フェルナンド・ソル

フェルナンド・ソル

生 : 1778年2月13日(スペイン帝国、バルセロナ)/没 : 1839年7月10日(フランス王国、パリ)

フェルナンド・ソル (Fernando Sor) はスペイン出身の作曲家、ギタリスト。代表作に「モーツァルトの『魔笛』の主題による変奏曲」、「大ソナタ ハ長調」などがある。

生涯 | Biography

スペインにおける前半生

フェルナンド・ソルは1778年2月13日、カタルーニャ地方のバルセロナで裕福な家庭に生まれ、翌14日に洗礼を受けた。少年時代から音楽への関心を示したソルは、モンセラット修道院の聖歌隊学校である「エスコラニア少年合唱団」で教育を受けた。父の死に伴い聖歌隊学校への在学が困難となったため、18歳から4年間、貴族の伝統に従いバルセロナの陸軍士官学校で訓練を受けた。

ソルは1799年マドリッドに移住し、1808年まで居住。同地やマラガ周辺で聖職に携わりながら音楽活動を続けた。ソルの最初のオペラ『カリプソ島のテレマコス』(Telemaco nell’isola di Calipso) は、1796年バルセロナのサンタ・クルズ劇場で初演、同じ劇場で続く2年間に15回上演と成功を収めた。

オペラ『カリプソ島のテレマコス』の成功はソルが裕福なパトロンに恵まれる要因をなした。続くオペラ『ドン・トラストゥリオ』(Don Trastulio) はマドリッドのアルバ公妃マリーア・カイエターナ・デ・シルバのために作られたが、公妃の早逝のため1802年に放棄された1)アルバ公妃は芸術家の庇護者として知られる人物で、画家フランシスコ・デ・ゴヤのパトロンにもなっている。。その後ソルはメディナセリ公に仕えながらメロドラマを書いた。

1808年、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍によるスペイン侵攻を受けて、国王カルロス4世は退位を余儀なくされた。続いて即位した子のフェルナンド7世もフランスによって廃位され、スペインはナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトの統治する所となった。これを受けて、ソルは対仏戦争に従軍、『勝者よ来たれ』(Venid, vencedores) 、『鉄鎖に繋がれ生きる』(Vivir sin cadenas) などといった愛国的な軍歌を作曲した。いずれも作詞はファン・バウティスタ・アリアザ。しかしながら1810年、ジョゼフ・ボナパルトがカディスを除くスペイン全土を支配すると、他の多くのスペイン知識層と同様にソルもフランスに下り、政府系のポストを得た。そのためフランスが1813年にスペインから撤退すると、ソルも亡命を余儀なくされ、二度と祖国の地を踏むことはなかった。

パリにおける活躍

亡命後、ソルはパリ、続いて1815年からロンドンに移住し、ギターの教育や演奏で生計を立てた。1822年、ソルは王立音楽アカデミーの名誉会員となる。ロンドンでは4つのバレエ曲が1821年から1823年にかけて演奏され、中でも1822年の『サンドリヨン』(シンデレラ)は大きな成功を収めた。その初日は著名な踊り子マリア・メルカンドッティ (Maria Mercandotti) の英国における最初の成功でもあった。『サンドリヨン』はパリのオペラ座で100回以上上演され、1823年モスクワのボリショイ劇場のオープニング演目に選ばれた。モスクワにおいてソルは上流社交界から好意的に受け入れられ、1825年の皇帝アレクサンドル1世崩御の際は葬送行進曲の作曲を依頼された。この曲は幻想曲第6番『告別』として、サンクト・ペテルブルクにおいて演奏された。その他にモスクワ、ベルリン、ワルシャワといったヨーロッパの諸都市で演奏活動を行っている。

こうして諸国を転々とした後、1826年にソルはパリへ戻り、モスクワ滞在中に構想した6つのギター曲を発表。1830年には『ギターのための方法』を出版するなど、同地で終生ギターの演奏や教育に専念した。当時のパリではフェルディナンド・カルッリやディオニシオ・アグアドといったヴィルトゥオーソ(巨匠)の活躍により、ギターの人気が上昇していた。パリにおいてソルはサン=トノレ街に居住し、スペイン亡命者と交流を続けたという。

ソルの晩年は幸福とは言えないものだった。1837年の夏に最愛の娘を亡くしたことは作曲家を悲観させた。二年後の1839年、ソルは舌癌により死去。パリのモンマルトル墓地に埋葬された2)位置は24区1番。

フェルナンド・ソルの墓

フェルナンド・ソルの業績はオペラやバレエ曲など多岐に渡るが、中でも彼の名を不朽としたのはギター曲によってである。ソルが生きていた当時ギターは高尚な楽器とは見なされず、オーケストラには相応しくないと考えられていた。しかしながらソルはこの固定観念に逆らい、彼の作曲した65のギター曲は現在でもクラシックギターのレパートリーの主要部分をなしている。ソルはギターをコード伴奏のみならず、主旋律のメロディにも起用した。その作風はハイドンやモーツァルトを参考にしたものであり、ベルギーの音楽評論家フランソワ=ジョゼフ・フェティスはソルをして「ギターのベートーヴェン」と呼んだ。

しかしながらソルの死後、彼の曲は散逸し、一時は忘却されてかけていた。再評価のきっかけを作ったのは20世紀を代表するスペインのギタリスト、アンドレス・セゴビアである。ソルの『ギターのための方法』は今日でもカルカッシと並んで初学者がまず手に取る教則本として普及している。

