若き日(オネゲル)

基本情報 | Data

歌詞 | Lyrics

Nous sommes la jeunesse ardente
Qui vient escalader le ciel.
Dans un cortège fraternel
Unissons nos mains frémissantes,
Sachons protéger notre pain.
Nous bâtirons un lendemain
Qui chante

我ら燃ゆる青年 空を乗り越え来た
友愛の列の中 奮う手を取り合い
我らのパンを守ろう
我らは謳う明日を築く

Refrain :
En avant ! jeunesse de France.
Faisons se lever le jour,
La victoire avec nous s’avance,
Fils et filles de l’espérance
Nous ferons se lever le jour
A nous la joie à nous l’amour.

リフレイン:
進めフランスの青年 夜明けをもたらそう
勝利は我らとともに前進する
希望の青少年たる我ら 夜明けをもたらす
我らに喜びと愛を

Comme un torrent qui se déploie
Courons, dansons, rions, luttons,
Avec tous ceux que nous gagnons
Brisons la chaîne qui nous broie.
Vivent la paix, la liberté !
Notre printemps veut un été
De joie

流れ出る急流のように 走り、踊り、笑い、闘おう
我ら勝ち得しものとともに 我らを打ちひしぐ鎖を断とう
平和万歳 自由万歳
我らが春は喜びの夏を待ち望む

Refrain

Un ciel rayonnant nous convie
A la conquête du bonheur.
Avec nos vingt ans d’un seul cœur
Le monde entier se lève et crie :
Place, place au travail vainqueur.
Chantons amis, chantons en chœur
La vie !

広い空は我らを 幸福の獲得へと導く
一心の我ら二十歳とともに 世界中が立ち上がり叫ぶ
労働に勝利をもたらそう
友よ人生を歌おう、声を合わせて人生を歌おう

Refrain

Allons les filles, plus de larmes
Nous construirons notre foyer !
Pour la lutte il faut vous lier
A de braves compagnons d’armes.
Par nos efforts les temps nouveaux
Nous donnerons sur les berceaux
Leurs charmes !

少女たちよ、もはや涙はいらない 我らは自らの家庭を持つ
闘争のためには勇敢な戦友と 友情を結ばねばならない
我らが努力により新時代が
ゆりかごの上でその魅力を我らに与える

Refrain

Nous, les fils de quatre-vingt-treize
De la Commune aux noirs charniers,
Et des héros de Février
Pour que la haine enfin s’apaise
Sur nos chants et sur nos cités
Nous vous apportons l’unité
Française.

我ら93年の コミューンの黒い墓場の
二月の英雄の息子 1)「93年」とはフランス革命中の1793年のジャコバン主義者、「コミューンの黒い墓場」とはパリ・コミューンで政府により鎮圧された反乱者、「二月の英雄」とは1848年の二月革命で共和政府に対し蜂起した労働者を指す。ここでは人民戦線がこうしたフランスにおける革命運動の継承者であることが歌われている。
最後に憎しみが 我らの歌声と共同体の中で和らぐように
我らはフランスに統合をもたらそう

解説 | Synopsis

1936年、フランスでは左翼政党の大同団結運動「人民戦線」が成立する。これに際してオネゲルは、ポール・ヴァイヤン=クチュリエ (Paul Vaillant-Couturier) の作詞した労働歌「青年」の作曲を担当する。なおフランス社会主義運動においてしばしば登場する常套句「謳う明日」(Lendemain qui chante) の初出はこの曲である。

Notes   [ + ]

1. 「93年」とはフランス革命中の1793年のジャコバン主義者、「コミューンの黒い墓場」とはパリ・コミューンで政府により鎮圧された反乱者、「二月の英雄」とは1848年の二月革命で共和政府に対し蜂起した労働者を指す。ここでは人民戦線がこうしたフランスにおける革命運動の継承者であることが歌われている。

エルヴェ・ニケ

エルヴェ・ニケ

生 : 1957年10月28日(フランス共和国、アブヴィル)

エルヴェ・ニケ (Hervé Niquet) はフランスの指揮者。古楽器によるバロック音楽の歴史的考証で名を知られ、とりわけオーケストラ「ル・コンセール・スピリチュエル」との協同によるヘンデルの演奏が高く評価されている。

生涯 | Biography

1980年パリ・オペラ座の合唱指揮者に任命され、ルドルフ・ヌレエフやセルジュ・リファールらとともに仕事をする。1985年から1986年にかけてレザール・フロリサンの楽団員としてテノールを担当したが、1987年に古楽器アンサンブル「ル・コンセール・スピリチュエル」を創設、旧体制期にヴェルサイユをはじめとする宮廷で演奏されたレパートリーの再演を趣旨とした。ヴェルサイユ・バロック音楽センター (Centre de Musique Baroque de Versailles) と共同で、ジャン・ジルやジョゼフ・ボダン・ド・ボワモルティエ、マルク=アントワーヌ・シャルパンティエ、アンドレ・カンプラといったフランス・バロック音楽における隠れた巨匠の再評価に貢献した。

ベルリン古楽アカデミー、シンフォニア・ヴァルソヴィア、ロシア国立室内合唱団、フランス放送フィルハーモニー管弦楽団といったヨーロッパの名だたるオーケストラより名誉指揮者の称号を授与される。2011年にベルギー放送局合唱団 (Chœur de la Radio flamande) 音楽監督に就任、またブリュッセル・フィルハーモニックの客員指揮者に任命された。ヴェネツィアにパラゼット・ブル・ザーネ(フランス・ロマン派音楽センター)創設に協力。

演奏レパートリーの中でもヘンデルの『王宮の花火の音楽』および『水上の音楽』はとりわけ高く評価されており、2004年にエジソン・アワードを受賞している。

演奏 | Discography

参考文献 | Bibliography

  1. Hervé Niquet | Concert Spirituel [http://www.concertspirituel.com/fr/articles/62/herve-niquet]
  2. Hervé Niquet : portrait et biographie sur France Musique [https://www.francemusique.fr/personne/herve-niquet]

ジョルジュ・ビゼー

ジョルジュ・ビゼー

生 : 1838年10月25日(フランス王国、パリ)/没 : 1875年6月3日(フランス共和国、ブージヴァル)

ジョルジュ・ビゼー (Georges Bizet) はフランスの作曲家。とりわけオペラなど劇音楽の分野で名を知られ、代表作に『カルメン』『アルルの女』などがある。

生涯 | Biography

早熟の秀才

ジョルジュ・ビゼーは1838年10月25日、音楽家の両親の下で生まれた。父アドルフ=アルマン・ビゼー (1810-1886) はルアンの手工業者の家柄だったが、パリに出て美容師・ウィッグ職人として生計を立てていたが、1837年の結婚後、声楽教師として音楽家としてのキャリアを開始、その後アマチュアの歌手・作曲家として活動した。

一方、母エメ・デルサルト (1815-1861) はカンブレーで音楽家の家系に生まれた。フランソワ・デルサルトの妹であった彼女は息子に幼少期から楽譜の読み方やピアノ演奏を教え、少年ビゼーの音楽家としてのキャリアに決定的な影響を及ぼした。

両親の一人息子であったビゼーは幼少期から音楽に囲まれて育ち、1848年10月9日、10歳の誕生日を迎える前にパリ音楽院(コンセルヴァトワール)へ入学。9年間に渡って在学した。当初アントワーヌ=フランソワ・マルモンテルよりピアノを、フランソワ・ブノワよりオルガンを習い、両分野の演奏で受賞した。ピエール・ジメルマンやフロマンタル・アレヴィに師事して作曲を学ぶ。リハーサルにおけるピアニストや楽譜の編曲者として活動することで、パリの劇場に親しむようになった。

コンセルヴァトワールにおける修業時代のビゼーにとって重要だったのはシャルル・グノーの影響である。おそらくはジメルマンを介してグノーと対面したビゼーは『サッフォー』や『ユリシーズ』といったグノーの作品に親しみ、両者の交流はその後も長きにわたって継続した。

ビゼーは1850年代半ばからグノーの影響下でピアノ小品の作曲を始めるようになり、同時に生活手段として編曲を盛んに行った。また一幕のオペラ・コミック作品『医者の家』を発表した。

この時期の作品はグノーやアレヴィの影響を受けつつも、2作目のオペラ『ミラクル博士』ではビゼー独自の変化に富んだ軽妙な作風が表れていた。この作品はレオン・バットゥ (Léon Battu) とリュドヴィク・アレヴィが台本を担当し、ジャック・オッフェンバックが経営するブッフ・パリジャン座のコンテストに応募するために制作された。このときの審査員にはかつてビゼーが傾倒したグノーや、リュドヴィク・アレヴィの叔父であるフロマンタル・アレヴィが名を連ねていた。結果、78の応募者の中から一等賞に選ばれたのはビゼーとシャルル・ルコックだった。二人のオペレッタは1857年4月に上演された。

イタリアにおける遊学

ビゼーは『ミラクル博士』を制作した直後、若手芸術家の登竜門とされたローマ大賞を1857年に受賞。同年12月より3年間にわたってイタリアに滞在し、ローマのヴィラ・メディチに拠点を置きつつ、建築や絵画などの芸術に触れた。社交を好んだビゼーは、作家のエドモン・アブーや音楽家のエルネスト・ギローらヴィラ・メディチに滞在中のフランス人たちと交友関係を持った。またしばしば地方都市へ旅行に訪れ、パリ育ちのビゼーが初めて海を見たのもこのイタリア滞在中の事だった。

ヴィラ・メディチヴィラ・メディチのファサード

こうしたイタリアの自由な気風の中、ビゼーは当時流行していたロッシーニなどのオペラを中心に現地の音楽を摂取した。特に1858年2月に母親へ送った手紙からは、ガエターノ・ドニゼッティによるオペラ『パリジーナ』の台本に関心を示していたことが読み取れる。

ビゼーはジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『仮面舞踏会』を1859年にローマで観たが、この若き秀才の眼には粗雑で洗練されていないと写った。むしろビゼーの好みに合ったのはロッシーニやモーツァルト、メンデルスゾーンである。こうしたイタリア音楽の影響の中、ローマ大賞受賞者の義務である年に一度の作品提出に向けて作曲を開始した。

ビゼーが1858年春に最初に作曲したのは『テ・デウム』である。この作品によりビゼーはローマ賞受賞者のみに開かれたロドリーグ賞へエントリーしたが、教会音楽の経験不足を理由として、惜しくも受賞を逃した。『テ・デウム』はその後1971年まで出版されなかった。続いてドニゼッティの軽妙なスタイルを模範としつつ、イタリア風のオペラ・ブッファ『ドン・プロコピオ』を作曲した。リブレットを担当したのはイタリアの台本作家カルロ・カンビアッジョ (Carlo Cambiaggio) だった。

ビゼーは続いて本格的なオペラの制作に着手する。『ドン・プロコピオ』の制作中よりドイツ風のスタイルへ移行し、それは文豪ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』を下敷きにルイ・ベルタンが1836年に制作した台本『エスメラルダ』に表れている。

他にもビゼーはフェリシアン・ダヴィドの『砂漠』に着想を得、ローマ在住のフランス人作家ルイ・ドラートル (Louis Delâtre) に交響的頌歌の詞を依頼している。またこの時期ヴォルテールや『ドン・キホーテ』、『ハムレット』や『マクベス』といった題材に興味を示したが、台本作家の欠如などの理由のためアイデアの多くは放棄された。

さらにビゼーは自ら台本制作に取り組み、モリエールの喜劇『愛の画家』を翻案する。しかしながら『ドン・プロコピオ』がアカデミーにおいて不評であったことに傷心し台本制作を止めてしまう。ビゼーはイタリアを題材にした交響曲も構想していたが、結局完成を見たのは着想から8年後の事だった。

パリ・オペラ界における活動

ローマ賞受賞者としての留学期間が終わりに近づいた1860年7月、ビゼーは友人のエルネスト・ギローとともに北イタリア周遊の旅行に出かけた。9月5日、ヴェネツィア滞在中に母親が深刻な病に冒されていることを知る。その後ギローはローマへ戻ったが、ビゼーはイタリアでの遊学を切り上げパリに帰還した。

パリにおいてビゼーは生計を立てるため、オペラの作曲、パトロンへの取りなし、シュダン (Éditions Choudens) をはじめとする出版社の求めに応じての作曲、コンサートにおける指揮、リハーサルピアニスト、伴奏者、あるいは他の音楽家による作品の編曲などといった多種多様な活動に従事した。以後の人生においてビゼーがパリを離れることは稀であった。

1861年3月、ビゼーはワグナーによる『タンホイザー』のパリ初演に赴き、聴衆による激しいブーイングを目の当たりにする。二月後、フランツ・リストと対面し、リストの前でピアノを演奏する機会を得た。「伝説的なオーラを纏う」(Ch. ピゴ)とも評されるビゼーの技術はリストを驚嘆させ、自身やハンス・フォン・ビューローに並び立つ才能を持つと評価された。

1861年9月に母親が45歳の若さで逝去、続く1862年3月には敬愛する師のフロマンタル・アレヴィが他界し、ビゼーを大いに傷心させた。

1861年度、ビゼーはアカデミーに制作中の交響曲から2楽章と、『オシアンの狩り』序曲を提出する。このうち前者は10月12日にアカデミーで披露され、中でも「スケルツォ」は一定の評価を得た。このスケルツォは1862~1863年の冬にかけて3度演奏された。一度目の演奏はアドルフ・ドゥロフル (Adolphe Deloffre) の指揮で社交クラブ「芸術家同盟」(Cercle de l’Union Artistique) において、二度目はジュール・パドルーの指揮するコンセール・ポピュレールにて、そして三度目は作曲者自身の指揮により国民美術協会において行われた。なおこの「スケルツォ」は後に交響組曲『ローマ』に収録されている。

続く数年は多作な時期だった。ローマからの帰国直後、ビゼーはリュドヴィク・アレヴィに台本を依頼し、アカデミーに提出するための一幕のオペラを制作する。しかしこれは途中で放棄され、代わりにビゼーは交響的頌歌『ヴァスコ・ダ・ガマ』およびバルビエとカレの台本によるオペラ・コミック『太守の一弦琴』をアカデミーに提出した。『ヴァスコ・ダ・ガマ』は1863年2月8日、作曲者自身の指揮により国民美術協会において演奏されている。

続いて制作された『真珠採り』はビゼーにさらなる成功をもたらした。1863年夏に完成したこの作品は同年秋に18回に渡って上演された。この作品は聴衆や批評家からはあまり好意的に受け入れられず、傷心したビゼーは生涯に渡って『真珠採り』をレパートリーから外すこととなった。しかしながらベルリオーズは日刊紙『ジュルナル・デ・デバ』に寄せた批評記事において作曲家の才能を高く評価し、その将来に期待を寄せる。他方でビゼーもベルリオーズの『トロイアの人々』に大いに衝撃を受けたという。

『真珠採り』によりビゼーの作曲能力は認められ、テアトル・リリックの計らいによって学生であったビゼーは作曲家として自活できるようになった。テアトル・リリック支配人のレオン・カルヴァロはビゼーを重宝し、さらなる作曲を依頼した。グノーの台本による『イヴァン4世』である。『イヴァン4世』の制作は1862年に開始されたが、カルヴァロの判断により上演は度々延期され、ビゼーの生前に演奏されることはついになかった。

レオン・カルヴァロ劇場支配人レオン・カルヴァロ

このころ父アドルフ=アルマンはパリ近郊のル・ヴェジネに別荘を建て、以後ビゼーも夏の間を別荘で過ごすことを好むようになった。他方、パリで過ごす冬の期間は伴奏や編曲といった仕事に忙殺された。この時期のビゼーによる編曲にはバッハの『アヴェ・マリア』やヘンデルの『調子の良い鍛冶屋』などがあり、それらを収録したアンソロジーがユゲル社から出版されている1)Georges Bizet, Le pianiste chanteur : célèbres oeuvres des maîtres italiens, allemands et français, Paris : Heugel, 1865.。またこの時期ビゼーはエドモン・ガラベール (Edmond Galabert) やポール・ラコンブ (Paul Lacombe) といった作曲の弟子を取った。

1866年、ビゼーは再度カルヴァロと契約し、ジュール=アンリ・ヴェルノワ・ド・サン=ジョルジュとジュール・アドニスの台本によるオペラの作曲に着手した。現在までビゼーの代表作の一つとして知られる『美しきパースの娘』である。ウォルター・スコットの小説に基づくこの作品は短期間で完成され、1867年12月にカルヴェロの経営するテアトル・リリックで初演された。同年夏に行われたパリ万国博覧会の会期には間に合わなかったものの、『美しきパースの娘』は聴衆から好意的に受け入れられ、テアトル・リリックにおいて18回に渡って上演された。

なお、1867年パリ万博はフランス帝国の一大事業であり、聖歌とカンタータのコンクールが実施された。ビゼーもこれに参加し、応募総数823のうち15位に選ばれたものの、ビゼーの応募した曲が演奏されることはなかった2)このとき優勝したのはサン=サーンスのカンタータであるが、これも演奏されていない。

1866年以降、ビゼーは多作な時期を迎える。1860年より構想していた2番目の交響曲を完成させ、交響的幻想曲『ローマの思い出』として1869年2月、シルク・ナポレオン座においてジュール・パドルーの指揮で演奏された。またアテネ劇場 (Théâtre de l’Athénée) のオープンに際して上演された合作オペラ『マールボロは戦場に行った』において第一幕を担当した。

1867年10月、ビゼーはコンセルヴァトワール時代の師匠フロマンタル・アレヴィの娘ジュヌヴィエーヴと婚約する。しかしながらジュヌヴィエーヴの母方の親戚であるユダヤ系の銀行家たちは売れない作曲家との結婚に反対し、婚約は一度は破談となる。結局二人は1869年6月に挙式、カトリックを信仰しないビゼーの意向により民事婚の形式を取った。二人はしばらくの間幸福な結婚生活を送ったものの、ビゼーのスランプや性格の不一致などを理由に、順調な関係は長くは続かなかった。なお1872年に息子のジャックが誕生している。

