ジョルジュ・ビゼー

ジョルジュ・ビゼー

生 : 1838年10月25日(フランス王国、パリ)/没 : 1875年6月3日(フランス共和国、ブージヴァル)

ジョルジュ・ビゼー (Georges Bizet) はフランスの作曲家。とりわけオペラなど劇音楽の分野で名を知られ、代表作に『カルメン』『アルルの女』などがある。

生涯 | Biography

早熟の秀才

ジョルジュ・ビゼーは1838年10月25日、音楽家の両親の下で生まれた。父アドルフ=アルマン・ビゼー (1810-1886) はルアンの手工業者の家柄だったが、パリに出て美容師・ウィッグ職人として生計を立てていたが、1837年の結婚後、声楽教師として音楽家としてのキャリアを開始、その後アマチュアの歌手・作曲家として活動した。

一方、母エメ・デルサルト (1815-1861) はカンブレーで音楽家の家系に生まれた。フランソワ・デルサルトの妹であった彼女は息子に幼少期から楽譜の読み方やピアノ演奏を教え、少年ビゼーの音楽家としてのキャリアに決定的な影響を及ぼした。

両親の一人息子であったビゼーは幼少期から音楽に囲まれて育ち、1848年10月9日、10歳の誕生日を迎える前にパリ音楽院(コンセルヴァトワール)へ入学。9年間に渡って在学した。当初アントワーヌ=フランソワ・マルモンテルよりピアノを、フランソワ・ブノワよりオルガンを習い、両分野の演奏で受賞した。ピエール・ジメルマンやフロマンタル・アレヴィに師事して作曲を学ぶ。リハーサルにおけるピアニストや楽譜の編曲者として活動することで、パリの劇場に親しむようになった。

コンセルヴァトワールにおける修業時代のビゼーにとって重要だったのはシャルル・グノーの影響である。おそらくはジメルマンを介してグノーと対面したビゼーは『サッフォー』や『ユリシーズ』といったグノーの作品に親しみ、両者の交流はその後も長きにわたって継続した。

ビゼーは1850年代半ばからグノーの影響下でピアノ小品の作曲を始めるようになり、同時に生活手段として編曲を盛んに行った。また一幕のオペラ・コミック作品『医者の家』を発表した。

この時期の作品はグノーやアレヴィの影響を受けつつも、2作目のオペラ『ミラクル博士』ではビゼー独自の変化に富んだ軽妙な作風が表れていた。この作品はレオン・バットゥ (Léon Battu) とリュドヴィク・アレヴィが台本を担当し、ジャック・オッフェンバックが経営するブッフ・パリジャン座のコンテストに応募するために制作された。このときの審査員にはかつてビゼーが傾倒したグノーや、リュドヴィク・アレヴィの叔父であるフロマンタル・アレヴィが名を連ねていた。結果、78の応募者の中から一等賞に選ばれたのはビゼーとシャルル・ルコックだった。二人のオペレッタは1857年4月に上演された。

イタリアにおける遊学

ビゼーは『ミラクル博士』を制作した直後、若手芸術家の登竜門とされたローマ大賞を1857年に受賞。同年12月より3年間にわたってイタリアに滞在し、ローマのヴィラ・メディチに拠点を置きつつ、建築や絵画などの芸術に触れた。社交を好んだビゼーは、作家のエドモン・アブーや音楽家のエルネスト・ギローらヴィラ・メディチに滞在中のフランス人たちと交友関係を持った。またしばしば地方都市へ旅行に訪れ、パリ育ちのビゼーが初めて海を見たのもこのイタリア滞在中の事だった。

ヴィラ・メディチヴィラ・メディチのファサード

こうしたイタリアの自由な気風の中、ビゼーは当時流行していたロッシーニなどのオペラを中心に現地の音楽を摂取した。特に1858年2月に母親へ送った手紙からは、ガエターノ・ドニゼッティによるオペラ『パリジーナ』の台本に関心を示していたことが読み取れる。

ビゼーはジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『仮面舞踏会』を1859年にローマで観たが、この若き秀才の眼には粗雑で洗練されていないと写った。むしろビゼーの好みに合ったのはロッシーニやモーツァルト、メンデルスゾーンである。こうしたイタリア音楽の影響の中、ローマ大賞受賞者の義務である年に一度の作品提出に向けて作曲を開始した。

ビゼーが1858年春に最初に作曲したのは『テ・デウム』である。この作品によりビゼーはローマ賞受賞者のみに開かれたロドリーグ賞へエントリーしたが、教会音楽の経験不足を理由として、惜しくも受賞を逃した。『テ・デウム』はその後1971年まで出版されなかった。続いてドニゼッティの軽妙なスタイルを模範としつつ、イタリア風のオペラ・ブッファ『ドン・プロコピオ』を作曲した。リブレットを担当したのはイタリアの台本作家カルロ・カンビアッジョ (Carlo Cambiaggio) だった。

ビゼーは続いて本格的なオペラの制作に着手する。『ドン・プロコピオ』の制作中よりドイツ風のスタイルへ移行し、それは文豪ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』を下敷きにルイ・ベルタンが1836年に制作した台本『エスメラルダ』に表れている。

他にもビゼーはフェリシアン・ダヴィドの『砂漠』に着想を得、ローマ在住のフランス人作家ルイ・ドラートル (Louis Delâtre) に交響的頌歌の詞を依頼している。またこの時期ヴォルテールや『ドン・キホーテ』、『ハムレット』や『マクベス』といった題材に興味を示したが、台本作家の欠如などの理由のためアイデアの多くは放棄された。

さらにビゼーは自ら台本制作に取り組み、モリエールの喜劇『愛の画家』を翻案する。しかしながら『ドン・プロコピオ』がアカデミーにおいて不評であったことに傷心し台本制作を止めてしまう。ビゼーはイタリアを題材にした交響曲も構想していたが、結局完成を見たのは着想から8年後の事だった。

パリ・オペラ界における活動

ローマ賞受賞者としての留学期間が終わりに近づいた1860年7月、ビゼーは友人のエルネスト・ギローとともに北イタリア周遊の旅行に出かけた。9月5日、ヴェネツィア滞在中に母親が深刻な病に冒されていることを知る。その後ギローはローマへ戻ったが、ビゼーはイタリアでの遊学を切り上げパリに帰還した。

パリにおいてビゼーは生計を立てるため、オペラの作曲、パトロンへの取りなし、シュダン (Éditions Choudens) をはじめとする出版社の求めに応じての作曲、コンサートにおける指揮、リハーサルピアニスト、伴奏者、あるいは他の音楽家による作品の編曲などといった多種多様な活動に従事した。以後の人生においてビゼーがパリを離れることは稀であった。

1861年3月、ビゼーはワグナーによる『タンホイザー』のパリ初演に赴き、聴衆による激しいブーイングを目の当たりにする。二月後、フランツ・リストと対面し、リストの前でピアノを演奏する機会を得た。「伝説的なオーラを纏う」(Ch. ピゴ)とも評されるビゼーの技術はリストを驚嘆させ、自身やハンス・フォン・ビューローに並び立つ才能を持つと評価された。

1861年9月に母親が45歳の若さで逝去、続く1862年3月には敬愛する師のフロマンタル・アレヴィが他界し、ビゼーを大いに傷心させた。

1861年度、ビゼーはアカデミーに制作中の交響曲から2楽章と、『オシアンの狩り』序曲を提出する。このうち前者は10月12日にアカデミーで披露され、中でも「スケルツォ」は一定の評価を得た。このスケルツォは1862~1863年の冬にかけて3度演奏された。一度目の演奏はアドルフ・ドゥロフル (Adolphe Deloffre) の指揮で社交クラブ「芸術家同盟」(Cercle de l’Union Artistique) において、二度目はジュール・パドルーの指揮するコンセール・ポピュレールにて、そして三度目は作曲者自身の指揮により国民美術協会において行われた。なおこの「スケルツォ」は後に交響組曲『ローマ』に収録されている。