作品一覧 | Works

ギター曲

  • Op. 1 6つのディヴェルティメント 1813
  • Op. 2 6つのディヴェルティメント 1813
  • Op. 3 変奏曲とメヌエット 1816
  • Op. 4 幻想曲第2番 イ長調 1814
  • Op. 5 6つの小品 1814
  • Op. 6 12の練習曲 1815
  • Op. 7 幻想曲第2番 ハ長調 1814
  • Op. 8 6つのディヴェルティメント 1818
  • Op. 9 モーツァルトの『魔笛』の主題による変奏曲 1821
  • Op. 10 幻想曲第3番 ヘ長調 1816
  • Op. 11 2つの変奏曲と12のメヌエット 1821
  • Op. 12 幻想曲第4番 ハ長調 1821
  • Op. 13 6つのディヴェルティメント 1819
  • Op. 14 グラン・ソロ ニ長調 1822
  • Op. 15a スペインのフォリアとメヌエット 1810/22
  • Op. 15b ソナタ ハ長調 1810/22
  • Op. 15c 変奏曲 ハ長調 1810/22
  • Op. 16 幻想曲第5番、あるいはパイジエッロによる『もはや私の心には感じない』の主題による変奏曲 1819
  • Op. 17 6つのワルツ 1823
  • Op. 18 6つのワルツ 1823
  • Op. 19 『魔笛』の主題による6つのアリア 1824
  • Op. 20 前奏曲および変奏曲 1824
  • Op. 21 幻想曲第6番『告別』 1825
  • Op. 22 グラン・ソナタ ハ長調 1825
  • Op. 23 ディヴェルティメント第5番 ニ長調 1825
  • Op. 24 8つの小品 1826
  • Op. 25 グラン・ソナタ ハ長調 1827
  • Op. 26 『もしも私が羊歯ならば』による変奏曲 1827
  • Op. 27 『粋な軽騎兵』による変奏曲 1827
  • Op. 28 『マールボロは戦場に行った』による変奏曲 1827
  • Op. 29 12の練習曲 1827
  • Op. 30 幻想曲と華麗なる変奏曲 1828
  • Op. 31 24の練習曲 1828
  • Op. 32 6つの小品 1828
  • Op. 33 3つの社交的小品 1828
  • Op. 34 ディヴェルティメント『励まし』 1828
  • Op. 35 24の練習曲 1828
  • Op. 36 3つの社交的小品 1828
  • Op. 37 セレナーデ ホ長調 1829
  • Op. 38 ディヴェルティメント ト長調 1829
  • Op. 39 6つのワルツ 1830
  • Op. 40 幻想曲と『美しいドゥーン川の岸辺』の変奏曲 1829
  • Op. 41 二人の友 1830
  • Op. 42 6つの小品 1830
  • Op. 43 6つのバガテル 1831
  • Op. 44a 24の練習曲 1831
  • Op. 44b 6つのワルツ 1831
  • Op. 45 6つの小品『やってみましょう』 1831
  • Op. 46 幻想曲『友情の思い出』 1831
  • Op. 47 6つの小品 1832
  • Op. 48 6つの小品『これでよろしいか』 1832
  • Op. 49 軍隊風ディヴェルティメント 1832
  • Op. 50 カプリソ『静けさ』 ト長調 1832
  • Op. 51 6つのワルツ『ついにやった』 1832
  • Op. 52 幻想曲 1832
  • Op. 53 第一歩 1833
  • Op. 54a 演奏会用小品 1832
  • Op. 54b 幻想曲 1833
  • Op. 55 3つの易しいデュエット 1833
  • Op. 56 ベルリン夜会の思い出 18??
  • Op. 57 6つのワルツとギャロップ 1834
  • Op. 58 易しい幻想曲 ハ短調 1835
  • Op. 59 悲歌的幻想曲 ホ長調 1836
  • Op. 60 25の練習曲 1837
  • Op. 61 3つの易しいデュエット 1837
  • Op. 62 ディヴェルティメント ホ長調 1837
  • Op. 63 ロシアの思い出 1837

オペラ

  • カリプソ島のテレマコス 1797
  • ドン・トラストゥリオ inc.

バレエ音楽

  • スミルナの市 1821
  • Le Seigneur généreux 1821
  • サンドリヨン 1822
  • アルフォンスとレオノール 1823
  • ヘラクレスとオンファレ 1826
  • シチリアーナ 1827
  • ハサンとカリフ 1828

参考文献 | Bibliography

  1. Brian Jeffery, Fernando Sor. Composer and Guitarist, London, 1977.
  2. Sor [Sors], (Joseph) Fernando (opera) | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.O904759]
  3. Sor [Sors], (Joseph) Fernando | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.26246]
  4. Fernando Sor | Spanish Romantic performer, composer, and teacher of guitar | Britannica.com [https://www.britannica.com/biography/Fernando-Sor]
  5. Fernando Sor biography – Tecla Editions [https://tecla.com/fernando-sor-life-and-music]

Notes   [ + ]

1. アルバ公妃は芸術家の庇護者として知られる人物で、画家フランシスコ・デ・ゴヤのパトロンにもなっている。
2. 位置は24区1番。

マッテオ・カルカッシ

マッテオ・カルカッシ

生 : 1792年(トスカーナ大公国、フィレンツェ)/没 : 1853年1月16日(フランス帝国、パリ)

マッテオ・カルカッシ (Matteo Carcassi) はイタリア出身の作曲家、ギタリスト。今日における標準的なクラシックギターの奏法を確立した人物として知られる。代表作に「ギターのための完全な方法」、「25の練習曲集」などがある。

生涯 | Biography

マッテオ・カルカッシは1792年頃、当時トスカーナ大公国領であったフィレンツェで生まれたとされる。少年時代よりギターを学び、ナポレオン戦争では兵士として従軍した。

ナポレオン・ボナパルトは1814年に失脚し、フランスではブルボン家による王政が復活した。カルカッシは1816年よりパリに移り住み、退役軍人として年金を受給しながら、主としてフランスで音楽活動を行った。当時パリではフェルディナンド・カルッリがギターの「巨匠」(ヴィルトゥオーソ)として名声を得ていた。そうした中、カルカッシは1814年から1816年にかけて刊行されたフランチェスコ・モリーノ (Francesco Molino) による『新しいギター教則』を購読しながら、独自のギター曲を模索していた。

カルカッシは1820年頃からパリのフォブール・モンマルトルに近いグランジュ=バトリエール街9番地に落ち着き、自作曲の出版を始めた。カルカッシの作品は友人の音楽出版者アントワーヌ・メッソニエによって作品番号が付され、主としてパリで出版された。

カルカッシは諸外国の演奏旅行にも精を出した。1822年のロンドンでの成功を皮切りに、1823年、1826年にもロンドンを再訪、1828年にはアーガイル・ルームで演奏会を行っている。また1824年にドイツへ、1836年にはイタリアへ赴き、複数の都市で演奏会を行った。カルカッシは1853年1月16日、パリで亡くなった。

カルカッシはその生涯の中で80ほどのギター曲を残した。その中にはフランソワ・オーベールやフェルディナン・エロルド、ジョアキーノ・ロッシーニのオペラを元にした変奏曲も含まれる。

カルカッシのギター曲は、同時代に活躍したフェルナンド・ソルやマウロ・ジュリアーニの作品に比べると曲としての深みや構造の複雑さという点では劣るものの、カルカッシの代表作「ギターのための完全な方法」(作品番号60)に付された著者による緒言には次のように記されている。

 私がこの教則を作成したのは、学術的な著作を上梓する意図からではない。私が望むのは、この楽器に関する全ての能力を深めることを可能にする最も単純にして明快、かつ正確な方法に基づいた手引きを用いることで、ギターの練習をより容易にすることだけである1)Matteo Carcassi, Méthode complète pour la guitare, Mainz, 1924 (1re éd., 1836), p. 1.

