラックといった当代一流の芸術家たちと知り合っている。またレオン・ブロワとは社会学について、ジャック・マリタンとは神学について語り合ったという。中でもコクトーとは生涯に渡って交流を続けることとなり、この詩人による音楽評論『雄鶏とアルルカン』はオーリックに捧げられている。

ジャン・コクトーによるオーリックの似顔絵ジャン・コクトーによるオーリックの似顔絵(1921年)

オーリックはパリ音楽院のジョルジュ・コサードのクラスで、後に「6人組」として共同で活動することになるアルテュール・オネゲル、ダリウス・ミヨー、ジェルメーヌ・タイユフェールと知り合う。1914年、オーリックはパリ音楽院を中退し、スコラ・カントルムでヴァンサン・ダンディに作曲を学ぶ。ダンディはセザール・フランクおよびドイツ流の作曲法の支持者であった。またオーリックはピアノの演奏技術も高く、少年時代より親しんでいたエリック・サティの作品をコンサートで演奏したほか、「諧謔的な作曲家、エリック・サティ」と題する記事を『フランス音楽評論』1913年12月10日号に掲載した。この記事はサティ本人の目にも留まり、年の離れた二人は友情を育むこととなった。サティオネゲルルイ・デュレと結成した同人「新しい若者」にオーリックを誘い、早熟な青年の音楽活動の方向を規定することとなる。

ジャン・コクトーと映画音楽

6人組の面々ジャック=エミール・ブランシュ「6人組の面々」(1921)

サティの仲介でデュレと知り合ったジョルジュ・オーリックは、パリ音楽院時代の同級生であるオネゲル、ミヨー、タイユフェールに加えてフランシス・プーランクと合流し、付き合いのあった詩人ジャン・コクトーとともに1919年に音楽グループ「フランス6人組」を結成した。この時期オーリックは、バレエ音楽の作曲を通じて独自のアグレッシブな様式を確立してゆく。1921年にはセルゲイ・ディアギレフに依頼され、モリエールによる戯曲『はた迷惑な人たち』のバレエ翻案を作曲。『はた迷惑な人たち』は1924年1月19日にモンテ=カルロ・バレエ団により初演された。オーリックはその後もディアギレフのために『レ・マトロ』(1924)、『ラ・パストラル』(1925)、またイダ・ルビンシュタインのために『アルシーヌの妖精の魔法』(1928) などといったバレエ音楽を作曲した。その他にもダダイストやシュルレアリストと近い立場で、様々な音楽評論や前衛的な文芸評論を発表するなど多分野で精力的に活動した。

オーリックの1930年の作品『ピアノ・ソナタ』には、フランス6人組の新しい印象主義が顕著に表れている。この作品はポール・デュカスやアルフレッド・コルトーからは好意的に受け入れられたが、意図していたほどの成功を収めることはできなかった。この時期、コクトーの『詩人の血』により、オーリックは映画音楽家としてのキャリアを開始する。ルネ・クレール監督の『自由を我等に』(1931)、コクトー脚本、ジャン・ドラノワ監督による『永劫回帰』(1943) および『美女と野獣』(1946) の音楽を担当した。

オーリックとブリジット・バルドーオーリックとブリジット・バルドー(1966年)

オーリックのキャリアの全盛期はこの時期に訪れる。映画音楽家として円熟し、彼の作曲した『赤い風車(ムーラン・ルージュ)』(1952) や『ローマの休日』(1943) の主題歌は、オーリックの名を知らない人でも誰もが一度は耳にしたことのある不朽の名作である。1954年、オネゲルの後任としてフランス音楽著作権協会 (SACEM) の会長に就任。1979年からは名誉会長となった。また1962年に芸術アカデミー会員に選出され、作曲部門の席次5を得た。また1962年から1968年にかけてパリのオペラ座とオペラ=コミック座の音楽監督に就任した。

作品一覧 | Works

映画音楽

  • 詩人の血 1930
  • 自由を我等に 1931
  • 乙女の湖 1934
  • マカオ 1939
  • 悲恋 1943
  • 永劫回帰 1943
  • 美女と野獣 1946
  • 乱闘街 1946
  • 田園交響曲 1946
  • 双頭の鷲 1947
  • オルフェ 1949
  • 赤い風車 1952
  • 恐怖の報酬 1952
  • 夜ごとの美女1952
  • ローマの休日 1953
  • アンリエットの巴里祭 1954
  • 歴史は女で作られる 1955
  • ノートルダムのせむし男 1956
  • 居酒屋 1956
  • 悲しみよこんにちは 1957
  • 月夜の宝石 1958
  • 恋ひとすじに 1958
  • オルフェの遺言 1960
  • クレーヴの奥方 1961
  • さよならをもう一度 1961
  • 大進撃 1966