ビゼーはジュヌヴィエーヴと結婚した直後、義父となったはずの故フロマンタル・アレヴィに献呈するため、アレヴィが未完のまま残したオペラ『ノエ』の制作に従事した。『ノエ』はカルヴァロに代わって新しい支配人となったジュール・パドルーの下、テアトル・リリックで上演される手はずとなっていたが、1870年に勃発した普仏戦争の煽りを受けて劇場が財政的問題に直面したため、結局『ノエ』の初演はビゼーの死後10年経ってからカールスルーエで行われた。『ノエ』の完成後もビゼーは古代フランスの英雄ウェルキンゲトリクスの生涯やフレデリック・ミストラルの『カランダル』などに取材したオペラに着手したが、いずれも未完成に終わった。

ビゼーは普仏戦争に際して、ジュール・マスネカミーユ・サン=サーンスといった他の音楽家と同様に国民衛兵へ志願、また続くフランス第三共和政の成立を熱狂をもって迎えた。1871年1月26日の講和成立によりパリの包囲が解除されると、ビゼーは夫婦でアレヴィ夫人を訪ねにボルドーへ赴いた。ところがこの滞在中に母と娘の仲違いが生じ、二人はパリへ帰還。続いてドイツとの講和を望まない市民の手でパリ・コミューンが宣言されたため、難を逃れるためコンピエーニュへ、続いてル・ヴェジネへと退避した。

1871年6月になりパリに平穏が戻ると、アンブロワーズ・トマがコンセルヴァトワールの院長に就任し、サン=サーンスが国民音楽協会を創設、フランス音楽界に新たな風が吹き始めた。同年、ビゼーはオペラ=コミック座の依頼を受け、ルオペラ『ジャミレー(デジャミール)』や、ピアノ連弾曲『子供の遊び』を始めとする作品を手掛けた。『ジャミレー』は高名な作家アルフレッド・ド・ミュッセのトルコを舞台とした詩『ナムーナ』に取材した一幕のオペラで、リブレットを担当したのはルイ・ガレーだった。『ジャミレー』は1872年に上演されたが、成功を収めることはできなかった。

晩年と二つの大作

この時期、ビゼーは生涯最後となる二つの大作に取り掛かった。『アルルの女』と『カルメン』である。今日までビゼーの代表作として知られる二作のうち、『アルルの女』を依頼したのはまたもカルヴァロだった。今やテアトル・デュ・ヴォードヴィルの支配人となっていたカルヴァロは作家アルフォンス・ドーデの戯曲に基づく作品を企画、ビゼーはこれに応え、南仏を舞台としたこのオペラ・コミックを1872年の夏に完成させた。

『アルルの女』は1872年10月1日に初演となった。しかしこれは聴衆から受け入れられず、ビゼーと原作者のドーデは落胆した。エルンスト・レイエ (Ernest Reyer) やジュール・マスネといった一部の音楽家はビゼーの音楽性を評価したものの、多くの音楽評論誌の反応は冷淡なものだった。そこでビゼーはただちに『アルルの女』の一部をオーケストラ用の組曲に編曲し、これは11月にジュール・パドルーの指揮で披露された。この演奏はすぐに高い評価を得、『アルルの女』の名声を不動のものとした。

この成功を受けて、ビゼーは次なる作品に着手した。プロスペル・メリメによる1845年の小説に取材したオペラ『カルメン』である。『カルメン』の制作はビゼー自身の発案によるものだったが、登場人物のセンセーショナルな性格と結末における暴力描写を理由として、オペラ=コミック座の共同支配人であったアドルフ・ド・ルーヴェン (Adolphe de Leuven) とカミーユ・デュ・ロックル (Camille du Locle) の意見は割れた。結局、この作品がルーヴェンの在任中に上演されることはなかった。

この時期、ビゼーの結婚生活は危機を迎えていた。気分屋のビゼーに対して妻のジュヌヴィエーヴは継続的な愛情を求めたのだった。二人は少なくとも2か月の間別居状態となるが、1874年の夏にはブージヴァルの別荘を旅行に訪れる。ところがここでジュヌヴィエーヴは隣人であったピアニストのエライン・ミリアム・ドラボルドの誘いを受ける。後にアレヴィ家が書簡類を破棄してしまったため、この顛末の詳細については現在ではよく分かっていない。

さて、上演が保留されていたオペラ『カルメン』だが、1874年の夏にブージヴァルにてオーケストラ版の公演が実現した。同年9月にはリハーサルが開始され、ここで使用するために作曲者自身の手でピアノ演奏用の譜面も作成された。ところが舞台上で喫煙や乱闘を行うというリブレットに対し女優たちは難色を示し、結局ビゼーと個人的に親しかったセレスティーヌ・ガリ=マリエが主演女優を務めることとなった。

セレスティーヌ・ガリ=マリエ (1866年)セレスティーヌ・ガリ=マリエ (1866年)

『カルメン』のリハーサルは幾度にも渡って行われ、結局初演が実現したのは1875年3月3日、指揮者はアドルフ・ドゥロフル (Adolphe Deloffre) だった。ところがこの初演の評判は芳しくなく、聴衆や批評家は反感をもって迎えた。

『カルメン』封切りの直後、ビゼーは持病であった扁桃腺炎の症状に悩まされるようになった。作品の不成功も相まってビゼーは生気を失い、続いてリウマチや耳鼻咽喉の痛みを訴えるようになる。1875年5月末、ビゼーは家族を連れてブージヴァルへ移住。そこでビゼーはセーヌ川における水浴後に心臓疾患に陥り、翌6月3日に36歳の若さで生涯を終えた。葬儀は6月5日にパリのラ・トリニテ教会で行われ、その亡骸はペール=ラシェーズ墓地に埋葬された。『カルメン』の評価は作曲者の没後に高まり、1875年および続く3年の間に45回の公演が行われた。ビゼーの作品は、散逸したものも含めて20世紀英国の音楽学者ウィントン・ディーンにより編集されている。

作品一覧 | Works

オペラおよびオペレッタ

  • WD1 医者の家 La maison du docteur 1855
  • WD2 ミラクル博士 Le docteur Miracle 1856
  • WD3 パリジーナ Parisina 1858
  • WD4 無題 (sans titre) 1858
  • WD5 ドン・プロコピオ Don Procopio 1858-1859
  • WD6 エスメラルダ Esmeralda 1859
  • WD7 ニュルンベルクの樽職人 Le Tonnelier de Nuremberg 1859
  • WD8 ドン・キホーテ Don Quichotte 1859
  • WD9 愛の画家 L’Amour peintre 1860
  • WD10 巫女 La prêtresse 1854
  • WD11 太守の一弦琴 La guzla de l’émir 1862
  • WD12 イヴァン4世 Ivan IV 1862-1865
  • WD13 真珠採り Les pêcheurs de perles 1862-1863
  • WD14 ニコラ・フラメル Nicolas Flamel 1865
  • WD15 美しきパースの娘 La jolie fille de Perth 1866
  • WD16 マールボロは戦場に行った Marlbrough s’en va-t-en guerre 1867
  • WD17 無題 (sans titre) 1858
  • WD18 トゥーレの王の杯 La coupe du roi de Thulé 1868-1869
  • WD19 テンプル騎士団 Les Templier 1868
  • WD20 ノエ Noé 1868-1869
  • WD21 ウェルキンゲトリクス Vercingétorix 1869
  • WD22 削除
  • WD23 Calendal 1870
  • WD24 ラマ Rama 1870
  • WD25 クリラッサ・ハーロー Clarisse Harlowe 1870-1871
  • WD26 グリゼリディス Grisélidis 1870-1871
  • WD27 ジャミレー Djamileh 1871
  • WD28 アルルの女 L’Arlésienne 1872
  • WD29 ソル=シ=レ=ピフ=パン Sol-si-ré-pif-pan 1872
  • WD30 ドン・ロドリーグ Don Rodrigue 1873
  • WD31 カルメン Carmen 1873-1874

管弦楽曲

  • WD32 序曲 イ長調 Overture in A 1855
  • WD33 交響曲ハ長調 Symphony in C major 1855
  • WD34 交響曲 Symphony 1859
  • WD35 Marche funèbre 1860-1861
  • WD36 オシアンの狩り La Chasse d’Ossian 1861
  • WD37 ローマ Roma Symphony in C major 1860–1871
  • WD38 Marche funèbre 1868-1869
  • WD39 小組曲 Petite Suite 1871
  • WD40 アルルの女 L’Arlésienne 1872
  • WD41 祖国 Patrie 1873

ピアノ曲

  • WD42 Vier Préludes
  • WD43 ワルツ ハ長調 Valse in C major
  • WD44 華麗なる主題 ハ長調 Thème brilliant in C
  • WD45 奇想曲第1番 嬰ハ短調 Caprice in C♯ minor 1860
  • WD46 無言歌 ハ長調 Romance sans paroles in C major 1860
  • WD47 奇想曲第2番 ハ長調 Caprice in C major 1860
  • WD48 演奏会用大ワルツ 変ホ長調 Grande valse de concert in E♭ 1854
  • WD49 夜想曲第1番 ヘ長調 Nocturne in F major 1854
  • WD50 3つの音楽スケッチ Trois esquisses musicales 1858
  • WD51 幻想的な狩り Chasse fantastique 1865
  • WD52 ラインの歌 Chants du Rhin 1865
  • WD53 海景 Marine Nocturne in D major 1868
  • WD54 演奏会用半音階的変奏曲 Variations chromatiques de concert 1868
  • WD55 夜想曲第2番 ニ長調 Nocturne in F major 1868
  • WD56 子供の遊び Jeux d’enfant 1871
  • WD57 Promenade au clair de lune
  • WD58 Causerie sentimentale
  • WD59 Roma 1871

室内楽曲

  • WD60 Fugen und Übungen 1850-1854
  • WD61 Vierstimmige Fuge A-Dur
  • WD62 Vierstimmige Fuge a-Moll 1854
  • WD63 Vierstimmige Fuge f-Moll 1855
  • WD64 Vierstimmige Fuge G-Dur 1856
  • WD65 Vierstimmige Fuge e-moll 1857
  • WD66 Zweistimmige Fuge 1866
  • WD67 Duo für Fagott und Cello c-Moll 1874

歌曲

  • WD68 L’âme triste est pareille au doux ciel
  • WD69 Petite Marguerite 1854
  • WD70 La rose et l’abeille 1854
  • WD70a 信仰、希望、愛 La foi, l’esperance et la charité 1854
  • WD71 古い歌 Vieille chanson 1865
  • WD72 別れを告げるアラビアの女主人 Adieux de l’hôtesse arabe 1866
  • WD73 冬のあとに Apres l’hiver 1866
  • WD74 静かな海 Douce mer 1866
  • WD75 4月の歌 Chanson d’avril 1866
  • WD76 A une fleur 1866
  • WD77 Adieux à Suzon 1866
  • WD78 Sonnet 1866
  • WD79 Guitare 1866
  • WD80 Rose d’amour 1866
  • WD81 Le Grillon 1866
  • WD82 パストラール Pastorale 1868
  • WD83 夢を見る男の子 Rêve de la bien-aimée 1868
  • WD84 私の命には秘密がある Ma vie a son secret 1868
  • WD85 子守歌 Berceuse 1868
  • WD86 La chanson du fou 1868
  • WD87 てんとう虫 La coccinell  1868
  • WD88 シレーヌ La sirène 1868
  • WD89 疑い Le doute 1868
  • WD90 L’Esprit saint 1869
  • WD91 Absense 1872
  • WD92 愛の歌 Chant d’amour 1872
  • WD93 タランテラ Tarentelle 1872
  • WD94 あなたが祈るしかない Vous ne priez pas 1872
  • WD95 蜂雀 Le colibri 1868
  • WD96 おお私の眠る時 Oh, quand je dors 1873
  • WD97 誓い Vœu 1868
  • WD98 Voyage
  • WD99 Aubade
  • WD100 La nuit 1868
  • WD101 Conte
  • WD102 Aimons, rêvons! 1868
  • WD103 La Chanson de la rose
  • WD104 Le Gascon 1868
  • WD105 N’oublions pas! 1868
  • WD106 Si vous aimez!
  • WD107 Pastel
  • WD108 L’Abandonnée 1868
  • WD109 Vokalise für Tenor C-Dur 1850
  • WD110 Vokalise für zwei Soprane F-Dur (Barcarolle)
  • WD111 Chœur d’étudiants
  • WD112 Valse G-Dur 1855
  • WD113 L’Ange et Tobie 1855-1857
  • WD114 Héloïse de Montfort 1855-1857
  • WD115 Le Chevalier enchanté 1855-1857
  • WD116 Herminie 1855-1857
  • WD117 Le Retour de Virginie 1855-1857
  • WD118 David 1856
  • WD119 Le Golfe de Baïa 1856
  • WD120 La Chanson du rouet 1857
  • WD121 クロヴィスとクロティルド Clovis et Clotilde 1857
  • WD122 テ・デウム Te Deum 1858
  • WD123 Ulysse et Circe 1859
  • WD124 ヴァスコ・ダ・ガマ Vasco de Gama 1859-1860
  • WD125 Carmen saeculare 1860
  • WD126 パトモス島の聖ヨハネ Saint-Jean de Pathmos 1866
  • WD127 Chants de Pyrénées
  • WD128 Les Noces de Prométhée 1867
  • WD129 Hymne 1867
  • WD130 Le Retour
  • WD131 Rêvons 1868
  • WD132 Les Nymphes des bois 1868
  • WD133 La Mort s’avance 1869
  • WD134 アヴェ・マリア Ave Maria
  • WD135 La Fruite 1870
  • WD136 Geneviève de Paris 1875
  • Ouvre ton cœur 1860
  • Le matin 1873
  • Qui donc t’aimera mieux?
  • Pourqoui pleurer

参考文献 | Bibliography

  1. Winton Dean, Georges Bizet: His Life and Work, London: Dent, 1965.
  2. Bizet, Georges | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.O900746]
  3. Bizet, Georges | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.51829]

Notes   [ + ]

1. Georges Bizet, Le pianiste chanteur : célèbres oeuvres des maîtres italiens, allemands et français, Paris : Heugel, 1865.
2. このとき優勝したのはサン=サーンスのカンタータであるが、これも演奏されていない。

セルゲイ・ラフマニノフ

生 : 1873年3月20日(4月1日)(ロシア帝国、オネグ)/没 : 1943年3月28日(アメリカ合衆国、ビバリーヒルズ)

1873年3月20日(4月1日)オネグ生まれ/1943年3月28日カリフォルニア州ベバリーヒルズ(Beverly Hills, CA)死去。ロシア出身の作曲家・演奏家・指揮者。これら3つのキャリアで見事に成功した。 特にピアノ演奏については、恵まれた体躯を活かして優れたパフォーマンスを行ったため、人々に賞賛された。チャイコフスキー(Tchaikovsky)やリムスキー・コルサコ(Rimsky-Korsakov)の影響を強く受けている。

生涯 | Biography

1. 不遇な少年時代と師ニコライ・ズヴェーレフとの出会い(1873–89年)

1873年4月1日(ユリウス暦では3月20日)、セルゲイ・ラフマニノフは、ノヴゴロド近郊のオネグで誕生した。ラフマニノフの父は浪費癖があり、一家は、数軒の家の所有者から、オネグに一つの不動産を持つ身まで没落していた。ラフマニノフは、最初は母から、やがてサンクトペテルブルク音楽院(St Petersburg Conservatory)を卒業したアンナ・オルナーツヤカ(Anna Ornatskaya)からピアノを習った。1882年、借金の清算のためにオネグの物件が売却されると、一家はサンクトペテルブルクに移り、音楽院に通うことになったラフマニノフは、ピアノと和声学を学んだ。この時期に、流行病で姉妹のソフィアが亡くなり、さらに悪いことに両親が離婚したという家族の不幸が、後のラフマニノフの生活に陰を落とすことになる。一連の出来事により、母が十分にラフマニノフに家庭での音楽教育をサポートできなくなった結果、1885年の学校での彼の試験結果は振るわず、学校は奨学金打ち切りを示唆するようになった。ところが、従兄弟のアレクサンドル・ジロティ(Aleksandr Ziloti)の勧めにより、ラフマニノフは、モスクワ音楽院に移ることになり、ニコライ・ズヴェーレフ(Nikolay Zverev)の家で下宿しながら勉強することになった。このズヴェーレフの元で、ラフマニノフは、当時の有名な音楽家であったアントン・ルビンステイン(Anton Rubinstein)、セルゲイ・タネーエフ(Sergei Taneyev)、アントン・アレンスキー(Anton Arensky)、ワーシリー・サフォーノ(Vasily Safonov)、そして彼の人生に最も影響を与えたチャイコフスキー(Tchaikovsky)らと出会った。

1888年春、ラフマニノフは進級し、ズヴェーレフの元で下宿を続けながら、従兄弟のピアニスト・ジロティからピアノを習っていた。さらにその秋からタネーフやアレンスキーから和声学と対位法を習い始めた一方で、ズヴェーレフの元で、幾つかの曲を作曲し始めていた。しかしながら、ラフマニノフは、彼の創作活動に反対していたズヴェーレフと、1889年に決別することになる。

ラフマニノフ(左から2番目)と師ズヴェーレフ

 

リムスキー・コルサコフ(Rimsky-Korsakov)と共にサンクトペテルブルクで勉強するようにという母の考えを拒否したラフマニノフは、モスクワにとどまり、ピアノ協奏曲の構想を練っていた。この頃、親族のサーチン家から援助を受けていたラフマニノフは、毎年夏をタンボフ州イワノフカ(Ivanovka)で過ごし、作曲に集中した。1890年夏、イワノフカからモスクワのサーチン家に戻ったラフマニノフは、チャイコフスキーの交響曲に影響されて、『マンフレッド』(Manfred)を作曲した。 1891年6月5日(ユリウス暦5月24日)、モスクワ音楽院ピアノ科を主席で卒業した。なお、この時の学友はスクリャービンである。この年の夏、再びイワノフカに移ったラフマニノフは『ピアノ協奏曲第1番』(First Piano Concerto)など、作曲に集中した。その後12月にモスクワに戻ったラフマニノフは、アレンスキーに捧げる『交響詩「ロスティラフ公」』(Knyaz′ Rostislav Knyaz′ Rostislav (‘Prince Rostislav’))を作曲した。翌1892年にはモスクワ音楽院作曲科を修了したラフマニノフは、オペラ『アレコ』(Aleko)を完成させ、高い評価を得た。このモスクワ音楽院からラフマニノフは金メダルを授けられており、この賞は、 ラフマニノフ以前には、セルゲイ・タエーネフなどの僅か2名にしか与えられたことのなかったものであった。

