ヘンリー・パーセル

ヘンリー・パーセル

生 : 1659年9月10日(イングランド共和国、ロンドンまたはウエストミンスター)/没 : 1695年11月21日(イングランド王国、ロンドン)

ヘンリー・パーセル (Henry Purcell) はイギリスの作曲家。バロック時代、とりわけイングランド王政復古期に活躍した。代表作に『ディドとエネアス』や『アブデラザール』などがある。

生涯 | Biography

聖歌隊における音楽修行

パーセルの幼年期について語る資料は少ない。おそらくは1659年9月10日、ロンドンないしウエストミンスターで生まれたヘンリー・パーセルは、音楽家である同名の父ヘンリーと母エリザベスの6人兄弟のうち3ないし4番目の子であった。またダニエル・パーセルのいとことされる。

父はオリヴァー・クロムウェルによる共和政(コモンウェルス)時代にロンドンで活躍した音楽家で、王政復古期に「チャペル・ロイヤルのジェントルマン」と呼ばれる国王のための聖歌隊の一員となった。1661年2月16日、ウエストミンスター寺院の聖歌隊長となり、1664年8月11日に同地で亡くなっている。その後1666年にパーセルの母エリザベスはロンドンのトットヒル街に転居し、1680年までそこで暮らした。6人の子の養育を助けたのは宮廷音楽家を務める叔父のトマス・パーセルだった。

ウエストミンスター寺院ウエストミンスター寺院

少年ヘンリー・パーセルは1669年頃から1673年までチャペル・ロイヤルの聖歌隊員として、ヘンリー・クック (Henry Cooke) の下で、クックの死後1672年からはペラム・ハンフリーの下で音楽の訓練を受けた。1673年6月10日から王室の楽器を管理するジョン・ヒングストン (John Hingeston) の無給の助手となる。

聖歌隊を離れた後、パーセルはジョン・ブロウとクリストファー・ギボンズから音楽を学んだ。マシュー・ロックはパーセルの直接の師であるかは定かではないが、パーセルに大きな影響を与えたことは確かである。

王室付音楽家として

1677年、マシュー・ロックの死去に伴い、パーセルは国王の専属作曲家に就任。続いて1679年にウエストミンスター寺院のオルガニストに就任する。1682年7月14日にはチャペル・ロイヤルのオルガニストにも就任している。パーセルは王政復古期に国王チャールズ2世およびジェームズ2世へ、そして名誉革命後は新たに即位したウィリアムとメアリへ仕え、賛歌(アンセム)や頌歌(オード)、歓迎歌や戴冠式のための音楽などの作曲に従事した。

私生活では1680年、フラマン系移民の娘フランセス・ピータースと結婚している。また公職者に英国国教会への帰属を推奨する「審査法」に従い、1683年2月4日にウエストミンスターの聖マーガレット教会より聖餐証明書を得る。これによりパーセルは1683年12月、ジョン・ヒングストンの後を継いで王室の楽器管理人に就任した。

1684年、パーセルは国王チャールズ2世の命を受け、作曲家ジョン・ブロウや台本作家ジョン・ドライデンと組んで、国王の治世を称えるオペラ『アルビオンとアルバニウス』の作曲に取り掛かった。ところが彼らは後に降板となり、結局『アルビオンとアルバニウス』はフランスで音楽を学んだルイ・グラビュによって完成された。

チャールズ2世チャールズ2世

1685年のチャールズ2世崩御に際して、パーセルは葬送歌を作曲した。続く国王ジェームズ2世のカトリック信仰はパーセルの音楽家としてのキャリアに影響を与えた。パーセルの作風を気に入らなかった新国王は彼をチャペル・ロイヤルのオルガン奏者としての身分に留めはしたものの、カトリックの立場から国教会の地位は縮小されることとなった。私生活でも息子のトマスを1686年夏に亡くし、また生後間もない子ヘンリーを1687年9月に亡くすなど、私生活でも不幸が続いた。

1688~1689年の名誉革命を経て、パーセルは1690年に新国王ウィリアムとメアリの推薦によりホワイトホール宮殿における劇場の作曲家に就任する。しかしながら革命の余波により王宮における音楽活動が削減されたため、パーセルは教育や出版、あるいは一般公衆向けの演奏活動や商業的な作曲活動により生計を立てることを余儀なくされた。パーセルの次なるキャリアが始まろうとしていた。

オペラ作曲家として

パーセルが最初に劇音楽と接点を持ったのは1680年、ナサニエル・リーの悲劇『テオドシウス』の作曲である。1677年のマシュー・ロックの死はロンドンの音楽シーンに新風を吹かせる契機となったが、この『テオドシウス』はさほど話題にならなかったようである。