バレエ音楽

 

参考文献 | Bibliography

  1. Auric, Georges | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.01539]
  2. Georges Auric (1899-1983) [https://www.musicologie.org/Biographies/auric_georges.html]
  3. Georges Auric – IMDb [https://www.imdb.com/name/nm0005952/]

ジェルメーヌ・タイユフェール

ジェルメーヌ・タイユフェール

生 : 1892年4月19日(フランス共和国、サン=モール=デ=フォッセ)/没 : 1983年11月7日(フランス共和国、パリ)

ジェルメーヌ・タイユフェール (Germaine Tailleferre) はフランスの作曲家。「フランス6人組」の一人。

生涯 | Biography

ジェルメーヌ・タイユフェールは本名「ジェルメーヌ・マルセル・タイユフェス」として、中産階級の家庭に生まれる。母親のマリ=デジレはアマチュアのピアニストでもあり、彼女からジェルメーヌは幼少期より音楽教育を受ける。一方で父親はジェルメーヌの音楽活動に否定的だった。ジェルメーヌが後に姓を「タイユフェス」から「タイユフェール」へと変更したのも、この無理解な父親への反発からであったという。タイユフェールは父親の反対にもかかわらず、1904年パリ音楽院(コンセルヴァトワール)に入学。エヴァ・ソトロー=メイエール (Eva Sautereau-Meyer) の基礎クラスで教育を受けた。厳格な父親はジェルメーヌへの経済援助を打ち切ってしまったが、音楽院へ入学してから2年後に娘がソルフェージュの賞を取ると、多少は気を良くしたという。

タイユフェールはその後も和声・作曲・ピアノ伴奏などといった分野で数々の賞を授与されるなど活躍した後、1913年にジョルジュ・コサード (Georges Caussade) による対位法のクラスでジョルジュ・オーリックアルテュール・オネゲル、ダリウス・ミヨーと出会う。彼らの仲介でタイユフェールはシャルル・ケクランと出会い、管弦楽法についての助言を受ける機会を得た。

1917年、タイユフェールのピアノ曲「野外遊戯」に感銘を受けたエリック・サティは、彼女を「音楽の娘」と呼んで絶賛、タイユフェールらを自らの音楽グループ「新しい若者」に招き入れる。グループは同時代の芸術家たちと交流を持った。中には詩人のギヨーム・アポリネール、マックス・ジャコブ、ブレーズ・サンドラール、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、また画家のパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラック、マリー・ローランサンやアメデオ・モディリアーニなどもいた。タイユフェールが1918年1月15日に人生初のピアノコンサートを開催した場所も、そうした画家のアトリエであった。後に彼ら「新しい若者」たちはフランシス・プーランクとルイ・デュレに合流し、1919年「フランス6人組」を結成、詩人ジャン・コクトーに接近しつつ共同で音楽活動を行った。「6人組」の中でタイユフェールは唯一の女性メンバーであり、コクトーは彼女を「耳のマリー・ローランサン」と呼んだ。

6人組ジャン・コクトーと6人組(デュレを除く)

タイユフェールの作風は当時流行していたストラヴィンスキーの新古典派と調和し、他方でフォーレやラヴェルの影響も受けた。後者2人とは1920年代に親密な交際を続けた。中でもラヴェルはタイユフェールの才能を高く評価し、彼女にローマ賞への応募を薦めるなど、二人の交流は十年近くに渡って行われた。またエドモン・ド・ポリニャック公爵夫人はタイユフェールの音楽を好み、曲の献呈を受けた。1924年にはセルゲイ・クーセヴィツキー指揮のコンサートにおいてピアノを演奏している。

しかしその後、タイユフェールは一時期スランプに陥る。1926年に風刺漫画家ラルフ・バートンと結婚したが、結婚生活は不幸だった。バートンは映画女優カーロッタ・モントレーの元夫であり、タイユフェールはバートンとともにニューヨーク・マンハッタンへ移り住んだ。NY滞在中にバートンの友人であったチャーリー・チャップリンと知り合う。チャップリンはタイユフェールに映画音楽の作曲を依頼したいと考えるが、バートンは嫉妬心からかこの申し出を断ってしまう。夫婦は1827年からパリに住んだが、1929年別居、1931年には離婚に至った。バートンはその後自殺している。