この文言の示す通り、本作品は芸術性が高いと同時に明快かつ演奏が容易であることから、19世紀を代表するギター教則とされるだけでなく、日本では『カルカッシ・ギター教則本』と題され、現代でも初学者がクラシックギターを練習する際にまず手にする教本として普及している。左足を台に乗せ、その膝の上でギターを構えるという現在の標準的な奏法を普及させたのも彼の功績であり、カルカッシがギター音楽史に残した功績は大きい。

作品一覧 | Works

ギター曲(欠番は散逸)

  • Op.1 – 3つのソナチネ 3 Sonates
  • Op.2 – 3つの華麗なロンド Trois Rondo Pour Guitare ou Lyre
  • Op.3 – ギターとリュートのための12の小品 Douze petites pièces Pour Guitare ou Lyre
  • Op.4 – 6つのワルツ 6 Valses
  • Op.5 – 蝶々Le nouveau Papillon, ou Choix d’Airs faciles et soigneusement doigtés
  • Op.6 – Introduction avec Huit Variations et un Finale Sur le Duo de la Capricciosa Corretta
  • Op.7 – Au clair de la lune, Chanté dans Les Voitures Versées. Varié
  • Op.8 – Étrennes aux Amateurs ou Nouveau Recueil de Six Contredanses Françaises
  • Op.9 – Trois Airs Italiens Variés pour Lyre ou Guitare
  • Op.10 – Amusement ou Choix de 12 Morceaux faciles et soigneusement doigtés
  • Op.11 – Recueil de 10 petites Pièces
  • Op.12 – Trois Thèmes variés
  • Op.13 – 4 Potpourris des plus jolis Airs de opéras de Rossini
  • Op.14 – Mélange de vingt morceaux facile & soigneusement doigté & composé pour la guitare
  • Op.15 – Tra la la. Air Varié
  • Op.16 – 8 Divertissements
  • Op.17 – ジャン=ジャック・ルソーの夢 Le Songe de J.J. Rousseau. Air varié
  • Op.18 – 6 Airs variés d’une exécution brillante et facile
  • Op.19 – Fantaisie sur les plus jolis Airs de l’opéra Robin des bois (Der Freischütz)
  • Op.20 – Air suisse varié
  • Op.21 – Les Récréations des Commançans ou Choix de 24 petites Pièces très faciles
  • Op.22 – Air écossais de l’opéra La Dame blanche
  • Op.23 – 12のワルツ Douze Valses
  • Op.24 – Air des Mystères d’Isis
  • Op.25 – 2e recueil de 8 Divertissements … Accordée en Mi majeur
  • Op.26 – 6つのカプリス Six Caprices
  • Op.27 – Variations brillantes sur un thème allemand
  • Op.28 – 2 Airs de ballet de l’opéra Moïse (Rossini), arrangés pour piano et guitare n°1 et n°2
  • Op.31 – Variations brillantes pour la guitare sur un thème de la Cenerentola6 Fantaisies sur des motifs d’opéras favorisOp.33 – No. 1. La Muette de Portici
  • Op.34 – No. 2. Le Comte Ory
  • Op.35 – No. 3. La Fiancée
  • Op.36 – No. 4. Guillaume Tell
  • Op.37 – No. 5. Fra Diavolo
  • Op.38 – No. 6. Le Dieu et la Bayadere
  • Op.40 – Fantaisie sur des motifs de l’opéra Zampa
  • Op.41 – Rondoletto pour la guitare sur l’air favori Clic clac
  • Op.43 – Mélange sur des motifs de Zampa (Hérold), pour piano et guitare
  • Op.44 – 3 Airs suisses variés
  • Op.45 – Fantasie Sur les motifs du Serment, de D.F.E. Auber
  • Op.48 – Fantasie Sur les motifs du Pré aux Clercs, de F. Herlod
  • Op.49 – Fantasie Sur les motifs de Gustave ou le Bal masqué de D.F.E. Auber
  • Op.52 – Walse favorite du Duc de Reichstadt variée pour la guitare
  • Op.53 – Deux Quadrilles de Contredanse, deux Walses et deux Galops
  • Op.54 – Récréations musicales
  • Op.55 – Valses brillantes à l’espagnole
  • Op.56 – Adieu à la Suisse, air varié
  • Op.57 – Fantasie Sur les motifs de Cheval de Bronze, de D.F.E. Auber
  • Op.59 – ギターのための完全な方法 Méthode complète
  • Op.60 – 25の練習曲集 25 Études mélodiques et progressives. 1re Suite de la Méthode
  • Op.62 – Mélange sur Sarah de Grisar
  • Op.64 – Fantaisie sur des motifs du Postillon de Longjumeau d’Adam
  • Op.67 – Mosaïque pour la Guitare sur les motifs favoris de l’opéra Le domino noir
  • Op.68 – Choix des plus Jolies Valses de Strauss et de Labitzky arrangées pour la guitare
  • Op.69 – Mélange pour la guitare sur les Airs favoris du Lac des Fées
  • Op.70 – Mélange pour la guitare sur les Airs de Zanetta, Opéra de D.F.E. Auber
  • Op.71 – Fantaisie sur l’opéra Les Diamants de la Couronne de D.F.E. Auber
  • Op.73 – Fantaisie sur les motifs de La part du diable, Opéra de D.F.E. Auber
  • Op.74 – Mélange pour la guitare sur des Thèmes favoris de La sirène, Opéra de D.F.E. Auber
  • Op.76 – Fantaisie (La Barcarolle)
  • WoO – Variations sur la romance les Laveuses du Couvent
  • WoO – Récréations musicales de H. Herz, Rondeaux, Variations et Fantaisies sur 24 thèmes favoris. En 4 suites n°1, n°2, n°4
  • WoO – Variations sur un thème de Weigl de “La Famille Suisse”

