生 : 1872年7月20日(フランス共和国、サン=フェリックス=ド=カラマン)/没 : 1921年3月24日(フランス共和国、セレ)
デオダ・ド・セヴラック (Déodat de Séverac) はフランスの作曲家。南仏の風土や自然に取材した作品を多く残した。
Contents
生涯 | Biography
スコラ・カントルムの秀才として
デオダ・ド・セヴラックは1872年7月20日、南仏オート=ガロンヌ県の小村サン=フェリックス=ド=カラマン(現在のサン=フェリックス=ロラゲ)で生まれた。セヴラック家は11世紀にまで遡る由緒正しい貴族の家系で、デオダの父ジルベール・ド・セヴラックは画家であった。またスペイン・アラゴン王朝と関係の深い家系の娘である母はオルガン奏者として活動していた。少年デオダは当初この両親から音楽を学び、のち村のオルガニストであるルイ・アミエルのもとに委ねられた。南仏の大都市トゥルーズにあったドミニコ会のコレージュ(ソレーズ神学校)でピアノやオルガン、オーボエを学んだ後、1890年に父の勧めによりトゥルーズ大学の法学部に進学した。3年後、父はやはりデオダに音楽を学ばせることを決め、彼を地元の音楽学校(トゥルーズ音楽院)へ入学させた。
1896年、セヴラックはトゥルーズを離れ、パリのスコラ・カントルムに入学する。ここでセヴラックは1907年まで在籍し、アンドレ・ピロ (André Pirro) とアレクサンドル・ギルマン (Alexandre Guilmant) よりオルガンを、シャルル・ボルド (Charles Bordes) より合唱指揮を、アルベリク・マニャールとヴァンサン・ダンディより対位法と作曲を学んだ。この学校でセヴラックはイサーク・アルベニスと交流を持ち、またブランシュ・セルヴァ (Blanche Selva) 、ジョゼフ・カントルーブ (Joseph Canteloube) 、マルセル・ラベ (marcel labey) 、アルベール・ルーセル (Albert Roussel) 、オーギュスト・セリユー (Auguste Sérieyx) らと知り合った。中でもアルベニスとの関係は深く、1900年から彼の助手を務めている。またスコラ・カントルムの外でもデュカスやフォーレ、ラヴェルやドラージュといった音楽家、レオン=ポール・ファルグやジャン・モレアスといった詩人、ピカソやルドン、ファン・グリスといった画家、カルヴォコレッシなどの批評家と交友関係を持ち、ポリニャック大公妃のものを含む複数のサロンに出入りしていた。
セヴラックはスコラ・カントルム在学中より意欲的に作曲を行った。中でもピアノ曲「大地の歌」および「ラングドックにて」は彼の代表作である。1905年にはスコラ・カントルムでセヴラック作品の演奏会が催され、リカルド・ヴィニエスやブランシュ・セルヴァ 、マリ・ド・ラ・ルヴィエールといったピアニストが参加した。
さらにセヴラックは全国向けないし南仏の地方向けの新聞・雑誌への寄稿を行うなど、精力的な活動を行った。1907年、セヴラックは論文『中央集権と礼拝音楽』(La centralisation et les petites chapelles musicales) によりスコラ・カントルムを修了する。この論文で彼は、ドイツ音楽の影響から離脱するため、フランス音楽は地方独自の伝統から着想を得るべきことを主張した。
セヴラックにとって地方の伝統とは南仏ラングドック地方における地中海性の文化を意味した。セヴラックはスコラ・カントルム卒業後に地元の村へ戻り、そこで1919年まで地方議会議員を務めたほか、「オータンの風の竪琴」と称する楽団を結成した。ラテン語の altanus (海風)に由来する「オータンの風」とは、ラングドックとオクシタニー地方に向けて地中海から吹く強風のことで、南仏特有の気候を象徴する自然現象である。セヴラックは南仏気質を愛した作曲家であった。
地元を愛する南仏の名士として
セヴラックの主要作品もこの時期、彼の生まれ故郷であるサン=フェリックスの村で制作されている。『ポンパドゥール夫人へのスタンス』『日向で水浴びする女たち』『カルダーニャ』などがそれにあたる。1910年、セヴラックはルシヨンの小村セレに転居、同地でサン=ピエール教会のオルガニストを生涯に渡って務めた。この地でセヴラックが作曲した3幕からなるオペラ『エリオガバール』はベジエの円形劇場で1910年に初演され、1万3千以上もの観客数を記録した。
ベジエの円形劇場
セヴラックはオーケストラ曲の制作に際して、フラビオルやティプラ、テノーラなどからなる「コブラ」と呼ばれるカタルーニャ地方の伝統的な楽器編成を用いた。1911年、セヴラックはピアノ曲『ヴァカンスにて』および『ナヴァーラ』の制作に着手した。後者は未完のまま残されたアルベニスの遺作であったが、セヴラックが引き継いで完成させたものである。