続く数年は多作な時期だった。ローマからの帰国直後、ビゼーはリュドヴィク・アレヴィに台本を依頼し、アカデミーに提出するための一幕のオペラを制作する。しかしこれは途中で放棄され、代わりにビゼーは交響的頌歌『ヴァスコ・ダ・ガマ』およびバルビエとカレの台本によるオペラ・コミック『太守の一弦琴』をアカデミーに提出した。『ヴァスコ・ダ・ガマ』は1863年2月8日、作曲者自身の指揮により国民美術協会において演奏されている。

続いて制作された『真珠採り』はビゼーにさらなる成功をもたらした。1863年夏に完成したこの作品は同年秋に18回に渡って上演された。この作品は聴衆や批評家からはあまり好意的に受け入れられず、傷心したビゼーは生涯に渡って『真珠採り』をレパートリーから外すこととなった。しかしながらベルリオーズは日刊紙『ジュルナル・デ・デバ』に寄せた批評記事において作曲家の才能を高く評価し、その将来に期待を寄せる。他方でビゼーもベルリオーズの『トロイアの人々』に大いに衝撃を受けたという。

『真珠採り』によりビゼーの作曲能力は認められ、テアトル・リリックの計らいによって学生であったビゼーは作曲家として自活できるようになった。テアトル・リリック支配人のレオン・カルヴァロはビゼーを重宝し、さらなる作曲を依頼した。グノーの台本による『イヴァン4世』である。『イヴァン4世』の制作は1862年に開始されたが、カルヴァロの判断により上演は度々延期され、ビゼーの生前に演奏されることはついになかった。

レオン・カルヴァロ劇場支配人レオン・カルヴァロ

このころ父アドルフ=アルマンはパリ近郊のル・ヴェジネに別荘を建て、以後ビゼーも夏の間を別荘で過ごすことを好むようになった。他方、パリで過ごす冬の期間は伴奏や編曲といった仕事に忙殺された。この時期のビゼーによる編曲にはバッハの『アヴェ・マリア』やヘンデルの『調子の良い鍛冶屋』などがあり、それらを収録したアンソロジーがユゲル社から出版されている1)Georges Bizet, Le pianiste chanteur : célèbres oeuvres des maîtres italiens, allemands et français, Paris : Heugel, 1865.。またこの時期ビゼーはエドモン・ガラベール (Edmond Galabert) やポール・ラコンブ (Paul Lacombe) といった作曲の弟子を取った。

1866年、ビゼーは再度カルヴァロと契約し、ジュール=アンリ・ヴェルノワ・ド・サン=ジョルジュとジュール・アドニスの台本によるオペラの作曲に着手した。現在までビゼーの代表作の一つとして知られる『美しきパースの娘』である。ウォルター・スコットの小説に基づくこの作品は短期間で完成され、1867年12月にカルヴェロの経営するテアトル・リリックで初演された。同年夏に行われたパリ万国博覧会の会期には間に合わなかったものの、『美しきパースの娘』は聴衆から好意的に受け入れられ、テアトル・リリックにおいて18回に渡って上演された。

なお、1867年パリ万博はフランス帝国の一大事業であり、聖歌とカンタータのコンクールが実施された。ビゼーもこれに参加し、応募総数823のうち15位に選ばれたものの、ビゼーの応募した曲が演奏されることはなかった2)このとき優勝したのはサン=サーンスのカンタータであるが、これも演奏されていない。

1866年以降、ビゼーは多作な時期を迎える。1860年より構想していた2番目の交響曲を完成させ、交響的幻想曲『ローマの思い出』として1869年2月、シルク・ナポレオン座においてジュール・パドルーの指揮で演奏された。またアテネ劇場 (Théâtre de l’Athénée) のオープンに際して上演された合作オペラ『マールボロは戦場に行った』において第一幕を担当した。