これらの出来事はタイユフェールの創作意欲を削ぎ、さらに生活苦から作品を乱造するようになる。生来の内気さから自己プロデュースに消極的であったタイユフェールは、自らを「職人」として認識していた。彼女にとって音楽は私生活の困難からの解放でもあった。

バートンと別れた直後、タイユフェールは弁護士ジャン・ラジェア (Jean Lageat) との交際を始める。二人の間には娘フランソワーズが生れ、1932年に結婚に至った。この間、1931年から33年にかけてモーリス・クロッシュ監督の映画音楽を作曲している。タイユフェールの実力は本物だった。1936年、オリヴィエ・メシアン、アンドレ・ジョリベ,ダニエル=ルシュール。イヴ・ボードリエら4人からなるグループ「若きフランス」はタイユフェールに後見を求め、最初のコンサートの曲目に彼女の「ピアノとオーケストラのためのバラード」を加えた。さらに、1938年にヴァレリーの詩をもとに制作した交響曲「ナルシスのカンタータ」は大きな成功を収め、実力を広く認められた彼女は映画音楽の作曲を求められるようになった。

若きフランス「若きフランス」の4人

第二次大戦が始まり、ナチス・ドイツがフランスを占領すると、タイユフェールはこれを逃れるため、娘を連れて1942年から1946年にかけて米国フィラデルフィアに滞在した。戦後フランスへ帰国し、南仏コート=ダジュールのグラースに落ち着いた。この頃バリトン歌手ベルナール・ルフォールとともに演奏ツアーを行い、成功を収める。1954年ルフォールのために「虚しい言葉の協奏曲」(Concerto des vaines paroles) を書いている。1955年ジャン・ラジェアと離婚。その後オペラへと関心を移す。中でもドゥニーズ・サントール (Denise Centore) の脚本によるラジオ放送用のオペレッタ『優雅な様式から意地悪な様式へ』(1955年)はタイユフェールの軽妙かつ優雅な作風をよく表している。同時期に十二音技法(セリエル音楽)の実験として「クラリネットのためのソナタ」などを作曲した。

タイユフェールは最晩年まで作曲と音楽教育に従事した。はじめスコラ・カントルムで教えた後、ジョルジュ・アッカール (Georges Hacquard) の招きによりパリのエコール・アルザシエンヌのピアノ教師となり、死の直前まで作曲を続けた。アッカールは1977年、タイユフェールの作品を普及させるための団体を創設した。団体は2003年まで活動を続けた。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Tailleferre, Germaine | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.27390]
  2. Germaine Tailleferre (1892-1983) [https://www.musicologie.org/Biographies/t/tailleferre.html]
  3. Germaine Tailleferre : portrait et biographie sur France Musique [https://www.francemusique.fr/personne/germaine-tailleferre]

パリの生活(オッフェンバック)

パリの生活

基本情報 | Data

  • 作曲 : ジャック・オッフェンバック
  • 台本 : リュドヴィク・アレヴィ、アンリ・メイヤック
  • ジャンル : オペレッタ
  • 言語 : フランス語
  • 初演 : 1866年10月31日、於パレ=ロワイヤル劇場(パリ)

 

登場人物 | Cast

  • 手袋屋ガブリエル(ソプラノ) : ジュルマ・ブファール
  • ブラジル人(テノール) : ジュール・ブラスール
  • 靴屋フリック(テノール) : ジュール・ブラスール
  • 使用人プロスペル(テノール) : ジュール・ブラスール
  • スウェーデン人ゴンドルマルク男爵(バリトン) : ヤシント
  • ゴンドルマルク男爵夫人(ソプラノ) : セリーヌ・モンタラン
  • 高級娼婦メテラ(メゾソプラノ) : オノリーヌ
  • 洒落者ボビネ(テノール) : ジル・ペレス
  • 洒落者ラウル・ド・ギャルドフー(テノール) : プリストン
  • 女中ポリーヌ(ソプラノ) : ポーレール
  • 使用人ユルバン(バリトン) : ラスシュ

あらすじ | Synopsis

第一幕

サン=ラザール駅クロード・モネ「サン=ラザール駅」(1877年)

