ホアキン・ロドリーゴ

ホアキン・ロドリーゴ

生 : 1901年11月22日(スペイン王国、サグント)/没 : 1999年7月6日(スペイン王国、マドリード)

ホアキン・ロドリーゴ (Joaquín Rodrigo) はスペインの作曲家。代表作に『アランフエス協奏曲』などがある。

生涯 | Biography

ホアキン・ロドリーゴはバレンシア地方のサグントにて、1901年11月22日に生まれた。この日は偶然にも音楽の聖人である聖セシリアの日と同一であった。3歳の頃に罹患したジフテリアの後遺症で失明したため8歳の頃から音楽のレッスンを受け、16歳になるとバレンシアでフランシスコ・アンティッチ (Francisco Antich) に作曲および和声を学んだ。

ロドリーゴは1927年パリへ移住し、エコール・ノルマル音楽院にて5年間、ポール・デュカスの指導を受けた。ロドリーゴはパリでピアニストおよび作曲家として頭角を現し、オネゲルやミヨー、ラヴェルといった当代を代表する音楽家と親交を結んだ。1933年、トルコ人ピアニストのビクトリア・カムヒ (Victoria Kamhi) とバレンシアで結婚。二人は生涯に渡って仕事上のパートナーでもあり続けた。その後ロドリーゴは奨学金を得てパリに戻り、パリ音楽院(コンセルヴァトワール)およびソルボンヌ大学にて学究を続けた。

ロドリーゴはスペイン内戦期にフランスやドイツをはじめ、オーストリアやスイスと欧州各国を転々とし、1939年にマドリードへ帰還し、以後生涯を通じてこの都市に居住した。1940年『アランフエス協奏曲』によりコンサートデビューを飾ると、すぐにスペインを代表する作曲家として認知されるようになった。その後数年は作曲活動を縮小し、新聞記事などの執筆活動を盛んに行ったほか、スペイン国営ラジオやスペイン国立盲人協会 (ONCE) にて勤務した。1947年、ロドリーゴはマドリード・コンプルテンセ大学にて、彼のために新設された「チェア・マニュエル・デ・ファラ」と称する教授職に就任し音楽史の講座を担当、さらに1950年には王立サン・フェルナンド美術アカデミー会員に選出された。

アランフエスの王宮

この時期ロドリーゴはスペイン国内のみならず欧州、アメリカ、さらにはイスラエルや日本へ演奏旅行に赴き、また教育やピアノリサイタルといった多様な活動を行った。中でもアルゼンチン(1949年)、トルコ(1953年、1972年)、日本(1973年)、メキシコ(1975年)、ロンドン(1986年)で行ったコンサートが重要なものとされる。

アルフォンソ10世賢王大十字章(1953年)やフランスのレジオン・ドヌール勲章(1963年)、アストゥリアス皇太子賞(1996年)などの褒章を得、またベルギー王立芸術アカデミー会員(1978年)、サラマンカ大学(1964年)、南カリフォルニア大学(1982年)、バレンシア工科大学(1988年)、マドリード大学、アリカンテ大学(1989年)およびエクセター大学(1990年)の名誉博士号などの栄誉職に就任した。

1991年から1992年にかけて、ロドリーゴの90歳の誕生日を祝うコンサートが世界各地で行われた。また1991年には国王フアン・カルロス1世により「アランフエス庭園侯」の爵位を授与された。その後1999年7月6日、ロドリーゴはマドリードの自宅にて、家族に看取られながら息を引き取った。ロドリーゴの一人娘であったセシリアはヴァイオリニストのアグスティン・レオン・アラと結婚し、1999年に「ホアキン・ロドリーゴ財団」を創設した。

「ネオ・カスティシスモ」(新生粋主義)とも称されるロドリーゴの作風は保守的で、彼自身の言葉を借りると「伝統に忠実」なものだった。ロドリーゴの初期作品はグラナドスやラヴェル、ストラヴィンスキーなどの影響が色濃かったが、その幅広い音楽知識と相まって、次第にスペインの伝統文化や国民性を前面に押し出した独自のスタイルを確立した。ローマ時代の歴史から現代詩まで幅広い分野のスペイン文化に取材したロドリーゴの作風は唯一無二のものとされる。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Rodrigo (Vidre), Joaquín | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.23647]
  2. Joaquín Rodrigo [https://www.joaquin-rodrigo.com]

ナルシソ・イエペス

ナルシソ・イエペス

生 : 1927年11月14日(スペイン王国、ロルカ)/没 : 1997年5月3日(スペイン王国、ムルシア)

ナルシソ・イエペス (Narciso Yepes) はスペインのギタリスト、作曲家。代表作に『禁じられた遊び』より「ロマンス」などがある。10弦ギターの考案でも知られる。

生涯 | Biography

ナルシソ・イエペスはスペイン南部の田舎町であるロルカにて、平均的な農民の子として生まれた。自然に囲まれた環境で幼少期を過ごし、ギターの奏でる庶民的な音色に親しんだイエペスは、ヘスス・ゲバラ (Jesús Guevara) という名の音楽教師よりソルフェージュおよびギター奏法を習った。

1939年、13歳の頃に家族とともにバレンシアへ移り住んだイエペスは音楽学校に入学し、ビセンテ・アセンシオに作曲を学んだ。アセンシオはギタリストではなかったものの、イエペスにギター奏法も教えた。

家族が故郷のロルカに戻ると、イエペスは指揮者アタウルフォ・アルヘンタの導きによりマドリードへ移り住む。この都市でイエペスは、アルヘンタを介してレヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサやホアキン・ロドリーゴといった音楽家と知り合った。1947年、イエペスはテアトロ・エスパニョールにて、アルヘンタが音楽監督を務めるスペイン国立管弦楽団とともに、ロドリーゴの『アランフエス協奏曲』でデビューを飾った。この出来事は20世紀ギター史の重要な一里塚と見なされている。

翌1948年、イエペスはジュネーヴでコンサートを行い、活動の場を国際的な舞台へと広げてゆく。イエペスは欧州で演奏ツアーを行った後、1950年パリに滞在してヴァルター・ギーゼキングやジョルジェ・エネスクより演奏法を学んだ。この都市でイエペスはナディア・ブーランジェとも知己を得ている。

映画『禁じられた遊び』や『金色の眼の女』の音楽を担当。中でもルネ・クレマン監督による『禁じられた遊び』の中で印象的に使用された「愛のロマンス」はイエペスの代表作であるのみならず、今日までクラシックギターのスタンダードナンバーとして世界中で親しまれている。バロック音楽に関心をもつイエペスは17、18世紀に作曲され今日では忘れられた音楽をギターに翻案。ギター曲のレパートリー拡大につながった。

1950年以降、イエペスはアンドレス・セゴビアに次ぐ国際的名声を得る。レオ・ブローウェルやブルーノ・マデルナ、モーリス・オアナやホアキン・ロドリーゴといった作曲家がイエペスに曲を捧げた。

私生活では1958年、パリ・ソルボンヌ大学哲学科の学生だったマリサと結婚。夫婦は3人の子に恵まれた。

イエペスは1963年、古典楽曲の音色をより正確に表現するため十弦ギターを考案した。表現や音色の豊かさから、今日に至るまで多くのギター奏者の支持を集めている。

十弦ギター

1960年代から1970年代にかけて欧州をはじめ、アメリカ大陸や東アジアと世界を股にかけて演奏旅行に赴いた。1980年にソ連で初のコンサートを開催。日本での演奏は40回を数えた。

イエペスはその名声により、数多くの賞を得た。主要なものとしてムルシア大学より哲学の名誉博士号を、国王フアン・カルロス1世より芸術功労金メダルを授与され、アルフォンソ10世賢王アカデミーおよび王立サン・フェルナンド美術アカデミーの会員に選出されている。

参考文献 | Bibliography

  1. narciscoyepes.org [http://www.narcisoyepes.org]
  2. Yepes, Narciso | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.30699]
  3. Yepes Narcisso (1927-1997) [https://www.musicologie.org/Biographies/y/yepes.html]

ルクレツィア・ボルジア(ドニゼッティ)

基本情報 | Data

登場人物 | Cast

  • ルクレツィア・ボルジア(Lucrezia Borgia):ソプラノ。この物語の主人公であるフェラーラ公妃。初演を演じたのは、アンリエット・メリク=ラランド(Henriette Méric-Lalande)。その後の歌い手に、ジュリア・グリーシ(Giulia Grisi)(1854年)、テレーゼ・ティージェンヌ(Therese Tietjens)(1849、1877年)、そしてモンセラート・カヴァリエ(Montserrat Caballé)(1965年)がいる。
  • ジェンナーロ(Gennaro):テノール。ルクレツィアの生き別れの息子。初演を演じたのはフランチェスコ・ペドラッチ(Francesco Pedrazzi)。
  • マッフィオ・オルシーニ(Maffio Orsini):メゾ・ソプラノ。初演を演じたのは、マリエッタ・ブランヴィラ(Marietta Brambilla)。
  • リヴェロット(Liverotto) :テノール。
  • ヴィテロッツォ(Vitellozzo):バス。
  • フェラーラ公アルフォンソ・デステ(Alfonso d’Este):バス・バリトン。ルクレツィアの夫であるフェラーラ公。初演を演じたのはルチアーノ・マリアーニ(Luciano Mariani)。

ダンテ・ガブリエル・ロゼッティ作『ルクレツィア・ボルジア』(1871年)

あらすじ | Synopsis

プロローグ

ジェンナーロ、マッフィオ・オルシーニ、リヴェロットそしてヴィテロッツォは、ヴァネツィアのカーニバルにやってきた若者であった。その中でも、かつてボルジア家の政敵であったオルシーニは、かつてのリミニでの戦いを思い出し、ボルジア家の恐ろしさ 1)ボルジア家とオルシーニ家:1492年、ボルジア家出身の枢機卿ロドリーゴ・ボルジアが教皇アレクサンデル6世として即位した。アレクサンデル6世は、親族を重職につけ、政敵を排除するなど、一族の基盤を固めるために政治的手腕をふるった。オルシーニ家もボルジア家の宿敵となっていたローマの領主貴族(Barone)であり、彼らの争いは、都市ローマのみならず、地方の党派や有力者とも結びつき、規模を拡大していった。アレクサンデル6世は、1500年のリミニでの戦いにおいて、その息子チェーザレ・ボルジアを派遣し、侵攻した。オルシーニはこの戦いの記憶をここでは語っていると考えられる。を語りだす(1. アリア「リミニの戦いで (Nella fatal di Rimini)」)。そうこうしているうちに、横になって休むジェンナーロを一人残し、若者たちはその場を去っていく。そこに、仮面をつけた女性が現れ、愛情に満ちた目で眠るジェンナーロを見つめる(2. ロマンス「なんと美しい!(Com’ e bello!)」)。ジェンナーロが目を覚ますと、この若者が自身の息子であることに気づいていたルクレツィアは彼の過去について尋ねた。目の前の女性との関係を知らないジェンナーロは、自身の身の上について語る(3. アリア「卑しい漁師の息子と信じてきたが(Di pescatore ignobile esser figliuol credei)」)。しかしながら、ジェンナーロの仲間たちが戻ってくると、彼らは口々にこの美しい女性は悪名高いボルジアの女、ルクレツィア・ボルジアであることをジェンナーロに教え、ジェンナーロは恐れおののく(4. 六重唱「シニョーラ、マッフィオ・オルシーニです。あなたに兄弟を殺された(Maffio Orsini, signora, son’ io cui svenaste il dormente fratello)」)。

第一幕

一方フェラーラでは、ルクレツィアの4番目の夫フェラーラ公アルフォンソ・デステ2)フェラーラ公アルフォンソ・デステ:実際には、ルクレツィアの3番目の夫で最後の夫。1番目の夫は、ミラノのスフォルツァ家と親族関係にあったペーザロの領主ジョヴァンニ・スフォルツァであった。1493年に執り行われたこの結婚は、その前年の1492年、ルクレツィアの父アレクサンデル6世の教皇選挙の時、ミラノのスフォルツァ家出身の枢機卿アスカニオ・スフォルツァの助力を得たため、スフォルツァ家と教皇が関係を深めるために取り決められたものであった。結婚当時、ルクレツィアはわずか13歳の少女であった。その後、この夫を「不能」と枢機卿会議で認定し、2人の婚姻を無効とした教皇は、ナポリと同盟関係を結ぶために、2番目の夫をナポリから迎えることにした。1498年、ナポリ王の庶子アルフォンソ・ダラゴーナとルクレツィアの結婚式が執り行われ、年の近かった二人は仲睦まじい結婚生活を送っていた。ところが、その幸せは長く続かず、アルフォンソは、1500年何者かによって暗殺された。アルフォンソの死に嘆き悲しんだルクレツィアであったが、悲しみに沈む間もなく、教皇の娘として、次の夫を迎える必要があった。こうして1502年にフェラーラのエステ家の嫡出子アルフォンソ・デステと結婚し、後にルクレツィアはフェラーラ公妃となる。スパイから、ジェンナーロはルクレツィアの愛人である疑いがあることを聞かされた。このスパイは、アルフォンソが、政敵に復讐するために送っていた者であった(1. 大アリア「来たれ、我が復讐よ(Vieni: la mia vendetta)」)。一方、フェラーラにやってきたジェンナーロとその仲間たちであったが、ルクレツィアのことについて仲間たちはジェンナーロのことをからかった。怒ったジェンナーロは、宮殿のファザードに書かれたルクレツィア(Lucrezia Borgia)の紋章を見て、そこから”B”の文字を切り落とし、オルギア(Orgia)3)オルギア:古代ギリシアにおいて、特に豊穣とブドウ酒の神であるディオニュソス(バッカス)を讃える熱狂的な儀礼の形態。英語の「どんちゃん騒ぎ(orgy)」はこのオルギアに由来している。として、ボルジア家を罵った。この侮辱に激情したルクレツィアは、夫アルフォンソに仇を討つように指示した。ジェンナーロが捕らえられ、その当事者がジェンナーロであることを知ったルクレツィアは、この若者の身を案じたが、ひとまず、夫アルフォンソによるジェンナーロ毒殺計画に従うふりをした。夫アルフォンソがその場を去ると、ルクレツィアはこの若者に解毒剤を与え、フェラーラを直ちに去るように命じた(2. 二重唱「2人だけになったぞ(Soli noi siamo)」)。