1867年10月、ビゼーはコンセルヴァトワール時代の師匠フロマンタル・アレヴィの娘ジュヌヴィエーヴと婚約する。しかしながらジュヌヴィエーヴの母方の親戚であるユダヤ系の銀行家たちは売れない作曲家との結婚に反対し、婚約は一度は破談となる。結局二人は1869年6月に挙式、カトリックを信仰しないビゼーの意向により民事婚の形式を取った。二人はしばらくの間幸福な結婚生活を送ったものの、ビゼーのスランプや性格の不一致などを理由に、順調な関係は長くは続かなかった。なお1872年に息子のジャックが誕生している。

ビゼーはジュヌヴィエーヴと結婚した直後、義父となったはずの故フロマンタル・アレヴィに献呈するため、アレヴィが未完のまま残したオペラ『ノエ』の制作に従事した。『ノエ』はカルヴァロに代わって新しい支配人となったジュール・パドルーの下、テアトル・リリックで上演される手はずとなっていたが、1870年に勃発した普仏戦争の煽りを受けて劇場が財政的問題に直面したため、結局『ノエ』の初演はビゼーの死後10年経ってからカールスルーエで行われた。『ノエ』の完成後もビゼーは古代フランスの英雄ウェルキンゲトリクスの生涯やフレデリック・ミストラルの『カランダル』などに取材したオペラに着手したが、いずれも未完成に終わった。

ビゼーは普仏戦争に際して、ジュール・マスネカミーユ・サン=サーンスといった他の音楽家と同様に国民衛兵へ志願、また続くフランス第三共和政の成立を熱狂をもって迎えた。1871年1月26日の講和成立によりパリの包囲が解除されると、ビゼーは夫婦でアレヴィ夫人を訪ねにボルドーへ赴いた。ところがこの滞在中に母と娘の仲違いが生じ、二人はパリへ帰還。続いてドイツとの講和を望まない市民の手でパリ・コミューンが宣言されたため、難を逃れるためコンピエーニュへ、続いてル・ヴェジネへと退避した。

1871年6月になりパリに平穏が戻ると、アンブロワーズ・トマがコンセルヴァトワールの院長に就任し、サン=サーンスが国民音楽協会を創設、フランス音楽界に新たな風が吹き始めた。同年、ビゼーはオペラ=コミック座の依頼を受け、ルオペラ『ジャミレー(デジャミール)』や、ピアノ連弾曲『子供の遊び』を始めとする作品を手掛けた。『ジャミレー』は高名な作家アルフレッド・ド・ミュッセのトルコを舞台とした詩『ナムーナ』に取材した一幕のオペラで、リブレットを担当したのはルイ・ガレーだった。『ジャミレー』は1872年に上演されたが、成功を収めることはできなかった。

晩年と二つの大作

この時期、ビゼーは生涯最後となる二つの大作に取り掛かった。『アルルの女』と『カルメン』である。今日までビゼーの代表作として知られる二作のうち、『アルルの女』を依頼したのはまたもカルヴァロだった。今やテアトル・デュ・ヴォードヴィルの支配人となっていたカルヴァロは作家アルフォンス・ドーデの戯曲に基づく作品を企画、ビゼーはこれに応え、南仏を舞台としたこのオペラ・コミックを1872年の夏に完成させた。

『アルルの女』は1872年10月1日に初演となった。しかしこれは聴衆から受け入れられず、ビゼーと原作者のドーデは落胆した。エルンスト・レイエ (Ernest Reyer) やジュール・マスネといった一部の音楽家はビゼーの音楽性を評価したものの、多くの音楽評論誌の反応は冷淡なものだった。そこでビゼーはただちに『アルルの女』の一部をオーケストラ用の組曲に編曲し、これは11月にジュール・パドルーの指揮で披露された。この演奏はすぐに高い評価を得、『アルルの女』の名声を不動のものとした。

