生 : 1873年3月20日(4月1日)(ロシア帝国、オネグ)/没 : 1943年3月28日(アメリカ合衆国、ビバリーヒルズ)
1873年3月20日(4月1日)オネグ生まれ/1943年3月28日カリフォルニア州ベバリーヒルズ(Beverly Hills, CA)死去。ロシア出身の作曲家・演奏家・指揮者。これら3つのキャリアで見事に成功した。 特にピアノ演奏については、恵まれた体躯を活かして優れたパフォーマンスを行ったため、人々に賞賛された。チャイコフスキー(Tchaikovsky)やリムスキー・コルサコ(Rimsky-Korsakov)の影響を強く受けている。
Contents
生涯 | Biography
1. 不遇な少年時代と師ニコライ・ズヴェーレフとの出会い(1873–89年)
1873年4月1日(ユリウス暦では3月20日)、セルゲイ・ラフマニノフは、ノヴゴロド近郊のオネグで誕生した。ラフマニノフの父は浪費癖があり、一家は、数軒の家の所有者から、オネグに一つの不動産を持つ身まで没落していた。ラフマニノフは、最初は母から、やがてサンクトペテルブルク音楽院(St Petersburg Conservatory)を卒業したアンナ・オルナーツヤカ(Anna Ornatskaya)からピアノを習った。1882年、借金の清算のためにオネグの物件が売却されると、一家はサンクトペテルブルクに移り、音楽院に通うことになったラフマニノフは、ピアノと和声学を学んだ。この時期に、流行病で姉妹のソフィアが亡くなり、さらに悪いことに両親が離婚したという家族の不幸が、後のラフマニノフの生活に陰を落とすことになる。一連の出来事により、母が十分にラフマニノフに家庭での音楽教育をサポートできなくなった結果、1885年の学校での彼の試験結果は振るわず、学校は奨学金打ち切りを示唆するようになった。ところが、従兄弟のアレクサンドル・ジロティ(Aleksandr Ziloti)の勧めにより、ラフマニノフは、モスクワ音楽院に移ることになり、ニコライ・ズヴェーレフ(Nikolay Zverev)の家で下宿しながら勉強することになった。このズヴェーレフの元で、ラフマニノフは、当時の有名な音楽家であったアントン・ルビンステイン(Anton Rubinstein)、セルゲイ・タネーエフ(Sergei Taneyev)、アントン・アレンスキー(Anton Arensky)、ワーシリー・サフォーノ(Vasily Safonov)、そして彼の人生に最も影響を与えたチャイコフスキー(Tchaikovsky)らと出会った。
1888年春、ラフマニノフは進級し、ズヴェーレフの元で下宿を続けながら、従兄弟のピアニスト・ジロティからピアノを習っていた。さらにその秋からタネーフやアレンスキーから和声学と対位法を習い始めた一方で、ズヴェーレフの元で、幾つかの曲を作曲し始めていた。しかしながら、ラフマニノフは、彼の創作活動に反対していたズヴェーレフと、1889年に決別することになる。
ラフマニノフ(左から2番目)と師ズヴェーレフ
リムスキー・コルサコフ(Rimsky-Korsakov)と共にサンクトペテルブルクで勉強するようにという母の考えを拒否したラフマニノフは、モスクワにとどまり、ピアノ協奏曲の構想を練っていた。この頃、親族のサーチン家から援助を受けていたラフマニノフは、毎年夏をタンボフ州イワノフカ(Ivanovka)で過ごし、作曲に集中した。1890年夏、イワノフカからモスクワのサーチン家に戻ったラフマニノフは、チャイコフスキーの交響曲に影響されて、『マンフレッド』(Manfred)を作曲した。 1891年6月5日(ユリウス暦5月24日)、モスクワ音楽院ピアノ科を主席で卒業した。なお、この時の学友はスクリャービンである。この年の夏、再びイワノフカに移ったラフマニノフは『ピアノ協奏曲第1番』(First Piano Concerto)など、作曲に集中した。その後12月にモスクワに戻ったラフマニノフは、アレンスキーに捧げる『交響詩「ロスティラフ公」』(Knyaz′ Rostislav Knyaz′ Rostislav (‘Prince Rostislav’))を作曲した。翌1892年にはモスクワ音楽院作曲科を修了したラフマニノフは、オペラ『アレコ』(Aleko)を完成させ、高い評価を得た。このモスクワ音楽院からラフマニノフは金メダルを授けられており、この賞は、 ラフマニノフ以前には、セルゲイ・タエーネフなどの僅か2名にしか与えられたことのなかったものであった。
2. 作曲家としての成功・恩人チャイコフスキーとの別れ(1892–1897)