2. 作曲家としての成功・恩人チャイコフスキーとの別れ(1892–1897)

モスクワ音楽院卒業後、ラフマニノフは、ドイツの出版社グートハイル(Gutheil)と出版契約を結び、『前奏曲 嬰ハ短調』(the piano prelude in C♯ minor)を発表した。この曲は、彼を一躍有名にすることになったが、どのコンサートでもアンコールの嵐が続いたため、彼をうんざりさせることにもなった。1)『前奏曲 嬰ハ短調』のアンコール:この作品はあまりに成功してしまったがために、どこのコンサートでも求められることになった。ラフマニノフが、うんざりしながら繰り返しこの作品を演奏する様子は、ラフマニノフの伝記映画『ラフマニノフ:ある愛の調べ』(原題:Ветка сирени/ 英語: Lilacs/ 2007年)にて、リピートされ続けるメロディーと列車の車輪の映像の組み合わせによって、効果的に描かれている。 『前奏曲嬰ハ短調』の契約について、グートハイル社が国際的な版権を保証せず、国外での著作権保護に無頓着だったために、後にラフマニノフは後悔することになった。それは、当時ロシアは、著作権に関する1886年のベルヌ条約 2)ベルヌ条約:正式名「文学及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」(Berne Convention for the Protection of Literary and Artistic Works)。万国著作権条約(1952年)と並んで、著作権の国際的保護のための条約として考えられている。ベルヌ条約制定前は、外国人の著作物を自国で保護する場合、あるいは自国人の著作物が外国で保護受ける場合、それぞれの国が相互にそして個別に相手の国民の著作権を保護する条約を結ぶという方法、言い換えるならば二国間条約締結という方法が採られていた。ところが、この二国間条約は、条約を締結した二国以外の第三国との関係については無効であるなど、制度上の不備があった。それゆえに国際的な著作権保護の要請から、1884年、スイス政府の呼びかけにより会議が招集され、1886年、ベルンにて条約が締結された。本条約の特徴は次の四つ:(1)内国民待遇の原則、(2)無方式主義、(3)保護を受ける著作物=文芸、学術、美術の範囲に属する全ての製作物、(4)著作者の生存中及びその死後50年が保護期間。 に調印していなかったからである。この事例から、ラフマニノフは、ロシアとドイツで作品を登録することには警戒するようになった。

1893年春、『アレコ』(Aleko)がボリショイ劇場(Bol′shoy)にて初演の日を迎えた。このリハーサルと本番に立ち会ったチャイコフスキーは、この公演を絶賛した一方で、音楽評論家ニコライ・カシュキン(Kashkin)は、1893年5月11日付(ユリウス暦4月29日)のロシア最大の新聞Moskovskiye vedomostiにて、「勿論、批判すべきところはあるものの、若い未来の作曲家に大いに期待できるような功績をここに評価することができる」とまずまずの批評をした。この年の夏と秋には作曲に集中していたラフマニノフは、『組曲第1番 「幻想的絵画」』(Fantaisie-tableaux (Suite no.1)や『交響的幻想曲「岩」』(Utyos [The Rock])といった作品を生み出した。チャイコフスキーは、その次のシーズンもラフマニノフの作品の指揮を取ることを希望していたが、1893年11月に亡くなった。ラフマニノフは、チャイコフスキーに捧げる 『悲しみの三重奏曲第2番 ニ短調』(Trio élégiaque, d)を作曲し、その死を悼んだ。

1895年1月、ラフマニノフは、再び大作の作曲に取り掛かり、『交響曲第1番 ニ短調』(Symphony no.1, d)を完成させた。この曲は、アレクサンドル・グラズノフ(Aleksandr Glazunov)によって、1897年5月15日と27日に、演奏されたが、あまり良い評価を得ることはできなかった。後に、ラフマニノフ夫人は、この指揮の時、グラズノフは酔っ払っていたように思われたと語っている。グラズノフは、サンクトペテルブルク音楽院のレッスン中に、机の下にアルコールの瓶を隠して飲むことがあったようである。どんな理由があったにせよ、ラフマニノフはこの失敗に大いに落ち込み、その後3年間は作曲から遠ざかるほどであった。この頃、オペラ『フランチェスカ・ダ・リミニ』(Francesca da Rimini)に着手していたが、本格的な制作に取り掛かるには、また何年も待たねばならなくなった。

 

3. 指揮者としてのキャリアのスタートと『ピアノ協奏曲第2番』の誕生(1897-1901

しかしながら豊かな資本家サーヴァ・モントフ(Savva Mamontov)3)サーヴァ・マモントフ(Savva Mamontov)(1841-1918):ルネサンス期のフィンレンツェの権力者に重ねられ、「モスクワのメディチ」と称されたモントフ。彼は、芸術を愛し、芸術家たちのパトロンとなった。ラフマニノフの他、チャイコフスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキーも支援していた。 のおかげで、ラフマニノフは作曲家としてのキャリアをスタートすることとなった。1897年から98年の間、ビゼー(Bizet)の『カルメン』、グルック(Gluck)の『オルフェオとエウリディーチェ』(Orfeo ed Euridice)、チャイコフスキーの『スペードの女王』(The Queen of Spades)などの指揮を行った。また、1898年の夏の間、リムスキー・コルサコフとムソグルスキーらのオペラを、オペラ歌手フョードル・シャリアピン(Chaliapin)と共に勉強していた。

1899年4月19日、クイーンズ・ホールにて、ラフマニノフはロンドンにてデビューした。ロンドンの音楽協会(The Philharmonic Society)の要請を受けたラフマニノフは、『ピアノ協奏曲第1番』を、ラフマニノフは、それを学生時代の作品として演奏を拒否して、『交響的幻想曲「岩」』の指揮と、『前奏曲嬰ハ短調』および『幻想的小品集』(Morceaux de fantaisie )(1892)より第1楽章『悲歌 変ホ短調』(Elégie, e♭)の演奏に合意した。結果的にロンドンの聴衆は、ラフマニノフをあたたかく迎え入れ、ロンドン公演は成功した。このような演奏会の成功にもかかわらず、ラフマニノフは未だに作曲ができる状態ではなかった。この期間に、ラフマニノフは文豪のトルストイ(Lev Tolstoy)と出会う他、催眠療法を受けるなどして気鬱の治療を始めていた。また1899年、夏には、ラフマニノフが心を許せる数少ない友人の一人であったオペラ歌手シャリアピンと共にイタリアへ行き、中断していた『フランチェスカ・ダ・リミニ』の愛の二重唱の大部分を描きアフェタ。さらにこの頃、後のラフマニノフの代表的作品となる『ピアノ協奏曲第2番』(Second Piano Concerto)に取り掛かった。1900年12月2日と15日、この曲が演奏されると、ラフマニノフは自信を取り戻し、1901年10月27日と11月9日には彼自身がこの曲を演奏した。

4. 数多くのコンサート・ツアーとイワノフカでの夏(1901–17

こうしてようやく作曲の意欲を取り戻したラフマニノフは、1901年末より、『カンタータ「春」』(Vesna [Spring])や従姉妹であり妻となったナターリア・サチーナ(Natal′ya Satina)に捧げる歌曲を作曲した。その歌曲は、1906年に発表されることになる『12のロマンス』(12 Songs)に収録された。従姉弟同士の結婚は、ロシア正教会が禁じているために難しいものであったが、叔母とクレムリンの聖天使首大聖堂(Cathedral of the Archangel Michael)とのコネクションによって実現した。西欧へのハネムーンの後、ラフマニノフは、モスクワに戻り、1903年5月には、ナターリアとの間に、娘イリーナが生まれた。そうして夏にサチーナ家の別荘のあるイワノフカ(Ivanovka)で過ごす間に、オペラ『吝嗇な騎士』(Skupoy rïtsar′ ; The Miserly Knight)と『フランチェスカ・ダ・リミニ』を完成させ、1906年1月、自身で指揮をとって公演を行った。

ところがロシアの政情が悪化したため、ラフマニノフはボリショイ劇場を離れ、イタリアに渡った。ピサ近郊に滞在した彼は、完成させることはできなかったがオペラ『サランボー』(Salammbô)を書いていた。その後、一度一家でロシアに戻るも、作曲にふさわしい環境ではないと判断し、ロシアからドイツのドレスデンに移った。そこでは、『交響曲第2番 ホ短調』(Symphony no.2, e)、『ピアノ・ソナタ 第1番ニ短調』(Sonata no.1, d)、『交響詩「死の鳥」』(Ostrov myortvïkh [The Isle of the Dead])、部分的ではあったが『モンナ・ヴァンナ』(Monna Vanna)を作曲した。この『モンナ・ヴァンナ』は、およそそれから10年後の1917年にラフマニノフがロシアからアメリカに移住する時に携えていった数少ない作品の一つである。1907年5月には、パリにて、ロシアのバレエ興行主ディアギレフ4)ディアギレフ(Sergei Pavlovich Diaghilev; 1872-1929):美術評論家であるとともに、1909年、パリにBallets Russesを設立した。のロシア・バレエ団に参加した後、夏にはイワノフカで過ごすためにロシアに戻った。

イワノフカでのラフマニノフ

 

1909年11月、ラフマニノフは、初のアメリカツアーを開始した。公演を終える頃には、すっかり嫌気がさした彼は、次のアメリカでのコンサートを断り、また夏にはイワノフカに戻った。そこでは、『13の前奏曲集』(13 Preludes)、『聖金ロイオアン聖体礼儀』(Liturgiya svyatovo Ioanna Zlatousta [Liturgy of St John Chrysostom] )、『練習曲集「音の絵」』(Etudes-tableaux)などを作曲した。また1912-13年にかけて多くのコンサートを行ったラフマニノフは、その疲れを癒すためにスイスやローマに赴いた。ところが子供たちが腸チフスになったため、一家は治療のためベルリンの病院に行き、その後、再びイワノフカに落ち着いた。この頃、第一次世界大戦でヨーロッパには不穏な空気が漂っていたが、ラフマニノフは作曲に集中し、歌曲『徹夜禱』(Vsenoshchnoye bdeniye [All-night Vigil])を完成させた。

1917年2月、ロシア革命によって国内情勢が混迷を極める中、国家の方策にそぐわない芸術家にとって国内では活動することが難しくなっていった。また1917年4月、ラフマニノフは思い出の地イワノフカを訪問したが、その後その地を訪れることはなかった。ロシアを離れるためのビザを申請したラフマニノフであったが、取得に難航し、結局、招待されたストックホルムでのコンサートを利用して、ロシアを出国した。その後、妻ナターリアと子供たちもラフマニノフについてロシアを離れ、一家は2度と祖国に戻ることはなかった。

 

4. 亡命後の生活、アメリカへ(1918–43

ラフマニノフ一家は、ストックホルムからコペンハーゲンに移り、ラフマニノフの演奏活動が、ロシアに財産をおいて亡命した一家の生活を支えた。ラフマニノフはロンドンの劇場と契約を結ぶべく交渉を重ねていたが実現せず、代わりに1918年末、アメリカから3つの契約を持ちかけられた。そのため、気乗りしないにしても、ラフマニノフは一家でアメリカに渡ることを決めた。ニューヨークに到着したラフマニノフは、チャールズ・エリス(Charles Ellis)と契約を結ぶと、スタンウェイのピアノを受け取り、以降、数多くのコンサートを行っていった。1920年代末には、ビクタートーキングマシーン会社(Victor Talking Machine Company)と契約を結ぶと、彼は、ロシア人のハウスキーパーを雇い、思い出の地イワノフカと雰囲気を似せた家をニューヨークで購入した。皮肉なことに、ラフマニノフは、ツアーの際に気乗りしないとしていたアメリカにおいて、大きな成功を手に入れることになったのであった。その後、コンサートを多くこなすと同時に、エージェントとの契約が途切れた期間に、ラフマニノフは作曲に取り掛かった。

 

ラフマニノフは滅多に政治について触れることのない人物であったが、化学者イヴァン・オストロミスレンキー(Ivan Ostromislensky)とイリヤ・トルストイ(Count Il′ya Tolstoy)とともに、ソビエトの政治を批判する書簡を1931年1月12日付の『ニューヨーク・タイムズ』(The New York Times)に出した。これに対し、反論が1931年3月9日付のモスクワの新聞『夕刊モスクワ』(Vechernyaya Moskva)に掲載され、ラフマニノフはロシアでの公演を禁じられることとなった。1930年代も演奏活動を続ける中、ラフマニノフは、スイスのヘルテンシュタイン(Hertenstein)に別荘を立てようとしていた。それを彼は、「セナール」(Senar)と呼んだが、これは自身の名「セルゲイ」(Sergey)、妻の名「ナターリア」(Natal′ya)そして「ラフマニノフ」(Rachmaninoff)の頭文字をとったものであった。また休暇になると、一家はフランスのクレールフォンティーヌ(Clairefontaine)に別荘を借りるなどしており、それは帰れぬ祖国に代わる安息の地を求めているかのような行動であった。ラフマニノフ一家はアメリカにいながらも、ロシア語を話し、常にロシア人の客をもてなすなどしていた。しかしながら、ラフマニノフは、このように故郷を懐かしんでいただけではなく、アメリカや西欧のスタイルの生活を楽しんでいたことは、ニューヨークで最新の車を購入し、流行していたクリームソーダがお気に入りだったという事実からも考えられるであろう。

1934年以降、彼は、『パガニーニの主題による狂詩曲』(Rhapsody on a Theme of Paganini)や『交響曲第3番 イ短調』(Symphony no.3, a)を作曲した。そして1939年3月11日、ラフマニノフは、イギリスで最後のコンサートを行うと、第二次世界大戦による政情の悪化により、ヨーロッパを離れ、アメリカに戻ることを決意した。そして1940年秋、アメリカにてラフマニノフは最後の作品『交響的舞曲』(Symphonic Dances)を作曲した。

ラフマニノフは、1942-43年のシーズンを自身の最後のシーズンと決め、腰痛と戦いながら、演奏会をこなしていた。1943年1月、ツアーの途中に病状が悪化し、医者は肋膜炎という診断を下したが、ラフマニノフは演奏を続けた。体の不調と戦いながら、2月17日、彼は、生涯最後となるコンサートをノックスビル(Knoxville)で行った。コンサートの後、ビバリーヒルズの自宅に戻ったが、その頃にはラフマニノフの身体は、癌に侵されていた。こうして3月28日の朝、彼は自宅で亡くなった。ラフマニノフは、スイスの別荘「セナール」(Senar)あるいはロシアのイワノフカに埋葬されることを望んでいたが、ヨーロッパの政情不安により叶わず、ニューヨークのケンシコ墓地(Kensico)に埋葬された。

 

作品一覧 | Works

オーケストラ

  • 『管弦楽のためのスケルツォ ニ短調』(Scherzo, d)(1888)
  • 『ピアノ協奏曲ハ短調』(Piano Concerto, c)(1889):スケッチのみ。
  • 『交響詩 マンフレッド』(Manfred)(1890):今では失われている。
  • 『交響詩「ロスティラフ公」』(Knyaz′ Rostislav [Prince Rostislav])(1891)
  • 『ピアノ協奏曲 第1番嬰ヘ短調』(Piano Concerto no,1. f♯)(1890/ 1917):作品番号1。
  • 『交響曲ニ短調』(Symphony, d)(1891):第1章のみ残されている。
  • 『交響的幻想曲「岩」』(Utyos [The Rock])(1893):作品番号7。
  • 『ジプシー狂詩曲』(Kaprichchio na tsïganskiye temï [Capriccio on Gypsy Themes] )(1894):作品番号12。
  • 『交響曲第1番 ニ短調』(Symphony no.1, d)(1895):作品番号13。
  • 『交響曲』(Symphony)(1897):スケッチのみ残されている。
  • 『ピアノ協奏曲 第2番ハ短調』(Piano Concerto no.2, c)(1901):作品番号18。
  • 『交響曲第2番 ホ短調』(Symphony no.2, e)(1907):作品番号27。
  • 『交響詩「死の鳥」』(Ostrov myortvïkh [The Isle of the Dead])(1909):作品番号29。
  • 『ピアノ協奏曲 第3番ニ短調』(Piano Concerto no.3, d)(1909):作品番号30。
  • 『ピアノ協奏曲 ト短調』(Piano Concerto no.4, g) (1926/1941):作品番号40。
  • 『パガニーニの主題による狂詩曲』(Rhapsody on a Theme of Paganini)(1934):作品番号43。
  • 『交響曲第3番 イ短調』(Symphony no.3, a)(1936):作品番号44。
  • 『交響的舞曲』(Symphonic Dances)(1940):作品番号45。

Piano Concerto No. 2 in C Minor, Op. 18: I. Moderato
リーリャ・ジルベルシュタイン, ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 & クラウディオ・アバド
1994/10/31 ¥400

室内音楽

  • 弦楽四重奏曲』(String Quartet)(1889):現在は2曲のみ残されている。
  • 『チェロとピアノのためのロマンス ヘ短調』(Romance, a, vn, pf)(1890年代)
  • 『チェロとピアノのための2つの小品』(2 Pieces, vc, pf)(1892):作品番号2。第1楽章「前奏曲」(Prélude)、第2楽章「東洋風舞曲」(Danse orientale)。
  • 『幻想的小品集』(Morceaux de fantaisie )(1892):作品番号3。第1楽章『悲歌 変ホ短調』(Elégie, e♭)、第2楽章『前奏曲 嬰ハ短調』(Prélude, c♯)、第3楽章『メロディ ホ長調』(Mélodie, E)、第4楽章『道化役者 嬰ヘ短調』(Polichinelle, f♯)、第5楽章『セレナード 変ロ短調』(Sérénade, b♭)。
  • 『ヴァイオリンとピアノのための2つの小品』(2 Pieces, vn, pf) (1893):作品番号6。第1楽章「ロマンス」(Romance)、第2楽章「ハンガリー舞曲」(Hungarian Dance)。
  • 『悲しみの三重奏曲第1番 ト短調』(Trio élégiaque, g)(1892)
  • 『悲しみの三重奏曲第2番 ニ短調』(Trio élégiaque, d)(1893):作品番号9。
  • 『弦楽四重奏』(String Quartet)(1896):2曲のみ残されている。
  • 『チェロ・ソナタ ト短調』(Sonata, g)(1901):作品番号19。