この成功を受けて、ビゼーは次なる作品に着手した。プロスペル・メリメによる1845年の小説に取材したオペラ『カルメン』である。『カルメン』の制作はビゼー自身の発案によるものだったが、登場人物のセンセーショナルな性格と結末における暴力描写を理由として、オペラ=コミック座の共同支配人であったアドルフ・ド・ルーヴェン (Adolphe de Leuven) とカミーユ・デュ・ロックル (Camille du Locle) の意見は割れた。結局、この作品がルーヴェンの在任中に上演されることはなかった。

この時期、ビゼーの結婚生活は危機を迎えていた。気分屋のビゼーに対して妻のジュヌヴィエーヴは継続的な愛情を求めたのだった。二人は少なくとも2か月の間別居状態となるが、1874年の夏にはブージヴァルの別荘を旅行に訪れる。ところがここでジュヌヴィエーヴは隣人であったピアニストのエライン・ミリアム・ドラボルドの誘いを受ける。後にアレヴィ家が書簡類を破棄してしまったため、この顛末の詳細については現在ではよく分かっていない。

さて、上演が保留されていたオペラ『カルメン』だが、1874年の夏にブージヴァルにてオーケストラ版の公演が実現した。同年9月にはリハーサルが開始され、ここで使用するために作曲者自身の手でピアノ演奏用の譜面も作成された。ところが舞台上で喫煙や乱闘を行うというリブレットに対し女優たちは難色を示し、結局ビゼーと個人的に親しかったセレスティーヌ・ガリ=マリエが主演女優を務めることとなった。

セレスティーヌ・ガリ=マリエ (1866年)セレスティーヌ・ガリ=マリエ (1866年)

『カルメン』のリハーサルは幾度にも渡って行われ、結局初演が実現したのは1875年3月3日、指揮者はアドルフ・ドゥロフル (Adolphe Deloffre) だった。ところがこの初演の評判は芳しくなく、聴衆や批評家は反感をもって迎えた。

『カルメン』封切りの直後、ビゼーは持病であった扁桃腺炎の症状に悩まされるようになった。作品の不成功も相まってビゼーは生気を失い、続いてリウマチや耳鼻咽喉の痛みを訴えるようになる。1875年5月末、ビゼーは家族を連れてブージヴァルへ移住。そこでビゼーはセーヌ川における水浴後に心臓疾患に陥り、翌6月3日に36歳の若さで生涯を終えた。葬儀は6月5日にパリのラ・トリニテ教会で行われ、その亡骸はペール=ラシェーズ墓地に埋葬された。『カルメン』の評価は作曲者の没後に高まり、1875年および続く3年の間に45回の公演が行われた。ビゼーの作品は、散逸したものも含めて20世紀英国の音楽学者ウィントン・ディーンにより編集されている。

作品一覧 | Works

オペラおよびオペレッタ

  • WD1 医者の家 La maison du docteur 1855
  • WD2 ミラクル博士 Le docteur Miracle 1856
  • WD3 パリジーナ Parisina 1858
  • WD4 無題 (sans titre) 1858
  • WD5 ドン・プロコピオ Don Procopio 1858-1859
  • WD6 エスメラルダ Esmeralda 1859
  • WD7 ニュルンベルクの樽職人 Le Tonnelier de Nuremberg 1859
  • WD8 ドン・キホーテ Don Quichotte 1859
  • WD9 愛の画家 L’Amour peintre 1860
  • WD10 巫女 La prêtresse 1854
  • WD11 太守の一弦琴 La guzla de l’émir 1862
  • WD12 イヴァン4世 Ivan IV 1862-1865
  • WD13 真珠採り Les pêcheurs de perles 1862-1863
  • WD14 ニコラ・フラメル Nicolas Flamel 1865
  • WD15 美しきパースの娘 La jolie fille de Perth 1866
  • WD16 マールボロは戦場に行った Marlbrough s’en va-t-en guerre 1867
  • WD17 無題 (sans titre) 1858
  • WD18 トゥーレの王の杯 La coupe du roi de Thulé 1868-1869
  • WD19 テンプル騎士団 Les Templier 1868
  • WD20 ノエ Noé 1868-1869
  • WD21 ウェルキンゲトリクス Vercingétorix 1869
  • WD22 削除
  • WD23 Calendal 1870
  • WD24 ラマ Rama 1870
  • WD25 クリラッサ・ハーロー Clarisse Harlowe 1870-1871
  • WD26 グリゼリディス Grisélidis 1870-1871
  • WD27 ジャミレー Djamileh 1871
  • WD28 アルルの女 L’Arlésienne 1872
  • WD29 ソル=シ=レ=ピフ=パン Sol-si-ré-pif-pan 1872
  • WD30 ドン・ロドリーグ Don Rodrigue 1873
  • WD31 カルメン Carmen 1873-1874