参考文献 | Bibliography

  1. François-Joseph Fétis, Biographie universelle des musiciens et bibliographie générale de la musique, t. 3, Bruxelles, 1837, p. 46.
  2. Mauro Mariottini, « Matteo Carcassi Un aggiornamento bio-bibliografico », Il Fronimo, n° 108, ottobre 1999.
  3. Carcassi, Matteo | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.44516]
  4. Matteo Carcassi (c. 1792-1853) biography – Tecla Editions [https://tecla.com/matteo-carcassi/matteo-carcassi/]

Notes   [ + ]

1. Matteo Carcassi, Méthode complète pour la guitare, Mainz, 1924 (1re éd., 1836), p. 1.

ルイ・デュレ

ルイ・デュレ

生 : 1888年5月27日(フランス共和国、パリ)/没 : 1979年7月3日(フランス共和国、サントロペ)

ルイ・デュレ (Louis Durey) はフランスの作曲家。「フランス6人組」の一人。

生涯 | Biography

独学から6人組へ

ルイ・デュレは1888年、活版印刷業を営む中産階級の子として、パリ6区のサン=ジェルマン=デ=プレ地区で生まれた。彼が作曲家になることを決意したのは1907年、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』を聴いたことがきっかけだという。若きデュレは当時スコラ・カントルムで教鞭を執っていたレオン・ド・サン=レキエ (Léon de Saint-Réquier) に弟子入りし、1910年から1914年にかけてソルフェージュや和声、対位法、フーガなどを学んだ。

ルイ・デュレの生涯を決定づける特徴に、正規の音楽学校を一切経験していない点がある。デュレが1908年に卒業したのは、パリの経済系グランゼコール「HEC経営大学院」だった1)「グランゼコール」(Grande école) とはフランスに特有の高等教育機関。通常の大学よりも難関かつ実学重視であり、卒業後は官僚や企業幹部の地位が約束される。。彼は作曲を独学に近い形で習得したのである。

デュレは1914年より作曲を開始する。作風は当初ドビュッシーの影響を強く受けた印象派風のものであったが、シェーンベルクの『架空庭園の書』などといった無調音楽に衝撃を受け、次第に前衛的な作風に傾いていく。

デュレは1917年に初の公演を行い、自作曲『カリヨン』をエリック・サティに捧げた。サティはこの曲に強い印象を受け、デュレをジョルジュ・オーリックアルテュール・オネゲルとともに「我らが新しい若者」と呼んだ。

まもなくデュレら3名はダリウス・ミヨー、ジェルメーヌ・タイユフェール、フランシス・プーランクと合流し、「フランス6人組」(Les Six) として活動を行う。「6人組」という名称は1920年に批評家・音楽家のアンリ・コレ (Henri Collet) が命名したものであり、中でもデュレは最年長であった。しかしながら早くも1921年、ジャン・コクトーより依頼を受けて6人組が制作したバレエ『エッフェル塔の花嫁花婿』において、デュレは参加を見送る。デュレにとって新しいキャリアの模索が始まろうとしていた。

前衛音楽から政治活動へ

一次大戦後、ルイ・デュレはブレーズ・サンドラール、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラックなどといった新しい世代の芸術家たちと関係を持った。彼もまた、大戦後の好景気に裏打ちされた華やかなパリにおける「狂乱の20年代」(Les Années folles) の中で芸術活動を行ったのだ。とりわけ現代詩への関心からアンドレ・ジッド、サン=ジョン・ペルス、ギヨーム・アポリネール、ステファヌ・マラルメ、ジャン・コクトー、ポール・エリュアールといった詩人の作品に親しみ、彼らの詩に音楽を付した。

同時に、デュレは作曲活動の傍らで『ル・クーリエ・ミュジカル』、『ミュージカル・ニュース・アンド・ヘラルド』といった音楽雑誌に批評記事を執筆するなど、文筆にも精を出す。その後デュレは1929年から37年にかけて、しばしの休止期間として音楽活動の頻度を下げてゆく。

代わってデュレの生涯を特徴付けたのは政治活動である。全体主義や計画経済の伸長といった時代状況を受けて、デュレは1936年、フランス共産党および人民音楽連盟 (Fédération Musicale Populaire) に加入する。人民音楽連盟はファシズムへの対抗を目的として1935年に成立し、左派の人民戦線に合流した音楽家団体。のちデュレは連盟の総書記に就任する。

第二次世界大戦の敗北によりフランスがドイツの占領下に置かれると、デュレはファシズムに対抗する歌を作曲するなど、対独レジスタンス活動において音楽家たちの指導的立場を取った。

デュレは戦後も文筆や政治活動に携わった。1950年代、フランス共産党の機関紙『リュマニテ』や『ス・ソワール』、ルイ・アラゴンによる共産党の文芸誌『レ・レットル・フランセーズ』などに寄稿している。1948年にフランス進歩主義音楽家協会 (Association française des musiciens progressistes) を創設し、副議長となった。また1956年からは人民音楽連盟の議長を務めた。

こうしたデュレの政治参加は音楽活動にも影響した。プロ向けではなくアマチュア合唱団を歌い手として想定したカンタータの作曲はその顕著な現れであり、また、1949年の平和擁護世界大会の記録映画『白鳥』(監督:ルイ・ダカン)の制作にも携わった。さらに翌1950年にはパリのサル・プレイエルで毛沢東の詩に基づくカンタータ『長征』を上演、音楽の主題も明確に政治性を帯びることとなった。

デュレは1961年より南仏コート=ダジュールの高級リゾート地であるサン=トロペに居住。日光に恵まれた地中海性の温暖な気候の中で晩年を過ごし、1979年に亡くなった。