 

ピアノソロ

  • 『無言歌 ニ短調』(Pesn′ bez slov [Song without Words], d)(1886)
  • 『3つの夜想曲』(3 Nocturnes)(1887):第1楽章『嬰ヘ短調』(f♯)、第2楽章『ヘ長調』(F)、第3楽章『ハ短調』(c–E♭)。
  • 『4つの小品』(4 Pieces)(1888):第1楽章『ロマンス 嬰ヘ短調』(Romance, f♯)、第2楽章『前奏曲 変ホ短調』(Prélude, e♭)、第3楽章『メロディー ホ長調』(Mélodie, E)、第4楽章『ガヴォット ニ長調』(Gavotte, D)。
  • 『6手のための「ワルツ」』(2 Pieces, 6 hands: Waltz, A)(1890)
  • 『6手のための「ロマンス」』(Romance, A)(1891)
  • 『2台のピアノのための「ロシアの主題による狂詩曲」』(Russian Rhapsody, e)(1891)
  • 『前奏曲 ヘ長調』(Prélude, F)(1891)
  • 『組曲第1番 「幻想的絵画」』(Fantaisie-tableaux, Suite no.1)(1893):作品番号5。
  • 『4手のピアノのための6つの小品』(6 Duets, 4 hands )(1894):作品番号11。第1楽章『舟歌』(Barcarolle, g) 、第2楽章『スケルツォ』(Scherzo, D)、第3楽章『ロシアの歌』(Thème russe, b)、第4楽章『ワルツ』(Valse, A)、第5楽章『ロマンス』(Romance, c)、第6楽章『栄光』(Slava)。
  • 『サロン的小品集』(Morceaux de salon)(1894): 作品番号10。第1楽章『夜想曲 イ短調』(Nocturne, a)、第2楽章『円舞曲 イ長調』(Valse, A)、第3楽章『舟唄 ト短調』(Barcarolle, g)、第4楽章『メロディ ホ短調』(Mélodie, e)、第5楽章『ユーモレスク ト長調』(Humoresque, G)、第6楽章『ロマンス ヘ短調』(Romance, f)、第7楽章『マズルカ 変ニ長調』(Mazurka, D♭)。
  • 『楽興の時』(Moments musicaux)(1896):作品番号16。第1楽章『変ロ短調』(Andantino, b♭)、第2楽章『変ホ短調』(Allegretto, e♭)、第3楽章『ロ短調』(Andante cantabile, b)、第4楽章『ホ短調』(Presto, e)、第5楽章『変ニ長調』(Adagio sostenuto, D♭)、第6楽章『ハ長調』(Maestoso, C)。
  • 『幻想的小品 ト短調』(Morceau de fantaisie, g)(1899)
  • 『フゲッタ ヘ長調』(Fughetta, F)(1899)
  • 『組曲第2番』(Suite no.2)(1901):作品番号17。
  • 『フーガ ニ短調』(1891)
  • 『ショパンの主題による変奏曲』(Variations on a Theme of Chopin)(1903):作品番号22。
  • 『10の前奏曲集』(10 Preludes)(1903):作品番号23。
  • 『ピアノ・ソナタ 第1番ニ短調』(Sonata no.1, d)(1907):作品番号28。
  • 『13の前奏曲集』(13 Preludes)(1910):作品番号32。
  • 『練習曲集「音の絵」』(Etudes-tableaux)(1911):作品番号33。第1楽章『ヘ短調』(f)、第2楽章『ハ長調』(C)、第3楽章『ハ短調』(c)、第4楽章『ニ短調』、第5楽章『変ホ短調』、第6楽章『変ホ長調』(「市場の情景」)、第7楽章『ト短調』、第8楽章『嬰ハ短調』。
  • 『ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調』(Sonata no.2, b♭)(1913/1931):作品番号36。
  • 『練習曲集「音の絵」』(Etudes-tableaux)(1916-17):作品番号39。第1楽章『ハ短調』(c)、第2楽章『イ短調』(「海とかもめ」)(a)、第3楽章『嬰ヘ短調』(f♯)、第4楽章『ロ短調』(b)、第5楽章『変ホ短調』(e♭)、第6楽章『イ短調』(「赤ずきんちゃんと狼」)(a)、第7楽章『ハ短調』(「葬送の行進」)(c)、第8楽章『ニ短調』(d)、第9楽章『ニ長調』(「東洋風行進曲」)(D)。
  • 『前奏曲ニ短調』(Piece, d)(1917)
  • 『断片』(Fragments)(1917)
  • 『オリエンタル・スケッチ』(Oriental Sketch)(1917)
  • 『コレルリの主題による変奏曲』(Variations on a Theme of Corelli)(1931):作品番号42。

 

声楽

  • 『聖なる修道院の門の傍らに』(U vrat obiteli svyatoy [At the Gates of the Holy Abode])(1890)
  • 『君には何も語るまい』(Ya tebe nichego ne skazhu [I Shall Tell You Nothing])(1890):フェート(A. Fet)作詞。
  • 『心よ、お前はふたたび目覚めた』(Opyat′ vstrepenulos′ tï, serdtse [Again You Leapt, my Heart])(1890)
  • 『四月、春の祭の日』(C’était en avril)(1891)
  • 『夕闇は迫り』(Smerkalos′ [Twilight has Fallen])(1891)
  • 『君は覚えているだろうか、あの夕べを』(Tï pomnish′ li vecher [Do you remember the evening])(1893)
  • 『幻滅した男の歌』(Pesnya razocharovannogo [Song of the Disillusioned])(1893)
  • 『祈祷に眠らざる生神女』(V molitvakh neusïpayushchuyu bogoroditsu [In our Prayers, Ever-vigilant Mother of God])(1893)
  • 『花はしぼんだ』(Uvyal tsvetok [The Flower has Faded])(1893)
  • 『6つのロマンス』(6 Songs)(1890-93): 作品番号4。
  • 『6つのロマンス』(6 Songs)(1893): 作品番号8。
  • 『12のロマンス』(12 Songs)(1896): 作品番号14。
  • 『女声合唱または児童合唱のための 6つの合唱曲』(6 Choruses, female or children’s vv )(1896):作品番号15。
  • 『君はしゃっくりをしなかったかい』(Ikalos′ li tebe [Were You Hiccoughing])(1899)
  • 『夜』(Noch′ [Night])(1900)
  • 『カンタータ「春」』(Vesna [Spring])(1902):作品番号20。
  • 『12のロマンス』(12 Songs)(1906): 作品番号21。
  • 『15のロマンス』(15 Songs)(1906): 作品番号26。
  • 『ラフマニノフからスタニスラフスキーへの手紙』(Letter to K.S. Stanislavsky)(1906)
  • 『聖金ロイオアン聖体礼儀』(Liturgiya svyatovo Ioanna Zlatousta [Liturgy of St John Chrysostom] )(1910):作品番号31。
  • 『14のロマンス』(14 Songs)(1912): 作品番号34。
  • 『合唱交響曲「鐘」』(Kolokola [The Bells])(1913):作品番号35。
  • 『「ヨハネ福音書」から』(Iz evangeliya ot Ioanna [From the Gospel of St John])(1915)
  • 『徹夜禱』(Vsenoshchnoye bdeniye [All-night Vigil])(1915):作品番号37。
  • 『6つのロマンス』(6 Songs)(1916): 作品番号38。
  • 『3つのロシアの歌』(3 Russian Songs)(1926):作品番号41。

編曲

  • 『4手ピアノのための イタリア風ポルカ』(Polka italienne, pf 4 hands)(1906)
  • 『バレエ音楽「眠れる森の美女」』(The Sleeping Beauty)(1890):4手ピアノ。
  • 『グラズノフ:交響曲第6番』(A. Glazunov: Symphony no.6)(1897):4手ピアノ。
  • 『 R.のポルカ ベーア作曲「笑う小娘」より』(Behr: Lachtäubchen op.303, pubd as Polka de WR)(1911):ピアノ独奏。
  • 『ラフマニノフ:歌曲「ライラック」作品21-5』(Lilacs op.21 no.5)(1913-14):ピアノ独奏。
  • 『アメリカ合衆国国歌 「星条旗」』(S. Smith: The Star-Spangled Banner)(1918):ピアノ独奏。
  • 『リストのためのカデンツァ:ハンガリー狂詩曲』(Cadenza for Liszt: Hungarian Rhapsody no.2)(1919):ピアノ。
  • 『クライスラー:愛の悲しみ』(Liebesleid)(1921):ピアノ独奏。
  • 『ビゼー:「アルルの女」第1組曲より「メヌエット」』( Bizet: L’Arlésienne Suite no.1: Minuet)(1922):ピアノ独奏。
  • 『ラフマニノフ:歌曲「ひなげし」作品38-3』( Rachmaninoff: Daisies op.38 no.3)(1922?):ピアノ独奏。
  • 『ムソルグスキー:ホパーク 歌劇「ソロチンスクの市」より』(M. Musorgsky: Sorochintsy Fair: Hopak)(1924):ピアノ独奏。ピアノとヴァイオリン版も1926年に作られている。
  • 『シューベルト:いずこへ 歌曲集「美しき水車小屋の娘」より』( Schubert: Wohin?)(1925):ピアノ独奏。
  • 『クライスラー:愛の喜び』(Liebesfreud )(1925):ピアノ独奏。
  • 『リムスキー=コルサコフ:「熊ん蜂の飛行」 歌劇「皇帝サルタンの物語」より』( Rimsky-Korsakov: Flight of the Bumble Bee)(1929):ピアノ独奏。
  • 『バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番より』(S. Bach: Violin Partita)(1933):ピアノ独奏。第1楽章『前奏曲』(Prélude)、第2楽章『ガヴォット』(Gavotte)、第3楽章『ジグ』(Gigue)。
  • 『メンデルスゾーン:スケルツォ 劇付随音楽「夏の夜の夢」』(F. Mendelssohn: A Midsummer Night’s Dream: Scherzo)(1933):ピアノ独奏。
  • 『チャイコフスキー:「子守唄」作品16-1』(I. Tchaikovsky: Lullaby op.16 no.1)(1941):ピアノ独奏。

オペラ

  • 『エスメルダ』(Esmeralda)(1888)
  • 『アレコ』(Aleko)(1892)
  • 『吝嗇な騎士 作品24』(Skupoy rïtsar′ [The Miserly Knight])(1904)
  • 『フランチェスカ・ダ・リミニ 作品25』(Francesca da Rimini) (1900-1906)
  • 『サランボー』(Salammbô)(1906):シナリオが存在。
  • 『モンナ・ヴァンナ』(Monna Vanna)(1907)

 

ラフマニノフの曲を使用した映像作品・フィギュアスケート

  • 『シャイン』(Shine/1996年):『ピアノ協奏曲第3番』がコンクールのシーンで使用される。ピアニストのデイヴィット・ヘルフゴットの半生を基にした映画。
  • 『ラフマニノフ:ある愛の調べ』(原題:Ветка сирени/ 英語: Lilacs/ 2007年)
  • 浅田真央(2009-10年・フリー)『前奏曲嬰ハ短調: 鐘』:2010年、バンクーバー・オリンピック銀メダル。
  • 浅田真央(2013-14年・フリー)『ピアノ協奏曲第2番』:ソチオリンピック総合6位。

 

Notes   [ + ]

1. 『前奏曲 嬰ハ短調』のアンコール:この作品はあまりに成功してしまったがために、どこのコンサートでも求められることになった。ラフマニノフが、うんざりしながら繰り返しこの作品を演奏する様子は、ラフマニノフの伝記映画『ラフマニノフ:ある愛の調べ』(原題:Ветка сирени/ 英語: Lilacs/ 2007年)にて、リピートされ続けるメロディーと列車の車輪の映像の組み合わせによって、効果的に描かれている。
2. ベルヌ条約:正式名「文学及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」(Berne Convention for the Protection of Literary and Artistic Works)。万国著作権条約(1952年)と並んで、著作権の国際的保護のための条約として考えられている。ベルヌ条約制定前は、外国人の著作物を自国で保護する場合、あるいは自国人の著作物が外国で保護受ける場合、それぞれの国が相互にそして個別に相手の国民の著作権を保護する条約を結ぶという方法、言い換えるならば二国間条約締結という方法が採られていた。ところが、この二国間条約は、条約を締結した二国以外の第三国との関係については無効であるなど、制度上の不備があった。それゆえに国際的な著作権保護の要請から、1884年、スイス政府の呼びかけにより会議が招集され、1886年、ベルンにて条約が締結された。本条約の特徴は次の四つ:(1)内国民待遇の原則、(2)無方式主義、(3)保護を受ける著作物=文芸、学術、美術の範囲に属する全ての製作物、(4)著作者の生存中及びその死後50年が保護期間。
3. サーヴァ・マモントフ(Savva Mamontov)(1841-1918):ルネサンス期のフィンレンツェの権力者に重ねられ、「モスクワのメディチ」と称されたモントフ。彼は、芸術を愛し、芸術家たちのパトロンとなった。ラフマニノフの他、チャイコフスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキーも支援していた。
4. ディアギレフ(Sergei Pavlovich Diaghilev; 1872-1929):美術評論家であるとともに、1909年、パリにBallets Russesを設立した。

ピョートル・チャイコフスキー

生 : 1840年5月7日(ユリウス暦では4月25日)(ロシア帝国、ウラル地方ヴォトンキスク(Kamosko-Votkinsk, Vyatka province))/没 : 1893年11月6日(ユリウス暦では10月25日)(ロシア帝国、サンクトペテルブルグ)

ピョートル・チャイコフスキー (Tchaikovsky, Pyotr Il′yich) は、西欧の交響曲の伝統を融合させた新しいロシアの作曲家。ロシアの伝統的またチャイコフスキーの個人的な素地を持ちながら、ベートーベンやシューマンの交響曲のスタイルとロシアの作曲家のグリンカ(Mikhail (Ivanovch) Glinka) 1)グリンカ(Mikhail (Ivanovch) Glinka):1803年生まれ1857年没。ロシア国民音楽派の先駆者。代表作にオペラ『ルスランとリュドミラ』(Russlan and Ludmilla)(1842)。 の作品を結びつけた。

生涯 | Biography

法科学校での音楽教育、帝室ロシア音楽協会からペテルブルク音楽院へ (1840-1865年)

1840年、ピョートル・チャイコフスキーは、鉱山技師の父ペトローヴィチ・チャイコフスキー(Il’ya Petrovich Tchaikovsky)と母アレクサンドラの次男として誕生した。後にチャコフスキーには、双子の弟と一人の妹が生まれた。双子の一人は、法学者となるアナトリー(Anatoly; 1850-1915)、そしてもう一人は、作家となるモデスト(Modest; 1850-1916)であった。その兄弟たちは、チャイコフスキーを生涯にわたって支えていくことになり、モデストは、『ピョートル・チャイコフスキーの人生』(The Life of Pyotr Il′yich Tchaikovsky (1901–03)) という伝記を出版した。1848年10月、父の仕事を探すために一家はモスクワに移り、その一ヶ月後にサンクトペテルブルクに移った。さらに1849年6月にはアラパエフスク(Alapayevsk)いう鉱山都市に移り住んだ。

チャイコフスキーは語学の才能があったことから、6歳の時にはフランス語とドイツ語を読むことができたという。チャイコフスキーの家庭教師は、少年期のチャイコフスキーの環境は、音楽教育に適したものとは言えなかったことを嘆いていた。そのうちチャイコフスキーの新しい家庭教師アナスタシア・ペトローヴァ(Anastasya Perivna)がやってくると、彼女はチャイコフスキーのために学校入学の準備を行った。このことから、チャイコフスキーはアナスタシアのために『アナスタシア・ワルツ』(1854)という曲を作っている。1850年、チャイコフスキーは、母によって法科学校の予科生としてサンクトペテルブルクに移ることになったが、わずか10歳のチャイコフスキーにとってこの家族との別れはトラウマとなったという。

1852年8月から59年5月まで法科学校に在籍したチャイコフスキーは、喫煙以外は、真面目に学校の規則に従っていた。1854年6月、母のアレクサンドラが亡くなった。弟のモデストは、その著書『チャイコフスキーの生涯』の中で暗にチャイコフスキーが母の師に立ち会えなかったことを示唆している。母の死によって一家の生活は大きく変わり、その弟たちを寄宿学校に入れるために、一家はサンクトペテルブルクで一緒に住むことになった。一見音楽とは関係のないように思われる法科学校は、一流の音楽家のスポンサーとなり、生徒たちにはサンクトペテルブルクのコンサートやオペラに行く機会を与えた上に、音楽のコースを用意していた。チャイコフスキーは、そこでコーラスを勉強したとされる。チャイコフスキーは、文学にも嗜み、1854年には、『ヒュペルボラ』(Hyperbole)というオペラの他、歌も作曲していた。学校の外では、母方の叔母の支援によって音楽の勉強を続け、歌の教師ルイージ・ピッチョリ(Luigi Piccioli)やピアノの教師ルドルフ・キュンディンガー(Rudolf Kündinger)に師事した。

1859年、法科学校を卒業したチャイコフスキーは、法務省で働くこととなる。この頃、チャイコフスキーは、サンクトペテルブルグの劇場にて催されていたバレエ、イタリアオペラ、アマチュアの演劇に触れていた。そして彼の妹サーシャは、1860年11月、ウクライナのカーメンカを拠点とする貴族ダヴィドヴ家 (Lev Davïdov)いだ一方で、1861年の7月から9月の間、チャイコフスキーは父の仕事の手伝いとして西欧を外遊した。役所勤めや一族のビジネスを離れ、つかの間の休息を得たチャイコフスキーは、旅行熱に浮かされながら西欧文化との関わりを大切にしていた。その後、音楽関係の知人の紹介で、コンサートをオーガナイズするために1859年に設立されたロシア音楽協会(The Russian Musical Society)を知ることになり、1860 年春には音楽のコースを受けるようになる。  