物語は架空の駅である「パリ西駅1)1866年版ではモンパルナス駅、1873年版ではサン=ラザール駅がモデルとされている。」から幕を開ける。プラットホームでは二人の洒落者ボビネとギャルドフーが高級娼婦メテラの到着を待っていた。メテラはかつてギャルドフーと関係を持ったが、今やボビネも彼女を狙っていた。親友同士の二人は恋敵でもあったのだ。ところがノルマンディのリゾート地トゥルヴィルからの電車を降りたメテラは別の男を連れており、二人を見て素知らぬ顔をする。失恋にくれた二人はメテラを諦め、誰か他の女性を口説こうと、当時パリ有数の社交場として知られたブルヴァール・サン=ジェルマンに赴く。

ブルヴァールでギャルドフーはかつての従者であったジョゼフと偶然鉢合わせる。ジェゼフは今や一流ホテル「ル・グランド=オテル」の従業員になっており、スウェーデンからの観光客ゴンドルマルク男爵とその夫人を案内していた。夫人の美貌に惹かれたギャルドフーはジョゼフを言いくるめて案内人の役割を交代させ、彼女をものにしようと画策する。

一方その頃パリは外国人観光客が大挙して押し寄せていた。中には贅の限りを尽くそうとパリを訪れた金持ちのブラジル人もおり、繁華街は活況を呈しつつあった。

第二幕

1900年頃のル・グランド=オテル

案内人に扮したギャルドフーはゴンドルマルク男爵夫妻を欺き、「ル・グランド=オテルは満員につき別館へご案内いたします」などと称し、まんまと二人を自宅に案内する。そうとは気付かない田舎者の男爵は憧れの大都会を楽しもうと、一人繁華街へ散策に出かける。好色な男爵は夫人と二人きりの夕食では飽き足らず、あの娼婦メテラとのでアヴァンチュールを求めたのだ。

男爵が出かけると早速ギャルドフーは夫人をそそのかし、男爵と別の寝室に案内した上、友人たちの協力によりでっち上げた自らの晩餐会へと招待する。靴屋のフリックは陸軍少佐を、手袋屋のガブリエルは大佐の未亡人を装い、皆で陽気なヨーデルを歌いながら宴を盛り上げる。

第三幕

シャルル・モット「社交界の舞踏会」(1819年)

ギャルドフーの依頼を受けたボビネは、男爵を欺くために叔母の別荘を使い、偽物の仮面舞踏会の手はずを整える。スイス人将校に扮したボビネは女中ポリーヌに男爵を誘惑させる。鮮やかなドレスに身を包んだガブリエルが場を盛り上げ、ワインが滝のように注がれる。終いにボビネの衣服は破れ、招待客は皆踊りだす。テンポの速いフレンチ・カンカンにより宴は最高潮に達する。

第四幕

ギャルドフーは自宅に、すなわち偽物のル・グランド=オテル別館に戻ると、男爵夫人を二人で夕食に誘う。夫人はパリの景色を楽しみ、ギャルドフーの計画は成功するかに見えた。ところがその時、思いがけない来客がギャルドフーの自宅を訪れる。ボビネの叔母ケンペル=カデラック夫人とその娘フォル・ヴェルデュール夫人である。二人がパリを訪れてみると自宅が騒ぎになっているというので、何事かと様子を見に来たのだ。さらにケンペル=カデラック夫人は偶然にもゴンドルマルク男爵夫人の知り合いでもあった。ケンペル=カデラック夫人に部屋を用意するよう言われたギャルドフーは、その場しのぎに男爵の部屋を充てがう。そこへ仮面舞踏会での夜遊びを終えた男爵が酔いつぶれて帰ってくる。

第五幕

一方その頃、パリにある別の一流ホテル「オテル・アングレ」では、金持ちのブラジル人が贅の限りを尽くして仮面舞踏会を楽しんでいた。給仕長のアルフレッドは他の給仕たちを集め、これから起こることには目をつぶるよう命じる。舞踏会には娼婦メテラの姿もあった。舞踏会を訪れたゴンドルマルク男爵は彼女に言い寄るが、敢えなく断られてしまう。結局メテラはギャルドフーとよりを戻すことに決める。ゴンドルマルク男爵も夫人に詫び、今までの行いを許してもらう。それを見ていたブラジル人はガブリエルと一緒に、これまでの出来事すべてを指して「これがラ・ヴィ・パリジェンヌさ」と言ってパリの生活を祝福する。キャスト総出による華やかなフレンチ・カンカンで物語は大団円を迎える。

劇中歌 | Songs

第一幕

  • Nous sommes employés de la ligne de l’Ouest
  • Le ciel est noir
  • Attendez d’abord que je place
  • Elles sont tristes, les marquises
  • Ce que c’est pourtant que la vie
  • Jamais, foi de cicérone
  • À Paris nous arrivons en masse
  • Je suis Brésilien, j’ai de l’or
  • La vapeur nous amène