作品一覧 | Works

  • Op. 1 – 2つの無伴奏合唱曲 Deux choeurs à cappela (1914)
  • Op. 2 – ヴェルレーヌの3つの詩 Trois poèmes de Verlaine (1914)
  • Op. 3 – ジャメの5つの詩 Cinq poèmes de Francis Jammes (1914)
  • Op. 4 – 歌の捧げもの L’offrande lyrique (1914)
  • Op. 5 – ユリアンの航海 Le voyage d’Urien (1916)
  • Op. 6 – ピアノ三重奏曲 Trio avec piano (1916-1917)
  • Op. 7 – Carillons et Neige (1916-1918)
  • Op. 7a – 2つの小品 Deux pièces (1918)
  • Op. 8 – 礼讃 Elogues (1916-1917)
  • Op. 9 – サーカスの風景 Scènes de cirque (1917)
  • Op. 10 – Quartet à cordes (1917)
  • Op. 11 – クルゾエへの心象 Images à Crusoé (1918)
  • Op. 12 – ユディット Judith (1918)
  • Op. 13 – テオクリトスのエピグラム Epigrammes de Théocrite (1918)
  • Op. 14 –
  • Op. 15 – ペトロニウスの3つの詩 Trois poèmes de Pétrone (1918)
  • Op. 16 – 蜜柑の木に彫られた碑文 Inscriptions sur un oranger (1918)
  • Op. 17 – 動物詩集 Le bestiaire ou cortège d’orphée (1919)
  • Op. 18 – 小品 Pièce (1919)
  • Op. 19 – Quartet à coredes n. 2 (1919-1922)
  • Op. 20 – 2つのロマンティックな歌 Deux lieder romantiques (1919)
  • Op. 21 – 2つの無言歌 Deux romances sans paroles (1919)
  • Op. 22 – 6つのマドリガル Six madrigaux de Mallarmé (1919)
  • Op. 23 – バスク地方の歌 Chansons Basques (1919)
  • Op. 24 – 海の底の春 Le printemps au fond de la mer (1920)
  • Op. 25 – Sonatine en fa mineur (1920)
  • Op. 26 – 3つの前奏曲 Trois préludes (1920)
  • Op. 27 – 田園詩曲 Pastorale (1920)
  • Op. 28 – 前奏曲と哀歌 Prélude et élégie (1921)
  • Op. 29 – 2つの練習曲 Deux études (1921)
  • Op. 30 – 青麦 Le blé en herbe (1921-1926?)
  • Op. 31 – ポール・ヴァレリーの3つの詩 Trois poèmes de Paul Valéry (1921-1923)
  • Op. 32 – 監房のカンタータ Cantate de la prison (1922-1923)
  • Op. 33 – グルモンの3つの詩 Trois poèmes de Rémy de Gourmont (1922)
  • Op. 34 – 機会 L’Occassion (1923-1925)
  • Op. 35 – Dix inventions (1924-1927)
  • Op. 36 – Trois Sonatines (1926)
  • Op. 37 – 3つの四部合唱曲 Trois quatuors vocaux (1926-1927)
  • Op. 38 – 生け簀 La vivier (1927)
  • Op. 39 – Quartet à cordes n. 3 (1927-1928)
  • Op. 40 – 夜想曲 Nocturne (1928)
  • Op. 41 – 10のインヴェンション集 Dix inventions (1929-1930)
  • Op. 42 – 果樹園 Verger (1931-1932)
  • Op. 43 – 幸せな眠りのための祈り Prière pour dormir heureux  (1933/1964)
  • Op. 44 – 侵入者 L’Intruse (1933)
  • Op. 45 – モレアスの4つの解 Quatre stances de Moréas (1935)
  • Op. 46 – 子どもの暦 Calendrier des enfants  (1937/1964)
  • Op. 47 – 真夜中の4つの詩 Quatre poèmes de minuit (1944)
  • Op. 48 – オラドゥール Oradour (1944)
  • Op. 49 – 夫人の家庭 Feu la mère de madame (1945)
  • Op. 50 – 建築家たち Les constructeurs (1947)
  • Op. 51 –
  • Op. 52 – 武器を取れ! Aux armes ! (1947)
  • Op. 53 – 幻想協奏曲 Fantasie concerante (1947)
  • Op. 54 – 自由の闘士たちの歌 Chant des combattants de la liberte (1948)
  • Op. 55 – 3つの音楽的な歌 Trois chansons musicales (1948)
  • Op. 56 – 氷河の洞穴 La grotte aux glaçons (1948)
  • Op. 57 – 戦争と平和 La guerre et la paix (1949)
  • Op. 58 – 人生の戦い La bataille de la vie (1949)
  • Op. 59 – 長征 La longue marche (1949)
  • Op. 60 – 民に普く平和を Paix aux hommes par millions (1949)
  • Op. 61 – 4月28日 28 avril (1950)
  • Op. 62 –
  • Op. 63 – 鳩の翼の上で Sur l’aile de la colombe  (1950)
  • Op. 64 – 飢えし者のストライキ Grève de la faim(1950)
  • Op. 65 – 歌う南方の女 Une femme du sud chante (1950)
  • Op. 66 –
  • Op. 67 –
  • Op. 68 –
  • Op. 69 – ホーチミンの2つの詩 Deux poèmes de Ho-Chi-Minh (1951)
  • Op. 70 – 4つの闘争の歌 Quatre chants de lutte pour la jeunesse republicaine de France (1951)
  • Op. 71 –
  • Op. 72 – 朝鮮農夫の歌 Chant des partisans coréens  (1952)
  • Op. 73 – ベン・アリのカンタータ Cantate à Ben Ali (1952)
  • Op. 74 – エリュアールの3つの詩 Trois poèmes de Paul Eluard (1952-1953)
  • Op. 75 – 2つの秋の小品 Six pièces de l’automne (1953)
  • Op. 76 – 遠洋漁業 Grande pêche (1954)
  • Op. 77 – 呉越同舟 Des hommes comme les autres (1955)
  • Op. 78 – イル=ド=フランス Ile-de-France (1955)
  • Op. 79 – Trio-Sérénade « A la mémoire de Béla Bartók » (1955)
  • Op. 80 –
  • Op. 81 –
  • Op. 82 – 10の仕事の合唱曲 10 choeurs de métiers (1956-1957)
  • Op. 83 – Concertino (1956-1957)
  • Op. 84 –
  • Op. 85 –
  • Op. 86 –
  • Op. 87 –
  • Op. 88 –
  • Op. 89 –
  • Op. 90 –
  • Op. 91 –
  • Op. 92 –
  • Op. 93 –
  • Op. 94 – 3つの多声合唱曲 Trois polyphonies (1963)
  • Op. 95 – 1963年のスペイン España 63 (1963)
  • Op. 96 – Les soirées de Valfère (1963)
  • Op. 97 – 交響的楽章 Mouvement symphonique (1964)
  • Op. 98 –
  • Op. 99 –
  • Op. 100 –
  • Op. 101 –
  • Op. 102 –
  • Op. 103 –
  • Op. 104 – 薔薇と愛のカンタータ Cantate de la rose et de l’amour (1965-1966)
  • Op. 105 – 小交響曲 Sinfonietta (1965-1966)
  • Op. 106 – Octophonies (1965)
  • Op. 107 – Divertissement (1967)
  • Op. 108 – 消せぬ思い Obsession (1968)
  • Op. 108a – 16の自画像 Autoportraits, 16 pièces (1967-1969)
  • Op. 109 – 3つの小品 Trois pièces (1970)
  • Op. 110 – コア坊やの格言 Le dit du petit garçon Khoa (1968)
  • Op. 111 – Nicolios et la flûte (1968)
  • Op. 112 – Interlude (1973)
  • Op. 113 – 6つのベトナムの子どもの詩 Six poèmes d’enfants vietnamiens
  • Op. 114 – Deux dialogues (1974)
  • Op. 115 – Trois pièces brèves (1974)
  • Op. 116 – 詩曲 Poème (1974)