第二幕

立ち去る前に、マッフィオ・オルシーニは、公爵夫人ネグローニの邸宅にて開かれる舞踏会に参加すべきであると主張した。そこで気の緩んだオルシーニは酒を飲みながら歌ったが(1. 乾杯の歌「幸せでいるための秘密(Il segreto per esser felici)」) 、その歌は不吉な声によって中断された。ジェンナーロとその仲間たちは、慌てて逃げようとしたが、すでに扉には鍵がかけられていた。そこでルクレツィアが突然現れると、一族を侮辱されたことの報復として彼らのワインに毒をもったことを告白した。それはジェンナーロがすでにフェラーラを発ったものと思い、その他の仲間たちをまとめて始末しようと計画したためであった。ジェンナーロ以外の若者たちが連行されると、ルクレツィアとその息子ジェンナーロのみが残った。彼女は、ジェンナーロを傷つけるつもりはなかったとして、解毒剤を飲むように懇願した(2. 二重唱「あなたがここに!(Tu pur qui)」)。ルクレツィアが自分は母であることを告げても、ジェンナーロはその申し出を断った。こうして毒がまわり、ジェンナーロの息は絶えた。その屍を見つつ、ルクレツィアは、この若者が自分の息子であることを告白し、卒倒した(3. カヴァレッタ「この若者は私の息子でした(Era desso il figlio mio)」)。

上演史

ドニゼッティは、原案となったヴィクトル・ユーゴーの小説『リュクレス・ボルジャ』(Lucrèce Borgia)の中に描かれるルクレツィアの犠牲者の6つの棺が突然現れるというワンシーンに感銘を受けた。ところがミラノ当局は、このエピソードを拒否した。実際のところ、この主題は、上演するのに相応しくないと判断されていたために、1833年12月、ミラノのスカラ座で初演日を迎えるまで、3年の月日を要することになった。またしばらくの間、この作品には別の名前がつけられたり、非キリスト教国に舞台が移されたりした。

スカラ座での2回目の上演は、1840年1月であった。この時、ドニゼッティは、エンディングシーンを変えるために、死んでゆくジェンナーロのアリオーソ(arioso)4)詠唱(aria)と叙唱(recitative)の中間のようなもの。を付け加え、ルクレツィアの最後のカバレッタ(cabaletta)5)カバレッタ:オペラのアリアまたは二重唱の一種。カバティーナの後で歌われるテンポの速い活発な曲。を省いた。なぜなら息子の死に対し、華々しく母が歌うというのは不自然だとドニゼッティが考えたからであった。1840年以降、『ルクレツィア・ボルジア』は、繰り返し上演される作品となり、その人気は19世紀末に至るまで続いた。また、同時代の作曲家フランツ・リストは、この『ルクレツィア・ボルジア』の他、ドニゼッティの作品に影響を受けて幻想曲を作曲している。

歴史的背景|Historical context

ルクレツィアの子供たち:ジェンナーロの正体

ルクレツィア・ボルジア(1480-1519年)は、本作にも登場する(正確には3番目の)夫フェラーラ公アルフォンソ・デステ(1476-1534年)と結婚するまでに、2人の息子を産んだとされている。ジェンナーロは、ルクレツィアがフェラーラのアルフォンソに嫁ぐ前にもうけられ生き別れたという設定であるが、ここではジェンナーロのモデルとなったと考えられる2人の息子を取り上げよう。

1493年、13歳のルクレツィアは、ペーザロ領主ジョヴァンニ・スフォルツァ(1466-1510年)と一回目の結婚をする。ところがその幼さゆえに妻としての務めを果たすことができないとして、ルクレツィアは、父である教皇アレクサンデル6世(1431-1503年)のもとで過ごす期間が長かった。その一方で、ジョヴァンニは、軍役に就くなど別居状態が続いた。そうこうするうちに政局が変わり、父教皇の意向で2人の結婚が無効であることが主張されるようになった。ここでジョヴァンニは、婚姻の無効は、自らの不能のせいであるという証言をするように強いられた。1497年12月、ジョヴァンニの親族にあたるミラノ出身の枢機卿アスカニオ・スフォルツァ(1455-1505年)のとりなしにより、婚姻の無効が成立した。この侮辱的な仕打ちに激昂したジョヴァンニは、ほとんどローマに滞在していたルクレツィアへの当て付けとして、父教皇との近親相姦の関係にあったという噂を触れ回った。その真偽を判断することはできないが、この父と娘の暗い噂は、その後も物語として再生され続けていくこととなる。

ピントゥルッキオ(1454-1513年)によってヴァチカン宮殿ボルジアの間のフレスコ壁画として描かれたもの

婚姻解消後、ローマで過ごしていたルクレツィアであったが、1498年3月、男児を出産する。ジョヴァンニ・ボルジア(Giovvani Borgia)(1498-1548年)と名付けられた赤子は、「ローマの子供」(l’Infante romano)としてヴァチカンで養育された。この子供が生まれる一ヶ月前の1498年2月、ティヴェレ川に教皇の従者であったペドロ・カルデンの亡骸があがったが、この若者がローマの子供の父親だと考えられている。ルクレツィアがフェラーラに嫁ぐ前の1501年9月1日、教皇は、このローマの子供がルクレツィアの兄チェーザレの子供であるという勅書を出した。ところが、この勅書の後に、教皇はローマの子供はルクレツィアの子供であるという勅書を出そうとした。それは、次期フェラーラ公アルフォンソ・デステとの婚姻が成立する段になって、次期フェラーラ公妃ルクレツィアの私生児としてローマの子供を認め、フェラーラの財産に対する権限を少しでも確保したいという教皇の意図であった。

このローマの子供の誕生とほぼ時を同じくして、ルクレツィアの2番目の婚姻が取り決められた。2番目の夫は、ナポリ王の親族にあたりルクレツィアより少し歳の若いサレルノ君主・ビシェリエ公アルフォンソ・ダラゴーナ(1481-1500年)であった。1498年7月、ヴァチカンにて結婚式が執り行われた。ルクレツィアはアルフォンソを心から愛し、またアルフォンソもそれに応え、2人は仲睦まじい夫婦であった。ところがその幸せは長くは続かなかった。それは、1499年5月12日、兄チェーザレと、ナヴァラ王の妹シャルロットの結婚式が行われるなど、教皇一族は、ナポリとの友好関係よりも、フランスと同盟関係を選ぶようになったからである。1499年8月2日、夫アルフォンソは、この政局を案じ、仲間を連れてローマから逃亡した。この時、アルフォンソの子を宿していたルクレツィアは、悲しみにくれる間も無く、8月半ば、統治官として任命されてスポレートに赴いた。そうこうするうちに逃亡から戻ってきた夫とローマに戻ったルクレツィアは再会し、同年11月、ルクレツィアは、ロドリーゴと名付けられる男児(1500-1512年)を出産した。

しばらく事態は落ち着きを見せたかのように思われたが、事件は1500年7月半ばに起きた。アルフォンソは何者かによって攻撃され重傷を負った。息も絶え絶えのアルフォンソをルクレツィアは、必死に看病し、数週間後、彼は小康状態を得た。ところが、8月18日、部屋に侵入した兄チェーザレの腹心ミケロットによってアルフォンソは暗殺された。夫の死の悲しみに沈む間も無く、20歳の未亡人ルクレツィアのもとには次々と縁談が舞い込んだ。1501年9月、フェラーラに向けて次なる婚姻のために旅立つことに決めたルクレツィアは、ローマの子供のジョヴァンニとロドリーゴにローマ内の所領を譲った。こうして、1502年1月6日、ルクレツィアは、幼い息子たちを残してローマから旅立った。

ここまでが、フェラーラに嫁ぐまでのルクレツィアの半生であり、フェラーラに嫁いだ後、彼女は、およそ6人の子供を3番目の夫アルフォンソとの間にもうけたとされている。少なくとも、ローマの子供ジョヴァンニ・ボルジアの方は、おそらくローマから呼び寄せられたのか、フェラーラで生まれた1508年生まれのエルコーレ(後のフェラーラ公)や1509年生まれのイッポリートといった義父兄弟と共に育ったとされる。彼女がローマで産んだとされる2人の息子の影は薄いとはいっても、ローマの子供ジョヴァンニ・ボルジアは1548年まで生きたとされており、毒殺のような悲劇的な結末は迎えていないようである。

ジョン・コリア作『チェーザレ・ボルジアと一杯のワイン』(1893年)

元「教皇の娘」6)父教皇アレクサンデル6世の崩御(1503年):ルクレツィアがフェラーラに嫁いだ翌年の8月、父である教皇が崩御した。これを機に、兄である教皇軍総司令官チェーザレ・ボルジアも敗戦を重ね、ボルジア家は没落の一途をたどった。ところが、すでにフェラーラに嫁いでいたルクレツィアの名声は衰えることなく、ルクレツィアは夫のもとで安定した後半生を送ることができた。このボルジア家の衰退という悲劇に悲しむルクレツィアを慰めたのが、当時フェラーラの宮廷に滞在していたヴェネツィア出身の枢機卿ピエトロ・ベンボである。ベンボとルクレツィアは、生涯書簡を通じて交流した。、現フェラーラ公妃として注目されていたルクレツィアの2人の子(とされるもの)は、フェラーラでの子供と対照的に、その消息は謎に包まれてきた。それゆえに、ドニゼッティのオペラのような生き別れの母息子という設定が生まれたのであろう。

ファム・ファタール?賢妻?土地経営者?

ドニゼッティの本作が示しているように、ルクレツィア・ボルジアには常にスキャンダラスなイメージが付きまとっている。特に19世紀のロマン派の芸術家たちにとって、ルクレツィアは格好の素材となり、毒殺、近親相姦、類稀な美貌などのイメージを相まって彼女の像はさらに膨らんだ。それゆえに、20世紀に入ってからも、小説、映画などが生産され続け、そこでは、悪徳と欲望に満ちたボルジア家というように描かれている。

『ボルジア 欲望の系譜』(season 1-3)(フランス、ドイツ)(2011-2014年)にてルクレツィアを演じたイゾルデ・ディシャウク

ところが20世紀末になると、歴史学の分野では、ボルジア家について再考されるようになった。例えば、1999年には、ローマにて行われたシンポジウムをもとに論文集が刊行されたり、2006年には「教皇アレクサンデル6世(1492-1503)治世500周年記念シンポジウム」が開催されたりするなど、長らく物語の題材にはなっても研究の対象とはされてこなかった状況が変わりつつある7)Roma di Fronte all’Europe al Tempo di AlessandroVI, vol. 1-3, a cura di M. Chaibo, S. Maddalo e A. M. Oliva, Roma, 2001.。その一環として、ルクレツィア個人についての研究も新たな見地を得ることとなった。ここでは、このような研究状況を参考に、有能な土地経営・管理者としてのルクレツィアの一面を紹介したい。

まず、ルクレツィアは、1498年に父教皇からネーピ、セルモネータ、カエターニといった教皇領のいくつかの領地を受け取っていたれていた。そのうち、ネーピについては、1499年秋、2番目の夫アルフォンソの死を悲しみローマを離れたルクレツィアが実際に滞在していた領地であった。これらの領地の一部は、1501年、3番目の夫アルフォンソとの結婚が決まった際に、ルクレツィアがローマで出産した2人の子供、ローマの子供ことジョヴァンニとロドリーゴに譲られた。その後、ルクレツィアは、フェラーラに嫁いだ後、土地管理・経営者としての才覚を見せるようになる。投資によって財産を増やしたルクレツィアが力を入れたことは、干拓事業であった。彼女の始めた干拓事業は、その孫アルフォンソ2世の代となった1564年には、フェラーラのポレージネにおいて9000エッタリ(おそらく21000エーカー)と大規模に行われるようになったのである。この16世紀半ばの干拓事業は、ポー川下流域の沈殿物の蓄積や、主要収入であった通行税の減少によって苦しんでいたフェラーラ公国の財政を救うものであった。結果的にこの事業は、ヴェネツィアというライバル出現によって頓挫するものの、16世紀前半に生み出された資金を投資し湿地や休閑地を耕作地に変えるというルクレツィアのヴィジョンは特筆すべきものである。

このような事業の他に、ルクレツィアがフェラーラで力を入れていたことは信仰生活であった。1515年から1518年の間に建てられたコルソ・ジョヴェッカに位置する宮廷は、ルクレツィア個人が信仰生活を全うするための別荘でもあった。また彼女の周りには、修道士がいたことなどから、彼女の宮廷は修道院のようであったと評する声もある。つまり、ルクレツィアのフェラーラ時代を特徴づけていたのは、信仰心と企業精神であったと言えよう 8)Diane Yvonne Ghirardo, “Lucrezia Borgia as Entrepreneur”, Renaissance Quarterly, 61. 2008, pp. 53-91.