第一次世界大戦中、応召したセヴラックは看護兵としてカルカソンヌ、ペルピニャン、サン=ポンおよびプラードと次々に配置を変えられ、3年間に渡って音楽活動の中断を余儀なくされた。ただしこの間、数曲の軍歌や愛国歌謡を作曲している。1919年1月に復員したセヴラックは戦前に着手していた作品を完成させたが、いくつかの楽譜は戦火の混乱の中で散逸してしまった。セヴラックは復員から2年後の1921年に他界したため、オラトリオ『地中海』やエミール・プヴィヨンの小説を下敷きにしたオペラ『アンティベル家の人々』といった多くの作品が未完のまま残された。セヴラックは死の前年、1920年にフランスの最高勲章であるレジオン・ドヌールのシュヴァリエを受勲している。
デオダ・ド・セヴラックはドビュッシーやラヴェル、フォーレといった音楽家と同世代に属するが、パリを拠点にした後3者に対し、彼はスコラ・カントルム卒業後に故郷の南仏に定着した。そのことも一因となりセヴラックは一般に知られているとは言い難い。しかしながら、南仏の自然や風土に取材した彼の作品は現在も世界中に根強い愛好家を有している。ウラディミール・ジャンケレヴィッチは著書『遥かなる現前』において、セヴラックの音楽について論じている。
作品一覧 | Works
『スパルタのヘレネー』におけるイダ・ルビンシュタインの衣装
ピアノ曲
- Petite étude 1889
- P’tit bâteau 1889-1898
- Mélancolie, inspiré à la simple vue d’une certaine cane 1889
- Sérénade au clair de lune 1889-1895
- Matin de pâques à Toulouse 1895
- Pastorale 1895-1897
- Dix scènes des champs 1895
- Préludio 1896-1898
- Air de ballet 1896-1898
- Promenade en mer 1896-1898
- Trois mélodies et quatre pages pianistes inédites 1897-1907
- Sérénade au clair de lune 1898
- Petite étude en sol mineur 1898
- Vent d’Autan 1898
- Deuxième impromtu, dans le caractère romantique 1898
- Sonate en si bémol mineur 1899
- Le chant de la terre 1899-1900
- Valse lente 1901
- En Languedoc 1903-1904
- Méditerranéenne 1904
- Le soldat de plomb 1906
- Le tombeau de Gauguin 1906
- Valse métèque 1907
- Danse du tonneau et du bidon 1907
- Pippermint-Get 1907
- Stances à Mme de Pompadour 1907
- Baigneuses au soleil 1908
- La danse des treilles 1909
- Navarra 1909
- Cerdaña 1908-1911
- En vacances, premier recueil 1911
- Les naïades et le faune indiscret 1908-1919
- En vacances, second recueil 1919
- Sous les lauriers roses 1919
- Musique pour piano 1919
参考文献 | Bibliography
- Sévérac, (Marie Joseph Alexandre) Déodat de, Baron de Sévérac, Baron de Beauville | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.25524]
- 日本セヴラック協会 [http://www.geocities.jp/severacjp/]
- ウラディミール・ジャンケレヴィッチ(近藤秀樹訳)『遥かなる現前 : アルベニス、セヴラック、モンポウ』春秋社、2002年。