参考文献 | Bibliography

  1. Frédéric Robert, Louis Durey. L’aîné des Six, Paris, 1968.
  2. DUREY Louis, Edmond – Maitron [http://maitron-en-ligne.univ-paris1.fr/spip.php?article23495]
  3. Durey, Louis | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.08391]
  4. Louis Durey [http://brahms.ircam.fr/composers/composer/1181/]
  5. Durey Louis (1888-1979) [https://www.musicologie.org/Biographies/d/durey_louis.html]
  6. Six, Les | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.25911]
  7. Association / Notre histoire | Association Musicale Populaire [http://amp.asso.fr/association/notre-histoire/]

Notes   [ + ]

1. 「グランゼコール」(Grande école) とはフランスに特有の高等教育機関。通常の大学よりも難関かつ実学重視であり、卒業後は官僚や企業幹部の地位が約束される。

ジャック・オッフェンバック

ジャック・オッフェンバック

生 : 1819年6月20日(プロイセン王国、ケルン)/没 : 1880年10月5日(フランス共和国、パリ)

ジャック・オッフェンバック (Jacques Offenbach) はフランスの作曲家。19世紀中葉のパリを中心に活躍し、オペレッタを確立した大衆音楽の第一人者とされる。代表作に『地獄のオルフェ』、『パリの生活』、『ホフマン物語』などがある。

生涯 | Biography

ケルンにおける少年時代

ジャック・オッフェンバックは1819年6月20日、当時プロイセン王国領だったケルンで生まれた。本名はヤーコブ・レヴィ・エーベルスト。父のイザーク・エーベルスト (Isaac Juda Eberst) はオッフェンバッハ・アム・マイン出身のユダヤ人で、1800年頃ケルンに移住し「オッフェンバッハの人」(Der Offenbacher) として名を知られていた。イザークは製本や音楽教師、作曲により生計を立て、後にケルンのユダヤ教会堂(シナゴーグ)で礼拝の主唱者を務めるなど、音楽家として活動した。

7人兄弟の末子として生まれた幼いヤーコブは初め母親よりヴァイオリンを、続いてチェロを習った。ヴァイオリン弾きである兄のユリウス、ピアノ弾きである姉のイザベラとともにトリオを組んでケルンの酒場で演奏するなど、少年時代からその才覚を現しつつあった。

パリにおける音楽修行

1833年11月、ヤーコブ・エーベルストが14歳の時に父親のイザークは彼と兄ユリウスに音楽教育を受けさせるため、二人の兄弟を連れてパリへ移住した。ヤーコブは外国人ながらその能力を認められ、厳格な校風で知られるパリ音楽院(コンセルヴァトワール)への入学を許可される。兄弟はシナゴーグの合唱団で活動したが、ほどなくしてユリウスはケルンに戻る。

パリ暮らしを始めた青年ヤーコブはフランス風に「ジャック」と呼ばれ、音楽活動を開始した。音楽家ジャック・オッフェンバックの誕生である。オッフェンバックはアンビギュ=コミック座、続いてオペラ=コミック座においてオーケストラのチェロ奏者を務める。ルイ・ノルブラン (Louis Norblin) やジャック・アレヴィ (Jacques Halévy 1)アレヴィ家は文化人の一門として有名な家系。ジャックの甥リュドヴィク・アレヴィはジョルジュ・ビゼーの協力者として『カルメン』を執筆した。リュドヴィクの子エリー・アレヴィは『哲学的急進主義の成立』で知られる哲学者、エリーの弟ダニエル・アレヴィは『名望家の終焉』で知られる歴史家である。) に師事し作曲を学んだ。

1838年にオペラ=コミック座を引退したオッフェンバックは、フリードリッヒ・フォン・フロトーの知己を得、パリ社交界のサロンに出入りするようになる。1839年1月に兄のユリウス(「ジュール」と呼ばれた)とともに最初の公演会を主催している。

チェロ奏者としての日々

青年時代のオッフェンバック

1840年代、オッフェンバックは名チェロ奏者としての地位を確立し、1843年にはケルンでフランツ・リストと共演している。私生活では1844年にカトリックへと改宗し、同年8月14日にサロンで出会ったスペインの良家の娘エルミニー・ダルカン (Herminie d’Alcain) と結婚した。夫妻は5人の子宝に恵まれた。

演奏家としてキャリアを形成する反面、オッフェンバック自身の作品は振るわなかった。オペラ=コミック座で1847年に上演された『アルコーヴ』を始めとする一連の劇作は失敗に終わり、再起を賭けて参加したアドルフ・アダンによるテアトル・ナシオナルは翌1848年閉鎖に追い込まれる。二月革命が勃発したのだ。

革命の混乱を逃れるため、オッフェンバックは一時ケルンに避難。1850年にコメディ=フランセーズの音楽監督に任命されたが、さしたる成功を収めることはできなかった。演奏者としてのみならず、自らの作品による成功を目論むオッフェンバックは、次第に自前の劇場を持つことを望むようになる。

劇場支配人としての成功

1855年、皇帝ナポレオン3世は国の威信を賭けてパリで万国博覧会を開催する。1851年にロンドンで行われた世界初の万博に赴き、会場として建築された水晶宮(クリスタル・パレス)に衝撃を受けたナポレオン3世は、イギリスへの対抗心からパリ万博では豪華絢爛な「産業の宮殿」をシャンゼリゼ通り沿いに造営する。

産業宮

これに商機を見たジャック・オッフェンバックは、万博の会期であるサマーシーズンにあわせてシャンゼリゼのマリニー劇場を買収し、7月5日にブッフ・パリジャン劇場としてリニューアルオープンした。こけら落としの演目『二人の盲人』を皮切りに、定期的に演目が変更される歌劇の小品は万博を目的に各国から訪れたブルジョワたちの間で好評を博し、興業は大成功を収めた。

