ジョルジュ・オーリック

ジョルジュ・オーリック

生 : 1899年2月15日(フランス共和国、ロデーヴ)/没 : 1983年7月23日(フランス共和国、パリ)

ジョルジュ・オーリック (Georges Auric) はフランスの作曲家。「フランス6人組」のメンバー。主として映画音楽を手がけ、『ローマの休日』や『赤い風車』の音楽も担当した。

生涯 | Biography

早熟な少年時代

ラングドック地方のロデーヴで生れたジョルジュ・オーリックは、少年期を南仏の都市モンプリエで過ごした。地方の音楽学校でルイ・コンブ (Louis Combes) からピアノのレッスンを受け、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキーの音楽を知った。コンブはオーリックをデオダ・ド・セヴラックに紹介し、蔵書のフランス現代文学を自由に読ませた。オーリックがエリック・サティを知ったのも音楽雑誌『ムジカ』の読書を通じてであった。

早熟な少年であったオーリックは10歳から作曲を始め、14歳となった1913年、両親は彼がコンセルヴァトワールで学べるよう一家でパリへ引っ越した。オーリックは15歳の頃にストラヴィンスキーやアポリネール、ジャン・コクトー、レイモン・ラディゲ、ピカソ、ブラックといった当代一流の芸術家たちと知り合っている。またレオン・ブロワとは社会学について、ジャック・マリタンとは神学について語り合ったという。中でもコクトーとは生涯に渡って交流を続けることとなり、この詩人による音楽評論『雄鶏とアルルカン』はオーリックに捧げられている。

ジャン・コクトーによるオーリックの似顔絵ジャン・コクトーによるオーリックの似顔絵(1921年)

オーリックはパリ音楽院のジョルジュ・コサードのクラスで、後に「6人組」として共同で活動することになるアルテュール・オネゲル、ダリウス・ミヨー、ジェルメーヌ・タイユフェールと知り合う。1914年、オーリックはパリ音楽院を中退し、スコラ・カントルムでヴァンサン・ダンディに作曲を学ぶ。ダンディはセザール・フランクおよびドイツ流の作曲法の支持者であった。またオーリックはピアノの演奏技術も高く、少年時代より親しんでいたエリック・サティの作品をコンサートで演奏したほか、「諧謔的な作曲家、エリック・サティ」と題する記事を『フランス音楽評論』1913年12月10日号に掲載した。この記事はサティ本人の目にも留まり、年の離れた二人は友情を育むこととなった。サティオネゲルルイ・デュレと結成した同人「新しい若者」にオーリックを誘い、早熟な青年の音楽活動の方向を規定することとなる。

ジャン・コクトーと映画音楽

6人組の面々ジャック=エミール・ブランシュ「6人組の面々」(1921)

サティの仲介でデュレと知り合ったジョルジュ・オーリックは、パリ音楽院時代の同級生であるオネゲル、ミヨー、タイユフェールに加えてフランシス・プーランクと合流し、付き合いのあった詩人ジャン・コクトーとともに1919年に音楽グループ「フランス6人組」を結成した。この時期オーリックは、バレエ音楽の作曲を通じて独自のアグレッシブな様式を確立してゆく。1921年にはセルゲイ・ディアギレフに依頼され、モリエールによる戯曲『はた迷惑な人たち』のバレエ翻案を作曲。『はた迷惑な人たち』は1924年1月19日にモンテ=カルロ・バレエ団により初演された。オーリックはその後もディアギレフのために『レ・マトロ』(1924)、『ラ・パストラル』(1925)、またイダ・ルビンシュタインのために『アルシーヌの妖精の魔法』(1928) などといったバレエ音楽を作曲した。その他にもダダイストやシュルレアリストと近い立場で、様々な音楽評論や前衛的な文芸評論を発表するなど多分野で精力的に活動した。

オーリックの1930年の作品『ピアノ・ソナタ』には、フランス6人組の新しい印象主義が顕著に表れている。この作品はポール・デュカスやアルフレッド・コルトーからは好意的に受け入れられたが、意図していたほどの成功を収めることはできなかった。この時期、コクトーの『詩人の血』により、オーリックは映画音楽家としてのキャリアを開始する。ルネ・クレール監督の『自由を我等に』(1931)、コクトー脚本、ジャン・ドラノワ監督による『永劫回帰』(1943) および『美女と野獣』(1946) の音楽を担当した。

オーリックとブリジット・バルドーオーリックとブリジット・バルドー(1966年)

オーリックのキャリアの全盛期はこの時期に訪れる。映画音楽家として円熟し、彼の作曲した『赤い風車(ムーラン・ルージュ)』(1952) や『ローマの休日』(1943) の主題歌は、オーリックの名を知らない人でも誰もが一度は耳にしたことのある不朽の名作である。1954年、オネゲルの後任としてフランス音楽著作権協会 (SACEM) の会長に就任。1979年からは名誉会長となった。また1962年に芸術アカデミー会員に選出され、作曲部門の席次5を得た。また1962年から1968年にかけてパリのオペラ座とオペラ=コミック座の音楽監督に就任した。

作品一覧 | Works

映画音楽

  • 詩人の血 1930
  • 自由を我等に 1931
  • 乙女の湖 1934
  • マカオ 1939
  • 悲恋 1943
  • 永劫回帰 1943
  • 美女と野獣 1946
  • 乱闘街 1946
  • 田園交響曲 1946
  • 双頭の鷲 1947
  • オルフェ 1949
  • 赤い風車 1952
  • 恐怖の報酬 1952
  • 夜ごとの美女1952
  • ローマの休日 1953
  • アンリエットの巴里祭 1954
  • 歴史は女で作られる 1955
  • ノートルダムのせむし男 1956
  • 居酒屋 1956
  • 悲しみよこんにちは 1957
  • 月夜の宝石 1958
  • 恋ひとすじに 1958
  • オルフェの遺言 1960
  • クレーヴの奥方 1961
  • さよならをもう一度 1961
  • 大進撃 1966

バレエ音楽

 

参考文献 | Bibliography

  1. Auric, Georges | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.01539]
  2. Georges Auric (1899-1983) [https://www.musicologie.org/Biographies/auric_georges.html]
  3. Georges Auric – IMDb [https://www.imdb.com/name/nm0005952/]
1988年生まれ。東京大学文学部卒業後、同大学院進学。現在はパリ社会科学高等研究院にて在外研究中。専門は近代フランス社会政策思想史。好きな作曲家はジャン・シベリウス。Doctorant à l'Ecole des hautes études en sciences sociales, ingenieur d'études. Histoire politique et culturelle.
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