モスクワ音楽院卒業後、ラフマニノフは、ドイツの出版社グートハイル(Gutheil)と出版契約を結び、『前奏曲 嬰ハ短調』(the piano prelude in C♯ minor)を発表した。この曲は、彼を一躍有名にすることになったが、どのコンサートでもアンコールの嵐が続いたため、彼をうんざりさせることにもなった。1)『前奏曲 嬰ハ短調』のアンコール:この作品はあまりに成功してしまったがために、どこのコンサートでも求められることになった。ラフマニノフが、うんざりしながら繰り返しこの作品を演奏する様子は、ラフマニノフの伝記映画『ラフマニノフ:ある愛の調べ』(原題:Ветка сирени/ 英語: Lilacs/ 2007年)にて、リピートされ続けるメロディーと列車の車輪の映像の組み合わせによって、効果的に描かれている。 『前奏曲嬰ハ短調』の契約について、グートハイル社が国際的な版権を保証せず、国外での著作権保護に無頓着だったために、後にラフマニノフは後悔することになった。それは、当時ロシアは、著作権に関する1886年のベルヌ条約 2)ベルヌ条約:正式名「文学及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」(Berne Convention for the Protection of Literary and Artistic Works)。万国著作権条約(1952年)と並んで、著作権の国際的保護のための条約として考えられている。ベルヌ条約制定前は、外国人の著作物を自国で保護する場合、あるいは自国人の著作物が外国で保護受ける場合、それぞれの国が相互にそして個別に相手の国民の著作権を保護する条約を結ぶという方法、言い換えるならば二国間条約締結という方法が採られていた。ところが、この二国間条約は、条約を締結した二国以外の第三国との関係については無効であるなど、制度上の不備があった。それゆえに国際的な著作権保護の要請から、1884年、スイス政府の呼びかけにより会議が招集され、1886年、ベルンにて条約が締結された。本条約の特徴は次の四つ:(1)内国民待遇の原則、(2)無方式主義、(3)保護を受ける著作物=文芸、学術、美術の範囲に属する全ての製作物、(4)著作者の生存中及びその死後50年が保護期間。 に調印していなかったからである。この事例から、ラフマニノフは、ロシアとドイツで作品を登録することには警戒するようになった。
1893年春、『アレコ』(Aleko)がボリショイ劇場(Bol′shoy)にて初演の日を迎えた。このリハーサルと本番に立ち会ったチャイコフスキーは、この公演を絶賛した一方で、音楽評論家ニコライ・カシュキン(Kashkin)は、1893年5月11日付(ユリウス暦4月29日)のロシア最大の新聞Moskovskiye vedomostiにて、「勿論、批判すべきところはあるものの、若い未来の作曲家に大いに期待できるような功績をここに評価することができる」とまずまずの批評をした。この年の夏と秋には作曲に集中していたラフマニノフは、『組曲第1番 「幻想的絵画」』(Fantaisie-tableaux (Suite no.1)や『交響的幻想曲「岩」』(Utyos [The Rock])といった作品を生み出した。チャイコフスキーは、その次のシーズンもラフマニノフの作品の指揮を取ることを希望していたが、1893年11月に亡くなった。ラフマニノフは、チャイコフスキーに捧げる 『悲しみの三重奏曲第2番 ニ短調』(Trio élégiaque, d)を作曲し、その死を悼んだ。
1895年1月、ラフマニノフは、再び大作の作曲に取り掛かり、『交響曲第1番 ニ短調』(Symphony no.1, d)を完成させた。この曲は、アレクサンドル・グラズノフ(Aleksandr Glazunov)によって、1897年5月15日と27日に、演奏されたが、あまり良い評価を得ることはできなかった。後に、ラフマニノフ夫人は、この指揮の時、グラズノフは酔っ払っていたように思われたと語っている。グラズノフは、サンクトペテルブルク音楽院のレッスン中に、机の下にアルコールの瓶を隠して飲むことがあったようである。どんな理由があったにせよ、ラフマニノフはこの失敗に大いに落ち込み、その後3年間は作曲から遠ざかるほどであった。この頃、オペラ『フランチェスカ・ダ・リミニ』(Francesca da Rimini)に着手していたが、本格的な制作に取り掛かるには、また何年も待たねばならなくなった。
3. 指揮者としてのキャリアのスタートと『ピアノ協奏曲第2番』の誕生(1897-1901)
しかしながら豊かな資本家サーヴァ・モントフ(Savva Mamontov)3)サーヴァ・マモントフ(Savva Mamontov)(1841-1918):ルネサンス期のフィンレンツェの権力者に重ねられ、「モスクワのメディチ」と称されたモントフ。彼は、芸術を愛し、芸術家たちのパトロンとなった。ラフマニノフの他、チャイコフスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキーも支援していた。 のおかげで、ラフマニノフは作曲家としてのキャリアをスタートすることとなった。1897年から98年の間、ビゼー(Bizet)の『カルメン』、グルック(Gluck)の『オルフェオとエウリディーチェ』(Orfeo ed Euridice)、チャイコフスキーの『スペードの女王』(The Queen of Spades)などの指揮を行った。また、1898年の夏の間、リムスキー・コルサコフとムソグルスキーらのオペラを、オペラ歌手フョードル・シャリアピン(Chaliapin)と共に勉強していた。