この成功によりオッフェンバックはコメディ=フランセーズの音楽監督を退任し独立、1855年のウィンターシーズンの劇場としてパサージュ・ショワズル(現在のモンシニ街)のテアトル・コント座に入居する。翌1856年の冬季からシャンゼリゼを引き払い、以後はテアトル・コント座において年間を通して興行を催した。

オッフェンバックの作風は派手好きの皇帝ナポレオン3世に認められ、チュイルリ宮殿で御前上演を行う栄誉にあずかる。さらに皇帝の異父弟にしてタレーラン=ペリゴールの孫であるモルニー公もオッフェンバックの庇護者となった。モルニーはオッフェンバックの息子の名付け親にもなっている。

この頃オッフェンバックはモーツァルトの『劇場支配人』やロッシーニの『ブルスキーノ氏』の翻案を行い、1856年に青年作曲家コンクールを開催するなど、精力的に活動を行った。このコンクールの入賞者には若きジョルジュ・ビゼーとシャルル・ルコックがいた。

オペレッタの確立と最盛期

1858年10月21日初演の『地獄のオルフェ2)日本では『天国と地獄』の名称で人口に膾炙している。』は228回上演、連日満員と大成功を収め、ジャック・オッフェンバックの名を不動のものとした。フィナーレを飾るフレンチ・カンカン「地獄のギャロップ」に象徴される華々しい構成は、大規模なオペレッタの原型とされる。

地獄のオルフェ

オッフェンバックは1860年フランスに帰化し、1861年にレジオン・ドヌール勲章(シュヴァリエ)を授与された。『地獄のオルフェ』の成功で財をなしたオッフェンバックは、当時の高級住宅地であったパリのラフィット街に居を構えたほか、ノルマンディの上流階級のリゾート地として知られるエトルタに「ヴィラ・オルフェ」と称する別荘を保有した。

オッフェンバックの確立した「オペラ・ブッフ」は国外でも広く認知された。1864年『ラインの妖精』がウィーン国立歌劇場で上演され、作曲者自身が指揮を執った。彼の代表作『美しきエレーヌ』(1864)、『青ひげ』(1866)、『パリの生活』(1866)、『ジェロルステイン大公妃殿下』(1867)、『ラ・ペリコール』(1868)はこの時期に書かれている。

オッフェンバックの成功の契機が万博ならば、彼の最盛期も万博にあった。1867年のパリ万国博覧会の会期中3)1867年のパリ万博は日本が初めて参加した万博でもある。江戸幕府のほか、薩摩藩と佐賀藩が出展を行った。、オッフェンバックの作品はパリ中の劇場の演目を埋め尽くしたという。おそらくこの時オッフェンバックは彼の生涯の絶頂にあった。

栄華の終焉と晩年

しかし栄華は長く続かなかった。パリ万博から3年後、普仏戦争における屈辱的な敗戦(1870年)とそれに続く民衆蜂起(パリ・コミューン、1871年)は、パリ市民の音楽に対する嗜好を変えた。かつてオッフェンバック主催のコンクールによって見出されたシャルル・ルコックの現実逃避的な作品が大衆の人気を博する中、オッフェンバックはテアトル・ド・ラ・ゲテの支配人となるも、1874年に破産の憂き目にあう。

1870年代、オッフェンバックはファンタジックな台本を特徴とする民衆劇とオペレッタを融合させた「オペラ・フェリー」(opéra féerie) を確立、『にんじん王』や『ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン』、『月世界旅行』といった大衆劇を残した。しかしながら、最盛期の作品に比べてこれらの夢幻的オペレッタは今日まで知名度が低く、上演の機会も少ない。

かくして晩年のオッフェンバックは次第に活動の場を国外に移していく。1874年のクリスマスシーズンにはロンドンのアルハンブラ劇場のために『ウィッティントン』を書き、アメリカ独立100周年を記念するフィラデルフィア万国博覧会に際しては借金返済のためニューヨークやフィラデルフィアで演奏旅行をおこなった。

オッフェンバック最晩年の業績は『ホフマン物語』の作曲にある。彼はパリ近郊のサン=ジェルマン=アン=レの高台にある高級ホテル「パヴィヨン・アンリ・キャトル」に滞在しスコアの作成に専念したが、1880年9月、健康悪化のためパリに戻ることを余儀なくされた。翌10月、痛風に伴う心臓疾患により死去。享年61であった4)オッフェンバックの亡骸は現在、パリのモンマルトル墓地に安置されている。

アンドレ・ジルによる風刺画

ジャック・オッフェンバックの栄華はフランス第二帝政とともに訪れ、帝政の崩壊はオッフェンバックの時代を終わらせた。しかしながら、オッフェンバックは流行遅れとなることで、同時に自らの作品を古典としての地位にまで高めた。21世紀の今日、CM使用曲や番組のBGMなどを通じて彼の親しみやすいメロディを耳にしたことのない人はいない。かのロッシーニはオッフェンバックを「シャンゼリゼのモーツァルト」と呼んだ 5) 「オッフェンバック」, 日本大百科全書(ニッポニカ)。民衆に愛された歌劇の革新者の作品は人類の財産として共有され、今なお世界中で親しまれているのである。