パーセルのオペラ作曲家としての名を今日まで不動としているのは1689年の作品『ディドとエネアス』である。1680年代に構想された『ディドとエネアス』は、パーセルの師であるジョン・ブロウのオペラ『ヴィーナスとアドニス』のプロットから多分に影響を受けながらも、イタリアやフランスの要素も取り入れた様式をとった。とはいえこの作品の来歴や初演について詳細は分かっておらず、パーセル存命中の上演で判明しているのは、チェルシーの女子寄宿学校におけるジョシアス・プリースト (Josias Priest) による1689年のものだけである。

『ディドとエネアス』はパーセルの経歴に転機をもたらした。王宮における活動を縮小した彼はオペラ作曲家としての道を本格的に歩み始めたのだ。1690年から1695年にかけて、パーセルはロンドンの興行会社「ユナイテッド・カンパニー」のために40を超える劇付随音楽を作曲した。

中でも『アーサー王、またはブリテンの守護者』は18世紀まで劇場における演目の常連としての地位を保ち続け、トマス・アーン (Thomas Arne) の編曲版が1770年にデイヴィット・ギャリックによって演じられた。『アーサー王』の成功により、パーセルは続くシーズンの演目の作曲を依頼され、『妖精の女王』を発表した。シェイクスピアの戯曲『真夏の夜の夢』を下敷きにしたこの作品は1692年5月2日にシアター・ロイヤルで初演となり、人気を博した。

シアター・ロイヤルシアター・ロイヤルのファサード(1775年)

1694年の末に起こった俳優たちの造反はパーセルのキャリアにも影響した。悪名高い劇場支配人クリストファー・リッチ (Christopher Rich) による独裁的な経営のため、トマス・ベタートン (Thomas Betterton) ら多くの俳優がリンカーンズ・イン・フィールズにあるライバルの劇場に移籍したのだ。パーセルと関係の深かった歌手も多くが辞めてしまい、シアター・ロイヤルは窮地に陥った。そうした中、経営立て直しのために計画された『インドの女王』、あるいは最晩年の傑作『アブデラザール、あるいはムーア人の復讐』など、パーセルは精力的に作曲活動を行った。

さらにパーセルは教育活動や後進の育成にも貢献した。1693年にヘンリー・プレイフォードの編集による曲集『聖なる調和』(ハルモニア・サクラ)の第2巻に複数の自作曲を寄せ、また翌1694年には、当時の標準的な教則本として普及していたジョン・プレイフォード著『音楽技術入門』第12版の編集に貢献した。1693~1694年、チャペル・ロイヤル時代の同僚であったジョン・ワルターの紹介によりジョン・ウェルドン (John Weldon) を弟子に迎えた。またロバート・ハワード卿の妻アナベラや孫娘のダイアナもパーセルの生徒であった。

1694年12月28日に女王メアリが天然痘で崩御したため、翌1695年3月5日の国葬のため、パーセルは葬送歌を作曲した。病魔は音楽家自身の身にも迫っていた。1695年のある晩、酒場から帰宅したパーセルは体調を崩し、療養を余儀なくされた。本人は死の直前まで病の深刻さに気付かなかったという。11月21日、妻のフランセスが看取る中、ヘンリー・パーセルはロンドンのマーシャム街の自宅で息を引き取った。葬儀は11月26日の午後にウエストミンスター寺院で行われた。

死後の評価

パーセルはそのキャリアの絶頂で息を引き取った。彼の死後、妻のフランセス・パーセルは1696年に『ハープシコードまたはスピネットのためのレッスン選集』を刊行している。また、ヘンリー・プレイフォードの手によって1698年から1702年にかけて出版された2巻本の『英国のオルフェウス』(オルフェウス・ブリタニクス)は1706年および1711年の第2版、1721年の第3版と版を重ねた。

ヘンリー・パーセルは英国を代表する音楽家として今日まで評価されているが、その作風は彼が生きた同時代のイギリス音楽の標準からは逸脱したものである。パーセルはイギリス音楽の伝統に根ざしながらも、彼を重用した国王チャールズ2世の好みからフランス音楽の要素を取り入れ、さらにはオペラの本場であるイタリアの様式も参照した。すなわち16・17世紀における英国風のポリフォニーを用いるのみならず、イタリアのオペラにおける声楽の様式をも取り入れたのだ。晩年におけるパーセルのオペラ作品はイタリアの影響を受けつつも、ロンドンの公衆の好みに即したスタイルが取られている。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Curtis A. Price, Henry Purcell and the London Stage, Cambridge University Press, 2009.
  2. Purcell, Henry (1659–1695), organist and composer | Oxford Dictionary of National Biography [https://doi.org/10.1093/ref:odnb/22894]
  3. Purcell, Henry | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.O002310]
  4. Henry Purcell (1659-1695) [https://www.musicologie.org/Biographies/purcell_henry.html]
1988年生まれ。東京大学文学部卒業後、同大学院進学。現在はパリ社会科学高等研究院にて在外研究中。専門は近代フランス社会政策思想史。好きな作曲家はジャン・シベリウス。Doctorant à l'Ecole des hautes études en sciences sociales, ingenieur d'études. Histoire politique et culturelle.
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