1899年4月19日、クイーンズ・ホールにて、ラフマニノフはロンドンにてデビューした。ロンドンの音楽協会(The Philharmonic Society)の要請を受けたラフマニノフは、『ピアノ協奏曲第1番』を、ラフマニノフは、それを学生時代の作品として演奏を拒否して、『交響的幻想曲「岩」』の指揮と、『前奏曲嬰ハ短調』および『幻想的小品集』(Morceaux de fantaisie )(1892)より第1楽章『悲歌 変ホ短調』(Elégie, e♭)の演奏に合意した。結果的にロンドンの聴衆は、ラフマニノフをあたたかく迎え入れ、ロンドン公演は成功した。このような演奏会の成功にもかかわらず、ラフマニノフは未だに作曲ができる状態ではなかった。この期間に、ラフマニノフは文豪のトルストイ(Lev Tolstoy)と出会う他、催眠療法を受けるなどして気鬱の治療を始めていた。また1899年、夏には、ラフマニノフが心を許せる数少ない友人の一人であったオペラ歌手シャリアピンと共にイタリアへ行き、中断していた『フランチェスカ・ダ・リミニ』の愛の二重唱の大部分を描きアフェタ。さらにこの頃、後のラフマニノフの代表的作品となる『ピアノ協奏曲第2番』(Second Piano Concerto)に取り掛かった。1900年12月2日と15日、この曲が演奏されると、ラフマニノフは自信を取り戻し、1901年10月27日と11月9日には彼自身がこの曲を演奏した。
4. 数多くのコンサート・ツアーとイワノフカでの夏(1901–17)
こうしてようやく作曲の意欲を取り戻したラフマニノフは、1901年末より、『カンタータ「春」』(Vesna [Spring])や従姉妹であり妻となったナターリア・サチーナ(Natal′ya Satina)に捧げる歌曲を作曲した。その歌曲は、1906年に発表されることになる『12のロマンス』(12 Songs)に収録された。従姉弟同士の結婚は、ロシア正教会が禁じているために難しいものであったが、叔母とクレムリンの聖天使首大聖堂(Cathedral of the Archangel Michael)とのコネクションによって実現した。西欧へのハネムーンの後、ラフマニノフは、モスクワに戻り、1903年5月には、ナターリアとの間に、娘イリーナが生まれた。そうして夏にサチーナ家の別荘のあるイワノフカ(Ivanovka)で過ごす間に、オペラ『吝嗇な騎士』(Skupoy rïtsar′ ; The Miserly Knight)と『フランチェスカ・ダ・リミニ』を完成させ、1906年1月、自身で指揮をとって公演を行った。
ところがロシアの政情が悪化したため、ラフマニノフはボリショイ劇場を離れ、イタリアに渡った。ピサ近郊に滞在した彼は、完成させることはできなかったがオペラ『サランボー』(Salammbô)を書いていた。その後、一度一家でロシアに戻るも、作曲にふさわしい環境ではないと判断し、ロシアからドイツのドレスデンに移った。そこでは、『交響曲第2番 ホ短調』(Symphony no.2, e)、『ピアノ・ソナタ 第1番ニ短調』(Sonata no.1, d)、『交響詩「死の鳥」』(Ostrov myortvïkh [The Isle of the Dead])、部分的ではあったが『モンナ・ヴァンナ』(Monna Vanna)を作曲した。この『モンナ・ヴァンナ』は、およそそれから10年後の1917年にラフマニノフがロシアからアメリカに移住する時に携えていった数少ない作品の一つである。1907年5月には、パリにて、ロシアのバレエ興行主ディアギレフ4)ディアギレフ(Sergei Pavlovich Diaghilev; 1872-1929):美術評論家であるとともに、1909年、パリにBallets Russesを設立した。のロシア・バレエ団に参加した後、夏にはイワノフカで過ごすためにロシアに戻った。
イワノフカでのラフマニノフ