第二幕

  • Entrez ! entrez, jeune fille à l’œil bleu !
  • Dans cette ville toute pleine de plaisir
  • Vous souvient-il, ma belle
  • Pour découper adroitement
  • Nous entrons dans cette demeure
  • Je suis veuve d’un colonel
  • On n’est v’nu m’inviter

第三幕

  • Il faut nous dépêcher vite
  • Donc je puis me fier à vous
  • L’amour, c’est une échelle immense
  • On va courir, on va sortir
  • Votre habit a craqué dans le dos
  • Soupons, soupons, c’est le moment
  • Sa robe fait frou, frou, frou, frou
  • Tout tourne, tout danse
  • Feu partout, lâchez tout
  • Ohé ! L’amiral ! Ta fête est charmante

第四幕

  • Je suis encore toute éblouie, toute ravie
  • Quoi, ces messieurs pourraient, ma chère
  • Vengeons-nous ! il faut nous venger
  • Tout tourne, tout danse

第五幕

  • Bien bichonnés et bien rasés
  • C’est ici l’endroit redouté des mères
  • Je te connais ! – Tu me connais
  • En avant, les jeunes filles
  • Avant toute chose il faut être mystérieux et réservés
  • A minuit sonnant commence la fête
  • Par nos chansons et par nos cris célébrons Paris!

解説 | Description

『地獄のオルフェ』(1858)、『美しきエレーヌ』(1864) の成功以来、オッフェンバックはブッフ・パリジャン座を拠点として「オペラ・ブッフ」の確立による歌劇の革新に挑戦していた。現代的なオペレッタの誕生である。オッフェンバックが活躍したフランス第二帝政期 (1852-1870) は、皇帝ナポレオン3世の派手好みな性格と相まって、毎年8月15日の「皇帝祭」(La fête impériale) を筆頭に華やかな祝祭が催された。セーヌ県知事ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンの采配によってパリが近代的な街並みへと変貌を遂げたのもこの時期である。劇場やセルクル(社交クラブ)の並んだ大通り「グラン・ブルヴァール」をダンディ(洒落者)が闊歩し、名士たちの間では「クルティザンヌ」あるいは「ドゥミ=モンデーヌ」などと呼ばれる高級娼婦が社交界の華となった。

1867年6月10日、チュイルリ宮の夜会

オペレッタ『パリの生活』(La Vie parisienne) は1867年のパリ万国博覧会のシーズンに備えて制作された。工業化が進んだ19世紀中葉、ヨーロッパ全土における鉄道の普及によって遠隔地からの来客が見込めることとなり、彼らをターゲットにした娯楽・ショービジネスも発達した2)19世紀フランスにおける鉄道網の発達については次の文献を参照。北河大次郎『近代都市パリの誕生:鉄道・メトロ時代の熱狂』河出書房新社、2010年。。また各国の貴族や上流階級のためには、カピュシーヌ大通りの「ル・グランド=オテル」をはじめとした高級ホテルが銀行家の投資により造設された3)今日もインターコンチネンタルホテル傘下として営業を続けているル・グランド=オテルは1861年、銀行家ペレル兄弟の投資により実現した。イザークとエミールの二人はサン=シモン主義の経済思想に基づき、世界初の個人向け金融機関である「クレディ・モビリエ」(動産銀行)を設立、皇帝ナポレオン3世の支持と相まって、土建や鉄道などといった成長部門に対する積極的な投資を行い、国内産業の発展に貢献した。フランス第二帝政下の金融とサン=シモン主義については次の文献を参照。中川洋一郎『暴力なき社会主義?:フランス第二帝政下のクレディ・モビリエ』学文社、2004年。

こうした19世紀中葉におけるフランスの世相や時代状況はオペレッタの台本にも反映されている。その背景には、劇場支配人のフランシス・ド・プランケット (Francis de Plunkett) がオッフェンバックにパリ社会のカリカチュアを求めたこともあった。かくしてオッフェンバック唯一の現代劇『パリの生活』は観劇好きのフランス人のみならず、万博を目当てにパリを訪れた外国人観光客の目にも留まり、会期中を通して265日連続上演という当時としては記録的な成功を収めた。

