生 : 1781年7月27日(ビシェーリエ)/没 : 1829年5月8日(ナポリ)
マウロ・ジュリアーニ (Mauro Giuliani) はイタリアのギタリスト、作曲家。
Contents
生涯 | Biography
ウィーンにおける活躍
1781年生まれのマウロ・ジュリアーニは当初チェロと対位法を学んだが、早い時期にギターを専門とするようになった。ジュリアーニは1803年にトリエステへ赴き、テアトロ・ヌオーヴォ1)今日のトリエステ・ヴェルディ劇場。でギターやチェロを演奏している。
19世紀初頭のイタリアはフェルディナンド・カルッリやフィリッポ・グラニャーニといったギターのヴィルトゥオーゾを数多く輩出したが、ギター曲は他の音楽ジャンルに比べて公衆に親しまれてはいなかった。そのためジュリアーニは他の多くのイタリア人ギタリストと同様、活動の場を他のヨーロッパ大陸諸国に求めた。
1806年より当時ハプスブルク帝国の首都であったウィーンに住み始めたジュリアーニは、この音楽の都においてすぐに頭角を現してゆく。1808年3月27日、ジュリアーニはベートーヴェンやサリエリといった音楽家とともに、ハイドンの76歳の誕生日を祝うコンサートに参加した。1808年4月にはオーケストラを伴って最初の自前のギター演奏会を行った。
以後ジュリアーニはウィーンにおけるクラシックギターの音楽シーンを牽引し、作曲のほか教育や演奏にも力を注いだ。弟子を伴ったベルリンやライプツィヒにおける演奏旅行も成功し、ジュリアーニの名声はヨーロッパ中に広まった。
1813年12月8日、ジュリアーニはヨハン・ネポムク・フンメルやルイ・シュポーアといった当時のウィーンを代表する音楽家とともにベートーヴェンの交響曲第7番の初演に参加し、作曲家自身による指揮の下、チェロを担当した。かくして当代随一の音楽家として名を馳せたジュリアーニは、1814年ごろにはハプスブルク家出身のフランス皇妃マリ=ルイーズの庇護を受けるに至った。
イタリアにおける後半生
1810年代末、ウィーンにおけるギターの流行は、ピアノに代替される形で下火となった。ジュリアーニは経済難から1819年夏にイタリアへ帰還し、1819年11月にヴェネツィアへ、12月には老いた両親の住むトリエステへ、続いて翌1820年3月4日にパドヴァへと住まいを転々とする。ジュリアーニは1820年から1823年頃までローマで、その後は生涯ナポリで過ごした。
ジュリアーニはローマにおいてニコロ・パガニーニやジョアキーノ・ロッシーニといった音楽家と交流し、とりわけロッシーニの作品を翻案した6つのギター曲『ロッシニアーナ』を残している。またナポリでは両シチリア王国のブルボン家の宮廷で貴族たちの庇護を受けながら、ギター演奏などの活動を行った。
この時期ジュリアーニはリコルディやアルタリアといった音楽出版社と契約し、作品の発表に精を出した。ジュリアーニがアリタリアへ送った手紙によると、彼はブルボン宮廷における演奏活動に満足しておらず、再びウィーンへ帰還し活動することを望んでいたようである。しかしながらこの望みは遂に叶うことはなかった。
ジュリアーニはマリア・ジュゼッパ・デル・モナコと結婚し、ミシェルとエミリアという2人の子供を儲けた。1801年5月17日生まれのミシェルは父に付き添って1814年から1819年までウィーンで過ごした後、1823年よりペテルブルクで、1848年よりフランスで活躍し、マニュエル・ガルシアの後任としてパリ音楽院(コンセルヴァトワール)にて声楽の教師を務めた。1813年にウィーンで生まれたエミリアはギターの演奏家として活動し、1840年頃に亡くなった。
作品一覧 | Works
参考文献 | Bibliography
- Giuliani, Mauro | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.11230]
- Giuliani, Mauro – Enciclopedia Treccani [http://www.treccani.it/enciclopedia/mauro-giuliani]
- Giuseppe Zangari, Mauro Giuliani (1781-1829): Instrumental and Vocal Style in Le Sei Rossiniane, Masters Thesis, University of Sydney, 2013.
Notes
1. | ↑ | 今日のトリエステ・ヴェルディ劇場。 |