1909年11月、ラフマニノフは、初のアメリカツアーを開始した。公演を終える頃には、すっかり嫌気がさした彼は、次のアメリカでのコンサートを断り、また夏にはイワノフカに戻った。そこでは、『13の前奏曲集』(13 Preludes)、『聖金ロイオアン聖体礼儀』(Liturgiya svyatovo Ioanna Zlatousta [Liturgy of St John Chrysostom] )、『練習曲集「音の絵」』(Etudes-tableaux)などを作曲した。また1912-13年にかけて多くのコンサートを行ったラフマニノフは、その疲れを癒すためにスイスやローマに赴いた。ところが子供たちが腸チフスになったため、一家は治療のためベルリンの病院に行き、その後、再びイワノフカに落ち着いた。この頃、第一次世界大戦でヨーロッパには不穏な空気が漂っていたが、ラフマニノフは作曲に集中し、歌曲『徹夜禱』(Vsenoshchnoye bdeniye [All-night Vigil])を完成させた。
1917年2月、ロシア革命によって国内情勢が混迷を極める中、国家の方策にそぐわない芸術家にとって国内では活動することが難しくなっていった。また1917年4月、ラフマニノフは思い出の地イワノフカを訪問したが、その後その地を訪れることはなかった。ロシアを離れるためのビザを申請したラフマニノフであったが、取得に難航し、結局、招待されたストックホルムでのコンサートを利用して、ロシアを出国した。その後、妻ナターリアと子供たちもラフマニノフについてロシアを離れ、一家は2度と祖国に戻ることはなかった。
4. 亡命後の生活、アメリカへ(1918–43)
ラフマニノフ一家は、ストックホルムからコペンハーゲンに移り、ラフマニノフの演奏活動が、ロシアに財産をおいて亡命した一家の生活を支えた。ラフマニノフはロンドンの劇場と契約を結ぶべく交渉を重ねていたが実現せず、代わりに1918年末、アメリカから3つの契約を持ちかけられた。そのため、気乗りしないにしても、ラフマニノフは一家でアメリカに渡ることを決めた。ニューヨークに到着したラフマニノフは、チャールズ・エリス(Charles Ellis)と契約を結ぶと、スタンウェイのピアノを受け取り、以降、数多くのコンサートを行っていった。1920年代末には、ビクタートーキングマシーン会社(Victor Talking Machine Company)と契約を結ぶと、彼は、ロシア人のハウスキーパーを雇い、思い出の地イワノフカと雰囲気を似せた家をニューヨークで購入した。皮肉なことに、ラフマニノフは、ツアーの際に気乗りしないとしていたアメリカにおいて、大きな成功を手に入れることになったのであった。その後、コンサートを多くこなすと同時に、エージェントとの契約が途切れた期間に、ラフマニノフは作曲に取り掛かった。
ラフマニノフは滅多に政治について触れることのない人物であったが、化学者イヴァン・オストロミスレンキー(Ivan Ostromislensky)とイリヤ・トルストイ(Count Il′ya Tolstoy)とともに、ソビエトの政治を批判する書簡を1931年1月12日付の『ニューヨーク・タイムズ』(The New York Times)に出した。これに対し、反論が1931年3月9日付のモスクワの新聞『夕刊モスクワ』(Vechernyaya Moskva)に掲載され、ラフマニノフはロシアでの公演を禁じられることとなった。1930年代も演奏活動を続ける中、ラフマニノフは、スイスのヘルテンシュタイン(Hertenstein)に別荘を立てようとしていた。それを彼は、「セナール」(Senar)と呼んだが、これは自身の名「セルゲイ」(Sergey)、妻の名「ナターリア」(Natal′ya)そして「ラフマニノフ」(Rachmaninoff)の頭文字をとったものであった。また休暇になると、一家はフランスのクレールフォンティーヌ(Clairefontaine)に別荘を借りるなどしており、それは帰れぬ祖国に代わる安息の地を求めているかのような行動であった。ラフマニノフ一家はアメリカにいながらも、ロシア語を話し、常にロシア人の客をもてなすなどしていた。しかしながら、ラフマニノフは、このように故郷を懐かしんでいただけではなく、アメリカや西欧のスタイルの生活を楽しんでいたことは、ニューヨークで最新の車を購入し、流行していたクリームソーダがお気に入りだったという事実からも考えられるであろう。
1934年以降、彼は、『パガニーニの主題による狂詩曲』(Rhapsody on a Theme of Paganini)や『交響曲第3番 イ短調』(Symphony no.3, a)を作曲した。そして1939年3月11日、ラフマニノフは、イギリスで最後のコンサートを行うと、第二次世界大戦による政情の悪化により、ヨーロッパを離れ、アメリカに戻ることを決意した。そして1940年秋、アメリカにてラフマニノフは最後の作品『交響的舞曲』(Symphonic Dances)を作曲した。
ラフマニノフは、1942-43年のシーズンを自身の最後のシーズンと決め、腰痛と戦いながら、演奏会をこなしていた。1943年1月、ツアーの途中に病状が悪化し、医者は肋膜炎という診断を下したが、ラフマニノフは演奏を続けた。体の不調と戦いながら、2月17日、彼は、生涯最後となるコンサートをノックスビル(Knoxville)で行った。コンサートの後、ビバリーヒルズの自宅に戻ったが、その頃にはラフマニノフの身体は、癌に侵されていた。こうして3月28日の朝、彼は自宅で亡くなった。ラフマニノフは、スイスの別荘「セナール」(Senar)あるいはロシアのイワノフカに埋葬されることを望んでいたが、ヨーロッパの政情不安により叶わず、ニューヨークのケンシコ墓地(Kensico)に埋葬された。