1860年のチャイコフスキー

 1861年より、チャイコフスキーは、仕事を続けながら、ロシア音楽教会において音楽理論のコースを履修し始めた。彼の一番目の教師は、ベートーベンのスタイルを引き継いだニコライ・ザレンバ(Nikolay ZarembaIであった。文官としての出世ができなかった1862年夏、チャイコフスキーは、ロシア音楽教会が新設したペテルブルク音楽院(The St Petersburg Conservatory) 2)ペテルブルク音楽院(The St Petersburg Conservatory): アントン・ルビンシテインによって1862年10月設立。ロシアの千年記念にあたる。 に入った。チャイコフスキーの同級生には、音楽評論家のゲルマン・ラローシ (Herman Laroche; 1845-1904)がいた。チャイコフスキーは、主にアントン・ルビンステイン(Anton Rubinstein; 1829-1894)のもとで、ペテルブルク音楽院では、理論の他、ピアノ、フルート、オルガンを習った。この師と生徒の関係は複雑であり、チャイコフスキーは内心ルビンステインの音楽家としての見くびりながらも、その人格には逆らうことができず、多くのことを師から学んだ。また、すでにこの時にも、チャイコフスキーは当時のロシアにおける音楽を分断していたロシアの音楽と外国の音楽の間の論争を集結させようとしていたという。1865年、音楽院を卒業したチャイコフスキーに対し、同級生のラローシは、「君は現在のロシアにおいて多大なる才能を持っている」と賞賛の言葉を贈っていた。また、この頃のロシア帝国は、皇帝アレクサンドル2世(Alexsander II; r. 1855-1881)のもとで、外政では、度重なる戦争に苦戦しながらも、内政では、農奴解放令を初めとして、地方行政改革、司法改革、軍制改革、教育改革など、様々な改革が皇帝の強い主導によって行われた。このように、強い帝政がしかれるロシアにおいて、チャイコフスキーが学んだロシア音楽協会は、当初ルビンステインら力のある知識人が主導して運営していたものの、1870年代には完全に国営化されるようになった。

モスクワでの活動(1866-76年)と最悪な結婚(1877年)

1865年9月、アントンの弟ニコライ・ルビンステイン(Nikolay Rubinstein; 1835-1881)は、ペテルブルク音楽院のような学校をモスクワにも作るために、音楽理論の教師を探していた。チャイコフスキーは、このポストに応募し、1866年1月にはモスクワに移った。このニコライ・ルビンステインは、精力的に活動した作曲家・ピアニストであり、チャイコフスキーの重要な友であった。こうして1866年9月、帝室音楽協会モスクワ支部が開校して以来、チャイコフスキーは、プロの音楽家としてのキャリアを歩み始め、モスクワのナショナリストからも大きな影響を受けた。モスクワで出会ったチャイコフスキーの友の中には、モスクワ支部で音楽理論について教鞭をとったニコライ・カシュキン(Nikolay Kashkin; 1839-1920)の他、コンスタンチン・カールロヴィチ・アルブレヒト(Konstantin Karl Albrecht,; 1836-1893)や建築家イヴァン・クリメンコ(Ivan Klimenko)があげられ、またサンクトペテルブルクでの同窓生ラローシもモスクワに移った。ルビンステインが立ち上げた芸術家サークルにおいて、チャイコフスキーはモスクワの芸術家やエリートとの交流を楽しんでいた。ところが、チャイコフスキーは繰り返される引越しと移動のために、常に経済的な危機に陥っていた上に、苦情が来るほど教師としての職を遂行するのに支障をきたしていた。このように繊細な性格なチャイコフスキーであったが、1868年歌手のデジレ・アルトー (Désirée Artôt) に恋に落ち、婚約するものの、間も無く破局した。

この時期の作曲家としてのチャイコフスキーのキャリアは、成功していたとは言い難かった。若い頃の作品は散逸している他、演奏されることも稀であった。その後、一時サンクトペテルブルクに戻るものの、チャイコフスキーのモスクワでの初演奏作品は、『序曲 ヘ長調』(Overture, F)であったが、凝った演出となり過ぎた。この時期、強烈な美と明白な論理の間の矛盾がチャイコフスキーの中にはあったといえよう。1875年、『ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調』(Piano Concerto no.1, b♭)を作曲したチャイコフスキーは、初演を友人のニコライ・ルビステインに依頼するも、ニコライは酷評したため、ハンス・フォン・ビューロー(Hans Guido Freiherr von Bülow; 1830-1894)の手によって演奏され成功を収めることとなる。後にこのことを謝罪した友人のニコライ・ルビンステインは手厳しい批評家であったが、そのチャイコフスキーに対する意見は私的なものであったという。

1877年7月18日、チャイコフスキーは、アントニア・イワノヴナ (Antonina Ivanovna Milyukova) と結婚した。あまり相性の良くなかったこの結婚はチャイコフスキーにとって危機を与えたが、二人がすぐに離婚することはなかった。結婚からわずか2週間後、チャイコフスキーは、妹の嫁ぎ先ウクライナで向かいそこで夏を過ごし、9月になるとモスクワで妻との暮らしに戻った。しかしながら、すぐに精神錯乱状態に陥ったチャイコフスキーは、サンクトペテルブルクに移り、医師の勧めで妻アントニアのいない新生活を送ることとなった。

依然として不安定な生活を送るチャイコフスキーには3つの問題があった。一番彼を悩ませていたのは、お金の問題であった。収入がいくら多くても浪費してしまうチャイコフスキーは、援助を友人に頼んでいた。その次に、チャイコフスキーの悩みの種となっていたのは、以前から問題になっていた音楽院での自身の授業であった。この教職のために、作曲に専心できないと考えていた。そして最後の問題は、インスピレーションであった。妻アントニナの証言によると、チャイコフスキーは結婚生活により創造性が失われると考えていたとのことであった。

このように困難を極めた1877年であったが、チャイコフスキーの人生に変化を与えた。しばらくは公表されることはなかったがこの頃、音楽院を離れ、未亡人であり資産家のナジェジダ・フォン・メック(Nadezhda von Meck; 1831-1894)から金銭的な援助を受けていた。1876年12月から始まるチャイコフスキーとナジェジダの往復書簡は、14年も続いたが2人が会うことは一度もなかった。

旅行生活(1878-1885年)と友人ルビンステインとの関係

1878年夏、前年の不調とは打って変わって、チャイコフスキーは、 『白鳥の湖』 (Lebedinoe ozero [Swan Lake]) や『鍛冶屋のヴァークラ』(Kuznets Vakula [Vakula the Smith])といった大作を生み出した。この頃から特にチャイコフスキーは、度々ロシアの外に出て行くようになり、1878年以降6年間の間で20ヶ月以上はロシア国内にはいなかった。このような小旅行もチャイコフスキーの気鬱を完全に癒したとは言えず、依然として作曲の際には苦慮していた。例えば、『大序曲“1812年”』(1812, festival overture, E♭)は、美しい音とけたたましい音が並存するものであった。

バレエ『白鳥の湖』より

音楽院の仕事上の失敗と結婚生活の失敗を引きずったチャイコフスキーではあったが、1884年の未亡人であるパトロン・メックに送った書簡の中では、自身の交響曲は、伝統や規則から自由であることを語っている。

『ピアノ協奏曲第1番』(1875) の酷評以来、大きな溝ができていた友人ルビステインとチャイコフスキーであったが、ルビステインに捧げた『ピアノ協奏曲第2番』(『ピアノ協奏曲第2番ト長調』(Piano Concerto no.2, G; 1880)がきっかけで二人は和解へと向かっていく。1881年、ルビンステインが亡くなると、彼の死を悼んだチャイコフスキーは、『ピアノ三重奏曲 イ短調 “偉大な芸術家の思い出のために”』(Piano trio; 1881-82)を発表した。ルビンステインは、時にはチャイコフスキーの私生活についてまで酷評し最悪の関係にあった上に、音楽院でチャイコフスキーに用意した職は、チャイコフスキーに務まるものではなかったものの、やはりチャイコフスキーにとって重要な保護者であったことは変わりなかった。

この時期に、チャイコフスキーは、オペラ『オルレアンの少女』(Orleanskaya deva [The Maid of Orléans]; 1878-79)と『マゼッパ』(Mazepa [Mazeppa]; 1881-83)を残しており、それぞれ1881年と1884年に初演を迎えている。作曲にあたりチャイコフスキーは主にシラー 3)シラー(Friedrich von Schille, 1759-1805):ドイツの詩人・劇作家。代表作には『ウィルヘルム=テル』(Wilhelm Tell; 1804)や『ドン=カルロス』(Don Carlos; 1787)がある といった劇作家から引用しながらも、自身のスタイルにシナリオを変えていた。特に『マゼッパ』の方は、サンクトペテルブルクでは失敗に終わったものの、モスクワでは成功を収めた。

1877年から1885年という期間は、チャイコフスキーにとって、結婚の失敗から、放浪生活へというように、常に不安定で先の見えないものであった。パトロンのメックの助けもあって、自由に振舞うことができていたものの、それはコンパスを持たない航海のようであった。このような生活が自身の音楽のためにも人間性のためにもならないと悟ったチャイコフスキーは、帰還することに決め、住む場所と仕事を探すこととなった。

定住と最高の栄誉 (1885-1993年)

1885年2月、チャイコフスキーは、モスクワから90キロ離れたところに位置するマイダノヴォに家を借りた。1881年の友人ルビンステインの死後、ロシア音楽協会から復職の申し出があったものの、チャイコフスキーは断っていた。彼は公的な生活を避けようとしていたが、その知名度がそれを許さなかった。こうしてロシア音楽協会モスクワ支部の重役となった。この職権を生かして、1889年から90年の間に、彼は国際的な音楽家たちであるブラームス(Brahms)、ドヴォルザーク(Dvořák)、マスネ(Massenet)をモスクワに招いた。また、ロシアの音楽家リムスキー・コルサコフ(Rimsky-Korsakov)が打楽器奏者の才能のなさに絶望した時には、チャイコフスキー自身が、『スペイン狂詩曲』(Spanish Capriccio)にてカスタネットを担当した。これはチャイコフスキーによって、オーケストラの結束を固めようとした作戦であった。このように西欧での人脈を生かして働きかけるなどしていたチャイコフスキーであったが、音楽院での教職に戻ることはなく、同院での監督、試験官、ブローカーの役割に徹した。

音楽院での活動の他、チャイコフスキーは指揮者もこなすようになっていた。1887年12月、チャイコフスキーは指揮者としての初めてのツアーを開始した。1888年7月にはアメリカにまで赴いたこのツアーは、自身の音楽の他、モーツァルト、ベートーベン、アントン・ルビンステイン、ボロディンなどの曲も扱った。これらチャイコフスキーが行った仕事は大成功を収め、彼の名声を確実なものにした。1884年、チャイコフスキーは、聖ウラジミール4等勲章 (the Order of St Vladimir, Fourth Class) を授けられた上に、1886年には、ロシア大公コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (the Grand Duke Konstantin Romanov; 1858-1915) 4)ロシア大公コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (the Grand Duke Konstantin Romanov; 1858-1915): ロシアの皇族。劇作家でもあり、ロシア科学アカデミー総裁を務めた。 との交流も行われるようになった。さらに、1888年には皇帝アレクサンドル (Aleksandr III; 1845-1894/ r. 1881-1894) によって終身年金を授けられた。また、帝国劇場の責任者イワン・フセヴォロシスキー (Ivan Vsevolozhsky; 1835-1909)とのつながりにより、さらなる活動の場を得た。一方で、長年彼を支え続けたパトロン・メックとの文通は、簡潔なものとなっていき、その頻度も減っていった。また仕事上での成功とは裏腹に、この頃からチャイコフスキーの健康状態も悪化していくことになる。

晩年に差し掛かり、チャイコフスキーの音楽のスタイルは、「この世のもの」と「この世のものではないもの」との哲学的な区分に基づく洗練されたものになっていく。これは同時代を生きた友人たちの死が影響していた。ついに14年続いたパトロンであるメックとの関係が1890年に終わり、深い悲しみを抱えていたチャイコフキーのキャリアは、最高潮を迎えており、また1893年にはケンブリッジ音楽協会から名誉博士号を授けられる。この頃、『スペードの女王』(Pikovaya dama [The Queen of Spades])や『眠れる森の美女』(Spyashchaya krasavitsa (‘The Sleeping Beauty’) )といった名作が成功を収めていた。

1890年のチャイコフスキー

チャイコフスキーの評価は、地域によって様々であった。ロシアの外では、「ロシア人らしさ」について議論がなされた一方で、ヨーロッパあるいはアジア、印象的あるいは情熱的、交響曲あるいはオペラなどと多面的な性質を持つとされていた。特に、アメリカや英国において、彼の音楽は大好評であった。ロシアの中では、その巨匠の才能を模倣するものが現れる一方で、あまりに多作だったために巨匠の創造性が損なわれるのではないかという懸念もなされたりした。そのような心配をよそに、チャイコフスキーの芸術性は、保持され、前衛的な段階によって新しいものへ生まれ変わっていった。以前より体調を崩していたチャイコフスキーは、1893年11月6日に急死した。そのわずか9日前の10月28日には、『交響曲第6番 ロ短調』(Symphony, No. 6, B)が初演されたばかりであった。『交響曲第7番』が未完のまま保存されていることを考えると、チャイコフスキーは最期まで精力的な創作活動をしていたのであった。

作品一覧 | Works

作品番号あり(1-80まで)

  1.  『2つの小品』(Two Pieces; 1867):ピアノ曲。
  2. 『ハープサルの思い出』(Souvenir de Hapsal; 1867):ピアノ曲。
  3. 『地方長官』(Voyevoda (The Provincial Governor); 1867-68):歌曲。
  4. 『ワルツ カプリース ニ長調』(Valse caprice, D; 1868):ピアノ曲。
  5. 『ロマンス ヘ短調』(Romance, f; 1868):ピアノ曲。
  6. 『6つの歌』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1869):ピアノと独唱。
  7. 『ワルツ スケルツォ イ長調』(Valse-scherzo, A; 1870):ピアノ曲。
  8. 『カプリース 変ト長調』(Capriccio, G♭; 1870):ピアノ曲。
  9. 『3つの小品』(Trois morceaux; 1870): ピアノ曲。
  10. 『2つの小品』(Deux morceaux; 1871):ピアノ曲。
  11. 『弦楽四重奏曲第1番 ニ長調』(String Quartet no.1, D; 1871): 室内楽。
  12. 『雪娘』(Snegurochka [The Snow Maiden]; 1873):コーラスとオーケストラ。
  13. 『交響曲第1番 ト短調 “冬の日の幻想”』(Symphony no.1, g; 1866):オペラ。
  14. 『鍛冶屋のヴァークラ』(Kuznets Vakula [Vakula the Smith]; 1878):オペラ。
  15. 『デンマーク国家による祝典序曲』(Festival Ov. on the Danish National Hymn, D; 1866):オーケストラ。
  16. 『6つのロマンス』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1872):ピアノと独唱、歌曲集。
  17. 『交響曲第2番 ハ短調“小ロシア”』(Symphony no.2, c (‘Little Russian’); 1872):オーケストラ。
  18. 『幻想序曲“テンペスト”』(Burya [The Tempest]; 1872):オーケストラ。
  19. 『6つの小品』(Six morceaux; 1872):ピアノ曲。
  20. 『白鳥の湖』(Lebedinoe ozero [Swan Lake]; 1878):バレエ音楽。
  21. 『6つの小品』(Six morceaux; 1873):ピアノ曲。
  22. 『弦楽四重奏曲第2番 ヘ長調』(String Quartet no.2, F; 1874):室内楽。
  23. 『ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調』(Piano Concerto no.1, b♭; 1874-75)
  24. 『エフゲニー・オネーギン』(Yevgeny Onegin [Eugene Onegin];1877-78):オペラ。
  25. 『6つの歌』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1874):ピアノと独唱、歌曲集。
  26. 『憂鬱なセレナード』(Sérénade mélancolique, b; 1875): ヴァイオリンコンチェルト。
  27. 『6つの歌』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1875):ピアノと独唱、歌曲。
  28. 『6つの歌』(Shest′ romansov [Six Romances]; 1875):ピアノと独唱、歌曲。
  29. 『交響曲第3番二長調“ポーランド”』(Symphony no.3, D (‘Polish’); 1875):オーケストラ。
  30. 『弦楽四重奏曲第三番変ホ長調』(String Quartet no.3, e♭; 1876):室内楽。
  31. 『スラブ行進曲』(Slavyansky marsh [Slavonic March] (Serbo-Russky marsh), B♭; 1876):オーケストラ。
  32. 『幻想曲 “フランチェスカ・ダ・リミニ』(Francesca da Rimini, sym. fantasia after Dante; 1876):オーケストラ。ダンテの『神曲』を題材にした曲。
  33. 『ロココ風の主題による変奏曲』(Variations on a Rococo Theme, A ; 1876):チェロコンチェルト。
  34. 『ワルツ・スケルツォ』(Valse-scherzo, C;1877):ヴァイオリンコンチェルト。
  35. 『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』(Violin Concerto, D; 1876-77)
  36. 『交響曲第4番ヘ短調』(Symphony no.4, f; 1876):オーケストラ。
  37. 『ピアノソナタ ト長調』(Sonata, G; 1878)/ 37b.『四季』(Les saisons; 1875-76):ピアノ曲。
  38. 『6つの歌』(1878):独唱とピアノ。
  39. 『子供のアルバム』(Album pour enfants; 1878):ピアノ曲。
  40. 『12の小品 中級』(Douze morceaux (difficulté moyenne); 1878):ピアノ曲。
  41. 『聖金口イオアン聖体礼儀』(Liturgy of St John Chrysostom; 1878): コーラス。クリュソストモス(Saint John Chrysostom; 347?-407)は、コンスタンティノープル大司教(r. 398-404)・ギリシアの教父。彼の雄弁は、「金の口ヨハネ」と賞賛された。
  42. 『なつかしい土地の思い出』(Souvenir d’un lieu cher; 1878):ヴァイオリン、ピアノ。
  43. 『組曲第1番ニ長調』(Suite no.1, D; 1878-79):オーケストラ。
  44. 『ピアノ協奏曲第2番ト長調』(Piano Concerto no.2, G;1879-80)
  45. 『イタリア奇想曲』(Capriccio Italien, A; 1880):オーケストラ。
  46. 『6つの二重唱曲』(1880)
  47. 『7つの歌』(1880)
  48. 『弦楽のためのセレナーデハ長調』(Serenade, C, str; 1880):オーケストラ。
  49. 『大序曲“1812年”』(1812, festival ov., E♭; 1880):オーケストラ。
  50. 『ピアノ三重奏曲 イ短調 “偉大な芸術家の思い出のために”』(Piano trio; 1881-82)
  51. 『6つの小品』(Six morceaux; 1882)
  52. 『晩祷』(Vesper Service; 1882): コーラス。
  53. 『組曲第2番ハ長調“性格的”』(Suite no.2, C; 1883):オーケストラ。
  54. 『16の子供のための歌』(1883):独唱とピアノ。
  55. 『組曲第3番ト長調』(Suite no.3, G; 1884):オーケストラ。
  56. 『協奏的幻想曲ト長調』(Concert Fantasia, G; 1884):ピアノコンチェルト。
  57. 『6つの歌』(1884): 独唱とピアノ。
  58. 『マンフレッド交響曲』(Manfred, sym. after Byron, b; 1885):オーケストラ。
  59. 『ドゥムカ:ロシアの農村風景』(Dumka: Russian rustic scene; 1886):ピアノ曲。
  60. 『12の歌』(1886):独唱とピアノ。
  61. 『組曲第4番ト長調“モーツァルティアーナ”』(Suite no.4, G; 1887):オーケストラ。
  62. 『奇想的小品ロ短調』(Pezzo capriccioso; 1887):チェロコンチェルト。
  63. 『6つの歌』(1887):独唱と歌。
  64. 『交響曲第5番ホ短調』(Symphony no.5, e; 1888):オーケストラ。
  65. 『フランス語の歌詞による6つの歌』(1888):独唱とピアノ。
  66. 『眠れる森の美女』(Spyashchaya krasavitsa [The Sleeping Beauty]; 1888-89):バレエ音楽。
  67. 『幻想序曲ハムレット』(Hamlet, fantasy ov. after Shakespeare, f; 1889-90):オーケストラ。
  68. 『スペードの女王』(Pikovaya dama [The Queen of Spades]; 1890): オペラ。
  69. 『イオランタ』(Iolanta [Iolanthe]; 1891):オペラ。
  70. 『弦楽六重奏曲ニ短調 “フィレンツェの思い出”』(Souvenir de Florence, str sextet, D; 1887-90)
  71. 『組曲くるみ割り人形』(Shchelkunchik [The Nutcracker]; 1892):オーケストラ。
  72. 『18の小品』(Dix-huit morceaux; 1893):ピアノ曲。
  73. 『D. M. ラートガウスの詞による6つの歌』(1893)
  74. 『交響曲第6番ロ短調“悲愴”』(Symphony no.6, b (‘Pathétique’); 1893):オーケストラ。
  75. 『ピアノ協奏曲第3番変ホ長調』(Piano Concerto no.3, E♭;1893)
  76. 『序曲 嵐』(Groza [The Storm]; 1864):オーケストラ。
  77. 『幻想曲 運命』(Fatum [Fate]; 1868):オーケストラ。
  78. 『交響的バラード“地方長官”』(Voyevoda; 1890-91):オーケストラ。
  79. 『アンダンテとフィナーレ変ロ長調/変ホ長調』(Andante, B♭, Finale, E♭ ;1893):ピアノコンチェルト。
  80. 『ピアノソナタ 嬰ハ短調』(1865; Sonata, c♯): 死後出版(1900)。