以上のように、研究史上の見解から見るルクレツィアの像は、フェラーラに嫁いでからに限定されるものの、ドニゼッティの本作とは異なるものである。よく、父や兄に翻弄された前半生と比べて、フェラーラでの後半生は不倫の恋を楽しみながらも穏やかなものであったと評されることの多いルクレツィアであるが、妊娠と出産を繰り返しながらも、夫の財力に頼ることなく、所領管理する姿は一人の君主のようである。さらなる研究の進化によって、新たなルクレツィア像が生まれることであろう。

ルネサンス期のファションアイコン

ルクレツィア・ボルジアは、いわゆるファッション・アイコンであった。父教皇の死によるボルジア家の凋落にも関わらず、生涯を通じて当時の宮廷の中心にいたルクレツィアは、常に人びとの目を惹きつけていた。その容貌は、ほっそりとした体つきに豊かな金髪、イタリア語やスペイン語に加えラテン語やギリシア語の教養を身につけ、ダンスを得意としていた彼女は、当時の人びとにとっても大変魅力的に映ったようである。そんなルクレツィアの衣装の華やかさを語る2つのエピソードをここでは紹介する。

豪華な行列

ルクレツィアは、1499年8月、父教皇によってスポレート統治官任命され、ローマからスポレートへと旅立った。

スポレートのアルボルノツィアーナ城塞と城塞内の教皇の間。この城塞にルクレツィアは滞在した。

その出発の模様を、教皇庁の式部官ブルカルド(1445?1450-1506年)が詳細に記録している。このブルカルドは、役人として5人の教皇に仕え、1483年から1506年に至るまで日記を残している。教皇庁の内情を細やかにラテン語で描いたブルカルドの日記は、イタリア語ばかりか、英語にも訳されたために、多くの物語の素材となった。しかし、シニカルでフラットな筆致ながらもブルカルドが重視したのは、教皇庁の儀礼・典礼の記述であった。そんなブルカルドによって、ルクレツィアは次のように描かれている。

8月8日木曜日、猊下〔=教皇アレクサンデル6世〕のご令嬢ルクレツィア・ボルジア・ダラゴーナは、スポレートへ向かうためにポポロ門からローマを離れられた。その統治官の職を、聖下によって託されたのであった。彼女と一緒に、その左には、弟君であるスキラーチェ公ホフレ・ボルジア・ダラゴーナもいた。広場の上の開廊から、教皇は、荷物を積んだ多くの動物が続いた行列を眺めておられた。サン・ピエトロ大聖堂の階段まで自ら来られたルクレツィアと弟君は、馬あるいはラバに乗り、帽子を脱いで教皇の方を向いた。そして最後に恭しく、改めて許可を求めるために頭を下げた。猊下は、窓から、三回、神のご加護を願った:そのようにしてご子息は旅立たれた。

 

彼らの前には、教皇庁の護衛の兵と都市の統治官が、整然と並んで先に進んでいた。敷き藁とマットレスを乗せたラバ、花模様が施された毛布、白いダマスクス織の二つの枕、そして美しい移動天蓋。これらを、乗馬に疲れたルクレツィアが横になる時は、何人かの者で担ぐのであった。また別のラバは、鞍を乗せ、そこには背もたれと足台も付いた高座が固定されており、絹で覆いがされ豪華に装飾がなされていた:望む時にルクレツィアが快適に座れるように。

 

サン・ピエトロ広場からサンタンジェロ門まで、ルクレツィアの右には、ナポリ王の大使が付き従っていた;その後、その都市の統治官が付き従った。二人にそれぞれ高位聖職者が続き、その後群衆も続いた:猊下に賞賛と栄光があらんことを! 9)Alla corte di cinque Papi: Diario 1483-1506 di Giovanni Burcardo, a cura di L. Bianchi, Milano, 1988, p. 300.

1499年8月8日にローマを出発した一行は、ナルニ、フラミニア、サンジェミニ、カルソーリ、ポルカリアを6日間かけて進み、8月15日にスポレートに到着する。特筆すべきは、数日間の移動の際にもルクレツィアが快適に過ごせるよう、花模様の毛布にダマスクス織の枕、そして美しい天蓋と贅と尽くした装備がなされたということであった。ローマからスポレートへと至る間に通過した各地方都市の人々は、この豪華で優雅な行列を目にしたはずである。残念ながら、ルクレツィアの衣装についてまでの記述は確認できなかったが、まさに視覚に訴える教皇の娘の威光であったと言えよう。

「あの女(ひと)の着ているものが知りたい」

フェラーラに嫁いでからのルクレツィアは、宮廷に一流の人文主義者や芸術家を招いた。その中心にいたルクレツィアのファッションは、フェラーラに訪れる人びとの関心の的であったようである。ルクレツィアの義姉であるマントヴァ候夫人イザベッラ・デステ(1474-1539年)も、大使などを通じてルクレツィアの衣装について逐一情報を得ようとしていた。なお、このイザベッラ自身も、レオナルド・ダ・ヴィンチといった芸術家と交流し、マントヴァの宮廷を芸術の一大拠点にしようとしたルネサンスの女性であった。

ティツィアーノ作『イザベラ・デステの肖像』(1534年 – 1536年頃)

ここでは、ルクレツィアのフェラーラ時代を物語る2つの史料を紹介しよう。まず、前述のブルカルドの日記には、ルクレツィアに送られた数々の宝飾品について記述されている。ルクレツィアがローマを離れフェラーラに向けて出発したのは、1502年1月6日、フェラーラに到着したのは2月2日であるが、その前の1501年12月30日、ヴァチカンにてパーリオ(競馬レース)が催された。この催しの場で、未来の夫アルフォンソの弟である枢機卿イッポリート・デステ(1479-1520年)とシジスモンド・デステ(1480-1524年)は、花婿の名でルクレツィアへ宝飾品を送った。まず、ルクレツィアに金の指輪がつけられた後、ダイヤモンド、ルビー、エメラルド、トルコ石の4つの指輪が送られた。さらに、15のダイヤモンドと15のルビー、40の真珠がついた帽子、細やかな細工のネックレス、高価な石のついた4つのネックレス、真珠のついた大きな4つのネックレス、ダイヤモンドなどの宝石のついた煌びやかな4つ十字架など。そのうちの一つがルクレツィアの首にかけられた。ブルカルドによると、これらの価値は8000ドゥカートにものぼるとのことであった。花婿の家から花嫁への贈り物は、ブルカルドが詳細に記録していることからも、公衆の場で、しかも人が大勢集まった催し物の場で行われ、それは嫁ぎ先のエステ家の財力を見せつけるものでもあった 10)Alla corte di cinque Papi: Diario 1483-1506 di Giovanni Burcardo, a cura di L. Bianchi, Milano, 1988, pp. 366-367.

また、フェラーラへのルクレツィアの嫁入り道具の数々を記載した目録が、モデナ国立図書館に所蔵されているという。そこには、衣装をはじめとして、銀食器、布類、小物類が事細かに記載されており、中でも黒や薄緑がかった灰色、深紅などのゴンネッラ11)ゴンネッラ(gonnella):当時の上流階級の女性が着た袖付きのゆったりした服。は56着にものぼる12)伊藤亜紀『青を着る人びと』東信堂、2016年、133-140頁。藤内哲也編著『はじめて学ぶイタリアの歴史と文化』ミネルヴァ書房、2015年、266-284頁。

以上ルクレツィアの宝飾品と衣装を見てきたが、ルクレツィアの持参したゴンネッラは特に黒といった暗い色が多かったようである。贈り物の高価な宝飾品が普段使いのものであったのか、それとも保存用・式典用であったのかは定かではないが、仮に、シックな色の衣装にダイヤモンドや真珠の白っぽい煌びやかな宝飾品が合わせられたとしたら、そのコントラストはこの上なく美しいコントラストとして人々の目に映ったはずである。残念ながら、同時代の貴族女性に比べて、確実にルクレツィアとされる肖像は極めて少ない。彼女の容貌やセンスは、当時の文字史料から想像することしかできないが、極めて洗練されたその佇まいは、女性たちからも憧れていたことが考えられるであろう。

参考文献

ルクレツィアが登場する小説・エッセイ

  • アレクサンドル・デュマ著、田房直子『ボルジア家』作品社、2016年。
  • 塩野七生『ルネサンスの女たち『ルネサンスの女たち』(中央公論社、1969年/中公文庫、1973年、 1996年(改版) /新潮文庫、2012年)。
  • 中田耕『ルクレツィア・ボルジア (上) (下)』集英社、1984年。
  • Dario Fo13)ダリオ・フォ(1926-2016年):イタリアのノーベル文学賞(1997年)作家。英訳版のタイトルはThe Pope’s Daughter, La Figlia del Papa, Milano, 2014.

映像作品

  • 『ボルジア家の毒薬』(原題:Lucrèce Borgia)(フランス、イタリア、1953年)。
  • 『ボルジア家 愛と欲望の教皇一族』(season 1-3)(原題:The Borgias)(アメリカ、2011-2013年)。
  • 『ボルジア 欲望の系譜』(season 1-3)(原題:Borgia)(フランス、ドイツ)(2011-2014年)。

漫画

  • 川原泉『バビロンまで何マイル?』白泉社、1991年。
  • 惣領冬実『チェーザレ:破壊の創造者』講談社、2005年〜(現在11巻まで刊行中)。
  • 氷栗優『カンタレラ』秋田書店、2001-2010年(全12巻)。

研究文献

  • Alla corte di cinque Papi: Diario 1483-1506 di Giovanni Burcardo, a cura di L. Bianchi, Milano, 1988.
  • LUCREZIA Borgia, duchessa di Ferrara, Dizionario Biografico degli Italiani, vol. 66 (2006) a cura di Raffaele Tamalio.(http://www.treccani.it/enciclopedia/lucrezia-borgia/)
  • Feci, “Signore di curia. Rapporti di potere ed esperienze di governo nella Roma papale”, in: L. Arcangeli and S. Peyronel (eds.), Donne di potere nel Rinascimento, Roma, 2008, pp. 195-222.
  • Ferente, “Women and the state”, in: A. Gamberini and I. Lazzarini (eds.), The Italian Renaissance State, Cambridge, 2012, pp. 345-356.
  • Diane Yvonne Ghirardo, “Lucrezia Borgia as Entrepreneur”, Renaissance Quarterly, 61. 2008, pp. 53-91.
  • Gregorovius, Lucrezia Borgia, according to original documents and correspondence of her day, New York, 1903.
  • Lucrezia Borigia: Storia e mito, a cura di M. Bordin e P. Trovato, Firenze, 2006.
  • Anna Maira Oliva, ‘Cesare e Lucrezia Borgia negli archivi e nelle biblioteche italiane. Alcune riflessioni’, in Il Simposi Borja Els fills del senyor papa, 2, Revista Borja, 2007, pp. 315-323
  • Pellegrini, Ascanio Maria Sforza: La parabola politica di un cardinale-principe del rinascimento, Roma, 2002.
  • Roma di Fronte all’Europe al Tempo di AlessandroVI, vol. 1-3, a cura di M. Chaibo, S. Maddalo e A. M. Oliva, Roma, 2001.
  • Shaw, ‘Alexander VI, Cesare Borgia and the Orsini’, in: European Studies Review, 11, 1981, pp.1-23.
  • Zarri, “Il Rinascimento di Lucrezia Borgia”, in Scienza & Politica, 37, 2007, pp. 63-75.
  • 伊藤亜紀『青を着る人びと』東信堂、2016年。
  • 藤内哲也編著『はじめて学ぶイタリアの歴史と文化』ミネルヴァ書房、2015年。
  • ピエトロ・ベンボ、仲谷満寿美訳『アゾーロの談論』ありな書房、2013年。

Notes   [ + ]

1. ボルジア家とオルシーニ家:1492年、ボルジア家出身の枢機卿ロドリーゴ・ボルジアが教皇アレクサンデル6世として即位した。アレクサンデル6世は、親族を重職につけ、政敵を排除するなど、一族の基盤を固めるために政治的手腕をふるった。オルシーニ家もボルジア家の宿敵となっていたローマの領主貴族(Barone)であり、彼らの争いは、都市ローマのみならず、地方の党派や有力者とも結びつき、規模を拡大していった。アレクサンデル6世は、1500年のリミニでの戦いにおいて、その息子チェーザレ・ボルジアを派遣し、侵攻した。オルシーニはこの戦いの記憶をここでは語っていると考えられる。
2. フェラーラ公アルフォンソ・デステ:実際には、ルクレツィアの3番目の夫で最後の夫。1番目の夫は、ミラノのスフォルツァ家と親族関係にあったペーザロの領主ジョヴァンニ・スフォルツァであった。1493年に執り行われたこの結婚は、その前年の1492年、ルクレツィアの父アレクサンデル6世の教皇選挙の時、ミラノのスフォルツァ家出身の枢機卿アスカニオ・スフォルツァの助力を得たため、スフォルツァ家と教皇が関係を深めるために取り決められたものであった。結婚当時、ルクレツィアはわずか13歳の少女であった。その後、この夫を「不能」と枢機卿会議で認定し、2人の婚姻を無効とした教皇は、ナポリと同盟関係を結ぶために、2番目の夫をナポリから迎えることにした。1498年、ナポリ王の庶子アルフォンソ・ダラゴーナとルクレツィアの結婚式が執り行われ、年の近かった二人は仲睦まじい結婚生活を送っていた。ところが、その幸せは長く続かず、アルフォンソは、1500年何者かによって暗殺された。アルフォンソの死に嘆き悲しんだルクレツィアであったが、悲しみに沈む間もなく、教皇の娘として、次の夫を迎える必要があった。こうして1502年にフェラーラのエステ家の嫡出子アルフォンソ・デステと結婚し、後にルクレツィアはフェラーラ公妃となる。
3. オルギア:古代ギリシアにおいて、特に豊穣とブドウ酒の神であるディオニュソス(バッカス)を讃える熱狂的な儀礼の形態。英語の「どんちゃん騒ぎ(orgy)」はこのオルギアに由来している。
4. 詠唱(aria)と叙唱(recitative)の中間のようなもの。
5. カバレッタ:オペラのアリアまたは二重唱の一種。カバティーナの後で歌われるテンポの速い活発な曲。
6. 父教皇アレクサンデル6世の崩御(1503年):ルクレツィアがフェラーラに嫁いだ翌年の8月、父である教皇が崩御した。これを機に、兄である教皇軍総司令官チェーザレ・ボルジアも敗戦を重ね、ボルジア家は没落の一途をたどった。ところが、すでにフェラーラに嫁いでいたルクレツィアの名声は衰えることなく、ルクレツィアは夫のもとで安定した後半生を送ることができた。このボルジア家の衰退という悲劇に悲しむルクレツィアを慰めたのが、当時フェラーラの宮廷に滞在していたヴェネツィア出身の枢機卿ピエトロ・ベンボである。ベンボとルクレツィアは、生涯書簡を通じて交流した。
7. Roma di Fronte all’Europe al Tempo di AlessandroVI, vol. 1-3, a cura di M. Chaibo, S. Maddalo e A. M. Oliva, Roma, 2001.
8. Diane Yvonne Ghirardo, “Lucrezia Borgia as Entrepreneur”, Renaissance Quarterly, 61. 2008, pp. 53-91.
9. Alla corte di cinque Papi: Diario 1483-1506 di Giovanni Burcardo, a cura di L. Bianchi, Milano, 1988, p. 300.
10. Alla corte di cinque Papi: Diario 1483-1506 di Giovanni Burcardo, a cura di L. Bianchi, Milano, 1988, pp. 366-367.
11. ゴンネッラ(gonnella):当時の上流階級の女性が着た袖付きのゆったりした服。
12. 伊藤亜紀『青を着る人びと』東信堂、2016年、133-140頁。藤内哲也編著『はじめて学ぶイタリアの歴史と文化』ミネルヴァ書房、2015年、266-284頁。
13. ダリオ・フォ(1926-2016年):イタリアのノーベル文学賞(1997年)作家。英訳版のタイトルはThe Pope’s Daughter