作品一覧 | Works
オーケストラ
- 『管弦楽のためのスケルツォ ニ短調』(Scherzo, d)(1888)
- 『ピアノ協奏曲ハ短調』(Piano Concerto, c)(1889):スケッチのみ。
- 『交響詩 マンフレッド』(Manfred)(1890):今では失われている。
- 『交響詩「ロスティラフ公」』(Knyaz′ Rostislav [Prince Rostislav])(1891)
- 『ピアノ協奏曲 第1番嬰ヘ短調』(Piano Concerto no,1. f♯)(1890/ 1917):作品番号1。
- 『交響曲ニ短調』(Symphony, d)(1891):第1章のみ残されている。
- 『交響的幻想曲「岩」』(Utyos [The Rock])(1893):作品番号7。
- 『ジプシー狂詩曲』(Kaprichchio na tsïganskiye temï [Capriccio on Gypsy Themes] )(1894):作品番号12。
- 『交響曲第1番 ニ短調』(Symphony no.1, d)(1895):作品番号13。
- 『交響曲』(Symphony)(1897):スケッチのみ残されている。
- 『ピアノ協奏曲 第2番ハ短調』(Piano Concerto no.2, c)(1901):作品番号18。
- 『交響曲第2番 ホ短調』(Symphony no.2, e)(1907):作品番号27。
- 『交響詩「死の鳥」』(Ostrov myortvïkh [The Isle of the Dead])(1909):作品番号29。
- 『ピアノ協奏曲 第3番ニ短調』(Piano Concerto no.3, d)(1909):作品番号30。
- 『ピアノ協奏曲 ト短調』(Piano Concerto no.4, g) (1926/1941):作品番号40。
- 『パガニーニの主題による狂詩曲』(Rhapsody on a Theme of Paganini)(1934):作品番号43。
- 『交響曲第3番 イ短調』(Symphony no.3, a)(1936):作品番号44。
- 『交響的舞曲』(Symphonic Dances)(1940):作品番号45。
Piano Concerto No. 2 in C Minor, Op. 18: I. Moderato
リーリャ・ジルベルシュタイン, ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 & クラウディオ・アバド
1994/10/31 ¥400
室内音楽
- 『弦楽四重奏曲』(String Quartet)(1889):現在は2曲のみ残されている。
- 『チェロとピアノのためのロマンス ヘ短調』(Romance, a, vn, pf)(1890年代)
- 『チェロとピアノのための2つの小品』(2 Pieces, vc, pf)(1892):作品番号2。第1楽章「前奏曲」(Prélude)、第2楽章「東洋風舞曲」(Danse orientale)。
- 『幻想的小品集』(Morceaux de fantaisie )(1892):作品番号3。第1楽章『悲歌 変ホ短調』(Elégie, e♭)、第2楽章『前奏曲 嬰ハ短調』(Prélude, c♯)、第3楽章『メロディ ホ長調』(Mélodie, E)、第4楽章『道化役者 嬰ヘ短調』(Polichinelle, f♯)、第5楽章『セレナード 変ロ短調』(Sérénade, b♭)。
- 『ヴァイオリンとピアノのための2つの小品』(2 Pieces, vn, pf) (1893):作品番号6。第1楽章「ロマンス」(Romance)、第2楽章「ハンガリー舞曲」(Hungarian Dance)。
- 『悲しみの三重奏曲第1番 ト短調』(Trio élégiaque, g)(1892)
- 『悲しみの三重奏曲第2番 ニ短調』(Trio élégiaque, d)(1893):作品番号9。
- 『弦楽四重奏』(String Quartet)(1896):2曲のみ残されている。
- 『チェロ・ソナタ ト短調』(Sonata, g)(1901):作品番号19。
ピアノソロ
- 『無言歌 ニ短調』(Pesn′ bez slov [Song without Words], d)(1886)
- 『3つの夜想曲』(3 Nocturnes)(1887):第1楽章『嬰ヘ短調』(f♯)、第2楽章『ヘ長調』(F)、第3楽章『ハ短調』(c–E♭)。
