生 : 1892年3月10日(フランス共和国、ル・アーヴル)/没 : 1955年11月27日(フランス共和国、パリ)
アルテュール・オネゲル (Arthur Honegger) はフランスの作曲家。「フランス6人組」の一人。代表作に『ダヴィデ王』などがある。
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生涯 | Biography
アルテュール・オネゲルは1892年、北フランス・ノルマンディ地方の港町ル・アーヴルにて、スイス人の両親の下で生まれた。父アルテュール・オネゲル=ユルリックは1870年代に故郷のスイスからル・アーヴルに移住して輸出業を営み、1891年5月にオネゲルの母であるジュリー・ユルリックと結婚した。二人は家族とともにこの港町で1913年まで暮らし、その後退職と共にチューリッヒに移り住んだ。
両親が儲けた4人の子供のうち最年長であったアルテュール・オネゲルは 、ル・アーヴルでソートゥルイユやサン=ミシェル教会のオルガン奏者ロベール・シャルル・マルタンなどからヴァイオリンと和声を学んだ後、2年間チューリッヒ音楽院(今日のチューリッヒ芸術大学)でフリードリヒ・ヘガー (Friedrich Hegar) から作曲を、ウィレム・ド・ボーア (Willem de Boer) および ロタール・ケンプター (Lothar Kempter) より音楽理論を学んだ。オネゲルはチューリッヒでリヒャルト・ワグナーやシュトラウス、マックス・レーガーらの音楽を知り、生涯を通じて彼らドイツ人作曲家の影響下にあった。
その後故郷のル・アーヴルに戻ったオネゲルは、1911年にパリ音楽院(コンセルヴァトワール)へ入学する。ル・アーヴルからパリ北駅まで週に2、3回、数時間かけて電車通学を行ったことで、オネゲルは後年までラグビーやモータースポーツと並んで鉄道を好むようになった 1)オネゲルの愛車はイタリア・ブガッティ社製だった。 。
1913年、両親がスイスに戻るとオネゲルはル・アーヴルからパリ・モンパルナス地区に転居し、生涯ここで過ごした。コンセルヴァトワールには7年間在学し、リュシアン・カペーにヴァイオリンを、アンドレ・ジェダルジュに対位法とフーガを、 シャルル=マリー・ヴィドールに作曲と管弦楽法を、そしてヴァンサン・ダンディに指揮を学んだ。このとき机を並べたのがジェルメーヌ・タイユフェールやジョルジュ・オーリック、ジャック・イベール、ダリウス・ミヨーであり、オネゲルは彼らと生涯に渡って交友を続けた。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、オネゲルも召集を受けスイス軍に入隊する。軍務の間もオネゲルは音楽の勉強を続け、数ヶ月後に除隊となりパリへ帰還した。
オネゲルの制作した曲は1916年7月に最初に公演された。私生活ではソプラノ歌手のクレール・クロワザと短期間関係を持ち一子をもうけたが、1926年5月10日にピアニストのアンドレ・ヴォラブールと結婚した。トゥルーズ生まれのヴォラプールは才覚を認められパリで活躍し、オネゲルとは彼の設立した音楽家団体が主催するコンサートで出会った。オネゲルが作曲に際して一人になることを求めたため、1935年にヴォラブールが自動車事故により重症を負った時期、そしてオネゲルの晩年を除き、夫婦は別居することとなった。ヴォラブールは卓越したピアニストであり、パリで和声や対位法、フーガの指導を行った。生徒の中にはピエール・ブーレーズの姿もあった。 オネゲルは妻の感性を尊敬し、 アンドレは夫の欧米諸国における演奏旅行に付き添いピアノ部分を担当した。
オネゲルはコンセルヴァトワール時代の同窓生であるジョルジュ・オーリック、そしてルイ・デュレとともにエリック・サティに招き入れられ、「新しい若者」グループを結成する。彼らがジェルメーヌ・タイユフェール、フランシス・プーランク、ダリウス・ミヨーと合流して結成したのが「フランス6人組」である。6人組は息の合った友人同士として、詩人ジャン・コクトーより依頼を受けバレエ『エッフェル塔の花嫁花婿』を協同で制作するなどしたが、オネゲルはむしろ『ダヴィデ王』(1921) など個人として発表した曲により名声を高めた。『ダヴィデ王』はスイスの詩人ルネ・モラ (René Morax) による劇作の付帯音楽として制作されたが、これによりオネゲルは国際的にその名を知られるようになった。
以後彼のキャリアを特徴づけたのは劇音楽や交響曲といった大規模な作品である。オネゲルは映画やラジオのための音楽も多く制作した。
オネゲルは旅行を好んだ。1933年と1936年にワグネリエンヌのヒルダ・ジュリ=ディドとともにバイロイトへ滞在し、偉大な作曲家への熱情を高めた。オネゲルが好んだもう一つの旅行先はアルザスである。彼はストラスブールやミュルーズといった都市で演奏を行い、同地の公衆から熱狂的に迎えられた。