レオ・ブローウェル

レオ・ブローウェル

生 : 1939年3月1日(キューバ共和国、ハバナ)

レオ・ブローウェル (Leo Brouwer) はキューバのギタリスト、作曲家。代表作に『11月のある日』などがある。

生涯 | Biography

青年時代

レオ・ブローウェルは1953年、キューバのギター学校創設者であるイサーク・ニコラ (Isaac Nicola) の下でギターの習得を開始した。1955年7月22日にハバナのリセウム・アンド・テニスクラブで最初のリサイタルを行う。同1955年、独学で作曲を学んだブローウェルは『ギター協奏曲第1番』などの制作を開始し、翌1956年に最初の作品を発表する。

1959年、奨学金を得たブローウェルは米国ハートフォード大学の音楽学科へ、続いてニューヨークのジュリアード音楽学校へ留学し、ギターの高度な技術を習得する。ここでブローウェルを教えたのはステファン・ウォルペやヴィンセント・パーシケッティ、ジョゼフ・イアドーン (Joseph Iadone) といった音楽家だった。

ナショナリズムの時代 : 1955-1962

1960年、ブローウェルはキューバ映画芸術産業庁 (ICAIC) の音楽部門長に就任し、映画音楽の作曲を始める1)キューバ映画芸術産業庁はカストロやチェ・ゲバラらによる1959年のキューバ革命後に創設された国立機関。革命を顕彰するための映画を多く作成し、同国の映画産業を牽引した。。ここで彼が執筆した楽譜は60曲を数えた。1969年、ブローウェルはICAICの「音響実験グループ」創設に関わり、メンバーの教育活動に当たった2)音響実験グループの創設メンバーにはやシルヴィオ・ロドリゲスやパブロ・ミラーネスといったキューバ現代音楽の重要人物が多数含まれていた。その経緯はドキュメンタリー映画『声を上げる集団がいた』(Hay un grupo que dice, 2013) に描かれている。

ブローウェルは1960年から1968年にかけて国営放送局「ラジオ・ハバナ・キューバ」の音楽顧問を務め、また1960年から1967年にかけてハバナ市立音楽院で対位法や和声、作曲などを教えた。テクストにはブローウェル自身の執筆した教科書『現代和声総合』(Síntesis de la armonía contemporánea) が使用された。

この時期の作品を特徴づけるのはソナタや変奏曲といった伝統的な音楽形式に加え、キューバ独自の和声構造である。これはブローウェルの愛国心がなしたものだった。

アヴァンギャルドの時代 : 1962-1967

ブローウェルは1960年代、作曲家のフアン・ブランコ (Juan Blanco) やカルロス・ファリーニャス (Carlos Fariñas)、また指揮者のマニュエル・デュシェーヌ・クザン (Manuel Duchesne Cuzán)らとともに前衛音楽の運動を主導する。この時期の作品は様式的な厳格さを保ちながらも、「草木や幾何学的なシンボルなど、音楽の様式を発見する手助けとなるものは何でも使う」というブローウェルの言葉が示す通り、前衛的な音響のコンセプトがより優勢となっている。

こうした傾向は同時代における多くのキューバ前衛音楽家と同様、ポーランドからの影響を多分に受けたものである。ブローウェル自身も1961年に「ワルシャワの秋」へ赴き、ポーランド前衛音楽を直接耳にしている。1960年代の作品は総じてポストモダンの作風によって特徴づけられている。

今日のブローウェル

1970年代に入ってもブローウェルは偶然音楽やセリエル音楽のような前衛的要素をギターで表現しようとした。しかしながら、1980年代に入るとシンプルかつミニマル、そしてロマン主義的な新しい作風へと移行する。

ブローウェルはハバナギターコンクールを主導し、また1981年よりキューバ国立管弦楽団の主任指揮者に就任した。さらにはベルリンフィルやコルドバオーケストラを含む海外のオーケストラも指揮した。ベルリン芸術アカデミーや UNESCO の会員となり、また1996年キューバ高等芸術院の名誉教授に就任した。長きにわたる国際的な活躍により、キューバ政府よりフェリックス・バレラ勲章を授与されている。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Brouwer (Mezquida), Leo | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.04092]

Notes   [ + ]

1. キューバ映画芸術産業庁はカストロやチェ・ゲバラらによる1959年のキューバ革命後に創設された国立機関。革命を顕彰するための映画を多く作成し、同国の映画産業を牽引した。
2. 音響実験グループの創設メンバーにはやシルヴィオ・ロドリゲスやパブロ・ミラーネスといったキューバ現代音楽の重要人物が多数含まれていた。その経緯はドキュメンタリー映画『声を上げる集団がいた』(Hay un grupo que dice, 2013) に描かれている。

アンドレス・セゴビア

アンドレス・セゴビア

生 : 1893年2月21日(スペイン王国、リナーレス)/没 : 1987年6月2日(スペイン王国、マドリード)

アンドレス・セゴビア (Andrés Segovia) はスペインのギタリスト。「現代クラシック・ギター奏法の父」と呼ばれる。

生涯 | Biography

アンドレス・セゴビアはアンダルシアの都市リナーレスで生まれた。グラナダで育ち、幼少期はピアノやチェロを習ったが、その後、独学でギターを学ぶ。当時この楽器は高尚と見なされず、主として酒場やカフェで演奏されるのにふさわしいと考えられていた。1909年頃、セゴビアはグラナダの芸術センター (Centro Artístico) で最初のコンサートを行い、1913年、アテネオ・デ・マドリードでコンサートを行った。1922年、マヌエル・デ・ファリャがグラナダで主催したカンテ・ホンドのコンサートに参加。1919年から1922年にかけて南米でコンサートツアーを行っている。1924年にはパリでデビューし、続けてスイスやドイツ、オーストリアでリサイタルを行った。

1926年、マインツのショット (Schott) 社より古典音楽の楽譜を復刻したシリーズ(セゴビア・アーカイブ)の刊行を開始する。1926年、イギリスとロシアでコンサートデビューする。1927年、デンマークでリサイタルを行い、HMVのために録音を行う。1928年に米国デビュー、1929年には初の日本ツアーを行う。1929年、エイトル・ヴィラ=ロボスがセゴビアに「12のエチュード」を献呈する。1935年、バッハのシャコンヌをギター編曲してパリで演奏する。1936年にスペインを離れてウルグアイのモンテビデオで数年過ごし、南米の演奏旅行を数多く行った。

第二次大戦後、セゴビアは欧米における演奏ツアーを拡大し、さらにLPレコードの発明により1947年から1977年までの三十年間で50以上のアルバムを発売した。1950年代にシエナのサマースクールで講師を務め、1958年からはサンティアゴ・デ・コンポステーラで教え始めた。1961年に最初のオーストラリアにおける演奏ツアーを行った。

セゴビアは晩年、毎年のように米国やヨーロッパの演奏ツアーを行った。1967年、ドキュメンタリー映画『セゴビア・アット・ロス・オリボス』が公開され、スペインの自宅における作曲家が特集された。1976年には自伝が刊行され、また映画『ソング・オブ・ザ・ギター』ではグラナダのアルハンブラ宮殿で演奏を行った。1977年、セゴビア最後のアルバムとなる『夢想集』(Reveries) がリリースされた。1981年、スペイン王フアン・カルロスよりサロブレーニャ侯爵の位を授与され、英国ケント州のリーズ城にてセゴビア国際ギターコンクールが行われた。続く数年の間にセゴビアは日本においてツアーを行い、ニューヨークのメトロポリタン美術館においてマスタークラスを開講した。

1983年にセゴビアは90歳となり、米国および日本でツアーを行った。1985年には英国のロイヤル・フィルハーモニック協会よりゴールドメダルを授与され、故郷のリナーレスに彫像が建てられた。1986年には南カリフォルニア大学でマスタークラスを主催し、フロリダ州のマイアミビーチで最後のリサイタルを行った。晩年のセゴビアは多数の名誉博士号をはじめ、スペインやイタリアの大十字章、日本の旭日章など、世界各国から数多くの賞を得た。

セゴビアは生涯を通じて150以上のリュートやハープシコードのための作品をギター版に編曲した。その中にはクープランやラモー、バッハのバロック音楽も含まれている。彼はその演奏技術の高さから数多くの後進を育て、ギターをオーケストラにふさわしい楽器として認知させるのに貢献した。

参考文献 | Bibliography

  1. Andrés Segovia, An Autobiography of the Years 1893–1920, 1976.
  2. Andrés Segovia, Andrés Segovia, My Book of the Guitar, 1979.
  3. Segovia, Andrés | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.25329]
  4. Andrés Segovia | Spanish musician | Britannica.com [https://www.britannica.com/biography/Andres-Segovia]

カミーユ・サン=サーンス

サン=サーンス

生 : 1835年10月9日(フランス王国、パリ)/没 : 1921年12月16日(仏領アルジェリア、アルジェ)

シャルル・カミーユ・サン=サーンス (Charles Camille Saint-Saëns) はフランスの作曲家。代表作に『動物の謝肉祭』などがある。

生涯 | Biography

カミーユ・サン=サーンスは1835年10月9日、父ジャック・サン=サーンスと母クレマンス・コランの間に生まれた。ノルマンディー地方の農家の子孫である父は内務省の官僚であり、1834年にクレマンスと結婚した。父ジャックはカミーユ・サン=サーンスの生後わずか3ヶ月で死去。カミーユは結核のため2年間の療養生活を送った後、母方の家庭で育てられることとなった。そこで3歳の頃からピアノを習い、若干10歳にしてパリのサル・プレイエルでピアニストとしてデビューを果たした。演目はベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番およびモーツァルトのピアノ協奏曲第15番。このときサン=サーンスはすべての曲目を暗譜で演奏したが、当時としては異例のことだった。

サン=サーンスはピエール・マルダン (Pierre Maleden) から作曲を学んだが、彼を比類なき教師だったと認めている。サン=サーンスの早熟は多分野に渡った。フランスの古典や宗教、ラテン語やギリシャ語を習得したほか、数学や自然科学、とりわけ天文学や考古学、そして哲学に親しんだ。サン=サーンスが自作曲の著作権で500フランを得た際、彼はその金を使って天体望遠鏡を買ったという。

1848年、サン=サーンスはパリ音楽院(コンセルヴァトワール)に入学。オルガン科でフランソワ・ブノワの指導を受け、1851年グラン・プリを獲得する。同1851年よりリュドヴィク・アレヴィに作曲および管弦楽法を習い、また伴奏や歌唱の方法も学んだ。

音楽家としてのキャリアをピアニストおよびオルガン奏者から開始したサン=サーンスは、バッハやラモー、ワグナーやリストを好んで演奏した。ピアニストとしての成功のため作曲家としての評価は遅れ、ローマ大賞を逃している。しかしながら『聖セシルのための頌歌』は1852年ボルドーの聖セシル協会主催のコンテストで1位を獲得する。若くして頭角を現したサン=サーンスは、ポーリーヌ・ヴィアルドやシャルル・グノー、ジョアキーノ・ロッシーニやエクトル・ベルリオーズといった同時代の音楽家と交友関係を結び、また彼らの庇護を受けた。

当初サン=サーンスは交響曲や室内楽を多く作曲し、同世代のフランス人音楽家とは異なりオペラに関心を持たなかった。しかしながらコンセルヴァトワール時代の師であるアレヴィの影響によりオペラに取り組むようになり、ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドやシャルル・グノーの支援を受けた。1854年パリに取材したオペラ・コミックの制作に取り掛かるが、後に放棄。ジュール・バルビエ発案によるオペラの序曲も作曲したが、結局これも半世紀以上が経過した1913年まで完成を見ることはなかった。

1853年、サン=サーンスはパリのサン・メリ教会のオルガニストに就任した。同教会のガブリエル神父に同伴して赴いたイタリア旅行が、サン=サーンスにとって生涯続く演奏旅行の最初のものだった。続く1857年にはパリのマドレーヌ寺院のオルガニストに就任し、サン=サーンスはこの職を1857年まで20年に渡って務めた。フランツ・リストはサン=サーンスの演奏を聴き、彼を世界一偉大なオルガニストとして称賛している。オルガン演奏はこの時期のサン=サーンスにとっての主要な職務であり、作曲の多くも宗教音楽だった。1857年には交響曲『ローマ』により再び聖セシル協会のコンテストで賞を獲得した。もっとも、彼自身は必ずしも信心深いキリスト教徒というわけではなかったという。この時期サン=サーンスはクリストフ・ヴィリバルト・グルックの全集の編纂に協力し、またベートーヴェンやリスト、モーツァルトの作品の校訂版の編集も行った。

この期間もサン=サーンスは歌劇に対する関心を維持していた。とりわけリヒャルト・ワグナーを好み、『タンホイザー』や『ローエングリン』に年長者が眉をひそめたのに対し、彼はこれを擁護した。1860年から1861年にかけてのワグナーのパリ滞在時期、『ローエングリン』や『トリスタンとイゾルデ』、『ラインの黄金』を作曲者の目の前でピアノで演奏する機会を得た。ワグナーへの酔心はその後も続き、1869年にミュンヘンで『ラインの黄金』を、1876年には第1回バイロイト音楽祭で『ニーベルングの指環』を聴く。