- 『4つの小品』(4 Pieces)(1888):第1楽章『ロマンス 嬰ヘ短調』(Romance, f♯)、第2楽章『前奏曲 変ホ短調』(Prélude, e♭)、第3楽章『メロディー ホ長調』(Mélodie, E)、第4楽章『ガヴォット ニ長調』(Gavotte, D)。
- 『6手のための「ワルツ」』(2 Pieces, 6 hands: Waltz, A)(1890)
- 『6手のための「ロマンス」』(Romance, A)(1891)
- 『2台のピアノのための「ロシアの主題による狂詩曲」』(Russian Rhapsody, e)(1891)
- 『前奏曲 ヘ長調』(Prélude, F)(1891)
- 『組曲第1番 「幻想的絵画」』(Fantaisie-tableaux, Suite no.1)(1893):作品番号5。
- 『4手のピアノのための6つの小品』(6 Duets, 4 hands )(1894):作品番号11。第1楽章『舟歌』(Barcarolle, g) 、第2楽章『スケルツォ』(Scherzo, D)、第3楽章『ロシアの歌』(Thème russe, b)、第4楽章『ワルツ』(Valse, A)、第5楽章『ロマンス』(Romance, c)、第6楽章『栄光』(Slava)。
- 『サロン的小品集』(Morceaux de salon)(1894): 作品番号10。第1楽章『夜想曲 イ短調』(Nocturne, a)、第2楽章『円舞曲 イ長調』(Valse, A)、第3楽章『舟唄 ト短調』(Barcarolle, g)、第4楽章『メロディ ホ短調』(Mélodie, e)、第5楽章『ユーモレスク ト長調』(Humoresque, G)、第6楽章『ロマンス ヘ短調』(Romance, f)、第7楽章『マズルカ 変ニ長調』(Mazurka, D♭)。
- 『楽興の時』(Moments musicaux)(1896):作品番号16。第1楽章『変ロ短調』(Andantino, b♭)、第2楽章『変ホ短調』(Allegretto, e♭)、第3楽章『ロ短調』(Andante cantabile, b)、第4楽章『ホ短調』(Presto, e)、第5楽章『変ニ長調』(Adagio sostenuto, D♭)、第6楽章『ハ長調』(Maestoso, C)。
- 『幻想的小品 ト短調』(Morceau de fantaisie, g)(1899)
- 『フゲッタ ヘ長調』(Fughetta, F)(1899)
- 『組曲第2番』(Suite no.2)(1901):作品番号17。
- 『フーガ ニ短調』(1891)
- 『ショパンの主題による変奏曲』(Variations on a Theme of Chopin)(1903):作品番号22。
- 『10の前奏曲集』(10 Preludes)(1903):作品番号23。
- 『ピアノ・ソナタ 第1番ニ短調』(Sonata no.1, d)(1907):作品番号28。
- 『13の前奏曲集』(13 Preludes)(1910):作品番号32。
- 『練習曲集「音の絵」』(Etudes-tableaux)(1911):作品番号33。第1楽章『ヘ短調』(f)、第2楽章『ハ長調』(C)、第3楽章『ハ短調』(c)、第4楽章『ニ短調』、第5楽章『変ホ短調』、第6楽章『変ホ長調』(「市場の情景」)、第7楽章『ト短調』、第8楽章『嬰ハ短調』。
- 『ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調』(Sonata no.2, b♭)(1913/1931):作品番号36。
- 『練習曲集「音の絵」』(Etudes-tableaux)(1916-17):作品番号39。第1楽章『ハ短調』(c)、第2楽章『イ短調』(「海とかもめ」)(a)、第3楽章『嬰ヘ短調』(f♯)、第4楽章『ロ短調』(b)、第5楽章『変ホ短調』(e♭)、第6楽章『イ短調』(「赤ずきんちゃんと狼」)(a)、第7楽章『ハ短調』(「葬送の行進」)(c)、第8楽章『ニ短調』(d)、第9楽章『ニ長調』(「東洋風行進曲」)(D)。
- 『前奏曲ニ短調』(Piece, d)(1917)
- 『断片』(Fragments)(1917)
- 『オリエンタル・スケッチ』(Oriental Sketch)(1917)
- 『コレルリの主題による変奏曲』(Variations on a Theme of Corelli)(1931):作品番号42。
声楽
- 『聖なる修道院の門の傍らに』(U vrat obiteli svyatoy [At the Gates of the Holy Abode])(1890)
- 『君には何も語るまい』(Ya tebe nichego ne skazhu [I Shall Tell You Nothing])(1890):フェート(A. Fet)作詞。