管弦楽曲

  • WD32 序曲 イ長調 Overture in A 1855
  • WD33 交響曲ハ長調 Symphony in C major 1855
  • WD34 交響曲 Symphony 1859
  • WD35 Marche funèbre 1860-1861
  • WD36 オシアンの狩り La Chasse d’Ossian 1861
  • WD37 ローマ Roma Symphony in C major 1860–1871
  • WD38 Marche funèbre 1868-1869
  • WD39 小組曲 Petite Suite 1871
  • WD40 アルルの女 L’Arlésienne 1872
  • WD41 祖国 Patrie 1873

ピアノ曲

  • WD42 Vier Préludes
  • WD43 ワルツ ハ長調 Valse in C major
  • WD44 華麗なる主題 ハ長調 Thème brilliant in C
  • WD45 奇想曲第1番 嬰ハ短調 Caprice in C♯ minor 1860
  • WD46 無言歌 ハ長調 Romance sans paroles in C major 1860
  • WD47 奇想曲第2番 ハ長調 Caprice in C major 1860
  • WD48 演奏会用大ワルツ 変ホ長調 Grande valse de concert in E♭ 1854
  • WD49 夜想曲第1番 ヘ長調 Nocturne in F major 1854
  • WD50 3つの音楽スケッチ Trois esquisses musicales 1858
  • WD51 幻想的な狩り Chasse fantastique 1865
  • WD52 ラインの歌 Chants du Rhin 1865
  • WD53 海景 Marine Nocturne in D major 1868
  • WD54 演奏会用半音階的変奏曲 Variations chromatiques de concert 1868
  • WD55 夜想曲第2番 ニ長調 Nocturne in F major 1868
  • WD56 子供の遊び Jeux d’enfant 1871
  • WD57 Promenade au clair de lune
  • WD58 Causerie sentimentale
  • WD59 Roma 1871

室内楽曲

  • WD60 Fugen und Übungen 1850-1854
  • WD61 Vierstimmige Fuge A-Dur
  • WD62 Vierstimmige Fuge a-Moll 1854
  • WD63 Vierstimmige Fuge f-Moll 1855
  • WD64 Vierstimmige Fuge G-Dur 1856
  • WD65 Vierstimmige Fuge e-moll 1857
  • WD66 Zweistimmige Fuge 1866
  • WD67 Duo für Fagott und Cello c-Moll 1874