サン=サーンスの生涯の中でも1860年代初頭は充実した期間だった。ピアニストとしての名声を高め、『スパルタクス』序曲はまたも聖セシル協会から授賞された。1867年、パリ万国博覧会に際して作曲されたカンタータ『プロメテの結婚』が万博の審査会で表彰される。このときの審査員にはロッシーニやオーベール、ベルリオーズ、ヴェルディ、そしてグノーが含まれていた。こうしたサン=サーンスの成功からグノーは彼をして「フランスのベートーヴェン」と形容している。

ところが1863年、サン=サーンスはローマ大賞をまたも逃してしまう。そこでコンセルヴァトワール院長のフランソワ・オーベールはテアトル・リリック支配人のレオン・カルヴァロに依頼し、サン=サーンスのためにオペラ台本を依頼する。カルヴァロはバルビエとミシェル・カレによる『銀の音色』を提供した。この作品をサン=サーンスは1、2年で完成させるが、劇場側との行き違いもあり、初演にはそれから10年以上の歳月を要した。次のオペラ『サムソンとデリラ』もほぼ忘却されかけ、1872年にオペラ・コミック座で初演された『黄色い王女』もさしたる成功をおさめることはできなかった。この『黄色い王女』で共同作業を行った作家のルイ・ガレとは、1898年にガレが亡くなるまで交友を続けた。

1861年から1865年にかけて、サン=サーンスはパリのエコール・ニデルメイエールで教鞭を執る。生徒の中にはガブリエル・フォーレやアンドレ・メサジェ、ウジェーヌ・ジグーの姿もあった。

1870~1871年の普仏戦争とパリ・コミューンによる政治的混乱の中、1871年にサン=サーンスはコンセルヴァトワールの同僚ロマン・ビュシーヌと共同で国民音楽協会を創設する。「ガリアの芸術」(Ars Gallica) をスローガンとするこの協会には、書記を務めたアレクシス・ド・カスティヨンのほか、ガブリエル・フォーレやジュール・マスネ、セザール・フランク、エドゥアール・ラロといった音楽家が参加し、フランス人音楽家の作曲・演奏活動を振興した。プロイセンとの戦争における屈辱的敗北の後、フランスでは対独ナショナリズムが高揚したが、サン=サーンスもその例外ではなかった。当初ワグナーを好んでいた彼は、次第に様式的ないし愛国的要因からこれを避けるようになる。

1870年代初頭、サン=サーンスは『ルネサンス・リテレール・エ・アルティスティック』(文学と芸術の復興)や『ガゼット・ミュジカル』、『ルヴュ・ブルー』といった文芸誌に複数の記事を掲載し、ヴァンサン・ダンディに代表される従来の音楽様式を批判した。1876年、バイロイトを訪ね『ニーベルングの指環』を鑑賞したサン=サーンスは、『レスタフェット』(L’estafette) 誌に7本の長文記事を執筆し、『ル・ヴォルテール』誌に「ハーモニーとメロディ」と題する連載を執筆した。また第一次世界大戦の始まる1914年には「ドイツ贔屓」と題する記事を発表し、ワグナーに代表されるドイツ音楽の排除を訴えている。

1875年、サン=サーンスは当時19歳だったマリ=ロール・トリュフォと結婚する。しかしながらこの結婚は母親の反対にあい、また2人の子も相次いで夭逝するなど、幸せとは言えないものだった。サン=サーンスは妻に強く当たり、結局二人は離婚した。妻のマリ=ロールは1950年、ボルドー近郊のコードラン (Cauderan) にて95歳で亡くなっている。

その後数年間、サン=サーンスは交響詩や歌曲に専念する。1877年2月、テアトル・リリックにおいて『銀の音色』がとうとう上演される。このオペラの献呈を受けたアルベール・リボン (Albert Libon) は同1877年に死去し、サン=サーンスに10万フランを遺贈した。サン=サーンスはこの遺贈者のレクイエムを作曲し、1878年5月22日、パリのサン=シュルピス教会で演奏の機会を得た。さらに1877年末には『サムソンとデリラ』もワイマールで上演がかなった。これに自信をもったサン=サーンスはオペラの作曲に本格的に取り組むようになる。3、4年毎に作品を発表し、すぐに上演された。これは1911年『デジャニール』の千秋楽まで続いた。またリストが『サムソンとデリラ』を激賞したことが縁となり、1878年3月にパリ・イタリア座でリストの楽曲を演奏する。これがリストの交響詩のフランス初演となった。

サン=サーンスのオペラで歴史に取材した初の作品は、ルイ・ガレ (Louis Gallet) の台本による『エティエンヌ・マルセル』である。百年戦争期パリの英雄的な指導者を描いたこの作品は1879年リヨンで初演されたが人気はほどほどだった。続いてパリのガルニエ宮(オペラ座)より依頼され、シェイクスピアおよびペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカのリブレットに基づき制作した『ヘンリー8世』は1883年3月に初演され、大きな成功を収めた。しかしエドモン・アブの小説を原作としたオペラ・コミック『ギエリ』は制作後すぐに没とされた。ルイ・ガレがリブレットを書き、16世紀のフィレンツェを舞台とした『プロセルピーヌ』(1887年上演)など、歴史に題材をとったオペラを相次いで発表した。

1881年、サン=サーンスは芸術アカデミー会員に選出され、1884年にはレジオン・ドヌール勲章のオフィシエを受勲している。

オペラの相次ぐ成功により、1888年の母の死と相まって、サン=サーンスは次第に活動の場をフランス国外に移すようになった。1873年にアルジェリアを訪ねてから、お気に入りの旅先となる。ノルマンディ地方の港町ディエップに所領を移す。ディエップには1890年7月サン=サーンス博物館が開館している。この時期もサン=サーンスは執筆活動を続け、とりわけ『ルヴュ・ブルー』誌に「回想」と題する連載記事を執筆した。南欧や北欧、さらには南米、東アジアと演奏旅行を行った。

サン=サーンスが『動物の謝肉祭』の着想を得たのもオーストリアにおける休暇中だった。またロシアでは赤十字の後援を受け、サンクト・ペテルブルクで7回のコンサートを行っている。サンクト・ペテルブルクではチャイコフスキーと出会い、ニコライ・ルビンシュタインのピアノ伴奏により二人で即興のバレエを披露するという余興も行った。

1906年に初のアメリカ合衆国における演奏旅行を行い、フィラデルフィアやシカゴ、ワシントンでコンサートを行った。1915年には二度目の米国での興行を催し、ニューヨークやサンフランシスコで講演や演奏を行った。

サン=サーンスは1871年を皮切りにイギリスへ何度も赴き、ヴィクトリア女王の御前で演奏を行ったり、バッキンガム宮殿の図書館でヘンデルの手稿文書を閲覧するなどの活動を行った。1886年、ロンドン・フィルハーモニック協会の依頼で作曲した交響曲第3番は作曲者自身の指揮によりロンドンで初演され、1893年にはコヴェント・ガーデンで『サムソンとデリラ』のオラトリオ版を指揮した。1893年にケンブリッジ大学より、1907年にオックスフォード大学より名誉博士号を授与され、また1902年のエドワード7世の戴冠に際して行進曲を作曲したことで、ロイヤル・ヴィクトリア勲章のコマンダーを授与された。

1894年、サン=サーンスはオーギュスト・デュランの音楽出版社のためにラモー全集の編纂に携わった。1895年の『フレデゴンド』はオペラ座で上演されたが、これは失敗に終わる。サン=サーンスはオペラ座での活動休止を決める。代わって彼が活路を見出したのは南仏である。1896年にはフェルナン・カステルボン=ド=ボーゾスト (Fernand Castelbon de Beauxhostes) の招聘を受け、ベジエの野外劇場の再建に協力する。サン=サーンスはこの野外劇場で、地元の楽団「リール・ビテロワーズ」(Lyre Biterroise) などの演奏により、ルイ・ガレの『デジャニール』を上演した。フランス中から1万名以上もの観客が押し寄せたという。ベジエの野外劇場でサン=サーンスの作品は好意的に受け入れられ、1898年に劇場の音楽顧問に就任する。

他方、モンテ・カルロ歌劇場でも積極的に活動を行っている。モナコ大公アルベール1世の庇護を受け、支配人ラウール・ガンズブールの下で『エレーヌ』『祖先』『デジャニール』の3作を上演した。

1900年、パリ万国博覧会の依頼を受け、電力技術の発展を礼賛するカンタータ『天上の火』を作曲した。同1900年、サン=サーンスはフランスの最高勲章であるレジオン・ドヌールの「グラントフィシエ」を受勲し、また皇帝ヴィルヘルム2世によりドイツ帝国の功労勲章を受勲した。芸術アカデミー会長に就任する。

20世紀に入ると、サン=サーンスはエジプトやアルジェリアで過ごす機会が多くなる。1910~1911年の冬にかけて、アルジェの市立劇場では彼のオペラ5作品が上演された。カイロ滞在中の1913年にはレジオン・ドヌールの最高位である「グラン・クロワ」を受賞している。サン=サーンスはその後も自作曲の演奏や改訂を行いながら日々を過ごした。

1916年、南米における4ヶ月の滞在中、サン=サーンスは左手に麻痺を感じるようになる。彼は1921年8月6日、ディエップのカジノで行われたピアノコンサートを以て、自らの演奏家としてのキャリアに終止符を打つことを決める。同1921年8月21日、ベジエにおける『アンティゴネ』のリハーサルを以て、作曲活動からもリタイアした。

1921年12月、サン=サーンスはアルジェに戻り、同地で息を引き取った。フランスでは国葬が行われ、偉大な作曲家の亡骸はパリのマドレーヌ寺院に安置された。

サン=サーンスは生前、1万4千通の書簡、600枚の譜面、そして600冊の書籍をディエップに寄贈していた。パスツールやワグナー、プルーストの手紙をも含むこれらのアーカイブはフランス国立図書館により整理・電子化され、デジタルアーカイブ「ガリカ (Gallica)」にて公開されている1)Dieppe : la correspondance personnelle de Camille Saint-Saëns va rejoindre la bibliothèque numérique nationale Gallica