- 『心よ、お前はふたたび目覚めた』(Opyat′ vstrepenulos′ tï, serdtse [Again You Leapt, my Heart])(1890)
- 『四月、春の祭の日』(C’était en avril)(1891)
- 『夕闇は迫り』(Smerkalos′ [Twilight has Fallen])(1891)
- 『君は覚えているだろうか、あの夕べを』(Tï pomnish′ li vecher [Do you remember the evening])(1893)
- 『幻滅した男の歌』(Pesnya razocharovannogo [Song of the Disillusioned])(1893)
- 『祈祷に眠らざる生神女』(V molitvakh neusïpayushchuyu bogoroditsu [In our Prayers, Ever-vigilant Mother of God])(1893)
- 『花はしぼんだ』(Uvyal tsvetok [The Flower has Faded])(1893)
- 『6つのロマンス』(6 Songs)(1890-93): 作品番号4。
- 『6つのロマンス』(6 Songs)(1893): 作品番号8。
- 『12のロマンス』(12 Songs)(1896): 作品番号14。
- 『女声合唱または児童合唱のための 6つの合唱曲』(6 Choruses, female or children’s vv )(1896):作品番号15。
- 『君はしゃっくりをしなかったかい』(Ikalos′ li tebe [Were You Hiccoughing])(1899)
- 『夜』(Noch′ [Night])(1900)
- 『カンタータ「春」』(Vesna [Spring])(1902):作品番号20。
- 『12のロマンス』(12 Songs)(1906): 作品番号21。
- 『15のロマンス』(15 Songs)(1906): 作品番号26。
- 『ラフマニノフからスタニスラフスキーへの手紙』(Letter to K.S. Stanislavsky)(1906)
- 『聖金ロイオアン聖体礼儀』(Liturgiya svyatovo Ioanna Zlatousta [Liturgy of St John Chrysostom] )(1910):作品番号31。
- 『14のロマンス』(14 Songs)(1912): 作品番号34。
- 『合唱交響曲「鐘」』(Kolokola [The Bells])(1913):作品番号35。
- 『「ヨハネ福音書」から』(Iz evangeliya ot Ioanna [From the Gospel of St John])(1915)
- 『徹夜禱』(Vsenoshchnoye bdeniye [All-night Vigil])(1915):作品番号37。
- 『6つのロマンス』(6 Songs)(1916): 作品番号38。
- 『3つのロシアの歌』(3 Russian Songs)(1926):作品番号41。
編曲
- 『4手ピアノのための イタリア風ポルカ』(Polka italienne, pf 4 hands)(1906)
- 『バレエ音楽「眠れる森の美女」』(The Sleeping Beauty)(1890):4手ピアノ。
- 『グラズノフ:交響曲第6番』(A. Glazunov: Symphony no.6)(1897):4手ピアノ。
- 『 R.のポルカ ベーア作曲「笑う小娘」より』(Behr: Lachtäubchen op.303, pubd as Polka de WR)(1911):ピアノ独奏。
- 『ラフマニノフ:歌曲「ライラック」作品21-5』(Lilacs op.21 no.5)(1913-14):ピアノ独奏。
- 『アメリカ合衆国国歌 「星条旗」』(S. Smith: The Star-Spangled Banner)(1918):ピアノ独奏。
- 『リストのためのカデンツァ:ハンガリー狂詩曲』(Cadenza for Liszt: Hungarian Rhapsody no.2)(1919):ピアノ。
- 『クライスラー:愛の悲しみ』(Liebesleid)(1921):ピアノ独奏。
- 『ビゼー:「アルルの女」第1組曲より「メヌエット」』( Bizet: L’Arlésienne Suite no.1: Minuet)(1922):ピアノ独奏。
- 『ラフマニノフ:歌曲「ひなげし」作品38-3』( Rachmaninoff: Daisies op.38 no.3)(1922?):ピアノ独奏。
- 『ムソルグスキー:ホパーク 歌劇「ソロチンスクの市」より』(M. Musorgsky: Sorochintsy Fair: Hopak)(1924):ピアノ独奏。ピアノとヴァイオリン版も1926年に作られている。