『パリの生活』の台本は、オッフェンバック作品の常連であるリュドヴィク・アレヴィとアンリ・メイヤックによって書かれた4)アレヴィ家は文化人の一門として有名な家系。リュドヴィクの叔父ジャック・アレヴィはオッフェンバックに作曲を教えた張本人。またリュドヴィクの子エリー・アレヴィは『哲学的急進主義の成立』で知られる哲学者、エリーの弟ダニエル・アレヴィは『名望家の終焉』などで知られる歴史家である。。初演はオッフェンバックが本拠地を置いたモンシニ街のブッフ・パリジャン座ではなく、ナポレオン3世の住まうチュイルリ宮と高級住宅街であるフォブール・サン=トノレとの中間に所在するパレ=ロワイヤル劇場で行われた。1784年にオープンしたこの劇場には、オッフェンバックが贔屓にした歌手ジュルマ・ブファール (Zulma Bouffar) を含む実力派の役者や歌い手が所属していたためである5)1841年生まれのブファールはオッフェンバックの愛人でもあり、初演時に手袋屋ガブリエル役で出演している。

ジュルマ・ブファールナダールによるジュルマ・ブファールの肖像

オペレッタ『パリの生活』は当初5幕から構成されたが、1873年9月25日に上演された改訂版からは4幕となった6)ただし1961年サドラーズ・ウェルズ劇場(ロンドン)などのように5幕で上演される機会もある。。コミカルな楽曲や劇中の華やかなワルツやギャロップ、カンカンは、ユーモラスなストーリーと相まって、フランス第二帝政の陽気さ・活気の象徴とされる。『パリの生活』はオッフェンバックの代表作とされ、1938年マニュエル・ロザンタルによって編曲されたバレエ音楽『パリの喜び』(Gaîté parisienne) にも多くの曲目が収録された。

上演歴 | Discography

  • 1991 : 於リヨン・オペラ座/演出アラン・フランソン/指揮ジャン=イヴ・オソンス/リヨン国立歌劇場管弦楽団、リヨン国立歌劇場合唱団 [DVD]
  • 2007 : 於リヨン・オペラ座/演出ローラン・ペリー/指揮セバスティアン・ルーラン/リヨン国立歌劇場管弦楽団、リヨン国立歌劇場合唱団 [DVD]

参考文献 | Bibliography

  1. Jean-Claude Yon, Jacques Offenbach, Paris : Gallimard, 2000.
  2. Joël-Marie Fauquet (dir.), Dictionnaire de la musique en France au XIXe siècle, Paris : Fayard, 2003.
  3. Vie parisienne, La | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.O009631]
  4. Création de La Vie parisienne d’Offenbach (FranceArchives) [https://francearchives.fr/commemo/recueil-2016/38993]
  5. La Vie Parisienne – Opérette Théâtre Musical [http://www.operette-theatremusical.fr/2015/11/29/la-vie-parisienne]
  6. アンヌ・マルタン=フュジエ(前田清子ほか訳)『優雅な生活 : 「トゥ=パリ」、パリ社交集団の成立1815-1848』新評論、2001年。

Notes   [ + ]

1. 1866年版ではモンパルナス駅、1873年版ではサン=ラザール駅がモデルとされている。
2. 19世紀フランスにおける鉄道網の発達については次の文献を参照。北河大次郎『近代都市パリの誕生:鉄道・メトロ時代の熱狂』河出書房新社、2010年。
3. 今日もインターコンチネンタルホテル傘下として営業を続けているル・グランド=オテルは1861年、銀行家ペレル兄弟の投資により実現した。イザークとエミールの二人はサン=シモン主義の経済思想に基づき、世界初の個人向け金融機関である「クレディ・モビリエ」(動産銀行)を設立、皇帝ナポレオン3世の支持と相まって、土建や鉄道などといった成長部門に対する積極的な投資を行い、国内産業の発展に貢献した。フランス第二帝政下の金融とサン=シモン主義については次の文献を参照。中川洋一郎『暴力なき社会主義?:フランス第二帝政下のクレディ・モビリエ』学文社、2004年。
4. アレヴィ家は文化人の一門として有名な家系。リュドヴィクの叔父ジャック・アレヴィはオッフェンバックに作曲を教えた張本人。またリュドヴィクの子エリー・アレヴィは『哲学的急進主義の成立』で知られる哲学者、エリーの弟ダニエル・アレヴィは『名望家の終焉』などで知られる歴史家である。
5. 1841年生まれのブファールはオッフェンバックの愛人でもあり、初演時に手袋屋ガブリエル役で出演している。
6. ただし1961年サドラーズ・ウェルズ劇場(ロンドン)などのように5幕で上演される機会もある。
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