この時期、オネゲルは当時勃興しつつあった社会主義、共産主義運動にも接近する。「フランス6人組」の中ではルイ・デュレの政治活動が有名だが、オネゲルも左翼政党の大同団結運動「人民戦線」に協力している。1937年、オネゲルは作家ポール・ヴァイヤン=クチュリエが作詞した有名な労働歌「若き日」(Jeunesse) の作曲を担当2)労働歌「若き日」はフランス社会主義運動においてしばしば登場する常套句「謳う明日」(Lendemain qui chante) の初出である。、またジャン・エプシュタイン監督作品『建造者』(1937) では、主題歌「労働への賛歌」を作曲した 3)『建設者たち』はフランス最大の労働組合である「フランス労働総同盟」(CGT) の依頼により制作されたドキュメンタリー映画。人民戦線の成立を背景としたサンディカリスムの勃興を背景とする作品で、オーギュスト・ペレやル・コルビュジエによる建築技術の革新が強調されている。 Cf. Mary Mc Leod, « Le Corbusier, Planification and Regional Syndicalism », Colloque « Passés recomposés : Le Corbusier et l’architecture française, 1929-1945 », Centre Pompidou, 23 et 24 novembre 2016. 。
第二次大戦中、オネゲルはパリのエコール・ノルマル音楽院で教えたほか、雑誌『コメディア』に音楽批評や美学記事を執筆するなどの活動を行った。この頃彼はスイスを多く訪れ、パウル・ザッハーの楽団のための作品を残すなどした。
晩年のオネゲルは病魔に悩まされた。1947年8月アメリカ合衆国滞在中に血栓症にかかり、以後音楽活動を制限せざるを得なくなる。この出来事は彼を落胆させたが、以後オネゲルは音楽家の地位向上のための活動を行うようになる。1952年9月22~28日にかけてヴェネツィアで行われたユネスコの大会「国際芸術家会議」において「現代社会における音楽家4)Arthur Honegger, « The Musician in Modern Society », dans The Artist in Modern Society. Essays and Statements Collected by UNESCO, 1952, pp. 55-68.」を発表、またフランス音楽著作権協会 (SACEM) の会長を務めた。1952年には芸術アカデミー会員に選出され、席次6を得る。また1948年にはチューリッヒ大学より名誉博士号を授与された。
1955年11月27日、医師の来診を自宅で待っていたオネゲルは起き上がろうとして意識を失い、そのまま妻の腕の中で亡くなった。オラトリオ会の葬送ミサにおいてオマージュを読んだのは、ストラスブールにでオネゲルの演奏活動を助けたフリッツ・ミュンシュだった。オネゲルの亡骸はモンマルトルの丘のサン・ピエール小墓地に埋葬された。モンマルトルのクリシー大路にあった作曲家の自宅は現在、妻のアンドレ・ヴォラプールの献身によって博物館として公開されている。
作品一覧 | Works
参考文献 | Bibliography
- ジャック・フェショット『オネゲル』音楽之友社、1971年。
- Honegger, Arthur | Grove Music [https://doi.org/10.1093/gmo/9781561592630.article.13298]
- Encyclopédie Larousse en ligne – Arthur Honegger [http://www.larousse.fr/encyclopedie/personnage/Arthur_Honegger/111515]
- Arthur Honegger (France Archives) [https://francearchives.fr/commemo/recueil-2005/39740]
- Arthur Honegger (1892-1955) [https://www.musicologie.org/Biographies/h/honegger_arthur.html]
Notes
1. | ↑ | オネゲルの愛車はイタリア・ブガッティ社製だった。 |
2. | ↑ | 労働歌「若き日」はフランス社会主義運動においてしばしば登場する常套句「謳う明日」(Lendemain qui chante) の初出である。 |
3. | ↑ | 『建設者たち』はフランス最大の労働組合である「フランス労働総同盟」(CGT) の依頼により制作されたドキュメンタリー映画。人民戦線の成立を背景としたサンディカリスムの勃興を背景とする作品で、オーギュスト・ペレやル・コルビュジエによる建築技術の革新が強調されている。 Cf. Mary Mc Leod, « Le Corbusier, Planification and Regional Syndicalism », Colloque « Passés recomposés : Le Corbusier et l’architecture française, 1929-1945 », Centre Pompidou, 23 et 24 novembre 2016. |
4. | ↑ | Arthur Honegger, « The Musician in Modern Society », dans The Artist in Modern Society. Essays and Statements Collected by UNESCO, 1952, pp. 55-68. |