歌曲

  • WD68 L’âme triste est pareille au doux ciel
  • WD69 Petite Marguerite 1854
  • WD70 La rose et l’abeille 1854
  • WD70a 信仰、希望、愛 La foi, l’esperance et la charité 1854
  • WD71 古い歌 Vieille chanson 1865
  • WD72 別れを告げるアラビアの女主人 Adieux de l’hôtesse arabe 1866
  • WD73 冬のあとに Apres l’hiver 1866
  • WD74 静かな海 Douce mer 1866
  • WD75 4月の歌 Chanson d’avril 1866
  • WD76 A une fleur 1866
  • WD77 Adieux à Suzon 1866
  • WD78 Sonnet 1866
  • WD79 Guitare 1866
  • WD80 Rose d’amour 1866
  • WD81 Le Grillon 1866
  • WD82 パストラール Pastorale 1868
  • WD83 夢を見る男の子 Rêve de la bien-aimée 1868
  • WD84 私の命には秘密がある Ma vie a son secret 1868
  • WD85 子守歌 Berceuse 1868
  • WD86 La chanson du fou 1868
  • WD87 てんとう虫 La coccinell  1868
  • WD88 シレーヌ La sirène 1868
  • WD89 疑い Le doute 1868
  • WD90 L’Esprit saint 1869
  • WD91 Absense 1872
  • WD92 愛の歌 Chant d’amour 1872
  • WD93 タランテラ Tarentelle 1872
  • WD94 あなたが祈るしかない Vous ne priez pas 1872
  • WD95 蜂雀 Le colibri 1868
  • WD96 おお私の眠る時 Oh, quand je dors 1873
  • WD97 誓い Vœu 1868
  • WD98 Voyage
  • WD99 Aubade
  • WD100 La nuit 1868
  • WD101 Conte
  • WD102 Aimons, rêvons! 1868
  • WD103 La Chanson de la rose
  • WD104 Le Gascon 1868
  • WD105 N’oublions pas! 1868
  • WD106 Si vous aimez!
  • WD107 Pastel
  • WD108 L’Abandonnée 1868
  • WD109 Vokalise für Tenor C-Dur 1850
  • WD110 Vokalise für zwei Soprane F-Dur (Barcarolle)
  • WD111 Chœur d’étudiants
  • WD112 Valse G-Dur 1855
  • WD113 L’Ange et Tobie 1855-1857
  • WD114 Héloïse de Montfort 1855-1857
  • WD115 Le Chevalier enchanté 1855-1857
  • WD116 Herminie 1855-1857
  • WD117 Le Retour de Virginie 1855-1857
  • WD118 David 1856
  • WD119 Le Golfe de Baïa 1856
  • WD120 La Chanson du rouet 1857
  • WD121 クロヴィスとクロティルド Clovis et Clotilde 1857
  • WD122 テ・デウム Te Deum 1858
  • WD123 Ulysse et Circe 1859
  • WD124 ヴァスコ・ダ・ガマ Vasco de Gama 1859-1860
  • WD125 Carmen saeculare 1860
  • WD126 パトモス島の聖ヨハネ Saint-Jean de Pathmos 1866
  • WD127 Chants de Pyrénées
  • WD128 Les Noces de Prométhée 1867
  • WD129 Hymne 1867
  • WD130 Le Retour
  • WD131 Rêvons 1868
  • WD132 Les Nymphes des bois 1868
  • WD133 La Mort s’avance 1869
  • WD134 アヴェ・マリア Ave Maria
  • WD135 La Fruite 1870
  • WD136 Geneviève de Paris 1875
  • Ouvre ton cœur 1860
  • Le matin 1873
  • Qui donc t’aimera mieux?
  • Pourqoui pleurer

参考文献 | Bibliography

  1. Winton Dean, Georges Bizet: His Life and Work, London: Dent, 1965.
  2. Bizet, Georges | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.O900746]
  3. Bizet, Georges | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.51829]

Notes   [ + ]

1. Georges Bizet, Le pianiste chanteur : célèbres oeuvres des maîtres italiens, allemands et français, Paris : Heugel, 1865.
2. このとき優勝したのはサン=サーンスのカンタータであるが、これも演奏されていない。
1988年生まれ。東京大学文学部卒業後、同大学院進学。現在はパリ社会科学高等研究院にて在外研究中。専門は近代フランス社会政策思想史。好きな作曲家はジャン・シベリウス。Doctorant à l'Ecole des hautes études en sciences sociales, ingenieur d'études. Histoire politique et culturelle.
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