作品一覧 | Works

作品番号あり

  • Op. 1 3つの小品 3 Morceaux 1852
  • Op. 2 交響曲第1番 変ホ長調 Symphony No.1 in E-flat major 1853
  • Op. 3 6つのバガテル 6 Bagatelles 1855
  • Op. 4 ミサ・ソレムニス Mass 1856
  • Op. 5 タントゥム・エルゴ Tantum ergo 1856
  • Op. 6 タランテラ イ短調 Tarantelle in A minor 1857
  • Op. 7 ブルターニュの歌による3つのラプソディ 3 Rhapsodies sur des cantiques bretons 1866
  • Op. 8 6つの二重奏曲 6 Duos for Harmonium and Piano 1858
  • Op. 8bis Duo for 2 Pianos 1897
  • Op. 9 祝婚曲 ヘ長調 Bénédiction nuptiale in F major 1859
  • Op. 10 ホラティウスの情景 Scène d’Horace 1860
  • Op. 11 小二重奏曲 ト長調 Duettino in G major 1855
  • Op. 12 クリスマス・オラトリオ Oratorio de Noël 1858
  • Op. 13 聖体奉挙 Élévation ou communion in E major 1858
  • Op. 14 ピアノ五重奏曲 イ短調 Piano Quintet in A minor 1855
  • Op. 15 セレナード 変ホ長調 Serenade 1866
  • Op. 16 チェロとピアノのための組曲 Suite for Cello and Piano 1862
  • Op. 16bis Suite for Cello and Orchestra 1919
  • Op. 17 ピアノ協奏曲第1番 ニ長調 Piano Concerto No.1 in D major 1858
  • Op. 18 ピアノ三重奏曲第1番 ヘ長調 Piano Trio No.1 in F major 1863
  • Op. 19 プロメテの結婚 Les Noces de Prométhée 1887
  • Op. 20 ヴァイオリン協奏曲第1番 イ長調 Violin Concerto No.1 in A major 1859
  • Op. 21 マズルカ第1番 ト短調 Mazurka No.1 in G minor 1862
  • Op. 22 ピアノ協奏曲第2番 ト短調 Piano Concerto No.2 in G minor 1868
  • Op. 23 ガヴォット ハ短調 Gavotte in C minor 1871
  • Op. 24 マズルカ第2番 ト短調 Mazurka No.2 in G minor 1871
  • Op. 25 東洋と西洋 Orient et Occident 1869
  • Op. 26 ペルシャの歌 Mélodies persanes 1870
  • Op. 27 ロマンス 変ロ長調 Romance 1866
  • Op. 28 序奏とロンド・カプリチオーソ イ短調 Introduction et Rondo capriccioso 1863
  • Op. 29 ピアノ協奏曲第3番 変ホ長調 Piano Concerto No.3 in E-flat major 1869
  • Op. 30 黄色い王女 La Princesse jaune 1872
  • Op. 31 オンファールの糸車 Le Rouet d’Omphale 1869
  • Op. 32 チェロソナタ第1番 ハ短調 Cello Sonata No.1 in C minor 1872
  • Op. 33 チェロ協奏曲第1番 イ短調 Cello Concerto No.1 in A minor
  • Op. 34 英雄行進曲 変ホ長調 Marche Héroïque 1870
  • Op. 35 ベートーヴェンの主題による変奏曲 Variations on a theme of Beethoven 1874
  • Op. 36 ロマンス ヘ長調 Romance in F major 1874
  • Op. 37 ロマンス 変ニ長調 Romance in D-flat major 1871
  • Op. 38 子守歌 変ロ長調 Berceuse in B-flat major 1871
  • Op. 39 ファエトン Phaéton 1873
  • Op. 40 死の舞踏 Danse macabre 1874
  • Op. 41 ピアノ四重奏曲 変ロ長調 Piano Quartet in B-flat major 1875
  • Op. 42 諸々の天は神の栄光をあらわし Coeli enarrant 1865
  • Op. 43 アレグロ・アパッショナート ロ短調 Allegro appassionato 1875
  • Op. 44 ピアノ協奏曲第4番 ハ短調 Piano Concerto No.4 in C minor 1875
  • Op. 45 ノアの洪水 Le Déluge 1874
  • Op. 46 ゲデオンの兵士たち Les Soldats de Gédéon 1876
  • Op. 47 サムソンとデリラ Samson et Dalila 1877
  • Op. 48 ロマンス ハ長調 Romance in C major 1877
  • Op. 49 組曲 ニ長調 Suite in D major 1862-1863
  • Op. 50 ヘラクレスの青年時代 La Jeunesse d’Hercule 1877
  • Op. 51 ロマンス ニ長調 Romance in D major 1877
  • Op. 52 6つの練習曲 第1集 6 Études for piano 1877
  • Op. 53 2つの合唱曲 2 Chorales 1878
  • Op. 54 レクイエム ハ短調 Requiem 1878
  • Op. 55 交響曲第2番 イ短調 Symphony No.2 in A minor 1859
  • Op. 56 メヌエットとワルツ Menuet et Valse 1872
  • Op. 57 竪琴とハープ La Lyre et la Harpe 1879
  • Op. 58 ヴァイオリン協奏曲第2番 ハ長調 Violin Concerto No.2 in C major 1858
  • Op. 59 ハラルド・ハルファガール王 König Harald Harfagar 1880
  • Op. 60 アルジェリア組曲 Suite algérienne 1880
  • Op. 61 ヴァイオリン協奏曲第3番 ロ短調 Violin Concerto No.3 in B minor 1880
  • Op. 62 演奏会用小品 ホ短調 Morceau de concert in G major 1880
  • Op. 63 リスボンの一夜 Une nuit à Lisbonne in E-flat major 1880
  • Op. 64 ホタ・アラゴネーサ La jota aragonese 1880
  • Op. 65 七重奏曲 変ホ長調 Septet in E-flat major 1881
  • Op. 66 マズルカ第3番 ロ短調 Mazurka No.3 in B minor 1882
  • Op. 67 ロマンス ホ長調 Romance 1885
  • Op. 68 2つの合唱曲 2 Chorales 1882
  • Op. 69 ヴィクトル・ユゴーへの讃歌 Hymne à Victor Hugo 1881
  • Op. 70 アレグロ・アパッショナート 嬰ハ短調 Allegro appassionato 1884
  • Op. 71 2つの合唱曲 2 Chorales 1884
  • Op. 72 アルバム Album 1884
  • Op. 73 オーヴェルニュ狂詩曲 ハ長調 Rhapsodie d’Auvergne 1884
  • Op. 74 サルタレロ Saltarelle 1885
  • Op. 75 ヴァイオリンソナタ第1番 ニ短調 Violin Sonata No. 1 in D minor 1885
  • Op. 76 ウェディング・ケーキ  Wedding Cake 1885
  • Op. 77 ポロネーズ ヘ短調 Polonaise 1886
  • Op. 78 交響曲第3番 ハ短調『オルガン付き Symphony No. 3 in C minor (“Organ Symphony”) 1886
  • Op. 79 デンマークとロシアの歌による奇想曲 Caprice sur des airs danois et russes 1887
  • Op. 80 イタリアの思い出 ト長調 Souvenir d’Italie 1887
  • Op. 81 アルバムのページ 変ロ長調 Feuillet d’Album 1887
  • Op. 82 鼓手の婚約者 La Fiancée du timbalier 1887
  • Op. 83 ハバネラ ホ長調 Havanaise in E major 1887
  • Op. 84 戦士たち Les Guerriers 1888
  • Op. 85 夕べの鐘 Les Cloches du soir 1889
  • Op. 86 速歩 Pas redoublé 1887
  • Op. 87 スケルツォ Scherzo 1889
  • Op. 88 カナリアのワルツ イ短調 Valse canariote in A minor 1890
  • Op. 89 アフリカ Africa 1891
  • Op. 90 組曲 ヘ長調 Suite in F major 1891
  • Op. 91 サッフォー風の歌 Chant saphique 1892
  • Op. 92 ピアノ三重奏曲第2番 ホ短調 Piano Trio No. 2 in E minor 1892
  • Op. 93 サラバンドとリゴードン ホ長調 Sarabande et rigaudon 1892
  • Op. 94 演奏会用小品 ヘ短調 Morceau de concert in F major 1887
  • Op. 95 独奏ハープのための幻想曲 イ短調 Fantaisie for harp 1893
  • Op. 96 アラビア風奇想曲 Caprice arabe 1894
  • Op. 97 ピアノのための主題と変奏曲 Thème varié 1894
  • Op. 98 女神アテナ Pallas Athéné 1894
  • Op. 99 3つの前奏曲とフーガ 3 Preludes and Fugues 1894
  • Op. 100 イスマイリアの思い出 Souvenir d’Ismaïlia 1895
  • Op. 101 幻想曲第2番 変ニ長調 Fantaisie No. 2 in D-flat major 1895
  • Op. 102 ヴァイオリンソナタ第2番 変ホ長調 Violin Sonata No. 2 in E-flat major 1896
  • Op. 103 ピアノ協奏曲第5番 ヘ長調『エジプト風』 Piano Concerto No. 5 in F major (“Egyptian”) 1896
  • Op. 104 可愛いワルツ 変ホ長調 Valse mignonne 1896
  • Op. 105 子守歌 ホ長調 Berceuse 1896
  • Op. 106 英雄的奇想曲 Caprice héroïque 1898
  • Op. 107 宗教的行進曲 ヘ長調 Marche religieuse in F major 1897
  • Op. 108 舟歌 ヘ長調 Barcarolle 1897
  • Op. 109 3つの前奏曲とフーガ 3 Preludes and Fugues 1898
  • Op. 110 投げやりなワルツ 変ニ長調 Valse nonchalante 1898
  • Op. 111 6つの練習曲 第2集 6 Études 1899
  • Op. 112 弦楽四重奏曲第1番 ホ短調 String Quartet No. 1 in E minor 1899
  • Op. 113 秋の歌 Chants d’automne 1899
  • Op. 114 夜 La Nuit 1900
  • Op. 115 天上の火 Le Feu céleste 1900
  • Op. 116 ローラ Lala 1900
  • Op. 117 戴冠式行進曲 ハ長調 Coronation March for Edward VII 1902
  • Op. 118 夕べのロマンス Romance du soir 1902
  • Op. 119 チェロ協奏曲第2番 ニ短調 Cello Concerto No. 2 in D Minor 1902
  • Op. 120 悩ましげなワルツ Valse langoureuse 1903
  • Op. 121 フランスに捧ぐ À la France 1903
  • Op. 122 アンダルシア奇想曲 ト長調 Caprice andalous in G major 1904
  • Op. 123 チェロソナタ第2番 ヘ長調 Cello Sonata No. 2 in F major 1905
  • Op. 124 幻想曲 イ長調 Fantaisie 1907
  • Op. 125 ナイル川の岸辺 Sur les bords du Nil 1908
  • Op. 126 コルネイユの栄光 La Gloire de Corneille 1906
  • Op. 127 主をほめたたえよ Laudate Dominum 1908
  • Op. 128 ギーズ公の暗殺 L’Assassinat du Duc de Guise 1908
  • Op. 129 朝 Le Matin 1908
  • Op. 130 誓い La Foi 1908
  • Op. 131 栄光 La Gloire 1911
  • Op. 132 ミューズと詩人 La Muse et le Poète 1910
  • Op. 133 祝典序曲 ヘ長調 Ouverture de fête 1910
  • Op. 134 飛行士たちに捧ぐ Aux aviateurs 1911
  • Op. 135 左手のための6つの練習曲 6 Études for the left hand 1912
  • Op. 136 3部作 Tryptique 1912
  • Op. 137 抗夫たちに捧ぐ Aux mineurs 1912
  • Op. 138 春の讃歌 Hymne au printemps 1912
  • Op. 139 愉快なワルツ Valse gaie 1913
  • Op. 140 未完成のコミック・オペラのための序曲 ト長調 The Promised Land 1913
  • Op. 141 2つの合唱曲 2 Chorales 1913
  • Op. 142 労働への讃歌 Hymne au travail 1914
  • Op. 143 エレジー ニ長調 Élégie No. 1 1915
  • Op. 144 カヴァティーナ Cavatine in D-flat major 1915
  • Op. 145 アヴェ・マリア Ave Maria 1914
  • Op. 146 赤い灰 La Cendre rouge 1915
  • Op. 147 汝はペテロなり Tu es Petrus 1914
  • Op. 148 どれほど愛されているのだろう Quam Dilecta 1915
  • Op. 149 主を讃えよ Laudate Dominum 1916
  • Op. 150 7つの即興曲 7 Improvisations 1916-1917
  • Op. 151 3つの合唱曲 3 Choeurs 1917
  • Op. 152 勝利に向かって Vers la victoire 1918
  • Op. 153 弦楽四重奏曲第2番 ト長調 String Quartet No. 2 in G major 1918
  • Op. 154 演奏会用小品 ト長調 Morceau de concerto in G major 1918-1919
  • Op. 155 連合国行進曲 Marche interalliée 1918
  • Op. 156 糸杉と月桂樹 ニ短調 Cyprès et lauriers 1919
  • Op. 157 幻想曲第3番 ハ長調 Fantaisie No. 3 in C major 1919
  • Op. 158 祈り Prière 1919
  • Op. 159 平和の讃歌 Hymne à la paix 1919
  • Op. 160 エレジー第2番 ヘ長調 Élégie No. 2 1919
  • Op. 161 6つのフーガ 6 Fugues 1920
  • Op. 162 叙情小詩 ニ長調 Odelette 1920
  • Op. 163 アルジェの学生に捧げる行進曲 Marche dédiée aux étudiants d’Alger 1921
  • Op. 164 空の征服者たちへ Aux conquérants de l’air 1921
  • Op. 165 春 Le Printemps 1921
  • Op. 166 オーボエソナタ ニ長調 Oboe Sonata in D major 1921
  • Op. 167 クラリネットソナタ 変ホ長調 Clarinet Sonata in E-flat major 1921
  • Op. 168 ファゴットソナタ ト長調 Bassoon Sonata in G major 1921
  • Op. 169 アルバムのページ Feuillet d’album 1921

作品番号なし

 

参考文献 | Bibliography

  1. Saint-Saëns, (Charles) Camille | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.24335]
  2. Saint-Saëns, (Charles) Camille | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.O904535]
  3. Camille Saint-Saëns (1835-1921) [https://www.musicologie.org/Biographies/saint_saens_c.html]

Notes   [ + ]

ヘンリー・パーセル

ヘンリー・パーセル

生 : 1659年9月10日(イングランド共和国、ロンドンまたはウエストミンスター)/没 : 1695年11月21日(イングランド王国、ロンドン)

ヘンリー・パーセル (Henry Purcell) はイギリスの作曲家。バロック時代、とりわけイングランド王政復古期に活躍した。代表作に『ディドとエネアス』や『アブデラザール』などがある。

生涯 | Biography

聖歌隊における音楽修行

パーセルの幼年期について語る資料は少ない。おそらくは1659年9月10日、ロンドンないしウエストミンスターで生まれたヘンリー・パーセルは、音楽家である同名の父ヘンリーと母エリザベスの6人兄弟のうち3ないし4番目の子であった。またダニエル・パーセルのいとことされる。

父はオリヴァー・クロムウェルによる共和政(コモンウェルス)時代にロンドンで活躍した音楽家で、王政復古期に「チャペル・ロイヤルのジェントルマン」と呼ばれる国王のための聖歌隊の一員となった。1661年2月16日、ウエストミンスター寺院の聖歌隊長となり、1664年8月11日に同地で亡くなっている。その後1666年にパーセルの母エリザベスはロンドンのトットヒル街に転居し、1680年までそこで暮らした。6人の子の養育を助けたのは宮廷音楽家を務める叔父のトマス・パーセルだった。

ウエストミンスター寺院ウエストミンスター寺院

少年ヘンリー・パーセルは1669年頃から1673年までチャペル・ロイヤルの聖歌隊員として、ヘンリー・クック (Henry Cooke) の下で、クックの死後1672年からはペラム・ハンフリーの下で音楽の訓練を受けた。1673年6月10日から王室の楽器を管理するジョン・ヒングストン (John Hingeston) の無給の助手となる。

聖歌隊を離れた後、パーセルはジョン・ブロウとクリストファー・ギボンズから音楽を学んだ。マシュー・ロックはパーセルの直接の師であるかは定かではないが、パーセルに大きな影響を与えたことは確かである。

王室付音楽家として

1677年、マシュー・ロックの死去に伴い、パーセルは国王の専属作曲家に就任。続いて1679年にウエストミンスター寺院のオルガニストに就任する。1682年7月14日にはチャペル・ロイヤルのオルガニストにも就任している。パーセルは王政復古期に国王チャールズ2世およびジェームズ2世へ、そして名誉革命後は新たに即位したウィリアムとメアリへ仕え、賛歌(アンセム)や頌歌(オード)、歓迎歌や戴冠式のための音楽などの作曲に従事した。

私生活では1680年、フラマン系移民の娘フランセス・ピータースと結婚している。また公職者に英国国教会への帰属を推奨する「審査法」に従い、1683年2月4日にウエストミンスターの聖マーガレット教会より聖餐証明書を得る。これによりパーセルは1683年12月、ジョン・ヒングストンの後を継いで王室の楽器管理人に就任した。

1684年、パーセルは国王チャールズ2世の命を受け、作曲家ジョン・ブロウや台本作家ジョン・ドライデンと組んで、国王の治世を称えるオペラ『アルビオンとアルバニウス』の作曲に取り掛かった。ところが彼らは後に降板となり、結局『アルビオンとアルバニウス』はフランスで音楽を学んだルイ・グラビュによって完成された。

チャールズ2世チャールズ2世

1685年のチャールズ2世崩御に際して、パーセルは葬送歌を作曲した。続く国王ジェームズ2世のカトリック信仰はパーセルの音楽家としてのキャリアに影響を与えた。パーセルの作風を気に入らなかった新国王は彼をチャペル・ロイヤルのオルガン奏者としての身分に留めはしたものの、カトリックの立場から国教会の地位は縮小されることとなった。私生活でも息子のトマスを1686年夏に亡くし、また生後間もない子ヘンリーを1687年9月に亡くすなど、私生活でも不幸が続いた。