作品番号なし

オペラとバレエ

  • 『ヒュペルボラ』(Hyperbole; 1854)
  • 『ポリス・ゴドノフ』(Boris Godunov; 1863-64)
  • 『僭称者ドミトリーとワシリー・シュイスキー』(Dmitry Samozvanets i Vasily Shuysky [Dmitry the Pretender and Vasily Shuysky]; 1867)
  • 『大混乱』(Putanista [The Tangle]; 1867)
  • 『地方長官』(The Voyevoda; 1867-68)
  • 『オーベールの“黒いドミノ”のためのレチタティーヴォと合唱』(Le domino noir (D.-F.-E. Auber); 1868)
  • 『オンディーヌ』(Undina [Undine]; 1869)
  • 『マンドラゴラ』(Mandragora; 1870)
  • 『オプリーチニク(親衛隊)』(Oprichnik [The Oprichnik]; 1870-72)
  •  『セヴィリアの理髪師』(Le barbier de Séville; 1872)
  • 『”オプリチーニク”の主題による葬送行進曲』(Oprichnik; 1877)
  • 『オルレアンの少女』(Orleanskaya deva [The Maid of Orléans]; 1878-79)
  • 『妖精』(La fée ;1879)
  • 『マゼッパ』(Mazepa [Mazeppa]; 1881-83)
  • 『チャロディカ』(Charodeyka [The Enchantress]; 1885-87)
  • 『スペードの女王』(The Queen of Spades, Op. 68; 1890)
  •  『くるみ割り人形』(The nutcracker, Op. 71; 1892)

オーケストラ

  • 『アンダンテ・マ・ノン・トロッポ イ長調』(Andante ma non troppo, A; 1863-64)
  • 『アジタートとアレグロ』(Agitato and allegro; 1863-64)
  • 『リトル・アレグロ』(Little Allegro, with introduction, D; 1863-64)
  • 『アレグロ・ヴィーヴォ』(Allegro vivo, c; 1863-64)
  • 『コロッセウムのローマ人』(The Romans in the Coliseum; 1863-64):現在は失われている。
  • 『序曲 ヘ長調』(Overture, F; 1865)
  • 『性格的な舞曲』(Characteristic Dances;1865)
  • 『序曲 ハ短調』(Concert Overture, c; 1865-66)
  • 『交響曲第1番 ト短調』(Symphony, No. 1, G, Op. 13; 1866)
  • 『幻想序曲 ロメオとジュリエット』(Romeo i Dzul′etta [Romeo and Juliet]; 1869)
  • 『N. ルビンシテインの命名日のためのセレナード』(Serenade for Nikolay Rubinstein’s nameday ; 1872)
  • 『交響曲第2番 ハ短調』(Symphony, No. 2, C, Op. 17; 1872)
  • 『交響曲第3番 ニ長調』(Symphony, No. 3, D, Op. 29; 1875)
  • 『交響曲第4番 ヘ短調』(Symphony, No. 4, F, Op. 36; 1877-78)
  • 『交響曲第5番 ホ短調』(Symphony, No. 5, E, Op. 64; 1888)
  • 『交響曲第6番 ロ短調』(Symphony, No. 6, B; 1893)
  •  『交響曲第7番 変ホ長調』(Symphony, No.7, E♭; 1892): 未完。

独唱とピアノ

  • 『私の守護神、私の天使、私の友』(Moy geniy, moy angel, moy drug [My Genius, my Angel, my Friend] ; 1856)
  •  『ゼムフィーラの歌』(Pesn′ Zemfirï [Zemfira’s song]; 1860)
  • 『真夜中』(Mezza note; 1860-61)
  • 『真夜中の回想』(Nochnoy posmotr [The Midnight Review]; 1864): 現在は失われている。
  • 『自然と愛』(Priroda i lyubov′ [Nature and Love] ; 1870)
  • 『そんなに早く忘れて』(Zabït′ tak skoro [To Forget so Soon];1870)
  • 『二つの歌』(1873):第一曲「私の心を運び行け」(Unosi moyo serdtse [Take my Heart Away])、第二曲「春の青い瞳」(Glazki vesnï golubïye [Blue Eyes of Spring])

ピアノソロ

  • 『アナスタシア・ワルツ』(Valse [Anastasiya valse]; 1854)
  • 『川のほとりで、橋のたもとで』(Piece on the tune ‘Vozle rechki, vozle mostu’ [By the river, by the bridge]; 1862)
  • 『アレグロ ヘ短調』(Allegro, f ; 1863-64)
  • 『主題と変奏 イ短調』(Theme and variations, a; 1865)
  • 『歌劇”地方長官”の主題による接続曲』(Potpourri on themes from the opera Voyevoda ; 1867-68)
  • 『ナタリー・ワルツ』(Nathalie-valse, G;1878)
  • 『即興曲とカプリース』(Impromptu-caprice, G; 1884)
  • 『ワルツ・スケルツォ 第2番』(Valse-scherzo [no.2]; 1889)
  • 『即興曲 変イ長調』(Impromptu, A♭ ; 1889)
  • 『情熱的な告白』(Aveu passionné, e; 1892)
  • 『軍隊行進曲 変ロ長調』(Military march [for the Yurevsky Regiment], B♭; 1893); 『ユーリエフスキー連隊行進曲』とも。
  • 『即興曲 変イ長調』(Impromptu (Momento lirico), A♭; 1894)

コーラス

  •  『歓喜に寄す』(K radosti [To Joy] ; 1865): シラー (Schiller) 原作。K. アクサーコフ (K. Aksakov) 翻訳。
  • 『春』(Vesna [Spring]; 1871)
  • 『夜』(Vecher [Evening] ; 1871)
  • 『ピョートル大帝生誕200年記念カンタータ』(Cantata in commemoration of the bicentenary of the birth of Peter the Great (Ya. Polonsky); 1872):『モスクワ工業博覧会開会のカンタータ』とも。
  • 『ペトロフの活動50年記念カンタータ』(Chorus in celebration of the golden jubilee of Osip Petrov; 1875)
  • 『夕べ』(Vecher [Evening]; 1881)
  • 『モスクワ』(Moskva [Moscow];1883)
  • 『3つのケルビウム賛歌』(Kheruvimskaya pesnya [Cherubic Hymn]; 1884)
  • 『9つの宗教的音楽作品』(9 sacred pieces, unacc. mixed chorus; 1885)
  • 『黄金の雲は眠りにつき』(Nochevala tuchka zolotaya [The Golden Cloud has Slept]; 1887)
  • 『天使は叫ぶ』(Angel vopiyashe [An Angel Cried Out]; 1887)
  • 『アントン・ルビンシテインへの挨拶』(A greeting to Anton Rubinstein for his golden jubilee as an artist; 1889)
  • 『夜鳴きうぐいす』(Solovushka [The Nightingale]; 1889)
  •  『3つの合唱曲』(1891):第1曲「松明で鳴いているのはかっこうではない」(Ne kukushechka vo sïrom boru [’Tis not the Cuckoo in the Damp Pinewood])、第2曲「暇もなく、時もなく」(Bez porï, da bez vremeni [Without Time, Without Season] )、第3曲「楽しげな声が静まって」(Chto smolknul veseliya glas [The Voice of Mirth Grew Silent]
  • 『夜』(Noch′ [Night]; 1893)

室内楽

  • 『アレグレット ホ長調』(Allegretto, E; 1863-64)
  • 『アダージョ ハ長調』(Adagio, C; 1863-64)
  • 『アダージョ ヘ長調』(Adagio, F; 1863-64)
  • 『アレグロ ハ短調』(Allegro, c; 1863-64)
  • 『アレグレット・モデラート』(Allegretto moderato, D; 1863-64)
  • 『アンダンテ・モルト ト長調』(Andante molto, G; 1863-64)
  • 『前奏曲ホ短調』(1863-64)
  • 『アレグロ・ヴィヴァーチェ変ロ長調』(Allegro vivace, B♭; 1863-64):弦楽四重奏。
  • 『アレグレット ホ長調』(1863-64):弦楽四重奏。
  • 『アンダンテ・モルト ト長調』(1863-64):弦楽四重奏。
  • 『弦楽四重奏曲 変ロ長調』(String Quartet, B♭; 1865)
  • 『弦楽四重奏第1番 ニ長調』(String Quartet, D, Op. 11; 1871)
  • 『弦楽四重奏第2番 ヘ長調』(String Quartet, F, Op. 22; 1874)
  •  『弦楽四重奏第3番 変ホ短調』(String Quartet, E♭, Op. 30; 1875)
  •  『ピアノ三重奏 イ長調』(Piano Trio, A, Op. 50; 1882)

チャイコフスキーに関連する映画・舞台

参考文献 | Bibliography

  1.  Oxford Online Music, Roland John Wiley, published in print (20 January, 2001), Published online (2001).
  2. 和田春樹編『世界各国史 ロシア史』山川出版社、2008年。

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Notes   [ + ]

1. グリンカ(Mikhail (Ivanovch) Glinka):1803年生まれ1857年没。ロシア国民音楽派の先駆者。代表作にオペラ『ルスランとリュドミラ』(Russlan and Ludmilla)(1842)。
2. ペテルブルク音楽院(The St Petersburg Conservatory): アントン・ルビンシテインによって1862年10月設立。ロシアの千年記念にあたる。
3. シラー(Friedrich von Schille, 1759-1805):ドイツの詩人・劇作家。代表作には『ウィルヘルム=テル』(Wilhelm Tell; 1804)や『ドン=カルロス』(Don Carlos; 1787)がある
4. ロシア大公コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (the Grand Duke Konstantin Romanov; 1858-1915): ロシアの皇族。劇作家でもあり、ロシア科学アカデミー総裁を務めた。

マウロ・ジュリアーニ

マウロ・ジュリアーニ

生 : 1781年7月27日(ビシェーリエ)/没 : 1829年5月8日(ナポリ)

マウロ・ジュリアーニ (Mauro Giuliani) はイタリアのギタリスト、作曲家。

生涯 | Biography

ウィーンにおける活躍

1781年生まれのマウロ・ジュリアーニは当初チェロと対位法を学んだが、早い時期にギターを専門とするようになった。ジュリアーニは1803年にトリエステへ赴き、テアトロ・ヌオーヴォ1)今日のトリエステ・ヴェルディ劇場。でギターやチェロを演奏している。

19世紀初頭のイタリアはフェルディナンド・カルッリやフィリッポ・グラニャーニといったギターのヴィルトゥオーゾを数多く輩出したが、ギター曲は他の音楽ジャンルに比べて公衆に親しまれてはいなかった。そのためジュリアーニは他の多くのイタリア人ギタリストと同様、活動の場を他のヨーロッパ大陸諸国に求めた。

1806年より当時ハプスブルク帝国の首都であったウィーンに住み始めたジュリアーニは、この音楽の都においてすぐに頭角を現してゆく。1808年3月27日、ジュリアーニはベートーヴェンやサリエリといった音楽家とともに、ハイドンの76歳の誕生日を祝うコンサートに参加した。1808年4月にはオーケストラを伴って最初の自前のギター演奏会を行った。

以後ジュリアーニはウィーンにおけるクラシックギターの音楽シーンを牽引し、作曲のほか教育や演奏にも力を注いだ。弟子を伴ったベルリンやライプツィヒにおける演奏旅行も成功し、ジュリアーニの名声はヨーロッパ中に広まった。

1813年12月8日、ジュリアーニはヨハン・ネポムク・フンメルやルイ・シュポーアといった当時のウィーンを代表する音楽家とともにベートーヴェンの交響曲第7番の初演に参加し、作曲家自身による指揮の下、チェロを担当した。かくして当代随一の音楽家として名を馳せたジュリアーニは、1814年ごろにはハプスブルク家出身のフランス皇妃マリ=ルイーズの庇護を受けるに至った。

イタリアにおける後半生

1810年代末、ウィーンにおけるギターの流行は、ピアノに代替される形で下火となった。ジュリアーニは経済難から1819年夏にイタリアへ帰還し、1819年11月にヴェネツィアへ、12月には老いた両親の住むトリエステへ、続いて翌1820年3月4日にパドヴァへと住まいを転々とする。ジュリアーニは1820年から1823年頃までローマで、その後は生涯ナポリで過ごした。

ジュリアーニはローマにおいてニコロ・パガニーニジョアキーノ・ロッシーニといった音楽家と交流し、とりわけロッシーニの作品を翻案した6つのギター曲『ロッシニアーナ』を残している。またナポリでは両シチリア王国のブルボン家の宮廷で貴族たちの庇護を受けながら、ギター演奏などの活動を行った。

この時期ジュリアーニはリコルディやアルタリアといった音楽出版社と契約し、作品の発表に精を出した。ジュリアーニがアリタリアへ送った手紙によると、彼はブルボン宮廷における演奏活動に満足しておらず、再びウィーンへ帰還し活動することを望んでいたようである。しかしながらこの望みは遂に叶うことはなかった。

ジュリアーニはマリア・ジュゼッパ・デル・モナコと結婚し、ミシェルとエミリアという2人の子供を儲けた。1801年5月17日生まれのミシェルは父に付き添って1814年から1819年までウィーンで過ごした後、1823年よりペテルブルクで、1848年よりフランスで活躍し、マニュエル・ガルシアの後任としてパリ音楽院(コンセルヴァトワール)にて声楽の教師を務めた。1813年にウィーンで生まれたエミリアはギターの演奏家として活動し、1840年頃に亡くなった。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Giuliani, Mauro | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.11230]
  2. Giuliani, Mauro – Enciclopedia Treccani [http://www.treccani.it/enciclopedia/mauro-giuliani]
  3. Giuseppe Zangari, Mauro Giuliani (1781-1829): Instrumental and Vocal Style in Le Sei Rossiniane, Masters Thesis, University of Sydney, 2013.