作品一覧 | Works

オペラおよびオペレッタ

  • 1839 パスカルとシャンボール Pascal et Chambord
  • 1855 ペピート Pépito
  • 1855 マチュラン神の宝物 Le Trésor à Mathurin
  • 1855 白夜 Une nuit blanche
  • 1855 二人の盲人 Les Deux Aveugles
  • 1855 へぼなヴァイオリン弾き Le Violoneux
  • 1855 ペンポルとペリネット Paimpol et Périnette
  • 1855 バタクラン Ba-ta-clan
  • 1856 アルカザールの竜巻 Tromb-al-ca-zar ou les Criminels dramatiques
  • 1856 サン=フルールの薔薇 La Rose de Saint-Flour
  • 1856 洗礼の砂糖菓子 Les Dragées du baptême
  • 1856 66 Le Soixante-six
  • 1856 靴直しと徴税人 Le Financier et le Savetier
  • 1856 子守の女 La Bonne d’enfant
  • 1857 悪魔の三つの口づけ Les Trois Baisers du diable
  • 1857 最後の遍歴騎士クロックフェール Croquefer ou le Dernier des paladins
  • 1857 小さな竜 Dragonette
  • 1857 夜の風、あるいは恐るべき宴 Vent-du-Soir ou l’Horrible Festin
  • 1857 宝くじのお嬢さん Une demoiselle en loterie
  • 1857 提灯結婚 Le Mariage aux lanternes
  • 1857 二人の漁師 Les Deux Pêcheurs ou le Lever du soleil
  • 1858 市場の女商人たち Mesdames de la Halle
  • 1858 女に化けた雌猫 La Chatte métamorphosée en femme
  • 1858 地獄のオルフェ Orphée aux Enfers
  • 1859 追い出された亭主 Un mari à la porte
  • 1859 酒保の女 Les Vivandières des zouaves
  • 1859 ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン Geneviève de Brabant
  • 1860 雑誌のカーニバル Le Carnaval des revues
  • 1860 ダフニスとクロエ Daphnis et Chloé
  • 1860 蝶々Le Papillon
  • 1860 バルクーフ Barkouf
  • 1861 フォルチュニオの歌 La Chanson de Fortunio
  • 1861 ため息橋 Le Pont des soupirs
  • 1861 シューフルリ氏はご在宅 Monsieur Choufleuri restera chez lui le…
  • 1861 薬剤師とかつら作り Apothicaire et Perruquier
  • 1861 滑稽な小説 Le Roman comique
  • 1862 ドゥニ夫妻 Monsieur et Madame Denis
  • 1862 デュナナン父子の旅行 Le Voyage de MM. Dunanan père et fils
  • 1862 おしゃべり者 Les Bavards
  • 1862 ジャクリーヌ Jacqueline
  • 1863 ブラジル人 Le Brésilien
  • 1863 ファゴット氏 Il signor Fagotto
  • 1863 リッシェンとフリッツヒェン Lischen et Fritzchen
  • 1864 恋の歌手 L’Amour chanteur
  • 1864 ラインの妖精 Die Rheinnixen
  • 1864 ジョージアの女たち Les Géorgiennes
  • 1864 泣くジャンヌと笑うジャン Jeanne qui pleure et Jean qui rit
  • 1864 魔法使いの兵士 Le Fifre enchanté ou le Soldat magicien
  • 1864 美しきエレーヌ La Belle Hélène
  • 1865 コスコレット Coscoletto ou le Lazzarone
  • 1865 羊飼い Les Bergers
  • 1866 青ひげ Barbe-Bleue
  • 1866 パリの生活 La Vie parisienne
  • 1867 ジェロルステイン大公妃殿下 La grande duchesse de Gérolstein
  • 1867 10時間の外出 La Permission de dix heures
  • 1867 電磁気楽曲入門 La Leçon de chant électro-magnétique
  • 1867 ロビンソン・クルーソー Robinson Crusoé
  • 1868 トトの城 Le Château à Toto
  • 1868 チュリパタン島 L’Île de Tulipatan
  • 1868 ペリコール La Périchole
  • 1869 ヴェール=ヴェール Vert-Vert
  • 1869 ディーヴァ La Diva
  • 1869 トレビゾンド姫 La Princesse de Trébizonde
  • 1869 山賊たち Les Brigands
  • 1869 薔薇のロマンス La Romance de la rose
  • 1871 雪だるま Boule-de-neige
  • 1872 人参の王様 Le Roi Carotte
  • 1872 ファンタジオ Fantasio
  • 1872 黒い海賊船 Der schwartze Korsar
  • 1872 小さな花 Fleurette
  • 1873 密猟者 Les Braconniers
  • 1873 りんご娘 Pomme d’api
  • 1873 美しい香水屋 La Jolie parfumeuse
  • 1874 バガテル Bagatelle
  • 1874 オーストリア皇太子妃 Madame l’Archiduc
  • 1874 憎しみ La Haine
  • 1874 ウィッティントン Whittington
  • 1875 黄金虫 Les Hannetons
  • 1875 パン屋の女将はお金持ち La boulangère a des écus
  • 1875 月世界旅行 Le Voyage dans la Lune
  • 1875 西インド諸島の女 La Créole
  • 1875 クリーム・タルト Tarte à la crème
  • 1876 ピエレットとジャッコ Pierrette et Jacquot
  • 1876 牛乳箱 La boite au lait
  • 1877 オックス博士 Le docteur Ox
  • 1877 サン=ローランの市 La foire Saint-Laurent
  • 1878 ペロニラ先生 Maître Péronilla
  • 1878 ファヴァール夫人 Madame Favart
  • 1879 モロッコの女 La marocaine
  • 1879 鼓手隊長の娘 La fille du tambour-major
  • 1880 美しきリュレット Belle Lurette
  • 1881 ホフマン物語 Les contes d’Hoffmann
  • 1881 ムシュロン姉ちゃん Moucheron

参考文献 | Bibliography

  1. Offenbach, Jacques | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.20271]
  2. Jacques Offenbach (1819-1880) [https://www.musicologie.org/Biographies/o/offenbach_jacques.html]
  3. Jean-Claude Yon, Jacques Offenbach, Paris : Gallimard, 2000.
  4. « Jacques Offenbach », in Jean Tulard (dir.), Dictionnaire du Second Empire, Paris : Fayard, 1995.
  5. ジークフリート・クラカウアー(平井正訳)『天国と地獄 : ジャック・オッフェンバックと同時代のパリ』せりか書房1978年。
  6. 森佳子『オッフェンバックと大衆芸術:パリジャンが愛した夢幻オペレッタ』早稲田大学出版部、2014年。
  7. 横張誠『芸術と策謀のパリ : ナポレオン三世時代の怪しい男たち』講談社、1999年。

Notes   [ + ]

1. アレヴィ家は文化人の一門として有名な家系。ジャックの甥リュドヴィク・アレヴィはジョルジュ・ビゼーの協力者として『カルメン』を執筆した。リュドヴィクの子エリー・アレヴィは『哲学的急進主義の成立』で知られる哲学者、エリーの弟ダニエル・アレヴィは『名望家の終焉』で知られる歴史家である。
2. 日本では『天国と地獄』の名称で人口に膾炙している。
3. 1867年のパリ万博は日本が初めて参加した万博でもある。江戸幕府のほか、薩摩藩と佐賀藩が出展を行った。
4. オッフェンバックの亡骸は現在、パリのモンマルトル墓地に安置されている。
5.  「オッフェンバック」, 日本大百科全書(ニッポニカ)
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