1688~1689年の名誉革命を経て、パーセルは1690年に新国王ウィリアムとメアリの推薦によりホワイトホール宮殿における劇場の作曲家に就任する。しかしながら革命の余波により王宮における音楽活動が削減されたため、パーセルは教育や出版、あるいは一般公衆向けの演奏活動や商業的な作曲活動により生計を立てることを余儀なくされた。パーセルの次なるキャリアが始まろうとしていた。

オペラ作曲家として

パーセルが最初に劇音楽と接点を持ったのは1680年、ナサニエル・リーの悲劇『テオドシウス』の作曲である。1677年のマシュー・ロックの死はロンドンの音楽シーンに新風を吹かせる契機となったが、この『テオドシウス』はさほど話題にならなかったようである。

パーセルのオペラ作曲家としての名を今日まで不動としているのは1689年の作品『ディドとエネアス』である。1680年代に構想された『ディドとエネアス』は、パーセルの師であるジョン・ブロウのオペラ『ヴィーナスとアドニス』のプロットから多分に影響を受けながらも、イタリアやフランスの要素も取り入れた様式をとった。とはいえこの作品の来歴や初演について詳細は分かっておらず、パーセル存命中の上演で判明しているのは、チェルシーの女子寄宿学校におけるジョシアス・プリースト (Josias Priest) による1689年のものだけである。

『ディドとエネアス』はパーセルの経歴に転機をもたらした。王宮における活動を縮小した彼はオペラ作曲家としての道を本格的に歩み始めたのだ。1690年から1695年にかけて、パーセルはロンドンの興行会社「ユナイテッド・カンパニー」のために40を超える劇付随音楽を作曲した。

中でも『アーサー王、またはブリテンの守護者』は18世紀まで劇場における演目の常連としての地位を保ち続け、トマス・アーン (Thomas Arne) の編曲版が1770年にデイヴィット・ギャリックによって演じられた。『アーサー王』の成功により、パーセルは続くシーズンの演目の作曲を依頼され、『妖精の女王』を発表した。シェイクスピアの戯曲『真夏の夜の夢』を下敷きにしたこの作品は1692年5月2日にシアター・ロイヤルで初演となり、人気を博した。

シアター・ロイヤルシアター・ロイヤルのファサード(1775年)

1694年の末に起こった俳優たちの造反はパーセルのキャリアにも影響した。悪名高い劇場支配人クリストファー・リッチ (Christopher Rich) による独裁的な経営のため、トマス・ベタートン (Thomas Betterton) ら多くの俳優がリンカーンズ・イン・フィールズにあるライバルの劇場に移籍したのだ。パーセルと関係の深かった歌手も多くが辞めてしまい、シアター・ロイヤルは窮地に陥った。そうした中、経営立て直しのために計画された『インドの女王』、あるいは最晩年の傑作『アブデラザール、あるいはムーア人の復讐』など、パーセルは精力的に作曲活動を行った。

さらにパーセルは教育活動や後進の育成にも貢献した。1693年にヘンリー・プレイフォードの編集による曲集『聖なる調和』(ハルモニア・サクラ)の第2巻に複数の自作曲を寄せ、また翌1694年には、当時の標準的な教則本として普及していたジョン・プレイフォード著『音楽技術入門』第12版の編集に貢献した。1693~1694年、チャペル・ロイヤル時代の同僚であったジョン・ワルターの紹介によりジョン・ウェルドン (John Weldon) を弟子に迎えた。またロバート・ハワード卿の妻アナベラや孫娘のダイアナもパーセルの生徒であった。

1694年12月28日に女王メアリが天然痘で崩御したため、翌1695年3月5日の国葬のため、パーセルは葬送歌を作曲した。病魔は音楽家自身の身にも迫っていた。1695年のある晩、酒場から帰宅したパーセルは体調を崩し、療養を余儀なくされた。本人は死の直前まで病の深刻さに気付かなかったという。11月21日、妻のフランセスが看取る中、ヘンリー・パーセルはロンドンのマーシャム街の自宅で息を引き取った。葬儀は11月26日の午後にウエストミンスター寺院で行われた。

死後の評価

パーセルはそのキャリアの絶頂で息を引き取った。彼の死後、妻のフランセス・パーセルは1696年に『ハープシコードまたはスピネットのためのレッスン選集』を刊行している。また、ヘンリー・プレイフォードの手によって1698年から1702年にかけて出版された2巻本の『英国のオルフェウス』(オルフェウス・ブリタニクス)は1706年および1711年の第2版、1721年の第3版と版を重ねた。

ヘンリー・パーセルは英国を代表する音楽家として今日まで評価されているが、その作風は彼が生きた同時代のイギリス音楽の標準からは逸脱したものである。パーセルはイギリス音楽の伝統に根ざしながらも、彼を重用した国王チャールズ2世の好みからフランス音楽の要素を取り入れ、さらにはオペラの本場であるイタリアの様式も参照した。すなわち16・17世紀における英国風のポリフォニーを用いるのみならず、イタリアのオペラにおける声楽の様式をも取り入れたのだ。晩年におけるパーセルのオペラ作品はイタリアの影響を受けつつも、ロンドンの公衆の好みに即したスタイルが取られている。

作品一覧 | Works

参考文献 | Bibliography

  1. Curtis A. Price, Henry Purcell and the London Stage, Cambridge University Press, 2009.
  2. Purcell, Henry (1659–1695), organist and composer | Oxford Dictionary of National Biography [https://doi.org/10.1093/ref:odnb/22894]
  3. Purcell, Henry | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.O002310]
  4. Henry Purcell (1659-1695) [https://www.musicologie.org/Biographies/purcell_henry.html]

エリック・サティ

エリック・サティ

生 : 1866年5月17日(フランス帝国、オンフルール)/没 : 1925年7月1日(フランス共和国、パリ)

エリック・サティ (Erik Satie) はフランスの作曲家。代表作に『ジムノペディ』『グノシエンヌ』『ジュ・トゥ・ヴ』などがある。

生涯 | Biography

「コンセルヴァトワールで最も怠惰な生徒」

エリック・サティは1866年、ノルマンディー地方、カルヴァドス県の港町オンフルールにて、船舶解体業を営む父のアルフレッド・サティと、スコットランド系の血を引く母のジェーン・レスリー・アントンの長男として生まれた。毎日家から海を眺め、船の発する音を聞く少年時代だったという。1870年の普仏戦争を経て、父のアルフレッドは事業を売却し、一家はパリへと移り住んだ。

オンフルール19世紀のオンフルール

1872年、エリック・サティが6歳の時、母のジェーンが亡くなった。そのためエリックと弟のコンラッドはオンフルールの父方の祖父母のもとに預けられ、カトリックの影響の中で育てられた。サティは1874年より、ヴィノ (Vinot) という名の地元の教会のオルガン奏者から音楽のレッスンを受け始めた。このオルガニストの影響でサティはグレゴリオ聖歌を好むようになったという。

1878年の夏、祖母の死という悲劇に見舞われたサティは、パリに戻り父親のもとで教育を受ける。父アルフレッドはピアノ教師のウジェニー・バルネシュ (Eugénie Barnetche) と出会い、1879年1月に彼女と再婚する。この結婚は少年サティの望むものではなかったが、ウジェニーはサティをパリ音楽院(コンセルヴァトワール)の準備学級でエミール・デコンブによるピアノの授業を受けさせた。1879年11月のことだった。

サティはパリ音楽院で7年を過ごしたが、彼にとってこの経験は苦痛でしかなかった。デコンブは1881年、サティを「コンセルヴァトワールで最も怠惰な生徒」と評している。多くの教師がサティのピアニストとしての才能を認めたが、同時に彼の熱意の低さに苦言を呈した。1885年よりサティは継母ウジェニーの元教師であったジョルジュ・マティアス (Georges Mathias) よりピアノを習い始める。しかしながらマティアスもサティを「つまらない奴」と評した。後の1892年、サティは母校に対して次のような手紙を送っている。

子供だった私は、あなた方のクラスに入りました。私の心はとても柔らかかったため、あなた方はそれを理解できませんでした。私のやり方は花をも驚かしていました。〔…〕そして、私が若さの絶頂にいて機敏さを備えていたのに、あなた方の無理解のおかげで、私はあなた方が教えていた趣味の悪い芸術が大嫌いになりました1)cité par : Erik Satie, Correspondance presque complète, réunie et présentée, Paris : Fayard, 2000.

コンセルヴァトワール在学中、サティの最も親しい友人はスペイン生れの詩人パトリス・コンタミーヌ・ド・ラトゥールだった。ラトゥールの証言によると、サティは兵役期間を短縮するためだけにパリ音楽院への学籍登録を続けていたという。さらにサティは気管支炎に罹患し、結局彼は一年もせず除隊となった。療養中、サティはフロベールやペラダンの文学作品に親しんだ。

父アルフレッドは1883年に音楽出版社を創業し、息子が友人のラトゥールとともに制作した曲を出版した。しかしながら、父子の関係は次第に悪化してゆく。1887年、ついにサティは家元を離れることを決意する。

「エリック・サティ、職業はジムノペディスト」

家族からの独立を果たした21歳のサティはパリ・モンマルトルのアパルトマンに入居した。住所はコンドルセ街50番地。すぐ側では有名なキャバレー「黒猫(ル・シャ・ノワール)」が営業しており、間もなくサティはキャバレーの常連となる。

シャ・ノワールキャバレー「ル・シャ・ノワール」のポスター(1896年)

そんなある日、サティはラトゥールとともにル・シャ・ノワール支配人のロドルフ・サリに紹介される。有力な興行主の印象に残るようにと、無名の音楽青年は自らを次のように紹介した。「エリック・サティ、職業はジムノペディストです」。一年後の1888年春、サティは美しい3つのピアノ小品を作曲する。現在まで彼の代表作として知られる「ジムノペディ」である。

抑圧的な教育環境から解放されたサティは、モンマルトルのボヘミアンな生活を満喫した。作家ジュール・レヴィの創始した「支離滅裂」を意味する芸術運動「アンコエラン派」と関係し、作家アルフォンス・アレーのような新進気鋭の個性的な芸術家たちと交流した。シルクハットに長髪、フロックコートという彼特有のファッションが確立されたのもこの時期である。1890年までサティはル・シャ・ノワールでアンリ・リヴィエールによる影絵芝居のオーケストラを指揮した。

1891年、ロドルフ・サリと仲違いしたサティはル・シャ・ノワールを離れ、同じ界隈にある「オーベルジュ・デュ・クルー」という店でピアニストとして働き始めた。ここでサティはクロード・ドビュッシーと知り合いになる。ドビュッシーは少し変わったこの友人を「今世紀に迷い込んだ中世の優しい音楽家」と評した。以後二人は四半世紀にわたって親交を続けることになる。

1890年、サティはコンドルセ街を離れ、ビュット・モンマルトルのコルト街6番地に転居する。借金取りから逃れるため、というのがその名目だった。ここでサティは1891~1892年にかけて作家のジョゼファン・ペラダンと交友する。ペルシアの王「シャー」を自称するペラダンが主催する神秘主義的な芸術家集団「聖堂聖杯カトリック薔薇十字騎士団」において、サティは公認の作曲家となる。サティが初めて自作曲を披露する機会を得たのも、ペラダンによる「薔薇十字サロン」においてであった。

こうした「薔薇十字騎士団」との交流を通じて、サティは神秘主義やゴシック芸術への関心を強めてゆく。ペラダンによる『星たちの息子』では前奏曲を担当した。

しかしながら1892年8月、サティはペラダンと喧嘩別れしてしまう。1893年から1895年にかけて、サティは「指揮者イエスの芸術首都教会」(Église Métropolitaine d’Art de Jésus Conducteur) なる結社の創設者となる。「修道院付属聖堂」と称したコルト街のアパルトマンにて、サティはライバルの音楽家たちを酷評する文書を発行するなどの活動を行った。ただし、この結社の構成員はサティただ一人であった。

当時サティは芸術アカデミー会員に選出されるために3度立候補しているが、いずれも失敗に終わっている。私生活では1893年、モンマルトルの隣人であった画家のシュザンヌ・ヴァラドンと一時恋愛関係にあった。服装も「ベルベットの紳士」と称するスタイルに変更し、1895年に遺産の一部を使って7着の焦茶色の背広を新調した。ヴァラドンとの6ヶ月間の短く激しい関係が破局に終わった後、サティが女性と関係を持つことは二度となかった。

シュザンヌ・ヴァラドンシュザンヌ・ヴァラドンの肖像写真

この頃作曲した『貧者のミサ』は、サティにとって青年時代の神秘主義的な音楽スタイルを終わらせるものだった。それは彼にとって新しい様式の長い模索の始まりでもあった。

「君の年齢では、もう生まれ変わるのは難しい」

1898年の末、仕事に集中でき、また安く住める環境を求めたサティは、青年時代の住処であったモンマルトルを離れ、パリ南郊に位置するアルクイユに転居した。セーヌの支流であるビエーヴル川に面した労働者街、コシー通22番地にあるサティの自宅は広さ15平米、電気も水道も通っておらず、夏はビエーヴル川から湧く蚊に悩まされた。みすぼらしいその部屋に彼は誰を入れることも許さなかった。

サティはブルジョア風のファッションに身を包んで日々10キロメートルの道をパリ市内まで歩き、カフェを転々としながら作曲に勤しんだ。彼がアルクイユの自宅に帰るのは大抵モンパルナス駅から出る終電か、それよりも遅くなる場合は徒歩であった。サティは雨の日を好んだ。彼はコートの下に傘をしのばせ、また護身用の金槌も携帯していたのだった。

サティは生計を立てるため古巣であるモンマルトルのカフェ・コンセールへ趣き、俳優ヴァンサン・イスパの伴奏者として活動した。また「スロー・ワルツの女王」と呼ばれたシャンソン歌手ポーレット・ダルティのためにいくつかの曲を書き、商業的成功を収めた。今日までサティの代表作の一つとして親しまれている『ジュ・トゥ・ヴ』(あなたが欲しい)も、この時期ダルティのために書かれた曲である。

ジュ・トゥ・ヴ『ジュ・トゥ・ヴ』の楽譜の表紙(1904年)

