ルイ・デュレ

生 : 1888年5月27日(フランス共和国、パリ)/没 : 1979年7月3日(フランス共和国、サントロペ)

ルイ・デュレ

ルイ・デュレ (Louis Durey) はフランスの作曲家。「フランス6人組」の一人。

生涯 | Biography

独学から6人組へ

ルイ・デュレは1888年、活版印刷業を営む中産階級の子として、パリ6区のサン=ジェルマン=デ=プレ地区で生まれた。彼が作曲家になることを決意したのは1907年、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』を聴いたことがきっかけだという。若きデュレは当時スコラ・カントルムで教鞭を執っていたレオン・ド・サン=レキエ (Léon de Saint-Réquier) に弟子入りし、ソルフェージュや和声、対位法、フーガなどを学んだ。

ルイ・デュレの生涯を決定づける特徴に、正規の音楽学校を一切経験していない点がある。デュレが1908年に卒業したのは、パリの経済系グランゼコール「HEC経営大学院」だった1)「グランゼコール」(Grande école) とはフランスに特有の高等教育機関。通常の大学よりも難関かつ実学重視であり、卒業後は官僚や企業幹部の地位が約束される。。彼は作曲を独学に近い形で習得したのである。

デュレは1914年より作曲を開始する。作風は当初ドビュッシーの影響を強く受けた印象派風のものであったが、シェーンベルクの『架空庭園の書』などといった無調音楽に衝撃を受け、次第に前衛的な作風に傾いていく。

デュレは1917年に初の公演を行い、自作曲『カリヨン』をエリック・サティに捧げた。サティはこの曲に強い印象を受け、デュレをジョルジュ・オーリック、アルテュール・オネゲルとともに「我らが新しい若者」と呼んだ。

まもなくデュレら3名はダリウス・ミヨー、ジェルメーヌ・タイユフェール、フランシス・プーランクと合流し、「フランス6人組」(Les Six) として活動を行う。「6人組」という名称は1920年に批評家・音楽家のアンリ・コレ (Henri Collet) が命名したものである。しかしながら早くも1921年、ジャン・コクトーより依頼を受けて6人組が制作したバレエ『エッフェル塔の花嫁花婿』において、デュレは参加を見送る。デュレにとって新しいキャリアの模索が始まろうとしていた。

前衛音楽から政治活動へ

一次大戦後、ルイ・デュレはブレーズ・サンドラール、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラックなどといった新しい世代の芸術家たちと関係を持った。彼もまた、大戦後の好景気に裏打ちされた華やかなパリにおける「狂乱の20年代」(Les Années folles) の中で芸術活動を行ったのだ。とりわけ現代詩への関心からアンドレ・ジッド、サン=ジョン・ペルス、ギヨーム・アポリネール、ステファヌ・マラルメ、ジャン・コクトー、ポール・エリュアールといった詩人の作品に親しみ、彼らの詩に音楽を付した。

同時に、デュレは作曲活動の傍らで『ル・クーリエ・ミュジカル』、『ミュージカル・ニュース・アンド・ヘラルド』といった音楽雑誌に批評記事を執筆するなど、文筆にも精を出す。その後デュレは1929年から37年にかけて、しばしの休止期間として音楽活動の頻度を下げてゆく。

代わってデュレの生涯を特徴付けたのは政治活動である。全体主義や計画経済の伸長といった時代状況を受けて、デュレは1936年、フランス共産党および人民音楽連盟 (Fédération Musicale Populaire) に加入する。人民音楽連盟はファシズムへの対抗を目的として1935年に成立し、左派の人民戦線に合流した音楽家団体。のちデュレは連盟の総書記に就任する。

第二次世界大戦の敗北によりフランスがドイツの占領下に置かれると、デュレはファシズムに対抗する歌を作曲するなど、対独レジスタンス活動において音楽家たちの指導的立場を取った。

デュレは戦後も文筆や政治活動に携わった。1950年代、フランス共産党の機関紙『リュマニテ』や『ス・ソワール』、ルイ・アラゴンによる共産党の文芸誌『レ・レットル・フランセーズ』などに寄稿している。1948年にフランス進歩主義音楽家協会 (Association française des musiciens progressistes) を創設し、副議長となった。また1956年からは人民音楽連盟の議長を務めた。

こうしたデュレの政治参加は音楽活動にも影響した。プロ向けではなくアマチュア合唱団を歌い手として想定したカンタータの作曲はその顕著な現れであり、また、1949年の平和擁護世界大会の記録映画『白鳥』(監督:ルイ・ダカン)の制作にも携わった。さらに翌1950年にはパリのサル・プレイエルで毛沢東の言葉に基づくカンタータ『長征』を上演、音楽の主題も明確に政治性を帯びることとなった。

デュレは1961年より南仏コート=ダジュルの高級リゾート地であるサン=トロペに居住。日光に恵まれた地中海性の温暖な気候の中で晩年を過ごし、1979年に亡くなった。

作品一覧 | Works

 

参考文献 | Bibliography

  1. Frédéric Robert, Louis Durey. L’aîné des Six, Paris, 1968.
  2. DUREY Louis, Edmond – Maitron [http://maitron-en-ligne.univ-paris1.fr/spip.php?article23495]
  3. Durey, Louis | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.08391]
  4. Louis Durey [http://brahms.ircam.fr/composers/composer/1181/]
  5. Durey Louis (1888-1979) [https://www.musicologie.org/Biographies/d/durey_louis.html]
  6. Six, Les | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.25911]
  7. Association / Notre histoire | Association Musicale Populaire [http://amp.asso.fr/association/notre-histoire/]

References   [ + ]

1. 「グランゼコール」(Grande école) とはフランスに特有の高等教育機関。通常の大学よりも難関かつ実学重視であり、卒業後は官僚や企業幹部の地位が約束される。