Notes   [ + ]

1. 今日のトリエステ・ヴェルディ劇場。

イサーク・アルベニス

イサーク・アルベニス

生 : 1860年5月29日(スペイン王国、カンプロドン)/没 : 1909年5月18日(フランス共和国、カンボ=レ=バン)

イサーク・アルベニス (Isaac Albéniz) はスペインの作曲家。民族的な作風で知られ、代表作に組曲『イベリア』などがある。

生涯 | Biography

イサーク・アルベニスはピレネーの山村カンプロドンに生まれ、1歳のとき家族とともにバルセロナへ移住した。幼少期から才能を発揮したアルベニスは、3歳半の頃から姉のクレメンティーナよりピアノのレッスンを受けた。アルベニスは5歳の頃バルセロナのテアトロ・ロメアで最初のコンサートを行い、神童としてその名を轟かせた。その後アルベニスはナルシソ・オリヴェラス (Narciso Oliveras) よりレッスンを受け、1867年パリに転居した。パリでアルベニスはアントワーヌ=フランソワ・マルモンテルより個人レッスンを受け、パリ音楽院(コンセルヴァトワール)の入学試験を受けることになった。しかしながら、審査員は彼の能力を認めはしたものの、その年齢を理由に入学を断ってしまう。

1868年、アルベニスの父は政府の役職を失い、生活費の捻出のためイサークと姉クレメンティーナをスペイン各地へ演奏旅行に連れてゆく。直後に一家はマドリードへ移住し、アルベニスは同地の国立音楽・弁論学校(今日のマドリード音楽院)へ入学した。マドリードではエドゥアルド・コンプタ (Eduardo Compta) やホセ・トラゴ (José Tragó) といったピアニストがアルベニスを教えたが、地方都市における演奏のため学業はしばしば中断された。彼の演奏旅行は1875年プエルトリコやキューバにまで及んだ。

アルベニスはヨーロッパへ戻ると、1876年5月ライプツィヒ音楽院1)今日のフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ。に入学した。しかしながらアルベニスが同校に在籍したのはわずか2か月のみで、夏になると生活手段を探すためマドリードへ帰還した。結局アルベニスはスペイン国王アルフォンソ2世の秘書であったギレルモ・デ・モルフィ (Guillermo Morphy) のとりなしにより奨学金を獲得し、ブリュッセル音楽院に留学する機会を得た。ブリュッセルでアルベニスは1879年までピアノを学び、フランツ・ルメル (Franz Rummel) やルイ・ブラッサン (Louis Brassin) に師事した。

1880年9月アルベニスはマドリードへ戻り、音楽家としてのキャリアの継続を目指した。この間アルベニスはスペイン各地やラテンアメリカで演奏旅行を行う。また指揮の学習も始め、1882年にスペインの歌劇である「サルスエラ」の指揮者に就任している。この時期からアルベニスはサルスエラの作曲も行うようになり、『花盛りのサン・アントニオ』などの作品を残した。

1883年、アルベニスはバルセロナへ転居し、フェリペ・ペドレルに作曲を学ぶ。同時にピアノ講師としての活動も継続し、1883年6月23日には生徒のロサ・ホルダナ (Rosa Jordana) と結婚している。1885年末にアルベニスはマドリードへ転居し、旧知のモルフィの庇護を受けながら、名士の家庭で演奏を披露したり、コンサートを開催するなど、マドリードの音楽業界で精力的に活動した。

これらの音楽活動が認められ、1887年3月21日、サロン・ロメロにてアルベニスの作品を集めたコンサートが催された。彼の作品はまた、フランスの楽器メーカー「エラール」の後援により1888年のバルセロナ万国博覧会で催された20回のコンサートでも披露された。

即興の才能に秀でたアルベニスはピアノソロ曲を多く制作し、その大半はサロンでの演奏を意識して単純なメロディをリピートするという形式だった。1880年代末までにアルベニスはピアノ作曲家としての地位を確立し、彼の作品はスペインの著名な音楽出版社から多く刊行された。1889年3月、アルベニスはパリでコンサートを開催する。数か月後にはロンドンへ赴き、大きな成功を収めた。1890年6月、アルベニスは実業家のヘンリー・ローウェンフェルドと独占契約を結び、年末に妻と3人の子供を連れてロンドンへ移り住んだ。

ロンドンでアルベニスはローウェンフェルドの求めに応じてコンサートを開催したほか、アーサー・ロー (Arthur Law) の台本(リブレット)によるオペラ・コミック『魔法のオパール』を作曲した。またリリック・シアターの支配人ホラース・セドガー (Horace Sedger) の依頼を受け、シャルル・ルコックによる『心と手』の翻案である『インコグニタ』の制作に携わった。

こうしたアルベニスの劇音楽における活動はクーツ銀行のフランシス・バーデットの関心を呼んだ。アマチュアの詩人でもあった彼はローウェンフェルドとともにアルベニスの支援者となり、1894年にはアルベニスの唯一のパトロンとなった。

『貧しいジョナサン』(1893) を完成させた後、アルベニスは病気のためイギリスを離れ、パリに落ち着いた。アルベニスはスペインやパリで複数の劇音楽を発表するが、伝統の枠に収まらない作風やサルスエラの復興といった野心的な芸術運動のため、音楽界の権威や公衆による批判にもさらされた。

この時期からアルベニスはフランスの音楽界における活動の比重を高めてゆく。1895年3月アルベニスはバルセロナのテアトロ・リリコで催されたコンサートにソリストとして出演するが、このとき指揮者を務めたのはヴァンサン・ダンディだった。以後アルベニスはダンディとの親交を深め、またエルネスト・ショーソンやシャルル・ボルド、ポール・デュカスやガブリエル・フォーレといったフランス人音楽家と交流した。

以後、アルベニスは劇音楽の作曲に専念する傍ら、1890年代にバルセロナで行われたカタルーニャ(カタロニア)文化の復興運動にも参加した。1896年からはピアノ曲やオーケストラ曲の制作も行うようになったが、その際アルベニスに影響を与えたのは母国スペインの土着文化だった。中でもオーケストラ編曲が有名な『ラ・ヴェガ』はアルベニスのピアノ曲における作風の転換点とされている。

1898年から1900年にかけて、アルベニスはパリのスコラ・カントルムで教鞭を執った。この時の生徒には南仏の音楽家デオダ・ド・セヴラックも含まれていた。体調不良が原因でスコラ・カントルムを辞職した後、アルベニスは温暖な気候を求めてスペインへ戻った。バルセロナにおいてアルベニスはエンリック・モレラとともにカタルーニャの叙情的な作品の演奏活動を行った。サルスエラの作曲にも積極的だったアルベニスはジャーナリズムによって好意的に評価されたが、その国際的な名声は逆に彼の足をすくう。聴衆や興行主から外国かぶれと見なされたアルベニスは1902年の末に再びフランスへ移り、そこでスペイン音楽を探究する道を選ぶ。

腎臓疾患(ブライト病)に悩まされたアルベニスは、温暖な気候を求めてしばしば南仏コート・ダジュールに位置するニースへ赴き、『ランスロット』や『ペピータ』といった歌劇の制作に取り組んだ。その後アルベニスは再びピアノ曲の制作に専念するようになり、1905年から1908年にかけて、彼の代表作『イベリア』を発表する。

組曲『イベリア』は「印象」と称する12曲から構成され、3曲を一組とする4巻本の形で発表された。母国スペインの音やリズムに取材した作品は、スペイン文化の色彩や質感を表現した極めて技巧的な作品とされる。

晩年のアルベニスはフランシス・バーデットの詩への作曲に取り組み、それらは『4つの歌』として発表された。アルベニスは1908年に亡くなり、その亡骸は故地であるバルセロナのモンジュイック墓地に埋葬された。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Albéniz, Isaac | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.00421]

Notes   [ + ]

1. 今日のフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒ。

ジョン・ケージ

ジョン・ケージ

生 : 1912年9月5日(アメリカ合衆国、ロサンゼルス)/没 : 1992年8月12日(アメリカ合衆国、ニューヨーク)

ジョン・ケージ (John Milton Cage Jr.) は米国の音楽家、キノコ研究家。代表作に『4分33秒』などがある。

生涯 | Biography

現代音楽と偶然性の思想

1912年カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれたジョン・ケージは、ロサンゼルス高校で教育を受けた後、カリフォルニア州クレアモントのポモナ・カレッジに入学した。しかしながら大学のカリキュラムを退屈に感じたケージは2年間で退学してしまう。

その後ケージは1930年から一年間パリやセヴィリアなどヨーロッパ各地を回って建築や現代絵画などの芸術を独習し、1931年ロサンゼルスへ戻り作曲の学習を開始する。ケージを最初に教えたのはリチャード・ビューリグ (Richard Buhlig) だった。ビューリグはケージをヘンリー・カウエルに紹介する。ガーシュウィンを教えた経験も持つカウエルは、マンハッタンのニュースクール大学においてケージに対し非西洋文化や現代音楽を教授した。ここでケージは半音階による対位法に関心を示し、カウエルはケージにアドルフ・ワイス (Adolph Weiss) の下で学ぶようアドバイスする。折しも十二音技法の創始者シェーンベルクが訪米し、ケージも1934年、彼に付き添ってロサンゼルスへ向かった。シェーンベルクに感銘を受けたケージは作曲に生涯をささげることを決意する。

1937年、ジョン・ケージはUCLAにてダンス振付師としての活動を開始し、続く数年の間、シアトルのコーニッシュ・スクールにて教鞭を執った。ここでケージは舞踏家のマース・カニンガムと出会う。二人はその後、仕事上のパートナーとして生涯に渡って共同で活動する。

ケージはダンスを通じて音楽の幅を拡大した。打楽器アンサンブルのための作曲により、ダンサーを音楽家と見なす。これは雑音など、これまで音楽と見なされていなかった対象を作曲に使用する後年の活動につながった。民族音楽に深い関心を示したケージは、バリ島や日本、インドで楽器として使用されたドラムやブロック、ゴングなどを用いて作曲を行った。

同時に、ケージは電子音楽の技術がもたらす新たな音響の可能性にも注目していた。コーニッシュ・スクールのラジオ局から1939年に放送された「心象風景 第1番」はピアノとシンバルに加えて、ターンテーブルを用いて録音されたランダムな試験音声を用いるという前衛的な構成が取られた。

コーニッシュ・スクールではさらに「プリペアド・ピアノ」と呼ばれる仕組みも用いられた。1938年、あるダンサーが打楽器アンサンブルを求めたが、アンサンブルの演奏には会場のスペースが足りなかったため、ピアノの弦と弦の間にネジ回しやボルトなどを散りばめ、演奏とともにパーカッションのような響きが得られるようにしたのだ。ケージはこの「プリペアド・ピアノ」を利用して「バッカナール」などを作曲し、音楽の可能性を開いていった。

プリペアド・ピアノプリペアド・ピアノ

ケージはサンフランシスコを中心に活動していたルー・ハリソンと合流し、シカゴへ行く1941年まで西海岸の各地でコンサートを行った。ケージの打楽器アンサンブルはメディアの注目を集め、当時の大手ラジオ局だったCBSの依頼を受け、1942年、詩人ケネス・パッチェンによるラジオ・ドラマ『街は帽子を被っている』の音楽を担当した。ラジオでの仕事を好機と捉えたケージは1942年ニューヨークへ移住し、ニューヨーク近代美術館 (MoMA) で打楽器のコンサートを催した。しかしながらこのコンサートの後、ケージはスランプに陥り、東の郊外の古びた商業ビルへの居住を余儀なくされる。

その後ケージは再び「プリペアド・ピアノ」による作曲を盛んに行う。マース・カニングハムの振り付けと相まって、木片や竹、プラスチックやゴム、硬貨といった小物を使用し、楽器の可能性を広めていった。こうした「プリペアド・ピアノ」を用いたケージの前衛的・実験的な活動に対し、1949年グッゲンハイム財団およびアメリカ芸術文学アカデミー協会より表彰された。また1951年にはウッドストック・フィルム・フェスティバル最優秀賞を授与されている。

東洋思想と「沈黙」の美学

1946年、ケージはインド人音楽家のギータ・サラバイ (Gita Sarabhai) と出会う。ケージは彼女からインド哲学を紹介され、アジア的な美学や精神世界に強い親近感を抱く。さらにアナンダ・クマラスワミの美術史に関する研究や、中世の神秘主義者マイスター・エックハルトの教説を学んだケージは、インドの美学に影響を受けた作品を発表するようになる。その特徴は性的、英雄的、あるいは怒りや嫌味、陽気さ、恐怖、悲哀、驚嘆といった感情、そしてとりわけ「沈黙」であった。プリペアド・ピアノによる新たな音響の発明とアジア的な沈黙の精神の発見は、以後のケージの作曲活動を象徴する特徴となる。

1949年、ケージは友人のピエール・ブーレーズとともにヨーロッパを旅行する。ニューヨークへ戻ると、ケージはその批判精神を発揮するようになる。あるときニューヨーク交響楽団の演奏によるアントン・ヴェーベルンの『9つの楽器のための協奏曲』を耐え難く感じ、演奏の途中でコンサート会場を後にしてしまった。するとそこで同じ行動を取った作曲家のモートン・フェルドマンと鉢合わせる。二人は美的感覚において共感するものがあり、それから4年間にわたって意見交換や共作を行う。フェルドマンはケージにピアニストのデイヴィッド・チューダーや作曲家のクリスチャン・ウォルフを紹介し、またフェルドマンの交友関係を通じてケージはニューヨークの画家たちと知り合った。以後ケージはこうした芸術家のサークルに入り浸るようになる。

1940年代末頃、ケージは「沈黙」の美学を発展させる。インドのヒンドゥー教や日本の仏教、禅の思想に傾倒したケージは、1945年から二年間に渡ってコロンビア大学にて鈴木大拙より禅を学び、また松尾芭蕉の俳句や京都・龍安寺石庭に見られる精神世界に感銘を受け、以後、生涯を通じて沈黙の美学を追及してゆく。

龍安寺石庭龍安寺石庭

1950年、ケージは著書『サイレンス』をの原型となった講義を行う。この講義においてケージは沈黙を時間配分の構造と関連付けて論じている。すなわち、作曲家が何かを表現しようがしまいが、音楽における尺の長さは一定である。したがって沈黙や意味のない音でも楽曲を構成することができるというのである。ケージはこうした考えを1948年には着想しており、4分30秒の尺を持つ小品「沈黙の祈り」が構想されていた。

不確定性と図形譜の改良

1950年、ケージは『弦楽四重奏曲』を発表する。かつてプリペアド・ピアノにおける鍵盤の一音が複雑な音階をもたらしたように、ここではそれぞれの奏者が限定された音を発することで、曲の進行を打ち消すような意味のない和音を断続的に生み出す「ギャマット」と呼ばれる独自の形式がとられた。「ギャマット」の技法は1950年代後半、オーケストラに応用される。これに際してケージは連続する幾何学的なパターンを敷き写した長方形のチャートから成る独特な譜面を考案した。こうした図形譜のアイデアはすでにモートン・フェルドマンが着想していたが、ケージはこれをさらに抽象化させ、譜面の構成における「沈黙」を具現したと言える。

1950年代末、ケージは中国の古典である『易経』を手に取る。卜占における硬貨の表裏を記載した8×8のランダムなパターンを記したこの書物にインスピレーションを受けたケージは、偶然性の要素を自身の図形譜に応用する。この「易の音楽」において、作曲者の意図が介入する余地はきわめて少ない。音楽の進行は神の託宣に随うというわけである。

「易の音楽」(1951) におけるチャート

かくして「沈黙」の概念は単にナンセンスであるのみならず、作曲者の意図や趣向、願望を完全に否定する段階に至る。作者の手を離れた結果から成る「偶然性」の音楽の確立である。

1952年、ケージは長年温めていた「沈黙の祈り」の構想をついに公にする。『4分33秒』である。「偶然性」の要素を1940年代以前からの「沈黙」の概念と結合させることにより、ケージの作品中で最も論争的で、なおかつ彼の代表作とされる楽曲が誕生したのだ。

1950年代における音響機器の技術革新も、ケージが表現の幅を拡大するのに貢献した。1952年、ケージは最新式のテープレコーダーを購入し、磁気テープのための曲『ウィリアム・ミックス』を発表した。こうした中でケージはチャートを使うのをやめ、さらなる表現のために五線譜に様々な輪郭を持った図形を配置する譜面形態を採用するようになる。

ケージによる図形譜は演奏者に解釈の余地を与え、演奏ごとに異なったパフォーマンスが実現するという結果をもたらした。こうしたケージによる不確定性音楽の探求の中でも特筆すべきは、透明なプラスチック製のシートを用いたピッチや音色の表現である。この表現形式は『ミュージック・ウォーク』(1958) において最初に試みられ、『ヴァリエーションズⅡ』(1961) において最も純粋な形で発表された。

ケージは1956年から1961年にかけて「ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ」で教鞭を執っている。ニュー・スクールは1918年ニューヨークに創設された研究教育機関。ハンナ・アレントやジョン・デューイらリベラルな知識人を迎え、自由と民主主義の校風で知られる1)紀平英作『ニュースクール 20世紀アメリカのしなやかな反骨者たち』岩波書店、2017年。。ケージはここで実験音楽に関する講座を担当した2)John Cage – Histories of the New School[http://newschoolhistories.org/people/john-cage/]

1950年代後半以降、ケージの名声は国際的なものとなる。ニュー・スクールで彼が教えた学生の中には後にフルクサスを結成するメンバーも含まれており、そのこともケージの名を高める要因となった。この頃ケージは活動の場を米国外へと移し、マース・カニングハムとともにパフォーマンスやレコーディングに精を出した。1961年に刊行された著書『サイレンス』も読者に衝撃を与え、彼の音楽表現は論争の的となった。

サイレンス』の成功によりもたらされた名声、そしてパフォーマンスやスピーチの機会により、ケージは1960年代半ばより作曲家として自活するだけの収入を得ることができるようになった。しかしながら、過密なスケジュールとそれにともなうストレスにより、ケージはしばらくの間スランプに陥る。1960年代に発表された数少ないケージの作品の中でも特筆すべきものに、演奏者がステージ上で単一の行動をなす『0分00秒』(1962) や、複数のテープレコーダーを再生しつつ操作するだけの『ローツァルト・ミックス』(1965)、演奏者への招待状を作品と称した『ミュージサーカス』(1967) などがある。

1967年の著書『月曜日からの一年』において、ケージは「私はだんだん音楽に興味を持たなくなっている」とまで述べている。彼の作品は次第に音楽以外の分野への言及を増やし、マクルーハンのメディア論、毛沢東主義、バックミンスター・フラーなどの政治理論や文化論を創作に取り入れた。しかしながら、エリック・サティに着想を得た『安価な模造品』などを通じてケージは音楽への関心を取り戻し、以後の生涯を多様なメディアにおける作曲活動に費やすこととなる。

『月曜日からの一年』の表紙

環境への関心と晩年

ところで、ケージは1950年代にニューヨークから郊外へ転居した頃より、自然に対して関心を示していた。中でもキノコ狩りへの情熱は群を抜いており、彼のコレクションは現在カリフォルニア大学サンタクルーズ校が収蔵している。またニューヨーク菌類学会の創設者にも名を連ねた。こうしたケージの嗜好は1970年代以降の作品に登場する。