サティは旧友のコンタミーヌ・ド・ラトゥールや漫画家のジュール・デパキ (Jules Dépaquit) とともにショービジネスの業界で働いた。この時期の小品『夢見る魚』では、当時流行していたミュージック・ホールの粋なスタイルをドビュッシー風の印象派の和声に合わせるという独自の様式を生み出した。

サティはさらなる様式の変革を求めて、1905年10月にスコラ・カントルムへ入学する。この時彼は既に39歳、親友のドビュッシーは「君の年齢ではもう生まれ変わるのは難しい」と言ったが、サティは1908年、アルベール・ルーセルの下で対位法の学位を取得し、また1912年までヴァンサン・ダンディによる作曲のクラスに出席した。

「現代的な感性を用いて古典の簡素さに回帰する」

サティの人生の転機は1911年1月に訪れた。モーリス・ラヴェルによる独立音楽協会のコンサートを聴いたサティは、印象派風の前衛的な和声技法に大きな衝撃を受ける。この時期ドビュッシーが『ジムノペディ』のオーケストラ編曲をパリのサル・ガヴォーで指揮し世間の評判となるが、自分の曲による友人の成功はサティを大いに嫉妬させたという。

1912年、有力な音楽出版業者であるウジェーヌ・デメ (Eugène Demets) がサティの『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』の出版に同意し、さらに追加で新曲の制作を依頼する。これによりサティはキャバレーでの演奏活動を引退し、作曲に専念できるようになった。

1914年、第一次世界大戦の勃発がサティの音楽活動を一時中断させる。しかしながら1916年、『3つの小品』の演奏を聴いた詩人のジャン・コクトーはサティの才能を評価し、バレエ『パラード』の制作チームに彼を招き入れる。台本コクトー、美術パブロ・ピカソ、振付レオニード・マシーンという当代一流の芸術家によるこの作品は、セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスで1917年に初演され、大変なスキャンダルを呼ぶこととなった。

この出来事をきっかけにサティは劇伴音楽のジャンルで活動するようになる。ピカソやディアギレフとの交流も続け、また音楽家集団「フランス6人組」の庇護者ともなった。サティは1916年10月にポリニャック大公夫人の依頼を受けて『ソクラテス』の作曲を開始する。批評家ジャン・プーエー (Jean Poueigh) の起こした名誉毀損訴訟と相まって幾度かの中断をはさみながらも、『ソクラテス』は2年後の1918年に完成された。この曲はプラトン『対話篇』の哲学者ヴィクトール・クザンによる仏訳の抜粋を下敷きにしたもので、「現代的な感性を用いて古典の簡素さに回帰する」という作曲者の言葉が示すとおり、ストラヴィンスキーの前衛音楽に大きな影響を受けたものだった。

1920年、「6人組」の一人であるダリウス・ミヨーと『家具の音楽』と題する曲をギャルリー・バルバザンジュ (Galerie Barbazanges) にて披露した。この曲名は家具のように日常生活の背景に溶け込むようにデザインされた音楽を意味して付けられたものである。この年以降、サティは新聞や雑誌に文章を発表するようになる。1921年には前年に結成されたフランス共産党に加入し、またダダイズムの運動にも関わった。1922年2月にはモンパルナスのカフェ「クロズリー・デ・リラ」において、アンドレ・ブルトンを弾劾する公開集会を主催している。

クロズリー・デ・リラクロズリー・デ・リラ(1909年)

1923年、アンリ・クリケ=プレイエル、ロジェ・デゾルミエール、マクシム・ジャコブ、アンリ・ソーゲの4人の青年音楽家はサティの庇護を受け、彼の自宅にちなんで「アルクイユ楽派」を称し活動を行った。1924年にはピカソとマシーンのバレエ『メルキュール』やピカビアとボルランの『本日休演』などを作曲する。特に後者はルネ・クレールの短編映画『幕間』に使用され、サティ初の映画使用曲となった。ちなみにこの映画にはサティも出演している。

1925年2月、サティは過度の飲酒がたたって肝硬変および胸膜炎を発症し、入院を余儀なくされる。死期を悟ってもなお彼は自己を貫き、喧嘩別れしたかつての友人たちと会うことを最期まで拒んだ。遺品整理のため弟のコンラッド、ミヨー、デゾルミエールそしてロベール・カビーがアルクイユの部屋を訪ねた際、彼らは荷台2つ分のがらくたを運び出さねばならなかったという。サティの遺した手稿文書のうち、手紙の多くはコンラッドの家が火事にあった際に焼失してしまった。草稿と楽譜はミヨーによって保管された。

作品一覧 | Works

ピアノ曲

  • 1884 アレグロ Allegro
  • 1885 ワルツ=バレエ Valse-ballet
  • 1885 幻想ワルツ Fantaisie-valse
  • 1887 3つのサラバンド Trois Sarabandes
  • 1888 4つのオジーヴ Quatre Ogives
  • 1888 3つのジムノペディ Trois Gymnopédies
  • 1889 グノシエンヌ第5番 Gnossienne, No. 5
  • 1889 Chanson Hongroise
  • 1890 3つのグノシエンヌ Trois Gnossiennes
  • 1891 薔薇十字団の最初の思想 Première Pensée Rose+Croix
  • 1891 グノシエンヌ第4番 Gnossienne, No. 4
  • 1891 「至高存在」のライトモティーフ Leit-motiv de ‘Panthée’
  • 1891 「ビザンツの王子」前奏曲 Prélude du ‘Prince du Byzance’
  • 1891 「星たちの息子」前奏曲 Le Fils des étoiles
  • 1891 薔薇十字団の鐘の音 Trois Sonneries de la Rose+Croix
  • 1892 Fête donnée par des chevaliers normands en l’honneur d’une jeune demoiselle
  • 1892 ナザレ人の前奏曲 Prélude du Nazaréen
  • 1892 クリスマス Noël
  • 1893 エジナールの前奏曲 Eginhard Prélude
  • 1893 ゴチック舞曲 Danses Gothiques
  • 1893 ヴェクサシオン Vexations
  • 1893 祈り Prière
  • 1893 モデレ Modéré
  • 1894 天国の英雄的な門への前奏曲 Prélude de la porte héroïque du ciel
  • 1895 詩篇 Psaumes
  • 1897 グノシエンヌ第6番 Gnossienne, No. 6
  • 1897 舞踏への小序曲 Petite Ouverture à danser
  • 1897 愛撫 Caresse
  • 1897 冷たい小品 Pièces froides
  • 1899 びっくり箱 Jack-in-the-box
  • 1899 アリーヌ=ポルカ Aline-Polka
  • 1900 蝿氏の死への前奏曲 Prélude de La mort de Monsieur Mouche
  • 1900 世俗的で豪華な唱句 Verset laïque & somptueux
  • 1901 夢見る魚 The Dreamy Fish
  • 1901 金の粉 Poudre d’or
  • 1902 野蛮な歌 Chanson barbare
  • 1903 Trois Morceaux en forme de Poire
  • 1905 カリフォルニアの伝説 Légende Californienne
  • 1905 Exercices
  • 1905 Gambades
  • 1906 Padacale
  • 1906 フーガ=ワルツ Fugue-Valse
  • 1906 パッサカリア Passacaille
  • 1906 壁掛けとしての前奏曲 Prélude en tapisserie
  • 1907 新・冷たい小品集 Nouvelles ‘Piéces froides’
  • 1908 悪い手本 Fâcheux exemple
  • 1908 快い絶望 Désespoir agréable
  • 1909 小ソナタ Petite Sonate
  • 1909 2つの物 Deux Choses
  • 1909 Profondeur
  • 1909 Douze petits Chorals
  • 1909 バスクのメヌエット Menuet basque
  • 1909 不思議なコント作家 Le Conteur magique
  • 1909 Songe-creux
  • 1909 無口な囚人 Le Prisonnier maussade
  • 1909 大猿 Le Grand Singe
  • 1909 ピエロの夕食 Le Dîner de Pierrot
  • 1911 馬の装具で En Habit de cheval
  • 1912 Apercus désagréables
  • 1912 犬のための2つの前奏曲 Deux Préludes pour un chien
  • 1912 犬のためのぶよぶよとした前奏曲 Préludes flasques pour un chien
  • 1912 犬のためのぶよぶよとした本当の前奏曲 Véritables préludes flasques pour un chien
  • 1913 自動記述法 Descriptions automatiques
  • 1913 Croquis et agaceries d’un gros bonhomme en bois
  • 1913 Embryons desséchés
  • 1913 San Bernardo
  • 1913 Chapitres tournés en tous sens
  • 1913 Vieux sequins et vielles cuirasses
  • 1913 Trois Nouvelles Enfantines
  • 1913 Menus propos enfantins
  • 1913 Enfantillages pittoresques
  • 1913 Peccadilles importunes
  • 1913 Les Pantins dansent
  • 1914 Air
  • 1914 スポーツと気晴らし Sports et divertissements
  • 1914 世紀ごとの時間と瞬間の時間 Heures séculaires et instantanées
  • 1914 Obstacles venimeux
  • 1914 いやらしい気取り屋の3つの高雅なワルツ Les Trois Valses Distinguées du Précieux Dégoûté
  • 1915 皿の上の夢 Rêverie sur un plat
  • 1915 最後から2番目の思想 Avant-dernières pensées
  • 1916 L’Aurore aux doigts de rose
  • 1917 官僚的なソナチネ Sonatine bureaucratique
  • 1919 5つの夜想曲 Cinq Nocturnes
  • 1919 Petite Danse
  • 1919 Trois Petites Pièces montées
  • 1920 6e Nocturne
  • 1920 Musique d’ameublement
  • 1920 最初のメヌエット Premier Menuet
  • 1920 風変わりな美女 La Belle Excentrique
  • 1921 Motifs lumineux

管弦楽曲

  • 1886 Deux Quatuors
  • 1890 舞曲 Danse
  • 1893 ロクサーヌ Roxane
  • 1902 アンゴラの牛 The Angora Ox
  • 1906 愛の芽生え Pousse l’amour
  • 1915 La Mer est pleine d’eau: c’est à n’y rien comprendre
  • 1915 Cinq grimaces pour Le songe d’une nuit d’été
  • 1916 Fables de la Fontaine
  • 1917 Musique d’ameublement
  • 1919 Marche de Cocagne
  • 1921 Sonnerie pour reveiller le bon gros Roi des Singes
  • 1921 Alice au Pays de Merveilles
  • 1921 La Naissance de Vênus
  • 1921 Supercinéma
  • 1923 Suite d’Archi danses
  • 1923 Couleurs
  • 1923 Tenture de Cabinet préfectoral
  • 1924 Concurrence
  • 1924 Quadrille
  • 1924 Deux petites Choses
  • 1924 Mercure
  • 1924 Relâche
  • 1924 Cinema : entr’acte symphonique de Relache

室内楽曲

  • 1891 Salut Drapeau !
  • 1893 Bonjour Biqui, Bonjour!
  • 1899 Un Dîner à l’Elysée
  • 1899 Le Veuf
  • 1914 右と左に見えるもの Choses vues à droite et à gauche
  • 1917 シテール島への船出 Embarquement pour Cythère
  • 1923 再発見された像の娯楽 Divertissement La Statue retrouvée

歌曲

  • 1887 エレジー Elégie
  • 1887 3つの歌 Trois Mélodies
  • 1887 シャンソン Chanson
  • 1897 ジュ・トゥ・ヴ Je te veux
  • 1902 やさしく Tendrement
  • 1903 Le Picador est mort
  • 1903 Sorcière
  • 1903 Enfant martyre
  • 1903 Air fantôme
  • 1904 La Diva de l’Empire
  • 1904 Le Picadilly Marche
  • 1905 L’Omnibus automobile
  • 1905 お医者さんのところで Chez le docteur
  • 1905 オックスフォード帝国 Impérial-Oxford
  • 1905 いいとも、ショショット Allons-y Chochotte
  • 1906 中世の歌 Chanson médiévale
  • 1907 ランブイエ Rambouillet
  • 1907 Les Oiseaux
  • 1907 Marienbad
  • 1907 Psitt! Psitt!
  • 1909 シャツ La Chemise
  • 1909 Choeur d’adolescents
  • 1909 Dieu Credo rouge
  • 1914 3つの恋愛詩 Trois Poèmes d’amour
  • 1916 Trois Mélodies
  • 1917 戦いの前日 La Veille du combat
  • 1918 Socrate
  • 1920 Quatre Petites Mélodies
  • 1921 Le Roi de la Grande Ile
  • 1923 ポールとヴィルジニー Paul & Virginie
  • 1923 Ludions
  • 1923 Scènes Nouvelles pour Le médecin malgré lui

舞台作品

  • 1892 ユスピュ Uspud
  • 1899 ブラバン夫人のジュヌヴィエーヴ Geneviève de Brabant
  • 1913 メデューサの罠 Le Piège de Méduse
  • 1917 パラード Parade

宗教音楽

  • 1894 信仰のミサ Messe de la foi
  • 1895 貧者のミサ Messe des pauvres

参考文献 | Bibliography

  1. Satie, Erik | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.40105]
  2. Erik Satie (1866-1925) [https://www.musicologie.org/Biographies/satie.html]
  3. Jerrold Seigel, Bohemian Paris : Culture, politics, and the boundaries of bourgeois life, 1830-1930, Baltimore ; London : Johns Hopkins University Press, 1999.
  4. エリック・サティ —— “沈黙”の作曲家(ル・モンド・ディプロマティーク日本語)[http://www.diplo.jp/articles16/1608-6lecompositeur.html]

Notes   [ + ]

1. cité par : Erik Satie, Correspondance presque complète, réunie et présentée, Paris : Fayard, 2000.

ジョアキーノ・ロッシーニ

ジョアッキーノ・ロッシーニ(Rossini, Gioachino (Antonio))b 1792年2月29日教皇領ペーザロ;d 1868年11月13日フランス帝国パリ。19世紀前半に活躍し、ベッリーニやドニゼッティといった同時代の人々からも賞賛を得たイタリアの作曲家。イタリアのオペラ作曲家ヴェルディが、19世紀後半になって活躍するようになるまで、ロッシーニはイタリアのオペラの第一人者とされていた。

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