- 『シューベルト:いずこへ 歌曲集「美しき水車小屋の娘」より』( Schubert: Wohin?)(1925):ピアノ独奏。
- 『クライスラー:愛の喜び』(Liebesfreud )(1925):ピアノ独奏。
- 『リムスキー=コルサコフ:「熊ん蜂の飛行」 歌劇「皇帝サルタンの物語」より』( Rimsky-Korsakov: Flight of the Bumble Bee)(1929):ピアノ独奏。
- 『バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番より』(S. Bach: Violin Partita)(1933):ピアノ独奏。第1楽章『前奏曲』(Prélude)、第2楽章『ガヴォット』(Gavotte)、第3楽章『ジグ』(Gigue)。
- 『メンデルスゾーン:スケルツォ 劇付随音楽「夏の夜の夢」』(F. Mendelssohn: A Midsummer Night’s Dream: Scherzo)(1933):ピアノ独奏。
- 『チャイコフスキー:「子守唄」作品16-1』(I. Tchaikovsky: Lullaby op.16 no.1)(1941):ピアノ独奏。
オペラ
- 『エスメルダ』(Esmeralda)(1888)
- 『アレコ』(Aleko)(1892)
- 『吝嗇な騎士 作品24』(Skupoy rïtsar′ [The Miserly Knight])(1904)
- 『フランチェスカ・ダ・リミニ 作品25』(Francesca da Rimini) (1900-1906)
- 『サランボー』(Salammbô)(1906):シナリオが存在。
- 『モンナ・ヴァンナ』(Monna Vanna)(1907)
ラフマニノフの曲を使用した映像作品・フィギュアスケート
- 『シャイン』(Shine/1996年):『ピアノ協奏曲第3番』がコンクールのシーンで使用される。ピアニストのデイヴィット・ヘルフゴットの半生を基にした映画。
- 『ラフマニノフ:ある愛の調べ』(原題:Ветка сирени/ 英語: Lilacs/ 2007年)
- 浅田真央(2009-10年・フリー)『前奏曲嬰ハ短調: 鐘』:2010年、バンクーバー・オリンピック銀メダル。
- 浅田真央(2013-14年・フリー)『ピアノ協奏曲第2番』:ソチオリンピック総合6位。
Notes
1. | ↑ | 『前奏曲 嬰ハ短調』のアンコール:この作品はあまりに成功してしまったがために、どこのコンサートでも求められることになった。ラフマニノフが、うんざりしながら繰り返しこの作品を演奏する様子は、ラフマニノフの伝記映画『ラフマニノフ:ある愛の調べ』(原題:Ветка сирени/ 英語: Lilacs/ 2007年)にて、リピートされ続けるメロディーと列車の車輪の映像の組み合わせによって、効果的に描かれている。 |
2. | ↑ | ベルヌ条約:正式名「文学及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」(Berne Convention for the Protection of Literary and Artistic Works)。万国著作権条約(1952年)と並んで、著作権の国際的保護のための条約として考えられている。ベルヌ条約制定前は、外国人の著作物を自国で保護する場合、あるいは自国人の著作物が外国で保護受ける場合、それぞれの国が相互にそして個別に相手の国民の著作権を保護する条約を結ぶという方法、言い換えるならば二国間条約締結という方法が採られていた。ところが、この二国間条約は、条約を締結した二国以外の第三国との関係については無効であるなど、制度上の不備があった。それゆえに国際的な著作権保護の要請から、1884年、スイス政府の呼びかけにより会議が招集され、1886年、ベルンにて条約が締結された。本条約の特徴は次の四つ:(1)内国民待遇の原則、(2)無方式主義、(3)保護を受ける著作物=文芸、学術、美術の範囲に属する全ての製作物、(4)著作者の生存中及びその死後50年が保護期間。 |
3. | ↑ | サーヴァ・マモントフ(Savva Mamontov)(1841-1918):ルネサンス期のフィンレンツェの権力者に重ねられ、「モスクワのメディチ」と称されたモントフ。彼は、芸術を愛し、芸術家たちのパトロンとなった。ラフマニノフの他、チャイコフスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキーも支援していた。 |
4. | ↑ | ディアギレフ(Sergei Pavlovich Diaghilev; 1872-1929):美術評論家であるとともに、1909年、パリにBallets Russesを設立した。 |