ジェイムズ・ジョイスの作品も70年代以降の作品におけるインスピレーションの源であり、『ロアラトリオ』(1979) はジョイスの小説『フィネガンズ・ウェイク』に基づいていた。この曲は小説中で言及された音をコラージュしてゆき、それにアイルランドの民族音楽を重ねるという形式の作品だった。

晩年のケージはグラフィックや詩作といった音楽以外のメディアでも才能を発揮した。他にも『One11』などの映画作品や、展覧会のキュレーションも行った。これらすべての分野において、ケージは偶然性の要素を追求しながら表現技法の革新に努めた。

ジョン・ケージはその生涯を通じて多くの褒章を得た。中でも1989年に「偶然性や非西欧的思想によって音楽の新しい地平を開いた作曲家」として、第5回「京都賞」を受賞している。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. ジョン・ケージ | 第5回(1989年)受賞者 | 京都賞[https://www.kyotoprize.org/laureates/john_cage/]

Notes   [ + ]

1. 紀平英作『ニュースクール 20世紀アメリカのしなやかな反骨者たち』岩波書店、2017年。
2. John Cage – Histories of the New School[http://newschoolhistories.org/people/john-cage/]

アントニオ・サリエリ

生 : 1750年8月18日(レニャーゴ)/没 : 1825年5月7日(ウィーン)

アントニオ・サリエリは、ウィーンで活躍したイタリア半島出身の音楽家。また、イタリアやパリでオペラ作曲家としても成功し、「ドイツ音楽を甘いイタリア式の音楽にまとめ上げることができる作曲家」との評価を得た。

生涯 | Biography

1. 少年時代

1750年、ヴェネトのレニャーノに生まれる。サリエリは、兄弟のフランチェスコと地方のオルガニスト・ジュゼッペ・シモーニと共にヴァイオリンと鍵盤楽器を学んだ。1763年から1765年にかけて両親がなくなると、ヴェネツィアに移り音楽教育を受けた。ヴェネツィアの作曲家F. L. ガスマン (F. L. Gassmann)はサリエリの才能を見出し、彼を連れてウィーンに向かった。ガスマンのもとウィーンで学ぶサリエリは、ここでキャリアを共にする生涯の友人を作った。またこの師のもとで、サリエリは、メタスタジオ(Pietro Metastasio; 1698-1782)、ドイツの作曲家グルック(Christoph Willbald von Gluck; 1714-87)、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世(Joseph II; 1765-90)と関係を築いた。

 

  1. オペラ作曲家として

1769年、師ガスマンがイタリアに滞在していた時、サリエリは、もともとはガスマンの作品であった『文学の女』(Le donne leterate)のリブレットを担当した。喜歌劇(operabuffa)の作曲家としてサリエリは、以降作曲に専心していくこととなる。1771年6月、マルコ・コルテッリーニによるリブレット『アルミーダ』(Armida)が上演された。こうして1780年代にかけて、サリエリは、グルックの主要な後継者と称されるようになる。

F. Rehburg作 サリエリの肖像(1821)
  1. 皇帝ヨーゼフ2世:ハプスブルク一族によるサポート

サリエリのウィーンでの成功は、皇帝ヨーゼフ2世の力添えによるところが大きい。また、皇帝ヨーゼフ2世の兄弟であるトスカーナ大公レオポルト、ロンバルディアの統治者フェルディナンド、妹のフランス王妃マリー・アントワネット(Marie Antoinette)といったフランスやイタリア半島の諸地域の権力者のサポートもあって、サリエリは各地で活動することができた。また、ヨーゼフ2世が兄弟へ、サリエリの作品のコピーを送ることもあった。1772年には、ヨーゼフ2世は、トスカーナ大公レオポルトに、フィレンツェについてのオペラをサリエリに書かせてくれるよう求めている。

Pompeo Batoni作 ヨーゼフ2世の肖像(1769)

 

1774年、ガスマンが亡くなると、ヨーゼフは、サリエリを後継者として宮廷楽長(カペルマイスター)(Kammerkomponist)に任命した。この時、サリエリは弱冠24歳であった。劇場の詩人ジョヴァンニ・ディ・ガメッラ(Giovanni di Gamerra)と共に、サリエリは、宮廷劇場のために2つのオペラを共同制作した。一つは、『愚かな嘘』(La finta scema)(1775)でありもう一つはグルックの『デリラとデルミタ』(Daliso e Delmita)(1776)であった。

1776年、ヨーゼフが劇場の再建に取り掛かったため、サリエリはイタリアでオペラを作曲することとなった。1778年から1780年にかけて、サリエリは、ミラノ、ヴェネツィア、ローマの劇場のために5つの作品を書いた。特に、『見出されたエウローパ』(Europa riconosciuta)1)エウロペ(Europe):この作品は、ギリシア神話をもとに作られている。フェニキアのテュロス王の娘エウロペは、白牛に姿を変えた全能の神ゼウスによってクレタ島に運ばれた。エウロペは、ゼウスの子ミノス(後のクレタ島の王)を産んだ。エウロペの名前は、ヨーロッパの語源となっている。 は、1778年、ハプスブルク家の統治下にあったミラノのスカラ座のこけらおとしを祝う作品となった。また、翌年ヴェネツィアのカーニバルにおいて上演された『やきもち焼きの学校』(La scuola de’gelosi )は、サリエリの名声をヨーロッパ中に広めることとなった。1780年、ヨーゼフ2世は、サリエリに、ナショナル・シアター(National theater)のドイツの楽団によって演奏されることを想定したジンシュピール(Singspiel)2)ジングシュピール(Singspiel):ドイツの台詞入りコミック=オペラの一種。18世紀末から19世紀初頭にかけて流行。の作曲を命じた。サリエリは、ドイツ語のオペラを2つしか作曲していないが、そのうちの1つ『煙突掃除人』(独:Der Rauchfangkehrer;伊:spazzacamino)(1781)はこの時に制作されたものである。この作品は、モーツァルトのオペラ『後宮からの誘拐』(Die Entführung aus dem Serail)が発表されるまで、その人気を保っていた。

『見出されたエウローパ』 2004年12月 スカラ座上演時のポスター

 

 

サリエリはグルックに代わって、パリのオペラ座での仕事も行うようになる。皇帝ヨーゼフ2世の推薦もあって、サリエリは、『ダナオスの娘たち』(Les Danaides)(1784) を制作する。この成功をきっかけに、サリエリはパリにおいて、フランスの叙情悲劇(tragédie lyrique)とイタリアの喜歌劇(opera buffa)の制作に熱を注いでいでいくこととなる。1786年の『オラース兄弟』(Les Horaces)は、不発に終わったものの、その翌年に上演された『タラール』は大成功を収めた。

1783年、ヨーゼフ2世は、ドイツの楽団に代わってイタリアの喜歌劇に特化した楽団を創設した。その楽団は、サリエリの『やきもち焼きの学校』(La scuola de’gelosi )によってデビューを果たした。

ウィーンに戻ったサリエリは、ブルグ劇場(Burgtheater)にてイタリアの喜歌劇の作曲と指揮に打ち込むようになる。この頃、パイジエッロ(Paisiello)やビセンテ・マルティーン・イ・ソレル(Martín y Soler)、そしてモーツァルト(Mozart)といった代表的な作曲家がヨーゼフ2世によってウィーンに集められており、音家としてのサリエリに大きな影響を与えた。また、詩人のジョヴァンニ・バッティスタ・カスティ(Giovanni Battista Casti; 1724-1803)と共に、『トロフォーニオの洞窟』(La grotto di Trofonio)と『はじめに音楽、次に言葉』(Prima la musica e po le parole)(1786年) といった作品が生み出された。1787年、パリにて『タラール』(Tarare)を初演したサリエリがウィーンに再び戻ると、ヨーゼフ2世は、ウィーンのためにイタリア語版のオペラを用意することをサリエリに命じた。サリエリの協力者であったイタリアの台本作家ロレンツォ・ダ・ポンテ(Lorenzo da Ponte; 1749-1838)がリブレットを書いた『オルムスの王アクスール』(Axur, Re d’Ormus)は、『タラール』の筋書きをなぞっているものの、フランスの劇作家ボーマルシェ(Beaumarchais; 1732-99)の政治的な寓意を大幅に省いたものとなっている。『アクスール』は、ビュルテンベルク大公フランツとエリザベスの結婚式で上演されてから、1788年から1805年にいたるまでウィーンの劇場で100回以上も上演されることとなった。

以上のようなサリエリの華々しい活躍は、皇帝ヨーゼフ2世の存在なくして実現しなかったものである。マリア・テレジアの息子として、母とは方針は違うものの、18世紀の啓蒙君主として広大な領土の頂点に君臨したヨーゼフ2世。また、婚姻を通じてヨーロッパ中に点在していたハプスブルク一族。サリエリは、教育や文化を奨励する啓蒙的政策に忠実な音楽家であったのであり、またそれがゆえにハプスブルク家のネットワークを通じた音楽活動を生涯続けることができたのであった。

  1. 宮廷楽長として:ヨーゼフ2世の死後の活動

1788年2月、ヨーゼフ2世は、サリエリに宮廷楽長(Hofkapellmeister)の役職を与えた。病身のジュゼッペ・ボンノ(Giuseppe Bonno)の後を継いだサリエリは、以降、1824年に引退するまでこの職を務めることとなり、教会音楽の作曲を行なっていく。

1790年2月20日、サリエリの強力なパトロンであった皇帝ヨーゼフ2世がなくなり、レオポルトが次の皇帝となった。サリエリの1790年代とは、パトロンのヨーゼフ2世の死去、フランス革命にも起因するパリでの仕事の削減、輝かしい才能のライバル・モーツァルトとの別れ(1791年死去)という目まぐるしい転機に対応せねばならない時期であった。1794年、サリエリは、台本作家ジョヴァンニ・デ・ガメッラ(Giovanni de Gamerra; 1742-1803)と共に、『ヘラクレイトスとデモクリトス』(Eraclito e Democrito) 、『ペルシャの女王パルミーラ』(Palmira, regina di Persia)、『ムーア人』(Il moro)を作曲し、特に『パルミーラ』は大成功を収めた。また、サリエリは、イタリアの協力者デフランチェスキ(C. P. Defrancheschi)と共に、『ファルスタッフ』(Falstaff)やサリエリが最後に完成させたオペラとなる『黒人』(独 Die Neger; 伊 I negri)を共に制作した。

宮廷楽長としてサリエリは、新しい歌手の登用、新しい楽器の購入の監督、音楽図書館の整備などを行った。また、サリエリは、自身が孤児としてガスマンのもとで教育を受けた経験もあってか、ガスマンが音楽家の寡婦と孤児を支援するために1771年に創設した音楽団体(the Tonkünstler-Societät)のトップとして精力的に活動した。また1815年、サリエリは、ウィーン会議3)ウィーン会議:1814年から15年にかけて、フランス革命とナポレオン戦争後の国際秩序の回復を図るために行われた会議。その結果、革命前の状態へ戻す正統主義と、大国間の勢力均衡という2大原則からなるウィーン体制が成立した。 の際の音楽イベントの責任者を務めている。

サリエリが教育者として果たした役割も見逃すことができない。彼の弟子の中には、コロラトゥーラ・ソプラノのカテリーナ・カヴァリエーリ(Catherina Cavalieri)、テレーゼ・ガスマン(Therese Gassmann; 師ガスマンの娘)、またベートヴェン(Beeathoven)やシューベルト(Schubert)といった才能あふれる若き作曲家もいた。

 

作品一覧 | Works

オペラ

  • 『アルミーダ』(Armida)(1771年)
  • 『ヴェネツィアの市』(La fiera di Venezia)(1772年)
  • 『古城の領主』(Il Barone di Rocca antica)(1772年)
  • 『宿屋の女主人』(La locandiera)(1773年)
  • 『イエス・キリストの情熱』(La Passione di Gesù Cristo)(1776年)
  • 『見出されたエウローパ』(Europa riconosciuta)(1778年)(スカラ座)
  • 『やきもち焼きの学校』(La scuola de’gelosi )(1778年)
  • 『煙突掃除人』(独:Der Rauchfangkehrer;伊:spazzacamino)(1781年)
  • 『セミラーミデ』(Semiramide)(1782年)
  • 『ダナオスの娘たち』(Les Danaides)(1784年)
  • 『トロフォーニオの洞窟』(La grotto di Trofonio)(1785年)
  • 『はじめに音楽、次に言葉』(Prima la musica e po le parole)(1786年)
  • 『オラース兄弟』(Les Horaces)(1786年)
  • 『最後の審判』(Le judgement dernier)(1787年)
  • 『タラール』(Tarare)(1787年)
  • 『オルムスの王アクスール』(Axur, Re d’Ormus) (1788年)
  • 『花文字』(La cifra)(1789年)
  • 『ヘラクレイトスとデモクリトス』(Eraclito e Democrito)(1795年)
  • 『ペルシャの女王パルミーラ』(Palmira, regina di Persia)(1795年)
  • 『ムーア人』(Il moro)(1795年)
  • 『ファルスタッフ』(Falstaff)(1799年)
  • 『ファルマクーザのカエサル』(Cesare in Farmacusa)(1800年)
  • 『アンジョリーナ』(1800年)
  • 『カプアのアンニーバレ(ハンニバル)』(Hannibal in Capua)(1801年)
  • 『黒人』(Die Neger)(1804年):ジングシュピール。

 

ミサ曲

  • 『皇帝ミサ ニ長調』(1788年)
  • 『戴冠式テ・デウム』(1792年)
  • 『レクイエム ハ短調』(Requiem c)(1804年)

器楽作品

  • 『シンフォニア ニ長調 「ヴェネツィア人」』 (Symphony in D major, Veneziano)
  • 『ピアノ協奏曲 ハ長調 』(Piano Concerto in C major)
  • 『オルガン協奏曲 ハ長調』 (Organ Concerti in C major)
  • 『スペインのフォリア』(La follia di Spagna)(1815年):「フォリア」(follia)とは16世紀に流行した舞踏曲。

詩篇曲

  • 『どん底の叫び』(De profundis)(1805年)
  • 『エルサレム賛歌』(Lauda Jerusalem)(1815年)
  • 『福者』(Beatus vir)(1815年)
  • 『主よ、感謝します』(Confitebor tibi Domine)(1815年)
  • 『どん底の叫び』(De profundis)(1815年)
  • 『主は言った』(Dixit Dominus)(1815年)
  • 『褒め称えよ、主のしもべたちよ』(1815年)

歌曲

  • 『栄光と徳の勝利』(Il trionfo della Gloria e della Virtù)(1774年)
  • 『チロル陸軍』(Der Tyroler Landturm)(1799年)
  • 『チロルの感謝』(La riconoscenza de’Tirolesi)(1800年)

合唱曲

  • 『平和の機会に』(Bei Gelegenheit des Friedens)(1800年)
  • 『ド・レ・ミ・ファ』(Do re mi fa)(1818年)

 

サリエリを扱った作品

  • 映画『アマデウス』(原題:Amadeus、1984年・米):サリエリを演じたのはF・マーリー・エイブラハム(1939-)。

参考文献 | Bibliography

  1. Oxford Music Online
  2. 藤内哲也編著『イタリアの歴史と文化』ミネルヴァ書房、2016年。
  3. 水谷彰良『新イタリア・オペラ史』音楽之友社、2015年。

Notes   [ + ]

1. エウロペ(Europe):この作品は、ギリシア神話をもとに作られている。フェニキアのテュロス王の娘エウロペは、白牛に姿を変えた全能の神ゼウスによってクレタ島に運ばれた。エウロペは、ゼウスの子ミノス(後のクレタ島の王)を産んだ。エウロペの名前は、ヨーロッパの語源となっている。
2. ジングシュピール(Singspiel):ドイツの台詞入りコミック=オペラの一種。18世紀末から19世紀初頭にかけて流行。
3. ウィーン会議:1814年から15年にかけて、フランス革命とナポレオン戦争後の国際秩序の回復を図るために行われた会議。その結果、革命前の状態へ戻す正統主義と、大国間の勢力均衡という2大原則からなるウィーン体制が成立した。

フランシスコ・タレガ

フランシスコ・タレガ

生 : 1852年11月21日(スペイン王国、ヴィラ=レアル)/没 : 1909年12月15日(スペイン王国、バルセロナ)

フランシスコ・タレガ (Francisco Tárrega) はスペインのギタリスト、作曲家。日本では慣習的に「フランシスコ・タルレガ」とも表記される。代表作に『アルハンブラの思い出』『アラビア風奇想曲』などがある。

生涯 | Biography

1862年よりジュリアン・アルカス (Julian Arcas) の下でギターの習得を開始する。当時のヨーロッパにおいてギターは格式の低い楽器と見なされていたため、父親はタレガにピアノも同時に習わせた。

1869年、タレガは著名な楽器職人であるアントニオ・デ・トーレスの製作したギターを手にする機会を得た。それは従来のものに比べて音量が大きく、またよく響くという特徴を持っていた。

1874年、タレガはマドリード音楽院に入学し、音楽理論や和声、ピアノ演奏などを学んだ。1877年から音楽教師として、またギタリストとして生計を立てるようになり、「ギターのサラサーテ」として評判になった。私生活では1881年に (María Josepha Rizo) と結婚し、1885年バルセロナに移り住んだ。

それから数年間でタレガは複数のギター曲を発表し、その中にはメンデルスゾーンやゴットシャルク、タールベルクらのピアノ曲を編曲したものも含まれていた。当時タレガはアルベニスやグラナドスといったスペイン人作曲家と交流し、彼らの作品をギター曲へと編曲した。その他にもベートーヴェンのピアノソナタ第4番、第13番(悲愴)および第14番(月光)、またショパンによる複数のプレリュードがタレガによってギター曲にアレンジされた。

1885年から1903年にかけてスペイン全土で演奏を行った後、タレガは1903年イタリアへ移住した。しかし名声の絶頂にあった1906年に右半身麻痺となったが、1909年の死の直前まで公演をやめることはなかった。

タレガはエミリオ・プジョルやマリア・リタ・ブロンディ (Maria Rita Brondi) などの後進を育て、20世紀ギター史に大きな影響を及ぼした。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Tárrega (y Eixea), Francisco | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.27525]
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